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女子高等教育と仕事

ドキュメント内 イラレ8_表紙No4-A4 (ページ 45-52)

−1 9世紀後半〜2 0世紀初頭のアメリカにおける大卒女子の将来像−

羽澄直子

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を教えられるだけの知識と能力を、当時の教育制度から 得られたことを示すものであろうか。

 識字率と教職の需要は相まって上昇し、教職は女性の 職業として定着していったが、識字率が上がったことで 新たな女性の仕事として確立されたものの一つが「執筆 業」である。元来物を書くことは知的行為であり、女性 らしさを損なう小賢しいことだとしてあまり歓迎されて いなかった。しかし字を覚え、学校で作文教育を受けた 女性たちは書くことに興味を覚え、書いて自己表現した いという意識を強めていった。彼女たちの執筆欲を後押 ししたのが、19世紀半ばのアメリカの出版ビジネスの興 隆だった(Kelley 6−7)。印刷技術や交通網の発達によ り、出版物が手軽に入手できるようになり、新聞や雑誌 の発行数も増加した。その結果、作品の投稿といった書 く機会や発表の場も増えたのである。

 前述のとおり、識字率の上昇は趣味の執筆はもちろん のこと、職業としての執筆も可能にした。教育の普及で 本や雑誌を読む中産階級の女性人口が増えると、女性向 き、女性好みの作品の需要が増え、そのような作品を書 ける作家が求められる。こうして女性向け読み物の書き 手としての女性作家の需要が高まったのである。このよ うに市場原理が働いた結果、女性が書くこと、特に職業 として書くことはタブー視されなくなり、女性作家の存 在は容認されていった。やがて執筆は教職と並んで、女 性の教育の成果を生かして経済的に自立できる手段と なった。1850年代には下記のような女性作家が人気を 博し、ベストセラーが続出した。

『広い、広い世界』(

, 

, 1850)

 スーザン・ウォーナー(Susan Warner)

『アンクル・トムの小屋』(

,1852)

 ハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriet Beecher  Stowe)

『クリフトンの呪い』(

, 1852)

 E.D.E.N.サウスワース(E.D.E.N. Southworth)

『点灯夫』(

, 1854)

 マライア・カミンズ(Maria Cummins)

『嵐と陽光』(

, 1854)

 メアリ・ジェーン・ホームズ(Mary Jane Holmes)

『ルース・ホール』(

, 1855)

 ファニー・ファーン(Fanny Fern)

 執筆が女性の仕事として確立されたとはいえ、女性の 義務が家庭生活にあることには変わりはなかった。幸い 執筆の仕事は、「女性の本来の居場所は夫と子どものい る家庭」という家父長制の規範との相性は悪くなかった。

まず執筆は家のなかでできるので、外へ出かけなくても よい。家事に支障が出ないよう、合間の時間を利用して 書くことができる。特別な資本はいらない。紙とペンと 机があればよい。作品が認められれば、すなわち出版社 が売れると判断すれば採用され、原稿料が支払われる。

筆者の性別や年齢に左右されない市場原理がある程度公 平に働く場であった。例えば『若草物語』(

, 1868)で人気を得る前のルイザ・メイ・オルコット 

(Louisa May Alcott)の場合、南北戦争の従軍看護師 という女性向けの職についた時の報酬はわずか10ドル だったが、匿名で書いた煽情小説を懸賞に応募して勝ち 得た報奨金は100ドルだった。その後彼女の作品の商業 価値を認めた編集者たちは、どんなものでもいいから書 いたものを見せてほしいと言い、1編につき50ドルから 100ドルという破格の原稿料を出すまでになった 

(Eiselein 2)。 

 女性作家の多くが手がけたのは、「家庭小説」と呼ばれ るジャンルで、家庭における若い女性のあるべき姿を描 く教訓的なものであった。執筆は、女性に備わっている とされる道徳心や良識を活かして若い女性読者を啓蒙し、

教育する役割を果たすことができる、いわば女性にふさ わしい仕事になりえたのである。もし煽情小説のような、

報酬は高いが女性らしい良識に反する作品を書く場合は、

オルコットのようにペンネームを使って身元を隠すこと も可能であった。

 家庭生活をほとんど犠牲にせず取り組める執筆は、父 や夫に代わって不本意ながらも一家の稼ぎ手となり、家 計を支えなくてはならない立場に置かれた女性にとって 好都合であった。ウォーナーやオルコットは、理想主義 者だが生活力のない父の代わりに筆で家族を養った。サ ウスワースは夫が蒸発し、二人の子どもを抱えて貧困に 苦しんだ時期を執筆の成功で乗り越えた。ストウは病弱 な夫と独り立ちしない子どもたちのために、生涯書き続 けなければならなかった。夫を亡くし、身内から冷淡な 仕打ちを受けたファーンは、コラム執筆の仕事で自活し ようと奮闘した。

 もちろん彼女たちは、生活費のためだけに書いていた わけではない。「忠実な娘であると同時に反逆する夢想 家」(Showalter, 50)と称されるオルコットの執筆は、

生来の自分の欲求を満たし、家父長制のなかで抑圧され た自己を解放する手段でもあった。ファーンは自伝的な

『ルース・ホール』で、未亡人の社会進出とその成功と 栄誉を描いて従来の家庭小説の枠を超えるとともに、自 分を理不尽に扱った身内への怒りを作品のなかであらわ にした(進藤 147)。自分が泣き寝入りをする従順な女性 ではなく、意志を持つ自立した人間であることを世間に

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知らしめたのである。

 ストウが『アンクル・トムの小屋』を書いたのは、彼 女のペンの力があれば、奴隷制の残忍さを全国の人に伝 えられると友人に励まされたからである。自分の作品が 南北戦争の引き金をひいたと評されるほど大きな社会的 影響を与えたことは、結婚生活に疲れ果て、書くことこ そが自分の使命だと感じていたストウにとって経済的成 功以上の大きな名誉であり、達成感を得られたのであっ た(武田 162−165)。社会を正しい方向へ導くことは、

敬虔で道徳心の強い女性の使命ともいえることであり、

執筆にはその役割を果たす力があった。

 前述のとおり、女性作家のジャンルは主に家庭小説で あったが、新しいジャンルに挑む者も現れた。アナ・キャ サリン・グリーン(Anna Katharine Green)は男性の 領域といわれた「探偵小説」を書き、1878年に『リーヴ ンワースの事件』(

)でデビュー した。この作品はニューヨーク市警を舞台にしており、

後にシリーズ化され、グリーンは「探偵小説の母」と呼 ばれるようになる(Maida 449)。コナン・ドイル 

(Conan Doyle)のシャーロック・ホームズの第1作

(1887年)が出版されるほぼ10年前のことである。

 グリーンは1866年にリプリー女子セミナリーを卒業 後、実家に戻り、探偵小説を書き始める。若い女性にふ さわしくないジャンルという批判を恐れて家族には内緒 で執筆していたが、完成原稿を見た父親は娘の才能を認 め、出版に向けて全面協力をする。『リーヴンワースの事 件』は100万部以上売れ、グリーンは一躍人気作家とな る。

 グリーンの実家は裕福だったため、独身時代はプロの 作家であっても生活のための執筆は必要ではなかった。

しかし1884年に37歳で8歳年下の男性と結婚すると、

執筆は生活の糧となる。彼女は3人の子どもを産み育て ながら作家活動を続ける。夫は優れた家具職人であった が、家族を十分養う収入はなく、家計を支えるのはグリー ンの役目だった。にもかかわらず、グリーンは結婚する と、夫の名字であるロルフス夫人(Mrs. Rohlfs)を名 乗り、典型的な主婦であることを心がけた。そのため隣 人たちの多くは、彼女が有名な作家であることを知らな かったという(Maida 450)。執筆活動は、夫が家長で妻 はその支配下にあるという、伝統的な役割分業に基づく 家族関係を表向き維持したい、あるいはしなくてはなら ない女性にとって、最良の自活手段になりえたようであ る。

4.教育成果と仕事(2)〜社会改革活動

 高等教育を受け視野が広がった女性たちは、家庭だけ

が人生のすべてではないということを意識し始める。彼 女たちは自立心旺盛で、アカデミックな知識や経験を社 会に還元したいという使命感を強く持っていた。このよ うに新しい生き方を模索する女性たちは、19世紀末のア メリカでは「ニュー・ウーマン」と呼ばれていた。進学 率の上昇とともに女性の社会進出は徐々に進み、1880年 からの20年間で、家庭の外で仕事を持つ女性の数は2倍 になった(武田 208)。

 しかしながら、ニュー・ウーマンが自分たちの価値観 を押し通すには困難がつきまとった。良妻賢母を美徳と する従来の女性観は容易にくつがえるものではなく、家 庭こそが女性の最良の居場所であるという「家庭の天使」

信奉は根強かった。女性が一旦家庭に留め置かれてしま えば、自立どころか夫や父への従属を余儀なくされる。

初期(1860〜1890年代)の女子大学卒業生の半数近く は、仕事や社会活動との両立は難しいと考え、結婚をし なかったという(常松 91)。

 女性が就業できる職種の門戸は広がったとはいえ、現 実には高等教育を受けた白人中産階級の女性に見合った 仕事が十分にあるとはいえなかった。むしろ学歴のない 労働者階級の女性の方が、仕事は簡単に見つかった。工 業化が急速に進む社会では、教養や技能の不要な工場で の単純労働者はいくらでも必要だったからだ。

 知識を活かして社会に貢献したいという思いはかなわ ず、だからといって自己を抑圧するような結婚はしたく ない。高等教育を受けた女性の多くは、比較的裕福な家 庭出身で、生計を立てるための就職はほとんど必要では なかった。そのため結局は親元に戻り、無為に社交生活 を送る卒業生も珍しくなかった。親も大学を卒業した娘 が職業を持つことをことさら望んではいなかった。彼ら が娘を大学へ行かせた理由は、社会で活躍できる自立し た女性になってもらいたいからではなく、教育が家族の 向上と洗練を意味するからだった(常松 90)。19世紀末 のアメリカでは、学業を修めた女性が敬遠される風潮が 続く一方、大学卒の学歴は、本人とその一族のステイタ スになりえたのである。

 有意義な仕事がなければ自分たちで作ればよい。学校 を卒業後、8年ほど実家で鬱々と過ごしていたジェーン・

アダムズ(Jane Addams)は、1889年にシカゴにセツ ルメントの拠点「ハル・ハウス」を設立する。セツルメ ントとは都市の貧困地区に住み込んで福祉活動をおこな う運動で、1884年にロンドンで開設されたトインビー・

ホールが活動の始まりであるとされる。富裕者の気まぐ れな慈善とは違い、食事の提供といった奉仕活動のほか に、働く母親の支援や職業訓練、移民への語学教育など、

社会弱者の自立手段の確立をめざして助け合うというも

ドキュメント内 イラレ8_表紙No4-A4 (ページ 45-52)