• 検索結果がありません。

日系社会へ飛び込んだフチガミ

第 4 章 オートエスノグラフィーからみる尺八とジャボネジダデス形成

4.2 フチガミにおけるジャポネジダデス形成

4.2.2 日系社会へ飛び込んだフチガミ

2010年ごろ、日系社会とあまり接点がない生活を送っていたフチガミは、ブラジル における尺八の製作を研究した。シゲル・マツダ11という尺八製管師について調べよ うと計画を立てたが、残念ながら同年に彼は逝去していた。しかし、尺八製作者であ ったマツダに関する情報は非常に重要であると考えたフチガミは、遺された彼の家族 へインタビュー調査をすることにした。インタビューの予定を立てると、早速マツダ の末亡人に電話をかけ、見ず知らずの彼女に、まず自己紹介をした。

マツダの家族に電話する際、ラファエルというブラジル人の名前は敢えて名乗らず、

「初めまして、私はヒロシです。今、電話で話してもよろしいですか? Prazer, meu nome é Hiroshi. Posso conversar um minuto por favor?」12とポルトガル語で会話を始めた。

すると彼女は、同胞意識からか、少し関心を示し、「ヒロシですか?ご家族の名前は 何ですか? Hiroshi? Qual o seu sobrenome?」と訊ねてきた。フチガミは、普段はファ ーストネームの Rafael を使うが、その時から、尺八について調査をする際は、日本名 であるヒロシの方を使用することにした。尺八や日本音楽に関わっている日系人に、

日本名のフチガミかヒロシのどちらかを使えば、心の距離が近くなり、より親しみを 持ってもらえるのではないかと考えた。フィールドワークでは、自らの見た目や名前 や様々な特徴によって、対象者の反応や研究者と対象者の距離などが変わるのではな いかと思う。

電話で面会の約束を取りつけ、マツダの自宅にインタビュー調査に行くと、マツダ の妻、息子、友人の 3 人がフチガミを待っていた。まず、マツダの尺八レッスンの部 屋に入り、そこで 4人で会話をしていた。だが、マツダの製作活動や民謡活動などに ついて聞いても、情報があまりないようであった。当時、フィールドワークに対して 未経験であったフチガミは、失敗したと思った。やはり、マツダの家族は見ず知らず フチガミに個人情報や経験などを教えるのが不安であるのではないか。電話で自己紹

11 松田茂(1934-2010)。

12 ブラジルでは、自己紹介する際、ファーストネームを名乗る。

133

介した後、すぐにマツダの家族に会うのではなく、共通の知り合いに紹介してもらっ た方がよかったのではないかと思った。日系社会の初調査で、失敗してしまったと思 った。しかし、目の前にマツダが製作した尺八が何本かあった。「これはマツダさん の尺八ですか?吹かせていただいてもよろしいでしょうか」と家族に言った。「あな たは尺八を吹けますか?どうぞ、吹いてみてください」と言われた。そして、フチガ ミは《靴が鳴る》という童謡を吹いた。尺八の音を聴いたら、マツダの息子が泣き、

妻は主人のことを思い出して感動し、その場の雰囲気がガラッと変わった。家族と友 人は、尺八の音を聴くことによって、同年に逝去したマツダの存在を感じ、フチガミ は彼らと信頼関係を築くことがで きた。それから、マツダの息子と 妻も、新聞の記事、写真、マツダ の個人情報など、様々な資料をフ チガミに提供してくれたのである。

ここで、尺八はフィールドワーク に欠かせない道具だと思うように なった。

マツダは北海道出身、1958 年に 24 歳のころブラジルへ移住した。

マツダはサン・パウロ州サン・ベ ルナールド・ド・カンポ市に居住 し、民間企業で営業として働いた。

マツダは民謡を歌い、1980年代に都山流神仙会のトシオ・フクダから尺八を学習した。

当時、ブラジルで尺八が販売されていないこと、また日本から導入することが困難で あったため、自ら尺八の作り方を学習し始めた。マツダは、琴古流と都山流尺八を製 作し、また初心者向けの水道管尺八も作ったのである。

フチガミは 2014 年にサン・パウロ市で行われた「江差追分大会」に呼ばれ、尺八 の演奏と民謡コンクールの審査員として参加した。このイベントの終了後、4 年ぶり にマツダの妻と再会し、彼女から日本語で言われた。「私のこと覚えている?」。フ チガミは大変感動した。

2012年にフチガミは、カンピーナス州立大学大学院芸術学部音楽科修士課程に入学 し、São Paulo Research Foundation マスターコース奨学金制度(2年間)を得た。研究

写真4.4:2001430日、モジ・ダス・クルゼス市、

スザーノ市、アルジャ市に配布される『移民者新聞』

Imigrantes Shimbum の中の「コミュニティ・トラディシオ ン」の部に「尺八――和楽の風」という記事が掲載され ている。

134

テーマは “Musicological and cultural aspects of the Shakuhachi in Brazil” であった。同年 に、フチガミはサン・パウロ市の「日伯文化連盟 Aliança Cultural Brasil-Japão 」とカ ンピーナス大学の言語学部で日本語の勉強を始めた。

同年の 2 月にフチガミはブラジル邦楽協会の新年会で、日系一世の都山流・明暗流 のヤマオカと出会い、8 月から彼の稽古場にも通うことになった。そのことによって、

フチガミは非日系の環境を飛び出し、

日系人の和楽器集団との関係を構築し 始めることになる。通常、尺八の学習 者は一つ以上のグループに所属するこ とができない。例えば、1990 年に都山 流の尺八を学習し始めたヴァレリオに よると、琴古流に所属している尺八愛 好家と付き合うことを師匠たちに許さ れなかったという13。しかし、フチガミには尺八を研究する目的があったため、例外 的に様々なグループとその人々に関わることが許されたのである。

2012年8月以降、ヤマオカの稽古場に通うことになった。稽古は毎週月曜日、朝か ら夕方まで日系三世のオクラのアトリエで行われた。ヤマオカは、日系人及び非日系 人へ尺八を教え、また壊れた尺八の修理も行っていた。フチガミは、ヤマオカに都山 流のいくつかの曲を習い、2013 年 5 月にヤマオカと共に文化協会15の「日本の美

Beleza do Japão 」というイベントで尺八二重奏を演奏した(写真4.5)。ヤマオカの稽

古では、尺八吹奏にとどまらず、尺八の歴史やブラジル移民における尺八実践に関す る人物など尺八に関して様々なテーマについて話していた。12時ごろ、ヤマオカとオ クラと 3 人でマルミータ marmita16 を食した後、日本の緑茶を味わった。ここで、日 系社会との繋がりが始まり、ヤマオカから楽譜や写真など、様々な資料を提供しても らった。

また、日系社会に関しては、フチガミはヤマオカの稽古にとどまらず、2012年以降、

ブラジルで本格的に演奏活動を開始し、生田流正派の箏奏者と共演し、「和音」和太

13 20121128日によるインタビュー。

15 正式的な名称は「ブラジル日本文化福祉協会 Sociedade Brasileira de Cultura Japonesa e de Assistência Social 」

16 ブラジル風の弁当:ライス、豆、フライドポテト、卵、野菜、牛肉(あるいは豚肉か鶏肉)。

写真4.5:2013518日、ヤマオカ(右)とフチ

ガミ(左)の演奏会

135

鼓グループの演奏会にも参加し、完全に日系社会の一人となったといえる。さらに、

2013年の5月にトマス・ビタル作曲、指揮の柴田大介とフチガミによる「ムサシ━━

尺 八 と オ ー ケ ス ト ラ の た め の 」( 管 弦 楽 / カ ン ピ ー ナ ス 州 立 大 学 オ ー ケ ス ト ラ Orquestra Sinfônica da UNICAMP による演奏プロジェクト Projeto PERFORMANCE V)

の初演演奏会にて尺八ソロを行った。

つまり、日本文化に関わりのなかった日系のフチガミは、まず非日系人の環境で尺 八を学習し始め、その後フィールドワークを行う中、日系社会に飛び込んだのである。

海を渡って、地球の裏側までやってきた移民者たちの努力によって作り上げられた 日系社会はブラジル社会の一部となった。移民者たちとその子孫による音楽は、日系 社会の一つの柱となり、その音楽から日本とのコネクションが現れてくる。フチガミ は、音楽を通して自らが日系社会の一員となったのである。日系人の尺八愛好家をは じめ、箏や三味線や和太鼓など、日系社会の様々な集団と交流・共演を行うようにな った。フチガミは、日系人の仲間と共に演奏する最中、自らの移民歴史のバックグラ ウンドや様々な経験などが日系人たちとの共通点であると意識するようになったので あ る 。 サ ン ・ パ ウ ロ 市 中 心 地 に 隣 接 す る 日 系 人 街 の 地 区 で あ る リ ベ ル ダ ー デ

Liberdade に行き、日系人の友人と共に和食を食する機会が増えた。このように、フ

チガミはブラジルの一人のジャパニーズとなり、ジャポネジダデスを形成した日系人 となったのである。尺八が、フィールドワークに欠かせない道具でありながら、人々 の心を繋ぐための道具であることを認識した。その上、尺八を実践することでハーフ の日系人であることへの意識が薄れ、一般的な日系人のように認められ、日系社会の 中へ自然に溶け込むことができるようになった。同様に、ヨシワラは以下のよう述べ る。

(…)尺八を勉強し始めてから、日系コミュニティーに入りやすくなりま した。例えば、民謡の伴奏を手伝うときに、シノハラさんとキタハラ先生 と仲良くできました。そして、ヤマオカ先生に出会うことができて、今は 彼と親しい関係を作ることができました。そして、都山流のサイトウ先生、

お箏のナガセ先生、オグラ先生と生徒たち…音楽関係だけではなく、私の 娘は日系人二世の彼氏もいますし…現在は、日系人たちに受け入れられや すくなりました。私のアイデンティティーは、日本人ではない、ブラジル 人だと思いますが、尺八を吹くことによって、日本に近づいてきました。