間が
﹃わ れと なん じ﹄ の人 格関 係に 立つ こと
﹂︵ 明ら かな 二元 論︶ であ ると
︑シ レジ ウス を引 用す る︵ 一九
〇頁
︶︒ 神 と合 一す れば 恍惚
・陶 酔に 陥る こと にな るか らと
︑対 向関 係を 強調 する
︵極 めて 論理 的?
︶︒ 即ち
︑瞑 想に よっ て﹁ 一切 の規 律︑ 法則
︑常 識か らは なれ 自由 な心 の赴 くま まの 行為 を求 める
﹂た めで ある と︑ 論理 的二 元論 であ るこ とを 強調 する
︒神 秘主 義で いう
﹁放 念﹂ も﹁ 己を 捨て
︑我 欲を 放棄
﹂し て﹁ 自己 を神 に任 せ る﹂ こと で︑ 神の 絶対 的無 私の わざ を讃 える こと であ るが
︑神 と人 間と の協 調・ 共鳴 の音 色の こと で︑ 双方 は対 向 的二 元関 係に ある
︒ また
︑人 間が 神の 光を 求め ると きは 何も せず に神 の計 らい を待 って いれ ばよ いと
︑シ レジ ウス を紹 介す る︵ 一九 七頁
︶︒ 日本 人な ら他 力本 願と 思う 人も いる に違 いな い︒
・筆 者の 言葉 でい えば
︑宗 教文 化の 表層 では 同位 相に ある よう にみ える が︑ 深層 の︑ それ こそ
心 の 面で は異 相に ある と感 じた が︒ 以上 で︑ 本書 を終 わる︒
⑷
公会 議︑ 四三 一年 エフ ェソ ス公 会議
︑四 五一 年カ ルケ ドン 公会 議︶
︑マ リア も﹁ 神の 母﹂ と呼 ばれ た︒ それ によ って 広 大な 地域
︵中 央ア ジア や中 国に まで
︶に 信者 がひ ろま り︑ 偶像 公認 は六 九二 年コ ンス タン チノ ーブ ル教 会会 議に おい て行 われ た︵ 三三
三五 頁︶
︒
②第 二章 は﹁ 正統 と異 端﹂
︒﹁ ヨー ロッ パほ ど思 想や 宗教 の上 で正 統と 異端 が激 しく 問題 にな った とこ ろは
︑ほ か では 見ら れな い﹂ と︑ 本題 をヨ ーロ ッパ の心 性の 際立 った 特徴 とし てと りあ げる
︒そ れは
︑﹁ 原理 を同 じく し︑ 出 発点 を同 じく する 考え 方の なか での 違っ た意 見﹂ とい う意 味で ある から
︑勢 い争 いは 激し くな る傾 向を もつ と︵ 七 三頁
︶︒
異 端 の言 葉は 新約 聖書 にも みえ︵パ ウロ の﹁ コリ ント の信 徒へ の手 紙﹂
﹁テ トス への 手紙
﹂の 二
ヶ
所︶︑紀 元一 世 紀後 半に は使 われ てい た︒ キリ スト 教は 当初 ユダ ヤ教 の一 派と して 活動 し︑ とり わけ 地中 海世 界の 多様 な哲 学的 思 想と も交 流し てい たの で︑ さま ざま な教 えが 交流 した
︒使 徒た ちは
︑そ のな かか らキ リス ト教 の聖 典化 を計 ろう と して
︑イ エス の教 え以 外と 考え られ るも のは 異端 とし て排 除し よう とい う動 きが 新約 聖書 上に も表 れる のは 当然 で ある
︵七 六頁
︒︶ 新約 二七 文書 に決 定さ れた のは 四〇
〇年 ごろ とい われ てお り︑
﹁ト マス の福 音書
﹂﹁ ピリ ポの 福音 書﹂
﹁真 理の 福音 書﹂
﹁マ リア の福 音書
﹂﹁ ペト ロの 黙示 録﹂ など が外 され てい る︒ 即ち
︑キ リス ト教 公認 後︑ 正統 と異 端の 争い は一 挙に 表面 化し
︑治 安維 持の ため 皇帝 は初 めて 大規 模な キリ スト 教集 会を 召集 した
︵三 二五 年の 第一 ニカ イア 公会 議︶
︒そ して
︑広 く知 られ てい るア リウ ス説
︵イ エス の神 格化 に抵 抗 は三 八一 年の 第一 コン スタ ンテ ィノ ープ ル公 会議
︑︶ マリ アの 神格 化に 反対 した ネス トリ ウス 説︵ 四三 一年 のエ フェ ソス 公会 議︶
︑ニ ウテ ケス のキ リス ト単 性説
︵四 五一 年の カル ケド ン公 会議 が︶ 異端 と判 定さ れた
︒ しか し︑ 異端 と判 断さ れて も︑ アリ ウス 説の ごと きは
︑そ の後 にお いて 広範 に復 活し 再度 異端 宣告 をし なけ れば なら なか った
︵三 八一 年コ ンス タン チノ ーブ ル公 会議
︒︶ また
︑キ リス ト単 性説 はエ ジプ トな どに 今日 でも 信者 をも
ち続 けて いる し︑ ネス トリ ウス 派も 中近 東か ら中 国ま での 広い 範囲 でキ リス ト教 伝道 に貢 献し てい るの であ る︵ 七 八頁
︶︒ さら に︑ 西欧 でも
︑キ リス トは 神の 実の 独り 子で はな く神 に選 ばれ て養 子に なっ たと いう 説が
︑八 世紀 末に スペ イン で唱 えら れた り︑ 罪を 負っ た人 間は 善行 なけ れば 永劫 の罪 に落 とさ れる とい う二 重予 定説 がド イツ で九 世紀 に 唱え られ てい る︵ 七九 頁︑ 両者 は異 端と して 有罪 にさ れた あと 永続 しな かっ た︶
︒本 書で は︑ それ 以外 の異 端説 につ い ても 詳し く紹 介し てい る︒ 問題 は一 一世 紀以 降の 異端 で︑ 代表 的な もの とし て︑ カタ リ派 とワ ルド ー派
︑そ れに フス 派を 挙げ てい る︒ カタ リと はギ リシ ア語 のカ タロ ス︵ 清純
︶の 意味 で︑ イン グラ ンド のピ ュー リタ ンの こと
︑カ タリ 派の 名は 一二 世紀 半 ばに 西欧 に現 れた とい い︑ その 発展 につ いて 詳説 する
︵九
〇頁 以下
︶︒ カタ リ派 への 迫害 は第 三回 ラテ ラノ 公会 議︵ 一一 七九 年︶ であ り︑ 教皇 ルキ ウス 三世 は一 一八 一年 に﹃ 異端 禁圧 令﹄ を公 布し
︑永 遠の 破門 に付 した が︑ 対策 はぬ るま 湯的 であ った
︒積 極的 異端 対策 をと った のは イン ノケ ンテ ィ ウス 三世 であ り︑ シト ー派 修道 士に よる 失敗 のあ と成 功し た司 祭ド ミニ コに よっ てド ミニ コ会 とい う説 教修 道会 が 誕生 した
︵一 二一 七年
︒︶ とこ ろが
︑他 方で
︑教 皇特 使ピ エー ル・ ド・ カス テル ノ殺 害事 件が おこ って
︵一 二〇 八年
︑︶ 教皇 はフ ラン ス国 王 フィ リッ プ二 世・ オー ギュ スト に異 端討 伐を 命じ
︑こ れが 四〇 数年 に及 ぶカ タリ 派討 伐十 字軍
︵一 二〇 九年
︑ア ル ビジ
ョ
ワ 十字 軍︶ の発 端と なっ た︒ 教皇 イン ノケ ンテ ィウ ス四 世は﹃滅 ぼす べき は﹄ の教 書︵ 一二 五二 年︶ によ り異 端者 に対 する 拷問 使用 を公 認し たと いう
︵九 八頁
︒︶ 次い で︑
﹁ワ ルド ーと 教会 の不 調和
﹂に 続い て︑ ジ
ョ
ン・ ウィ クリ フ︑ ヤン・フ ス戦 争︑ アヴ ィニ
ョ
ン 捕囚︑教 会大 分裂 と解 説が 続く
︒本 章最 後は
﹁フ ス運 動は やが て西 ヨー ロッ パに 訪れ る大 波の 予兆 のよ うに 思わ れる
︒異 端
とは 一体 何で ある のか
⁝⁝
﹂と 閉じ る︒
・D
・ク リス ティ
=マ レイ
﹃異 端の 歴史
﹄︵ 一九 七六 年︑ 野村 美紀 子訳 一九 九七 年訳
︶が
︑キ リス ト論 を中 心と する 合理 主義 と超 理主 義の 論争 史︑ 世俗 権力 との 癒着 史に 次い で︑ 理性 の自 己相 対化 論で 終わ る有 意の 参考 書で ある
︒ま た︑ 鈴 木宣 明﹃ ロー マ教 皇﹄
︵二
〇〇 一年
︶が 二千 年の 歴代 を知 るに 便利
︒
③第 三章 は﹁ 戦争 と平 和
﹃神 の平 和﹄ と十 字軍
﹂で ある
︒ 中世 は戦 争が 絶え ず︑ 特に 十字 軍が 何度 も繰 り返 され て﹁ 暗黒 の時 代﹂
﹁鉄 と鉛 の時 代﹂ とい われ てい るが
︑他 方で
﹁神 の平 和﹂ の運 動も あっ たと いう のが 表題 の趣 旨で ある
︒そ して 著者 は︑ 特に
﹁ロ ーマ の平 和﹂ の再 現を 願 った と述 べて
︑ジ ュル ベー ル・ ドゥ リャ ク︵ ロー マ法 皇シ ルヴ ェス テル 二世
︶を とり あげ て解 説す る︒
﹁神 の平 和﹂ につ いて とり あげ られ た教 会会 議は
︑正 確な 年次 不明 だが 一〇 世紀 であ る︒ 著者 はオ ーヴ ェル ニュ 地方 のル
・ピ ュイ の司 教ギ ィド ー・ ウィ ドー が﹁ われ われ は⁝
⁝主 のみ 名に おい て平 和の 子で ある こと を告 げ知 ら せよ う﹂ とい う趣 意で
︑九 九四 年リ モー ジュ で会 議を 開い たと 記す
︵一 四六 頁︶
︒﹁ 神の 平和
﹂と は︑ 教会
・聖 職 者・ 農民
・商 人の 一般 信者 の生 命・ 財産 の保 護を 目的 とし たも ので
︑一
〇三
〇年 まで に連 続的 に開 かれ た教 会会 議 で多 くの 民衆 の参 加を えた が︑ 一〇 三八 年に ブル ージ ュ大 司教 アイ モが 平和 のた めに 武器 をも って 戦う と決 議し
︑ デオ ル領 主オ ドー との 戦い で多 くの 聖職 者を 失い 運動 は挫 折し た︒ こう して
︑教 会に よる 絶対 的平 和は 実現 不可 能と 知り
︑い わゆ る﹁ 神の 休戦
﹂に よっ て︑ 一定 期間 の戦 争禁 止に 移行 した
︵一 五二 頁︶
︒こ のよ うな 教会 の平 和運 動は 一二 世紀 まで 続き
︑会 議は 無慮 九〇 会を 超え ると いう 始末 で︑ 地域 の教 会や 住民 が平 和を 主導 した 証し とみ てい い︒ が︑ 皮肉 にも 最大 の軍 事行 動た る十 字軍 が始 まる とい うわ け であ る︒
・十 字軍 は︑ 西欧
︑ビ ザン ツ︑ イス ラム にま たが る歴 史的 事象 であ り︑ 本稿 で説 明す るこ とは 夢の よう な話 であ る︒ とり
あえ ず︑ 動機
︑過 程︑ イス ラム 側の 反応 など につ いて 書か れた
︑橋 口倫 介﹃ 十字 軍﹄
︵一 九七 四年
︶が 入門 者向 きで あ り︑ 八橋 春児
﹃十 字軍 とい う聖 戦﹄
︵二
〇〇 八年
︶は その 実態 を知 る上 で有 益で ある
︒後 者に は︑ 十字 軍は 兄弟 愛︑ 聖 所崇 拝︑ 罪の 意識
︑名 誉心 など を構 成要 素と する 精神 に支 えら れた 史実 であ るこ とを 論じ てお り︑ ジャ ン・ リシ ャー ル
﹃十 字軍 の精 神﹄
︵一 九五 七年
︑宮 松浩 憲訳 二〇
〇四 年︶ は︑ やや 研究 者向 きか
︒他 に図 説入 りの
﹃十 字軍 全史
﹄︵ 二〇 一一 年︶ もあ る︒ 平和 運動 は﹁ 神の 休戦
﹂会 議︵ 一一 九五 年︶ を最 後に
︑史 上か ら消 えた
︒第 四回 十字 軍︵ 一二
〇二
一二
〇四 年︶
︑ アル ビジ
ョ
ワ 十字 軍︵ 一二〇九
一二 二九 年︶ を契 機と して であ り︑ アヴ ィニ
ョ
ン 捕囚 に入 る︒ 他方︑国 家と 教会 に平 和と 安定 をも たら すた めの 現実 的提 言を した のが
︑マ ルシ リオ の﹃ 平和 の擁 護者
﹄︵ 一三 二四 年︶ であ る︒ ここ には
︑国 家と 教会 の主 権者 は市 民全 体の 民衆 であ り︑ 彼ら の意 志が 全体 会議 で表 明さ れた も のが
﹁法
﹂と なる とい う︵ 一六 四頁
︶︒ 同時 に︑ 教会 組織 につ いて も︑ 主権 は信 者共 同体 にあ り︑ 総会 議が 信仰 問 題の みな らず
︑教 会の 総権 限を 行使 し︑ 教皇 の任 免権 もも つと
︒教 皇の 権限 は総 会議 の召 集要 請︑ 提案
︑記 録・ 公 布に すぎ ない とい う︵ 一六 五頁
︒︶ 教会 の諸 権能 を規 定す るの は国 家で ある とい うか ら︑ 平和 の擁 護者 は国 王と い うこ とに なる
︒ 著者 はい う︒ これ こそ 現代 的な 主権 在民 論で あり
︑ウ ィリ アム
・オ ッカ ムも 同様 の主 張を して いる とこ ろを みる と中 世も 末期 の証 拠だ と︒ 聖職 者で ある ニコ ラウ ス・ クザ ーヌ スの
﹃信 仰の 平和 につ いて
﹄︵ 一四 六〇 年︶ もマ ルシ リオ の内 容・ 観点 と異 なる とは いえ
︑そ の斬 新さ は同 様で ある
︒ク ザー ヌス は︑ 近代 思想 に深 い影 響を 与え た人 物 とし て︑ 彼お よび 彼の 著書 につ いて 多く の日 本語 訳が 出版 され てい るこ とは 周知 の通 り︒ もっ とも
︑平 和を 宗教 の なか に求 めた 点に つい てユ ート ピア 的な ユニ ーク さが ある
︵や っぱ り中 世的
・筆 者︶ と︒ そし て︑ 諸宗 教が 祭式 に よっ て崇 拝し てい るの は唯 一の 神の 存在 を前 提に して いる から だと
︑諸 宗教 の一 致を 結論 付け てい る︒ たと え︑ 神