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カントの前批判期論理学シ

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カントの前批判期論理学

プ 著

夫 訳

初期カントと倫理学に対する発展的関心 A カントの哲学的目標

 最初からカントは哲学的訓練のための明確なそして永続的な基礎を置くことを望んでい た。ともかくこのことが,彼のすべての主要な哲学的著作に内在する動機であったように 思われる。恐らくデヴィッド・ヒュームを読むことによって惹き起こされた突然の覚醒が,

カントの基本的動機に大いに関係があったのであろう。このことはヒュームの哲学が,そ の認識論的(訓),形而上学的見地にカントが主として1750年頃迄依存していたライプニッ ツ・ヴォルフの哲学と好対象をなしていたのであるから,ますますありそうなことであ

る(註2)。

/. 時代精神

 カントが永遠の哲学的基礎を見出そうとする傾向を再び強めていく別な諸理由もあった。

それらの一つは時代精神の中に見出される。それは啓蒙の時代すなわち理性の諸力が無限 であると考えられていた時代であった(言〕3)。カントのような独創性をもった人でさえ,時 代精神(Zeitgeist)によって影響されることは避けられないことであったし,彼は理性の 力を強く信じていたのであるから,彼が時代の子と呼ばれるのも当然であろう。このよう

な理性の力に対する信念は,単に道徳に対してのみならず,形而上学や美学に対しても最 後的な疑聞をはさむ余地のない基礎を置くことが可能であるという仮定に迄必然的に導か れた。同時に,われわれが後で詳しくみるように,カントがかつて単なる演繹的,範疇的,

絶対的理性を崇拝していたというのは確かではない。寧ろカントは実際は最初から,理性 については,決して静止していない世界において変化しつつある状態の要求と危急に従っ て使用され形づくられる道具として考えていたように思われる。この事実は,はっきりと 心にとどめて置くべきことなのであるが,カントの見解が「理性の時代」の単なる産物と

して取り扱われるときに一般に看過されてしまったのである。

2.カントの初期の家庭生活としつけ

 カントの養育と初期の環境は,彼の仕事における基礎的動機の発展に対して,好ましい 他の要素を形づくっている。カントは東部プロシアの,どちらかといえば貧しい敬度な家 庭で育てられた。われわれはあらゆる他の方法と同様に宗教的事柄においては,この様な

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家庭の非常に厳しい訓練についていくらか知っている。この様な初期の影響の永続的力の 実現を現代から理解する際に,イマニュエルカントが彼の幼児期の環境から全く自由であ

ることが決して出来なかったことは言う迄もないことである。

 同時に,カントに与えた二度主義の影響をこのような大ざっぱな概括で看過することは 出来ない。そのようにみすごすことは次のような事実をもたらすことが出来なくなる。そ れは,カントを非常に重要な義務の概念にたえず生き生きとさせていたこの敬慶主義がな かったならば,カントは生涯忠実なるヴォルフ学派に止まったであろうと言う事実,或は ヴォルフ学派に実際に止まったよりも遙かにながく止まったであろうという事実である。

神学的道徳学者ヴォルフは,自己実現という彼の哲学の基礎を大いにライプニッツから学 び取った。ヴォルフ学派の完全性の理想は静的な理想であった。ヴォルフにとっては善き 道徳的行為は,超時間的絶対的なものとして考えられた目的の国の一員としての理性的存 在者の資格の完全な表現であった。この様な見解はピエティズムからは遠いものである。

内的態度の善性に対するヴォルフの強い主張によって,敬度主義者は善の単なる記述的定 義におち入ることから自らを救いそして特に所謂本能的な善に対する先入観から免れたの である。彼の力は一般的な態度によって行動する準備の中にあった。敬虞主義者の自己に 対する命令は簡単に表現すると次の様になる。どんなことが起っても,君の行動を,君が それに対して行動している人間に対する愛情の態度によって制御せよ。簡単にいえば,ラ イプニッツ・ヴォルフ倫理学と敬虜主義の倫理学の根本的差異は,静的絶対的目的論と日 常の状態における自由な反応の道徳との差異であった。絶対主義的目的論は個人的な決心 の問題には関心はなかった。一方敬虞主義の道徳は,適切な態度と内的な精神によって促 がされる人々の自由な反応に関係していた。これら二つの立場問の衝突は,ライフ。ニッツ

とヴォルフをはじめて知ったときから殆どカントの中に存在していたに違いない。さらに,

まもなく分るように,カントが一体,倫理学の領域においてライプニッツ・ヴォルフの直 系の門弟であったかどうかは疑わしい。

 カントの日常生活の厳格さは,彼の哲学説の厳格と同様に,疑いもなく彼の初期敬虞主 義の厳格さと厳粛さに強力な気質上の根底をもっている。この変化のない生活様式のもう 一つの原因は,彼の肉体的弱さであった。その弱さが彼の生活を通じて多くの苦労を惹き 起こすことになったし,幼年時代から食事や色々な習慣を注意深く凝視するようにさせた

し,日常のありふれた仕事と自己訓練の生活を必要としたのだった。これらの事実を結び 合わすと,カントの哲学説の所謂「厳粛さ」(rigor)として殆ど一般的に語られるように なったものには当然の設定があったのである。

3. カントの性格

 それにもかかわらず,上記の様々な影響はカント学者によって過大評価されてきた。カ ントの敬慶主義的養育は彼の哲学の確実な厳粛主義的特徴に対する比較的容易な説明を提 供はするが,カントの真実の性格を偽りその人柄の戯画を殆ど正当化しない。この点でカ

ントが彼の後期の著作の証拠に基づいて余りにもしばしば仮想されて来た純粋の理知の人 Verstandesmenschではなかったということが現在では断言できる。カントは単なる 理知の人であるどこか,若い時期においては全く憂欝な性格であったという立場一この

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カントの前批判期倫理学(シルフ。・木場) 55

立場は近年数十年間において多くの支持者を得ている一を認める多くの事が述べられて いる。アウグスト・シュムッカー(188/),J.H.W.シュトッケンベルク(1882),パ ウル・メンツァー (1897),そしてハンス・ファイヒンガー (1883一一1898)はそれぞれ 他の人々とは無関係にこの同じ結論に到達した。憂欝な気質に関するカントの有名な文章

は(註4)主として自叙伝的であるという彼等の一連の判断を認容するための十分な理由があ る。その一文というのは『美と崇高の感情に関する諸考察』に出てくるのであるが,ここ で全部を引用するだけの重要性をもっている。それは次の通りである。

 「その感情が憂欝質に傾く人は,人生の歓びを奪われ,暗い陰欝のうちに沈んでいると いう理由で,そう呼ばれるのではなく,彼の感情がある程度以上に増大されるか,又は二,

三の原因によって誤った方向をとったようなときに,他の状態よりも憂欝に陥ち入りやす いという理由でそう呼ばれるのである。彼は特に崇高に対する感情をもっている。彼は美 に対する感情も同様にもっているが,その美さえそれだけで彼を引きつけるのではなく,

それが同時に彼に讃嘆を吹き込むことによって彼を感動させなくてはならない。楽しみの 享受が彼にとってはより厳粛であるが,しかしそのためにつまらないものではない。崇高 なもののすべての感動の方が,美的なものの人の目をくらます魅力よりも,より以上に魔 力的なものをもっている。彼の幸せは快楽よりもむしろ満足であろう。彼は確固としてい る。そのため彼は,彼の感情を原則のもとに従属させる。感情がそれに従属させられるこ の原則が,より一般的であればある程,それ故にまた,低い感情を包括する高い感情が拡 大されておればおる程,それだけ一層,感情が不安定や変化に支配されなくなる。……憂 欝質の人は他人がどう判断するか,彼らが何を善とし,何を真とするか,殆ど気にかけな い。彼はこんな場合にはただ自分自身の洞察を頼りとする。彼における動因は原則の性質 をとるから,彼は容易に別の考えに移され得ない。彼の頑固さは,時にまた強情に変質す る。彼は流行の移り変わりを冷淡に眺め,その虚飾を軽蔑の念をもって眺める。友情は崇 高であり,それ故に彼の感情に合う。……多弁は美的であり,思慮深い沈黙は崇高である。

彼は自分および他人の秘密をよく守る。真実は崇高である。彼は虚言もしくは虚偽を憎む。

彼は人間性の尊厳についての高い感情をもっている。彼は自分自身を尊重し,人間を尊敬 に値する被造物だと考える。彼は卑屈な屈従に堪えず,高貴な胸のうちに自由を呼吸する。

宮廷でつける金めっきの鎖から,ガレー一三の奴隷の重い鉄鎖に至るまで,すべての鎖が彼 には厭はしい。彼は自分自身および他人の厳格な裁判官であって,しばしば自分にも世間 にも飽きあきする。」(註5)

 確かにカントの内面的人生が外面的に現われる時,それについてわれわれが知るのはほ んの僅かであるが,人がこの一文を読みながらカント自身のことを考えるのは当然である。

さらに叙述そのもののもつ環境的証拠がある。すなわちこのことは,気質の型を熟知し理・

解すると同様に,その気質のもつ諸問題や困難点を非常に多く含んでいるので,その著書 が個人的体験から語られているのだと人はだだ想像できるだけである。

 さらにカントが,彼の『頭脳の病いについての試論』一この論文は意義深いことに,

われわれが丁度今引用した「美と崇高の感情についての諸考察』と同様,同じ年(/764)

に出されたものである一の中で述べている憂欝病についての3どちらかと言えば注意深 い記述に注意が向けられるべきである。カントがこの特殊な時期に,この主題に関して非

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常に沢山書いたことは,それによせる彼の直接的な個人的関心事の証拠として考えられる かも知れない。

 このような推論は,カントの有名な上機嫌と快活な態度からあり得ないことではない。

というのはファイヒンガーが適切に指摘しているようにQ6),『単なる意図によって病的 感情を制する感情の力について」という論文の著者が,この点で自分自身の主人でもあり,

彼は内面的に幸福で上機嫌であっても,常に他人に対して自分自身をそんなふうに見せる ことによって自分自身の気分を征服することができたということ以外には,上機嫌で態度 が快活だからといって何かを証明することはできない。この考えは,この論文におけるカ ントの序文によって再度強調されており,主題を再び述べてから次のように言っている。

すなわち「この断言の意図を実現する可能性を確認する実例を,所謂他人の経験からあげ ることが出来るのではなくて,まず第一に私自身の中で観察された経験だけから実例をあ げることができるのである。何故なら私の経験は自己意識から生ずるからである。……」

       (、17)

 それはそうと,非常に沢山のことが相当確信をもって主張できる。すなわちカントは元 来また何時いかなる時でも冷淡で感情のない理知の人ではなかった。彼は彼の決定的体系 の誤って想定された厳粛主義の故に「厳粛主義的」という形容辞を得たけれども,既出の

『諸観察」 (1764)や「視二者のi夢』 (/766)のような著述は,それ自体カントについて のそのような見解の否定できない反駁である。そしてまたこれらの二つの著述がカントの 性格における深い情緒的緊張の唯一の表示でもない。確かにカントの倫理学的論文はいず れも冷淡な程に理知主義者的であると非難することは出来ないだろう。議論がこれらの著 述においてどんなに合理主義的進行をとっているように見えても,時々これらの主題に関 する著者の深い感情が表面までうねりとなって動いているのである(註8)。従ってカントの 倫理学に関する講義を聞いた人の次のような印象を読んで驚くことはない。

 「しかし何はともあれ,……あなたにカントの倫理学を聴かせたかったと思います。こ こではカントは,単に思弁的な哲学者であっただけでなく,彼は知性を満足させると同様 心と感情をも魅了する意気旺んな講演者でした。そうです,この純粋で崇高な道徳論を,

力強い哲学的雄弁でもってそれ自身の創出者の口から聞くということは,天上の歓びを与 えるものでした。ああ,幾度かカントは私どもを感動させて涙させたことでしょう。幾度 私どもの心を激しく揺り動かしたことでしょう。幾度カントは私どもの精神と感情を利己 的幸福主義のいろいろな梗楷から解き放って,意志の純粋な自由の高度な自覚へ,理性の 法則への無条件服従へ,そして非利己的義務遂行の高貴な感情へと高めてくれたことでし ょう。その時,この不滅の哲人はわたしどもには霊感に打たれているようにみえました。

ですから全く驚嘆して聴いている私どもをも感動させました。カントの聴講者たちは,彼の 道徳哲学の時間が終わると,必ずやよりよき人間になることを期して去るのでした。」(謝 道徳的哲学者の偉大な情緒的雄弁に関するこのような証拠を考慮すると,カントを冷淡な 情緒のない理知の人とすることは不可能である。

 カントは理知の人ではなかったと同じように,単なる「大学の歩道を歩く学会会員」で は決してなかった。彼の論文のいくつかの内容は言うまでもなく,表題そのものがこの事 実を証言するものである。カントの手紙においても学術論文においても,彼の周りの世界

に対する関心は決して止むことがなかったという豊富な証拠がある。彼はヨーロッパ史の

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カントの前批判期倫理学(シルフ。・木場) 57

最も混乱していた一時代の真只中で生きていた。七年戦争は彼の教師時代の初期に起った。

カントの生涯と同時代に属するフレデリック大王の治世は,政治,外交,産業,教育,学 閥におけるフ。ロシアの比類なき活動と拡張の治世であった。カントはすべてこの真只中で 生きてその精神を一杯に吸い込んだ。さらに彼が同時代のイギリスの道徳主義者達の著述

を読み始めた時,イギリスが当時経験しつつあった産業革命の重要な時期に,自分自身が 向けられているのに気づいた。このことはすべてカントのように,自分の時代の精神と活 動に大いに自己を同化させる人間の人生と思想に深い影響を与えざるを得なかった。

 それにも拘らず一世紀半もの聞われわれはカントが単なる情緒的満足に基づいて設立さ れた全ての倫理学説を激しく攻撃していたと教えられて来た。従って倫理学の厳密に形式 的学説を構成するための彼の企図にカントの性格の情緒的いろいろな面が積極的に影響を もたなかったかどうか尋ねることは当然である。換言すれば,カントの倫理学において一 般的に強調される例の厳格さは,20世紀心理学者が「防衛機構」と呼んでいるものに一部 分よるものであったということはあり得ないことではない。カントは道徳に対する普遍的 に根拠ある基礎の必要性をそれまで知っていたので,彼自身の情緒的本性がそのような法 則の発見と形式化を妨げるのではないかと恐れたのかも知れない。彼が自分自身の諸々の 情緒に不信を抱くようになったことは考えられることである。(註10)この恐れは恐らく意識 的というより潜在意識的であったのだろう。しかも,もしそれがわれわれが仮想するよう に,防衛反応であったのであれば,カントが道徳の単に情緒的決定因子に対抗して指向け ている激しい猛攻撃を説明する際の力強い要因となっている。

 このことがどうであっても,カントはその哲学的仕事の最初からすべての哲学的教義に 対して普遍的に根拠ある,そして決定的な基礎を置くという基本的動機から決して逸れて いたのではないという事実が残っている。

B. 倫理学の関連事項

 この基本的哲学上の動機は,倫理学の問題へ迫るカントの方法を理解しようとする者は 心に留めておかねばならない。道徳的関心が如何に作用するのか。その関心が何を完全に するのか。これらは彼が道徳哲学のいろいろな探究において本気で取りかかった広範囲な 問題であった。これらの問題に対して本研究は第一「批判」が現われる前に書かれたカン トの著作と書簡の中に答を見出そうとしているのである。というのはカントは『道徳形而 上学の基礎づけ」(註11)か「実践理性批判」か敦れかが現われるずっと以前に倫理学の諸問 題に取り組んでいたからである。

/.倫理学に関する講義

 カントは1755〜1756年の冬学期にはケーニヒスベルク大学で私講師として仕事を始めて おり,早くも1756〜/757年(註!2)の冬学期には倫理学の講義を行なった。その後3年経って

『オフ○ティミズムについての若干の考察の試み」(註13)という小論文の終りに1759〜/760年 の冬学期用の彼の他の提案した講義の告示の中に,カント自身の倫理学の講義に関する予 告がある。アノルドのリストから(註14),カントが大学につとめている問ずっと倫理学に関

して定期的に講義を行ったことが分る。彼の倫理学に関する講義の最初の概要は1765〜

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1766年の冬学期の講義の予告に現われている。それはわれわれの当面の目的に対する関心 事であるから,その予告を全部引用する。

 「倫理学,道徳哲学は,それが形而上学よりもっと早くから学問の外観と徹底性の一致 した名声を得ている一両方のいずれもそれにおいては見いだされ得ないけれども一と いう特殊な運命をもっている。その原因は,行為において善悪を区別すること,及び道徳 的正当性に関する判断が,端的に,証明の廻り道をせずに,人間の心情によって,感情と 呼ばれるものを通して,容易にそして正しく認識され得るということにある。従って,問 題が大部分すでに理性的根拠に先立って決定しているのであるから,一形而上学におい てはそのような事情にはない一有用性の若干の外観をもつにすぎない諸根拠を,有用な ものとして通過させることを,特に困難ではないと呈示するのは不思議ではない。そのた め道徳哲学者の称号ほど普通のものはないし,またそのような名前に値する程めずらしい ことはない。

 私はさし当って普遍的実践哲学と倫理学とを,両方ともバウムガルテンに従って講義す るであろう。未完成で欠点はあるが,それにも拘わらず一切の道徳の第一根拠の探求にお いて:最も進んでいるところの,シャフッベリ,ハチソンおよびヒュームの試みは,それら に欠けている精密さと補足とを受けるであろう。私は徳論において,行なわれるべきこと を示すに先立って,行なわれていることを常に歴史的,哲学的に考慮することによって,

私はそれに従って人間を研究しなければならないところの方法を明らかにするであろう。

それは偶然的状態が人間に印象づける変りやすい形態によって歪められ,そしてそのよう なものとして,哲学者によってさえ殆ど常に誤認されたような人間だけでなく,人面の不 変の本性と創造におけるその固有の位置を研究すべき方法である。それは自然のままの簡 素な段階においては,人間にとっていかなる完全性が適当であるか,また思慮ある簡素な 段階においてはいかなる完全性が適しているか,これに反して人間が両様の極限から発し て,自然的もしくは道徳的卓越性の最高の段階に触れようと努めるか,しかし両方から多 かれ少なかれ離れている時,彼の行動の規則は何であるかを知るための方法である。」(註15)

 これらの講義内容の最初の決定的概念を,われわれは三人のカントの学生によって書き とめられ,そして「カント倫理学講義」刷6)という表題の下にパウル・メンツアーによっ て(/924年に)編集された講義ノートの再構成から得るのである。これらのノートはカン

トが恐らく/775から1780年までの間に行なった倫理学講義の中でとられたものである。

2.初期の著作

 道徳の諸問題に対して,カントが早くから関心を抱いていた証拠が他にも沢山ある。先 づ第一に,彼の比較的初期の著作の中の数篇が,直揺i的あるいは間接的に,道徳の閥題に対 する関心を表わしている。それらは次のようなものである。「天界の一般自然史と理論』

(1755),「自然地理学講義草案およど予告」 (/757),「極量の概念を哲学へ導入する 試み」 (1763),『自然神学と道徳の原則の判明性についての試み」 (1764),「美と崇 高の感情に関する考察」 (/764),すでに引用された「1765年より/766年冬学期講義計画 公告』,『視霊者の夢」 (1766),ケーニヒスベルク大学において論理学並びに形而上学 の専任教授になったのを機会に発表した就任論文,「可感興と可想界との形式と原理』

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カントの前批判期倫理学(シルプ・木場)

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(1770),そして最:後に1763年,/764年或は1765年から始まっているらしい或断片であ

る。(註17)

3.手

 道徳哲学の諸問題に対するカントの初期のそして成長しつつあった関心を示しているも う一つの豊かな源は,彼の手紙の申に発見できる。カントの初期の倫理思想の発展の跡を たどる際に倫理的内容をもつ手紙の大部分を後で引用するから,ここではただ比較的重要 な手紙の受取入とその日付を述べることにする。最初の手紙はランベルト宛のもので日付 は1765年12月3/日。次にランベルト宛/770年/2月2日付のもの。マルクス・ヘルツ宛/771 年6月7日付のもの。もう一通はヘルツ宛で/772年2月21日付。更に三通目ヘルツ宛で1773 年の年末の頃のもの。最後にメンデルスゾーン宛で1783年8月/6日のもの。この期間中カン トも相手から何通かの手紙を受取っており,その手紙がカントが当時計画していたある著 述に対しては勿論のこと,彼の倫理学的概念に対しても意義深い参考になっている。(謂8)

C.認識論的形而上学的問題に先立つもの

 全く明確なことは,1785年以前の倫理学に対するカントの関心がどうであろうと,カン トは形而上学の問題に対して,そして特に認識論の問題に対して答を出すことによって倫 理学的仕事の地ならしをしてしまう迄は,倫理学の問題に関して詳細に書こうとは決して

しなかったということである。彼は知識の本質は何であるか,人間にとって知ることが可 能なものは何か,を決定するまで倫理学的知識を必要とする問題に答えようとすることは 無駄であることを認識していた。

1.手

 この確信の証拠は第一『批判』の完成以前の数通の手紙の中に発見される。実際の倫理 学の論文がカントの生涯においてそのような比較的遅い時期にまで延期されたのは,上記 のように説明できるから,道徳的諸問題の考察だけが十分に先行できる様々の基礎に対す る認識論の関係についてのカントの考えがどのようなものであったかをわれわれは知るた めに,次のような書簡の文章の申最も重要なものを引用することが最良であろう。従って 関係のある文章を,四通の重要な手紙からここに引用する。/765年12月3/日付ヨハン・ハ インリッヒ,ランベルト宛の手紙の中でカントは次のように書いている。

 「私は数年来,私の哲学的考察を考え得る限りあらゆる方面に向けて参りました。そし てその度毎に私が研究の方法における過誤や洞察の源泉を探求したところのさまざまな思 考の顛倒の後で,遂に次のことに思い至りました。いつでも決定まで到達出来ると信じる のに,しかしすぐにまた自分の道を徹回せざるを得ないことが甚だしばしばであるという 場合に,例の知識の幻想から逃がれたいと思うとき,遵守されねばならない方法を私は確 信しているというまでになりました。そしてこの幻想から自任せる哲学者達の破壊的不一 致も生ずることになります。彼等の努力を一致させる共通の基準がないからです。この時

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以来,目下の研究の夫々の性質から,或特殊な問題を解決するためには私が何を知らねば ならないかが私にはその都度分かるし,又与えられるところのものからどの程度の知識が 決定するかが私には常に分るので,判断は勿論しばしば制限されているが,しかし一般的

に下されるよりもより明確で確実なものになります。これらの努力はすべて主に形而上学 の独特の方法への努力であり,そしてその方法を介して全哲学の方法をもねらっています。

……ッれども私は,最初の企図から非常に離れているところがら出発しましたので,この 仕事をこれらのすべての見通しの主要目的としてなおしばらく延期したいと思っています。

しかもそれは不正なやり方についての私の諸命題を例証するための判断における錯誤の実 例を全く欠いているのではありませんが,そこにいて私が私自身の独自の方法を具体的に 示し得るような実例を大いに欠いているということを,私はこの問題を進めるうちに気づ いたからなのです。それで私は,哲学的な新しい計画ばかりしているなどと非難されない ために,若干の小さな論文を先に書かねばなりません……。」(註lg)

1770年9月2日の手紙でカントはランベルト宛に次のように書いている。

 「私は約一年前から,決して変える恐れのないある概念に到達したことをひそかに自負 しています。尤もその概念は拡張される必要があります。その概念によってすべての種類 の形而上学的諸問題が全く確実で容易な規範に従って吟味され得ますし,形而上学的諸問 題がどの程度まで解決されるか,或は解決されないか確実に決定出来ます。

 この学問全体の輪郭は,学閥の本質〔の分析〕を,すなわち一切の判断の第一始源と,

それによって人が容易に一人で進め得る方法とを含んでいる限り,可なり短かい空間にお いて,すなわち若干の少ない手紙の中で,あなたの根本的な,そして啓蒙的評価に供する ことが出来ます。そしてこのことは,それから優れた結果を期待し,そのために特別のお 許しを願うことなのです。しかし乍ら,このような重要な企てにおいては,或る完全なも

の,そして永続的なものを提起し得るならば,時聞のわずかな消費は全然損失ではないの ですから,私のこの努力に賛成するあなたの美わしい善意を,私のために依然かわらずに 持ちつづけてくださるように,なお善意を果たす間,なおしばらくお待ちくださるようお 願い致す次第です。」(註20)

/773年の終り頃にカントはマルクス・ヘルツ宛に次のように書いている。

 「……私は哲学界の半数によって非常に長い間空しく取り扱われてきた一個の学問を改 造する意図で,研究をここまで進めて参りました。その結果,私は従来の謎を完全に解決 し,そして自分自身を孤立させる理性の処理を,確実なしかも容易に応用される規則の下 にもたらす一つの学説を自ら所有していると自認しています。そこで私は,堅くてとげの 多い土地を平らにして,そして一般的取り扱いのために自由にしてしまうまでは,決して 創始者たることという虚栄によって誘惑されて,比較的容易なそしてもっと人気のある分 野において名声を求めるということがないようにするという私の意図を,これから先も頑 固に固執するつもりです。

 多くの人々が,〔ある一定の〕理念に従って全く新らしい学問を企図し,同時にそれを 完全に遂行しようζしたとは私は思っていません。しかしこのことが厳密にそして適当に

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カントの前批判期倫理学(シルプ・木場) 41

指定された〔事物〕の分類の方法に関して,どんなに労力のかかることであり,そのため にどんなに時間が消費されねばならないかをあなたは殆んど想像できないでしょう。しか し,私は之に対してある希望をもっています。それは最大の自惚れではないかという懸念 されますから,あなた以外には誰にも打ち明けないつもりです。すなわち永続的なやり方 で哲学に従来とは別の,しかも宗教と道徳にとって遙かに有利な方向を与えること,同時 にとりすました数学者達を誘惑することができ,彼等の取扱いが出来るようにし価値ある ものにする形態を哲学に与えることです。私は相変らずこの仕事を復活祭までに完成した いと時に希望しています。」(記2D

同じくヘルツ宛にカントは/776年1/月24日付で次のように書いている。

 「私はあらゆる方面から,何もしていないということで非難をうけています。長い間,

私は何もしてないように見えたことでしょう。しかし実際には,あなたとお会いしなかっ たこの数年来ほど体系的に持続的に仕事をしてきたことはありません。それを仕上げるこ とによって,一時的な賞讃を博し得る材料は手許に山積しています。二三の効果的な諸原 理を得ている場合常にそうであるように。しかしこれらの材料は,すべてある主要な事情

によって,あたかもダムによってせき止められているかの様に抑制されているのです。そ こから永続的利益を得ることを私は望んでいます。私はすでに実際それを所有していると も思っています。そしてその利益のためには,これから先,案出されるというよりただ仕 上げさへすればよいものです。この夏私は最後の障害物を克服した後,只今実際に始めて

いるこの仕事を終えてから,私は自由な畑地を持つことになるでしょうが,その土地の耕 作は喜び以外の何物でもないでしょう。このような計画には,着実に,私に言わすならば頑 固に従うことが必要です。私は様々な困難によって他のもっと快適な題材に専心するよう 誘惑されて来ました。しかしこの不誠実さから時として私を連れ戻してくれたのは,一つに は若干の障害を克服したこと,今一つには事柄そのものの重要性でした。純粋理性の領域す なわちあらゆる経験的諸原理から独立に判断する領域は検討し易いに相違ありません。と いうのはその領域はわれわれ自身の中にアプリオリにあり,経験から様々打ち明けられる ことを待つ必要がないからです。ところで純粋理性の領域の全範囲,諸分類,諸限界その 全内容を確実な諸原理に従って記録するために,また人は理性の基礎の上にいるか,誰弁

の基礎の上にいるかどうかを将来確実に知るための境界石灯を設置するために次のことが 必要なのです。すなわち純粋理性の批判,訓練,規範,建築術,従って既に存在している 諸学問からは何にも利用できない完備した学問,その基礎づけのために全く独特の技術的 表現を必要とする完備した学問が必要なのです。私はこの仕事が復活祭迄には完成される とは思いませんが,来年の夏の一部をその為に使おうと思います。私のつねにとだえがち な健康が私に仕事を許す限りです。それでもやはり,この意図について,時々めんどうに なりしばしば不利になりがちな諸々の期待を決して起こさぬようにお願い致します。」(註22)

2. 『基礎づけ』の序文

現在の仕事がカントの主要な倫理学上の論文の考察に達しないで止まっているにしても,

もう一つの文章すなわち「基礎づけ』の序文の次の一節を敢て引用する。これはカントが

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形而上学に関するものではなくて,道徳に関する論文を実際に書きつつあるその時点で,

彼の道徳の形而上学的基礎づけに対する必要性の確信を表明するものであるから,最も明 白な叙述である。その一節は次のとおりである。「われわれが道徳法則を,その純粋さと 純正さの点で探し求めることが出来るのは,純粋哲学においてのみである。 (そして実際 問題においてはこのことが最も重要な点である)。従ってわれわれは純粋哲学(形而上学)

から始めなければならないし,それなしではいかなる道徳哲学も全くあり得ない。」G}23)

 これらの文において,その解決をカントが大いに楽しみにして予期していた倫理学上の 問題に対する増大しつつある関心にもかかわらず,彼が本質的であると認めた仕事に,自

ら如何に断乎として固守したかをわれわれは知ることができる。事実これらの手紙の所見 には,カントの第一の関心が倫理学にあったのであって,形而上学や認識論にあったので はないという示唆  これは決して新しくない  に相当の重要性を与えているものもあ る。この示唆は,第一「批判」がその主題に対する第一の関心の故に書かれたのではなく て,寧ろ彼が倫理学の問題を何らかの十分な様式で取り扱うことが出来る前に,形而上学的 認識論的諸問題の解決が必要だと分ったから書かれたのであるということを意味している。

3.純粋理性批判

 上記の手紙に含まれている決定的示唆に対する証拠を更に必要とするなら,「純粋理性 批判」そのものの中の一節に眼を向けるがよい。その中でカントは次のように言っている。

 「本質的目的はこのよう:最高の目的ではない。完全な体系的統一に対する理性の要求か らみて,その目的の一つだけがこのように描写されうる。従って本質的目的は手段として の前者に必ず関係ある従属的目的であるかいずれかである。前者は人間の全使命にほかな らないものであり,それを取扱う哲学は道徳哲学と称されている。道徳哲学があらゆる他 の理性の活動に対してもっているこの優越性のために,古典作家達は「哲学者」という用 語を用いる際に常に,更に道徳主義者を意味した……。」Q24)

 カントの形而上学と認識論に関する主要な論文における道徳哲学の「優越性」(Vorzug)

に対するこの讃辞は,彼の手紙における一節よりもはるかに有力に物語っている。これら の事実は第一批判が第二批判よりもむしろ哲学における所謂コペルニクスの転回をもたら しめたために,一般的に信用されているからますます興味あることであるし,実践理性は 純粋理性によって絶えず重要性を奪われて来たために,二つの批判の関連のある重要な個 所が過去一世紀半の間,殆んど比較されていないからますます興味のあるところである。

この問題はすべてカントの熱心な研究者に対して相当関心のある問題を提供してくれるが,

現在の計画はその点の詳細な討議の場所ではない。

 ともかく,カントの倫理学の諸問題に対する初期のそして増大しつつある関心の証拠は これで結びとする。この事実を立証したことは本章の目的を完遂したことである。

(註1) カントがヒュームを知るようになったことがわれわれに最初に報らされるのは,ヨハン・ゲ   オルグ・ハーマン(Johann Georg Hamalm)によるカント宛の1759年7月27日付の手紙によ   る。この手紙の中でヒュームの教義のいくつかが言及され,議論されている(KGS,X,p.15)。

  カント自身によって最初に言及されたのは『美と崇高の感情についての諸観察』(KGS,豆,

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   p.255,line 2)という論文においてであり,われわれが後で見るように1764年から1765年の    間に現われる遺稿においてである(ハルテインシユタイン(Harteinstein),イマニュエルカ

   ント全集,VIII, p.658, line 22)。カントのヒュームへの次の言及は冬学期講義(1765−1766)

   の告示においてである(KGS,亜P.511)。

(註2) しかしながら,カントの最初に出版された論文(1747)はライフ。ニッツに異議を唱えている    ことに注目せよ。

(註5) 啓蒙がどれくらい理性の時代を意味していたか,カントの心に対してさえどのくらい意味を    もっていたかは『啓蒙とは何か?』(1784)というカントの論文を一読すると明白である。そ    の論文から次の文を引用する。「自由以外に何物もこの啓蒙にとって必要ではない。というの    は,実際仮にも自由と呼ばれるもののうちで最も無害なものは,あらゆる状況において人の理

   性を無制限に利用することであるからである。」 (KGS,、皿, P.56)

(註4) ハンス・フアイヒンガー (Hans Vaihinger) 『憂欝者としてのカント』 (Kant−Studien,皿,

   1898,pp.159−141)参照。

(註5) KGS,皿.PP.220−221.

(註6) 5ページ脚註で既に言及された条項において。

(註7) 『学部の争い』(1798)の三部から(KGS, VII, P.98)

(註8) この商議を証明するために,無数の,或は長々とした引用文でこの研究に重荷を負わす必要    はない。カントの倫理学的著作をざっと概観しさえずれば読者はその真理を確信するだろう。

(註9) 『或友への手紙にあらわれたイマニュエルカント』(1804)において,カントの生徒であり伝    記作家R.B.ヤッハマン(R. B.Jachmann)がこのように書いている。パウル・メンツアーは    『倫理学戦雲』(Pan−Verlag, Berlin,1924)への序文の中で引用している(p.525)。

(註佃) 純粋に感情に基づいてうち立てられたあらゆる倫理学説を,彼が嫌悪感を以て実際に見るよ    うになったことに注目する機会を,われわれは沢山持つことになるだろう。

(註11) この道徳形而上学の根本原理は1785年にあらわれ,カントの最初の独特な倫理学論文であっ

   た。

(註12) E.アーノルド(E.Arn・ld)によって集められたカントの大学の講義の完全な表から,われ    われは知っている通りである。彼の『カント研究の領域における批判的付説』(1894)参照。

(註15) KGS,]【pp.27−35.彼の講義課程の告示は55ページに出ている。

(註14) 脚註12参照。

(註15) KGS, 亜,PP.511−512.

(註16) 『講義』の英語訳は,ルイス・インフィルド(Louis Infield)によって整理され,イマニュ    エル・カントによる『倫理学講義』(London 1950)という標題で現われた。

(註17)

(註18)

(註19)

(註20)

(註20)

(註22)

(註25)

(註24)

ハルテンシュタインの『カント全集』VIII, pp.609−640参照。

これらの手紙のすべては,KGSの第1巻に見出される。

KGS, X, pp.52−55.

KGS, X, P.95.

KGS, X, P.157.

KGS, X, pp.185−186.

『基礎づけ』の序文からの引用はアボット(Abbott)訳,5ページ6行から10行まで。

『純粋理:性批判』のノーマン・ケンフ。・スミス(Nornan Kemp Smith!s)訳,658ページ。

斜字体は筆者.

(12)

カントの人間に関する楽天主義の発展

 われわれは今や,カントの最初期の倫理思想の発展の詳細な究明に進んでゆくことにし よう。カントは道徳的であることは感情の或状態のよろこびの中にあることという見解か ら始めたのだろうか。前批判期に彼は,道徳的選択の規範又は基礎が,それを二者択一の 予想が喚起するかも知れないし,そうでないかも知れないところの,特別な道徳的感情で

あると考えていた時期があったのか。或は彼は彼の決定的倫理学説が一般に教えると考え られているように,道徳生活を,感情の如何なる状態からも独立しているものと考えてい たのか。(註D道徳的生活における,また道徳生活に対する幸福の特殊な場について,カン

トの見解は何であったか。倫理学の主題についての彼の思考の早い時期に,彼の見解はも しありとすればどんな発展進歩を経てきたのか。そのようなことが私達が答えを求めよう とする問題である。その解答は,初期カントのよりよき理解にとって重要であり,そして 彼の後期の倫理学的考えのよりよき理解にとっても重要であるだけでなく,倫理学上の問 題の論理的見解にふくまれている実際問題のもっと十分な把握にとっても重要であるとい

うことが分るだろう。

 これらの問題に関するカントの思想の発展のあとを辿っていく際に,われわれは彼の:最 初の期間を通じて主に,他の主題に関係している著述の中にあらわれる多少孤立した文章 に依存していること,そしてわれわれはカントの筆から道徳を道徳自身のために特別に取

り扱ってはきていないということを心にとめていなければならない。周時に,カントの初 期の著述がどんな根本的な洞察を表現しているかを最もありそうでないそして期待できな

い箇所で発見することは,彼の初期の著述に精進していない人にとって驚くべきことであ るかも知れない。

/. 自然科学の魅力

 はじめカントの最初の三つの出版物(謝をみると,われわれは彼が物理学の問題に明ら かに没頭しているという印象をうける。メンツァーは,カントの初期の倫理学的思想の発 展についての有名な論文の中で次のように示唆している。この自然科学への没頭は,一部 分は少くとも一般的悲観的世界観の影響であったということ,また,この一般的悲観的世 界観は,彼がカントの人間に対する関心の欠如と呼ぶことを好むのを順々に説明している

ということである。カントの悲観論をメンツァーは次の三つの主な理由に帰している。(1)

カントが人間性の罪深さの非常に誇張された考えをもっていたといわれる生まれながらの 結果としての敬意主義的な育ちG13)(2)他の惑星悩)に庄んでいると仮想された住民と人類

との幾分軽蔑した比較,そして(3)カントの不健康。これらの三つの影響がカントにおいて 隠遁の態度を引き出させ,彼の友人価)との接触と関係から離れて,彼の内面的生活に入

っていかせたと思われる。

 或説明のために踏み迷ってゆくことを必然的ならしめる物理的問題へのこのような初期 の没頭に私は何もみない。人は物理的自然の研究者になるために,人生や宇宙について悲

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観主義者になる必要はない。且つ又学者が物理的自然の研究に混漉するからといって人間 に対する関心を欠く必要はない。

 この初期のカントの関心を,その固有の歴史的設定の中にみるとき,上に述べたことは 益々真実を失う。人間の福祉と意志の正しい方向は,何が存在するかを知ることによって すなわち存在の本質についての命題を知ることによって確信させられることを信じ乍ら/7 世紀の大陸倫理学は,本質的にストア主義的であったことを忘れてはならない。これは例 えば,スピノザの倫理学の明確な教えである。 この方向の第一段階は,知ることの確か な方法を見出すこと,それからこの方法を使ってそこに含まれているような宇宙や人類に ついての終極の本質についての一連の健全な知識を見出すことであった(註6)。認識論と存 在論の分野における諸結果を基礎にして,倫理学上の問題はそれ自身解決することを殆ど 予期されていた。すなわち,もしわれわれが何が存在するかを理解しさえずれば,何をな すべきかを知ることになるのである。

 一方,恰世紀はこれを超えていった。事物の性質をただ考えることによって,人は何を なすべきかを決定する可能性について,幻滅を感じるようになった(註7)。/8山:紀は,道徳

というものは,問題のそれ自身特殊な型に適した方法で研究されねばならないところのも のであることを理解し始めた。カントは倫理学におけるこの様な変移しつつある見解に気 づかざるを得なかった。確かに,ヴォルフ学派の倫理学において教育された人として,彼

はその変移を幾分当惑させるものとしてみてとったのもも つともである。

 さて明白に人間的問題の取り扱いにおける大きな困難に気づくことと,そのためにそれ らの問題を直ちに討論することを控かえることとは,入間に対する関心の全くの欠如とは 程遠いものである。どのような見解からでも,カントが:最初物理学に対して関心をよせて いたことは最も自然であって,メンツァーがそれを強調したように,非常に無理に防禦す る必要は殆どない(註8)。社会的政治的問題の取り扱いが若い著者にとって余りにも心を魅 きつけなかったあの時代の一般的世界状勢を考えると,物理学上の問題は(註9),他の人 よりもカントにとってはもっと魅力的であったように思われるけれども, このことは,

彼がこのような問題に対してそればかりに関心をもっていたという推論を殆ど正当化しな いであろう。恐らくカントはあとになって,直接の疑問の分野としての倫理学に転じてい ったとき,彼は自分の知的努力のこの初期の限界の中に多少のわがままをさとったのであ

ろう。

 2.一般自然史は悲観的ではない

 綿密に検討すると,メンツァーがこの時期のカントの一般的悲観論の三つの理由の一つ として用いる『一般自然史」からの一節は,そのような解釈をもっているようには思えな いし,カントの人間に対する姿勢について何物をもさほど証明しているようには思えない。

たとえいわゆる「一般自然史』の悲観的主旨が論争のために認められたとしても,メンツ ァーが悲観的感情の表現をカントの悲観論に対する理由或は原因の一つとして用いるのは 不思議である。ある結果を,その結果を生み出す過程を始める原因として用いることは,

どんな論理によっても決して許されない。この文章における悲観主義を,カントの入間に 対する関心の欠如のための理由として指示するよりも,寧ろカントが天界の自然史につい

(14)

ての論文に人間の悲観的結論を付け加えたという事実が,カントの立場において或倫理学 的人聞的関心を指示しているのではないか。悲観的見解(訓。)を述べたまさにそのことが,

カントの所見は倫理学に対す嫌悪を意味する軽蔑的性質をもっているのではなくて,寧ろ 悲しみと訓戒においてなされたのであって,この様にして,発芽する肯定的倫理学的関心

を恐らくことごとく反映していたであろうことを物語っている。

 私は既に,メンツァーやその他の人々によって与えられた理由とは全く異っているこの 時期のカントの人生観に対する理由を既に引用した。メンツァーは若き学徒⊂カント〕の 最初の出版物の中で,あらゆるものを討議できる筈がないということを熟考したようには 思われない。また私講師としての職に対するカントの希望は注目に価する。その私講師の 職は,彼が始めて論題を選んだこととおそらく非常に関係があったのであろう。

 確かに此等の要因はすべて,これに関聯して心にとめておかるべきことであるが,その 敦れも余り重要性があると考えるべきではない。メンツァーの示唆は全く余りにも一方的 で受け入れらるべき説明を提供していない。尤もカントがこの時期には,自分自身を人類 の教育者として殆ど考えてはいなかったという彼の結論には一致するかもしれない。この 様な観察でさえも,われわれは,ここで二十代後期と三十代初期における若者に関係して いるということを想起するとき不必要なことだと思われるかも知れない。どのような見解 からも,その様な若い男が自分自身を人類の教育者として考えられるとは殆ど想像できな いことである。

 勿論,恐らくこの時期にカントは,自分の理性によるよりも自分の感情的反応によって 支配されることを自分自身に許していたのかも知れない。若しそうであるならば,何故カ ントが,一たんそれに気付いてこの感情的支配を投棄てるように心を動かしたのか,この ことは説明することになるかも知れない。実際それは,何年かの後,彼をして道徳的生活 に対する感情的規範や目標を疑い深くさせる決定的要因の一つであったかも知れない。

3.楽天主義についての諸考察

 ついこの1755年頃の,カントの所謂悲観主義を重視する解釈者達は,四年間という短か い時期内で,彼のペンから生じる楽観主義についての決定的注釈を説明するのに非常に困 っている。カントの/755年のケーニヒスベルク大学での私講師としての就任は,非常に根 本的変化を殆ど説明することは出来ないだろう。大学での教授に関聯して,カントは当然 或社会的義務を負い,自分自身がどんどん増えていく学生達と日々接触するようにさせら

れていることに気づいたことは事実である。また,カントが予期しない楽しみをもってこ れらの新しい義務と機会に入っていったように思われるのも事実である。このような接触 がカントの一般的視野と見解に影響を与えたに違いないことは疑う必要はない。もし「一 般自然史』のカントが実際に,まぎれもなく人問嫌いであり悲観主義者であったならば起 ったにちがいない様々な大きな変化に対する説明のためには,上述の事実だけでは不十分 な様に思われる。/759年に,われわれは彼が狂喜して次の様に叫んでいるのを見出す。「私 は,恐らくこれ以上よくはあり得なかったであろうと思われる世界の一市民として自分自 身をみるのは楽しい。……私はあらゆる創造物に呼びかける……われわれ存在者よ,幸あ れ!創造主はわれわれを嘉し給うている……。」この文章の熱狂さは,この時期以前のカ

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ントの筆からわれわれがもつどの文章にも比べられないのは事実であるが,しかし全くの 知的決定によって,カントがこの特別に有頂天になっている文章の流れに自分自身を高め ていったと仮想することはばかげたことであろう。 ライプニッツ学派の趣旨  /755年 から1759年の間に主張された疎隔を,ますます真実らしくなくさせる考え一「一を明確に指 摘することは殆ど必要ではない。ライフ。ニッツ学派の楽天主義がカントに与えた影響は,

われわれが振りかえっていけばいく程益々強力なものだったかも知れないから。恐らくカ ントは『楽天主義についての諸考察」を執筆している間,たまたま特に気分がよかったの であろう。この文章はそれ故におもしろい山頂の経験として考えられるかも知れないが,

カントの思想の成長に対する如何なる特殊な意義をももっていないと考えられる。

4.自然地理学

 「自然地理学講義草案および予告』から,われわれは,カントが早くも1757年忌は彼の 正規の大学の講義の一部において,人間と人間の特徴の分析を行っていることが分る。

「自然地理学特論」という標題で書いた第二部門の中で,われわれは彼が行った講義の次 のような叙述を見出す。

 「動物界,その中で,人間はその自然の体格および色の区別にしたがい地上の諸地方に 居住しているのを比較によって考察される。…………

 私は先づ自然の種別の順序に従って講述し,そして最後に地球の全ての国を地理学的に 概観することにしう。これによって人間が住んでいる特殊な地域から生じて人間に及んで くる傾向,その先入見や考え方の多様性を掲示するためである。すべてこのことが入聞を して自己をもっと親密に知るのに役立つことが出来る限りにおいて。さらに人間の芸術,

商業,科学,さまぎまな地域の産物の列挙,大気の状態等々,一言にして言えば自然地理 学に属するあらゆるものについての簡潔な考えを述べるためである。」G主13)

 カントは,経済学的地理学の下に今日含まれるよりもずっと人類学的,社会的,経済的 特徴をもつ多くのものを,物理的地理学の下に含めて,人間の自分自身についての知識を 進歩させ得るあらゆるものと明らかに関聯していた。人間をしてもっと親密に自分自身を 知るようにさせるというこの狙いは,その衝動の本当の価値において,衝動の反省的自己 批判と評価についての非常におもしろい示唆をみせかけの価値とは全く別個のものとして 明らかにしている。少くともそれは非常に興味深い示唆である。

 カントは/756年の大学の第三学期開始のとき倫理学の一連の講義をすることを申し出る よう求められた。この事実は,人間と人間の関係ならびに活動に対するカントの急速に発 する関心と大いに関係があった。/759年から1760年の冬学期講義の予告,それは楽天主 義に(註14)関する論文で終っているのであるが,その予告から人は,その時までにカントが 倫理学の講義を申し出たことは当然のことと考えられるに至ったと判断するかも知れな

し、o  (同工15)

 それにも拘らず,/755年から1759年までの間カントによって出版された十一の論文の中 九っは,殆ど全部物理学の問題を取り扱っている。これらの十一の研究のうち,或るものは

カントの人間に対する増加する関心の証拠を与えているけれども,それらの一つといえど も道徳的な問題の取り扱いは含まれていない。しかしながら一つの変化がすぐやってくる

(16)

ことになった。60年代のカントの著書の殆どすべてが道徳的関心の決定的基調を示してい るのである。

(註/) こめような「独立」が,(1)満足を感じることを欠いているという意味において考えられるの    か,それとも(2)ある感情による連続的段階において決定されないという意味において考えられ    るのか,という疑問は人を首肯させるに足るものである。

(註2) それらは次のものである。『活力の真の測定についての考え』(1747),『地球がそれによっ    て昼と夜との交替を惹起するところの,枢軸のまわりのその廻転において,地球はその起源の    当初以来,幾らかの変化を蒙ったかどうかの問題の研究』(1754)そして,『物理的に考えて地    球は老衰するかという問題』(1754)。

(註5) 第一章において,私はこのような悲観主義の狭い見解の不一卜分さに注意を引く機会を既にも

   つた。

(註4) 彼の『天界の一般自然史と理論』(/755)の結論一KGS,1, PP.551−568,と特にPP.555    −560一において,他の所見の中に,人品を颪にたとえており,そこでカントは「あらゆる被    造物の中で,人閻は自分の存在の目的を達成することの最も少ないものである」と言っている。

   もし「少くとも,真の叡知の眼でみるとき」,人間が実際に,「すべての被造物のうちで最も    軽蔑すべきもの」でないならば,それはただ「将来の希望」のためであり,また次の時代にお    ける人間の「隠れた力」の可能な「完全な発展」のためである。

(註5) P.メンツァー,『発展過程」1部,291ページ

(註6) デカルトの『方法濫説』,スピノザの『知性改善論』,ロックの『悟性行動論』でさえ関連し    ている実例である。

(註7) この幻滅の社会的経済的副因のいくらかは,「心理批評」専攻論文補遺VI, No.2(/904.

   5月)の中の「18世紀イギリス倫理学に反映せる個人とその社会への関係」というジェイムズ    ・ハィデン・タフツ(James Haアden Tufts)の専攻論文の中で,彼によって疑う余地なく明    らかにされている。

(註8) これに関連して,若い学生としてのカントに最大の影響を与えたケーニヒスベルクの教授,

   すなわちマルチン・クヌッツェン(Martin Knutzen)が,哲学と宗教に関してだけでなく,

   数学と自然科学に関して講義をしていたということを思い起こすことが重要である。このよう    にしてカントは学生時代においてさえも,これらの様々な分野と関心の中で相当親密な関係に    慣れていたのだった。

(註9) 物理学の問題に関するこれらの論文のうち二つ,1754年に出版された。その頃七年戦争がす    でに起りそうになっていた。結果的には1756年春にそれは勃発し,三大陸で暴威を奮った。

(註10) /6ページ脚註4の引用文を参照。

(訓D 彼の「形而上学的認識の第一原理の新しい解明』という論文でもって。 (ケ幽栖ヒスベルク,

   1755)KGS,夏, PP.585−416。

(註/2) カントの『楽天主義についての若干の考察の試み』から。KGS, II, PP.54−55.

(註/5) KGS, II, P.9.

(註/4) KGS,亜,p.ろ5,この論文は,来学期の各種講義を予告するのを意図していた。すなわち    読者の関心を呼び起すための予告の見本であった。

(註15) カントは来学期の講義を予告する際に,講義に関して「私は予告する癖があるので………」

   と言っている。 (KGS,∬,P。55。10行から11行まで)

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