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⑵ 本 書

ドキュメント内 法 文 化 論 序 説 ︵ 七 ︶ (ページ 43-53)

の読 者に とっ て明 らか なこ とは

︑ロ ーマ 末期 から 初期 中世 への 移行 につ いて 文化 破壊 が行 なわ れな かっ

たの はキ リス ト教 の寄 与が あっ たか らと いう こと であ る︒ 第三 章は その 経緯 の話 から 始ま る︒ すな わち

︑キ リス ト教 徒の 団体 は︑ 紀元 後二 世紀 には

︑南 ガリ ア︵ リヨ ン︶ だけ でな く︑ ライ ン川

・モ ーゼ ル川 流域 にも 存在 して おり

︑さ らに

︑商 人・ 職人 たち によ り北 ガリ アに も普 及し てい った

︵六 五七 頁︶

︒ 初期 フラ ンク 時代 に︑ 教会 がヘ レニ ズム 世界 の大 司教 都市 から ガリ ア地 方に 広ま った こと は︑ アー ヘン の司 教座 聖堂 の美 術に オリ エン ト的 美術 との 合成 がみ られ るよ うに

︑五 世紀 から 八世 紀に いた る西 欧美 術に オリ エン ト的 要 素が 混合 して いた 例に よっ て明 らか であ る︵ 六六

〇頁

︶︒ つま り︑ ロー マ時 代に 受け 入れ られ てい たキ リス ト教 は西 ロー マ帝 国の 滅亡 後も 存続 し︑ ゲル マン 人は 教会 活動 を損 なう こと なく

︑教 義︑ 制度

︑典 礼形 式︑ 宗教 的観 念な どを ロー マの 遺産 とし て受 け継 いで いた ので ある

︒本 書 の説 明で は時 代は 遡る が︑ 二世 紀に はガ リア の首 都ト リー アに はキ リス ト教 徒の 定住 地が あっ たと いい

︵六 六二 頁︶

︑ロ ーマ の州 長官 の居 住地 であ るマ イン ツで は︑ 四世 紀中 ごろ には 大部 分の 住民 が通 う教 会が あり

︑ヴ ォル ム ス︑ シュ パイ アー

︑シ ュト ラー スブ ルク でも 同様 であ ると

︒ こう した 例を 考え ると

︑キ リス ト教 はロ ーマ 的基 礎の 上に

︑ロ ーマ の道 路に 沿っ て発 展し てい たこ とに なり

︑さ らに

︑大 領主 の所 領に おい て︑ さら に元 老院 議員 たる 領主 に止 まら ず︑ 商人

︑職 人ま でも が礼 拝堂 や教 会を 建て て いる とい うこ とに なる

︒ とこ ろで

︑こ れま で五 世紀 後半 から 始ま る修 道士 の活 動が 在地 の教 会や 小教 区の 成立 要因 と考 えら れて きた が︑ 修道 制の 当時 の性 格は 遁世 と禁 欲に あっ たか ら︑ 修道 士が 塀の 外に でる こと は稀 であ り︑ 在地 教会 の話 は当 の隠 遁 者死 亡後 に出 現し た現 象で はな いか と︑ 著者 はい う︵ 六六 四頁

︒︶ また

︑ミ ラノ 勅令 によ る合 法化 後に 教会 は財 産取 得権 をえ た︵ 三二 一年 の︶ で︑ それ まで の自 由寄 進や 贈与 のほ かに

︑奪 われ た財 産は 返還 され 教会 への 遺贈 も許 され るよ うに なり

︑加 えて 教会 の財 産は

︑神 々の 財産 とみ なさ れ

て譲 渡し えな いも のと なっ た︵ 六六 五頁

︶か ら︑ その 財力 はお して 知る べし であ る︒ 加え て︑ 五世 紀初 頭に はキ リス ト教 徒で ある こと がロ ーマ の国 家諸 官庁 に就 く前 提条 件と なっ てお り︑ 異教 の神 殿財 産は 没収 され カト リッ ク教 会の 手に 渡る よう にな った

︒そ れは

︑ア ンテ ィオ キア 公会 議︵ 三四 一年

︶に おい て︑ 教会 財産 の無 制限 な処 分権 が司 教に 認め られ てい たか ら︑ その 結果

︑農 村の 異教 徒た ちの 祭儀 所も カト リッ ク 教会 堂に 変化 し︑ 新し い教 えに 馴染 み服 する よう にな った とい うわ けで ある

︒こ うな ると

︑教 会の 志向 も個 人主 義 化の 方向 に作 用し

︑自 然的 血縁 団体 に対 して 個人 の自 立を 志向 する 機能 を果 たす こと にな った

︵六 六七 頁︑ 西欧 的 個人 主義 の原 点か

?︶ とい う︒ 他方 で︑ 教会 の有 する 所領 の発 展は 自己 耕作 を不 可能 とし

︑領 主制 的経 済形 態へ の誘 因と なり

︑﹁ 支配 の原 理﹂ と﹁ 共同 体の 原理

﹂と いう 二つ の大 きな 基本 的方 向が 結合 し︑ 前者 が優 位し た︵ 六六 八頁

︶︒ が︑ 後者 が支 配の 組 織内 部に おい ても 効果 的な 作用 を及 ぼし て︑ 実り ある 改革 への 芽を 育て る強 力な 推進 力と なり

︑古 いロ ーマ 的秩 序 から 離脱 して 発展 する 道を 開い たと いう

︵六 六八 頁︶

︒そ の理 由は

︑司 教た ちが

︑貧 民や 労働 者た ちに 生活 必需 品 を与 える こと を義 務と 考え

︑都 市・ 農村 の貧 しい 居住 者を 保護 する ため 救貧 院を 拡張 した から であ る︵ 六七

〇頁

︒︶

いう まで もな いが

︑キ リス ト教 倫理 は︑ 古典 古代 の哲 学を キリ スト 教の 目的 に合 わせ てつ くり かえ

︑禁 欲・ 遁世 の修 道院 によ る慈 善活 動を 通じ て導 きだ され たも ので あっ て︑ 病院

・施 療院 は︑ すで に六 世紀 以来 フラ ンス に 存在 した と︵ 六七 二頁

︒︶ また

︑非 自由 民の 非法 的地 位か らの 改善

︵カ ロリ ング 朝︑ 奴隷 制の 全面 的廃 止で はな い︶

︑そ して 解放 され たも のの 社会 的地 位保 全の 確認

︵六 一四 年ク ロタ ール 二世 の告 示に よる な︶ どに よっ て︑ 著者 は︑ ロー マ法

︑ド イツ 法︑ 教会 法の 融合 から 未来 への 発展 が生 まれ たと 位置 付け る︵ 詳し い説 明が ある

︒︶ 即ち

︑何 の保 護も うけ られ ない すべ ての 人に 対し て︑ 教会 が保 護を 与え ると いう 倫理 的使 命に 導か れた と︑ 著者 はい いた いの であ る︵ 六七 七頁

︒︶ とは いう もの の︑ 教会 は他 の誰 にも 負け ない 資産 の所 有者 であ った とも

︵六 七九

頁︶

︒別 言す れば

︑教 会は 初期 中世 にお ける 信用 供与 機関 であ り︑ 不動 産の 譲渡 や現 金需 要に 応ず るこ とが でき た ので ある

︒そ のわ けは

︑聖 地へ の巡 礼に 対す る費 用調 達な どに 応ず るた めで あり

︑時 には 罪人 が贖 罪金 を払 えな い 場合 に︑ その 身を 奴隷 とし て抵 当に し新 しい 主人 に買 い戻 して もら う役 割を 果し たと もい う︵ 六八

〇頁

︶︒ 著者 は︑ この 教会 の方 策に つい て﹁ 極め て重 要な 社会 政策 的意 義﹂ をも つと 評価 して いる が︵ 六八 二頁

︶︑ 信者 のた めに する 商売 上手 とい った ら虚 言に なる だろ うか

︵筆 者︶

︒い ずれ にし ても

︑こ うし て︑ 教会 の影 響力 はゲ ル マン 諸王 国の 創設 期に おい てい っそ う強 力な もの とな って いた とい える

︒そ の結 果︑

﹁新

︑ 教

﹂︒

﹁教 会的 要素 とロ ーマ 的要 素と が混 ざり あっ て︑ それ が初 期中 世の 文化 的発 展の 中で 極め て永 続的 な影 響力 を持 ち続 ける こと がで きた 最も 重要 な理 由の 一つ は︑ 実は こ の点 に求 めら れる ので ある

﹂︵ 同頁

︶と

こう まで

︑民 族移 動と キリ スト 教の 関係 を述 べら れる と︑ 筆者 には

︑ゲ ルマ ン人 の当 初の 異教 がど のよ うに キリ スト 教化 され たの かが 気に かか る︒ 著者 は︑ 西ゴ ート 族︑ ブル グン ド族 のア リウ ス派 に反 対し

︑ま たフ ラン ク 族︑ ケル ト族

︑ア ング ロ・ サク ソン 族の 異教 に反 対し た場 合の 立場 は同 じで あっ たと

︑そ の状 況を 次の よう に述 べ る︵ 六九 六頁

︒︶ まず

︑教 会が ロー マ皇 帝に よっ て承 認さ れ︑ 財産 の受 贈資 格を えて から は︑ 教会 財産 の担 い手 は管 理に 対す る外 部か らの 影響 を極 力排 除す るこ とに 努め てお り︑ つい で︑ 都市 にお いて はも とよ り︵ キリ スト 教団 体が 早く 成立 し た︶

︑異 教に 固執 する 農村 地域 にお いて も︑ 俗人 によ って 建て られ た教 会堂 を国 家に よっ て承 認さ れた 一人 支配 組 織の 教会 制度 の下 で︑ 司教 はそ れを 自己 の支 配下 に組 み入 れ経 済力 を強 化し たこ とに よる と︒ そこ で︑ 豊か な富 を 手に 入れ た司 教は

︑貧 しい 住民 階層 を救 済し 下級 聖職 者を 扶養 した

︵六 九六

六九 七頁

︒︶ こう して

︑都 市に おい て司 教は その 庇護 者と なり

︑そ の名 声と 経済 力に 刺激 され て︑ 四世 紀に は有 力な ロー マ人

もそ の地 位を 得よ うと 努め た︒ その 結果

︑司 教た ちの 影響 は周 辺の 地域 にも 及び

︑司 教団 の権 力は 五世 紀に は外 部 の俗 人勢 力に 対し 戦い を挑 むこ とが でき るほ ど強 力に なっ た︒ とど のつ まり

︑フ ラン ク王 国の 国王 クロ ード ヴィ ヒ︵ クロ ーヴ ィス

?︶ のカ トリ ック への 改宗 は﹁ その 後の 全時 代に 支配 的な 影響 を与 え︑ そし て中 世的 発展 の特 徴を 決定 的に 規定 した

﹂︵ 六九 九頁

︶︒ ただ し︑ その 因由 につ い て︑ ブル グン ド族 やゴ ート 族の よう なア リウ ス派 諸国 家の 戦い にお いて は︑ 彼ら の改 宗を 政治 的に 利用 しよ うと

︑ 外交 政策 によ って カト リッ ク聖 職者 に助 力を 求め たか らだ と説 く人 もい る︒ が︑ 著者 は︑ 巨大 なカ トリ ック 司教 団 が彼 らの 勢力 を自 己の 支配 下に おく こと が不 可欠 と考 えた から だと いう

︵七

〇〇 頁︶

︒ 何れ にし ても

︑六 世紀 には 教会 の勢 力は 経済 的領 域の みな らず 政治 的領 域に おい ても 巨大 とな って くる

︒す で に︑ ロー マの 地方 行政 区画 が司 教区 制度 にう けつ がれ てい たが

︑司 教た ちが 王国 の一 般的 事務 も引 き受 け司 教座 は 司教 都市 にな って いた

︒ 他方

︑フ ラン ク諸 王は ロー マ的 秩序 に対 して は保 守的 態度 をと り︑ その 後の 一世 紀は 教皇 権の 維持 のた めに アリ ウス 派の ラン ゴバ ルト 族に 対抗 しよ うと 政治 的闘 争を 行っ た︵ すで にア リウ ス派 はい たる とこ ろに 進出 して いた

︒︶ こう して

︑ロ ーマ の司 教は

︑他 の司 教に 対す る支 柱と して の教 皇権 を保 持で きる こと にな った

︵七

〇三 頁︶ とい う︒ また

︑統 合の ため に公 会議 を利 用す るこ とに つい て︑ それ は﹁ 教会 の規 則や 紀律 の問 題よ りも

︑国 家の 諸問 題 にと って はる かに 重要 にな った

ドイ ツ国 制史 の権 威者 G・ ヴァ イツ と︶ もい う︒ つま りは

︑聖 俗権 力の 結合 の導 入で ある

︒そ れも

︑新 しい ゲル マン 人の 支配 者た ちが ロー マ領 に彼 らの 諸国 家を 建設 する さい

︑そ の前 段階 の諸 事 情を 受け 継い だと いう 事実 が背 景に あっ たか らと いう こと の結 果だ とい って もよ く︑ 六世 紀に

︑司 教た ちが 係争 の 解決

・政 治的 対立 の調 停に 際し て適 役と なっ た︵ 七〇 四 七〇 五頁 の︶ も︑ その 延長 と考 えら れる とい う︒ 六一 四年 の国 王ク ロタ ール 二世 の告 示は

﹁高 位聖 職者 や有 力な 貴族 やわ が家 臣た ちと 共に 教会 会議 にお いて

﹂発

ドキュメント内 法 文 化 論 序 説 ︵ 七 ︶ (ページ 43-53)

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