• 検索結果がありません。

フチガミによる日系人アイデンティティーの見直し

第 4 章 オートエスノグラフィーからみる尺八とジャボネジダデス形成

4.3 フチガミによる日系人アイデンティティーの見直し

4.3.1日本における尺八の稽古

2012年 5月に、フチガミは京都で行われた「ワールド尺八フェスティバル19」を見 学するために訪日した。ワールド尺八フェスティバルは、尺八界の中で最も重要であ り、一般的な和楽器の世界においてもユニークなイベントと言える。世界各国から数 多くの尺八奏者及び、研究者、愛好家が集結し、多様な尺八流派(主に、国際尺八研 修館、琴古流、都山流、明暗流、根笹派、竹保流、民謡尺八など)のレッスン、ワー クショップ、講義、演奏会等が活発に行われた。これは、フチガミによる日本の初経 験となった。

当時、フチガミは自らの祖先の出身地の空気を感じ、しかも今まで夢のように考え た日本の背景は目の前にあったということに大変感動した。また、日本人にとって当 たり前なことでも、ブラジル育ちのフチガミにとって、大変珍しいことが多かった。

例えば、神社や寺院のような古い建物や、渋谷や新宿のように光っている新しい街並 みにも驚いた。日本の構築や街づくりは独特であるため、道がわかりにくいと思った 一方、コンビニエンスストアや自動販売機などが多くあり、非常に便利な国だと思い、

日本での初経験はすべて気に入ったのである。日本の初訪日 2週間であったが、また 日本に戻ると決意した。

19 国際尺八研修館のホームページには、「1994年には美星町にて第 1回国際尺八音楽祭を主催し、その 1998年のアメリカコロラド州ボルダーでの第 2回国際尺八音楽祭でも中心的役割を果たしました。」

とある。また、3回国際尺八音楽祭は東京(2002年)、第4回国際尺八音楽祭はニューヨーク(2004年)、

オーストラリア尺八フェスティバル(1999年)、バンクーバー尺八フェスティバル(2003年)、ハワイ尺 八フェスティバル(2005年)、ワールド尺八フェスティバルinシドニー(2008年)などのフェスティバ ルがある。

137

2013年、カンピーナス大学修士課程で尺八についての研究をした最中であった。10 月から2014年4月まで、São Paulo Research Foundation から海外研究奨学金20を得、6 か月間、日本に短期留学をした。そこで、柿堺香と菅原久仁義の両師に師事し、尺八 の古典本曲をはじめ、古曲(地歌・箏曲)、新日本音楽、現代曲などを学習した。

短期留学をする以前、フチガミは古典本曲にしか興味がなかったのだが、尺八の稽 古場で幅広い日本音楽のジャンルに触れる機会があり、それから古典本曲以外の作品 の美しさも知った。例えば、尺八、箏、三味線という三曲合奏の組み合わせでよく演 奏される八橋検校(1614-1685)や吉沢検校(1800-1872)などのような古曲の作品を 学習した。古曲は、独奏である古典本曲と異なり、尺八はメインではなく、箏と三味 線の音に色を付ける役割を持つ。しかも、三曲合奏で演奏するとき、毛氈の上で正座 での演奏が多いので、音楽の技術に留まらず、正座の訓練も必要であった。さらに、

宮城道雄や福田蘭堂や久本玄智などの新日本音楽の作曲家、そして沢井忠雄や長澤勝 利や山本邦山などの現代音楽の作品にも親しまれた。尺八は、ジャンルによって様々 な役割を持ち、多様な音色や美しさを表現する楽器だと感じた。それゆえに、古典本 曲以外のジャンルにも取り組んできた。

同年、菅原師の紹介で、北海道札幌市在住の小路流三代目家元である民謡尺八の松 本晁章とも出会った。松本晁章はブラジルに数回行ったことがあり、サン・パウロ州 に一世のツカサ・カイトウ21やアキラ・シオノなどの民謡尺八の生徒がいた。フチガ ミは、2014年4月にブラジルに帰国し、北海道の松本晁章との関係で郷土民謡協会や 日本民謡協会など、いわゆる民謡に関わっている日系の人々と交流を始めた。

2014 年に修士課程を修了したら、〈海外日系人協会〉の奨学金を得、フチガミは 2015年3月に再来日し、5年間日 本に留学する予定であった。まず、

新宿日本語学校に 1年間日本語の 勉強をしながら、柿堺と菅原、両 師の尺八の稽古に通った。加えて、

菅原の妻、沢井忠夫の弟子である 箏・三味線の泉山章子の合奏レッ

20 研究テーマ:“Musicological Aspects of the repertoire divulged by Katsuya Yokoyama (1934 - 2010)”。

21 海藤司はサン・パウロ州、タウバテー市 Taubaté に居住し、Kaito Instrumentos Musicais 楽器屋&音楽学

校、また「カイトウシャミダイコ Kaito Shamidaiko 」グループなど、多くの音楽活動をする。

写真4.6:2016528日、東京杉並公会堂小ホール、第

10回菅原邦楽研究室の演奏会。箏:泉山章子、三味線:長 尾早苗、尺八:フチガミ。宮城道雄作曲の《虫の武蔵野》

138

スンにも通った。2016年に東京音楽大学博士後期課程に入学し、それから本論文の研 究をしながら、尺八の稽古にも通い続けた。

尺八の稽古で、フチガミは、師匠の稽古場で尺八音楽以上に、様々な日本文化の洗 礼を受けた。例えば、ブラジルでは見られないが、日本では一般的に行われる忘年会 と新年会。また、年末にお歳暮を贈り、年始に年賀状を送る。このように、尺八との 師匠の関わりにいくつかの日本文化体験を重ねている。

つまり、ブラジルで尺八を学習していたころは、「日本のイメージ」に触れながら ジャポネジダデスを形成していたが、来日してからは日本文化に直接に触れることに なった。フチガミにとって、日本語のコミュニケーションや日本社会のマナーなど、

すべてが新しい世界であった。

4.3.2 日本における尺八の演奏

フチガミは、日本では伝統音楽の演奏会や、ブラジル音楽の演奏会など、様々な場 所で尺八を吹いた。例えば、TBSテレビの気象予報士森朗と共に、尺八とブラジルの 独特な7弦ギター、デゥオ・ア・テンポ Duo a tempo を結成し、喫茶店やブラジルの バーなどでブラジル音楽の演奏を行った。そして 2016 年以降、尺八、ピアノ、プリ ペアドギター、チェロのアンサンブルで現代曲を初演し、尺八、パンフルート、リコ ーダー、7弦ギターとういココペリー楽団、ソプラノ、尺八、ピアノのトリオ、テノ ール、尺八、ホルン、ピアノの四重奏など、様々なアンサンブルの組み合わせの演奏 を行った。同年に菅原師による「菅原組」22というジャズを中心とする尺八のアンサ ンブルに参加するようになった。加えて、柿堺師の「古典尺八Ⅲ」の CD レコーディ ングに、《雲井獅子》の二重奏に参加した。

2016 年には、「日本力行会創立 120 周年」の記念式典で演奏の機会があり、そこで、

箏・三味線・上方唄の松浪千紫23と出会った。それをきっかけに、翌年から、彼女と 共に「音楽の出会い」のシリーズを作り、演奏会の前半は 2 人で日本音楽を演奏し、

プログラムの後半では様々な楽器と共演した。例えば、フィンランドの民族楽器であ るヨウヒッコや、ブラジル楽器のパンデイロと7弦ギターや、チェロや、チェンバロ などである。さらに松浪と共に演奏し始めてから、着物を着る機会が増えてきた。

22 菅原久仁義師匠によるグループであり、彼の生徒の中に尺八奏者としてプロフェショナル活動をして

いるメンバーである。元永拓、両角昌幸、田野村聡、見澤太基、大賀悠司、渕上ラファエル広志。箏は 泉山章子である。

23 本名は鈴木奈緒。

139

2018年にフチガミは、和楽器編成である日本音楽集団に入団し、和楽器のプロフェ ッショナルな環境の空気を感じる機会が増えた。日本音楽集団とは、雅楽の楽器、ほ かの和楽器の音色を聴きながら演奏するところである。このように、フチガミによる ジャポネジダデス形成は、日本人のイメージや想像に留まらず、実際日本社会に飛び 込んで、尺八は音楽の「仕事」として考えるようになった。

4.3.3 日系人アイデンティティーとの再会

フチガミは尺八を実践することによってジャポネジダデスを形成し、彼の生活・行 動・思想などに日本文化が多く表わされるようになった。本節では、尺八の演奏を通 し、家族の中に残された日系人アイデンティティーを探ることで、日本のルーツまで 辿り着いたことを検討する。

2012年に祖父のキヨトが逝去したことにより、フチガミの家族の中には日本移民者 がいなくなった。同年、フチガミはキヨトの家に日本語で書かれた一通の古い手紙を 発見したのだった。封筒に押された郵便印鑑には「1976年4月17日」、宛名にはイチ ゾウ・フチガミとあり、差出人は熊本の渕上茂樹であった。曾祖父のイチゾウへの手 紙を見つけたことで、フチガミのルーツは熊本県宇城市小川町であることが判明した。

日本に渡航してから1年ほど経った2016年のある日、インターネット検索によって 渕上茂樹の電話番号を見つけた。電話をかけてみると、茂樹の妻トチ子が返ってきた。

それから、渕上茂樹という人物は、イチゾウの弟であったが、1996年に逝去したと、

電話の向こうのトチ子は話してくれた。

フチガミの曾祖父と祖父は、ブラジルへ移住する前にはブラジルに永住するつもり は毛頭なかった。ブラジルでお金を稼いだら、日本に帰り、故郷に錦を飾るという計 画であったのである。ブラジルで経済的に成功し、やっと日本に帰ろうという矢先に、

第二次世界大戦が始まり、遂に帰国は果たされなかったのである。曾祖父母のイチゾ ウとヨシミ、また祖父母のキヨトとタツノ家族全員が帰郷を夢に見ながらも、二度と 熊本に戻ることはなかったのである。移民の歴史や、イチゾウたちの苦しみや、自ら のルーツについて考えたフチガミは、熊本に行きたいと強く思った。

熊本へ行くのに、何かいい方法はないだろうかと思案しながら、インターネットを 検索すると渕上の家の前に小学校があるのを発見した。フチガミは小学校でボランテ ィアとして子供たちへ尺八の演奏できれば、地元の人々に貢献ができ、しかも熊本の 親戚と交流もできると思った。すぐさま、その学校に連絡して自らのルーツや移民の