は し が き
申すまでもなく︑サン・キュロットASans・C已OtteSVとは︑当時の貴族がキュロットと呼ばれる半ズボンをほき︑
長靴下をはいたのに対し︑一般庶民がこの半ズボンをはかず︑胴着とボタンでつながっているパンタロン
︵l︶ とよぼれる長ズボンをはいた事実に発する︒常識的にほフランス革命当時の山般庶民を指すものであるが︑ここに
事新しくサン・キふロットに閲し言せんとする所以のものほ︑これが所謂AFOu−es r晋○−utiOnnairesVとして最
も重要な位置を占めており︑その社会経済的性格の討究はフランス革命の本質を窺うのに最も重要であるのみなら
ず︑広く各国の市民革命の本質解明に資する処大であると信ぜられるが放であ鳶
以下筆者は主として革命における最大の頂点と考えられるモンタニヤール︵MOntagnards︶独裁の時期に中心を
置きつつ論を進めて行き度いと思うが︑しかし随時その前後の時期についても論及することとしたい︒
先ず︑サン・キュロットの社会的性格に関する研究にはこれをAFOu−esr晋○−utiOnnaires∀としてその心理を問
︵2︶ 題としたフランス革命史学界の最長老ルフェーブルの重要な論文があるが︑その社会層を主題としたのほロンドン
サン・キュロットについて ︵三八三︶ 二五 サン・キュ ロットについて
−特に都市のそれに関する覚書1
家 名 田 克 男
︵三八四︶ニ六 竺十巻第四号
︵3︶ 大学のりノユーザの二つの論文で︑それらは記念すべき研究成果とされている9そしてそれらと並行して直接サン.
︵4︶ キュロットを問題としたものでほないが︑ソブールの論文が有益である︒勿論︑サン・キュロットの問題ほフラン
ス革命全般に関係するものであるから︑至るところ何等かの形で言及されているわけであるが︑当面の問題に閲す ︵5︶
る限り本格的論文は上述の程度であって︑最近東ドイツで発行されたサン・キふロットに関する論文集にほこれ等
のうちの論文が独訳されて︑ドイツ入学者の研究と共に掲載されている︒またそれと共に︑同じく束ドイツからサ
へ6 ︶ ン・キュロット紅関する史料集がフランス語原文にドイツ語の対訳を附して発行されたが︑これほソプールの史料
︵7︶ 目録しか手に入らぬ我々にとって大変便利にして有益な著作である︒この外︑モンダニヤール独裁下の経済生活近
︵8︶ 関するマティエの古典的な名著もサン・キュロット研究に関して有益である︒
蘭二合口断らなければならないのほ︑本稿では概ねパリのサン・・キュロットを対象とするものであるから︑研究の
現段階における重要問題たる農業問題に就ては特別に必要とする場合を除いてほ言及されておらず︑専ら商工集配
論点が集約されているが︑これほ研究の便宜に基くものであって︑全く以て当然の事ながらフランス革命における
農菜問題の重要性を香淀せんとするものではない︒
︵1︶世界歴史事典八浜二二七頁
︵2︶G.Lefebくre﹀FOuiesR筈○−utiOnnai完S Anna訂s訂st︒riq完S de−aR晋○−utiOnfran竃−Se呂︵−霊全pp・TNのReimp・ ︑
Etudes suこa R曾01utiOn守ancaise︵−豊丘 pp.N畠ん彗
︵3︶G.Rudeトa cOmpO裟iOロSOC邑edesinsurrectiOnparisiennes de−譜面少−遥−ゝnn・Fist・de−aReく﹂rJN↓︵︸¢∽N
誉∽︶pp.Nぴ?N笠ユumぎe︸﹁eSかmeutesd2SNひ■N¢f晋rier−遥∽甘Paris・Ann・Est・de−a Reく・fr・−∽○︵−欝∽
20−︶ pp.彗−笥
︵4︶A・SObO阜PrOb訂mes dutraくai−en−︑an韓V Ann.Fを.計−a Reく.f︻.−定︵−父苛﹈軍品︶pp.N∽?N∽A
︵5︶W■MarkOくーJacObiner und Sanscu富ten︵−誤の︶
︵6︶W・garkOくだndA・SObO阜DieSanscEOtten云n Paris⁝DOkument zuぺGeschicFtederぎ芹sbew2gung−遥㌣−遥尽
こ欝ご
︵7︶A︸S︒bO阜LespapiersdessectiOnS deParis︵−遥?an=5 ︵忘g︶
︵8︶A・MatFieNV Laまe cgre e二e mOu諾已ent sOCia−sOuS訂terreur︵−¢Nゴ
ーサン・キュロットの社会経済的性格
既に述べたように所謂AF邑esr晋○富iOnnairesVの研究として︑画期的なものと評せられるのほ︑一確実な同時
代的史料の厳密周到な考究の上に完成されたロンドン大学のりノエードの論文である︒︑今︑先ず主としてこれ等の論
文に拠りつ.つ︑革命の問︑時をおいて展開され︑昂揚を見たパリのサン・キュロッーの運動の担い手の性格を考究
することとしたい︒
先ず︑血七八九年から九山年の間における主な運動として挙げられるのは︑八九年四月二八日︑二九日サン・タ
ントワーヌ郊外︵−e faubOur的Saint・AntOine︶ の大衆がパリのレヴュイヨン︵R晋ei昌︶ とアンリオ ︵HenriOt︶
の工場を攻撃した所謂レゲエイヨン事件︑第二には同年七月十四日革命の発端をなすバスタィーユ︵Bastie︶の占
領︑第三には同年十月五日に勃発した有名なヴェルサイユ︵宕rsaie︶への行進︑そして第四は小七九〇年の平穏期
を経て叫七九山年七月十七日に勃発した所謂シャン・ド・マルスの虐殺事件︵−emass㌢redu−ごuietauchamp
deMars︶ である︒
さてリエードが主とした拠った史料は警察関係の史料︵訂s prOCeS・くerbau舛des cOmmissiaire de PO−iceその
︵三八五︶ 二七 サン・キュロットについて
︵三八六︶ 二八
第三十巻 罪四号 他︶ で︑それ紅は目撃者の供述がのっていると共に︑事件参加者の申の死者︑負傷者︑逮捕者の身元が明記されて
いることが多いため︑これに基き彼ほ他の傍系史料を使用して︑之等大衆の社会経済的性格を把握せんとしたもの
である︒ 第一のレヴュイヨン事件に就て見るに︑先ず目撃者の供述ほ賃銀労働者 ︵sa−ariか︶ がその中でほ大きな地位を
占めていたことを述べており︑更に検死屍体十六の内十三が賃鉄労傲者であり︑また警察の訊問をうけた二十人の
負傷者の内十四名が︑また逮捕された三十五人の男女の内︑少くも三十人ほ賃銀労働者であったという︒この様に ︵1︶
賃銀労働者が大きな部分を占めたこと偲この当時の鋒起として珍しい例であるという
次に︑バスティーユの占領に就て見るに︑その最初の発端をなす入市税関の襲撃に於て︑先ず目撃者の竃から知
られることは指揮者の申に貴族的な︑或はブル汐ヨア的な風釆の者が幾人かいたということであるが︑これほ例外
であって︑非常にしばしば見られるのほbOutiquier︸ artisan一Salariか即ち商店主︑職人︑賃銀労働者であったと
いう︒またこの事件で最初に拘引された八十人の内十七人が質銀労働者︑また裁判にかけられた十一人の内三人が
賃銀労働者であったことが見えているが︑要するにこれ等の暴徒ほ入市税反対に結集した bO已iquieりS−OCau㌍
marcbands deくineこenrs cOmmis﹀emp−OyeurS et Sa㌻ri訂︸ tra畠ieurs etsans emp−Oi即ち地方の商店主︑
酒の商人とその使用人︑小生産者及びその職人︑賃銀労働者︑失業者といった大衆の男女から構成されたと考え
てよいわけである︒またサン・ラザール ︵Saint・㌣aNare︶の修道院の掠奪についていえはこの事件ほ二つの局面を
有するという︒第山の場合ほ穀物の市場への搬出︑台帳の破壊︑囚人の解放︑第二の場合は部屋及び調度の荒掠︑
酒︑食糧︑金銀等の掠奪が行われ︑前者軋於てはブルジョアにより指導され︑国民軍によ?て援助された武装せる市
民たち紅よって行われ︑後者の場合はpetits cOmmer爪antSアartisans﹀ ○く仁焉iersempl阜訂et sans tra志il即ち
小商人︑職人︑職場主︑賃銀労働者︑失業者といった近隣め一般大衆の男女によってなされたのである︒警察史料
の示す処によれば︑拘引状を課せられた四十三人の男女の内︑十六人がsa−ariか即ち賃銀労働者で︑他ほcOmme・
\ r竃ntS一unma吉2COrdOnni2re−saf2mm2主nemarChand2d2−aha=2︸unbOutiquiereニaf2mm2dビnbOu? bOnnier即ち商人︑靴屋とその妻︑市場の女商人︑商店主や居酒屋の妻といった人々であったという︒次紅最大の e完ntであるバスティーユ襲撃に就て見るに︑これは大体三つの史料があるが︑最も重要な痘料として挙げられるの は武器の分配に関与した人々の名が掲載されているもので︑これによって想像窒父うることなく︑考究することが 出来たという︒それによると︑petitscOmmer巾antS﹀artisansetsa−ari訂即ち小商人︑職人︑賃銀労働者が殆んど 全部であり︑これらの人々の申では賃銀労働者 ︵Ou害ierssa−ari訝︶ よりpetits cOmm2rのantSu bOutiquiers− ma吉esartisans﹀emp首eursOuartisaロSindependanれs即ち小商人︑商店主︑職人の親方︑職場主といった人 々が大部分であ\った︒これらについて=/コードは職種別の表を挙げているが︑余りに煩雑になるのでここでは略す
︵2︶ るが︑彼ほリスト紅のっている三八〇人の職人の内約六十人程が賃鍛労働者と結論している︒
︵8︶ 次に十月五日のヴェルサイユへの行進の場合は如何であったろうか︒この時の特徴ほ種々の階級の女性が重要な
役割を演じたことで︑この点軋就てほ目撃者が山致して伝えている処である︒男に就いてほあまりはっきり判らな
いが︑−apOpu訂tiOn Ouまr野e︸−es cOmpagnO誘﹀−es chOmeurSet−eursfam≡es即ち職人︑賃鍍労働者︑失業
者之その家族であるという︒唯この時有力な役割を演じたものに国民軍︵gardesnatiOn岩ユがあるが︑これを構
成するのはpetits cOmmeぷantSリ maぎes d︶ateごers﹀ art訂ans ind音endants 即ち小商人︑職場主⁚親方が大部
分で︑賃銀労働者ほ原則として入れないわけではないが︑次第に遠ざかってい・るのが当時の通例の状腰であったと
︵4︶ いう︒
サン・キュロットについて ︵三八七︶ 二九
︵三八八︶ 三〇 第三十巻・第四号
次に九一.年七月の事件であるが︑当時の記述によると力五千人集ったといわれ︑しかもその際行われた署名を
見た当時の人がそれは﹁殆んど字の読めない人々Agens quisa畠i2nt抑pein2−ir2Vの署名﹂と辞している処から
見て︑パリの下層の人々のそれ軋違いないと判断されているし︑例えば間接的な史料であるが七月十六日から十一
月十五日までの間︑シャン・ド・マルスの署名に対する弾圧を批判したために告訴された山八六人の内一〇二人は
質銀労働者であり︑あとの残りは大部分petits patr︒nSもrtisansu p2titsprOpri監aires即ち小親方︑職人︑小所
︵5︶ 有者であった事実が見られる︒以上要するに︑我々は敷上の事実から︑レヴュイヨン事件からシャン・ド・マルス
事件に至るまで︑重要な意義をしめたのは︑要約していえば︑maitresd・﹀a邑iers−bOutiquieH︸artisansin骨pe・
ndants.cOmpagnOnSetOu象ersdesm賀ufacturesetdesAte−iersd2CbaritかiOmm2S2ニemmes・即ち職場 ︵ 6︶ 主︑小商人︑親方︑職人︑質銀労働者等の男女であったことが判るであろう︒
次に︑りふードは同様の史料を同様の方法によって処理しっつ︑ジロングン ︵GirO邑ins︶ 崩壊への二軍塚たる
一七九三年二月二五・二六日のパリの騒擾匿於て︑最も重要な役割を演じた人々の出自を稿を改めて考究している
のである︒この問題に就いては︑既にマテイエに依って︑逮捕された十二人の人々の内にー2SdOmeStiques︶−es
︵7︶ marcFands et des Ourriers sa−ari訂 が居たことが述べられている︒が併し特に警察関係の史料はこの点に於て
より強力であるとしてリーユードは先ず警察監視局︵−e Bureau deSur諾iancede−a PO−ice︶の史料をひいて次の
様にいう︒数個の区に於てほ arti呂nSu bOutiquiers つまり職人や商店主と何じく賃銀労働者︵Ouくriers sa−ariか︶
が屠り︑山方︑市場女商人︵femmes de−ahae︶ や洗濯女︵b−anchisseuses︶が居たと︒逮捕された五十人の氏
名の大部分が traくaieursもrtisans︶petismarchandset bOutiquier 即ち小商人︑商店主︑職人︑質銀労働者
であり︑或る区に於ては四九人の内に二八人が Ou害ie↓ Sa−ari訂︶ dOmeStiques cuisini野esu cOmissiOnロaires−
cOmpagnOnS d﹀ati−iers 即ち賃銀労働者︑下男︑下女︑コソク︑職場主につかわれている職人︑その他であったし︑
また或る場合では三六人の内約二十人が賃鉄労働者︵Ou㌻rssa−ari恥︶ その他は職人 ︵artisans︶小商人︵petits
marchands︶ であったことを述べているp併しリエードほ特にこの事件に参加したものをiesOu焉i賢seニaムーas・
se indigente 即ち賃銀労働者︑職人︑貧民のみとするのほ誤り七︑中にほかなれ裕福な商人が参加し︑或はその
下男︑下女︑使用人dOmeStiques を差しむけている事実は落してはならぬことを述べている︒しかしそれほ商品
の掠奪に便乗したものであって︑それ自身はさしたる意義を有するものでほないことな述べて︑現象的にほ色々な
局面を持ち︑またいろいろな階層の人々を含むが︑その主体となったものはやほりーes Ou∃iersJes artisans et
petits marchands des secti昌 parisienne汎 即ち賃銀労働者︑職人︑パリ各区の小商人であったことを伝えてい
︵8︶ る︒
以上二つの論文紅よって我々は当面問題としているサン・キュロットの前史を追跡しっつ︑それを構成する社会
層は如何なるものであるかを︑いわばアン・汐ッヒに鮮明して来た︒併しcOmpagn昌.〇uミiers.artisans が︑
それぞれサン・キュロットの中でどの程度の比重を占めているかは依然として明らかでほない︒以下この点を考究
し皮い︒
さて︑パリは二七八九年当時人口ほ五︑六〇万を数え︑全パリ四人区へSectiOn︶ 中︑四刷区に於ける勤労者の
数ほ︑七万五千人︑家族を合せて三〇万といわれている︒而して彼等の各区への分布状態ほ非常な偏差があるが︑
革命の時期に於て政治的に涌勤した区例えばサ/ン・タントワーヌ郊外及びサン・モルソー郊外︵faubOurgsSaint−
AntOineet SaintMよrCeau︶は余り凋密な労働人口もなくまた大企業も見られず︑特にサン・タントアーヌの如
き一人の親方当りの労働人口ほパリ全体の平均を下廻るといわれている︒とすれば我々ほ最も革命的にして活潜な
サン・キュロットについて ︵三八九︶ 三劇
︵三九〇︶ 三二 第三十巻 第四号
政治的行動を行った層は親方 ︵petitspatrOnSartisans︶でありそしてその下の職人︵−eurc︒mpa笥eOuS︶であ
︵9︶ るという事実をこの面から認めなければなるまい︒そしてcOmpagn︒nS はその労働力を構成するに拘らず︑所謂
近代プロレタリアートというより小生産者的色彩が強い滝のと考えることほ決して背理でほあるまい︑とすれぼ我
々は前記の諸事件の史料に色々な語を以て現されている賃銀労働者の数は意外に低いものと想像して差支えないで
あろう︒また汐ヨレスがそのフランス革命史に於て触れているデュプレ︵Oup−ay︶なる者ほ元来指物業者であり︑
家賃だけで一万から二万二千リーグルの収入があった資産家であって︑自己の処で働く十数人の人々を召使︵serう
iteurs︶と呼び決して自分の食卓虹よぶことはなかった程被傭者に対し差別意識をもっていたに拘らず︑被傭者と
︵10︶ 同じくmenuiserと呼ばれていたといわれる事実なども同様の事を裏付けるのではあるまいか︒
以上の理由から我々はサン・キュロットの内に於て一見賃銀労働者と小生産者の混在が見られるにも拘らず︑や
ほり小生産者の比重の多い事実を認めなければならないと思うのである︒
︵1︶G.Rud2−LacOmpOSitiO㌢pp・N∽∞tN∽¢
︵2︶dum秒m2−Op・Cit・pp・N∽㌣彗○
︵3︶ この事件の全般的研究としては︑
A.Ma−hiez.Et已e旨r訂s甘彗n紆sde∽et¢OctObre−遜りRe言eHistO首u2L舛≦l︵−苫∞︶pp・Nた・N00rL舛5−1︵−悪ど
pp.N誌−N芝↑舛HH︵−00篭︶pp・舎よのがある︒
︵4︶G.R已e﹀LacOmpOSitiOn.pp.N苧N乱
︵5︶d亡m砂me︐Op● Cit︐pp.N謡−N遥
︵6︶d仁mのme︸ Op−Cit● p−N遥
︵7︶A・Matiez.LaまecFかre.p.−誤 \
︵8︶G−Rude Lesかmeutes.pp.余ムー
す︶F・B諾CぎEssaidestatistiq亡edニapOpu家OnOu星野2de2ari¢責S−喜一訂R晋0−uti告francaiseL当=讐N
p・N0000cit● SObO阜 P岩b訂me00﹀ p.帖ひひ
︵10︶SObO阜 PrOblemes p.誌叫
こ サン・キÅロットの斗争目標
然らば︑サン・キュロットゐ斗争の相手は如何な人々であったか︒その最大の敵は貴族であり︑特擬︑土地所
有︑領主権はその絶滅の対象とした主なものである︒例えば一七九三年九月八日︑ボーダール・サン・キュロット協
会︵−aSOCi監d2SSans・20tt2Sd2謬aucc2i−2︶が国民公会にあてた祝辞には次の様な言葉が学芸︒﹁我々は
サソ.キュロットである︒︹⁝⁝⁝︺貧しいとはいえ節操ある我々は手工業者︵artistes︶と農民︵paysan00︶の
胎祉をつくった︒我々ほ我々の友を︑即ち我々が教会︑貴族苫snOb−200e=2Saris官rates︶︑封建制︑十分の姦︑
︵1︶ 王国そして之等の附属物たる全ての束縛から解放した人々を︑識別している﹂と︒
然るに革命の進展に伴い︑サン・キ言ットと第三階級の上層部との対立が現れる︒先ずこの時期の政治家ベレ
ヨソ︵PetiOn︶の壱九三年四月十日の国風公会に於ける演説をひきたい︒﹁サン・キュロットというと︑人々ほ
︵2︶ 貴族を除く全市民を指すものという風には考﹂ぇず︑持たざる者を指すと諒解し︑持てる者と彼等を区別する﹂と︒
また共和暦第二年雨月︵壱九四年丁二月︶保安委員会︵COmi−かd2S旨etご号罫邑2︶にあてた一ノートはプ
リユチ言曾ut邑区に於て二つの党派︵pa−−is︶が存在し︑三ほサン・キ言ット派であり︑一つは銀行家︑ ︵3︶ 両替商︵
ag2ntSd2CFange︶︑金持︵richards︶のグループであることを述べている︒ま宝︵和暦第二年風月二七 サン・キ言ットについて ︵三九こ 三三
第三十巻 第四号 ︵壱 族
︵5︶
る︒
今この時期の対立を物議為具体的釜件がある︒叫七九妄九月十八日︑︑︑\ユ〃てワス・スケヴ言区革命委員会 ︵−ecOmi−⁚晋○−u−iOmaired21as2C−iOnd2rMu−i亭Sca2邑a︶はパリ警察の第重言るデュヴァル︵Du・ ︵6︶
呈の諾を命じ宗︑その雷とし三〇〇〇リープルの利子︵r2nteS︶をうけとったことが挙げられている︒
是サン・ド︑︑︑ソゴへの移民上りのリグォアール︵12an冨n首Ri各e︶なる者ほ語暦第二年芽月二日︵云九
四年三月二二日︶モンブラン区革命委員会︵−ec呂it⁚宣旨Onnaired2−as2CtiOnd2rMOn−・望ancこ依っ ︵7︶
て逮捕されたが︑彼が二ハ000リーグルの金利宗有しているのをその〟つの雷としている︒更に極端の場合
としては︑ピエール・ペッグレルへPierreB2Cqu2reこなる者が共和暦警年風月十九日︵壱九鱒年三月九日︶ ︵8︶ 唯︑私は財産を持っていると言ったぼかり軋捕えられ警とがある︒その他共和暦翌年苛月吉︵一七九五年肴
月二九日︶ァミ・ド・パL・‖ソィ区︵sec−10ndesAmisをa・Pa−rle︶に於てピエール・フォティエ︵Pi2r−2買2r︶
なる者が︑テル︑\\ドトル以後の反動的な空気の申で捕えられたが︑その理由は共和暦竺年に於て富者を嫉視する ︵
9︶ 感情を示し允が故とされている︒これ以外に︑是例えば︑エペールは国民の・内の最も慧な階級として︑久ン・
キ言ットを賞瘍し︑﹁我々蓋う大地霞もて潤すのは彼等である︒我々の着る織物をつくるのも彼等であら︑ 金属な細工し︑共和国防衛町役育ち武器をつくるのも彼等である﹂と論じ︑﹁銀行家︑財政家︑商人︑法律家要す
る賢ソ・キ言ット賢かる水蛭﹂︵−essangsues︶と﹁仕事に精根傾ける勤労的な手1業者﹂︵Ar−isans−abOrieu舛︶ ︵三九二︶ 三四
︵10︶ を対立させている ︵一七九三年九月︶︒これと同様なものとしては︑山七九三年九月二四日ポアソニエール区
︵−a sectiOn POissOmi野e︶′が公会へのアドレス軋於て ﹁富めるエゴイスト﹂ ︵−es ric訂s蒜Oistes︶ と﹁生業し
か持たぬ人民の勤労的な部分﹂ ︵cette pOrtiOn−abOrieuse du peup−e qui︹n︺a que sOn tra<aこpOnr凰∃e︶
︵11︶ との対立を説いている︒また革命暦第二年収狩月十六日︵二七九灯年七月四日︶ボン︒コンセール革命委員会︵−e
CO邑tかr晋○−utiOnnaire de−甘sectiOn de出On COnSei−︶ ほ硝石工場の三人の委員を免職したが︑その際﹁彼等ほ
︵12︶ 働く者として認めることの出来ない財富と傲慢を草有した﹂ ことをその理由として挙げている︒
吏紅サン・キふロットのヴアンチルニエ︵宅ingter已er︶ はサン・キ︒ロットとは︑何かという質問をうけて次
の様に答えている︒﹁それは常に足で行くく存在である ︹⁝ ⁝︺ 五階から六階紅白分の妻と子供と緒にただも
う簡単に住んでいる人間である﹂︑﹁と同時にサン・キュロットは地を耕し︑鍛鉄し︑鋳で挽き︑鎗をかけ︑屋根を
︵13︶ 覆い︑靴を作ることが出来る﹂と︒
さて再引用とはいえこの様な原史料により知り得ることほ︑この時期′に於けるサン・キュロットの敵が所謂勤労
的な国民大衆軋対立する非勤労的な富裕者︑即ち︑銀行家︑財政家︑大商人或ほ法律家といった人々であったとい
うことである︒而も同時にその対立ほサン・キュロットの小ブルジョア的性格によって高々財産の多寡によって据
えられ︑労働そのもの仮借なき認識を欠いていることを知ることが出来る︒この事は或る意味では当然の︑ことであ
りハ何等特筆すべきことではないであろう︒併しこの事実は次の点でやはり大書ざるべき重要性を持つといってよ
︒ 即ちサン・キュロットを構成する中小手工業者︑小商人︑︵更に当面問題となってはいないが︑農相においエは
小農︶ が所有︵prOpriかtか︶ の視点を脱することが出来なかったわけであるが︑正にその故に彼等が主張する政策は
︵三九三︶ 三五 サン・キュロットについて
︵三九四﹀ 三六 第三十巻寛四号 っ 没落即ちプロレタリア化を嫌悪することから︑自己防衛策としての商・エ・︵虚︶業全般登る保護政策であ雷
とである︒
︵1︶A−Cぎes邑iOna−esCN2P−の宗p・彗cit・SOb邑PrOb−em2∽・p・Nき
︵2︶B宍訂NetROきHIs−Oirepaユe莞n−airede−aRぎき○コfrancaise崇くp・琵
︵3︶ArcF na−・W冨d冨p・↓u af−airec邑inci−・SOb邑PrOblemes・p・琶
︵4︶これ等ほ当時の富裕階級がなった︒
︵5︶ArcF na−u cN誤P−簑p・崇√nit・SOb象ナ竹富b−emes・2p・N苧N烏
︵6︶Arch︐nat︸Fぷ竃りcit・SOb邑−P;b−ems・.p・N畠
︵7︶ArcF nat一u Fぷ宗∽cit・SOぎ昌PrObleme¢・p・相島
︵8︶Ar阜na汁︼句ぷ∽給Prふ●Pも・翠cit−S︒b邑︐P岩b−emes・p・N缶
︵9︶A記F nat..同一ら○¢cit・SOb邑︼PrOb−emes・p・Nお
︵10︶cit.SObO阜PrOb−emesp・N怠
︵11︶A岩ぎnat−CN寸NP−S∽p・00cit・SOb邑PrOb−eme∽・p・N怠
︵12︶A︻CF nat:Fぷ澄∽cit・SOg阜pMOb−emes・p・N臣
︵ほ︶ArcF nat.句ぷ∃習めMarkOくundSOb邑・〇p・Cit・S・N
三 革命期におけるブルジョアジー
これに対し所謂プル汐ヨア汐−は如何なる状態紅あったであろうか︑フランス番命史研究における所謂ブルジョ
アジーほ勿論日本西洋史学に於て通常概念される様なものではない︒たかだか︑貨幣財産を持つ者といった体のも
のでしかない︒併し︑今ここでほ先ず歴史的事実そのものを問題とすることとしたい︒
へ1︶ さてブルジョア汐−のうち最もすぐれた地位を占めていたのは金融業者と貿易商人であった︒彼等は︑或は国王紅
対する金融によって成長し︑或は徴税請負人として間接税の徴収紅あづかり︑或は陸海軍の補給に当っている御用
商人乃至は食糧販売商として軌次富を形成し来たものである︒またパリ紅於ては︑アンシアン・レ汐−ム末期に
ほ︑多く外国人紅してプロテスタントである金融業者が発生して来た︒即ちネッケル ︵Necker︶クラヴィエール
︵C−a嘉re︶等はスイス人であり︑またフアンデニフェルへぎnd2ny責︶の如きオランダ人︑ポイド︵BOyd︶の
如きイギリス人もいた︒そして彼等の主要な仕事ほ同様に国債を募ることであった︒そしてフランス出身︑外国出
身たるを問わず︑特に公債の相場に敏感であり︑スぺキふレーションも盛んに行われたのであっ宅
せた︑貿易商人にとってはやはり国外は勿論国内に於ても海上商業がその活躍舞台であった︒即ち当時道路の不
完全︑運河組織め未完成が患して国内に於てすら海上輸送を行ったわけである◇また植民地貿易も巨額に達し︑仏
餞アンチル諸島︵An−i−互遠から︑特賢ン
が︑輸出の殆んど全部が海上交通によっており︑これ等群島にほ黒人などが送られたりなどした︒これらの貿易に
従事した貿易商人はまだ専門化されておらず︑彼等ほ同時に造船業者であり︑或は工業経営者であった︒その最も
有力な者ほ港︑特にナント︵Na已2︶ボルドー︵BOrdeau︶マルセイユ︵Mars2i彦に多く屠を構え︑また内陸に
於ては工業の大中心地たるルーアン︵ROu旦オルレアン︵Or−2anS︶リヨン︵首On︶に居住していたのであった︒
彼等ブルモアジーの二部ほアンシアン・レジームと共に消え失せたが︑併しその他の人々は︑ルフェーブルによ
れば︑立憲王政派乃至フィヤン党︵句eui−1an−s︶ 後のジロングンの強力な組織を形成する人々であった︒然るにフ
ランス革命から最も大なる利益をひき出したのほ如何なる階層かといえば︑外ならぬ彼等であったのである︒
即ち︑モンタニヤール没落後の所謂チル︑︑\ドールの反動と称せられる時期の彼等の活躍︑発展に就いては︑かつ サン・キ言ット紅ついて ︵三九き 三七
︵完六︶ 貢 第三十巻+償四号
︵2︶ て筆者も若干触れる機会を待ったが︑要するに︑フランス革命の成果を最も有利に自らのものとすることが出来・た
のほこの階級であっ謡のである︒当時の所謂ブルジョア汐−の内容が正妃上記の如くであったとすれば︑サン・キ
ふロットが当面の敵とした仙部の富裕層は正町彼等プル汐ヨアジー.であったわけである︒
然らば︑ここで一つの問題が提起せられねばならない︒サン・キ言ットの革命的エネルギーが︑市民革命とし
てのフランス革命を遂行せしめるのに最も強力であったのに︑何故に1述の様な構造論的にいえほ反革命的な或は
それ程でなくても革命に余り寄与すること少なかったと考えられる彼等がフランス革命の成果を最も豊かに役得す
ることが出来たのであろうかという問題である︒これが歴史学的な解答を得るためには︑少くとも聾者にはモンク
ニヤールの経済政策の申にひそむ秘密を求めなければならない様に思われる︒
︵1︶G・12−eb昌一Qua−−e・・旨g−・neuf︵−冨︶pp■芋誓邦訳鈴林泰平訳︵一九五三竺四九1五五寅
︵2︶拙稿︑アンニア紙幣の減価に関する覚書 香川大学経済論叢隠士八森東篇号︵昭和三三年劇月︶
四 モソタエヤールの経済政策
然らば︑上述の様なサン・キふロットの要望に応じて︑モソタニヤールは如何なる経済政策を打出したのであろ
うか︒
併し︑このことを述べるに際しては︑山応モソタニヤール独裁の成立過程に就き三軍することが必要であろう︒
山体︑サン・キふロット軋基盤を置く政治勢力としてはジャコバン︵lac︒bins︶︑ジャック・ルー︵lacquesROu盟
を先頭とする過激派︵Enragか︶︑1エペール︵緊bert︶ の率いるエペルタィスト︵崇be邑stes︶ があったが︑汐ヤ
コバンがこれを中心として議会軋モンタニヤールを結成した議会勢力であったのに対して︑後の二者ほサン・キュ
︵1︶ ロットの内の下層の要求を代表した行動団体であった︒然るに︑結局後の二つは弾圧されて後成立したのがモンタ
ニヤールの独裁である︒従ってこの点から或る程度その経済政策の内容をも寛い知ることが出来よう︒
さて︑モンタニヤールの領袖達は特に農業生産及び土地所有鱒就てほ格別の関心があった︒それには当時二つの
理由があったように思われる︒第∵にほ︑食糧問題が人々の最も日常的な関心を集め︑都市の住民︑特にナン・キ
ュロットにとっては大きな問題であったからである︒即ち彼等の生活にとって重要なのはストライキや給料の値上
げでほなくて︑日常必常品の価格︑特に家族生計費の半分以上を占める穀物価格の変動であって︑いわばサン・キ ︵ 2︶ ユロットは消費者としての観点が貫かれていたわけである︒第二に︑農村に於てほ︑ルフェーーグルの諸業墜更に
それを批判的に再構成した日本の革命史研究のすぐれた諸成果が多彩に示す通り︑農民革命を推進して封建的土地
所有を終極的に打倒することは市民革命としてのフランス革命の最も本質的な課題.であり︑モンクニヤール︑特に ︵ 3︶ ロペスビュリスト︵Rbebespierristes︶の最大の課題であったからである︒
併しながら︑モンタニャトルほ農業の部面に於てこそ人為的な規制政策をとったが︑商工兼の領域に於てほ企
業の自由を確保するよう監息図したのであ.った︒例えば既に叫七九二年九月モンタニヤールの有力な幹部たるモ
モロ︵MOmOrO︶は土地所有︵PrOpriひ蒜st2邑tOria−es︶は法律を以て制限しても︑産業的財産︵PrOpriかt訂indu
striees︶ ほ不可侵であると宣言しているし︑はば同じ頃﹁推定された広さと人口を持つフランスの土地に適する
であろう人民政府の種類に関する草案﹂AIdかes s彗−打p仲cedegOu扁rnememtp名已airequi pOu志it cOn完nir
抄unpaysde−︑entendueetde iapOpulatiOnpr溜um仙2Sd2芯Franc2∀と題する国民公会に提示された論文の
中に於ても︑﹁土地所有 ︵prOpri聖品fOnCi野e︶ には限度をきめるが︑例えば貨幣︑公債︑商品︑船舶等々の如き
︵4︶ 純粋な動産の中に存在する財産の増大にほ如何なる限度も課さない﹂ことを論じている︒
事実その後のモンター㌦ヤールの経済政策ほ後述する通りこの二つの言説の通り展開されたといつてよい︒然るに
︵三九七︶ 三九 サン・キュロットについて
︵三九八︶ 四〇 第三十巻 第四号
これは農工商各領域に亘っ七規制を望むサン・キュロットの動向と明らかに食い速いを生ずる︒我々は更に進んで
この食い違いが如何にして生じ︑如何に展開して行ったかを歴史的具体的に追うこととしたい︒
山七九三年の危機以来︑パリの各区︵sectiOn︶ は自ら志願兵を編成する方向を打出し︑この目的のために若干の
区に於て︑例えばテ㌃イルリー︵Tuiすie︶区の手工場︵ate−ier︶ 等に見られる如く︑サン・キュロット自身の手
︵5︶ 工場を設立する動きが見られる︒山七九三年二月四日のデュイルリー区の区民総会 ︵L︑assmb−かe思n腎a−e︑de
︼a sectiOn des Tui−eries︶がその区民︵cOnCitOyenS︶に述べているところによれば﹁常山に︑強慾にして悪意あり
覇も拙劣な御用商人はもはや軍隊の行動を妨げることも︑我々の成功をとどめることも出来ない︒自由の運命はも
はや独占者の投機のなすがままにはならないであろう︒第二に少数の富める企業者︵entrepreneurs︶ はもはや︵軍
隊の︶装備・給蕃︵fOurmiture︶ から必ずしも利益を独得出来ないであろう︒その利益は全ての我々の商人︑すべ
ての勤労者︵Ou象ers︶そして我々全部軋分配されるであろうα 第三に︑叡智と節倹を以て常に指導される一切の
︵サン・キュロットの︶企業は最少の費用しか要らないから︑一層多くのものを供給するであろうし︑給養はより
︵6︶ よくなるであろう﹂と︒また一七九三年七月三十日パリの仝四八区の委員達が︑コ︑\\ユーン総会 ︵COnSei−g恥n野a−
de−aCOmmune︶ 紅於て︑多数の市民が小つの作業場︵a邑ier︶ に集中する事が如何に不便を来すかを説明し︑同時
︵7︶
仙日靴工の一代表は国民公会紅彼等のみに軍隊用靴の供給を許されるよう要求した事実があるし︑共和暦第二年雨
月四日︵山七九四年小月二三日︶にはリユチタ区の人民会︵−a sOCi賢かpOpu−aire de−﹀Unitか︶ はまた同様のことを
︵9︶ 要求している︒これ等の要求が出たのは︑つまり︑軍隊の装備・給養に関しては︑入札形式をとっているために︑
資本に於て弱いサン・キュロットの手工場に落札せず︑どうしても資本の大きい大企業者の方に落札してしまうこ に各区の作業場間の分業の方が遥かに有利であると認めていたことがモニトクールに見えている ︵8 山七九三年十月
とになるからであって︑この点の改正をサン・キュロットほ求めていたわけである︒この様な例ほ他にも見られ
る︒アン・プアり/ッド区︵−a sectiOn des InくaHdes︶の勤労者達は共和暦第二年雨月三〇日︵一七九四年二月一八日︶
に共和国軍隊のための被服製造は各区の作業場に分配さるべきであって︑強慾な入札者には分配すべからぎること
を要求している︒同区の総会もまた公共的事業の上で得られる利潤ほ最多数の人々及び貧しき人々の利益の方にむ
︵10︶ けられるのが正しいとしてこれに支持を与えている︒更にもう山つの例をあげると︑革命暦第二年花月劇日︵劇七
九四年四月二〇日︶ ル・ポネ・ルージュ区︵−a sectiOn du溺Onnet ROuge︶ ほ﹁允↓か二人の常に最も富める者が
至るところで全ての利益になる企業を必ず吸い込んでいる︒この仕事がもし正しく分配されるならば︑多数のよき
︵11︶ 市民に彼等の家族のための生存手段と一定の利益をもたらすであろう﹂と述べている︒以上やや冗漫に史実を羅列
して来たわけであるが︑これ等から知り得ることは︑当時のサン・キュロットがプル汐ヨアジ−の工業に於ける覇
纏を打倒して自分自身の手に工菜を完全に掌握せんとした試み紅は非常な困難が伴ったという事実である︒
勿論︑当時の段階に於て比較的少数の大企業家が全てを塑断するなどということは有り得べからざることであ
り︑事実国民公会が愛国証︵certificat deciまsme︶を持たなければ入札は不可能であることを定めた後は︑既に述
べたようなプル汐ヨアの大企業家は各区の区民総会︵assemb−かe pOpu−aire︶から愛国証を貰うことは殆んど不可能
であった︒それに引きかえ︑サン・キふロットは勿論愛国証取得に関して何の困難もなかったわけである︒それば
かりか例えばル・ポネ・ルージュ区のサン・キふロットはこれ等企業者達に対しでテロを加えることもあった程で
︵12︶ ある︒それにも拘らず︑大企業家のプチンス経済に於ける位置には殆んど変化はなかったのである︒
その理由如何といえば︑結局我々は革命政府臥政策が彼等大企業家温存の方向に働いたが放であると断ぜざるを
得ないのである︒即ち︑国家防衛のための軍備強化のため紅は︑現存の全ての生産力を活用しなければならない︒
サン・キュロットについて ︵三九九︶ 四則
︵四〇〇︶ 四二 第三十巻 第四号
従って所謂大企業を決してサン・キュロットに和して圧殺することほなかったわけである︒而も大企業ほ生産規模
に於て逢かに優れているから︑尚更無視する㍗とが出来なかった︒そればかりでなく更に︑山七九四年春以降には
サン・キュロットの圧力は減退し︑政府は自己の政策の盈盤を益々これ等大企巣の側に移すようになって行ったの
︵13︶ である︒
さて︑この様な事実ほ経済のもう仙つの部門である商業︑特に貿易に於ても見られる︒この間の経緯についてほ
︵14︶ ルフェーダルの厳密周到な論文があるので︑以下主としてこれに従い考究することとしたい︒
先ず︑彼はこの時期の貿易及び貿易政策を考究するにあたって︑四つの時期紅分ける︒驚の時期はイギリスを
中級とする欝仙次対仏同盟を敵とする対外戦争の開始された山七九三年初頭から同年十月迄︑第二の時期ほ九三
年十月から九四年四月頃まで︑第三の時期は九四年四月から同年九月までそしてそれ以後を滞四の時期としてい
る︒当面問題となるのほ特に第二︑第三の時期である︒
欝一の時期に於ては︑特にその前半期ほフランス革命史上有名な事件たる汐ロングンとモンタニヤールの対立が
はげしさを加えた時期であって︑貿易政策の面ではジロンダンの自由貿易主義とモンクニヤールの保護貿易主義の
︵15︶ 対立が見られた︒その相逮は要するにちょうど漸く現れ始めたアシニア・インフレーション紅伴う物価騰貴と貿易
との連関についての認識の相嵐によるものであって︑モンクニヤール特にサン・キュロッーは︑アシェアの減価︑
為替安︑資本の流出といったそれまでの経過から見て︑自由貿易ほ既にして十分とはいえない生活必需品や必要な煉
料のこれ以上の対外流出を招くから︑不可であると主張したのであ牒︒既に述べたように汐ロングンの有力な基盤
をなすものにナント・ボルドー・マルセイユの貿易商人があったが︑彼等はこの様なモンタニヤールの貿易政策に
反対し︑彼等の内の戎者は亡命し︑或は捕えられて墓い罰金に処せられた者もあったのである︒この様にしてサ
ン・キュロソート更にはモソタニヤールの輸出への反撥は恰も国民的利害竺致しているかの観な呈したわけであ
る︒
併しながらサン・キ言ット及びモソターニールほ輸入に関しては全然これを排除しようとする意図ほ持たなか
ったのであるが︑結果的には輸入もまた減少せざるを得なかったのである︒即ち九三年九月二九日軋公布され空
般最高価格法︵ma已mumg賢邑︶ほサン・キ言ッーのプログラムの本貿的な部分をなすものであるが︑これだ
けでも外国よりの輸入を妨害するに足るものであることは理解に難くない︒けだし︑公定価格に売るためにわざわ
ぎ個人的に外国で商品を買付けることなど到底有り得ないと思われるからである︒然る軋当時のフランスにと・′っ で てほ︑国民の生活の上で最も重要な食料の不足は揮うべくもなく︑何等かの形での輸入を必要とする︒ここ培に
サン・キュロット紅よって要論されるのが貿易事業の中央集権化乃至国営化である︒即ち︑革命暦第二年霧月二八
日︵壱九三軍仰十月十八且の法令軋よって︑基本的にほ公安委員会︵訂COmitかd2Sa−utpub宣 が食糧の
外国に於ける買付︑通貨の海外への支出︑フランス船舶の航行の可否を決定許可する権利を蒜保有すること︑ま
た箱月一〇日の法令によって二七九三年一山月三〇日︶如何なる商品と難も基本的には公安委員会の許可なくし
ては輸出することが出来ないこと︑更に雨月二九計︵山七九四年二月一七日︶の二つの法令にょって輸入された全 ノ 食糧の自由処理ほ公安委員会がなすべきこと等が定めちれ︑ここに貿易ほいわば国家の事業となったのである︒併
し︑公安委員会ほこの様な形を水久化するような考えほ持ってほいず︑各地の貿易業老が行っている貿易事業を自
己の目的のために利用せんとしたもの紅すぎず︑従って当初より貿易業者を全く排除して国家が全てこれを行おう
というものではなかった︒この点すでに政府とサン・キュロットとの間に或るずれがあっ警﹂とが判り︑興味深
︵16︶ ︒
サン・キュロットについて ︵四〇こ 四三
︵四〇二︶ 四四 第三十億 第四号
さて︑外国貿易せ司る政府親閲は一番伸心の公安委員会次いで商業委員会︵PmmissiOndec︒mmerCe︶であっ
てこれが厳重な支配権をめぐらLてい掌﹂とは前述の通りであるが︑商業委員会の下にパリに数個所の事務局
︵Agence︶があり︑その内の一つが外国貿易の事務を司っていたのである︒琴た一方︑食糧委員会 ︵COmmissiOn
des する立場にあった︒けだし輸入品の大宗は食粒であったからであろう︒以上の機構をきわめてラフに一瞥しただけ
で︑その複雑な行政機構の一端をうかがうことが出来ようやまた地方の貿易都市特にボルドー・マルセイユ等に於
いても同様な現象が見られる︒例えばボルドーに於いては対中立国通商委員会 ︵−a COmitかdes neGtreS︶ とアメ
リカ合衆国に於ける小麦買付を司る貿易人委員会・︵u臼COmitかdenegOCぎts︶ そして貿易全般の管理に当る通商
事務局︵L︑Agence cOmmeコia−e︶ が主なものであるが︑この外にもパリの委員会直属の検閲ありといった有様で
︵17︶ その機構の複雑なことほ想像に難くない︒そしてその他の地方に於ても同様な事実がしばしば見られたのである︒
従って行政機関の共同動作に不充分なものがある・のが当時の通例であり︑而も政府が常に恐れていたことが全国的
に緊要な諸物資が地方的に処理されることであったとすれば︑結局に於てこの恐れていた事実の発生を押えること
︵柑︶ ほ出来なかったのである︒
この様に制度的に見ても︑モソタニヤールの貿易政策の施行にほ不備な点が多かった︒併しょり重要なことは政
策そのものが終紅徹底的たり得なかったことである︒既に述べた様にモンタニヤールの貿易政策ほもともと所謂
n蒜OCiant︵大貿易商︶ を全面的に排除せん・とするものでないが︑その後の動きは彼等に反対するサン・キュロット
の要望に反して益々大圏易商との連繋を深めて行くものであった︒
即ち︑政府は外国貿易の中心地であった大港湾都市のイニレアティーグを尊重し︑或はfrigate︵帆走軍艦︶ をア
メリカ向けの貨幣の現送に使用することを許可し︑或は外国に於ける買付を拡大するため資金料融通したり′などし ︵19︶ て大貿易商との協同動作に出たのである︒また一方大貿易商の方でも外国より必需品を出来るだけ多く輸入せんと
するばかりでなく︑より積極的鱒食糧始め必常物資の輸入を二層拡大するため主に口常生活にさして影響のない祭
沢晶の輸出をより盛んにする︑つまり輸出の見返りに必需物資を出来るだけ輸入せんとする動きを示すものも出て
来て︑政府の歓迎をうけるところとなった︒
事態がこのようになってくると︑従来の様な保護貿易は国家紅とって必要欠くべからざる貿易を姑稟的に萎縮さ
せ︑国璧活を危殆に陥れるものとして当然再検討されるに至るであろうと想像することは必ずしも難いことでは
ない︒果せる哉︑共和暦第二年風月二一日︷一七九四年三月山一且国民公会ほ食糧委員会が常山の必要度を持た
︵20︶ ぬと考える商品はフランス人によって同盟国・中立国に輸出してよいとの法令を宣言し︑次いで芽月二凶日︵四月
三日︶にはembarg︒︵命令貯よって出港を停止させること︑保護貿易の仙つの政策︶の廃止とembargO等によっ
てうけた中立国船舶の損害補償を規定した︑前法の補足的法令を公布するに至った︒これらほ国境の閉鎖と封鎖経済
︵21︶ の終結︑保護貿易の後退以外の何物でもなかったのである︒そして同じく芽月二七日︵四月二ハ日︶の中で従来ハ
ンブルグその他に食糧費貝会から派遣されていた代表︵agents︶をよび返し︑それ軋代えるに専門の商人を以てす
ることが述べられている︒その理由の山つとして﹁商業に何等の知識を有せず︑その響恩と知識が共和国の信頼に
価する商業家達のよく工夫された諸施策を妨害するような代表達町政府の事業を委ねるのは危険である﹂ことが挙
′22︶ げられている︒ここに我々は貿易商人への迫害は全くなくなった事実︑そしてモンタニヤール政府と貿易商人とが
密着した様を見てとることが出来牒であろう︒
果して然らば︑貿易商人に激しい反対をしたサン・キふロットを現象的に︑は基盤としたキンタニヤールが何故に
サン.キュロットについて ︵四〇三︶ 四五
貿易商人を敵としないどころか︑寧ろこれ降給びついたのであろうか︒
先ず︑この点従来論ぜられる︶.しとが少かった点であるが︑工業の場合と同様フランスの防衛戎ほフランス経済の
維持という最も緊要な要請が挙げられなければならぬ︒政府がよし主観的にほサン・キ︒ロット的な観点からあく
まで貿易商人排撃に努力したとしても︑上述の如く︑フランス経済の申に客観的にそれを不可能にするような条件
があったことほ何といっても重要な事実といわなければなるまい︒このようなことは単にフランス革命に限らず︑
広く市民革命の歴史学的討究に際して一応考慮されてよい視角でほないかと思われる︒例えばイギりノス革命などの
場合如何であろうか︒
第二に︑右に述べたような客観的条件のみならず︑モンクニヤール政府自身が果して主観的にもサン・キュロッ
ト的な方向に貿易政策を推進して行こうとする意図を持っていたであろうか︒これは次の様にも言い換えられる︒
即ちそれを遂行し得るような人々によって政府が構成されていたであろうか︒これほ別た詳細に亘っで歴史学的に
論及きるべき問題であろうが︑敢て結論を先取すれば︑モンタニヤールの主流ほやはりブルジョアジーであって︑
その様な意図ほなかったのではないかと考えるのが正しい結論と思われる︒
︵1︶河野健二︑市民革命論︵一九五六年︶ 山三六更以下
︵2︶・SOぎ昌 PrOb−emes・p・N会
︵3︶G・12−2b喜︐訂spaysansdu冨邑pendanニaR晋01u−iOnfran雀Se︵−憲︶⁝QnestiOnSag邑r2S autempSde訂
Ter詔已︵−豊N﹀−寧ぎEtudeのSuニaR晋○−註Onf︻an竃−Se︵−減食2Sp︐HistOireagr賢e
高橋率八郎︑近代社会成立史論︵山九四七年︶同︑市民革命の構造︵副九五〇年︶︑柴田三千雄︑ヴアントーズ法についで
人文学報八骨:二九五三年︶一貫以下 第三十巻 罪四号 ︵四〇四︶ 四六
︵4︶ArcFV nat.ADH声cit・SObO阜Pr︒b−emes・p・Nあ
︵5︶SObOu−﹀ P⊇b−emes・p・N怠
︵6︶申旨−iO−訂quena−iOna−elb£冨Ⅵ2arls﹀an H imp∵nふ︒p﹂岸cit・SOb邑−PrOb−emes・p・N怠
︵7︶MOnite已r舛≦i p・N00ー
︵8︶MOniteu叫H≦ll p・−の
︵9︶ArcF n翠●D肖N誤・山岸c声SObO阜Pr︒b訂mes・p・Ng
︵10︶Arc訂コat句可書付∽−○︐Cit・SOb︒已﹀P岩blemes・p・Ng
︵11︶Arch.nat.D呂N諾ひd﹂=p−㌘cit・SOb邑﹀Pr︒b訂mes・p∴㍑岩
︵12︶SObO阜 PrOb−emes・p●N笠
︵13︶SObO阜PrOblemes・p・Ng
︵誓G.訂febく眉LecOmmerCee註r巨ren−︑a昌︵−¢NざEt已esppL3⊥塞
︵ほ︶この間の凝終についてはFr・誉ssbaum﹀C︒mmerCia−p︒licyint訂謬ncFR︒邑象︒n:St︒dy︒ft訂︒areer︒f
G↑Dl−Cber︵−∽N∽︶を参照︒芦S紆.謀stOir2かcOnOmiq完de−aF−anCe言−出 ︵︸芝N︶p・缶
︵16︶Lefeb∃e︸ Le cOmmerCe・Etudes・p﹂ヨ
︵口︶.du m砂me● p・−00ぴ
︵ほ︶旨m恥me︼ p.︼澄
︵19︶du m冊me.p●−ヨ
︵20︶du m仰me︸p﹂あー
︵21︶d仁mのme︸p・−00A
サン・キュロットについて ︵四〇五︶ 四七
五 フランス革命に於けるサン・キュロットの位置†1←紀び
然らばこの様なサン・キュロッーの動向は︑市民革命の典型たるフランス革命に於て如何なる位置を占めたであ
ろうか︒この点に就ては︑先ず以て我国西洋史学界の最高水準に於て果されつつある高橋華人郎氏の諸業績を顧み
なけれほならないであろう︒
さて氏は歴史の起動力を﹁生産九の自己発展﹂に置かれ︑それに伴う生産関係の変遷及びそれを基本的な経済制度
とする社会体制換言すれば生産力の歴史的な存在形態︑もっと平ったく言えば労働主体の搾取のされ方の変遷を追
及することを歴史研究の内容とされる︒そして中世社会の基本的経済制度たる封建的土地所有と近代社会の規範た
る産米資本とは全く異質的なものとして峻別され︑中世から近代への移行の分析に際しては︑生産力発展の諸段階
に応じて封建的土地所有と産業資本がそれぞれとる処の存在形態を追及され︑そして市民革命たるフランス革命に
於て︑その時期に於ける歴史的な存在形態をとっでいる産業資本によって同じくその時期に対応した形をとる封建
的土地所有が如何にして打倒されたかを論ぜられるものである︒
而して氏は︑筆者が考究しっつある当面の問題に関していうならば︑サン・キュロットこそこの段階に於ける産
業資本の本来的なにない手であって︑上述したブルジョア汐−は本来封建的土地所有規範の下にある前期的商業資
本︵問屋制をとる︶として封建的土地所有を全面的に打倒するブルジョア革命に対してほ終始反対の態度をとり︑
小生産者層の生産力の全面的な展開がもほや押えることが出来ない程になるに至って︑止むなく産業資本転転化し
︵1・︶ て行ったのであると論ずるのである︒そして最後にフランス資本主義の後進性ほ革命によって成立した広汎な小プ 第三十巻 罪四号
︵22︶d仁m仰me︸ p・−∞∽ ︵四〇六︶ 四八
ルジョア層の成立が之をもたらしたと結論する︒深い歴史的洞察と綿密にして明快な論理的展開とは︑我々後学に
とって学ぶべきむの多く︑今日に於けるフランス革命史研究は︑賛成反対の如何を問わず︑何らかの形に於て氏と
の対顔を意識しなくてほ二歩も進み得ない程である︒
然しながらフランス史学の実証的諸成果は封建的土地所有と産業資本とほ必ずしも判然と分れるものでもなく︑
また終始対立するものでもない︑寧ろ同脚物の両面をなすのが通例であること︑また商業資本こそが産業資本に転化 ︵ 2︶ するというのが通説であること︑従ってサン・キュロットの行動は小プルジョ・ア的反動として捉えられる傾きが強い ︵ 3︶ ごとを示している︒そして小ブルジョア層が革命に於て欠きな役割を演じたが故紅フランス資本主義の後進性をも
たらし・たことを論証しているのである︒勿論︑例えば商業資本が産業資本に転化したとの説に対しては︑高橋氏ほ
正にこれを流道主義として批判されたわけでこの点からのみ高橋民の業績を云々することほ必ずしも翼当とほいえ
ないし︑また氏は商業資本が産業資本に転化する事実をも無視せずこれを既述の様に柔軟に説明してはいる︒併し
ゃほり︑サン・キュロットたる小プル汐コア的小生産者の具体的な様相︑また彼等の経営するマニュファクチュア ︵ 4︶ 紅関する実証が少いし︑またそれがやがて資本制的工場に転化してゆく史料も︑少くとも︑現在でほ欠いていると ︵ 5︶ いってよく︑前期的商業資本と産業資本を氏のいわれる如く歴史的具体的存在としてほ峻別することを許さない状
態紅あるのではないか︒
この様なフランス実証史学と高橋史学のずれを意識的に問題として︑より脚歩進めようとする動きが︑これほ同
時に近代化の二つの道即ちアメリカ型とプロジャ型の対立の問題を新しく解釈しなおそうとする試みであるわけで
︵6︶ あるが︑近来現われて来たのである︒これ等ほ主として農業史の面に於て果されつつあり︑柴田三千雄氏︑遅塚忠 ︵ 7︶ 窮民の業紡がこれであるが︑これ等ほ同じ様な事態の見られる商工業の面の分析に際しても非常紅有益であろう︒
サン・・キュロットについて ︵四〇七︶ 四九
︵四〇八︶ 五〇 第三十巻 第四骨
即ち遅壕氏紅よれば純粋にアメリカ型といケむのほ封建的土地所有︵前期的商業資本︶のないアメリカの如き処
︵8︶ 紅於てのみ見られるのであって︑芋れな普感的な法則と見るととは出来ない︒林健太郎氏の要約に従えば理想型と
して想定されるに止るノ︒従って当面アンシアン・レジ−ム及び革命下のフランスに於ては純粋にアメリカ的な道が
見られないのは当然であり︑換言すれば前述の様な産業贋本と封建的土地所有︵前期的商業資本︶ は同じ物の両面
といった様相を呈するのもまた当然であるといわれるのである︒叫方これに対し︑−柴田民のいわれることほ聾者の
現在の知識を以てしては必ずしも理解し易いものではないが︑アメリカ型の道ほあくまで普遍的な法則である︒併
し︑封建土地所有が存在する処に於てほ︑封建土地所有︵前期的商業資本︶であると同時に産業資本といった形も ∴
見られるのであると︑いわれておられるようである︒
一体高橋史学の根底には既紅見たように︑﹁生産力の自己発展﹂という基本的な考え方があり︑従って労働主体
を中心にして歴史を見て行こうとする視角が強調されているため︑一つには発展する生産力を外から自己の支配下
に置こうとするものとして︑封建的土地所有︵前期的商業資本︶ を当面の時期に関していえば専ら反動体系として
理解する傾きがあると同時に︑生産力の内部から成長してくる純粋な産業資本の存在を強調してこれこそ本来的な
道であることを主張される︒であるから遅塚民の様転アメリカ塑の道を普遍的法則\でないと主張すをことはどうし
ても出来ないわけで︑柴田氏の見解の方が寧ろ高橋氏の説に親近性を持つと考えられるわけである︒
つまり︑遅塚氏の場合は生産力視点が若干稀薄となり︑前期的商業資本と産業資本の異質性を強調するより寧ろ
資本としての同山性を従来より強く押し出し︑而もその転化の契機に封建的支配の有無をおかれているように思
われる︒一方柴田氏は高橋氏の生産力視点をあくまで堅持しっつも︑封建的土地所有の存在にょって︑産糞資本と
封建的土地所有の交互侵透が生ずることを強調されているように思われる︒従ってサン・キュロットについても︑