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ヘ ー ゲ ル 「 大 論 理 学 』 批 判 ( 三 )

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(1)

ヘーゲル﹁大論理学﹄批判︵三︶

速 川 治 郎

︵一四︶

 初めにヘーゲルに反対しているG・ポッシの考えを述べておこう︒なぜなら︑そこにヘーゲル批判の典型的な一例

を見いだせるからである︒以下はおおむねG・ポッシの意見である︒ヘーゲル哲学を直ちに下らないと言うのは疑問

であるかもしれない︒なぜならぽ例えばE・ブロッホはヘーゲル哲学を下らないとは言っていないからである︒だが

ヘーゲルを正当化しようとしたブロヅホの試みは基本的な論理学的間違いを犯している︒G.クラウスはサイバネ

ティックスのモデルを使ってヘーゲル弁証法の一種の確証を行おうとした︒だがヘーゲルが生物と機械における制

御︑情報伝達に意を注いだはずだということは︑疑問に思われる︒ポッシはこう言うが︑クラウスの﹃形式論理学﹄

には全く触れていない︒その書の中にこそ弁証法を下らないものとせず︑そのものの記号論理学化があるのにもかか

わらず︒

早稲田人文自然科学研究 第34号(S63.10)

209

(2)

 ヘーゲルの理解者ゼーベルガーは適切にヘーゲルを理解する難しさの理由を次のように見ている︒ ﹁ヘーゲルは一

つの語を常にその意味連関から︑一回目はその語の普通の経験的意味の中で︑二回目ははっきりとその意味に注目せ

ずに︑抽象的に合理的な意味の中で︑三回目は思弁的意味の中で使用する︒結局︑一定の概念はヘーゲルによって︑

事柄の本性に応じて︑抽象的に主観的な概念の意味の中で︑また︑これに対して絶対者の意味の中でも使用される︒

このことには︑結果として語そのものはヘーゲルの場合︑硬直した︑形式的な意味を失うということがある︒それと

いうのも︑合理主義が言語を使用する場合︑硬直した︑形式的な意味を語そのものが持つからである﹂︒

 ヘーゲルの場合︑語が事柄の本性に適応しているが故に︑その語が硬直した︑形式的な意味を失っているというこ

とを︑ゼ⁝ベルガーは歓迎すべきことと見ているのかどうかはっきりしない︒だが一般に著者が読者になんの断りも

なく或る語の一つの意味をその語の他の意味に移してしまうならば︑そこに理解しにくさが出て来るのは当然であろ

う︒ゼーベルガーいわく︒ ﹁思弁的思考は理性にのみ適した思考として︑形式論理学の規則を顧慮せず︑むしろ見た

ところ︑絶えず形式論理学を無視しているので︑思弁的思考は悟性的思考にとって全く恣意的︑作為的︑突飛な︑抽

象的なものと見られるのである﹂と︒思弁的思考はもちろん弁証法的思考であり︑悟性的思考は分析的思考である︒

ゼーベルガーの言によれば︑悟性的思考は思弁的思考に対して黙って引き下がらざるを得ないのである︒が果たして

そうであろうか︒

 或る物事を表現するということは︑論理的矛盾の外観を取り除かなければならない︒従って表現の主要課題は︑ヘ

ーゲルが見たところ基本的な論理規則を無視していても︑実際には矛盾する主張を決してしないということを示すべ

きであろう︒論理的矛盾が体系に属するもの︑事柄の本性にふさわしいものとして表現者により過小評価されるなら

210

(3)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

ば︑矛盾する命題を認める命題群からは︑構文論的に許される任意のどの命題も出て来るということを考えてほしい︒

矛盾がヘーゲルの学説の中核を構成するが故に︑矛盾を彼の体系から離してはいけないと彼が考えているならぽ︑ど

うしてであろうか︒ヘーゲルはその問いに明確に答えるほどの考えを持っていたわけではない︒というのも彼には論

理的矛盾と現実の対立との間の区別が分かっていなかったからである︒論理的矛盾は事柄の本性にふさわしいという

結果に彼が達する︒このことは彼の流動する概念という考えから示される︒この考えの中では︑概念は本性上流動的

であり︑そして反対者に転倒し得るということが主張される︒

 概念はへ:ゲルの場合主観的人間的精神の産出物であるばかりでなく︑本来的な実在であり︑端的に精神の純粋自

己である︒概念は物の内なるものであり︑物の本来的な本質であり︑すべての実在的な︑客観的存在であり︑すべて

の自然的現象とすべての精神的現象との根拠である︒この根拠からのみ現象するもの︑経験的なものが理解され得る

のである︒内面的︑無意識的生命力の意味での魂はヘーゲルによると概念に外ならない︒概念は独立して存在する実

体的力であり︑創造的力として自己自身から外へ運動し︑衝動としてその力自身の実在態を媒介し︑こうして内部か

ら形成されるものである︒このようにして浸透しない︑目に見えない︑原子的主観態があり︑この主観態は︑すべて

の植物︑動物の中では最高の活動態を持っていて︑人間的なものの領域では自己と呼ばれ︑概念である︒普通の考え

では︑人間は概念を持つだけであり︑概念を生み出すだけであるのにたいして︑ヘーゲルによれぽ︑人間は概念であ

る︒この概念は完全に概念自身から外へ出て物理的現象をだけでなく︑精神的表明をも概念自身の現象として展開さ

せる︒       皿 ヘーゲルの概念の意味は次の通りである︒一.精神の純粋自己︑二.すべての現象の根拠︵実在根拠と説明根拠︶︑

(4)

三.魂︑創造的原理︑四.人間︑五.自己否定的な普遍者︒これらの意味を生じさせる基にあるものが結局﹁流動す      肥る概念﹂である︒

 流動する概念は気まぐれに使用される概念︑気まぐれを方法論に高める概念︑これらの概念をも意味するであろ

う︒ ﹁名辞の音声形態を度外視し︑名辞の規範化された使い方︵名辞が実例によって︑または述語記号規則によって規

定された場合でも︶に注意するならぽ︑われわれは概念について語るのである︒従って概念は︑言葉によって人に告

知されるより先にある思想形成物ではなくて︑差し当たり名辞そのものである︒だが︑われわれは名辞を概念と呼ぶな

らぽ︑その名辞の任意の音声形態を無視するのである﹂︵W︒カムラー︑P︒ローレンツェソ︑い︒賢吻暮恥︑︑号概誉ミ馬網ω.c︒㎝︶︒

この考えによれば︑流動する概念の意味は次のようになる︒

 それは︑全く一つの音声形態を持つ異なった名辞に対する幾つかの使用規則の和である︒ただし︑この幾つかの使

用規則は一つの規制された関係の中にあるものとする︒このことは︑弁証法的方法の場合には次のような意味を持つ︒

すなわちテーゼの場合︑一つの名辞に対する諸規則が確定されるということ︑テーゼに続くアンチテーゼの場合︑同

じ︵あるいは別の︶音声形態を持った一つの名辞に対する新しい諸規則が確定されるということ︑最後にジンテーゼ

の場合︑第一の名辞と第二の名辞とに対する諸規則が第三の名辞に対する新しい規則として同時に確定される一た

だし第三の名辞は再び同じ︵あるいは最初の二つの語形とは異なった︶語形を持つ一ということ︒

 このようなやり方は極めて回りくどく︑ぎごちないということが分かる︒更に考えると回りくどいぽかりか︑弁証

法的方法にとっても不可能となる︒すなわち弁証法的方法の中で求められることは︑アンチテーゼは︑テーゼを止揚

(5)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

すべきであるということである︵破棄︑保存︑高揚という三重の意味で︶︒が︑ このようなことがどのようにして実

現されるべきであろうか︒一つの名辞に対する規則が言い表されることによって︑テーゼが実現される場合に︑アン

チテーゼは︑逆の規則が︵保存︑高揚のために︶述べられると同時にいかなる規則も述べられない︵テーゼの破棄の

ために︶ということによって︑生じるにちがいない︒しかし︑規則が表されると同時に表されないということを︑わ

れわれは不可能と見なさなけれぽならない︒しかしながら︑少なくともアンチテーゼのために︑逆の規則を言い表そ

うと仮定するならぽ︑逆の規則で意味すべきものをまず理解しなけれぽならないであろう︒逆の規則でテーゼのいか

なる規則をも意味しようとしないならば︑いかなるテーゼの名辞にも達しない︒ ﹁逆の﹂という語で︑テーゼに導い

た一定の規則が取り出されるべきではなく︑一般に可能な規則の全クラスから︑テーゼに導いた一定の規則以外の他

の規則が取り出されるべきであるということが意味されるのであるならぽ︑規則のこの全クラスがまず明らかにされ

なけれぽならない︒規則のこのような全クラスが明らかにされたと仮定されるならぽ︑テーゼに対しては︑部分クラ

スが必要となる︒アンチテーゼに対しては︑補クラスが必要となる︒部分クラスと補クラスはジンテーゼにおいて再

び全クラスを生じる︒が︑その場合唯一の名辞︵すなわちジンテーゼ︶に対して︑一般に可能なすべての規則が使用

されたかもしれない︒このような異様な名辞は弁証法家の目的とするものではない︒弁証法的発展がここでもはや起

こり得ないからではない︒というのは最後に獲得されたジンテーゼが再びテーゼと見なされ︑このテーゼに対して新

しいアンチテーゼが求められる場合︑新しいアンチテーゼの規則として︑規則の補クラスはもはや考︑兄られないから

である︒なぜならぽ全クラスにとっては補クラスとしてのゼロクラスだけがあるからである︒いかなる規則も示され      ㎜ないということがアンチテーゼを意味するのならば︑それに続くジンテーゼの本質はテーゼにある︒このことは弁証

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法家の目的とするものではない︒なぜならば弁証法家は弁証法的方法によって︑進展し得るからである︒しかしジソ      脳テーゼの本質がテーゼにある場合には︑どうしても弁証法家は停止せざるを得ない︒

 以上の論述に対して︑それは流動する概念ではなくて︑固定した概念を述べているだけだと反論する人もいると筆

者は考える︒だから︑そういう人は先の論述は不十分であると言うに決まっている︒そういう人は︑矛盾とは理性が

悟性の制限を越えることを指すと言うかもしれない︒またヘーゲルによれぽ︑概念は概念自身から運動し︑概念自身

を自ら動かすものは︑否定的なものであり︑このものを概念自身の中に持つのである︒このことが真に弁証法的なも

のを構成するのである︒ ﹁普通︑弁証法は外的︑否定的行為と見られる︒すなわち︑その行為は事態そのものに属さ

ず︑その外的︑否定的行為は︑確実なもの︑真なるものを動揺させ︑解体しようとする主観的な欲望としての単なる

自惚れに︑その行為の根拠を持つか︑あるいは︑その行為は少なくとも弁証法的に取り扱われる対象を空しいもので

あるとしてしまう﹂と考える人もいる︒ ﹁ ﹂内の弁証法についての叙述はヘーゲルにとって不適当なものである︒

それなのにヘーゲル批判者G・ポッシはそれがヘーゲルにとって妥当するものととるのは適切ではない︒

 またポッシの意見に戻ろう︒厳密の意味で︑流動する概念は批判することができるのであろうか︒流動する概念が

絶えず変化する場合︑確実な規則を見付けだそうと努めることはできる︒が絶えず流動して見付け出すことができな

いものは批判し得ない︒

 弁証法的方法の特徴づけは次のように述べることができるであろう︒すなわち悟性は硬直した︑不変的な︑精神の

ない︑型にはまった道の上を運動し︑常に論理学の規則にしがみついている︒悟性にとっては固定した概念がある︒

悟性が働く場合には︑それは概念の自己運動を強引に抑圧するにちがいないし︑また論理学の規則を通用させる仮象

(7)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

の世界を作るにちがいない︒だが弁証法家にとっては決して硬直した概念はない︒弁証法家は︑理性によって概念的

な仮象世界の虚構な性格を見抜くのであり︑概念が固有な活動をするということ︑すなわち概念が常に自己を自ら止

揚し︑変化するが︑その訳は概念の中には実際の対立が含まれているからであるということを認識する︒悟性はこの

実際の対立を論理的矛盾として禁じようとし︑そのため現実に対立して自らを不当なものにしてしまう︒悟性にとっ

て実際の対立と論理的矛盾とは同じものである︒

 ﹁概念の真理は︑概念が絶対的矛盾に陥るが︑しかしこの矛盾の中で矛盾の自ら作った法則性を︑また矛盾の絶対

的同一性を見いだすことであり︑しかも︑みすぼらしい抽象的悟性の同一性︑つまり一面的な悟性の概念に無理に押

し付けられた不変状態の中のその悟性概念にふさわしい悟性の同一性ではなくて︑むしろ養しい対立を︑止揚したも

のとして︑すなわち無に帰したと同時に保存したものとして含む具体的な理性同一性を見いだすということである﹂

︵国.︿・国婁暴旨⁝9ミ§§︑ミ馬肋§さミ§︑切Φ臣ロH︒・①︒︒.ω・︒︒㊦︶︒

 理性は悟性のできなかった不可能なもの︑すなわち︑あらゆる出来事の客観的経過に従うことができ︑悟性が矛盾

として把握する実際の対立を一つにすることができ︑こうして真理の認識に達することができるのである︒悟性が真

の洞察を行うための手段は弁証法的方法である︒だが︑この論文を書いているポッシは理性と悟性の対立を危険なも

のであると考えている︒そして彼はE・v・ハルトマソの文を引用する︒すなわち討論において︑Aが語られている

場合には︑Aだけが考えられるのであり︑Bは考えられないという不可欠な制約がある︒しかし弁証法家にとって︑

AはBでもある︒その弁証法家はAのところに止どまっていると人々が思っている時︑その弁証法家は既にBに移っ      15てしまっている︒だから人々は指をくわえてそのことを見ているよりほかに仕様がない︒このことを明確にすること 2

(8)

が極めて重要である︒というのも非弁証法家は自分の普通の方法を弁証法家に対しても使用するからである︒そうす

ると非弁証法家はちょうど幽霊を追い掛けているようなものである︒すなわち非弁証法家が或る隅に幽霊を追い詰

め︑捕らえようとすると︑幽霊は突然別の隅から出てあざ笑うようなものである︒以上のことをハルトマソは言う︒

 二人が討論を行う時︑一方が他方にこう問うことがあり得る︒ ﹁あなたは弁証法の方法を利用しますか﹂と︒この

場合︑一方は非弁証法家︑他方は弁証法家としよう︒上のように質問された弁証法家は質問した非弁証法家に当然こ

う答える︒ ﹁ええ︑弁証法の方法を利用します﹂と︒そうすると︑この弁証法家は好ましくない事柄を考えたことに

なる︒すなわち弁証法家は上のように答えることによって︑一義的な主張をしたわけであるが︑しかし弁証法家とし

て主張したのであるから︑その主張は既に矛盾を含んでいるはずである︒だから上の一義的な主張は不可能であろ

う︒そうすると﹁いいえ︑弁証法の方法を利用しません﹂という答えをもしたことになる︒しかし︑それでは弁証法

家は質問した人に嘘を言ったことになる︒こうして弁証法家は﹁ええ﹂とも﹁いいえ﹂とも言えなくなってしまう︒

今度は質問する人も弁証法家︑質問される人も弁証法家としてみよう︒ ﹁あなたは弁証法の方法を利用しますか﹂と

質問する人は弁証法的に考えているわけであるから︑質問すると同時に︑質問してないことになってしまう︒質問さ

れる方もその質問を弁証法的に︑つまり矛盾を含んだものとして受け取るので︑ ﹁あなた﹂の中に﹁あなたでないも

の﹂が︑ ﹁方法﹂の中に﹁方法でないもの﹂が含まれることになる︒

 二つの例を出したが︑どちらでも対話はできない︒問答によって構築される学問は弁証法の方法では不可能という

ことになる︒二人の弁証法家は︑普通に使われる言葉を使用し︑弁証法的思考を忘れた時に︑相互に理解できるので

ある︒

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(9)

 以上がポッシの考えである︒この考えは例えば﹃大論理学﹄の第一巻﹁画論﹂第一篇﹁質﹂の中の第一章﹁有﹂そ

のものが第二章﹁定有﹂あるいは第三章﹁向自有﹂となったり︑第三章﹁向自有﹂そのものが第二章﹁定有﹂になっ

たりすることはないということにも通じる︒標題付けをするときは︑弁証法的思考を忘れるのである︒もっとも標題

付けの場合はまだ弁証法的思考の働く余地がないと言えなくもない︒ ﹁私は弁証法の方法を利用します︒そしてそれ

を利用しません﹂を形式論理学的矛盾と取れば︑そういう表現は絶対に言うことはできない︒が︑その表現が表現形

式的矛盾の内容的差違と考えれば︑理解できるのである︒ ﹁私は私の考えた︵私独自の︶弁証法の方法を利用します

が︑私の考えた︵ヘーゲルに忠実に従った︶弁証法の方法を利用しません﹂と言うことはできる︒そういうことなら

ば︑ ︵︶内の言葉も入れて言えばよいではないかという反論が出よう︒この種の反論はヘーゲルに完全に当て嵌ま

るものなのである︒ポッシがヘーゲルの矛盾を形式論理学のものと取るならぽ︑ヘーゲルの叙述はでたらめなことを

言っていることになる︒このことは娼﹀﹂娼←ρからも類推することができる︒

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

︵一五︶

 定有そのものを語る段階に来た︒それはa定有一般 b質 注釈︹実在態と否定︺ c来るもの︑に分かれている︒

cの初めの方に﹁定有する質としてのこの質には︑実在態と否定という区別がある﹂と述べられている︒ ﹁この質に

は﹂の質は定有の規定態であり︑有とは違う定有を意味している︒﹁実在態と否定という区別がある﹂の区別は空なる       卿ものである︒なぜか︒その実在態は︑有を否定する限り︑否定を含み︑定有である︒また否定は単なる否定作用ではな

(10)

く︑すなわち︑例えばくx﹂閏×の単なる﹂ではなく︑また︑すべてのx︵否定というもの︶はF︵有︶ではなく︑有

でないものとして定有であり︑抽象的な無ではないからである︒この定有︵ここでは否定︶はそれ自身で︵帥昌ωざげ︶

あるがままにあり︑つまり存在することとして措定されている︒この意味で定有は絶対に質から分離されていない︒

定有は規定された︵﹁定有﹂の中に﹁定﹂があるので︶質的な有なのである︒Cの最初のところに︑﹁定有のところで

は︑この定有の規定態は質として区別されている﹂と書かれているが︑何から区別されているのか分からない︒ヘー

ゲルのこういう書き方には明らかに欠陥がある︒武市訳ではそれを補足して︑ ﹁⁝この定有の規定態は質として

︹定有そのものから︺区別された﹂となっている︒ ﹁定有の規定態は質として定有そのものから区別されている﹂で

も分かりにくいが︑その文は﹁定有の特徴が挙げられるならば︑この定有は︑まだ特徴の挙げられていない定有その

ものから区別されていることになる﹂の意味である︒ところが︑このように区別がある事実は﹁a定有一般であり︑

bこの定有のところにある区別であり︑ cこの区別の止揚である﹂︒すなわち初めに漠然とした定有一般があるが︑

定有が規定されるならば︑漠然とした定有一般と規定された定有との区別がある︒しかしながら漠然とした定有も規

定された定有も定有であるので︑先の区別は止揚されている︒止揚されている限り︑定有は自己内有︵H口ω一〇ぽωO一口︶︑

すなわち定有が定有自身の働きによって定有自身の内に戻っているのである︒そして﹁定有は定有するもの︑すなわ

ち或るものである﹂とヘーゲルは言うが︑ ﹁有﹂は﹁もの﹂だろうか︒有はものではない︒しかし定有と言ったとき

には既に︑疑るものが一定の状態で有るのである︒或るものと言ったときには︑一定の状態で有る或るものが肯定さ

れるにせよ否定されるにせよ問題になっていることは確かである︒定有は定有するもの︑翻るものではないが︑定有

と言っ允とき既に定有するもの︑懸るものが前提になっている︒とにかくヘーゲルの叙述には疑問が残る︒だが︑そ

218

(11)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

れはそれとして或るものに論を進めよう︒

 ﹁過るものは与るもの自身への関係が単一に存在するものとして︑最初の否定の否定である﹂とヘーゲルは言う︒

﹁最初の否定の否定﹂は何を否定しているのか分からない︒これはヘーゲルの欠点である︒へ1ゲルの主張は曖昧な

のである︒ヘーゲルの曖昧は二義的であると言って︑彼の主張の真を示そうとしても︑この場合は何を指示している

のか全く分からないのであるから︑理解できない︒彼の主張は不適切であるが︑前述のa定有一般︑b定有のところ

にある区別︑Cこの区別の止揚︑をヒントにして︑彼の主張を解釈してみよう︒ ﹁否定の否定﹂はaの否定のbの否

定である︒すなわち︑それはaを否定して︑bになるが︑このbをまた否定して︒になっていることである︒cであ

るから︑図るものは或るもの自身への関係が単一に存在するものである︒ヘーゲルは少し後のところで同じような言

い方をしている︒ ﹁或るものは否定の否定として存在している︒なぜならぽ︑この否定の否定は自己との単一な関係

の回復だからである﹂︒ところで﹁自己との単一な関係﹂という表現の中の﹁自己﹂は問題がある︒その表現を含む文

の原文は次の通りである︒糟噂・:住①旨ロ巳ΦωΦ︵象oZ①σq⇔江魯再興Z①αq巴︒づ︶凶曾島9︒ω芝一①自①︸巽ω3=①口α興①ぎh9︒oゴΦ乱

切Φ鵠①げ⊆昌σq碧hωざげ・︑.︵♂く︒畠.ピ・ピ ωロゴ﹁犀p畠ヨ弓くO﹃一のψ・H目蔭︶象①ZΦoq簿江︒口日興Zoσq彗δ昌が主語であるから︑ω8げ

は島①Zoσq伊謡8◎震Zoαq9︒二〇⇒を指すのが普通であるが︑解るものを指した方が意味がはっきりする︒.すなわち

﹁なぜならぽ︑ この否定の否定は語るもの自身との単一な関係の回復だからである﹂︒ この関係は前述の︒を意味し

ている︒ただしa或るもの一般 b或るもののところにある区別 cこの区別の止揚としたほうが分かりやすい︒前

述の原文のすぐ後に﹁選るものは自己の自己自身との媒介である﹂ ﹁自己との媒介が或るものの中に措定されてい      ㎜る﹂が出て来るが︑この中の﹁自己﹂はいずれも或るものを指す︒そしてすぐ前のabcの展開が分かれば︑容易に

(12)

理解できる︒      20      2 回るものが自己との媒介を持つと言っても︑具体的な展開をしている訳ではないから︑或るものは有るだけだが︑

しかしそれ自体成でもある︒だが︑この成は単に有と無を契機とするのではなく︑定有するもの︵或るもの︶と定有

するもの︵他のもの︶を契機とするのである︒こうして点るものと他のものが問題になって来る︒が︑それらは有限

性の下で取り扱われる︒

︵一六︶

 B 有限性 有限性をなぜ冒頭に出したのであろうか︒或るものは有とは違う限り︑質を持ち︑その限りで規定さ

れている︒このことは限界を持つことであり︑従って有限性を持つことなのである︒有限性は a罵るものと他のも

の b規定︵本分︑使命︶︑性状︑限界 c有限性に分かれている︒

 a或るものと他のもの 一.︹或るものと他のものとの自立性︺   最初に﹁留るものと他のものは共に定有する

もの︑あるいは或るものである﹂と述べられているが︑当たり前のことである︒ ﹁帰るもの︑他のものは共に他のも

のである﹂はいかにもヘーゲル的な表現である︒だが忘れてならないことがある︒それは︑ ﹁他のもの﹂という表現

は或るものがあって︑それの﹁他のもの﹂であるということである︒疑るものがなけれぽ︑他のものは使われない︒

或るものを使えばよいのである︒﹁他のもの﹂は前提条件があって初めて使える語である︒その意味では﹁重るもの︑

他のものは共に他のものである﹂は不適当な表現であるが︑しかし︑こういう表現がヘーゲルの特徴にもなってい

(13)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

る︒そこで︑今はヘーゲルに従うことにしよう︒どの回るものも﹁このもの﹂であり︑ ﹁他のもの﹂でもある︒他の

ものが有ることを問題にしているので︑他有︵諺昌仙Φ吋ωのO一昌︶をヘーゲルは考える︒これは今まで考えて来た定有に

直接かかわらない規定として現れる︒すなわち或る定有の外部にある他者である︒他有は他者であるので︑ ここで

も有は者となっている︒だから前述した問題が出て来るが︑繰り返しになるのでここでは止めておく︒ところで定有

は何であるか︒一方では定有は定有に直接かかわらない第三者の人の行う比較によって他のもの︵他有の他のもので

ある定有︶として規定されるのであり︑他方では定有は︑定有の外部にある他のもの︵他有︶のためにのみ︑他のも

の︵他有の他のものである定有︶と規定されるのであり︑だから︑定有はそれだけで他のものと規定されるのではな

い︒すなわち定有が定有それ自身で定有自身を他のものと規定するのではない︒ ﹁従って︑ただ定有としてのみ︵そ

れだけで︶規定されている定有はない︑すなわち定有の外部では規定されていない︵定有の内部で規定されている︶

定有はない︑それゆえ︑それ自身他のものでないような定有は依然としてない︵他有の他のものである定有がある︶﹂

︵薫・Fピ・一・¢・嵩①︶︒以上のことから定有と他有︵他の定有︶があることが分かるが︑そこから有と有るものとを一

緒にするヘーゲルによって︑或るもの︵他のもの︶と他のもの︵煽るもの︶が出て来る︒量るものと或るもの︑他の

ものと他のものという関係では︑同一であるが︑別々にある両者をただ比較して同一であると言っているだけであ

る︒しかし両者が別々にある限り︑睡るものと他のものがあるのである︒従って﹁他者は孤立したものとして︑つま

り自己自身に関係しているものと見なされなければならない﹂︵毛q︼U・押ω●Hb⊃①︶︑すなわち他者は他者としてそれ

だけであるのである︒それゆえに他者は或るものの他者ではなく︑ ﹁自己︵他者︶自身のところにある他者︑すなわ      21ち自己︵他者︶自身としての他者である﹂︒その例として物理的自然が挙げられている︒しかし︑それは精神の他者 2

(14)

である︒このことは精神と自然が分離していることを示す︒物理学者が自然そのものを問題にしなければならないと

いう場合︑自然だけが現れているので︑自然は物理学者の精神と全く切り離されている︒物理学者は自然現象を自分

の精神と全く切り離して研究することによって︑物理学は成り立つと言う︒しかしヘーゲルの考えによれば﹁切り離

して研究することによって﹂精神が入り込んでしまっているのである︒ ﹁切り離して﹂おいては自然の質は表されて

いないのである︒ ヘーゲルと同時代の人であり︑ ヘーゲルに思想的に対立しているフリースは﹁精神という内的本

性︑物体という外的自然︵本性︶﹂あるいは﹁われわれの外の自然︑われわれの内の本性︵自然︶﹂という言い方をし

ている︒﹁われわれの外﹂とは何か︒それは︑われわれの身体の外であり︑われわれの︑物質としての脳の外である︒

脳の内でその働きがある︒物質としての脳の外に︑物体という外的自然がある︒確かにその通りであるが︑そのこと

自体が脳の働きである︒しかしながら︑脳の働きが常に外的自然とは限らない︒脳は空想するからである︒すると脳

の働きの独自性が出て来る︒ということは物質としての脳の実在を前提することになる︒しかし︑このこともまた脳

の働きによる︒こうして堂々巡りが始まる︒脳の働きはフリースの言う﹁われわれの内の本性﹂であり︑物質︑物体

としての脳は﹁われわれの内の自然﹂となるであろうか︒そうすると﹁物体という内的自然﹂という表現が必要では

ないか︒フリースはそれを﹁精神という内的本性﹂の中へ無理に入れているようである︒

 ヘーゲルの立言に従って論を進めよう︒自然がそれだけで採られる限り︑自然の質は自然自身のところにある他者

︵精神︶であり︑自己︵自然自身︶の外に有るもの︵侮器︾¢ご︒Φ〒ωざ﹃ωo貯づ傷Φ︶︵精神︶で︵空間︑時間︑物質の規

定の中に︶ある︒この叙述が坐論︑第二章定有︑B 有限性 の中にあることに注意してもらいたい︒定有が考え

られていても︑精神が出て来ない訳にはいかないということであり︑精神が語られているということである︒しか

222

(15)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

し︑だからと言って精神の中身︑すなわち例えば理性︑悟性︑表象︑意識等が語られる訳ではない︒エソツユクロ

ペディー 二四七節の中にある﹁自然は他有の︵自然のところに同時に精神が有るという︶形式になっている︒すな

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へわち理念の自己︵理念自身の︶外化である﹂においては︑理念が理念自身を外に有るものにして︑これが自然である

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へのに対して︑前述では自然の質は自然自身の外に有るものになっている︒前掛の﹁外に有るもの﹂は自然︑後者の

﹁外に有るもの﹂は精神であるので︑結局ヘーゲルにおいては何かの外と言う場合︑その何かが変化することが分か

る︒ 向自的他者−は他者−自身のところにありながら︑あらわになった他者2であり︑従って他者自身の他者︑そこで

他者−の他老2である︒それゆえ一.他者2は他者−自身の中で全く不等なもの︵指数−︑2に関する限り不等︶︑

他者−自身を否定するもの︑他者−自身を変化させるものである︒2.どこまでも他者は自己同一︵他者−︑他者2

は他者に関する限り同一︶である︒なぜならば他者−︑他者2の内の他者に関してのみ言うならぽ︑他者が自己︵他

者自身︶を変化させて︑行き着くところのものも他者だからである︒ ︵実際には他者−が自己を変化させて︑他者2

に行き着く︒︶

︵一七︶

 2.︹慮るものと他のものとの展開︺  或るものは或るものの非定有︵一定のところに留どまらないで︑他のも      23のへ変化すること︶の中で自己︵干るもの自身︶を保持する︒青るものは本質上その非定有と一つのものであり︑そ 2

(16)

して本質上その非定有と一つのものではない︒この立言は表現形式上矛盾である︒すなわち︑それは℃﹀﹂bである︒

しかし︑これではでたらめを言っていることになる︒そうでないならぽ何であるか︒これは形式的矛盾の内容的差違

である︒すなわち表現形式的には一応b>﹂bであるが︑しかしながら唱の意味と﹂Oの中のOの意味とは違うので

ある︒ヘーゲルはこのことを言わない︒言わないところに欠点がある︒ヘーゲル学者は︑そういう立言は矛盾律を犯

している訳ではないということを言うが︑そういう立言の意味を一般に明確に押さえていない︒そして弁証法的論理

学に疎い人をけむに巻いてしまいがちである︒有論のところでは形式論理学は語られないはずなのに︑その問題が出

てしまっている︒出てしまっているのに︑それをヘーゲルが語らないところに欠陥がある︒

 論をもとに戻そう︒ ﹁怠るものは本質上その非定有と一つのものである﹂は前で述べているところがらすぐ分かる

であろう︒ ﹁そして本質上その非定有と一つのものではない﹂は要するに由るものは宣るものであることである︒以

上の表現の後に﹁他有は同時に図るものの中に含まれていて︑また同時に或るものから分離している﹂が提出され

る︒他有がそのまま或るものの中に含まれているとは何であるか︒他有はそれ自体で独立した他有だとしても︑他有

は他の状態に有るという意味は消えないであろう︒他有は他者が有るという意味でないならば︑適切な語を使うべき

である︒不明確な間違いやすい語︑あるいは明確であっても︑誤解を招いてしまう語を使って︑読者をたぶらかすの

は下策ではないか︒深く考えた結果であるにしても読者をたぶらかしてよいとは言えないであろう︒また深く考えた

結果はそのまま真になるであろうか︒とにかく他の状態に有るは座るものが有ることを前提する︒しかも︑それは或

るものが有ることに含まれてしまう︒なぜならば他の状態になって曲るものが有ることは︑一般に或るものが有るこ

との中に入り得るからである︒﹁他有はまた同時に至るものから分離している﹂は常識的な考えでも分かるであろう︒

224

(17)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

 定有は規定された有︵定有の有が定有の定において︑規定されている︶︑定有自身の中で否定された有である︵定

有自身の中で有が否定されている︶︒定有はそれから︑更に︑差し当たり他のものである︒すなわち定有は他の側面

︵事柄︶を持つ︒他のものは単に向他有︵ωo貯−隷〒﹀昌qΦおω︶であるにすぎない︒また定有は即自有︵諺昌ωぎげωΦ貯︶

︵定有はもともと定有である︶である︒定有は先述のように他のものであり︑これは他の側面を持つので向他有とな

る︒ここから亘るものがあることが分かる︒或るものには二つの契機がある︒それは向他有と即自有である︒ここか

ら次の事柄が出て来る︒すなわち一.或るものと他のもの︵即自有が或るもの︑向他有が他のものとなり︑両者は分

離している︶︒2.向他有と即自有︵ωO一口1一β﹃1︾自傷O同Oω ⊆口α>Pω一〇げωO一口︶︵両者は統一しており︑更に論述されるも

のである︶︒即自有は次のようになる︒1即自有は自己の外に︵﹁即自有自身の外に﹂であるが︑碧こ︒震ぎヨであり︑

鎖島①同ω一〇げではないので︑﹁外に﹂の度合いが僧仁じ︒興ω一旦よりはっきりして︑あらわになっているであろう︶他有

を持つ︒すなわち即自有は他有に対立する︒或るものは即自的にある限り︑他有と向他有から引き離されている︒2

しかしながら向他有は自己の中へ反照した有としての即自有を示している非定有である︒すなわち向他有は向他有と

してある限り︑向他有にかかわってあるだけであり︑まだ発展していない即自有であり︑即自有である限り︑非定有

つまり定右ではないのである︒また逆にこの即自有は向他有を示している︑すなわち︑この即自有はもともと向他有

だから向他有を示しているのである︒

 3.︹要るものの中における二つの面︺  向他有と即自有という二つの契機は或るものというまったく一つのも

のの二つの規定である︒或るものは向他有から出て︑その漁るものに戻っている限り︑或るものは或るものの許にあ      25      2るので︑即自的︵き巴︒ゴ︑自己の許に︶にある︒しかし或るものは規定あるいは状態をもまた即自的︵ここではき

(18)

ω圃Bげの窪︿即﹀︑すなわち︷許に︑ところで︑そばに︸にアクセントがある︒そうすると或るものの外に出て︑それ

から或るものの許に来ているのであるが︑ ﹁外に出て﹂の意味が強い︶に持つ︑すなわち︑その状態がその或るもの

の許に︵9︒昌茜ヨ︶つまり外に出て︑あらわになっている限り︑すなわち向他有︵匂Doぎ点二→﹀巳︒おω︶になっている

限り︑その或るものは規定︑状態を或るものの許に︵きぎ昼外に現れて︑あらわになった意味が強い︶持つのであ

る︒とにかく四pωざゲと9口百日との意味の違いは分かりにくい︒二つの語を比較して見ると︑ きω8げより蝉ロ

ジ日の方が主語の或るものから離れている意味が強い︒その限りでき寧日は主語掘るものから外に現れて︑あら

わになっている意味を持つであろう︒別の解釈もあるかもしれない︒そうだとするとヘーゲルの真意はどこにあるの

だろうか︒ ﹃大論理学﹄は聖書のようなもので︑これを真としてひたすら解釈して行くものであろうか︒そうではあ

るまい︒ ﹃大論理学﹄は批判さるべきものである︒

 即自有と向他有とは差し当たり異なったものである︒ ﹁しかしながら或るものが即自的に有るものを看るもの自身

の許に︵四旨岸ヨ︶持ち︑逆に語るものにとって向他有としてあるものが即自的なものであるということである﹂

︵︿﹃.住.い.H讐ω.一ト⊃㊤︶ ﹁逆に﹂と言っているが︑それの前の文と後の文とが完全に逆の表現になってはいない︒ただ

両者を比較すると︑ ﹁託るもの自身の許に﹂というものが﹁向他有としてあるもの﹂であることが分かる︒ 年下8

が外に現れて︑あらわになって向他有としてあるものになっているのである︒しかしながら7・.或るもの自身の

許に持つ﹂の﹁持つ﹂ということが向他有の﹁有﹂になるであろうか︒ ﹁有﹂になるならば何らかの理由となる表現

が必要であるが︑ヘーゲルは何らの表現をもしていない︒前述のω.誌㊤の引用文﹁しかしながら或るものが即自的

に⁝﹂はそれより前に述べたことから考えても︑即自有と向他有との同一性であることは分かる︒

226

(19)

ヘーゲル『大論理学』批判(三)

 この後ヘーゲルは物自体︵bぎひqきω凶島︶の意味を述べている︒﹁物自体が何であるかということはわれわれには

分からない﹂という命題は一般に重視され︑物は︑すべての向他有が捨象される限り︑すなわち物がすべての規定な

しに︑︵向他有は物のすべての規定があるという意味であることが分かる︒そうすると︑向他有ω①ぎ点帥マ︾巳Φおω

はここでは他のものとして有ることである︶つまり︑何もないもの︵無︶であるということと考えられる限り︑物は

即自︵自体︶と呼ばれる︒しかし︑このような意味では物自体は何であるか︵どういう規定を挙げたらよいか︶は分

からない︒規定を挙げようにも挙げられない︒なぜなら︑初めから規定がない・からである︒ ﹁物自体は本当は何であ

るか︑本当のところ自体︵即自︶とは何であるかは論理学が述べるのである﹂︵≦●Fピ﹂讐ω●δo︶︒こういう言い方

をすると︑論理学は認識論︑哲学とあまり変わりがない︒あるいは論理学の哲学︑哲学的論理学のようなものをヘー

ゲルは考えていると言えよう︒自体︵即自︶は単なる抽象的なものではなく︑概念の中にあるものである︒ここで言

う概念は具体的な︵ズ8ξ①ゴこれはラテン語では結合されたという意味を持ち︑一つのまとまった形を示すと考︑兄ら

れる︶ものであり︑概念一般という普遍的なものとして充分に把握され︑しかも多くの特定なもの個別的なものの規

定されたものとして︑すなわち概念の多くの規定の連関として認識され得るものである︒より簡単に言えば︑概念は

普遍的なものと個別的なものと統一した︑その限りで具体的なものとして把握され得るものである︒即自有は始めは

向他有と対立していて︑両老は或るものの契機である︒また即自有には被措定有︵措定されて有ること︶︵OΦω①訂一ωΦぎ︶

が対立している︒筆者が取り扱っているω爵岳pヨO版﹃大論理学﹄1︵蕊・︒b︒︶いわゆる第二版に出ている﹁被措定

有﹂という語は筆老が見る限りでは︑ 閃.=oσq①葺石ロロ庫昌α妻.冨Φωoげ犀Φ編算の﹃大論理学﹄1︵一︒︒お\一︒︒一ω・閃︒一一×       脚寓︒貯憂く︒葺︶いわゆる初版の対応箇所には︑出ていない︒寺沢恒信氏はグロックナー版︑ラッソソ版︑ズールカムプ

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版︵グロックナー版︑ラヅソソ版に合わせるならぽ︑モンデンハウアー︑ミッヒェル版と言うべきであろうが︑長く

なるので︑出版社名ズールカムプを採る︶でなく︑フェリックス・マイナー版の方針を採る︒すなわち初版と第二版

︵初版の内の第一巻︑第一書︵国諺3鴇bdき鼻国諺8ω切信︒げ︶だけを改稿したもの︶を独立した本としている︒グロ

ックナー版︑ラヅソソ版︑ズールカムプ版はいずれも第二版︵ただし︑第一部︑第一書︵国毎8﹃目︒継父ω8ωbd⊆oげ︶

となっている︶とそれ以外の初版とを結び付けたものである︒第二版のところで初版のところより悪くなっている箇

所を寺沢氏は具体的に一文を挙げて説明している︒寺沢氏は初版の方が優れていると言いながら︑他の箇所では︑何

から何まですべて初版の方が優れているなどという単純なことを言うつもりはないと述べている︒また寺沢氏は﹁大

きな違いのある初版本を一世紀半近くにわたってどの全集にも入れずに事実上無視し続けていたドイツのヘーゲル文

献学者たちに向かって﹃間抜けどもめ﹄と叫びたかった﹂と言っているが︑グロヅクナー︑ラッソンがそんなに間抜

けどもであろうか︒もしそうならば︑彼らの版の本を読んでいた人も間抜けどもになりかねない︒寺沢氏は初版本と

グロックナi版︑ラッソン版等の本と大きな違いがあるとか︑全く書き改められていると言っていい状態の箇所があ

ることは言っているが︑ヘーゲルの弁証法的論理学の内容︑あるいは︑その流れが全体的に全く変わってしまったと

は言っていない︒ここにグロックナー版︑ラッソン版ができた鍵があるのではないか︒科学理論における解釈学の問

題として︑初版︑第二版を比較研究することはもちろん重要である︒しかし﹃大論理学﹄の弁証法的思考を批判する

にはその比較研究を必ずしもすることはない︒なぜならぽ︑ヘーゲルの弁証法的思考が第二版によってなくなってし

まったわけでもないからである︒寺沢氏は﹁⁝そのような改善の余地のあるA判︵初版の第一巻︑第一書︶の文

章は︑それだけ読みにくく︑ ⁝﹂﹁⁝B判︵第二版︶による表現上の改善⁝﹂と言い︑そして︑﹁わたし

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(21)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

はB判︵第二版のこと︶よりもA判のほうがよいという自分の見解を︑ ...しとも言っている︒改善の余地のある

ものがよいとは論理的におかしいであろう︒寺沢氏は第二版に﹁ポカ﹂があるにしても︑それが偽の弁証法であり︑

取り扱うべきものではないとは言っていない︒ヘーゲルの弁証法的論理学を一度分析的に考︑兄てみて︑それの︑いわ

ゆる舌足らずを正して︑真の表現を検討してみることは必要ではないか︒

 さて本論に戻ろう︒被措定有は語の意味から言えば寝る状態に置かれる︑或る状態が設けられることであるが︑被

措定有という表現の中には向他有が入っている︒或るもの一︑或るもの︑が措定されて有るが︑灯るもの一は或るも

の2という他のものに対して︑あるいは向かって措定されて有るのである︒言い換えると︑被措定有という表現は被

措定有である限り︑即自的でないということから即自有︵被措定有がただそれ自体として有ること︶ への屈折︵反

照︶が既に生じていることを含んでいる︒措定︵ω①訂︒昌︶という意味から次のことが言える︒定有は直接に否定さ

れているという意味︑すなわち定有自身の事柄︑定有自身の有を他のものの中に持つという意味を抱えている︒この

後で有の領域の成から定有は出て来ると言っているのが︑定有が間接的に出ているわけだが︑間接的という語は出て

来ない︒定有という現在の立場を過去の立場からも見ている点に注意しておこう︒へ!ゲルは﹁直接に﹂と言ったの

で︑意識的に︑もしくは無意識的に逆である﹁間接的﹂に相当するところの文をだしたのである︒ ﹁他のものの中に

持つ﹂の中の﹁他のもの﹂の意味として向他有が出て来るのである︒

 向他有は或るものと或るもの自身との統一の中では︵或るもの一が︑他のものである剃るもの2に向かっている︑

対しているが︑或るものである限りにおいて両者は一つになっているところでは︶跨るものの即自というものと同一

である︒そこで向他有は或るものにかかわって︑あるいは或るもののところに︵㊤口国け≦9︒o︶有る︒従って︑このように

229

(22)

自己︵或るもの︶に反照した︵凝るものの即自という最初のものに戻ってしまっている︶規定態は︑再び単一な存在

する規定態であり︑そこで再び一つの質i規定︵切①ωユ旨ヨ毒oq︶である︒即自的規定態が規定であるということに

なるが︑意味がはっきりしない︒或るものが着るもの一︑或るもの︑という具合に限界付けられているのが規定態で

あり︑限界付けられていないのが規定である︒或るものに限界が実際にあるという状態が規定態であり︑則るもの一

般の内面的本性︑特質が規定であると言えよう︒規定という語が突然出て来ているが︑これは後に出て来る事柄を先

に突然提出するというヘーゲルのやり方である︒第一版に次のような規定についての叙述がある︒すなわち﹁自己︵規

定態自身︶へ帰った限界としての規定態は即自的である︒この規定型は自己︵規定態自身︶にのみ関係するものとし

て規定されたものであり︑他のものの非有として規定されたものである︒だから︑その規定されたものは限界付けら

れていない︒その規定態は︑この面から厳密に言えば規定と名付けられ得る︒﹂︵≦・ロ・ピ・国﹃ω件︒同ω餌p侮・虫︒〇三︒貯菖<︒

い︒oQ幹︵旨︒︒5>︒︒お︶・同9一×竃︒冒2く9・ω・ざ︶規定態は規定態としてのみあり︑他のもののない即自的なものである

ので︑規定態と言うよりは規定と呼ばれ得る︒これだけではよく分からないが︑先へ行けば分かるようになるであろ

う︒

230

︵一八︶

 b規定︑性定︑限界   初めの方では即自と即自的に有る規定態が述べられている︒斯るものの即自はもはや物

自体eぢσq碧忽︒互雪ωぎプは即自でもある︶のような抽象的即自ではない︒なぜなら即自は或るものの向他有を

(23)

ヘーゲル『大論理学』批判(三)

否定しているので︑或るものの向他有によって媒介されており︑そこで向他有は或るものの契機であるからである︒

或るものの向他有を否定することは向他有がなければならず︑向他有があって︑それを否定するのであるから︑向他有

を媒介するのである︒﹁或るものの即自は或るものと自己との︵目詳鍮︒互薫るもの自身との︶︵文法から言うとω一〇げ

は即自を指すが︑文脈から言うと悟るものを指す︶単なる直接的同一でなく︑診るものを即自的に︵⇔づω一〇げ︶ある

ものとし︑また慮るもののところに︵9︒口ま3︶あるものとする同一である﹂︵毛・傷・ピ﹂・ω・日認︶︒﹁量るものと或る

もの自身との直接的同一﹂とはどういう意味か︒﹁或るものは或るものである﹈という時の主語と述語は同一であり︑

このことが上の直接的同一である︒ ﹁或るものを即自的にあるものとし︑また象るもののところにあるものとする同

一である﹂とは何を意味するのか︒儲るものが即自的にあると言っても︑向他有を媒介し︑否定しているので︑抽象

的即自から離れてあらわになって或るもののところにあり︑9ロぎヨとなっているが︑主語が早るもの︵国辱霧︶な

ので普通ならぽ︑きω一〇げなのである︒あらわになった具体的︵弁証法的︶な①口ω8げの意味を持った雪臣営で

ある︒このことは表現形式的差違の内容美同一である︒向他有は或るもののところに︵きぎヨ︶ある︒ なぜならば

ここで問題になっている即自は向他有の止揚であり︑向他有から自己に︵ぼω一〇互即自自身に︶戻っているからであ

る︒しかし︑こういうことがある理由は︑即自が抽象的であり︑弁証法的に発展していないので︑そこで本質的には

向他有を否定し︑その限りで向他有を伴っているからである︒向他有の止揚は向他有を伴っているのである︒ ここ

では質︑実在態という有る規定態︵のΦ一Φづα①  ゆΦωけ一bP目P一げ①凶け︶だけでなく︑即自的に有る規定量︵雪−ωざ守ω虫窪住︒

ゆΦω江玉目夢9︶が現れている︒ただ実在するという質を持った規定態が有るだけでなく︑向他有を否定し︑媒介し

ながら即自的に有る規定態が現れている︒

231

(24)

 1.︹規定︺  単一な或るものの中にある即自︵匿ω︾午ωざげ︶は本質的には︑その至るものの他の契機である

﹁或るもののところにあること﹂︵﹀づ−ぎ旨あ忠P即自から出て他の或るものに向い︑それにかかわって有ること︑つ

まり向他有︶と統一している︒そういう即自となっている質は或るものの規定︵切Φω江ヨヨ§ひq︶と呼ばれ得る︒この

規定は規定態とは一般に区別される︒こうヘーゲルは言いながら︑次の文では﹁規定は即自有としての肯定的規定態

である﹂と言う︒規定が規定態になっている︒ただし︑この規定態は即自有であるので︑消えた状態で残骸をさらし

ている︒あるいは規定は向他有と一つになった即自有として︑あらわになり︑こういう形態で外面に出ているので︑

肯定的規定態と言ったのであろう︒規定は規定態とは区別されると言いながら︑規定は即自有としての肯定的規定態

であると言う︒﹁即自有としての肯定的﹂がついているのでこの後の規定態は︑なんとなく前の﹁規定は規定態とは﹂

の規定態と違うということは分かる︒しかしながら即自有として肯定される規定態は即自有として肯定され︑あらわ

になった規定と言ってもよいのではないか︒ヘーゲルはラッセルの階型理論をいわば突き抜ける考えをしている︒こ

の点は検討しなけれぽならないであろう︒ここでは問題提示だけにとどめる︒ ﹁或るものは︑この或るものの定有の

中で︑この或るものを規定する他のものと︑この量るものと纏れてしまうことに反対して︑或るものは即自有に従って

あり︑こういう或るもの自身との同等性の中で詰るもの自身を維持し︑向他有の中にありながら︵ぎωΦぎ①ヨω巴㌣

1津7︾巳08ω︶上述の同等性を有効にする﹂︵dく幽 臣・︼U● 一ω. HωbQ︶︒この文を文字通りに解釈すれば︑或るものは他の

ものと纏れてしまうものではなく︑向他有の中にありながら︑即自有を持つことになるが︑どうもはっきりしない︒

ここでは肖るものは寄るものであるから︑他のものではないが︑なぜ﹁向他有の中にありながら﹂となるのか︒この

前の文で向他有の出て来る箇所は﹁即自が向他有の止揚であり︑向他有から即自に戻っている﹂というところであ

232

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ヘーゲルr大論理学』批判(三)

る︒止揚だから︑保存の意味があるにしても︑向他有の中にありながらと言うのは言い過ぎではないか︒ ﹁向他有に

おいて﹂とも訳せるが︑いずれにせよ向他有を肯定しているようにとれるので適切ではない︒このように意味が朦朧

としているところは探せば幾らでも出て来る︒上掲の引用文の後に﹁規定態は看るものが他のものと関連することに

よって様々に生じる﹂とある︒このことから規定態は他のものとの関連から考えられた語であることが分かる︒この

ことに注意しておこう︒

 さて人間の規定︵本分︑天分︶は思考する理性である︒思考一般は人間の単純な規定態であり︑人間はこの規定態

によって動物から区別される︵規定態は他のもの︑例えば動物との関連から出て来る語である︶︒思考は向他有︑ つ

まり人間の本性︵食欲︑生存田富︶︑感性︵動物も持っている︶と違って︑人間の本質的なものであり︑その限りで

﹁人間は思考自体である﹂︵H︶O機 冨①昌ωOげ 一ωθ ︼︶O旨屏Φ口 曽⇒ ω一〇げ︒︶︒この表現はおかしくないか︒それはU興寓Φ霧︒ゲ

翼Uo蔓荊Φ愚案き忽鼻︒でないのか︒ Uo言為では思考する者にはならないであろう︒それとも次のように考える

のであろうか︒ ﹁今何かをひたすら考えている人間﹂を取り上げると﹁考えること﹂しかない︒これが考えること自

体︵思考自体︶であり︑そういう人間はそのことにおいてしかない︒だから人間は思考自体である︒このことは思考

に熱中している瞬間を示している︒こう解釈できるかもしれない︒しかしながら﹁考えること﹂しかないと言っても︑

﹁人間は﹂と言ったときに︑それはわれわれに見える身体を思い浮かべているのではないだろうか︒他人の﹁考える

こと﹂自体を見ることはできない︒ ヘーゲルは﹁人間は思考することとして︵巴ωαΦロ吋① 住︶定有する︵9一曾︶現

にいる︶﹂とも言う︒その﹁人間﹂は回るものが人間であるということを指し︑このことが思考することとしてある      33      2のではないか︒思考は人間の現存であり︵思考は人間が人間として現存することを示す最も重要な本質であり︶︑現

(26)

実性︵現実の性質︶である︒思考は人間の定有の中にあり︵思考の働きは人間が現にいるということの中にあり︶︑

﹁そして﹂人間の定有は思考の中にある︵人間が現にいるということは思考の働きの中に入っている︶が故に︑思考

は具体的︵﹁そして﹂の前の文と後ろの文が統一されているので具体的︶である︒思考は人間の規定である︒しかし︑

この規定は即自的に一つの当為としてあるに過ぎない︒思考は人間の規定であるが︑しかし︑この規定はこれから発

展する出発点にあり︑ここから見れば発展し終えた規定は当為ということになる︒すなわち︑出発点にある規定は即

自であり︑思考は思考としてあるだけであり︑こういう規定は感性︑自然︵本能︶の定有に対立しているのである︒

先には思考は具体的であると言った︒今度は規定である思考は一つの当為に過ぎないと言う︒従って︑それは抽象的

であると言える︒このようにヘーゲルの考える立脚点がくるくる目まぐるしく動いていることが分かる︒

 2.︹性状︺   即自有を規定態︵他のものとの関係から見て彫るものの本性がある状態︶によって充実するとい

うことは向他有であるに過ぎない規定態︑および規定の外に止どまっている規定態という二つの規定態とは区別され

ている︒なぜなら質的なものの領域では︵規定態によって充実した即自有は前述の二つの規定態とは区別されている

ので質的なものであるけれども︑即自有としてあるだけであるから︑これが即自有自身を区別することはない︶区別

は止揚されていながら︑直接的な質的有もまたその区別に対立しているからである︵直接的にただあるという有も他

のものとの区別をもっているわけではない︶︒このようにして或るものが煮るもの自身のところで︵き跨β広義的

には或るもの自身のところにあるが︑狭義的には或るものから離れて︑その限りで分析されて︑或るものがあらわに

なる︶持つものは二つに分離する︒このことから考えてみると︑亙るものが或るもの自身のところで持つものは或る

ものの一.外面的定有であるコすなわち或るものが発展して外に現れ出た定有であり︑或るものの定有である︒こう

234

(27)

ヘーゲルr大論理学』批判(三)

して規定態は2.性状である︒ここでは規定態という語が急に出て来ている︒初版では﹁規定態は⁝織るものの

外面的定有であり︑⁝こうして規定態は性状である﹂となっているので︑規定態は外面的定有であることがすぐ

分かる︒定有としてただ止どまっているのではなくて︑別の形で表に出て︑あらわになり︑その限りで分析的思考が

働いて性状という新しい表現があるのである︒第二版の場合はどうか︒ ﹁こうして規定態は性状である﹂というとこ

ろで規定態が突然出て来るので︑ここだけで規定態の意味を考えなけれぽならない︒ただし︑それにつながる語があ

る︒それは§葺ヨである︒筆老はこれについて既に﹁狭義的には或るものから離れて︑その限りで分析されて︑

或るものがあらわになる﹂と述べた︒このことが規定態の意味につながるのである︒

 或るものがあれこれの性状を持つということは外からの影響︑関係によって生じることが考えられる︒だが外から

の影響と言っても性状を持つということは或るものの質︵O=巴騨讐︶である︒

 或るものが変化するというのは性状の変化である︒ ﹁この変化は或るもののところにあって他のものとなるもので

ある﹂こ:.ω冨︵巳①<①困9︑巳Φ﹃§αq︶互①出国け≦pω傷霧・≦oω①ぎ諺巳①おω琶a・︑︑︵≦・島・ピ・どω﹂ωω︶︒性状の

変化は或るものが他のものとなると言うのであれぽ︑分かりやすいが︑全く他のものになってしまうのであれぽ︑睡

るものが消失してしまい︑掌るもののところにあってとはならない︒或るものが消失してしまうのではなく︑或るも

のの性状の変化なのである︒性状の変化が停るもののところにあって︑掌る性状から他の性状︵他のもの︶に変化す

るのである︒とにかくヘーゲルのこの文には欠陥がある︒すなわち﹁変化は﹂と言うのだから︑或る事柄から他の事

柄へ変化するのでなけれぽならない︒それなのに﹁搾る事柄から﹂に相当する語がなくて﹁他のものとなるものであ      35る﹂と言う︒ ﹁他のもの﹂となっているので︑下るものから他のものへと変化するのかと思うと︑そうではなく﹁或 2

(28)

るもののところにあって﹂と言い︑為るものから動かない表現になっている︒そう思うと︑何か分からないものから       36       2﹁他のものとなるものである﹂と言う︒難しい表現であっても︑いや難しい表現であるからこそ論理的にキチンとし

なければならないのではないか︒

 少し寄り道をしよう︒規定︑規定態︑性状は分かりやすくするとどうなるのか︒人間の規定は思考であることは既

に分かっている︒そうすると人間の規定態は何であるか︒それは誰か或る人が例えば哲学書を読んで考えている姿

勢︑形態であり︑これは他のものとの関係︑例えば猫がじゃれている形態とは全く違ったものである︒これらが詣る

人間の規定態と言えよう︒終わりに性状は何であるか︒例えば哲学を専攻している者はB常生活においても理屈っぽ

いとか︑理屈屋であるものだが︑これらが或る人間の性状になるであろう︒

 さて本論に戻ろう︒或るものが変化する場合︑この変化は性状のものである︒つまり或るものの性状が変化するの

である︒或るものは変化しても或るものであり︑ ﹁変化は或るものの他有という︵或るものが重る性状から他の性状

になって有るというように︶変わりやすい表面︵目に見えるうわべ︶に現れるだけで︑鳴るものの規定︵本質︶には

変化は生じない﹂︵≦・傷●ピ.H層ω●HしQQQ︶︒

 このように規定と性状は異なっている︒だが点るものが去るもの自身のところで︵昌昌畔ヨ︶持つものは︑規定と

性状とを結合する三段論法の媒語であるとヘーゲルが言う時︑どういう三段論法があるのかさっぱり分からない︒想

像をたくましくして考えてみるほかないが︑後のほうで単一な昌吉は規定態であることが述べられている︒このこと

を頭に入れて述べることにしよう︒ ﹁規定態を持つすべての遡るものは性状を持つ或るものである︒規定を持つ或る

ものは規定態を持つ宣るものである︒故に規定を持つ寝るものは性状を持つ塗るものである﹂ ︵この三段論法の具体

参照

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