5. 先住民問題
6.3 日本の防衛政策への影響と課題
北極海で融氷が進み、パワーゲームが深刻化すれば、世界の外交・安全保障にも様々 な影響が及ぶことになる。日本も例外ではない。
北極海の制海権を巡って海軍力のプレゼンス競争がエスカレートし、アメリカ太平洋 艦隊の兵力の一部が北極海に割かれることになれば、日米安全保障条約に基づく現行の 共同態勢と海上自衛隊の配備にも影響が及ぶこととなる。前述したように、北極点周辺 海域と北極海西側は北方軍が担当するが、海軍兵力は太平洋軍から派出されることにな る。日本はアメリカ海軍の寒冷地行動に対する必要な支援を求められることや、海上自 衛隊には中国海軍の外洋展開への対応に加え、北海道周辺海域と千島列島東方海域での 兵力運用が必要となる可能性がある。ロシア海軍艦艇の北極海への展開は、おそらく北 洋艦隊のあるムルマンスクと極東艦隊のあるウラジオストクからになると考えられる。
アメリカ海軍とロシア海軍の北極海への展開は、西太平洋の海軍力バランスをシフトさ せ、そのことは海上自衛隊の運用にも影響を及ぼす結果となる。
北極海から北東アジアに伸びる航路が日常的に利用されるようになれば、日本として は、新たなシーレーンの防衛策と海上警備能力の強化が必要となる。そのために先ず、
北極海から北東アジアに至る海域がどのような状態にあるのか、船舶はどこを、何隻く らい航行しているのか、その中に軍の艦船はどの程度存在するのかなどを把握する
“Maritime domain Awareness”のための監視活動が必要となるであろう。これには、海上 自衛隊と海上保安庁の共同監視が不可欠である。また、北海道に北方海域を対象とする 警戒・監視システムを整備することも求められる。
北極海から伸びるシーレーンは、中国やロシアあるいは韓国とも共有するものとなる。
そのためシーレーン防衛について、協調か対立かという選択についての課題も発生する。
北極海と北東アジアをつなぐシーレーンに沿って港湾整備が進むであろう。海上保安 庁では、北海道や東北地方の港湾の警備が今以上に必要となるだろう。
自衛隊や海上保安庁にとっては、千島列島から宗谷海峡あるいは津軽海峡を通るシー レーンやそれに沿った港湾の警備・防衛の任務が重要になる。防衛力は、一朝にして整 備できるものではなく、アメリカ国防総省が2030年以降をにらんでの長期計画を立て ているように、日本としても、北極海が軍事作戦の舞台となる、あるいは海軍艦艇等の 航行が可能となった事態を想定した備えを検討すべき時期にあることは間違いない。
7.北極海の管理体制
7.1 北極海の管理体制の特徴
国際政治の表の「舞台」(arena)としての北極に外交政策上の関心が向けられるよう になったのは、ここ20年余りのことである。それまでの北極は、軍事上の戦略的有用 性の有無の観点からのみ捉えられる、いわば国際政治の舞台裏であった1。しかし、冷 戦終結後の1990 年代に、北極海に関し環境保護を主要規範とする多国間条約、2 国間 条約、国際及び地域協力が発達し、北極が国際政治の表「舞台」に登場して来た。
これに対して、2000 年代に入り、北極海の夏季結氷面積が顕著に縮小し、資源開発 および北西航路や北東航路の商業利用が現実味を帯びてくると2、いくつかの沿岸諸国 は北極から得られる経済的利益を守るためあるいは安全保障確保の観点から、軍事力や 警察力への資源投入を表明または本格化させてきた3。かかる変化の国際政治上の開始 を象徴した出来事が2007年8月のロシアによる北極点海底部分に対する国旗設置とそ れへの沿岸国の警戒的反応であったと言える。
軍事力等への資源投入が一層強まれば、北極国際政治は協調が影をひそめ、地政学的 特色を持ったパワー・ポリティクスへと変容していく可能性がある。現時点はちょうど その分岐点にさしかかっているとみなすことができる。つまり、沿岸諸国は、程度の差 はあるものの、北極における軍事・警察作戦の展開能力を向上させつつ(第6章参照)、
他方で国際法や地域協力といった法的枠組み(legal regime)を遵守するというツートラ ックによる対応を見せている。今後の北極海国際関係の動向は、沿岸国がどちらに比重 を置くかにより左右されるが、北極海の管理体制を見る場合は、この法的枠組みについ て考える必要がある。
ツートラックにおける法的枠組みとは、国際法と地域を対象とした国際協力とに大別 することができる。北極海は海域であるため、当然のことながら国連海洋法条約が主要 な法制度となっている。しかし、国連海洋法条約以外においても、安全、海洋汚染、気 候変動、環境保全、漁業に関する北極海問題に対応する上で、2国間条約、多国間条約 などの国際法、国際的な宣言やガイドラインなどのソフトロー、地域における国際協力 といった国際レジームの発達を無視することはできない。したがって、北極海の管理体 制については、国際法に関わる分野と地域を対象とした国際協力の両面から概観するの が適当である。
北極海の管理体制を考える上で考慮すべき特徴としては、同じ極でも南極の場合と異 なり、南極条約のような特定の法的枠組みを持つことなく、幾つかの緩やかな枠組みが
1北極では、冷戦期の多くの地域にみられた代理戦争(熱戦)が発生しなかった。冷戦期における北極の軍事的有用性に ついては、石渡利康『北極圏地域研究』(高文堂出版社、1995年)166-169頁を参照。
2http://nsidc.org/
3 こうした沿岸国の動向については、邦語文献においても既に纏められている。秋元一峰「北極を巡るパワーゲーム」
『北極海季報』第2号(2009年)33-40頁、藤澤豊「北極海の融氷がもたらす戦略構造の変化」『北極海季報』第9号(2011 年)34-45頁。
重なり合っている状態にあることである。また、対象となる地域や関係国の範囲が南極 に比べ明確ではない。南極については、南極条約により管理される地域の範囲が確定さ れ、秩序形成への直接的な参加者も形式的には特定されている。また南緯60 度以南の 領有権主張は凍結されており、軍事利用や天然資源の開発なども禁止されている。
北極について、北極圏や北極海の範囲は国際法上、統一的に定義されておらず、利害 関係者の特定は一部の分野を除きなされていない。こうした中、北極海に対して有する 主権や地理的状況を基準に、関係国を分類すると、次の3つのグループを挙げることが できる。
第1は、北極海沿岸国で、アメリカ、カナダ、デンマーク、ノルウェー、ロシアの5 ヶ国がこれにあたる。これら 5 ヶ国は北極海の一部に領海、排他的経済水域(EEZ)、
大陸棚を持ち、国際法上の主権ないし主権的権利を有する国々である。
第2は、北極圏諸国という概念で、上記5ヶ国にアイスランド、スウェーデン、フィ ンランドの3ヶ国を加えた8ヶ国がこれにあたる。この3ヶ国は、北極海に沿岸はない が、北極海沿岸国に隣接し北極海における環境や生態系の変動、海上交通などの経済活 動について強い利害を有する国々である。
最後が、非北極圏諸国であり、たとえばフランス、ドイツ、イギリスなどの国がこれ にあたる。これらの国々は、環境、安全保障、経済など、さまざまな関心から北極圏に 利害・関心を有する国々で、我が国はこのカテゴリーに入る。
7.2 北極海をめぐる国際法
地球温暖化の進行を背景に、北極海は海氷が減少又は喪失し、開水部分が拡大してい る。開水部分の拡大により、航路の利用や資源の開発が現実性を帯びることとなり、開 発に伴う環境保全の問題も指摘されている。こうした状況の下、北極海をめぐる法的問 題として特に議論されているのが、島等の領有や境界画定、海域の法的地位をめぐる問 題である。なお、極域特有の法理論として特異なものに、セクター理論がある。これは 極を頂点とする逆扇状内の陸地及び島に対する主権は扇の南端と接する沿岸国に帰属 するというものであり、主にロシアとカナダにより主張されてきた。ロシアは現在でも 国内法でこの考え方を残してはいるが、現在では領有や境界画定、海域の法的地位の決 定については国連海洋法条約によることが主流となり、話題に上ることは殆どなくなっ てきている。
島等の領有や境界画定について、北極海では、カナダとアメリカの間に境界が画定さ れていない海域4があるほか、カナダとデンマークの間にはハンス島という小さな島に 対する領有権をめぐる紛争が存在している。一方、ロシアとノルウェーの間では、バレ ンツ海において困難な境界画定問題があったが、約30年の期間を費やし2010年9月に
4 Victor Prescott and Clive Schofield, The Maritime Political Boundaries of the World (Martinus Nijhoff Publishers, 2nd ed., 2005), p.526