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経営学の対象の問題 : 「経営経済」学説の対象理論の批判 (大谷孝太郎先生還暦記念論文集)

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経営学の対象の問題

−﹁経営経済﹂学説の対象理論の批判一

山 本 安 次 郎

一 序 口  1 経営学本質論と自律性  経営学を方法論的に問題とするとき、その自律性の問題が前提をなしている。経営学とは如何なる学問 か。それは経営の﹁経済学﹂でなければならないか、それとも文字通り経営の﹁経営学﹂でよいか。一般に、その対象、方法、体系はど のようなもので、如何に規定せられるか。経営学近代化の出発点から、この問題をめぐっていろいろな学説の成立し対立せることは学説 史の示す通りであるが、これに如何に答えるにせよ、そこには意識するか否かはともかく、自律性ないし独立性の問題︵℃吋〇三①ヨ匹葭 ﹀葺80日冨。鎚■ω2げω叶ぎ畠戯評忽け︶、他の学問に対する限界づけの問題︵℃目。ぼΦ目窪葭︾びσq話自8ぴq︶が底流をなしている。そして諸学説 の批判を通して、上述の問題に必然的な答解を試み、その自律性の根拠を明らかにし自覚的にすることこそ経営学本質論の課題に外なら ない。  元より、このような研究を﹁経営学学﹂として軽視し郷熟する傾向があり、われわれもこのような非難の妥当する形式的な方法論的研 究の存在を否定し得ない。しかし真に﹁経営学﹂的研究に立脚する実質的な﹁経営学学﹂つまり﹁経営学本質論﹂の重要性をも否定し得 ない。特に近時経営経済学説の側からこの自律性の要求に疑問が提出され、むしろこれを否定して経済学への従属或いは経済学との統一        が主張せられるのを見れば、本格的な経営学本質論の必要はいよいよ増大する。学問の自律性はどうでもよい問題であろうか。経営構造 の発展につれて研究領域は拡大し、経営学研究の﹁方向喪失﹂の危険に直面せるいまこそ、ドイツに限定することなく広く世界的視野と 比較経営学的立場において経営学の本質を問い直し、自律性の問題に答えねばならない。  2 経営学本質論と対象論  問題に正しく答えるには先ず聞題そのものを正しく理解せねばならない。われわれの古くからの努力は 経営学の対象の問題︵山本︶ 一五三

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       一五四       ② もちろん、ここ二三年来の努力が主としてこれに向けられたのもそのためである。そこでの問題は経営学の基本閥題に関する諸見解の纏 れ合いの中からいわば﹁結び目﹂を求め、その構造的特質を明らかにすることであった。  これらの﹁結び目﹂の所在と構造が理解されれば、当然これを解くことが問題となるべく、われわれはその第一着手として対象.の方法        ③ 的把握たる経営学の学的性格における﹁結び目﹂から始め、経営学の実践科学性を朋らかにしたのであった。しかし、その科学性格の問 題は方法論や対象論と密接な関連にある。だから、これを根概から理解するには、更に根本的な﹁結び目﹂に向わねばならない。ここで は最も基礎的な﹁結び目﹂として対象論を取上げる。対象は学問の自律性の根拠をなし、.経営学においても文字通り学的建築の基礎であ り土台であり、恰も車輪の輻が集中する殻に外ならないからである。よくコ言葉の支酎﹂ ︵ゴノトル︶からの解放が叫ばれながら、依然 として学問の名称が対象をもって呼ばれるのもこのことを示す。経営学本質論は対象を﹁如何に﹂ ︵芝一①︶見るかの前に先ずその対象は       ④ ﹁何か﹂ ︵≦器︶に答うべきであり、方法論も対象論に帰着するともいえる。まことに、これを貰下としない方法論的研究は﹁空活を脱 穀する﹂︵冨霞Φ。。ω貯。げ穿Φω聾窪︶︵シュマーレンハソバ︶﹁無駄骨折り﹂︵ω冨毛げ島鉾び①ε ︵ゼルハイム︶であって、われわれはいま経 営学の科学的性格諭から対象論に下降し、その基礎を求めていよいよ経営学本質論の中心点に接近し、その対象規定によって基礎づけを 行い自律性の根拠を見ようとするのである。  3 問題の提起と限定  以上経営学本質論における対象論の意義を述べたが、そこでは同時に対象論の課題も示されている。何人も 知る通りまた後に概観する通り、経営学説話って対象学説は多様性と対立性を示している。単なる学史的研究であれば、現存するそれぞ れの学説の特色を明らかにし多様性と対立性の理由を示し関連や系統を説けば足るであろう。しかし学史的研究とその学理的研究との統 一たる経営学本質論にとっては経営学は一定の形式ざえ備えておればどのようなものであつでもよいというものではない。むしろ諸学説        ⑤ の相対性を認めつつ、これを越える道を求めることが問題である。経営学の形成が問題である。そこには経営学の基礎として自律性に根 拠を与えるところの、経営学に必然的にして固有な対象がなければならない。そのような対象は何か、それは如何に規定せられるか、ま たその構造如何ずに答えることこそ対象論の課題である。しかしこのような課題は、現実の対象学説の無限ともいうべき多様性、越え難 きかに見える対立性を前に如何にして可能であるか。遂に経営学の相対性を承認せざるを得ないか。  いうまでもなく、対象論に限定しても、われわれの課題は関幽するところ広くして深く、ここで与えられた紙数では到底論じ尽し得な いので、ここではただ対象問題の序論的部分として﹁経営経済﹂学説の対象理論の批判的考察に限定せねばならない。対象諸学説の批判 を通して積極的な﹁経営﹂学説の主張は続稿にて試みる外はない。

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①池内信行、現代経営理論の反省、市原季一、西独経営経済学、など参照。 ② 古いもののうち主なものとして、拙稿、経営存在の主体的構造について︵本誌創刊号︶、 経営学の立場と経営の立場︵日本経営学  積憂、経営学論集第二十↓集︶、経営構造の発展と主体性の問題︵平井泰太郎編、経営目的の達成と経営構造︶、経営学か経営経済学  か︵PR、五ノ九︶をあげ、近いものとしては、経営学本質論序説︵本誌、四六・四七合併号︶、経営学本質論の回顧と展望︵本誌、  四八・四九合併号︶、続経営学本質論の回顧と展望︵本誌五一号︶などをあげよう。 ③拙稿、経営学の学的性格の問題︵本誌、五九・六〇・六一合併号︶参照。 ④ω警。p覧ぎαq鴇閏こ∪巽国時Φコ罧巳。。σq①σQ・鵠$脱漏興しd①曾臣①ぴ・。≦三。。。冨︷邑⑦町。=82ω二.この問題については後に詳論する。 ⑤ この問題については、上掲、本誌五一号の拙稿に詳しい。

二 対象学説の対立と統一

 1 経営学本質論の基本問題体系  以上に述べた如き意味にて、ここでの問題は経営学の対象論であり、単にドイツ経営学に眼幽す ることなく、広く世界の動向に照しつつ経営学に必然的な対象の規定を試みることであるが、問題の意味と地位との理解に資するために 先ず経営学本質論の基本問題における﹁結び目﹂を体系的に概観し、対象学説の多様性と対立性を明らかにし、問題の所在を明確にして おくのが便利である。       ,  ドイツ経営学史が示すように、また理論上当然ではあるか、経営掌方法論ないし本質論の第一のそして根本的な問題は、人の意識する と否とにかかわらず経営学の﹁自律性﹂ないし﹁独立性﹂をめぐる問題であった。これが方法論的研究を促進するのであって、それはわ れわれが本稿の出発点において触れた通りである。そして、歴史的にはもちろん、論理的に考えるも、そこには否定説と肯定説との対立 が見られ、次第に肯定説が支配的となった。しかしその肯定説にも相対的︵経営経済学説︶と絶対的︵経営学説︶とがある。  次に、経営学の﹁科学性﹂︵詩型u。魯ω警既臣。ゲ犀Φ詳︶ないし学的性格︵毛誇①冨。げ昧訂。訂屋寮①目︶の問題がある。これは直接間接に自律 性の問題と関連するが、これをめぐる学説には、上掲の論文で示したように、純粋科学的︵鴨① ⇒︶と応用科学的︵きσQΦ自磐黛︶、或いは理 論的︵汗8話臥。。oげ︶、規範的︵ぎ居匿豊く︶、実践的︵嘆帥匹一の畠︶の別があり、少数の例外を除けば次第に実践科学説に傾きつつある。  更に、経営学の﹁方法﹂︵寓①爵。匹ρゆの鍵⇔oげ言コσQω芝Φ冨Φ︶ないし﹁観点﹂ ︵○Φω8げ奄美寄︶の問題がある。これは科学性の問題と関連 経営学の対象の問題︵山本︶ 一王五

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一五六 し、形式的には規範的︵昌O目目口鋤隊く︶と経験実在的︵①ヨ℃三ω筈∴$房ヰω。プ︶ の二或いは理論的、規範的、実践的の三に分れ、実質的には 利潤︵℃8津︶、営利︵卑≦帯び︶または牧益性︵幻Φ巳口器年聲︶、経済性︵≦三。・畠三島鼻寄δ、生産性︵旧Ho島団円牙容舞︶が対立している。  最後に、われわれがここで取げようとする﹁対象﹂︵Oゆびq①霧母づ倉○σオ痒︶の問題がある。 これは更に二つの問題に分れる。第一は対 象の概念、対象規定の方法、対象と方法との関係をめぐる理論的形式的な問題−一応これを対象理論といおう一であるが、それには       ①       ②      ③ いわゆる客観説と主観説、客観主義と主観主義、客観主義理論︵oど①閃口丘。。汁訪。げΦ↓ぽ①oH貯︶と主観主義理論︵ωβ﹃冨上白く聾冨。げ①泳げΦo臨ゆ︶ との対立がある。第二は経営学の対象を規定する実質的な問題1﹁応これを対象問題といおう一であるが、これをめぐって種々複雑 な見解が成立する。この対象問題を中心として見たる経営学説を特に対象学説と名づけること.にし、以下これにつき概観しよう。  2 対象学説の多種性と対立性  上に指摘した基本問題のおのおのをめぐって諸見解が対立し、しかも関連の複雑な纏れ合いをなす から、そこに如何に多様にして対立を含む経営学説が成立し、また如何に複雑な系統を示すか理解し得るであろう。これを対象学説に限 定しても、問題は必ずしも単純化するものではない。経営学を聞題とする者にして対象を問題としない者はなく、ある意味では対象学説 即経営学説ともいえるからである。だから、これら多種多様な学説のすべてを検討し、これを系統づけ]つの体系化を試みること自身極 めて困難な課題である。しかし、もし問題をドイツ経営学に限定すれば、後に示すように、そこにはいろいろな試みがあるから、ある意 味で.はさほど困難ではないとも.いえよう。けれども、これを世界的規模におい.て問題とし、比較経営学的立場から体系化を試みたものは 未だ存在しないのであるから、われわれの問題が如何に困難であり、試論の域を脱しないものに終らざるを得ないであろうことも理解さ れるであろう。けれども、モクスターのいう如く、 ﹁この問題に対する多数の見解を数え尽すことは不可能であり、根本的には無用であ ④ る。﹂ この.意味で、ドイツ特に西ドイツ、米英仏及びわが国の主要な対象学説を通観すれば、一応次のように分類し、体系化し得るよう に思われる・⑤

対鑑経済学説魏畿

管理学説 組織学説 経営学説  先ず、広義の﹁経営経済﹂学説或いは単に﹁経済﹂学説は経営学の対象を何等かの意味で、 ﹁経済﹂ないし﹁経済的側面﹂に外ならないと見る見解の総称である。ドイツ経営学と呼ばれ るものやわが国の経営経済学派はこれであり、米英のビジネス・エコノミックスやマネジャー リヤル・エコノミックスもこれに属せしめ得よう。経済学説は、更にその問題とする経済の構 造や範囲によって、私経済学説︵℃ユ奉響葺。。筈昧邑9HΦ︶ ︵企業学説、いわゆる個別資本学説 を含む︶、個別経済学説︵閏ぎN色≦凶ほ。・。匿眺邑㊦ゲ掃︶、経営経済学説︵bd①三①ぴω鼠H房。冨︷虜一Φ年①︶

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に分れる。これらが更に方法、科学性、自律性に関する見解か.らいろい.うに分れ、結局一人一説といわれること周知の通りである。  管理学説というのは経営学の対象を﹁経営管理﹂︵げロ。。ぼΦ。。。。ヨ§鋤σQ①ヨ①暮。同&盗塁ωぐ蝕。目︶とし、経営学は特殊管理論に外ならない と見る説の総称である。アメリカ経営学と呼ばれるものは殆んどこれに属し、英仏の経営学もこれに数えられる。対象範囲に広狭、見地       ⑥ に高低、理論に深浅、論述に精粗の.別はあるけれども、ほぼ一つの定型を示している。  組織学説というのは経営学を﹁経営組織﹂を対象とする特殊組織学と見る見解の総称である。この見解の支持者はドイツやアメリカな        ⑦ どにも見られないこともないが、真にこれを方法論的に基礎づけた建設者としてはわが馬場敬治博土をあげねばならない。  最後に、経営学説であるが、ここでいうのはこれまでのように経営経済学の単なる略称として無自覚的なものとしてではなく、むしろ 方法論的自覚に立ち、積極的にその対象を﹁経営﹂に認め、それによって経営学の自律性を基礎づけ得ると.する見解の総称である。これ もこれまでいろいろな人によって主張せられ、近時ドイツにおいてさえも経営経済学とは異るものとして経営学︵じdΦ三①げ巴①写ρ芝幣       ⑧ 。。 叙カ跨駄津く。ヨゆ①民①げ︶が問題とせられるに至ったことは注目に値する。しかしまだ十分基礎づけられるに至らす、今後の問題とされ、        ⑨ 或いは不可能とさえ評されている。われわれはこれまでの諸見解と異って、経営経済学説と管理学説、組織学説との統一面に経営学の可 能性を認め得ると思う。われわれのこれまでのささやかな努力はこの学説の建設のために試みられたものである。ここでもまたその努力 を続ける外はないのである。        ⑩  3 経済学説と経営学説との対立  以上対象学説を一応系統づけて概観したが、そこには、ゾンバルト的表現を用いれば、文字通り 天地の差があり、 ﹁月﹂に関するものと﹁地球﹂に関するものとの対立がある。すでにドイツ経営学とか経済学説とか呼ばれるものの内 部においても私経済学説︵例えばリーガーの学説︶と経営経済学説︵例えばニックリッシユの学説︶とを比較し、また私経済学説におい てもシュマーレンバッハとワイヤーマン・シェニッツとを比較すれば、そのことは明らかである。ましてドイツ経営学とアメリカ経営学 とを比較するならば、果して経営学として統一的に理.解し得るかどうかも疑われ.るであろう。まことに対象問題における﹁結び目﹂は解 き難いかに見えるのも当然であろう。  しかし、果して統一的理解の道はないであろうか。もし、われわれが偏見や先入観を捨てて経営の現実を見、諸学説の論拠を反省する ならば、多様性も対立性も実は外面的であり、これを少し深く掘り下げ、新しい論理に立つことが出来れば、解決の道も見られるのでは なかろうか。ドイツ経営学の対象学説は、上述の通り多様性や対立性を含みながらも、共に﹁経営経済﹂学説或いは﹁経済﹂学説として ﹁共通の広場レをもっとも考え得るからである。ドイツ経営学とアメリカ経営学とについては、一見天地の差でありながら、これを掘り      経営学の対象の問題︵山本︶       一五七

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一五八 下げ発展動向を検討すれば共に﹁経営﹂学説という﹁共通の広場﹂に落ちつくのではないか。その他についても同様な見方がなり立つの ではないか。かくて、われわれは対象問題における﹁結び目﹂を﹁経営経済﹂学説と﹁経営管理﹂学説、 ﹁経営組織﹂学説との対立のう ちに見、その対立の統﹁として﹁経営﹂学説の必然性を明らかにし、以て﹁結び目﹂をときわれわれの問題に答え得るのではなかろうか。 要するに、経営学の対象は﹁経営﹂そのものであり、経営学は経営の﹁経済学﹂としてではなく、むしろ経営の﹁経営学﹂として自律 性をもつものとなるのではないか。経営学は文字通り﹁経営の学﹂である外はないと思われる。かくて窮局的にぱ対象学説は経済学説と 経営学説との対立として最も尖鋭化せしめることが出来、この対立を越えることによって経営学に必然的な対象を規定することが出来 ると思われる。しかし、その必然的対象という﹁経営﹂とはどのようなものか。それは単なる経験対象にすぎす、認識対象たり得ない か。それに答えることが、ここでの根本問題である。われわれはこれを経済学説の批判的考察を通して試みようとするのである。  経営経済学説或いは単に経済学説はドイツの通説といわれるが、しかしそれは科学性の点から理論的と実践的とに分れ、ここでは前者 を以て代表せしめることとする。後者は後に明らかにするように、結局は経営学説に帰着するからである。この見解のわが国における最 も有力な主張者の一人は池内信行博士であり、われわれは博士の真摯な学的情熟とその厳密な方法論に対しては敬意を表し親しみを覚え        るものであるが、その経済学説の主張や自律性に対する見解には承服し得ないのを遺憾とする。数年前に試みた私の批判に対して、私見        ⑫ に対する反批判を以て答えられた。ここは直接にこの反批判に答える場所ではないが、ここで展開する私見はこれと密接な関連があるの で、更に高教を仰ぎたいと思うものである。 ① 谷口吉彦、商業組織の特殊研究︵昭六︶三七頁参照。 ② 酒井正三郎、経営技術学と経営経済学︵昭コ一︶一八頁参照。 ③ω。=冨冒鴇閏こN蔑ζ。臣&o一〇αq冨§自OQ遂δヨ皇位価巽切①民①げω邑誘。訂高邑雪目p︾N畠ぎ心.智げお二£刈■ω.8︷h. ④ζo×δひ︾こζΦ臣。匹。δ讐ω。ゴ①O辰巳ヰ仁。σq8匙㊤ゆ①三①げ善柔ωo匿︷巨①年Φ二〇昭堵ω。。。ド ⑤ この点については、山城章、経営学の回顧と展望︵PR、八ノ一︶が参考になる。そこではわが国の学説の分類が試みられている  が、ほぼ私見に近い。経済学的、社会学的、管理学的、経営学的の四或いは経済学的、管理学的、経界学的の三とせられる。 ⑥拙著、経営管理論、拙稿、経営管理︵山本平編、経営経済学総論第二章︶など参照。 ⑦馬場敬治、経営学と人間組織の問題、拙稿、組織学と経営学︵本誌三〇号︶参照。 ⑥ドイツではしd①鼠ΦげωδξΦは経営経済学の一部門と解されて来たが、近時ゆ①εΦσの新解釈にともないむしろ経営経済学をも含む

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 ものとして従来とは異る見解が現われつつある。 例えば、=§・給コ鋤or≦こ竃卑ゲ。匙①p−o口匹国三妻8匡二⇒σq。。嘆。げ一Φヨ①α霞じご①#冨び。・i  三謙・。畠織邑Φ︸週ρ配り﹀犀詩聖8bd①賦⑦訂惹門︹ω。進言閃鵠酔8町窪艶出ひ909ξ僅G・欝αq<§囚8N&ζ亀①No鼠。N=8P¢︼跨  ピ警霊気Pζ.勾こN賃い①げ器く。日H⇒含ω三①ぴ〇三①7Nh炉一8ρω.一心悼牢など。鈴木英寿教授の﹁包括的経営学﹂もこの傾向を  説くものである。同氏稿、戦後ドイツの経営学説︵現代経営学基礎講座第五巻︶参照。その他管理論的煩向も注意を要する。 ⑨QD。藍8び国こCぴ角①巨穐○空費ヰQσq窪山①同bdΦ旺Φび。。三雲。訂藷一①年①℃N窃、悼P冒ぼσq.=Oα9ωω.㎝㎝ωlG.課.〇三魯ぴ①お℃国こ  田ほ自訂偉胃αq言象Φゆ。茸同Φぴω毛騨厨9緯巨①げρ一〇αc。やω●δ.

⑩ωo日冨評乏こ9Φ辞魚Z暮。轟巨︵go邑g二80●ω二■

⑪ 拙稿、経済学・組織学と経営学︵PR・六ノ九︶ ⑫ 池内信行、上掲書、一五一頁以下参照。

三経営経済学説の対象理論

 1方法論争と対象問題  経営学の対象問題の解決は経営経済学説の対象問題の批判的考察を媒介に行われる外はな

い。ところで、その経営経済学説の対象問題はその対象理論に導かれるものであるから、先ずその対象理論そのものの考

察から始めねばならない。改めて説くまでもなく、方法論的研究の盛行はドイツ経営経済学の特色であるが、それにもかか わらず、その学的基礎づけは,十分とはいえない。特に自律性の問題においてはある意味では自殺論法が行われている。そ

れは、われわれから見れば、経営経済学の方法論そのものの性格に由来するのであって、それが果して直ちに経営学の方

      

法論であり得るかどうかに疑問をもち、批判的たらざるを得ないのである。ここでは特に対象理論の形式性を指摘し、経

営学的研究の進展従って対象問題の新展開につれて批判せられざるを得ないことを明らかにしておきたい。

 さて、何人も知る通り、ドイツにおける経営学の近代化は有名な方法論争をもって始まり、それは前に詳しく論じたよ

うに、今日まで三つの発展段階を経ている。一九=一年のワイヤーマン・シェニッツを中心とする第一次方法論争、一九

     経営学の対象の問題︵山本︶ 、       一五九

(8)

       ,

      一六〇

二八年のリーガーを中心とする第二次方法論争、︸九五二年のグーテンベルクを中心とする第三次方法論争が、これであ

る。この論争は何れかといえば、科学論や性格論を中心とするもので、表面の華やかさにもかかわらず、学問的成果は十

分には見られなかった。もちろん、方法論争である限り、対象の問題や自律性の問題に触れない訳には行かない。例えば

第一次方法論争における有名なエーレンベルヒの私経済学否定論の根拠は私経済学に独自の対象が存在しないという点で

  ②       ⑧      ④ あった。その他の否定説の根拠も同様であり、今日でも経営学の自律性に疑問をもつものはこれを論拠としてい・る。

 もちろん、エーレンベルビの否定説はワイヤーマン・シェニッツ説の誤解に基づくものではあったが、少くとも対象問

題の指摘は彼等の援用するマックス・ウエーバーの科学方法論に対する批判を含んでいたことは否定出来ない。従ってそ

の後の経営経済学の方法論の努力はこの対象問題︵︵Ψげ一Φ犀け喝Hoぴ一㊦目p︶の解決であり、それも方法問題︵ζ⑦穿巳窪胃。三①日︶に よる解決の試みであり、その意味ではいわゆる客観説から主観説への転換であった。

 いま、このような観点に立って、ドイツ経営経済学方法論を見るならば、このような努ヵは右の三次に亘る方法論争の

間を縫って現われている。すなわち、ゼルハイム︵一九二七年︶、ジーベル︵一九三二年︶、シェンプルーク︵一九三三、一九三

       

六年︶、ホステットラー︵一九四五年︶、ヒル︵一九五七年︶、モクスター︵一九五七年︶などがそれである。しかしそれらが果 して現実の経営学における対象問題の解決にどれだけ貢献し得たか疑問である。

 改めて説くまでもなく、一九一二年ワイヤーマン・シェニッツによって初めてリッケルトやウエーバーの科学理論が経

      

営経済学の方法論に導入されて一時期を画した。それから十五年後、ゼルハイムによって更にアモンの科学理論が導入さ

れて精緻を加え、それ以後はリッケルト・ウエーバー・アモンの科学理論が経営経済学方法論の伝統となり常識とさえな

った。シェンプルークはその著﹁方法問題﹂において規範科学を主張してこの伝統に反抗を示したが、丁掛﹁認識対象﹂

においてはこの伝統に屈服し、理論科学説に帰らざるを得なかった。ただモクスターのみが、それを理論科学の方法とし

(9)

       

て評価しながらも、実践科学たる経営︵経済︶学の方法論としては妥当しないと論じたのは注目に値する。然らば、その

リッケルト・ウエーバー・アモン的科学理論特に対象理論はどのようなものか。  2 経験対象と認識対象  われわれはこれまで未規定のままに﹁対象﹂という言葉を使って来たが、 一体科学の対象と

は何を意味し如何に規定せられるか。対象は方法に対し主体に対し単に﹁与えられたもの﹂であるか、それとも方法によ

り主体によって単に﹁作られたもの﹂であるか、或いはそれ以外の関係か。そもそも対象と方法との根本関係如何。

 上に触れたように、対象理論においては二つの見解が対立する。客観説或いは客観主義とは学問の自律性の根拠を対象

に認め、対象と方法との関係においては対象の優位を説くものである。主観説或いは主観主義とは右と反対に方法ないし

観点を学問の自律性の根拠として、対象に対する方法の優位を説くものである。前者においては対象は主体や方法に対し

﹁先行するもの﹂﹁与えられたもの﹂であり、後者においては対象は﹁後続するもの﹂﹁作られたもの﹂である。 ﹁自然法

則も人間の前にすでに与えられたものではなくーカントがいうように!﹃われわれが自然と名づけるどころの現象

       

に、われわれ自身が秩序と規則性を賦与するものである。﹄﹂

 このように、同じく対象とはいっても、意味を異にし、概念を異にするが、経営経済学説の対象理論が主観説であるこ

      

とはいうまでもない。 ﹁一科学の経験対象と認識対象との区別を明らかにしたのはアモンの争うべからざる功績である﹂ といわれるように、アモンはリッケルト・ウエーバーの伝統に立ち、経験的に与えられた経験対象︵国臥埠目§αq。。。ぼΦぎ︶と 一定の方法によって選択され加工された認識対象︵国時Φ目方。・。ぼ①ぎ︶との区別を説き、学問の対象とは前者ではなく、、後 者であるとして理論科学の論理的構造を明確にすると共に自律性の根拠を明らかにした。このア.モンによって精緻化され

た科学理論は今日では経営学界の常識となり、経済学派の対象理論の基礎をなしている。モクスターはいう。経営経済学

の独立性の主張において﹁シュマーレンバッハを別にすれば、われわれはこの問題を取扱う他のすべての学者がアモンの

     経営学の対象の問題︵出本︶      =ハ一

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      =ハニ

      

経験対象と認識対象との区別に立脚することを確認し得る。L  このアモンの見解の源流は、リッケルトは暫くおき、多くの人に援用せられる有名なウエーバーの次の言葉に見られる。 ﹁科学の研究領域の根抵にあるものは﹃物﹄の﹃即物的な﹄関連 ︵島①も§ミ勘隷§..N霧鋤謹BΦ自窪鳴餌興ごb帖篭題..︶では      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ なくして、問題の煙焔上の関連︵岳①鷺§騎触§忘§N裏門ヨ①浮竃7q①α項もミぴ、§§なのである。換言すれば、新しい方法で 一つの新しい問題が追求せられ新しい意義をもつ観点︵OΦ骨窪。・陛勢望を切り開くような真理が発見されると、そこに一

       

つの﹃科学﹄が成立する。﹂これに従って、アモンは次のように考える。﹁科学はその提起した認識課題、その問題によっ        ヘ   ヘ   へ   も   ヘ   ヘ   ヘ   へ て構成される。 ﹃科学﹄は、諸問題の複合体であり、厳密な論理的意味では、科学は論理的に関連する諸問題の﹃体系﹄

      ゆ

︵魯ごあ団。。8ヨ..<8ご臨恥き§鶏ミ§§ミ.蕊晦§§遷牢。巨Φ日窪︶である。﹂﹁科学と共にその対象とその課題︵問題︶が同時に与

       

えられ、﹃対象﹄と﹃課題﹄は同じ方法論的事実の異る二つの方面︵形式的と実質的︶に外ならない。﹂ところで、この科学 を成立せしめ特色づけ、他からの限界づけるものは経験対象−一﹁思惟に先立って主体に直接に与えられたもの、あらゆる

       

理性による加工の行われない現実﹂1ではなく、認識対象すなわち思老対象i﹁直接経験の無限定多様性から高揚ぜ

       

られ、統一的思老形象に結合せられた、限界づけられて見渡し得る多数のメルクマールの複合体﹂⋮⋮﹁対象において不

      

動のもの、同一性を保持するもの、規則的なもの﹂一iであるというのである。そこで、ホステソトラーはいう。 ﹁だか        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ ら、認識対象なる概念は一矛盾のように響くけれども−一対象的なもの︵σQΦひq①蔓影穿昂︶ではなくてただ諸関係の複合

      

としてのみ把握されるのである。﹂そこで﹁例えば、水は一方では液体として、他方では化合物としての特性の関連で研究 される。⋮⋮︵物理学と化学という︶ 両科学の対立はその研究する物質ないし素材︵G。εδにあるのではなく認識関心の方

       

向の相異にある。﹂そこで、観点が問題となるが、﹁この﹃観点﹄は、現実の現象︵甲。。。冨貯呂σQ窪田2葛一門聾。葬窪︶に附着 するところのものではなく、意識内容︵bd睾ロ聾ω鉱けω断熱ξ︶、その起源を人間の思惟範躊にもち、人間によって経験対象の

(11)

       

上に応用せられるところの意識内容を具体化せるものである。﹂ ヒルもアモンの見解を全く忠実に経営経済学方法論に再       現している。然らばこのような対象理論によって経営経済学説はその対象を何に求め如何に規定するか。        の  3 経営経済学の認識対象  先ず、経営経済学説によれば、 ﹁経営経済学の対象は経営事象の経済的側面﹂ ︵遷替ω。﹃㌣ h二ざ冨日簿σ窃窮巳①氏Φ。。げ①鼠①σ膏げ窪○①。。筈跨Φ器︶ であって、﹁原則上経済学的性格をもっているが、その対象たる諸問題 を個別的観点︵①巨ユ鼠塁。訂h二島上巽OΦωざゲ暑§節︶ から考察する﹂﹁経済学の一独立部門であるつ﹂ 換言すれば、経営経

済学は﹁経営﹂という経験対象の﹁経済的一面﹂を認識対象とする独立の理論科学であり、この認識対象によって、経営

経済学は、経営科学︵bd㊦叶憎凶ΦぴoD≦一〇亀Q自①コωO︼日9Q一斗︶、労働科学︵︾時Φ寄鼠。・器霧。冨牛︶、経営心理学︵じu⑦鼠Φび。・霧署ぎ︼。嬉。︶、経営社会学 ︵ゆ①民Φげωω。N団9。σqεなどから区別されるのである。  この派の見解によれば、 ﹁経営それじたいは経験の複合体であって、それは経済的意味を身にまとうとともに、技術的、 社会的、法律的、心理的、生理的などいろいろの範疇をことにする属性をうちにふくんでいる。﹂ だから﹁ひろく経営に

かんする学問は、このようにひとり経済学的研究につきるものではなく、それとはべつに、さきにのべたいろいろ質を異

にする研究があらわれるのであって、経営一般をその対象とする学問などというものは、ひとりありえないのみならず、        ゆ じっさいまだ、どこにも生れていない。﹂かくて、ともかく、﹁経営経済学が経営の問題を経済にてらして経済学的に展開

       ゆ

することは、いまや、この学問の世界では、共通の問題意識として深くひとの心にくいいっている。﹂ しかし、経営経.済

学が経済学的になればなるほど、その自律性を消失するのではないか。元来、理論的経営経済学が理論科学性を主張しな

がら更に自律性を主張することはおかしいのである。 そこで、﹁よく知られているように、経営経済学は、これまでもっ

ぱら、自己の純粋自律性の確立をめざしてその歩みをつづけてきたのであるが、⋮⋮この構想にたいしては⋮⋮むしろ批

      ゆ 判的たらざるを得ない﹂ということとなる。      経営学の対象の問題︵山本︶       =ハ三

(12)

一六四

 このようにして、経営経済学説は﹁あらゆる科学は先ず﹃応用科学﹄或いは﹃実践科学﹄であり、次いで﹃純粋科学﹄

      ⑳

或いは﹃理論科学﹄になる﹂というアモンの見解を実証することとなる。だが、それによってわれわれの問題は解決され

        るであろうか。 ﹃経営﹄は経営をめぐる諸学に﹁共通な経験対象﹂にすぎず、われわれの問題提起自体﹁根本的には、人        @

々の眼が、なお斯学の初期における如く、経験対象にむけられたままであるということ﹂を示すものであろうか。この点

につき今少し考えて見たい。

①拙著、経営管理論、六頁以下、および上掲拙稿参照。      ﹂

② 国冨窪げ巽σq匂即鴇国①冒①ご勺Hぞ餌專冒馬賊線邑①げ話..圃ゆ碧〒﹀容げぎ一〇一F冨ゲ困ぴq●×嶺bOり・竃’﹁特別な﹃私経済学﹄に対して何等  の対象も存在せず⋮⋮対象と方法.はどこでも同じ。﹂︵︷貯①ぎ①ぴ①ωo昌匹①話㌔H一く卑三目富。げ織匹ω耳⑦.鼓犀①言Oぼ㊦ぽ<o跨碧島窪⋮⋮  ﹀び興○εo揮偉ロ匹竃①9&曾臨巳ず葛8三Φ時葛2集Φ&鉱。﹃2・︶ ③そのうち最も明確なものとして、い冨h日碧P犀こd①び賃≦①。・①旨ロ巳ω栃8旨⇔侍涛α窪bd2吋冨びω萄三8げ臥邑①訂ON粘しd二露ρ目  冒訂αq‘ψ麗1⊆・刈.中西寅雄、経営経済学、などをあげよう。 ④ω。ぎ①置Φび国ロ。犀9の統一論については、市原氏上掲書、参照。 ⑤Qり。=び色β円層N霞]≦①ま。αoδひqδ自巳。り巻侍①日暮犀窪①目田自①写三ω。訂h邑。ゴ同ρ︾占ぼく.℃心・重訂中二〇雪ωδ﹃①さ国こ,  ○ε①巨ロ目畠bu①窪餌。げε昌αq。・毒①♂①匙2日目馨二①ぴ。。三ヰωo訂h巨①町ρ一8ド ωoぼ昌風冨びq鴇閏こしd簿二Φび。・≦マ榑ωo冨︷巨Φげρζ①子。伍聲に昌餌  口置讐ω茸。三口昌σQΦ炉一8心植ド ︾亀r<oコご∪霧隠①匪。侮魯鴇〇三①雪ぎユ臼田冒包輔二審。訂h邑警円ρ一〇器...∪①話こ∪興国爵①口μ→  巳ωσq①σq①霧叶き匹山霧bdの9一〇げの≦眸勝畠臥邑。訂ρ一89 =o。。仲①け二①ひ国こ∪δ閃冨σqΦ匹興○豆①霞σ①ω口話口昌ひq無目臼bd①茸冨げ。。芝罵富。訂−  坤巴①穿ρ一£G。■出卍鴇芝●堕ゆ①叶臣Φげ。。毛召出。げ臥前一①年①巴。。鄭重。。①口ω筈昧計一8刈﹁竃。×伴。ご﹀こ蝉.pρ ⑥ ゼルハイムはメンガー、アモン、ウエーバーを経済学の三大方法論家と呼び、特にアモンの著書は疑いもなく今日最も重要な方法  論的業績といっている。 ︾●9。●○こω.︽. 喝O切⇒080・ ⑦ζo×8ひ。。.帥.○こQっ●。。ア岡ロ曾。おωωO. ⑧霞。ω§二Φびpp。●O二ω二。。︷.

(13)

⑨ 口≡℃帥.卑○こQり●鷲■なおGo冨σ①ひ餌●卑○こψ一望. も同様にいう。       、 ⑩ζo×蝕Φび卑艶●ρ堕ω.。。も。. ⑬蜜貴≦①﹃Φ﹃℃9①こ○ε①痒一く降臨..8N芭三。。器冨。冨囲岳。露盤ロ巳。・o臥巴宮=蔚。ゲ2国蒔8艮巳。。し﹃OΦω蝉日日①冨︾無。。騨§①N罎  芝訪ω①口。。。げ鉱邑Φ腎P一〇悼Nω.一ひひ・これはアモンやホステットラーを始め殆んどすべての人に引用せられている。 ⑫諺B8戸︾.鳩○げ冨犀gロ匹O旨ロ今。ひQユ常①山雪6冨。話自ωoぽロZ餌ユ。昌巴爵80目ダ悼.︾誌r一〇培bω・昂. ⑬国び窪留●

⑭︾日8pppOこω●巴●

⑮︾ヨ8p節.帥.Oこω・B. ⑯国び窪留● ⑰山。。・§号ひ勉・動.Oこω.悼。● ⑱自。ω8け二①さp勲○こω二。。. ⑲国びΦ巳鉾 .⑳ @団一F卑⇔.○.これについては別に研究したい。 ⑳ O葺魯σ霞σq℃国こ国ぽ露孝信昌αq忌事のゆ①巳①げω三瓢ωoゴ既巨㊦訂ρ一8G。.ωω’OI一P をして代表せしめよう。 ⑳ 池内信行、上掲書、三八頁。 ⑳ 上掲書、三九頁。 @ 上掲書、四二頁。 ⑳上掲書、一九頁。

⑳︾日8pρpOこω●悼・

⑳O暮曾げ臼σq”餌・餌.Oこω﹂O. ⑳ω。臣︷①が⇔.餌﹁○こω●呂心. 経営学の対象の問題︵山本︶ 一六五

(14)

一六六

四対象理論の反省

 で 理論的経営経済学と自律性  われわれは経営学本質論の課題が自律性の根拠を問うことであるといった。然るに上 述の対象理論がこの要求を満足せしめるものでない点に第一の問題がある。

 経営経済学説が理論的と実践的とに分れることは前に述べた。そして理論的経営経済学説が上述のリッケルト・ウェー

バー・アモン的方法論によって自己を純粋科学として純化しようとすることは理解に難くない。しかしその結果は自ら認

める如く経済学化すればするほど自律性を失わざるを得ない。自律性を放棄して経済学化するのであれば、別に方法論や

本質論を問題とするには当らない。そこにはただ経済学の分類論があれば足る。しかも経済学は昔から経済単位をも問題

としているのであって、それだけのためならば経営経済学という経済学を特に必要とする理由はない。このような対象理

論をもってしては、エーレンベルビの私経済拳拳定論に対抗することも出来まい。われわれは前にこれについて次の如く

述べた。 ﹁実践科学が純粋理論を基礎とする限り、経営の一般的、現実疎遠的理論の必要なことは上述の通りである。し

かし経営の一面的純粋認識としての理論的経営学説の最大の根本的欠陥は経営学の自律性を自ら否定する点にある。それ

は経営学である前に理論科学であろうとし、経済科学たらんとする。経営学の歴史と基礎の無視、経営の現実の無視、か

       

くて経蛍学の自律性の基礎を犠牲にしてもその形式性を整備しようとする。﹂ 経営学は純粋理論的か自律的かの何れかで

あって、純粋理論的で同時に自律的ではあり得ないのである。経営学は自律性を求めて実践理論的たらざるを得ない。モ

クスターがアモンの方法論は理論科学に妥当するものでわれわれの実践科学には妥当しないというのも当然であろう。  2 認識対象としての﹁経営﹂ 経営経済学説の対象理論によれば、﹁経営﹂は最初から経験対象と予定せられている。﹁経 営﹂は果して認識対象たり得ないか。経営経済学説の対象理論が単なる﹁対象論理﹂ ﹁分析論理﹂に立つがためではない

(15)

か。ホステットラーのいう通り、 ﹁水﹂は物理学や化学の対象としては分析的一面である外はないが、経営の問題として

例えば﹁工業用水﹂としてはより具体的に全的関連において考え得るではあるまいか。アモンの経験対象﹁鉄﹂も同様に

老え得よう。同じように、経験対象たる﹁経営﹂が経営的諸関連の中心として方法的に把握され、認識対象たる﹁経営﹂ に形成し得ることは否定し得ない。 ﹁経済﹂にも経験対象たる経済と認識対象としての経済との別があるべく、 ﹁経済﹂ は初めから認識対象、 ﹁経営﹂は初めから経験対象ときめてかかるのは論理上許されないのである。われわれは上述せる

経営経済学説の対象理論にかかる誤りを見ない訳にはゆかない。リッケルト・ウエーバー・アモン的方法論の適用の誤り

というべきであろうか。経営を認識対象と見るには、対象論理・分析論理の綜合論理・形成論理、要するに主体の論理へ

の転換が必要であろう。われわれは経営の認識対象たり得ることを別の機会に更に深く研究したいと思う。

 3対象と方法との関係  経営経済学説の対象理論は形式的な一つの枠組みであって、そのような形式を満す限り、如

何なる学説の論拠ともなり得るから、上述せる対象学説の多様性と対立性もこのような理論の結果ともいえよう。 一体

認識対象を規定する見地は主観的、相対的なものでよいであろうか。そんな筈はない。では、その客観性はどこから来る

か。われわれは認識対象と経験対象、一般に対象と方法との関係についての客観説と主観説とを批判的に老察せねばなら

ない。  客観説と主観説とを認識論的に見れば、前者は模写説︵﹀﹃げ二匙辞ゴoO同一Φ︶であり、後者は構成説︵菌。鼓筒鼻ま器時Φ霞一①︶で であって、また実在論︵HηO⇔一一の5P=oゆ︶と観念論︵崔①帥=ωヨ話︶との対立でもある。いま、このような哲学や認識論上の根本問

題に立入って論ずる余裕はないが、それぞれ一応の根拠をもつにしても、結局何れも一面観たるを免れない。対象が与え

られなければ、如何なる方法もあり得ない。方法が対象への方法である限り、方法は対象に従うべく、この点からは対象

の優位は当然で客観説が成立つ。しかし、その対象とは何か。如何にして対象となるか。すでにそこに何らかの方法が予

     経営学の対象の問題︵出本︶       一六七

(16)

      一六八

想されなくてはなるまい。ここに方法の優位を説く主観説の根拠がある。しかし、それらが対象か方法かのうち何れか一

方を規定者と固定するとぎ、両者の関係を見誤ることとなる。そこで必然的に第三の見方として相互決定の関係が老えら

      の れざるを得ない。それは対象と方法との関係を一方的ではなく、相互に規定し合う動的過程と見るものである。 一定の対

象がぎまれば、それに対する方法が対象によって規定せられる。逆に一定の方法がきまれば、これによって対象が決定せ

られるのである。われわれはロゴスに対する行為の根源性を認め、根本的に認識も行為と解し、対象と方法との関係を認

識主体の実践行為としての動的過程と見る弁証法的存在論の立場に立つ外はないと思う。われわれはただ認識対象と経験

対象との区別を説くだけではなく、その関連と同一性を見、相互関係からの発展を見なければならない。われわれはこれ

を客観説、主観説に対して主体説と名づけ、両者の統一を狙うところに特色を見たい。われわれが経営学の根本的立場と

して行為的主体存在論の立場を説き、経営学を実践科学と規定するのも一にここから﹁経営﹂の主体的構造を明らかにせ

        んとするがために外ならない。

 われわれは続稿においてこのような見地から個々の対象学説を検討して、理論的経営経済学派の方法論的主張にも拘ら

ず、それらの説くところが実は﹁経済﹂であるよりは﹁経営﹂であり、その﹁経営﹂こそ経営学の固有にして必然的な対

象であることを明らかにすると共にその構造をも解明したいと思う。

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拙稿、経営学の学的性格の問題︵本誌、五九・六〇・六一合併号︶一四〇頁以下。 戸坂潤、科学方法論、三頁以下参照。 西田幾多郎、論理と生命、実践と認識対象︵西田幾多郎全集第八巻︶など参照。

参照

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