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堆 泉 大 第三十二巻 第三・四・五号

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(1)

第三十二巻 第三・四・五号   ひ と つ の 商 業 理 論  

は  し  が  き  

︵l︶  

商染の本質を解明するにあたって︑わたくしは︑国民経済の全体関連から職璧謁に接近する方法をすすめてきた︒たま  

たまアドルフ・ラムぺの退稿還菜理論﹄ ︵AdO−flampe﹀UmrisseeinerTbeOried2SHande−s﹀auSdemNacEass  

herausgegeben召nざRudO−fROblingL冨︶に展開されている低能理論︵句unk−iOnSl訂Orle︶にふれて︑私見を改め  

てかえりみる興味に迫られ︑ここに年来の所説を整理しながらラムぺの見解と対比させて︑主張の要旨を高明白にしてみ  

たいと思うのである︒もしラムぺの見解と私見とが︑相芝相通ずるものありとすれば︑わたくしほ商業本質論蔽おいて山  

人の知己を見いだした思いを禁じえない︒いわんやラムぺ教授は︑かつてフライブルク大学で︑その知遇をえたひとの一人  

であったことを思うとき︑その思いほ一入である︒   

アドルフ・ラムぺ教授︵血八九七1⊥九四八︶は︑わたくしが在外研究員としてフライブルク大学を訪れたとき︑そこで  

交渉をもった旧知のひとである︒︑\\;ヘソ大学を去ってフライブルクに移ることになった折︑長老教授のツワィーデネッ  

ク●ジューデソホルストは︑特覧フムぺ教授をわたくしのために推薦してくれた︒    ラムぺ教授ほオイケン︑ディーツェ︑ベームなどの諸教授とその学問的傾向を同じくし︑戦機の西独自由化について︑つ  

とにその学問的・思想的な基調を用意し空団のひとびとに属する︒ほじめミ;ヘン大学でアドルフ・ウエーバーに師事  

して︑その学問的雄琴を深くうけ︑一九二六年以降はフライブルクの大学に在って︑いわゆるフライブルク学派の流れに沿    大   泉   ︵四五二︶ 二一二  

堆  

(2)

一商業の本質把握  

商業といわれる社会経済の現象ほ︑人間共同生活のうちに︑社会的な分業関係が発生するのと︑その出現の歴史  

をひと七くするといわなければなる患い︒自給自足の集団生活は別として︑いやしくも分業交換の行われた社会で  

ひとつの商業理論   い︑しかも厳密な独自の思索を展開しつづけた︒教授ほ︑市場の機構によって自由に成立する価格が︑経済の全体関連を  

︵2︶  

指導しうるような︑そのような与件の形成に国家の政策的目標の存することを強調する︒   

ラムぺ教授の商業理論ほ︑商業の機能を羅列する弘通の方法を排して︑生産と需要の相互的調盤という商業の原機能  

︵UrfunktiOndes昌ande−s︶ から︑商業に理論的基調を見いだそうとする︒つまり社会経済の関連において︑人間生活の  

︵3︶A・Lampe﹀亡mri雇einerTheOriedesHan邑sふ﹂N︑Di︒Bedeきn叫derミ⊂mrisse︒inerThe︒rie d︒S   欲求充足を保証する過程のうちに︑画集の本質機能をもとめるのである︒その社会ほ︑財貨についての生産と需要が︑別々   の個別経済によって遂行される社会である︒したがって需要の充足は︑供給された財貨が︑それにたいして反対給付をなし   うる個別経済によって欲求されたときに実現することになる︒そしてそこに商其の機能がその存在理由をもつとみられる︒  

︵3︶  

ラムぺ教授のこのような所説を︑一層詳細に分析しながら︑私見との対論をこころみたい︒   

︵1︶わたくしの南米本質観についてほ  

﹃商業原理講話﹄ 昭和六年︑︵第四講﹁商業の本質﹂︶  

r商柴本質論﹂ 昭和十七年︑︵第四章﹁商業の本質﹂︶  

﹃経済生酒の本質﹄ 昭和二六年︑第三部第六章︒   

︵2︶Han払w守terb宍h derSONia−wissenschafteローLampeもr・の項︒  

Hande−の丈f賢die Hande−玖OrSCFun甲 くOrWOrt召n JOaCFim Tiburtius・︶ 

︵四五三︶二一三   

(3)

第三十二巻 第三・四・五号   ︵四五四︶二山四  

は︑そこに商業といわれる社会的なはたらき︵機能︶の存在しなければならなかったことは︑論理的にも推論され  

ることであり︑また史実為それを証明する︒   

史実をさかのぼってゆくとき︑あるいは古代より現代へと歴史の推移をたどり下るとき︑多くの経済的事実と同  

じょぅに︑商尭も幾多の時代的な変遷を経てきたことを教えられる︒その規模︑経営方法︑形式︑その他頑々の側  

面で時代的な変化をうけないことほ稀である︒二言でいえば︑商巣の魂象形態ほ不断に変化してきたといわねぼな  

らない︒商業活動の主体としての経営体をとってみても︑つねに変遷ほたえない︒ある時代に隆盛を極めた形態︒  

様式が︑他の時代にほそれと異なる形態︒様式に代られることもしばしぼである︒古代にみられる市場形態や中世  

ヨーロッパの遠隔地商巣など︑歴史ほそのような豊富の例証を提供してくれる︒   

ひとつの問題は︑このような商業の歴史性のうちに求められる︒それは︑商業の現象形態に即して︑その時代  

的︑地域的︑体制的な特質をとらえだそうとする接近である︒ひとつの時代︑たとえば現代に限定しても︑そこに  

ほすでに体制的な制約が存在する︒資本主義経済体制にほ︑それに︑固有な体制的特質がある︒総じてそこにほ︑  

それぞれに計画意士芸もつ大小幾多の個別経済たる商企業が並存する︒それらは同様に計画意志をもっている詫他  

の個別経済と︑佑格を媒介として種々なる形態の市場体系を形成する︒そしてこれらの諸個別経済が︑資本主義経  

済体制の下での企業として存立するかぎり︑その持続と発展のための要因ほ利潤狂得である︒資本主義経済におけ  

る再生産の過程が︑利潤の反復実現を不可欠の要件とする︒企業としての商業経営体もまたその例外ではない︒け  

れども︑経済体制を選にする社会主義のもとでは︑商業の存立形態も︑痙常体としての推進力もいちじるしく趣き  

を異にしてくる︒そこでは企業の第一次的な目標としての私的利潤追求ほ︑︑もほや存在理由を失なう︒個別経済の  

相互関連を通じて形成される市場体系のうちに成立する価格によって︑経済の全体系が指導される過程ほ消滅す   

(4)

る︒これに反して︑そこでは中央管理的な全体指導が︑経済の秩序を規律することになる︒そこでわれわれほ知ら  

ねぼならない︒ひとしく﹁商業﹂という概念用語をもって︑社会経済の一側面を表現するとしても︑現実にそれに  

よって据えられているものは︑いちじるしく異なる経済の事象であり現象であるということである︒現象形態に局  

限してみるかぎり︑同一の概念によって︑きわめて異なる具体的なものが表現されることになる︒   

重要な考察のひとつは︑事物の歴史的推移と変化の側面を把握することが不可欠のことであるのと同様の重要さ  

をもって︑事物の普遍性と仙畏性を見のがしてはならないということである︒一切のものがひとり生々流転のうち  

にのみ︑その現実態を発現することほ事実である︒同時にレかし︑そのような変化を通じて︑なお統一的なもの︑  

共通的なもの如把握せられるという反面の事実も無視することを許されない︒学問的な考察と思索は︑けっして一  

面的であることを許さず︑全面的な総合のうちにだけ真実なるものを見だすのである︒生活事実に基礎をおく社会  

現象については︑このことはことさらの注意をもって取上げられねばならないことである︒マーシァルが﹃産業貿  

易論﹄のタイトル・ページにかかげた標語︒The One intFe many﹀∵の一句は︑われわれの場合にも︑︑慎重にその  

含意をさぐらなければならないものと思う︒   

ひとりの人間の発育と成長を見守るとき︑そこには不断の変化が刻々に実現されてゆく︒外形上の肉体的変化は  

いうまでもなく︑心的な成長・発達もたえずその人を日々に斬らたな存在へと形成してゆくとも見られるの 

る︒それにもかかわらずわれわれは︑このひとりの人間について︑山個の生活者として︑その生誕から終鴬にいた  

るまでを︑同・仙人格の成長としてそこに同一性を認め︑ることかできる︒そこに同ご性が認められればこそ︑成長や  

発達ということもほじめていいうるわけである︒このような統.一的基礎がなければ︑変化はたんに多数のものの秩  

序なき並存にとどまり︑ひとりの人の成長としてこれを理解することは︑まったく不可能である︒  

︵四五五︶二一五    ひとつの商業理論  

(5)

︵四五六︶三六    肇三十二巻 第手甲五号  

これと同趣のことが︑商業についてもいいえよう︒すなわち時代的・地域的に変化と推移を示す商業の現象形態  

を貫いて︑そこに共通なるものを把握しょうとする志向である︒商業という同一の概念をもって︑異なる時代や異  

なる経済体制の社会現象を理解しょうとするゆえんほ′︑そこに差別を通じての共通者な予定しているからにはかな  

らない︒事実︑古代や中世の商業と現代の商業とほいちじるしく相違を示しており︑資本主義と社会主義とでほま  

たその商業に大いなる差別がある︒それにもかかわらず︑これをひとしく商業という概念によって表現しょうとす  

るのはなぜであるか︒そこに共通者が予定されるのでなければ︑このような概念の用法ほ︑たんに無益であるほか  

りでなく︑甚だしく有害である︒なぜならそのために惹き起されるものほ概念の混乱であり︑その結果︑現象の現  

実形態を理解することがさまたげられるからである︒差別のうちに共通なるものが︑本質として認められるという  

︵1︶ 事実に立ってのみ︑同山の概念を適用する意味があるバそれほあたかも経済生活ないし一般に経済という社会現象  

の山面について︑社会体制の異なるにもかかわらず︑経済としての共通者を予定するのと同趣である︒今日われわ  

れほ︑社会生活の基調を全然異にする国々のあいだで︑経済の運行がいかに相達するかを如実に知っている︒しか  

も両者を通じて︑ひとしく経済としてこれが理解されるゆえんのものほ︑そこに共通なる現実態が存在するからに  

︵2︶  

はかならない︒このような共通者の究明が︑経済の本質把握として注目されるものといわれよう︒   

かかる意味での本質追求が︑そもそもいかなる学問的意味をもつかについて︑ひとつの考察卑のべておきたい︒  

いま商業論に即して論ずれぼ︑資本主義での商業が企業であるかぎり︑利潤追求を要因とするものであることほも  

とよりである︒ことに商業ほ︑殊更利潤追求と内面的不可分の関係にあるもののように考えられてきた︒したがっ  

て︑もし体制そのものが変化し︑資本主義がこれとは基調を異にする体制によって代わられた後にも︑なおそこに  

商業とよはれる社会的現象が考えられるとすれば︑そこで︑商業の本質にほ利潤追求以外の内在的要素が存在して   

(6)

いたということに想到しなければならない理であ.る︒そして︑このような要素こそ異なる体制を通じての︑共通的  

なものといいえよう︒   

この共通者は資本主義体制においても︑その体制に固有なる機構を通じて作用していたものであり︑新らしい体  

制の下では︑新らたな機構を通じて作用するものなのでぁる︒そうだとすれば︑そのような共通者を現代の資本主  

義社会において︑意識的に繭明することから︑商業の本質について看却されがちか二面を︑公平に理解することが  

可能になると思う︒それによってまた︑社会経済全体の政策の上からも︑一定のあたえられた体制の下で︑商業の  

現象形態を通じて︑そこにある程度の計画的な変化をもたらすことが可能となるとも思われるのである︒   

︵l︶拙著﹃経済生活の本質﹄二五二貢以下︒   

︵2︶大熊信行還済本質論﹄ ぺ東洋経済新報杜版︶讐三貴﹁マルクスのロビンソソ物語﹂︒  

こ 弘通の 理解   

われわれが事象や現象を観察の対象として︑そのなかに横たわるそのものの本質を見きわめようとするとき︑見  

られる対象ほつねに同山のものであり︑それだけしかありえないものである︒論議の分れるところほ︑その同山な  

るものを︑どのような視角において把えるか︑どこに主として注目するかに在る︒だからまた︑ひとしく同山対象  

を見ながらも︑みちびきだされる結論がノいちじるしく臭なるものともなる︒宇宙の天体現象として︑地球上におけ  

る一定の時間的経過ほ︑そこに暗黒の現象をもたらしヾ そしてまた更に一定の時間的経過は自明の現象をもたら  

す︒この同一自然現象をみながら︑地球の自転を主張する学説もあり︑また太陽の運動を主張する学説もあった︒  

だが︑見られる対象はともに同一なのである︒まことにクリスチャン・モルグソジュテルンの言葉は︑このことに   

︵四五七︶二一七    ひとつの商業政論  

(7)

第三十二巻 第三・四・五号  

∴  

︵四五八︶ニー八  

開達して︑きわめて意味が洗い︒﹁われわれほ︑あるものをほじめて本当に見るまでに︑しばしば百回も千回もそ  

︵1︶  

れを見ているのである︒﹂   

商業という社会経済の事象ないし現象についても︑これと同趣のことがいわれる︒われわれは今日︑農業や工業  

とならぺて商業という言葉を︑日常用語として使用している︒そして︑そこには日常の理解として︑およそ通念的  

なものが支配しているに相違ない︒商業といえば︑ごく身近かな感じとしては︑いわゆる商売であり︑そして﹁売  

り買い﹂である︒具体的な形態として感覚に訴えてくるものほ︑無数に立ち並ぶ大小の商店であり商社である︒け  

れども︑このような形相だけがそのまま商業の実体を示すものとほ必ずしもいわれない︒むんろしぼしば表面的・  

形式的な形態から︑その本質的なるものが見失われる危険すら存在する︒﹁商売﹂という概念がそのなかに含意す  

るものは︑直ちに﹁収益﹂という観念である︒そこから商業即営利・という通念も生みだされてくる︒これは今日む   

しろ支配的な日常観念といっても過言でほあるまい︒たとえば今日しばしば用いられる﹁商業的﹂という形容語  

ほ︑いいかえれば﹁営利的﹂ということと同義であるとして仙般に受けとられている︒一例として︑今日の企業と  

して営まれる新聞を﹁商業新聞﹂というとき︑それほいかなる意味を伝えるものであろうか︒端的にいえぼ︑それ  

ほ﹁営利事業としての新聞﹂ということである︒このことは︑商業主義 ︵COmme邑a−ism︶ という用語が︑普通  

に貨殖主義︵CFrematistism︶と同義に解せられ︑′それはまたそのまま営利主義の意味につらなるものであることを  

思えば十分に首肯されるところであろう︒商業といえば潰ちに営利であり︑そしてそのことが商業といわれるもの  

の全部であるかのような思想ほ︑改めて省察されねばならない問題なのである︒   

さて商業の学問的な分析において︑一般に広く行われた方法のひとつほ︑商業をいとなむ企業としての経営体そ  

のものを取上げ︑その経営体が商業であると規定するものである︒あるひとつの活動体つまり組織体を取上げて︑   

(8)

それがある特殊の作用なり任務なりを遂行するとき︑そのようなほたらきの主体をただちに商業として理解するも  

のである︒今日の市場経済においてほ︑経済のあらゆる現象はそれぞれの活動主体である個別経済︑すなわち個々  

の経営体による活動の綜合から形成されることほその通りである︒つまり主体的な個別活動の相互的・全体的関連  

のあいだから︑社会経済の現象が形成せられる︒   

ここで十分な省察が要求せられねばならないことほ︑経営体そのものと︑その経営体によって遂行せられるはた  

らき︵機能︶ そのものとの明確な識別である︒二者は劃見不可分のもののように見られるとしても︑しかしこの識  

別ほ重要である︒なぜなれば︑このよシな識別の基礎にたって︑わたくしほ商業のほたらきを抽出し︑そしてこれ  

をもって︑経営体がいかなる経済体制の下にあるかにほかかわらず︑共通的なものとして認識しようとする意図を  

もつからである︒ある特定の経済体制においてほ︑両者ははとんど一体として考えられるかも知れない︒しかし︑  

異なる体制の下でほ︑従来の主体のもつ形態とその機能とが分離し︑主体の形態ほその存在を失いながら︑機能ほ  

依然としてその存在理由を持続する場合が考えられる︒そうでなければ︑異なる体制にありながら︑依然として従  

来の商業という同義念をもって︑その場合のある現象を表現することは璧蒜なてとになるからである︒だか  

ら︑ある体制の下で︑経営体としての商業形態がその存立を許されないにもかかわらず︑しかもなお︑・そこに商業  

とよばれるものが存在するとすれば︑そのことほ︑かつて商業として放能したあるものが︑依然としてそ∽ほたら  

きを存続していることを意味するものである︒つまり︑.経営体そのものと︑その機能との分離の関係である︒   

この一般的な考察ほ︑これをそのま1資本主義経済体制の商業と︑社会主義経済体制の商業に移すことができよ  

う︒資本主義の体制の下で︑企業として存立する経営体の基本原則が︑社会主義の体制では必然に否定されるもの  

であるかぎり︑もとより社会主義社会には資本制的商企業ほありえない︒それにもかかわらず社会主義社会にも商   

︵四五九︶ニー九    ひとつの商業理論  

(9)

︵四六〇︶二二〇   第三十こ巻 第三・四・五号  

業の現実態が存在し︑いわゆる社会主義商業としでの現象が認識せられるとすれば︑このことほ︑これまで資本主  

義社会において商業として認識せられてきたものの︑なんらかの側面が社会主義社会においても機能力をもってい  

ることを示唆するものと見られねばならないのである︒内面的になんらの共通性も脈絡も存在しない二つの異なる  

ものを︑同心概念をむって呼称することほ本来許されることでほない︒このような考察が︑われわれの考察を商業  

のほたらき︵機能−職能︶ へと導いてゆくことになる︒   

弘通の南米の理解において︑他のひとつの接近方法ほ︑わたくしの表現をもってすれば︑形式的ないし遊離的方  

法である︒その意味ほ︑商業としての本質的機能を具現するにあたっての実践形式に着目し︑その技術的形式だけ  

を社会経済の全体関連から遊離して取上げ︑それをもって商業の本質として理解しようと欲するものである︒さき  

にも述べたように︑経済の全体関連は個々の経営体が実践する経済活動の相互的関連のあいだから形成されるので  

あり︑これを他面よりみれば︑個々の経済活動の存在と機能ほ︑実に綜合的な全体関連の予定においてのみ認識せ  

られ・るともいわれねばならないことである︒個々の経済活動の直接的な活動誘因がなんであれ︑その活動のもつ全  

体関連的な意味ほ︑けっしてその濃接的誘因ないし動機だけにとどまるものではない︒そのことを活動体たる経営  

体が︑意識するか否かは問うところではない︒いいかえれば︑経営体のほたらきの意義ほ︑経営体の意志的な討画  

が基礎としている直接の動因だけで完了するものではないということである︒ここでわれわれは︑古くしてしかも  

依然として新らしい意味をつたえるス︑\︑スの思想を思いださなけれほならない︒その究極なるものが﹁見えざる手  

﹂であるか背かはここに問わぬとして︑個別経済が︑必ずしも自己の意識や意志のうちにもっ.ていないあるほたら  

きを︑全体関連の上で遂行することになる事実は︑われわれの生活経験において直接にこれを知るとおりである︒  

このととは︑ひと昏商業についてのみいわれることではない︒農家の日々の経営活動においても︑今日の市場経済   

(10)

に基礎をおく社会にあっては︑農業経営者たる農家が︑いちいちに社会的な食粒供給というサーヴィスを意識的・  

計画的に実践しているというような第一次的・直接的動因から経営を実践しているとはいわれない︒かりに改め  

て︑生活の意義とか人生の目標とかをかえりみるときには︑あるいは自己の職業や経済活動についても︑それにつ  

いての人生観的意味や哲学的ないし道徳的意義を省察することほありえよう︒けれども現実の直接動因は︑いうま  

でもなく農業経営者としての収益であるに相違ない︒それゆえ作物の市場価格や市況の動向と情況に応じて︑農家  

はその栽培するもの冤自由に選択取捨して︑収益の可及的な増大を計画するのである︒それにもかかわらず︑経済  

社会の全体関連としてみれほ︑そこには第一次産業としての独自なほたらきが存在し︑そしてその全体関連的ほた  

らきが︑現実には個々の経営体の活動を通じて実践されているのである︒   

ここでわたくしは︑わたくしの職能論的な思考をかえりみておきたい︒個別経済の存在理由を解明するにあたっ  

て︑その主体的個別経済を含む全体経済の関連において見いだされる位置︑そしてその位置において全体関連的に  

作用するほたらき︑これをわたくしは職能として理解する︒全体関連をひとつの有機体のどとくに理解するならば︑  

これを機能といってもよ小︒ただ︑特に職能という言葉を用シるわけは︑個別経済の立場から職業との関係を思  

うからであり︑それについてほ後に改めて説くとおりである︒そして︑この全体関連の上での職能を実現するため  

には︑具体的な︑個々の技術的形式過程を経なければならない︒しかるに通常の日常観察でほ︑この論理ほこのよ  

うには追求せられない︒外相的な形式過程だけが他との関連から速断して取上げられ︑それだけですべてが完了す∴  

るもののように考えられてそれ以上は問われないのである︒商業をもって売買︑交換ないし配給と理解する方法  

はおおむねこのような思惟に立つものと思われる︒   

商業が経営体によって実践せらられる時の形式過程は︑歴史的なものであり︑したがって相対的なものである︒   

︵四六こ二二山    ひとつの商業理論  

(11)

第三十二巻 第一子四・五官   ︵四六二︶二二二   

それほ不断に変化する現象形態にはかならない︒しかしそのような形式過程を通じて実現せられる商業の機能ほ︑  

それとは別貯考えられねばならないもうひとつの側面である︒ここでわれわれほ︑ラムペ教授の商業鶴をかえりみ  

てみょう︒  

︵1︶宅−E宍ken−2atiOna−爵OnOmie−WOZu叫︸−澄↓︸S.−のから引用︒  

lニ ラムぺの扱能理論  

ラムぺ教授によれほ︑あらゆる経済過程は四つの生産要素が協働することによってあらわれる︒すなわち︑自然力  

︵NaturFi−fe︶︑労働力︵A訂eit︶︑貨幣資本の用意︵Ge−dkapi邑bereitste−−ung︶および企業者活動 ︵UnterneF  

mert警igkeit︶ がこれである︒本来︑経済過程が最終の目的とするものほ︑欲求充足手段の用意ということであ  

り︑そしてここに︑いわゆる経済原則にもとずく人間の行為がある︒つまり充当可能な生産力の欠乏が︑労力の支  

出と効用獲得とのあいだの最適な関係を追求させることに庵る︒さて孤立的な自給自足の個別経済を想定すれぼ︑  

そこにほ経済過程の.運行についてひとつの統一的意志があって︑それが仙切の決定力をもっている︒そこでほ生産  

渚力の充当について目的はあらかしめ山定しており︑このひとつの忠志が生産のための労働支出と︑他面それによ  

ってもたらされる欲求充足とを︑相互に考藍することができるのである︒すなわち同一の意志のうちで︑支出と効  

用狸得の双方が統一的に秤駁しえられるわけである︒   

しかるに︑相互に関連する多数の個別経済から成りたつ社会経済でほ︑ひとつの新らたな問題が発生してくる︒  

この場合︑個別経済が自己の欲求を充足しえられるためにほ︑その個別経済が反対給付をなすことが可能であり︑  

しかもその反対給付ほ︑相手たる個別経済によって欲求せられるような目的物であることを要件とする︒ここで   

(12)

は︑たゼひとつの意志によりて︑自己自身の欲求充足の意図が実行されるのではなくて︑他の個別経済の意志が充  

足されるか否かに依存することになる︒意志を決定する頭脳がただひとつ︵EinFirnigk2it︶で・ほなくて︑頭脳の 

︵1︶  

枚数な経済︵mehrbirni的2ヨ計cha叫t︶ となる︒   

社会経済における企共著の活動を︑全体として大きく分析すれば︑二つの領域に分けられる︒その意味ほ企業者  

としての行為は︑二極性をもつもの ︵冒ppe官−igkeit︶であるということであるっその仙つの極は︑生産技術的  

な形態変化意志︵亡mfOrmungSWi−−盟 に係わるものであり﹁その二つ.は︑市場考鼠的な調整意志︵Ausricbtungs・  

w≡e︶に係わるものであって︑これら二つの意志をはさんで︑そのあいだに種々なる対立緊張の関係が発生してく  

る︒自給自足の個別経済において︑ただ三の意志によって統仙的に処理せられる.これら二つの極は︑社会経済で  

は︑まさにそのことが問題となる︒   

社会経済では供給者である個別経済は︑生産者としての自2の利益についてはこれを知るが︑それに対置される  

需要者の利益についてほこれを知ること不十分である︒しかるにこの後者は︑周到に考慮されねぼならない︒な  

ぜなら︑これを充足することによってのみ︑供給者/︵生産者︶として反対給付をうけうることになるからである︒  

こうして社会経済では︑需要の世界と供給の世界とが︑そのままでは不仙致の状態にあることを示している︒需要  

と供給の双方の世界をみれば︑それぞれに異なる要因や条件によって支配され影響をうけるのであって︑この両者を  

左右する関連は︑それぞれ別異のものである︒このように分析すれば︑企業者磯能の二極性ということは︑需要と  

供給のそれぞれの関連が異なるという事実にその基調がある︒企巣者機能の山つほ︑主として形態変化的な機能で  

あって︑これほ供給と結合しており︑他は︑主として調整的な放能であって︑これほ需要に結びつく︒   

このような基礎論に立って︑商業をかえりみれば︑︑商業といわれるものは︑需要と供給との調整にその本質が見   

︵望ハ三︶三二一山   

ひとつの商業理論  

(13)

︵四六四︶二二四   第三十二巻 第三・四・五号  

いだされる︒﹁常襲にたいする供給の調節が︑明らかに︑.通常いわれる商業というものの本質的内容である︒他の  

ひとびとの需要意志にたいして諮カの配分を調整するという社会経済においての必然的なことがらは︑商業の本然  

︵2︶  

的な課題を示している︒商業はしたがって社会経済とともに生誕する︒﹂   

かくて商業の本質的な課題は︑需要と供給との整流︵G−eicFricbtun巴 にあるといってよい︒歴史的現実態とし  

てあらわれる商業の形態にたいして︑ある共通なるもの ︵etwas常meinsam︶ が︑商業の公分母として見いださ  

れ︑これほ時︑所︑国民︑経済秩序を通じて妥当性をもつものである︒これにたいして︑このような把握の方法は  

極度の抽象であって︑それほ歴史的現実を無楓するものであるとの批判ほ当らない︒なぜなら︑﹁あらゆる時代︑  

国々︑民族︑経済制度にたいし︑商業活動あるいほどく一般的にいって﹃商業﹄について論ずることも︑ひとしく  

︵8︶  

歴史的事実だからである︒﹂商業の解明にあたっては︑往々︑個々の機能を単純に並列させる方法が行われるが︑し  

かしこれにたいして商業の庶機能︵亡rfunktiOn︶ を明らかにすることによって︑個々の機能がその原機能を実現す  

るための手段であることの論理を示すことになるのである︒   

このような考察によって︑さら.に商業の生産性︵PrOduktiまt警︶∵についても一貫した解明をあたえうることに  

なる︒自然のままの素材︵NaturstO詳︶にたいして︑技術的軋形態変化をあたえるだけでは︑いまだ経済過程とし  

て完結したものとほいわれない?これが欲求充足と結合するときに︑ほじめて経済過程の完結をみるのであり︑そ  

してここに商業の活動が要求されることになる︒   

生産者としての主たる機能が形態変化という任務であり︑商業者としての主たる機能が調整という任務であると  

しても︑現実にほ︑なんらかの程度で︑相互にその任務の交錯のあることは事実である︒それゆえ︑いまここで純  

粋型ともいうペきものを想定すれば︑純粋の生産者活動は﹁形態変化機能の担当者﹂としての活動であり︑これほ   

(14)

企業者活動としての二極性のうちの妄の極を意味するのであり︑この場合にほ﹁調整的な極﹂は抑制されること   になる︒商来者の場合ほ︑これに反して﹁形態変化的な極﹂が抑制される︒純粋生産者としての思惟すなわち形態   変化的思惟ほ技術甲・経済的に規定され︑その経済的活動の目標ほ︑経営内部的合理化を志向する︒したがって純   粋生産者の意図する活動領域ほ︑安定した外部関係においての︑設備と諸力の継続的な最適利用にあるといわれよ   ぅ︒これにたいして︑純粋の商業的思惟すなわら調整的思惟ほ︑主として経営外的関係に結びつく︒その場合の経   済効果ほ︑何よりもまず﹁志向された正常な供給﹂と︑その時の﹁最も強く反対給付を提供する﹂需要との最適な結  

合によって達成されることになる︒かノ\て純粋の商業者ほまず第這市場的に思惟する◇理想型として考えられる  

︵4︶ 調整機能の担鳶老ほ︑その本質上︑﹁需要の担当者である︒﹂社会経済の内部でこの調整的課題が分化してゆく過  

程ほ︑経営体の自由意志にもとずき︑しかもその動因となるものは個別経済の利益である︒こうして調整機能が︑   いまや独立企業の利益から決定されることになる︒   

これを要するにラムぺ教授によれは︑表的にいって企業者意志ほ合理性を追求する︒つまり経済原則に従って  

活動する︒狭義の生産についてほ︑これほ技術Jの合理性追求として形態変化の実践において遂行されるのであ   る︒それゆえ生産者の最高目標︑すなわち機能としての生産者ほ︑市場関係の安定を前提として︑内部の技術的・   経済的な拇織に課題を集中するという関係に在る︒   

これにたいして商業楓能ほ︑たえずそれによって探究される需要意志の充足に向けられる︒つまり常態でほ︑商   業者ほ需要を上位の法廷として仰がねばならず︑商巣機能の担当者ほ﹁生産を寮費意志に適合﹂させることがへ過   去においても不断に努力してきたことであり︑将来にたいしても努力しなければならないことが容易に明らかとな  

︵5︶ る︒それゆえ商業者は︑生産者にたいしてつねに﹁密要の代弁者﹂である︒  

ひとつの商兼理論   ︵四六五︶二二五   

(15)

社会経済における企業者機能湊︑純粋の形態で抽出し筈ムぺ・教授は︑これ姦術的な形態変化︿狭義の生産︶  

と寵妾にたいする調整︵適合︶との二つの極にもとめ︑この後者の機能富って商業者の機能であると書︒芸   機能は需要の儀域にたいして歪点がおかれている︒わたくしは︑商業の機能をもって需要供給の適合と解するので   あるが︑その場合︑生産の側面にたいしても︑この槻能の深い関連を分析しなければなちないと考える︒要旨はお  

よそつぎのどとくである︒   

︵1︶A・1amp2・Umrissee−nerTh20rledes詳ndelsV S・N㌢   

︵2︶a●a・〇: S・Nの−↓・   

︵3︶a.a・〇: S・Nべ・   

︵4︶a●a−○: S・写   

︵5︶a.a︐〇・S・光一皐  

四 商業の放能と職能   

ラムぺ教授の商業本質観は︑企業者機能の純粋型における分析からはじめ︑苦に二つの機能の存在することを   明らかにし︑商業者の担当する機能が︑需要にたいして蓋を適合させようとするところにあると論ずること高  

らかにした︒    われわれは︑まず市場経済として構成せられている社会経済の全株構を取上げてみょう︒その場合︑日常用いら   れる産業の分野としての璧︑工業︑商誉いう概念の関連に注目して︑その分析から私見への緒憲めたい︒これ   らの産業領域をただ漫然と取上げるときは︑平板的に理解し墓体の窒経済領域がこれらの三つの分野に分れて    第三十二巻 第三・四・五号   ︵四六六︶二二六  

(16)

おり︑それら三つの分野の和が全産業の世界を形成するもののように考えられる︒農工商の三つの産業領域を概念  

的に分析することほ許されるとしても︑その現実態ほ平板的なものではなくて︑むしろ立体的な構成に在ることを  

知らなければならない︒たとえばわれわれが︑わが国の徳川時代の論者などによっで説かれる︑士農工商の四民の  

儲などをみるとき︑この平板的観察がもっともよく示されている例に接する︒そのような封建的経済社会では︑商  

人を﹁四列の下座﹂などとけなして︑身分的な職分鶴を高瘍したのであるが︑しかし農や工が社会的分業の領域と  

して存立し持続されうるゆえんが︑実ほ商業のほたらきに依存するものであることに想い到らなかったのである︒農  

業︑工業︑商業の産業関係ほ︑三つの別々の領域が︑あたかも地上に境界を分かつように並存しているのではなく  

て︑むしろ機能的な組成におぃて産業の世界を構成しているのが現実態である︒このことほ農工業にたいしてもつ  

商業の関係において︑特に明白にみられるところである︒  

一般に農業によって代表されるもの︑すなわちいわゆる第山次産業といわれるものによって︑われわれほ自然界  

から直接に資料・物資を獲得することを意味している︒こうして獲得された農林水産の素材は︑工業過程に移され  

て製造加エの技術的操作をうける︒仙般に第二次産巣といわれる領域である︒そして最後にこれら第一次︑第二次  

産業からの生産物は︑商業の流通分野に吸収されると見られるのである︒   

しかしこのような平面的な分析は︑極めて不正確である︒一層立入った分析がてこで必要となる︒いまその分析  

のために農業経営を取上げてみる︒再生産の図式にしたがって︑まず農業経営への投下資本が︑生産手段と労働力  

とになる︒そしてそこに農業の生産行程が実践せられる︒その生産物たる農業収穫は市場の機構を通じて換価せら  

れ︑農家の収益を生み︑経費を補填し︑農家生活を持続させ︑農業経営の再生産過程をつずけて汐くことになる︒  

この全過程はいうまでもなく︑全体として農業経営たるに相違ない︒したがってこの経営体の一定期間の収支を明   

ひとつの商業理論   ︵望ハ七︶二二七  

栗篭髄凋   

(17)

︵四六八︶ 二二八   第三十二巻 節三・四・五号  

白に経理することによって︑ひとつの農業経営体としでの貨幣的成果が知られるのである︒   

しかし︑最初の投下資本が必要な種々の生産手段に代えられてゆく過程そのものは︑けっして農業そのものでほ  

ない︒これは市腸を通じての財貨の需給の関係であって︑ひろく商業の流通関係にはかならないのである︒農家が作  

美衣や農具や種子・肥料を購入する過程ほ︑ひとつの全体としての農業経営に含められる過程にほ相違ないとして  

も︑財貨の購入という過程そのものは︑けっして農という技術的生産過程ではありえないのである︒同様に︑最終  

の農業生産物が市場︑すなわち財貨の流通過程にもたらされて︑そこで換価せられ︑経営全体としての収支を経  

理する過程ほ︑これもそのこと自体農の技術でほなく︑商業の流通関係に属することである︒もとよりその全過程  

は︑農業経営として統括されて血つの体系をなすものであり︑をの収支の結果も全体としてほ農業経営の成果とし  

て評価されることほ︑まさ成その通りであるが︑重要なことほ︑そのような農業経営の運営が︑たんに純粋なる農  

の技術!ラムぺの表現を借りれば︑生産の純粋塑としての形態変化−1∴たけによっては実現されえないという点  

にある︒   

このような分析ほ︑われわれにつぎのことを知らしめる︒通常︑農工商として平板的に享つの産業経済領域を取上  

げ︑これらがそれぞれ別々に並存するもののどとく理解することほ︑けっして事態の正しい把握ではなく︑農業お  

よび工業という狭義の生産企業が︑社会経済のうちにその存立を可能にする条件として商業の機能が存在理由をも  

つことを知らねばならないことである︒それゆえ︑あえていうならば今日の市場経済において︑農業や工業の生産  

企発といわれるものほ︑農およびエの技術的過程に︑流通過程としての商業が結合したものであるといってよい︒  

二噂端的にいえば︑農業あるいほ工業の業とは︑その実質において商業であるとみられるのである︒   

かかる分析は︑まず企共体によっで担当せられる商業の︑社会経済における機能をわれわれの前に展開する︒こ   

(18)

の場合︑経営体によって担当せられる商業の機能を︑わたくしは特に﹁商業の職能﹂として理解したい︒﹁職能﹂  

として理解しようとする意図ほ︑今日の経営体を現実に運営する人的関係が︑一般に職業とよばれる社会関係にあ  

ることを背景にもつものである︒商業経営体としての企業も︑それを推進する商業者は︑すべて職業人としての経  

済者である︒職業人の活動によって︑ほじめて経営体が運行する︒われわれほ法制の上で法人の制度をもってお  

り︑それは法律の上でほ権利義務の主体であると規定されるが︑しかし事物の現実感としてほ具体的な人間関係に依  

存するものであることほ否定できない︒経営体についても︑現実に即してこれをみれば︑経営体を如実に運営して経  

営の実践を推進するものほ︑管理︒指導的な人的要素と︑実行的な人的要素の二者である︒これらの人的要素ほすべ  

て職業において社会関係に結ばれる︒それゆえ商業の機能という場合においても︑これを経営体の担当するほたらき︑  

として見るときにほ︑具体的にほその経営体のうらに組成せられる人的要素の︑職業としての機能︑つまり﹁職能﹁  

を通じて︑はじめでその商業機能が実践せられるという理となる︒もともと経営といわれるものは︑意識的・計画的  

な活動であり︑そこに結合している職業人としての成員の協働から︑そのような活動が生みだされることはいうまで  

もない︒したがって経営体の立場からみられた商業の機能とは︑叫層正確にいえほ︑その経営体のために成員結合す  

る職業人の活動を通じての機能にはかならないものであり︑それゆえ職業的機能という意味においてこれを職能と  

みるのである︒このような経営体としての︑したがってこれを現実に推進してゆく動因としての職業人の当面の活  

動目標ほ︑すでにしばしば指摘されるように利潤獲得にあることほその道りである︒しかしここでの如上の分析がい  

ま明らかにしたように︑農業︑エ業の経済活動にたいんて︑その技術的過程のために︑それの前後の市場関係に機  

能するものほ︑需要と供給の適合的職経であり︑そしてここに南米の活動儀域が独自に示される︒市場経済の産業  

社会でほ︑このような職能を︑商業の経営体が意識的・計画的に︑第一目標として経営計画目標にかかげることほ    ひとつの商業理論  ︵四六九︶二二九   

(19)

︵四七〇︶二三〇   第三十二巻 第三・四・五号  

ないとしても︑現実においてほそのようなほたらきとして︑社会経済の全体関連を形成するものである︒   

われわれはこれまで考察してきたような︑企業としての︑すなわち商業の経営体としての主体的な観占芯らほな  

れて︑広く社会経済の全体関連そのものからみれほ︑乙のような考察がえられようか︒つまり国民経済という総合  

的な観点である︒市場の種々なる形態を通じて形成される市場経済にあっては︑いうまでもなく価格が需要と供給  

の双方にたいしてほたらきかける︒同時にまたその反面で︑価格自体が相関的に需要供給から影響されることにな  

る︒   

国民経済の全体系にたいする中央指導的な管理をもたない経済︑つまり競争原理に基礎をおく市場経済では︑国  

民経済全体としての財貨の供給ほ︑個別的な生産の主体が市場の価格を計画与件として取入れて生産な実行する︒  

かかる個別的生産主体による財貨の供給は︑広く一般的に想定されている市場とよばれる需要にむかってなされる  

ものである︒したがってこの場合には︑あらかじめ具体的な個別的な需要の主体︑その質量︑その時所が決定され  

てい.るわけでほない︒生産すなわち供給ほ︑抽象的な市場を一般的に予定し︑そこに国民経済全体としての需要の  

大きさの存在することを前提する︒いわゆる市場生産である︒もとよりいかなる国民経済にも︑注文生産としての  

側面が多かれ少なかれつねに存在することはいうまでもない︒将来においても財資により︑ひとびとの趣味にょっ  

て︑そのような生産形態の存続することほ凝ないところであるが︑市場経済の特質がそのようなものでないことほ  

明らかである︒こうした全体経済の観点からみるとき︑国民経済の総合的関連における需要と供給の不調和が問題  

となる︒地域的︑時間的︑数量的な不調和として指摘されるものがこれであり︑競争原理に立つ市場経済でほ︑そ  

こになんらかの調整適合の機能が作用するのでなければ︑それらの不調和ほつねに不調和として終らざるなえな  

い︒ラムぺ教授も︑この点についてひとつの考察をあたえている︒教授の表現を借りれば︑このような不調和な︑   

(20)

生産と消費のあいだの緊張.︵Spann旨色 と名づける︒ここでいう緊張とほ︑﹁生産に起因する供給と︑消費に起因  

︵1︶  

する需要とが︑相互に適合せず︑それゆえに調整︵Ausg−eic三が必要とやられる状態﹂である︒このような緊張  

ほ︑山定の時と所における主体間の︑財貨に関する質量についてあらわれる︒という意味ほ︑主体ほそれぞれに個  

別経済としての特有な要求をもっており︑したがって相異なる主体のあいだには利害の不一致が介在することはむ  

しろ当然である︒それほまた必然に需要され供給される目的物 へ客体︶・のあいだの不謝和ともなる︒具体的にほ場  

︵2︶  

所︵Raum︶︑時間 ︵Neit︶︑1数量 ︵Meng2︶ および質 ︵Qua−it警︶ においての不一致としてあらわれる︒   

さてこの不調和ないし緊張にたいして︑商業ほひとつの大きな社会経済的機能を発動する︒それは生産行程を経  

て生産物として出現したものを︑山応︑市場という貯水池のなかへ全体として吸収する作用である︒市場のこのよ  

うな社会経済的機能が予定されることによって︑・再生産の過程ほ持続的運行が可能となる︒これは供給にたいして  

の商業の社会経済乾機能である︒生産者は︑かかる貯水池的機能を予定することによって︑市場生産をいとなむの  

であり︑この機能の担当者がなけれは︑生産者ほみずからその生産物を保管するか︑あるいは個々について直接に  

需要者の発見につとめねばならないことになり︑これほ今日の広汎な社会経済の構造でほはとんど不可能なことに  

ぞくする︒   

他面︑この貯水池的作用ほ仙般的に需要にたいしての任務をになう︒その場合︑生産のために原材料の消費を必  

要とする生産者にたいする場合と︑また生活経営のために生活資料を消費する家計の場合とが分けられる︒   

今日の機械的大量生産にとってほ︑生産過程を渋滞なく遂行させるために︑必要とする原材料の大鼓な供給を前  

提とする︒けれどもそれぞれの大泉生産に要求される資材が︑そのままに必要の質量において︑・そして必要の時に  

おいて︑自然のままに充当されるとほいわれない︒自然の状態ほ︑むしろそのような調和の存在しないものであ  

ひとつの南米理論   ︵四七こ 二三一   

(21)

︵四七二︶二三二   第三十二巻 第三﹂四・五号  

る︒そこでここに調整による適合の機能が存在しなければならなくなる︒そのためにほ︑少量の生産単位嘉こ定の  

必要最に集中する作用も必要となる︒このようにして貯水池としての市場が︑常住的に供給の用意をもつことによ  

って︑生産者ほ必要とする質鼠を︑必要時に供給されることになる︒   

家計における消費をみれば︑そこでの日々の消費ほ︑少日豊の単位を多種類の財貨にわたって︑反復されることが  

樽質である︒家計ほ︑大量に生産された特定財貨を︑そのまま仙度に吸収消化しうるような粗放でほない︒いわば  

水源の貯水池から次第に細くなる給水管によって︑最後に個々の家庭が給水をうけるように︑家計の物財消教もこ  

れと相通う︒そして︑ここにまた需要にたいしての商業の適合作用がみられるのである︒   

社会経済の全体構造について︑その全体関連を形成している脈絡をたどれば︑それほ二言にして︑全体としての 

需要と供給の適合機能であるということができる︒そしてこの機能が︑経営体の主体的な活動として︑したがっ  

て︑それに組成せられる職業人としての人的要素の活動を通じて実現されてゆくとみるとき︑そこに満濃の職能が  

認められる︒   

需要と供給を︑国民経済の全体関連において適合させるという商業機能ほ︑経済がよって立つ体制の相違にょっ  

て︑つねに同山の形態をとるとほいわれない︒競争的市場の価格という媒介の存在しない経済体制の様式は︑蟄本  

主義経済の商業が︑個別経済による職能として実践される様式とほ︑いちじるしく異なるものに相違ない︒しか  

し︑その場合にも社会経済全体としての需給適合という槻能が︑なんらかの形態と方法を通じて担当せられねほな  

らないことはもとよりである︒その場合これをなんと名づけるかほともかく︑かつて商業によって担当されな社会  

︵$︶ 経済的本質機能ほ︑依然と⊥てそこになければならないのである︒  

︵1︶A● Lampe︶ a.a●○: S● ぉ●   

(22)

︵2︶a・a・〇:S・会・  

拙著﹁経済生活の本質中二六一−三頁︒  

︵3︶ここで︑商業についてしばしば論議されてきた商巣の生産性について私見をのぺておきたい︒生産という経済学で便用さ  

れる概念が広狭さまざまに適用されることは周知のとおりである︒生産をどう規定するかの困難性についてほ︑たとえば  

ヒックス教授の﹁生摩の定蔵匿つ小て﹂ ︵酒井正三郎訳︑ヒックス﹃経済切社会的構造し二重二望という論文など興味  

ふかい︒  

わたくしほ生産概念の発展を︑つぎのように考え︑そのなかに商業機能の位置をあたえたいと思う︒  

ひとつの商業理論   この図式ほ右方から左方へと進む︒︵1︶およぴ︵ヱは最も狭義の生産概念で︑そこでは技術的な形態変化が特質をな   す︒すなわち生産︵Ⅰ︶である︒この生産に対立するものが︑流通概念である︒さらたこれらの両者を総合しての正座   ︵Ⅱ︶にすすめほ︑ここでは広く効用の作出が生産概念となる︒商業の生産性ほここにその位置をもつ︒この払太された   生産紅たいして対立するものとして消費概念がある︒これら両者を統括する生産︵Ⅱ︶の概念がもっとも高位にあるも   であり︑それは﹁人間生産﹂というどとき意味内容をもって統括されるものとなろう︒   大熊信行博士の家政論における人間生産の思惟ほこの点で十分にかえりみられねばならない課題である︒    匪離︵目︶   締師︵目︶   義雄︵>或陣取︶  

揮師︵i︶   

識 隷   ︵こ諏肺師︵恥革労鼎︶    ︵N︶鯉離宮H=⁝  

︵細︶  ︵H︶  

︵四七三︶二三三   

(23)

この小論が意図するところほ︑体制を異にする社会経済において︑ひとしく﹁商業﹂とよほれる同州 の用語に  

よって把握せられを経済の事象と現象が存在するものとすれば︑そこにほそれらに共通する本質的なるものがなけ  

ればならない論理を解明し︑そして︑そのような共通者としての現実態ほいかなるものであるかを示すことにあっ  

た︒さらに一歩をすすめれば︑特定の経済体制が永続的なものとは考えられないとしても︑たとえば資本主義の経  

済社会において︑にのような意味の商美本質が明るみに取りだされ︑これまで無意識のうちに機能していた社会経  

済の全体関連が︑意識的に前景へとおしだされるとすれば︑そこには商業についての主体的な意識の深化がありう  

ぺきことを含意している︒もしそのような主体的意識の世界がふかまりゆくとすれば︑商業の本質機能はしだいに  

自覚的なものとなってゆくことが期待されよシ︒   

社会主義/の経済体制においても︑いわゆる﹁社会主義商業﹂としての︑社会経済的な経済的機能が認められる︒  

その場合︑社会主義商業が資本主義商業といかに本質的に相違するかを明白にすることほ︑商装本質の房究として  

極めて重要な課題には相違ない︒それほたんに両者の商業の相違というような問題にとどまることでほなく︑二つ  

の体制の本質的な相違そのものから必然にあらわれてくをことなのである︒   

だから︑ここで興味のある課題としてわたくしに迫ってくるものは︑すでにさきにも関説したように︑商業とい  

う共通の概念化よって表現されるものが︑いかなる点にその共通性をもつかとの課題である︒この共通性の追求  

は︑差別の追求と同じ程度に重要だとわたくしほ考える︒   

いま社会主義の商業における共通者を見いだそうとするにあたって︑最近のすぐれた労作︑橋本勲教授﹁社会主    第三十二巻 第三・四・五号  

五 社会主義.と商業   ︵四七四︶ 二三四  

(24)

︵1︶  

義商業﹂・に依りながら論議を展開してみたい︒   

まず社会主義商業が資本主義経済における商業と︑根本的に異なる性格ほどこに見いたされるか︒これについて  

ほ︑およそ三点が指摘される︒第山に︑資本主義商共は利潤追求をもってその動機とするのにたいし︑社会主義商業  

ほ﹁社会の増大してゆく欲望を︑もっとも完全に満す﹂ことをその目標とすることである︒したがって後者にあって  

ほ︑投機取引のどときほ存在を許されない︒第二ほ資本主義経済での商業活動ほ︑利潤目標の達成についての意識  

的・計画的な実践であるが︑社会的配給機能についてはそのような意識性と計画性ほなく︑ただ企業活動の結果と  

してそれが実現されるにすぎない︒社会主義商業でほ︑個々の経営体が配給機能を意識的・計画的に担当するのみ  

ならず︑社会全体としてもそのように遂行されることに凍る︒第一こに︑社会主義商業においてほ︑経済の変動から  

くる﹁商品の売残りや販路の危機﹂という困難から解放される︒同時に︑資本主義商業にみられるような︑自由競  

争の結果としての零細商業者の困窮というような状態ほなく︑かえって社会主義商業でほ︑消費者大衆の需要を合  

理的に充足させるための︑社会主義的競争が行われる︒   

このよう特質をもつ社会主義商業は︑具体的にほ種々複雑な構造を通じて遂行されるのであり︑そのためのさま  

さまな機関が必要となる︒ここで社会主義経済にも卸売放関や小売機関のごとき経営体をみることになる︒   

いま社会主義商業における卸売商業の場合を例示すれぼ︑そこにほ二つの機能が示される︒一つほ生産部門と小  

売配給機関との結合をほかる任協であり︑二は生産部門相互のあいだを結合させる任務である︒その具体的な過程  

としてほ︑卸売商業ほ∵万で地方的生産物の集中を実現させるとともに︑他方でほ小売機関に対して︑大量生産物  

の分散的供給を担当することになる︒これらの機能とならんで︑生産物の品質管理︑品質向上への指示︑商品とし  

ての補充加工等の放能も果さなければならない︒さらに︑生産者にたいしてほ︑買手として消費者を代表してその  

︵四七五︶二三五    ひとつの商業理論  

(25)

讐一手二号 第一子四・五巻   ︵四七六︶二三六  

要求を代弁し︑エ業機関の生産計画作成に参加して︑生産と消費の調和を実現させようとする︒さらに小売機関に  

たいしてほ︑商品についての指導︑啓蒙の任務をも担当する︒   

さてこのような社会主義商業の二班からわれわれが問題として取上げるものほ︑一つは資本主義商業との根本的  

経済体制の根本的差異そのものから生ずる性格で   な相違点である︒これほすでに右の解説からも明らかなように︑  

ある︒社会主義商業ほ︑全体としての総合的国家経済計画の一環であり︑社会経済の全需要と全消費を︑意識的・  

計画的に適合せしめるという最高目標を志向しながら︑それへの接近をほかることがその機能である︒これにたい  

して資本主義商業ほ︑最大利潤の摂待という直接誘因によって個別企菜が活動し︑その結果として︑需要と供給の  

適合作用が市場の機構を通じて実現されるものである︒   

このような根本的瀾遵はまさにその通りである︒問題ほ︑資本主義商業においても︑需要供給の適合という社会  

経済全体としての機能が︑商業の重要な特質として現実に遂行されていることの事実的認識にある︒それほ個々の  

経営体によって︑第山の活動日標として意識されているものでほないとしても︑個別的活動の社会経済的な意義ほ︑  

このような一般的適合機能にかかわるものであることの認識ほ重要である︒たとえば社会主義商業における卸売機  

関の種々なる任務のうち︑重要なものの一つとして︑工業機関にたいする消費代表者としての立場から︑需要と生  

産との調和をはかる機能がかぞえられるが︑このような機能ほ︑われわれがさざに解明した商業の貯水池的作用に  

はかならないものである︒資本主義経済においても︑たとえ個々の経営体としてほ額意識なものであれ︑このよう  

な社会経済的機能の遂行がなけれぼ︑資本主義経済の全構造ほ存立することが不可能となるのである︒.いわばかか  

る機能は︑社会経済の仝構成にとって︑つねにその基底を成すものとみられねばならない︒それは分業に基礎をお  

く共同社会の構造であるかぎり︑なんらかの機関と機構によって︑つねに担当され遂行されねばならない機能なの   

(26)

である︒このような考察ほ︑商業理論について︑二つの重要な側面をうかび上らせてくる︒   

ひとつは︑社会主義南米の性格に関する側面である︒体制そのものにかかわるかぎり︑社会主義商業ほ資本主義  

商業と本質的に異なるものと規定することほ︑許さばその通りであろう︒しかし機能としての商業を取上げるとき  

にほ︑資本主義商業において担当せられ遂行せられている︑いわば商業の本質的機能が︑社会主義商業でほ︑自然  

的・任意的な活動の藤果としてではなく︑全体計画的な目標として意識化されていることが知られる︒肝要なこと  

ほ︑機能そのものが両者に共通に存在することの事実である︒このことほひとり商業だけにとどまらない︒諸他の  

多くの問題についても同趣のことがいえるがたとえば社会主義企業というがごとき場合である︒社会主義の社会が  

到来した場合においても︑資本主義社会において遂行された企来者の職分のうちにほ︑幾多のかえりみられねばな  

︵2︶  

らぬものの存在することを指摘されたのが上田貞次郎博士であった︒社会主義南米に︑ついても︑すでに資本主義商  

業において自然的経過の結果として実現されたものが︑むしろ最初の計画的命題としてかかげられ︑それによって  

一切が統括指導されてゆくところに︑その特質があるとみられよう︒   

第二の側面は︑資本主義自体への省察である︒庭木主義商業は資本制企要二般の属性として利潤追求をその目的  

とするとしても︑資本主義経済の現実的運行にあたってほ︑単純一律に公式的な観察でほつくすことができないも  

のがある︒需要供給の適合についても︑たとえばつとに協同緒合や消療癒合臥ような経営体が︑しだいに大きな社  

会的役割を担当している?この〝ような槻関は︑資本主義体制の全体系のなかにその位置を占め︑しばしば法律制度  

の上でその性格を規定されながら︑社会経済的機能を遂行するものであるが︑その主たる目標ほ必ずしも利潤追求  

にあるとほいわれず︑むしろ経済社会全体としての寄要と供給の適合というところに︑その高位の目標がおかれて  

いるといわれねほならない︒  

ひとつの商業理論   ︵四七七︶ 二三七   

参照

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アール・0・ヘディー〝完全屈用状態下の合衆国農産物供給について〃   七五︶  六一   

ヽ   

ー 序   一盲   棉  柑  橘  七  

第二条第一号、第百七十四条第二項、第二百八十八条及び第二百八十九条第一項に規

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