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ヘ ー ゲ ル 『 大 論 理 学 』 批 判 ( 四 )

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ヘーゲル﹃大論理学﹄批判︵四︶

速 川 治 郎

まえがき

 ﹃大論理学﹄の詳論と批判を続ける前に述べておきたいことがある︒それは今いる私が過去の書物を読む時にそ

の前提となる思想があるということである︒その思想は精神科学上の自己反省から出て来たものであると言ったら

よいだろうか︒それをT・ボーダマーが比較的うまくまとめている︒ここでは彼がH・lG・ガーダマーの考えを要

約しているものだけを述べておこう︒それは次のとおりである︒自然科学はある現象を説明するのに対して精神科

学は了解するという考えを前提にして︑その了解をガーダマーは取り上げる︒了解は厳密に方法論的な科学の領域

に閉じ込められないものである︒こうしてガーダマーの﹃真理と方法﹄は解釈学的経験一般の研究に入ってゆく︒

﹁了解は一つの実存疇である場合︑科学的了解も実存的側面をもつ︒その了解は一つの出来事であり︑そのような出

来事の歴史的制約をもつ︒この制約を了解は十分に客観化することはできない︒このことを実現する人は新しい哲学

早稲田人文自然科学研究 第35号(H1.3)

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的課題を認識する︑すなわち精神科学の伝統的方法論の問題提起を越えるのである︒新しい方法論が問題なのでは

なく︑人間を人間自身で了解し続ける過程の中へ科学的方法を入れてしまうことが問題なのであるL︵蓬−ーミミミ︑

§匙さ導鼠馬・器︶︒精神科学は前提なしに研究されるのではなく︑歴史を通して︑そして了解の予断性︵<o歪箕〇一一ω︐

冨h江ひq閃①画け︶というものによって限定されているのである︒予断︵<o歪答Φ戸 これは偏見という意味もある︶は

かーダマーによれぽ一つの働きとして使用され︑軽蔑さるべきものではない︒予断は差し当たり一つの判断であ

り︑事実に即して規定する契機すべてを最終的に証明する前に持ち出されるものである︒ガーダマーは予断という

間違いをおかすこともある表現のほかに︑前もっての考え︑前もっての了解という語をも使用する︒了解は実際に

予断から離れてあるわけではない︒むしろ︑われわれはすべての了解の本質的な予断というものを認めなけれぽな

らないであろう︒他人の考えを受け取るということは︑自分の考えを不偏不党にしておくからできるわけでもな

く︑また自分の考えを無くしておくことによってできるものでもない︒古典との出会いによって或る人は独自の予

断を意識する機会をもつのである︒古典は現在から時間的に離れているということによって重要である︒離れてい

ることによって現在問題になっているものの省察がでてくるのである︒伝統的な著作は現在の人々に働きかけてい

る意味で影響史的側面をもっているが︑その著作は学的分析の対象としてのみみなされるのではなくて︑対話の相

手としてみなされるべきである︒無関係な形式となっていた伝統的な著作は対話という生き生きした現在へ引き入

れられる︵90αO︶︒精神科学は問いと答えという形式で過去と現在とを対立させ︑また媒介させ合う︒歴史的社会的

な独自の予断から離れるということと予断の正当な真理要求によって批判的に吟味され︑新しく理解された伝統に

近寄るということ︑この二つのことを精神科学は可能にする︒精神科学は伝統の観察者ではなく︑伝統の出来事に

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ヘーゲル『大論理学』批判(四)

参加する者である︒精神科学は人間の現存在を確立するための意味について問題をいろいろ立てることの重要性を

批判的に吟味する︒有限的な人間が歴史的︑社会的に生きていく連関の中では直接態は決してないのである︒客観

的知識なるものは絶対的なものではなく︑歴史的な媒介を経ている常に制限された知識である︒

 精神科学はガーダマーにとっては倫理的知識と密接につながっている︒彼は精神科学の了解を実践的英知

︵℃︼P同O口Φω一ω︶の知識と結び付ける︒この知識に近代では変容されて常識︵ωoロω葛oo戸沢賃艮ω︶︑判断力という概念

が相応している︵δhh︶︒数学的厳密性は生きて行く実践的経験の領域にはふさわしいものではない︒筆者にとって

は︑ふさわしいものではないとただ言うよりも︑その厳密性は現実に生きて行くことの中に入り込めないほど︑生

きて経験することの中に偶然が多いと言った方がよいと思う︒だから様相論理学が出て来るわけである︒そうは言

っても様相論理学の形式的厳密性が生きて行くうえでの具体的指針になる訳でもない︒

 人間の行為を︸定の方向に導く知識は︑人間を省察し︑人間の行動の本質的目的を省察する実践的知識である︒

ガーダマーによれば精神科学は古典語の原典を解釈し︑考察することなのである︒そして彼は科学理論の方法論主

義を批判する︒しかしながら自然科学の知識が精神科学の領域にまったく浸透しないということはありえないと筆

者は考える︒例えば記号論理学は数学基礎論においても研究されているが︑法学︑宗教︑形而上学においても研究

されている︒精神科学の特質を述べることは必要であると思うが︑自然科学と精神科学の相互浸透は否定できない

のではないだろうか︒

 ガーダマーにとって古典語はもちろんギリシャ語︑ラテン語であるが︑筆者にとって古典語は一九世紀のドイツ

語と言える︒それゆえへ!ゲルの﹃大論理学﹄の解釈︑批判が行われるのである︒そうは言ってもガーダマーの主

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張を全面的に認めて﹃大論理学﹄批判を筆者は書くわけではない︒誰でも何かを研究する場合︑予断をもっている

ことは間違いない︒筆者にとって﹃大論理学﹄は不明確な表現の多い書という思いが強い︒そういう予断がある︒

しかしそれは一つの結果の判断でもある︒これを強固にすることは﹃大論理学﹄批判をさらに続けることになる︒

このことによってひいては﹃大論理学﹄は説得力のあるものになる可能性をもつのである︒

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 さて﹃大論理学﹄の解釈と批判を続けていこう︒

 B.有限性は次の三つに分かれる︑すなわち a.塗るものと他のもの b.規定︑性状︑限界 c.有限性と

なるが︑最後の︒.有限性を述べるときが来た︒

 定有は規定され︑確定されている︒留るものには質︵性質︶があり︑限界があって︑差し当たり︑普通の考えで

    ヘ  ヘ      へは︑或るものは肯定された︑静止した定有である︵ここでも﹁もの﹂が﹁有﹂になっているが︑ヘーゲルはその意

味を明瞭にしておくべきであろう︶︒この否定︵武市訳では﹁限界﹂となっているが︑筆者の考えでは︑それは限

界の中にある否定である︑すなわち︑この段階では他のものを否定していることが限界となっているので︑限界と

しての否定である︶は発展して或るものの定有と或るものに内在する限界としての否定︵限界と否定が同一になっ

ている︶との対立︑そのような定有と否定との対立が亙るものの自己内有︵退るもの自身の中にあること︶であ

り︑そして曇るものはそれ自身成︵そのようになっている︶にすぎないのであって︑ ︵論理的展開のモメントであ

る︶否定は或るものの有限性を構成している︒

 物が有限であると言う場合︑物が規定態をもつというだけではない︒すなわち物が実在しているから︑また面目

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ヘーゲル『大論理学』批判(四)

的に有る規定︵規定としてあるだけで︑これから弁証法的に発展する︶をもっから︑物は内的な本来の質︵本質︶を      そと維持している︒したがって物は限界付けられている︒この場合には︑物は物自身の限界の外になお定有がある︵即

自的に有る規定は定有ではない︒またその規定は展開してしまうから︑一定のところに有る定有ではない︶︒しかし

物は限界付けられているというだけではなく︑むしろ非有が物の本性︑つまり物の有を決定する︒今一度言うと物

が有限であると言われる場合︑物が限定されているだけでなく︑むしろ非有が物に有る本性︑物の有を決定する︒

つまり有限的な物の有を越え出るということ︑すなわち非有︵有限的な物の有を越え出ること︶が物の有を構成す

る︒物が有るということの真理︵物が有るということはいつかは消失することであり︑それを真理とみているの

で︑この文脈から考えると︑そういう真理の意味の先取りがあると言えなくもない︶はその物の終わり︵国昌島ρ終

末︑限り︑滅びるということ︶である︒有限的なものは消えて行く︑消滅するのである︒有限的なもののいわば死

によって︑そのものの誕生がある︒

 α.有限性の直接態

 物の有限性は限りがあるということをただ限りがあるだけだと極端化してみると︑その結果それの消滅︵死︶が

あるということとなり︑その意味で︑物の有限性は質的否定なのである︒この否定は︑無と消滅が有に対して︑抽

象的︵非弁証法的︶に対立するところにまで戻ってしまっている︵物の有限性と消滅は有と無とがまったく分離し

ているのと同じ状態である︶︒ このような否定は質的単純性︵単純に有と無とに分けていること︶であるので︑有

限性はかたくなに悟性のカテゴリーとなっている︵すなわち有と無とを別々にして独立させてしまうような悟性の

カテゴリーに有限性はなってしまう︶︒否定一般︑性状︑限界はそれらの他のもの︑ つまり定有と調和︑一致して

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いる︵この文はすぐ前の文とつながらない︒前の文は弁証法的思考に対立する悟性に関することを言っているの

に︑突然︑後の文はどちらかというと弁証法的思考にとれるような言い方になっている︒武市訳は﹁否定一般と

か︑性状とか︑限界などは︑その他者︑すなわち定有と両立しないものではない﹂となっているので︑否定一般︑

性状︑限界とこれらの他者︑すなわち定有とは両立し︑区別されて︑自立しているようにとれないこともない︒結

局ヘーゲルの文がはっきりしないことになるであろう︶︒抽象的無もまた無それだけであるから抽象として︵他の

ものへ︑つまり有へ移行しないこととして︶放棄される︒しかしながら有限性は即自的なものとして︵それ自体と

して︶固定された否定であり︵有限性は消滅してしまう限りで︑確固たる否定であるととれるが︑そうすると消滅

することと否定は同一の意味となっている︒また有限性が否定であるならば︑有限性というものが否定作用と同じ

ものになってしまう︒以上の点からヘーゲルの文は不明確である︶︑したがって有限性とは別のものである肯定的

なもの︵いつまでも有ると肯定するもの︑消滅しない永遠なもの︶に明確に対立する︒どうして対立するのか︒有

限性は消滅するもの︵否定されるもの︶︑終わりになるものだからである︒iそれどころかさらに有限的なもの

︵これまで有限性と言っていたのに突然有限的なものという表現に変わってしまっている︒変えるならば変える理

由を述べるべきではないか︶は有限的なものの肯定的なもの︑つまり無限者に達して︑無限性と結び付くのを拒否

       ヘ   ヘ      ヘ   へすること︵量ω<Φ暑①茜︒ヨ︶である︵有限的なものが拒否することになるのかという疑問が出て来る可能性があ

るが︑盆ω国口置一〇げΦは有限的なことと訳すこともできる︶︒したがって有限的なもの︵こと︶は有限的なもの自身

の無︵すなわちいずれは消滅してしまうこと︶と一つになっている︒だから有限的なことから見ると他のもの︵他

者︶すなわち肯定的なもの︵消滅しないで永遠にあるもの︶と和解する︵一緒になる︶ということはありえない︒

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ヘーゲル『大論理学』批判(四)

有限的な物の規定︵内面的本質︶はその物が終わりになり︑消滅することなのだ︒悟性︵分析的思考能力︶は︵物

の︶非有︵消滅︶を不滅であると同時に絶対的である︵非有がどこまでも非有であり︑非有以外にはなり・兄ないと

いう意味である﹁不滅であると同時に絶対的である﹂という表現はメタ言語である︶とすることによって︑有限性

の悲しみの中にいる︵物が消滅して無くなるという有限性の悲哀の中にいる︶︒有限性が消滅するということは有

      ヘ   ヘ   へ   も   へ限々の他のものである肯定的なもの︵不滅なもの︑永遠にあるもの︶の中でのみ︑ ︵不滅なもの︑永遠にあるもの

との比較の中でという意味である︒なぜなら有限的なものと言う時にはすでに無限なもの︑不滅なものが思い浮か

べられており︑この中で有限的なものが語られているからである︶消滅しうる︒そこで有限性は単なる有限的な物

︵有限的な物以外の何ものでもないと言えば︑﹁何もの﹂の中に不滅なものを思い浮かべうるが︑このことには達し

ていない有限的な物︶から離れる︒だが有限的な物から離れると言っても︑先の有限性ということは物の不変的な

質である︒すなわち物の他者︑つまり肯定的なもの︵不滅なもの︑永遠にあるものとして肯定されているもの︶に

推移することのない有限性︵消滅してしまうもの︶の質がある︒そこで有限姓は永遠︵①乱σq︶なのである︵なぜ

ならぽ有限性はどこまでも常に消滅してしまうものだからである︒しかしながら﹁有限性は永遠なのである﹂とい

うヘーゲルの表現は不適切である︒それというのも﹁常に消滅してしまう﹂という性質が永遠なのであって︑有限

性そのものが永遠ではないからである︶︒

 どんな哲学でも︑どんな悟性でも︑有限的なものは絶対︵不滅なもの︶であるということは言わない︒その哲

学︑悟性は︑有限的なものは制限されたもの︑はかないもの︵過ぎ去ってしまうもの︶と言うのである︒しかしこ

こで重要なのは有限性の有︵有限という状態に有ること︶が主張され︑はかない︑過ぎ去ってしまうもの︑すなわ

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ち望事︵有限的なものの意味にとらざるをえない︶が消滅する︵畠器く興σqΦげ︒昌く巽αqoロ計消滅が消滅すると言う

のであれば永遠になってしまうと思われるが︑ここではそうではなく有限的なものが終わり消滅するという意味で

ある︒消滅は有限的なものの一性質であるのに︑消滅11有限的なものというのは強引すぎる︒適切な意味がとれる

ような言語表現をすべきであろう︒先のような表現を使いたいならば︑断り書きをすべきである︶︒ここでは消滅

︵有限的なもの︶が消滅するということはありえない︵今度は消滅が消滅するでなくて︑この逆の消滅が消滅しな

いと言っている︒その意味は次のとおり︶︒すなわち有限的なものは無限的なものと調和しないし︑一致しない︵要

するにヘーゲルは有限的なものが無限的なものと別になってどこまでも有るということを言っている︶︒有限的な

ものは肯定︵諺窪H旨9鉱oPすなわち有限的なものが消滅するものとして有ることを肯定するととれるが︑﹀︷h貯言9︐

葛︒昌に冠詞がないので︑すぐ後に出て来る肯定的なもの︑すなわち無限的なものの肯定にもとれる︒ ここでは前

の解釈にしておく︒とにかくあいまいな表現である︶を肯定的なもの︵永遠に有るもの︶︑すなわち無限的なもの

から︵有限的なものは無限的なものではないものとして有るということにより︶えるであろう︵﹁肯定﹂と﹁肯定

的なもの﹂の中の﹁肯定﹂との意味が違うのであるから︑それらの意味を明確にしておくべきであろう︶︒有限的

なものは消滅する︒このことは有限的なものと無限的なものとの一致を意味する︒しかし有限的なものがなくなっ

ているのに︑有限的なものと無限的なものと一致するであろうか︒ 致は不可能である︒この段階では有限的なも

のの消滅が最後に行き着くところのものであって︑消滅の消滅である︵有限の消滅ということがなくなって生ずる︶

肯定的なもの︵無限的なもの︶が行き着くところのものではない︒しかしながら有限的なものは肯定的なもの︵無

限的なもの︶の中で消滅するものである︒有限的なものが終わりに消滅するということが消滅する︒なぜなら有限

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ヘーゲル『大論理学』批判(四)

的なものが肯定的なもの︵無限的なもの︶となってしまうからである︵しかしヘーゲルはここではその理由を明確

に述べていない︶︒ これが有限的なものの真の意味なので有限者を真に肯定していること︵理解していること︶に

なる︒ 有限者︵有︶の終わり︵果て︑端︶が無である︵有が無である︶ということが矛盾だとヘーゲルは一応言う︵有

限者を有としないと矛盾にならないようになっているので︑この場合形式的矛盾にもなっていない︒有限老はもち

ろん限り有るものであるが︑このものを有とするのはかなり強引であり︑そのものに特殊な意味をもたせることに

なる︒それならば︑あらかじめ断っておかなけれぽならないであろう︒それにしても有限者の矛盾は有無の矛盾

と同じではない︶︒有限的なものは無限的なものに永遠に対立し︑そして絶対的に︵き臨︒ぽ︶空虚なもの︵畠ω

Zざげ二σqρ無限的なもの︶が有る︵すなわち対立していない︶︒そうすると有限的なものは消えた意味で絶対的に

空虚なもの︵無限的なもの︑すなわち有限的でないもの︶として有る︒以上の矛盾︵これは表現形式を変えて初め

て形式的矛盾となるのであって︑その意味に矛盾があるわけではない︶は最初にあった有無とは違って表現が具体

的になっている︒有限的なもの︵非弁証法上のもの︶は有限的なもののところで︵碧讐旨りはつきりとあらわに

なって︶このような矛盾として︵表現形式的矛盾をとることによって︶自分の中で︵旨玖︒げ︶崩壊する︒この矛

盾を解決するにはどうするのか︒有限的なものが消滅︑滅亡するというこの滅亡︑無︵有限的なものがなくなるこ

と︶が究極のものではなく︑むしろこの滅亡︑無が滅亡する︵有限的なものがなくなることが滅亡する︶というこ

とから解決がなされる︒つまり有限的なものが無限的なものになることである︒ここに推移がある︒

      ︵未完︶

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