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−近世庄屋時代を中心として−

ドキュメント内 イラレ8_表紙No4-A4 (ページ 52-60)

丸山竜平

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杉谷に住いした武将進藤氏にある。氏は、1388年、嘉慶 2年、現在の東白川村神土の黒岩へ移住し、「土着武士源 忠広の婿養子となり、安江佐衛門尉と改名したことに始 まる」とある。いわゆる落ち武者が身を寄せたところが 神土であったということであろうか。その詳しい来歴は なお解明されていない。

 直接の越原家の起源は、16世紀の末、1573年(天正 3年)から1610年(慶長15年)の間にある。件の初代 安江氏以降200年が経過したのちの1573年、天正元年 に同氏は「遠山氏の軍門」に下る。帰農したのであろう。

この安江氏の本家縁者であろうか弥兵衛正綱がこのころ に越原へ移り住んだとされる。これが越原家の始祖であ る。

 越原家の遠い元祖となる安江氏の始まりは14世紀末 であり、おりしも南北朝の内乱期それも末期にあたる。

4年後の1392年、元中9年、明徳3年に「南北朝合一」

となって内乱が収まる。末期の内乱がこの加茂郡の山間 部にどのような影響を及ぼしたかさだかではないが、そ の10年前の1379年、天授5年、康暦元年には義満が土 岐頼康の討伐令を出す。また1388年には楠木正秀が河 内に挙兵し、山名氏清に討ち破られるといった事態が あった。このような時期に安江氏にとっても転機があっ たとみてよかろう。進藤氏の婿取りは、安江氏の武将化 の第一歩であり、地域の指導者としての頭角に伴うもの であったに違いない。

 戦国時代を迎えた安江氏は地域のリーダーシップをも つものの宿命としてか、白川町野原に山城を構え、戦国 武将である遠山氏との対抗関係に終始することとなる。

天文年中(1532〜1555年)のことでいわゆる戦国時代 の開始に伴う対立が具現化することとなった。1573年、

天正元年にはその遠山氏の軍門に下るとみえる。しかし、

後述のようにそれぞれの記述に相違も多く、明確な原典 を欠くことからも内容には必ずしも信ずるわけにはいか ない。とはいえ、安江氏の発祥に関わる伝承であり、安 江氏が越原家の直接の先祖であるだけに、のちの越原家 にとっても重要な伝承であることには変わりはない。

 安江氏4代目、主計亮平正時の時には「遠藤平八郎の ために落城して吉田村に退き、殿屋敷に砦を構え、のち さらに野原村に城郭を構え・・」と見える。

 加茂郡白川町上佐見地先で佐見川の右岸において吉田 城館跡呼称地なるものが所在する。標高580m、比高差 50mの山で鎮守山と呼ばれ吉田山城の存在が伝えらえ れる。しかし、「全くの自然地形で、人口的な加工の跡は どこにもない」と報告されている。「野原城主安江政村の 父政常は吉田に住むとある」(『白川町誌』)との伝承から の推定であろう。

 そして5代目となる文明の頃(1469〜1487年)「基政 野原領主」としてかなりの勢力を有したことがわかる。

 6代目では、1503年、文亀3年、「安江大膳平正常が 家臣郎等など引きつれ、金山村へ引き退く、同年2月4 日討死」とみえる。

 また、7代目、安江与九郎平正村は「子息郎等落ち延 び、大野村に居住し、天文6年(1537年)4月、遠山左 近亮、小野村にて戦い、与九郎は死し、息与右衛門左内 は・・行方不明で落ち行く」とある。

 この前後となる1534年、天文3年に安江氏の8代目当 主の「実弟・弥六数正」が越原へ入り開墾を始めた。戦 国の様子は一層増し、武術、戦術に覚えの無い農民主体 の兵士もどきに十分な戦いなど不毛であったはずである。

 それがゆえか、あるいは家名を守るためにか兄弟間で 進路を異にしたのであろう。実兄は山城に篭り、実弟は といえば武器を捨て、篤農家として、非武装集落のリー ダーとして自覚したとみてよかろう。それは庄屋の二代 目前のことであり、弥六数正は1609年、慶長14年に96 歳で亡くなった文字通り越原家の元祖であった。

 これら諸点をまとめると、越原家の前史としての安江 氏は以下のようである。

 ①越原家は同じ東白川村の隣村となる神土の安江氏の 家筋にあたりその一族であることが分かる。

 ②安江氏のおこりは伊勢からきた武将に起源を持つと の伝承を有した。尊い血筋、家柄にあたる家筋と認識さ れた。

 ③戦国期には山城を構える武将であり、侵略者の侵攻 を武力で食い止めムラムラを守る守護神的な存在であっ た。

 ④他方実弟はといえば武力での解決を回避し、労働に 勤しみ篤農家として質素に生活することに努めた人物で あった。この実弟が越原家の元祖であり、江戸期庄屋の 基礎を築いた人物であったことにその後を注目してよい のではなかろうか。

 やや教科書的に論述を進めてきたが、ここで若干紙数 をさき、天文年中の安江氏兄弟(弟は越原家の元祖)の 実際を検討し、そのうえで、安江氏の伝承が越原家にとっ てどのようなものであったのかを推測してみたい。その 視点は、上記のように越原家の元祖実弟においては武器 を捨て、農に専念した知恵のある指導者的能力者の像を 結ぶが、むしろ実兄からその本質的な性格を探ることに よって越原家の遠祖の地域における性格を推察しうるの ではないかと考えることによる。分析の手法は考古学的 である。

 既述してきたように安江氏は「天文年中には白川町野 原に山城を構え、遠山氏に対抗した」いわば地元にとっ

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て安江氏は指導者でありかつ武力で戦ってくれた庇護者 でもある。このような地元伝承は越原家においても越原 家の家柄の確かさを人口に膾炙されることを通じ、それ がまた越原家の意識をいやがうえにも高めたに違いない。

 その加乗的な意識効果においては、件の野原の山城が 現地においてはいわゆる山城として明確なものが存在し ないのである。つまり伝承がより伝承化され当初から存 在しない山城が伝承の中で生み出されたのである。

 現地の様子を概略すれば、白川町河東に位置し、大き く蛇行して流れる飛騨川の左岸に位置する。飛騨川と野 原の集落の間に標高251m、比高差50mの瘠せ尾根が東 西に伸びる。この尾根上が候補地である。岩盤が露頭し、

山城の遺構はない。尾根は「いかにも城郭を築くにふさ わしい地である。しかし、城跡には人工的に加工した防 御施設は見当たらず、全くの自然地形である」とする。

 山城の伝承は、在地土豪安江氏の居城と伝えるとし、

天正元年、1573年、城主安江政村が苗木遠山氏と吉田横 落で戦死したが、弟政生が小野待瀬の合戦で遠山勢に打 ち勝ちこの城を奪還したという。その後、基政、正常が 守るが、1582年、天正10年に森長可の軍勢に攻められ 落城したという(『白川町誌』)。

 先にも述べたように三代前がすでに確証することの困 難な遠いこととすれば、伝承は生まれ安い。しかし、伝 承の方向性は起因するものに作用するであろう。そこで 遺跡の解釈に立ち返ってみたい。

 そもそも山城の構築は、広域の連合で武将が結集して 山城を築くとしても、あるいは在地武士の意思で山城を 築くにせよ、それらは①明確な旗印であって、自立の宣 言書と言える。他勢力に依存するにしても、在地の集団 として自らの意思を貫く自己主張の目印である。つまり 山城は攻撃される対象と化したことを築城当日から認識 することとなる。そのような明確なものが無ければ(現 地には城は全く無く砦的な要素も薄い)これは武将が築 城した城ではなく、農民層が、それも多少の地侍層の混 じる程度の農民主体の、むりろ民衆の城と呼ばれるもの で農民達が戦乱を避け山に隠れる程度のものであった。

このことは合わせて、山城は詰めの城ともよばれ山麓部 には武将の、あるいは有力地侍層の館跡が存在するもの である。しかし、それもここ野原では確認できないのが 現状である。

 これらのことは、安江氏がかりに地侍層として、また 農民の指導者として存在し、他勢力の侵攻に対処し、事 実遠山氏などと敵対したとしても、現地に残された山城 からはそのような戦闘は予想できず、また所謂自立の宣 言書としての山城の構築も当初より無かったとすれば、

ほとんどゲリラ的な戦法や戦闘に終始していたとみてよ

かろう。

 他国の有力勢力に組していたことも山城の有無から肯 定しかねるとすれば、安江氏はあくまでも在地農民勢力 と一体化して他勢力の侵入を防ぐことに奔走した単なる 人望ある指導者であり、地侍層にも手の届かない集団で あったといえる。

 さもなくば、やがて他集団によって滅ぼされるか、あ るいは支配者層として農民層と対立し、人望やプライド を廃棄しなければならない運命にあったはずである。

 このような状況からみると越原家にとっての安江氏の 存在は一層際立った意義をもつのではなかろうか。語ら れてきたことが虚実かどうかではなく、存在しない山城 までもが地域の人々によって語られる英雄的存在として 越原家元祖はやがて物語と化して人口に膾炙し、庄屋越 原家の自尊心や指導者としての自己犠牲心をいやがうえ にも高める要素足りえたに違いない。

 同様なことは伊勢の進藤氏に関しても言えるかもしれ ない。進藤氏はあくまでも安江氏の社会的位相を高める 材料であった可能性さえある。歴史的な事実は別のとこ ろにあったかもしれない。全く同じことは越原家の元祖 となる天文年中の弥六数正の越原の開墾にも言えること かもしれない。いくばくかの史実があったとしても文字 通り受け止めることは出来ないであろう。

 弥六数正、改名 弥兵衛正綱は1573年、天正元年ご ろ越原へ移り住んだとされる。氏は慶長14年、1609年に 96歳で齢を全うされた。生まれは1514年、永正11年 で、越原へ開墾に入ったのは21才である。半世紀以上白 川の右岸山麓で開墾を進めたのであるから相当な領地を 築き上げたことであろう。しかも一人で開墾し続けたわ けではなく、徐々に耕作人を加増させ一層大規模に開墾 をすすめたようである。ここにも篤農家であり、勤勉な そして人望のある指導者としても弥兵衛正綱氏の人柄が 事業の成功を導いたのではなかろうか。

 越原の開発は縄文時代以来断続的に続けられたが、弥 生時代以降さらには平安時代以降に一層強力に開発が推 し進められたであろう。しかし、それらは計画的ではな く、個人的で散発的なものであった。安江氏が越原の地 を開墾しこの地を切り開いたとする伝承もまた神話的な ものとみてよかろう。しかし、上述したように弥兵衛数 正の持続的、計画的な開墾はこれまでの越原には存在し なかったに違いない。そのような彼の手腕と驚異的な働 きもまた狭い越原から風聞となり加茂郡一体に広まった のではなかろうか。

3.庄屋と越原村−苗木遠山藩の時代−

 1610年、慶長15年、越原家の三代目越原弥吉が越原

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