5. 先住民問題
5.2.2 北極圏における先住民
北極圏には、カナダ、アラスカ、グリーンランド、ロシア及び北欧3ヶ国に暮らす多 数の先住民集団がいる。この内、グリーンランドの先住民は、本国デンマークと特殊な 関係があり、仮に本国から独立すれば最早先住民集団ではなく、ロシアにおけるヤクー チア(サハ共和国)同様の国家となろう。
アラスカ及びカナダの先住民集団は、両国における先住民への外的圧力、歴史的経緯 及び法制に相違はあるが先住民権に関わる国家の基本理念はほぼ同様である。
アラスカ先住民集団は、ロシアに続いて米国の植民地政策の影響を受け、先住民権に 関わる主張はカナダに先行し、米国政府も西部開拓史に刻み込まれたインディアン問題 を抱えていたことから、1936年Indian Reorganization Actにアラスカ先住民集団を加え る改正を行い、アラスカ先住民の活動の場が開けた。アラスカ先住民リーダーは 1960 年代に活発な活動を展開し、1966年 The Alaska Federation of Natives(AFN)を設立した。
政府はこれを追認する形で1971年Alaska Native Claims Settlement Act (ANCSA)を制定し た。現在、アラスカ先住民はアラスカ経済において重要な役割を担うに至っている。
カナダでは、かなりの先住民集団Inuitが独立戦争に巻き込まれはしたが、1951年に はインディアン法が公布され、先住民はバンドの単位でリスト化された居留地の生活が 保証された。1982 年のカナダ憲法に基づくインディアン法の改正により関係法制整備 が進んだ。また1994年にはYukon First Nations Self-Government Act(2011年一部改正)を 制定するなど自治権承認への道は徐々に拓けつつある。現在、先住民の自決権、自治権 へと進む可能性を持つLand Claims 域である、Nuunatsiavut(Labrador), Nunavik(Quebec), Nunavut, Inuvialuit Settlement Region 及びNorthwest Territoriesの4地域に53の北極圏集 団が居住している。権益地の確定、自治政府設立への活動などその成果には地域差はあ るが、共通の指針の下に活動している。
他方、ロシア及び北欧3ヶ国に跨がる代表的先住民Sámpiは、最も先進的な先住民集 団であり、ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、ロシアに散在する。国家政府と
各Sámpiの関係は、北欧3ヶ国においてもそれぞれに差異はあるが独自の大学を設立す
るなど、生活、教育水準の向上に努め、自治権への明確な展望を持っている。
多民族国家ロシアにおいては、Sámpiを除き、広大なシベリア大地に点在する先住民 集団20の「北方ナロードノスチ(ロシア語:народность)」が暮らしている。ロシア 総人口に対する先住民人口は0.2%(約250,000人)程度7であり、正にロシア連邦政府 が定義する少数先住民ではあるが言語系統論的には比類のない多様さを示していた。し かし旧体制下では規範語であるロシア語使用の強制と共に、先住民集団の転居も行われ、
現在は本来の言語保存すら危ぶまれる状態となっている。現在のロシア連邦政府の先住 民保護法制は旧態依然とし、連邦政府は先住民集団の現状を十分把握、認識せず、地方
7 IWGIA THE INDIGENOUS WORLD 2011, International Work Group for Indigenous Affairs (IWGIA), http://www.iwgia.org/regions/arctic/russia, 2012年2月閲覧
政府の発する行政命令による先住民生活の圧政例は枚挙に暇がない。ロシアに暮らす先 住民は最も劣悪な生活環境に置かれていると言える。
北極圏に暮らす先住民は、いずれも地球温暖化による生活環境の急速な悪化に加えて、
資源開発による人為起因の生態系破壊が追い打ちをかけ、日々の食糧確保すら覚束ない 状態へと追い込まれつつある。北極海における頻繁な船舶の往来及び冬季における砕氷 活動による開水面の増大は、海生哺乳動物のみならず、海洋生態系へ深刻な影響を及ぼ す懸念があり、先住民の暮らしには更に厳しさが加わるリスクのあることを忘れてはい けない。
6.安全保障
6.1 融氷の北極海の軍事的意義
北極海の融氷は、軍事・安全保障の観点からも大きな意味がある。北極海に航路が 開ければ、海軍艦艇等の行動に即応性と柔軟性が増し、また、北極海からのパワープロ ジェクションが可能となるなど、軍事作戦に多様性をもたらすからである。例えば、早 急に兵力を派遣する必要が生じた場合、あるいは通常使用する航路が軍事的に封鎖され ている場合、または兵力を二手に分けて展開させる必要が生じた場合などに、北極海を 利用することによってそのような状況に対応できることになる。日露戦争のおり、ロシ アのバルチック艦隊の主力はアフリカ南端を回りインド洋を通って東シナ海に到達し た。長駆の遠征の末、バルチック艦隊は待ち構えていた日本の連合艦隊によって大敗北 を被った。仮にバルチック艦隊の一部だけでも北極海を通航できていたら、情況は一変 していただろう。加えて、北極海を軍事的に使えることは、海軍力をプレゼンスさせ、
更には陸上へのパワープロジェクションのための海域として使用できることを意味す る。冷戦の時代、北極海は結氷のために水上艦艇の展開が難しく、米ソが直接向き合う 作戦正面となる海洋であったにも拘らず、核ミサイルの発射・飛翔ルートでしかなかっ た。仮に、空母等の水上兵力を展開できていたら、北極海は東西の軍事力がせめぎ合い、
世界で最も緊張の高い海となっていたはずである。
北極海の融氷は、海軍作戦において以下のことを可能にする。
① 北極海を通航することにより、より迅速に兵力を展開でき、また、より柔軟に 作戦計画を立てることができる。
② 北極海に海軍力をプレゼンスさせることができる。
③ 北極海からのパワープロジェクションが可能となる。
これまで、すべての国の安全保障は、北極海を国際航路として利用できないことを前 提として組み立てられてきた。北極海が融氷し、ショートカット航路あるいは代替航路 が確保でき、更には海軍力をプレゼンスさせ、有事においてパワープロジェクションが 可能となるならば、それはすべての国の軍事戦略を根本から覆し、世界の安全保障環境 を大変動させることになる。軍事作戦は、経済性を無視できるところから、北極海航路 は当面は海運よりも軍事の面でより大きな意義を持つとも言えよう。このことは、融氷 後の北極海が熾烈なシーコントロール(制海)争いの場となることを予想させる。平時 国際法の世界では、海洋は領海、国家管轄海域と公海に大別される。軍事の世界におけ る区分概念は、制海している海域と制海されている海域である。
北極海の融氷は、古典地政学の理論を覆すことにもなる。現在でも軍事理論として使 われることの多い、ハルフォード・J・マッキンダーのハートランド論あるいはニコラ ス・J.スピークマンのリムランド論など、古典的地政学の世界は、北極海が使えないこ
とが前提となっている。マッキンダーは、ユーラシア大陸のほぼ中央に位置し、海洋か らの軍事アクセスが不可能な地域をハートランドと呼称し、海洋国家は大陸国家による ハートランド進出を阻止しなければならないと説いた。ハートランドは、概ね現在のロ シア連邦の内陸部に当たるが、北の境界は北極海沿岸線になっている。つまり、北極海 は戦略的に使えない地域であることが前提となっている。スピークマンは、ユーラシア の大陸国家は凍結した北極海をグローバルな交通路として利用できないことを指摘し、
大陸の沿岸内陸域、リムランドに大陸国家が勢力を伸ばすことを警戒すべきであると説 いた。北極海にアクセスが可能になれば、古典的な地政学における仮定の一つが大きく 覆るのである。
6.2 北極海を巡る安全保障環境の現状と各国の対応
前項で示した融氷によってもたらされる北極海の軍事的意義の変化、つまり軍事作戦 への影響に対応すると思われる軍事力整備の動きが北極圏諸国にみられる。
北極海の安全保障を巡るプレイヤーとしては、①ロシア、②アメリカ、③カナダ・デ ンマーク・ノルウェー・スウェーデンを挙げることができる。ロシア、スウェーデンを 除けば、すべてNATO加盟国であり、大西洋へのアクセスは全てNATO がコントロー ルしていることになる。冷戦時代は、GIUKライン(グリーンランド-アイスランド-
ユナイテッドキングダムの間)でNATOがソ連海軍を監視していたため、セヴェロモル スクにあるロシアの北洋艦隊は大西洋への進出が困難な面があった。一方、太平洋側は、
ベーリング海峡をアメリカとロシアが挟んだ形になっている。冷戦時代、アメリカはア ラスカに、ソ連はチュクチに陸軍師団を置いて対峙していたが、現在、アメリカはそれ を縮小し、ロシアは撤収している。但し、北極海自体を見てみると、海軍がプレゼンス するためのインフラはロシアが圧倒的に多くのものを持っている。以下、それぞれのプ レイヤーの動向をみてみる。