はじめに
日本人の2人に1人は癌になり,3人に1人は癌で死ぬとい う厳しい現実があり,大きな問題となっている.癌遺伝子の 発見など癌の先導的な分子生物学者である,MITのRobert Weinberg(ロバート・ワインバーグ)教授は,「癌研究にお いて分子生物学こそが,この難問を解明する最高の手段だ」
という確信のもと,雑誌「 」を40年前に創刊した.そ の御本人が,分子生物学的な手段だけでは癌の問題の解決に は至らなかったと,自戒をこめた貴重な回顧論文を「 」 の2014年3月号に発表している(1).
癌に罹患しない方策,発癌のメカニズムの解明,あるい は治療法の展開は,1970年代以来,多くの癌研究者(生化 学,分子生物学,癌生物学,免疫学,あるいは病理学)や臨 床家でさえも,遺伝子解析を中心とする分子生物学的アプ ローチにより,遠からず解決すると信じていた.しかしなが ら,癌の基本的な問題は何一つ解決できなかったことを,ワ インバーグ教授は,上記論文で述懐している(1).その総説を 中心に本稿ではわれわれが思いついた問題点も併せ論じたい と思う.
背景:古典病理腫瘍学から分子生物学へ
筆者の前田は大学院時代からほぼ半世紀にわたり制癌剤 の研究に従事し,その間癌研究分野に出現した多くのセン セーショナルなトピックをつぶさに目撃した.それぞれのエ ポックメイキングな発見のたびに,メディア的にはこれで癌 問題は解決できるとファンファーレが鳴り響いたのである.
たとえば,癌ウイルスの発見,逆転写酵素の発見,オンコ ジーン(癌遺伝子)の発見,癌抑制遺伝子(P53)
*
1の発見,DNA修復メカニズム(遺伝子)の発見,ミサイル療法,分 子標的薬,レセプター/シグナル/キナーゼ,VEGF,癌ワ クチンなどの展開がそれである.最近ではチェックポイント
阻害剤(オプジーボ®など)がそれである.
本稿の前半では分子生物学パラダイムと癌の多様性の立 場から癌研究の問題点を,後半では制癌剤開発の立場から,
分子遺伝学や分子標的型制癌剤開発に関して,実はそれらが ほとんど失敗している事実をつまびらかにしたい.
1970年代の中ごろになると,当時の最先端な分子生物学,
分子遺伝学,生化学の研究者にとって,古典的な病理学によ る癌研究は時代遅れと考えられていた.それゆえ, 誌の 創刊は,これまでの癌研究の主流の形態学・病理学あるいは 臨床医学的な手法よりも,分子生物学のパラダイムにより,
解答が得られるとの期待が高まっていた.分子生物学者は要 素還元論者(注;この場合はワトソン,クリックのDNA→
タンパク質の流れに,生命現象のすべては基づくという考 え,パラダイム)であり,癌細胞を分子生物学的に解析すれ ば癌の発生メカニズムや治療法の目途がつくであろうと考え られていた.伝統的な癌研究者が半世紀以上にもわたって蓄 積してきた,解析不能と考えられていたこの混沌世界の問題 に対して,分子生物学者は,癌細胞を最小単位の分子の詳細 にまでふ分けして,分子レベルで,癌発生のメカニズムを普 遍性のある知識として,理解できると考えていたのである.
「癌とは何か?」,「癌はどうやって発生するのか?」とい う基本的な問いに対し,当時新興してきた分子生物学的手法 によって,癌研究者は画期的な解答を期待していた.今に なって言えば,癌は単純な分子メカニズムで理解するにはあ まりにも複雑であり,要素還元論の単純な考え方では理解で きるものではないことがわかってきた.
そのような背景において,分子レベルによる癌研究に莫 大な資金が投じられるようになったのは,1971年のニクソ ン大統領による国家プロジェクト「War on Cancer(対癌戦 略)」であった.それは,癌ウイルスの感染によって,癌が 引き起こされるという信念のもとに始められた.その癌ウイ ルスの研究途上で,このウイルスが逆転写酵素という驚くべ き酵素を有していることを,ハワード・テミンとデイビッ ド・ボルチモアが独立して発見したことがきっかけである.
ヒト癌の原因となるレトロウイルスに見いだされた逆転写酵 素は,これまでのワトソン・クリックのDNA→RNA→タン パク質の普遍的な流れに対し,RNA→DNAという逆の流れ をもたらし,癌化のメカニズムに重要な役割を占めているも
癌研究における分子生物学パラダイムの苦悩
40年にわたる苦戦の経験から原点回帰へ
前田 浩
(財)バイオダイナミックス研究所所長,熊本大学名誉教授(医学),大阪大学大学院医学系研究科招聘教授
*1 癌抑制遺伝子として働く転写因子.DNAの損傷に応じて細胞 分裂の抑制,アポトーシスを誘導する.P53の機能不全により,
細胞の癌化が進行する.
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バイオサイエンススコープ
のと考えられた.DNAやRNAを遺伝子としてもつ多くのウ イルスが,正常細胞に感染することで,トランスフォーム
(試験管内の癌化)させることはよく知られていた(例,EB ウイルス→ Bリンパ球のトランスフォーメーション).当 時,ウイルスによる癌化は試験管内の培養細胞において見ら れた現象(注,トランスフォーメーションという不死化状態 で,正常細胞と違って何代でも培養・増殖が可能となる)で あるが,固体レベル( )において,いわゆる癌化が 起こることは確認されていなかった.実際,シャーレの中で 見られた現象というだけであった.
米国の対癌戦略War on Cancerとわが国の 対がん10カ年戦略
わが国にあっても中曽根内閣で対がん10カ年計画が策定 され,米国の時流の研究をフォローするように,癌重点研究 や癌特別研究など中核的な研究者を班長として多くの班が組 織され,その分野の研究は大きく進展した.当時の対癌戦略 に携わっていた分子生物学関係者の主流は,逆転写酵素こそ が癌化を理解するための重要な酵素であると信じていた.米 国でも,わが国でも莫大な研究助成が与えられ,熾烈な競争 が始まった.また,RNAウイルスのみならずDNAウイルス も癌を引き起こすことが明らかにされ,ポリオーマ,SV-40 ウイルス,アデノウイルス,ヘルペスウイルスの研究者も癌 研究に参戦した.後になって,上の仮説もアルプスの一つの 峰で,とても癌全体を網羅できないことがわかってきた.
1970年代の終わり頃までには,ごく少数のウイルス学者 を除いて,ヒト・レトロウイルスによる発癌に関して,ほと んど新たな知識はもっていなかった.そのため,真っ赤なう そとまでは言わないまでも,過度な喧伝によって,アメリカ 議会を説き伏せ,対癌戦略を推し進めた人々に対し,無言の 不平が蔓延していたが,研究は続けられた.それは,比較的 小型のウイルス(ラウスサルコーマウイルス,RSV)が細胞 に感染することにより,トランスフォーメーションという永 続的な増殖状態に変換できる能力をもつという,単純・明確 な事実があったためである.言い方を変えれば,癌のウイル ス遺伝子の感染によってトランスフォーメーションが促され ると考えたからである.
しかし,当時は癌が特定の遺伝子の病気だとする考え方 は,推論に過ぎなかった.1975〜1976年におけるバーマス とビショップによる
*
2発癌遺伝子の発見はその考え方を 変えることになる.彼らの研究は,レトロウイルスの遺伝子 を相手のゲノムに組み込むことで,癌化することを明らかに した.この研究は,還元主義的な分子生物学の考え方と細胞 のトランスフォーメーションという現象を結びつけたため,癌研究者の間にたいへんな興奮をもたらした.しかしなが
ら,実はヒト癌と 癌遺伝子を一般的な臨床の癌に関連づ けるのは難しかった.というのはヒト癌に を見いだすこ とは不可能であったからである.
対癌戦略から10年が経ち,あまりめぼしい成果がなかっ たとはいえ,2つの重大な発見がもたらされた.一つは,高 月清教授が発見したヒトの成人T細胞白血病(HTL)の研 究成果で,その原因が,日沼瀬夫教授が発見した逆転写酵素 をもつヒト・レトロウイルス(ヒトT細胞白血病ウイルス
(HTLV))であることの証明であった.もう一つは,ほぼ同 じころ,エイズ(AIDS)の原因が類似のレトロウイルスで あることを,フランスのモンタニエらによってヒト免疫不全 ウイルス(HIV)として明らかにされた事例である.
癌ウイルスと癌細胞の癌遺伝子の発見
1970年代の終わりには,バーマスとビショップの研究に 感銘を受けたウイルス学者は,脊椎動物の遺伝子に存在する ヒト癌遺伝子の発見へとつながる多くの癌原遺伝子(proto- oncogene)を明らかにし始めた.ワインバーグは,1973年 にブルース・エイムス(カリフォルニア大学教授)によって 報告された化学物質の変異原性(サルモネラ菌で検出する)
と動物での発癌性の間には相関関係があるという研究に刺激 を受けていた.この研究は,予想されるように,癌細胞は正 常細胞から変異した細胞であること,外来性の遺伝ではな く,もともと細胞内に内在する遺伝子の変異によって癌化が 起こることを強く示唆したものである.
以上の研究の流れから悪性細胞(癌細胞)の発生を引き 起こすには複数の分子レベルのイベントの複合的な結果であ ることが明らかになってくるのである.それは思いもよらな い複雑なシステムで,事はそう簡単ではないことを示唆して いた.
1973年から,ワインバーグの研究室では,リン酸カルシ ウムによる遺伝子導入法(動物細胞への遺伝子導入法)を用 いて,レトロウイルスの複製に関する研究を開始した.実際 に,感染性のレトロウイルスの逆転写酵素より作成された DNAを細胞内に遺伝子注入することで,天然の癌ウイルス と区別のつかない感染性のウイルス様粒子を作ることができ たのである.同時に多くの研究者はトランスフォーメーショ ンを起こす癌遺伝子を未感染の正常細胞に導入し,単層細胞 がキラキラと光って見える細胞塊が出現する現象を認めてい た.問題は変異原性発癌物質であるメチルコランスロリンの 暴露によって形質転換した細胞内のDNAが,癌原性の情報 をもっているかどうかである.しかも化学的にトランス フォームしたもので,レトロウイルスの感染履歴がないのに である.予想どおり1979年には,癌遺伝子導入や,化学物 質によってトランスフォームした細胞にも,癌化のための DNAの変異の情報が含まれていることがわかり,その3年 後には,ワインバーグらによってヒト膀胱癌の癌遺伝子とし て単離されるに至るのである.癌細胞から単離した癌遺伝子
*2 癌原遺伝子.チロシンキナーゼタンパク質.癌化への変異を起 こし,それにより無秩序な細胞増殖を引き起こす.
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を正常細胞に導入することによって,その正常細胞をトラン スフォームすることができると思われた.
驚くべきことに,このヒト癌遺伝子は,数年前に癌ウイ ルス研究者が発見した
*
3癌遺伝子のホモログであった.この結果は,もう一つの単純化理論の説明につながった.す なわち,哺乳動物細胞に存在する共通の癌原遺伝子(プロト オンコジーン,c-protoonc)が,微生物の感染や化学発癌物 質の処理によって,活性化されるという明快な理論の構築に 至るのである.
癌抑制遺伝子の発見
この発癌メカニズムはさらに単純明快に現実のものに なった.すなわち膀胱癌で見つかった癌遺伝子の遺伝子配列 は,プロトオンコジーンとは,たった1カ所の塩基配列の変 異によるものであった.つまり1982年の僅かな間には,極 端に単純化して言えば,癌とは30億塩基対のうちのたった 一つの塩基対の違いによって,生ずることがわかった.この ような状況から,要素還元論者の目から見ると,あと30年 もしないで,癌の問題は解決されると考えていた.しかしな がら, 癌遺伝子が点突然変異であると報告がなされるや いなや,数週間のうちに,癌はそう単純ではないと主張する 人たちが現れてきた.ヒト癌の発生に関する生物学的研究を していたJohn Cairns(ジョン・カーンズ)は,統計論的に みると稀にしか起こらない癌遺伝子の変異(一塩基対変異)
では,ヒト癌の複雑さは説明できないと主張した.確かに,
マウスでは癌原遺伝子の変異を必須とする段階はあまり多く ないようであった.事実,1983年には,共役した2つの遺伝 子の変異だけで,正常細胞を完全に癌化できることが報告さ れた.しかし,この考え方でさえも幻想であることが,数年 後にはわかってきた.げっ歯類の細胞を用いた実験において は,2つの遺伝子の変異のみで癌化を誘導できたのだが,実 験的にトランスフォームするのが困難なことが知られている ヒト細胞ではなかなかうまくいかず,5つもしくはそれ以上 の遺伝子の変異が必要であった.このことは,遺伝子を標的 とする分子標的薬の開発に対して大きな示唆を与えるもので ある.
つまり,細胞の癌化には複数の遺伝子変異が重要であり,
それが癌原遺伝子に起こっているのか,癌抑制遺伝子に起 こっているのかということである.癌抑制遺伝子の損傷によ る発癌説を提唱する先駆者は,1980年代後半には数多くの 癌原遺伝子の発見が見られ,発癌現象の単純統一化は困難で あり,癌遺伝子熱は冷ややかに見られた.このカーンズのよ うな有名教授の意見に対して,ワインバーグも同意している のである.
癌遺伝子と癌抑制遺伝子という両クラスの遺伝子が重要
であることは,大腸癌の病理組織学的ステージと,ある遺伝 子群の組み合わせの変化が関連していることからも予想させ られたが,1989年になってVogelstein(ヴォーゲルスタイ ン) 教 授(Johns Hopkin大 学 の ヒ ト 遺 伝 子 の 大 家) や,
Gerlinger(英国のガーリンジャー)らの一連の研究から明 らかになった
*
4, (2〜4).その結果,癌の進展(progression)の程度が進めば進むほど,癌原遺伝子や体細胞遺伝子の変異 がより多く見られたのである.そのため,癌原遺伝子も癌抑 制遺伝子も,癌形成には重要であり,しかもどちらも癌細胞 の中にもともと共存しているものなのである(2〜4).
癌化のプロセスと遺伝子変異のランダム性・
多様性
癌の進展における各遺伝子発現の流れを考える研究者は,
ヒト大腸癌の発生には,ある遺伝子群の特定の塩基配列の変 異が重要であると考えた.当初は,大腸癌の発生において,
初期の段階にAPC遺伝子変異が起こり,ついで や に変異が起こりやすいという蓋然性しか明らかになっていな かった.しかし実際は,遺伝子変異が起こる順番は決まって いないこと,症例ごとに異なること,さらに多くの大腸癌に おいては, 遺伝子に変異が見られないことも明らかに なってきた.実際に,大腸癌の発生においては,ランダムに 遺伝子変異が起こっており,規則性はなく,ある場合には 癌遺伝子さえも変わらないこともあり,大腸癌の発生・
増殖と遺伝子変異の関係性をひも解くことは非常に難しい問 題であることがわかってきた.むしろ,それぞれが癌におい て遺伝子変異の種類・順番に決まりはなく,それぞれ個別の ものだと考えられた.このような状況にもかかわらず,ワイ ンバーグらは,1999年には,癌の遺伝的な現象論に規則性 があるはずだと考えていた.つまり,それぞれの癌は常に個 性の異なる顔をしているように見えても,その根幹に何か共
*3 癌原遺伝子.低分子GTP結合タンパク質.癌性変異により無 秩序な細胞増殖を引き起こす.
*4 米国のジョンス・ホプキンス大学のヴォーゲルスタイン教授 は,ヒトの腫瘍遺伝子の世界的大家であるが,癌患者の一人ひと りの個々の癌の遺伝子を詳しく調べたところ,同一癌患者の癌組 織の遺伝子におびただしい変異があることを明らかにしている.
肺癌,食道癌,皮膚癌などでは,百以上,数百もあることを示し ている(表1).白血病や軟部組織の腫瘍では1桁台の変異数と少 ないが,大腸癌や胃癌も数十を下らない(3, 4).ヴォーゲルスタイン 教授らの論文の1年前にガーリンジャー氏らは同一腎癌症例の遺 伝子をさらに詳細に検討し,転移の先々において,もととは違っ た遺伝子多形がおびただしく生じていることを証明している(2). したがって,いわゆる分子標的薬や癌ワクチンによる治療の有効 性が乏しいことは,これらのデータから容易に予想される.それ にもかかわらず,分子標的薬や癌ワクチンの開発に巨億の税金が 投じられている.以上のように,ヒトの癌の遺伝子の多様性が無 数にあることを考えると,現実の癌遺伝子が不変であるとの作業 仮説に基づく分子標的薬の開発のような遺伝子が永遠に不変など ということは,ありえないのである.したがって,対癌戦略は根 本的に戦略が間違っていることに気づかなければならない.この 点に関して,文献5のリーフ氏の9年にわたる詳細かつ探求的で 圧倒的な内容の著書を参考にされたい.
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通点があるはずだと彼は考えていたのだ.すなわち,癌細胞 は限られた表現形質と細胞内信号回路をもつ違いのみである と理由づけしていた.原則として,その共通性を摘出するため には,すべてとは言わないまでも,多くの癌細胞において破 綻しているシグナル経路を見つけ出すことである.しかしな がら,当時も,またその15年後の今でも,断片的にしかこ れらの細胞内のシグナル回路を理解できていないと述べてい る(1, 5).
感染と炎症によるラジカル生成と変異原性 の活性化
筆者(前田)らは1980年代後半にインフルエンザウイル スによる肺炎の原因をマウスのモデルで解析していた(6).わ れわれの興味はこの肺炎でマウスを死に至らしめている病原 因子(分子)は何かということである.つまり,分子生物学 的証拠の裏づけによって,病原分子(物質)を見極めるため の研究である.そのマウスを死に至らしめるウイルス性肺炎 において,ウイルスそのものが病死の原因であれば,肺のウ イルス量は致死的になるほど増加し,死期に至って最高値に なるはずであった.微生物学における最も基本的な「コッホ の原理」で言えば,もしある病気の原因が,ある特定のウイ ルスであれば,その同じウイルスがその感染局所から必ず発 見(同定)されるはずである.しかし,驚いたことに,われ われのインフルエンザウイルス感染症モデル(マウス)の肺 の局所を調べてみると,感染直後からウイルス量は漸増して くるが,死に至る極期にはウイルスは発見されないのであ る.それでは何がウイルスを殺した犯人(病原分子)かとい う謎が残った
*
5.われわれは多面的に分子レベルで検討した結果,肺胞中
に活性酸素(O・2−)の過剰産生(正常の200〜600倍も)が起 こっていることを発見した.後に一酸化窒素(NO)という 単純な分子も同時に過剰生成していることも見いだした(7, 8). さらにこのO・2−とNOが同時に存在するとラジカル・ラジカ ル反応でNO+O・2−→ONOO−(パーオキシナイトライト)が 生じ,特にONOO−が生体内のvital分子(DNA, RNA,タ ンパク質,脂質など)と瞬時に反応し,細胞の死滅,DNA またはRNAの切断,ニトロ化,酸化,当然のことながら変 異も引き起こすことがわかったのである(9, 10).
この研究は一部のオンコジーン研究者の注目を引くに 至っているが,変異→核酸の傷害→オンコジーン活性化→癌 抑制遺伝子の抑制→発癌につながることであり,上記の活性 酸素分子(ROS
*
6)はおおむねランダムにDNAあるいは RNA上の標的分子(残基)と反応する(図1).以上のウイルス感染によるROSの生成の発見は,慢性感 染(炎症)による発癌メカニズムに強い示唆を与えるもので ある.たとえば,ピロリ菌感染(→胃癌),肝炎ウイルス感 染(→肝癌)はよく知られている.慢性膵炎,慢性胆のう炎
(→膵癌,胆のう癌)も同様であろう.ピロリ菌も肝炎ウイ ルスもいわゆる癌遺伝子をもっていない.このような炎症性 のラジカル生成によるDNAの損傷が,抑制遺伝子や,癌原 遺伝子が生ずれば,炎症性・感染性発癌からのラジカル生成 を介した発癌メカニズムの説明として最も可能性があるもの だと考えている(図1).
複雑系としての癌の本質から単純系を求め て
ワインバーグらは癌細胞の複雑さの中にも,何か単純な 規則性が隠されているのではないかと考え,複雑なシグナル
図1■発癌の三位一体説
化学発癌,放射線発癌,感染症による発癌に おける共通分子としてのフリーラジカル
*6 Reactive oxygen speciesの略.活性酸素のこと.過酸化水素
(H2O2),スーパーオキシドアニオンラジカル(O・2−),ヒドロキシ ラジカル,一重項酸素など.
*5 同様の活性酸素の生成はその他のウイルスや細菌(センダイウ イルス,サルモネラ,ピロリ菌,緑膿菌などでも生ずることを 我々は証明している.
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伝達系ではなく,腫瘍組織の形態発現(phenotypes)の生 物学的研究に焦点を当てた研究を行い,その研究結果を取り 急ぎまとめたレビューを投稿した(11).その論文は癌研究に 携わる多くの研究者にはあまりにも単純すぎ,世間の反響な く,広く受け入れられないだろうと思っていたが,10年後 になってみると,それは間違いであったことに気づいた.つ まり,混乱を極めている癌研究に携わる多くの研究者にとっ ては大きな助け舟になったようである.この10年間に,何 千もの論文でそのレビューは引用されたという.
ワインバーグらはその10年後の2011年に,再び多くのヒ ト癌がどのように発生するかを明らかにするために,癌発生 の予徴となる現象を見直し,癌発生のメカニズムをさらに単 純化した論文を発表した(12).癌の特徴はいろいろあるが,
それまでの6種類から8種類の特徴を明らかにした.それで も,全体像は霧に覆われていた.
さらにまた,癌の浸潤や転移の生物学的プロセスはより,
一段と研究が進んでいる分野の一つであるが,その点でも少 数の普遍性を求めた研究がなされており,癌細胞は原発巣か ら転移巣に移動する際には,比較的少数の共通メカニズムを 利用していることがわかってきた.その法則性も少しずつわ かってきたようにみえるが(13),現実はそう簡単なものでは なかった.癌細胞が原発巣から多臓器に転移しても,その組 織環境は癌細胞にとって増殖しにくい環境であることが多 い.それは,癌患者にとっては喜ばしいことなのではある が,癌細胞が転移先の微小環境に適応し増殖することは非常 に困難なことであり,その適応メカニズムを簡単に説明する ことは難しいことである.サンディエゴのRobert Hoffman
(ロバート・ホフマン)教授は実験に用いるマウスの移植腫 瘍の,そのもとの癌の発生部位と人工的に移植する部位が同 一であることはほとんどなく,たとえば,肝臓癌や腎臓癌細 胞を背部皮下に移植したとすると,その場の血管の走行や酸 素分圧,そのほかの微小環境は大きく異なっており,そこで 増殖する癌の結果をヒトにそのまま応用(期待)するには無 理があるという.
2000年頃から,癌に関する膨大なデータが今やルーチン に解析できるようになった.一日のうちに数多くのDNAの 発現アレイ分析を,何千もの癌の,何千もの癌遺伝子の発現 を解析することができるようになり,個々の癌細胞のおびた だしい変異遺伝子が明らかになってきた.
またタンパク質を例にとると,2つの相互作用する成分の あるタンパク質が,ある生物学的プロセスにとって決定的で あるとしても,2,000ものタンパク質をインタラクトーム解 析することでどれだけの情報が得られるのかを想像してほし い.かくして私たちは無意識のうちに,莫大な情報を扱う
「オミックス」の時代に突入している.(オミックス;ゲノ ミックス,トランスクリプトミックス,プロテオミックス,
エピジェノミックス,キノミックス,メチローム,グリコー ム,マトリソームの総称).その一つひとつが呆然とするほ どの膨大な情報を含んでいる.このように,膨大なデータ
(いわゆるビッグデータ)を比較的容易に入手できるため,
その手法はやめられない魅力があり,強力な研究ツールと なったのである.
現在の先端的な癌生物学,癌遺伝子学,癌免疫学の専門 家の考えとして,癌の複雑なシステムを理解するには,すべ ての動きのある部分も遺伝子の多様性としてひとまとまりに して概観するような包括的な解析法を用いることで,癌細 胞・癌組織を含めた,複雑な生物システムを明らかにできる と考えている.確かにその手法はより深い洞察を与えてくれ るかもしれないが,今必要とされるのは,̶このドクトリン に従えば̶コンピューターによるアルゴリズム解析で,そこ からデータを単純化し,明日への示唆が得られ,たとえば癌 の発生メカニズムや治療薬の作用メカニズムなどのより複雑 な事象が,どのように生じているかが明らかになろうという ことである.
これは40年前にワインバーグら分子生物学者のもってい た過度の自信と同様のものが,物理学者,数学者,生物情報 学者たちからも,垣間見える.これに対してワインバーグは 今になって「癌とは何と複雑なものなのか!」と実感してい るという.
稀に,非常に興味深い遺伝子やタンパク質が見つかった としても,すべての癌細胞の挙動を理解するには程遠い状況 にある.バイオインフォーマティクスの有効例として,ある 研究者は,発現アレイ解析と病気の診断と予後の相関性を示 した.しかし,異なる2人の乳癌患者の発現アレイ解析をす ることで,それぞれの患者の予後の予測には貢献したが,2 人の患者の間で,共通の遺伝子やタンパク質はほとんど見つ からなかった.このことも,得られた膨大な情報と癌の生物 学の理解には大きな隔たりがあることを物語っている.
このような考え方は広く世界に浸透し,この膨大なビッ グデータを用いれば個々の患者に最適な治療法が確立できる と考えられ,事実,筆者の友人(医学部教授)は,この方向 の癌治療の楽観説を講義している.最近のNHKの特集番組 のプレシジョンメディシン(変異のある個々のDNA配列に 対応した制癌剤を開発するという手法)も,同一患者内にお びただしい変異株があることを無視している.一方,ヴォー 表1■各種固型腫瘍・血液癌の同一患者内にみられる変異細胞 の種類
癌のタイプ 平均的腫瘍の
変異数/癌患者1人 当たり Respiratory/Lung cancer 呼吸器/肺癌 200‒300 Skin/Melanoma 皮膚/メラノーマ(黒
色腫) 100‒200
Esophageal/Colon cancer 食道/大腸癌 50‒100 Pancreatic, Ovarian 膵/卵巣癌 30‒60
Breast乳癌 20‒70
Hematopoietic cancer(造血組織系血液 癌(白血病))
(CML/AML/ALL/CLL)など
1‒10
Rhabdoid/myo/Sarcoma 軟部腫瘍/肉腫 1‒3
(文献4より改変)
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ゲルスタインの有名な最近のレビューによれば,同じ肺癌患 者の転移巣の癌も300種くらいのDNA変異があるという(2, 4)
(表1).そうなると,その各々の変異株に対する分子標的薬 剤や抗体医薬を製造することは実用的には不可能であろう.
分子標的薬もその患者も標的分子が変わらなければよい 訳であるが,10年も30年もかかって成立した癌では変異株
(標的の脱落したもの)が多様化するのは当然である.これ に対して,炎症とか宿主反応(免疫)のない同系統のマウス の癌を用いた単一純粋なクローンの癌細胞系モデルにおいて は,変異株はほとんど生じない.その系でいくら効果があっ ても100倍も300倍も遺伝子に多様性があれば100に一つで も効けばよいほうで,まず効かないといえる.現実の臨床か らの各種報告は,それを裏づけている.オプジーボ®でさえ も8割の患者には無効であると言われている.しかし,現時 点で有効性をみている患者さんにおいては,自己免疫病とい う副作用がないことを祈り,そのうち完全治癒になることを 期待したい.
分子標的薬ならびに抗体医薬等の理論的矛 盾:癌細胞の多様化の進行に対応する 困難さ
感染炎症において生成するROSによる核酸への傷害は容 易に細胞の変異を引き起こすことは前述したが,それに対 し,古くから知られている化学発癌剤による発癌メカニズム も再検討を要する.古くはDNAとベンズピレンなどのイン ターカレーションによって引き起こされるDNA複製阻害は 単純にDNA合成阻害や変異をもたらすであろうことは理解 できるが,クロロホルムやベンゼンあるいはヘテロサイク リックアミンは必ずしもそれで説明がつかない.変異原性試 験(変異原性物質の検出)には,いわゆるAmesテストと言 われるアッセイ系においては肝臓のホモゲネートのミクロ ゾームS9フラクションをアッセイ系に加えている.この系 は実はP450などチトクロム,チトクロム 還元酵素などを 含んでおり,そこにはNO合成酵素(アルギニン→NO)と
P450酸化酵素によるスーパーオキサイド(O2・−)の生成が 随伴する.生じた,ONOO−, ROS/RNS
*
7によってグアニン のニトロ化が最も速く進行する.またニトログアニンはNO 合成酵素やチトクロム 還元酵素によってスーパーオキサ イドを生成する.この反応は図2に示すような増殖反応で,酸素の供給が十分あれば1分子の基質から何分子ものスー パーオキサイドを生成する増殖性の反応である(レドックス サイクリング).ヘテロサイクリックアミンやニトログアニ ン,その他の化合物がこの反応を同様に誘発するのである.
したがって感染・炎症反応も化学発癌もROSという共通変 異原物質(その多くは発癌物質)と共通項をもっていること を,われわれは明らかにしている(14)(図1, 2).
分子標的薬の代表的な例として,VEGF(血管内皮細胞増 殖因子)を標的とする薬剤が数多く知られており,乳癌や肺 癌,そのほかの治療戦略に用いられている(15, 16).この最も 期待されたVEGF/R(レセプター)を標的とする分子標的 薬も後述するように,現実の臨床応用に試みた結果は無残な 結果といえる(p. 507左段)。その理由は内因的に癌組織
(細胞)に生じている遺伝子変異という避け難い要因がある からである(2〜4).
後述のように次の問題として,多段階発癌には厄介な問 題がある.癌は変遷する標的であり,増殖(progression)
のある段階での相互作用は次の段階になると違ってくるもの である.また,それに加えて個々の癌細胞のおかれた微小環 境の違いがある.そのため,個々の癌発生において多面的に 解析を行うことが,発癌の理解に重要である.ある一つの癌 の一つの増殖段階だけをみても,そこには全く新しい次元の 複雑さが隠れている(たとえばワインバーグの癌細胞の増殖 シグナリングのマップを見ればわかる[ワインバーグ著書 Cancer Geneの付録の図].それは,癌組織における詳細で より深いDNA解析からわかったことであるが,同じ癌組織 の癌細胞中にも異なる段階の増殖形態から,全く異なる挙動 を示すものがあることである.そのような「システムバイオ 図2■化学発癌物質を介した,活性酸素の 生成と発癌機構.文献14より改変.
*7 Reactive nitrogen speciesの略.活性窒素とも言う.それらには 一酸化窒素(NO),パーオキシナイトライト(ONO−),二酸化窒 素ラジカル(・NO2)などを含む.
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ロジー」という考え方でデータ処理を行おうとする試みが続 けられているが,癌の生物学に関して,有用な結果は僅かし か得られていない.観察された情報と生物学的な考察が,乖 離しているとまでは言わないまでも,ずれている状況にある からである.
ワインバーグは次のように述べている.「1980〜2000年頃 も2010〜2015年はなおさら,癌の研究上の膨大なデータを 入手しているが,癌の発生のメカニズムについて,ほんの僅 かしかわかっていない.分子生物学や腫瘍遺伝学をもってす れば,細胞の癌化メカニズムをその構成要素に分解・単純化 して還元論的に理解できると考えていたが,その膨大なデー タを得た現在も,再び同様の葛藤の中にある.繰り返してい えばわれわれは収集した癌に関するデータの多くは,真の意 味で消化し,解釈しきっているとは言いきれない.われわれ は再び原点に回帰しているのかもしれない.どうやってこの 問題を終わらせるのか? 私には知る由もない.次世代の研 究者が決めることである.このような波乱万丈の経験はとも かく,私は私のできることを続けていくのみだ」.
たとえば (フォーチュン)誌の編集長を永年にわ たり歴任し,ご自身も癌患者としての苦難を克服し,癌の 問題にたいへん詳しいClifton Leaf(クリフトン・リーフ)
氏 は 自 分 の 著 書 “The Truth in Small Doses” (Simon &
Schuster社,NY, 2013)の13章,p. 283(下から7L-2L)中 で次のように述べている(5).すなわち, 癌の分子生物学的研 究でP53という癌抑制遺伝子の研究は,一つの大きなはやり になっていた.「その研究に米国では,65億ドルをかけ,6 万5千報の研究論文が報告されている.論文当たり邦貨で約 1,200万円もかけている.しかしながら,このようなはやり の一点集中的研究投資から,癌治療薬の新しい扉も見つかっ ていないし,何ら新しい癌治療薬が生まれたとは誰も思って いないし,さらにまたP53関係の癌の診断薬もない」.一方,
イマニチブ(グリベリック®)やシスプラチン®の発見さえ も思いつき,セレンディピティと「勘」で成功したものであ ることが知られている(後述).
分子標的薬のコンセプト以来20〜30年経過し,それに基 づく数多くの薬剤が臨床で試みられている.その最も有名な ものの一つが前述のVEGF(血管内皮細胞増殖因子)の抗 体,ベバシツマブ(アバスチン®,ロシュ社)やそのレセプ ターの抗体薬である.そのうちでも患者数の多い乳癌,大腸 癌,肺癌,腎癌に対する評価がその一つであり,それ以外に もこの分子標的薬が無効の例はいくつもあるが,最近の例と して前述の前立腺癌の第三段目の治療戦略に耐性前立腺癌の 骨転移癌に対する効果でも無効の判定をされている.前述の ように 誌という権威ある雑誌に, 抗VEGF 療法の乳癌治療法:Game Over?勝負はあった つまり無 効判定となったというショッキングなタイトルで記してい
る(17, 18).同様のヒト化VEGF抗体ベバシツマブも効果は初
期の報告ほどではないという.このように分子標的薬に対す る類似の報告例は近年おびただしい.
分子標的薬の開発コンセプトの定義は,まずはじめに標
的分子構造が明らかであって,それに基づいて拮抗分子An- tidote(拮抗する物質)を設計することである.その最初の 例がグリベリック®である.すなわち,特定のチロシンキ ナーゼの活性部位の構造にフィットするような化合物を設計 し,それをノバルティス社で合成に成功したことに始まると いわれている.この話はイマニチブが慢性骨髄性白血病に著 効を示したあとのつじつま合わせの話で,リーフ氏の著書に 詳しい(5).また,それに至るセレンディピティや多くの先覚 者の知識が本当は無視され語られていないからである.この 論旨は,次世代21世紀の創薬はすべて標的分子の構造解析 をしたうえでの分子標的薬の開発を進めるべきだとの話に世 界の多くの創薬従事者は洗脳され,わが国においても,その ような手法で開発した分子標的薬でなければ分子標的薬の仲 間に入れてもらえない,と言われるような雰囲気になってい た.しかしながら,リーフ氏のように現実を冷徹に見通す人 は,上記の分子標的薬のコンセプトのために世界の新薬開発 は10〜20年は遅れたという.つまり,それが間違いだと 人々が気づくのに10年はかかるということであった.ノー ベル賞の大村 智先生もこの考えに同感で,大村先生の発見 したスタウロスポリンもグリベック®の展開に貢献している ことは無視されているという.リーフ氏は上記のノバルティ ス社の分子標的薬の設計に基づく薬が本当の分子標的薬で,
ペニシリンやアスピリンの標的分子は今ではよく知られてい るが,これらは分子標的薬の定義に入らないのである.
もともと分子標的薬の臨床におけるセールスポイントは,
癌,リューマチ/炎症などに特異的な分子とのみ反応しその 分子を不活性化するので,正常で健常な臓器には作用しない ということである.これは特に制癌剤のような毒性の強い薬 剤では重要なポイントである.しかし,人間の浅知恵に基づ く標的分子は予想された分子標的あるいは,考えている作用 機序以外に作用点がある可能性が充分あるということであ る.世界でも最大手の製薬企業の米国のメルク社(MSDと もいう)およびファイザー社とも抗炎症剤のチャンピオンに なると開発した分子標的薬が,意外や心筋梗塞などの副作用 を引き起こすなど,多くの重篤な被害者が出たことにより,
承認取り消しを経験している.さらにまた分子標的薬も結構 シビアな副作用(肺線維症など)があり,それが治療法のな い進行性の副作用である場合は,患者も臨床家も苦難に直面 するという現実も結構論じられている.
*8 Drug delivery systemの略.必要な薬物を必要な時間,必要と する場所に送達する技術.
*9 Enhanced permeability and retention effectのこと.特に腫瘍 の血管病変に基づく,高分子(物質)の病変部血管からの漏出性 が高いことで,これを高分子薬やナノメディシンに応用できる と,腫瘍選択的デリバリーが可能となる.いったんそこに集積す ると,長期間滞留する.
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固型癌のDDS
*
8と普遍的ターゲットを求め て:癌の特性とEPR効果*
9の利用以上の内容はいずれも癌という複雑系を有する生物に普 遍的な分子生物学レベルでの共通の攻撃目標はないというこ とになる.DDSの研究者も同様に,過去20〜30年にわたっ て,抗癌剤を癌に選択的にデリバーしようとその方策を探し てきた訳であり,これは大切な命題である.この点に関し,
固型癌組織と正常組織にはいくつかの大きな普遍的かつ特徴 的な違いがあり,特に血管の構造が前者は粗雑で,低分子は もちろん高分子物質までも容易に漏出し,しかもリンパ系
(高分子や脂肪球を除去するための下水路系に相当)の機能 不全のためいったん組織中に漏出した高分子物質の場合は,
それがそこに長期間にわたり未回収のまま残留することをわ れわれは1986年に発見し,これをEPR効果(enhanced per- meabilited retention effect)と命名した[腫瘍特異的現象
(i)](18).つまり,高分子,ナノメディシン,タンパク製剤,
リポゾームやミセル製剤などの高分子薬剤は,静脈注射後数 時間〜50時間以上かけて腫瘍部に高濃度に集積し,そこに 長時間にわたり高濃度に残留する.一方,正常組織では EPR効果は見られず,したがって,高分子薬物の蓄積がな いので毒性も発現しない.万一そこにデリバーされても,リ ンパ系から回収除去されるわけである.このわれわれの EPR効果の発見に対して2016年のトムソン・ロイター社の Web-of-Science化学部門の最多被引用のベスト3となり,栄 誉賞にあずかっている.(それがノーベル賞予測に用いられ,
今年はそれに対してわが国から,われわれ共著者2名であっ た.)
さらに, の組織内のpHは,癌と正常部組織で違い があり,すなわち, 癌組織のpH 6.0〜6.5に対し,正常組織は pH 7.4で,[H+]濃度で約10倍も違う.ヒドラゾン結合を 介した結合薬物などではこの酸性pHで容易に加水分解によ り切断され低分子のもとの薬物が放出される.その結果,分 子量の差で数千倍の差となることで拡散係数(範囲)が100 倍も大きくなり,組織の浸透拡散移動が容易となる.さらに また,局所のpHの差に加えて,第2の違いは,癌組織と正 常組織との違いとして,腫瘍部では多くの加水分解酵素プロ テアーゼ(コラゲナーゼ,カテプシンB,エステラーゼ)な どが生成されており,ポリマーと薬物をつなぐリンカーがこ れらの基質に適合する構造を含有すれば,低分子の薬物はよ り早く切断放出される.つまり,正常部と異なる薬物の挙動 に基づき抗腫瘍活性を示すことになる[腫瘍特異的現象
(ii)].
腫瘍特異的現象の(iii)としてわれわれは多くの腫瘍細 胞に高発現している細胞膜上のトランスポーターを重要視し ている.たとえばグルコーストランスポーターは癌の診断の ペ ッ ト(positron emission tomography) に お い て,グ ル コースの誘導体のフロロデオキシグルコース(FDG)はよ く知られている.これは低分子であり,グルコールトランス
ポーターにより腫瘍細胞に急速に取り込まれるが,FDGは 数時間後には減弱消失する.同様のことがアミノ酸や核酸の 細胞内取り込みの亢進にも見られる.ピラルビシンはドキソ ルビシンにピラニル基を付加しただけで癌細胞への取り込み が50〜100倍も上昇する.このような点を利用する工夫は cellレベルでの癌の特異性を利用したわれわれのポリマー結 合ピラルビシン(P-THP)には見られる(19).
この延長線上の話題として,EPR効果により,ナノ粒子 化した薬物,たとえばナノ化蛍光色素,ナノ化光増感剤,ある いはナノ化硼素剤などは,いずれも固型腫瘍選択的に集積し,
固型癌の高感度蛍光検出(診断),光照射療法(PDT
*
10), 熱中性子捕獲療法(BNCT*
11)などの癌の診断と治療に画 期的な貢献が期待できる.この項に取り上げた問題はワイン バーグの述べたいわゆる分子生物学的アプローチではない が,われわれはヴォーゲルスタインの述べる癌のおびただし い変異株,不均一性に対しても のレベルでEPR効果 を中心に癌組織普遍的に対処できると考えている(20, 21).おわりに
今や人類共通の敵である癌に対する対策は,あらゆる観 点を見据えて進めるべきで,特定のパラダイムにとらわれな い,想定外の事象内にも解決策の可能性があることを真摯に 検討すべきであろう.一つの油田を発見しても,同じ油田を 10倍,100倍深く掘ってもその油の産出量は限られている.
別のシステムにも石油に劣らない可能性が潜んでいることを 思うべきである.かつてゼロ戦が空中戦において勝つため に,パイロットは,自分の戦闘機の優秀性に加え,敵機を上 下左右360度方向に目を見張らなければ勝ち目がないとの言 葉を残している(22).研究においても,特に難敵である癌の 制圧においては,的を得ている言葉だと言える(22).この癌 の問題の一般向けの解説書として文献23と24が勧められる.
文献
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*10 Photodynamic therapyの略.光線力学的療法.光増感剤の存 在下に特定の光を照射すると,一重項酸素を生じ,細胞傷害作用 を示す.*11 Boron neutron capture therapy. ホウ素熱中性子補足療法.
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22) 堀越二郎,奥宮正武: 零戦 ,朝日ソノラマ,1975.
23) 小林 博: 人間腫瘍学 ,(公財)札幌癌セミナー,2016, p. 115.
24) 奥野修司:「副作用のない抗癌剤」の誕生 ,文藝春秋 社,2016.
プロフィール
前 田 浩(Hiroshi MAEDA)
<略歴>1962年東北大農卒業/1964年カ リフォルニア大学(Davis校)大学院修了
(フルブライト奨学生)/1968年東北大大 学院博士課程修了(指導:医学部石田名 香雄教授)東北大医学部細菌学講座助手,
ハーバード大学ダナ・ファーバー癌研究 所主任研究員/1971年熊本大医学部微生 物学講座助教授/1981年同教授/2005年 崇 城 大 学 薬 学 部 教 授,2011年 同 特 任 教 授/2016年同栄誉教授,現在,(財)バイ オダイナミックス研究所理事長・所長
<研究テーマと抱負>高分子型抗癌剤,
癌血管の透過性にかかわる現象のEPR効 果,炎症による生体内活性酸素と抗酸化 食品による癌予防,癌の蛍光ナノプロー ブによる検出と光照射療法<受賞歴>日 本細菌学会浅川賞,高松宮妃癌研究基金 学術賞,ドイツ生化学会学会および国際 NO学会の特別号発刊により顕彰,王立英 薬学会Life Time Achievement Award受 賞,日本DDS学会 永井賞,日本癌学会吉 田富三賞,2016年トムソン・ロイター引 用栄誉賞(化学部門,世界で5名),米国 ミシガン州Wayne State Universityより 2017 Roland T. Lakey 受賞,西日本文化 賞,米国サンアントニオ市名誉市長,米 国 オ ク ラ ホ マ 州 名 誉 州 民 な ど 多 数<趣 味>ワイン
Copyright © 2017 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.55.501