中国重点大学建設および戦略的な展開
張 東海 (ZHANG Donghai) 華東師範大学高等教育研究所講師
1978年8月生まれ。2005年、中国北京師範大学国際・比較教育研究所を卒業、教育学博士学位取得。2005年~ 2007年、
華東師範大学高等教育研究所博士研究員。主な研究分野は学術制度史、科学技術政策・科学技術管理、高等教育国際 比較。
要旨:
中国の重点大学建設政策は新中国成立の初期か らすでに始まっていたが、歴史的に見て、この政 策は三つの段階に分けることができる。その政策 目標も、「手本となる」大学の建設から「世界一 流の大学の創設」へと変化してきた。重点大学の 選択においては、政治的考慮とエリート主義が同 時に並存し、重点大学政策のプロセスは政治プロ セスと専門家の意見によるものであり、大学の 持っている社会資源が、その大学が重点大学にな れるかどうかをより大きく左右していた。この政 策には問題もあるが、発展途上国として、先進国 との差を縮めたいという全国民の願いにより、こ の政策はかなり長期にわたって継続される可能性 がある。
中国の教育における重点建設政策の由来は非常 に長い。上は大学、中は高等専門学校、下は高等 学校に至るまで、いずれについても「重点」が論 じられている。しかし、本論文の言う重点大学建 設が指しているのは、政府の主導で、一部の大学 を選んで重点投資を行い、政策的優遇を与え、そ れによって大学の運営の質と効果を高めることを 目標とした、高等教育の重点建設政策のことであ る。選ばれて重点的に建設される大学は、中国の 習慣上、「重点大学」と呼ばれている。
中国の重点大学建設政策は1954年に始まり、今 日に至るまで延々と続いている。この政策は10 年にわたる「文革」によって中断され、改革開放 後に再び復活した。20世紀90年代以降、「211プロ ジェクト」と「985プロジェクト」のスタートに ともない、重点大学建設政策には既存の政策を基 盤として、さらに新しい特色が現れた。そのため、
中国の重点大学建設政策は大きく三つの段階に分 けることができる。すなわち、1954年〜文革まで が第一段階、1978年〜 1995年が第二段階、1995 年〜現在までが第三段階である。ある中国の学者 は、この三つの時期をそれぞれ「スタート期」、「復
活期」、「向上期」と名づけている。
一、1954 ~ 1966年の重点大学建設政策 1949年に成立した中華人民共和国は社会主義国 家であり、歴史的な理由から、新中国は基本的に 西側諸国との関係を断ち切り、ソ連モデルに基づ いて新しい国家を建設することにした。そのため、
建国の初期には、全国の各業種にソ連に学ぶとい う気風が溢れ、国の指導者も「ロシアを師としよ う」と呼びかけるほどであった。高等教育の分野 で、ソ連モデルに学んだ最も典型的な例は、20世 紀50年代に発生した「大学と学部学科の調整」で あり、重点大学建設政策はまさに、経済建設分野 の高度な集権と高度な集中を特徴とする計画経済 体制をまねて提起されたのであった。
新中国成立の初期は工業基盤が非常に薄弱だっ たため、この新しい国の創建者たちは、経済建設 の当面の急務はソ連の重工業を中心とした工業化 経済建設の経験を参考にして、重工業を優先的に 発展させることだと考えた。この戦略の主張は「第 一次五か年計画」に集中的に表れており、この国 家経済建設の戦略計画は、ソ連の援助で建設する いくつかのプロジェクトを中心にして工業化建設 を行う、ということを明確にしていた。
重点建設という構想はおのずと高等教育の分野 にまで徹底され、それにより政策決定上の変化が もたらされ、全国の大学の中から一群の大学が選 ばれ、重点建設が行われた。この政策の始まりの 象徴は、1954年10月に高等教育部が公布した『重 点大学と専門家の業務範囲についての決議』であ るが、この『決議』では、中国人民大学、北京大学、
清華大学、ハルビン工業大学、北京農業大学(現 中国農業大学)、北京医学院(のちに北京医科大 学と改称され、2000年に北京大学に併合)の6つ の大学が全国重点大学に指定されており、これは 中国の最も早い時期の重点大学名簿でもあった。
だが、初めての重点大学政策は長くは実施され ないうちに、妨害を受けることになる。1958年以
張 東海
降、経済建設における「大躍進」の展開にともな い、教育分野でも「教育革命」が始まった。この
「教育革命」の実質は、それまでのソ連の教育モ デルを捨て去り、中国の伝統的な民間の非正規教 育の形態と、中国共産党の革命戦争時代における 幹部学校の運営経験を参考にして、既存の教育モ デルを改造しようという試みであった。その結果 として、当初は中央政府各部門が主となって管理 していた大学が大量に地方に移管され、一方、地 方は高等教育の管理権を手に入れて、大量に大学 を開設し、そのため高等教育分野に「大躍進」が 出現するという事態を招いた。例えば、1957年に は、大学は全国に200余りしかなかったが、1958 年一年間だけで新たに800余りが建設された。
「教育革命」が所期の効果を上げないうちに、
軌道に乗っていた高等教育は反対に破壊を被り、
大量の質の低い、非正規教育の色合いを帯びた大 学の存在が、高等教育の質を低下させた。わずか 一年後、中国共産党中央は「強化、調整、向上」
を指導方針として教育の整頓を行い、それ以前の 非正規教育という方向を捨て去り、あらためて 1954年の重点大学政策を採用した。1959年5月に 中国共産党中央が公布した『高等教育機関の中に 一群の重点校を指定することについての決定』で は、16の全国重点大学が指定された。この16の大 学の中には、1954年に指定された6つの大学がす べて含まれており、そのほかに追加されたのは、
北京工業学院(のちに北京理工大学と改称)、天 津大学、北京航空学院(のちに北京航空宇宙大学 と改称)、復旦大学、上海交通大学、中国科学技 術大学、西安交通大学、上海第一医学院(のちに 上海医科大学と改称し、2000年に復旦大学に併 合)、華東師範大学、北京師範大学であった。
この時の重点大学の再指定では、大学の質を高 めることを非常に重視し、質を保証するために、
これらの大学は中央の同意を得ることなく学校の 規模や学生数を拡大してはならないこと、勝手に 学科・学部を増減してはならないことまで定めた。
その目的は、人力分配、専攻設置、資金分配の面 での特別な厚遇によって、これらの大学の教育の 質に、他の大学の発展の手本となり、助けとなる という確固たる保証を与えたいということであっ た。
その後、1959年8月、1960年、1963年に、中国 共産党中央は重点大学の数を相次いで増やし、そ の数は68に上った。この重点大学68校の内訳は、
総合大学14、理工系大学33、医薬系大学5、農林 系大学4、財政・経済・政治・法律系大学3、軍事
大学3、師範大学2、外国語大学2、芸術、スポー ツ類大学各1であった。これらの重点大学は、北 京市にあるものが最も多く、総数の39.7%に当た る27校、次いで上海市にあるものが13.2%に当た る9校で、その他の省の占める割合はいずれも5%
以下であった。
しかしながら、この重点大学建設政策は長くは 続かず、1966年、「文化大革命」の全面的展開に ともない、全国の教育が成長のテンポを乱され、
いくつかの重点大学は取消、併合の目に遭い、あ るいは農村に移転させられた。大学も中高も小学 校も授業がなくなり、教育事業は停滞に陥り、重 点大学政策も中断を余儀なくされた。
二、1978 ~ 1995年の重点大学建設政策 1976年に「文革」が終結した後、中国の指導者 は各方面の社会的秩序の回復に力を入れたが、当 時好んで用いられた言葉が「撥乱反正(はつらん はんせい)」で、その意味は、それまでの混乱し た局面を改め、一切を正常な状態に戻すというこ とだった。高等教育分野の「撥乱反正」は比較的 早く始まったが、それは文革後に復活し中央の事 業を取り仕切った鄧小平のおかげであった。実際、
鄧小平が復活後に主管したのは教育事業であり、
彼は教育の「撥乱反正」によって、経済、政治、
社会生活などの秩序回復のために道を開こうと試 みた。教育事業を取り仕切るようになって以後の 鄧小平の最大の行動は、十数年間中断していた「大 学入試」――中国の大学統一入学試験を再開した ことである。鄧小平は中央の指導者と「大学入試」
再開について検討すると同時に、重点大学政策の 復活についても考えており、それは彼の一連の演 説の中に具体的に表れていた。
鄧小平の一連の演説の指示の下に、1978年2月、
国務院は教育部の『全国の重点高等教育機関を復 活させ適切に運営することについての報告』に指 示を添えて各関係部門に転送し、重点大学政策を 復活させた。この報告は全国88の重点大学を定め ており、20世紀60年代の名簿よりも多少拡大して いた。その後、60年代にすでに重点大学に指定さ れながら、「文革」の間に取り消されてしまった 大学が運営を再開し、さらに国務院がいくつかの 重点大学の追加を決定するなどして、1979年末ま でに、重点大学は全国で計97校となった。
あるいは、この時に定められた重点大学の数が 多すぎて、「重点」の意味を真に体現することが 難しくなったせいなのか、1983年、いくつかの重 点大学の学長が連名で中央政府に対し、一部の大