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ヘーゲル『大論理学』批判(五)

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(1)

ヘーゲル﹃大論理学﹄批判︵五︶

速 川 治 郎

 有限性は a.憤るものと他のもの︑b.規定︑性状︑限界︑c.有限性であり︑c.の中のα.有限性の直接

態はすでに論述した︒今回はβ.制限と当為から述べてみたい︒

 β.制限と当為

 前回︑有限的なものは消えた意味で絶対的に空虚なもの︻無限的なもの︑すなわち有限的でないもの︼としてあ

ると述べた︒有限的なものは空虚なものであるということをヘーゲルは矛盾と言っているが︑そのままでは矛盾に

ならない︒この段階でも有限的なものは空虚なものであるから矛盾であると彼は言う︒空虚なものが有限的なもの

ではないという意味であるならば︑有限的なものは有限的なものでないとなるから︑一応表現形式から見て矛盾で

あると言えよう︒しかしながら矛盾として論理展開するのはかなり強引であるので︑彼の論理展開をストップさせ

ることはできる︒彼は連続的に論理展開すると考えているが︑彼の論理はここで切れてしまう︒

 或るもの︑あるいは有はもはや抽象的︻非弁証法的︼に措定されたものではなく︑自己にぎω8げ反照して

いる︻戻っている︼︒ここで﹁自己に戻っている﹂の自己は何か︒自己は或るもの︑有を指している︒或るもの︑

早稲田人文自然科学研究 第37号(H2.3)

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有が限るもの︑有に戻っていることになる︒ここにすでに力動態がある︒前の下るもの︑有が碧ω一〇げであり︑

後の配るもの︑有は私の思考の結果でもあり︑ここに飛躍がある︒ ωざげの陰に9ωH︒げがある︒そして︑ 9ω

 ︒ゴの飛躍の結果の中にいわぽ上るもの︑有がある︒こうしてぎωざげがある︒しかしヘーゲルはこういうこと

を何も語っていない︒

 曇るものは規定と性状とを或るもののところに持つ自己内観︵ぎω8冨Φ冒︻自己の内に戻って有るごと︼︶とな

っている︻判るものが或るものの自己の内に規定と性状を持っていることを自己内心と言っている︼︒ ぎω8げω①言

の中のω8ずも先述の意味を持っている︒

 跨るものは隔るもののところで︻き旨ヨ展開︑飛躍してあらわになって︼一つの限界を持つが︑この限界は或

るものに内在するものとして︑そして限界は或るものの自己内有の質︻或るもの自身の中に有る性質︼を構成する

働きを持つものとして有限性である︒こうして有限的な認るものが意識され︑この或るものの概念がこれから展開

していくためのどんな契機を持つかを考えてみる必要がある︒

 ここで二版のB︒有限性の章とそれに相当する周壁の章とを並列すると次の通りになる︒

      二版      一雨

   B.有限性      B.規定性

    a.或るものと他のもの      一.限界

    b.規定︑性状︑限界        2.規定性

    c.有限性      3.変化

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

     α 有限性の直接性         a.性状の変化

     β 制限と当為      b.当為と制限

     γ 有限者から無限老への推移     c︒否定

 一版のa.性状の変化の大意は次の通り︒

 性状には変化がある︒規定は限界を持ち他者との関係を持たない規定は変化せず︑規定自身の内にあり︑自己内

有ぎω一〇げωΦぎである︵内的本質︶︒或るものは規定︑性状を持つ︒すなわち潤るものは内的本質を持ち現存するが

変化する︒このことは何を意味するか︒規定は移行しながら︑同時に保持されている︵自身を保持している︶︒具

体例で言えば︑人間は︑理屈屋という性状から朗らかという性状に変わる︻移行︼が︑しかし内的本質から言って

人間であることに変わりはない︻保持︼︒性状はそれ自身変化なのである︒ 一版は﹁性状の変化﹂が述べられてい

るが︑二版では﹁有限性の直接性﹂が述べられている︒ところで﹁有限性の直接性﹂は﹁有限態の直接態﹂と言っ

た方がよいかもしれない︒ ﹁態﹂は様子︑身構えを意味している︒態という漢字は意味を表す湿ど音を表す艦とか

らできている形成字であり︑ドウの音がダイに変わった︒もともとは心が善美であるという意味である︒ ﹁姿体﹂

      タイの意味に使うのは借用で︑その意味の本字は麗﹂である︒瀧はもとは﹁姿体の善美﹂の意味であったが︑善美の

意味が脱落して﹁姿体﹂だけの意味となる︒この意味を﹁態﹂が借用する︒態の意味は①姿︑様子︑有り様︒②心

構え︑身構えである︒そこで﹁有限性の直接性﹂は有限の状態の直接の姿を意味しているのであり︑有限の状態は

また哲学者ヘーゲルの真の心を表したものである︒有限の状態が直接に︑無媒介的に︑すなわち︑ここでは十分頃

弁証法的な論述が行われていないで︑有限的なものと無限的なものの分離が述べられているだけである・

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 ︹1.制限と当為︺

 規定と性状は外的︻分析的︼省察ぎゅ興︒菊①巨Φ×一8から見れば二つの面である︒しかし規定は他有諺口ら臼ωω①B

︻或るものの規定とは別の他のものがあるということはここでは性状があるということである︼を或るものの即自

︾昌ωざげ︻或るものそのもの︼に属しているものとして既に含んでいる︒なぜか︒下るものそのもの︑即自的なも

のを見れば︑目につきやすいのは性状︵例えば理屈っぽいとか︑しつこいという性状︶があるということだからで

ある︒一方では他有︾巳9ωωΦぎ︻規定の工芸すなわち性状があること︼の外面性︻性状があることが明白に外面

に現れること︼は上るものの内面性の中にある︻理屈っぽいという性状はやはり昇る人の内面にある状態を指して

いる︼︒他方外面性は外面性だから依然として内面性とは区別されていて︑外面性そのものである︒しかし更に進

んで﹁他有が否定の否定という限界を持つ﹂︒ この表現はヘーゲルの一種の決まり文句である︒が否定の否定︑す

なわち〜・〜は何を否定しているのか︑否定するのか分からない︒ヘーゲルの不完全な表現である︒それにしても

否定の否定を直ぐ前の文から分かるようにしてみよう︒他有は外面性を持つが︑この外面性を否定するものとして

内面性があり︑この内面性を否定するものとして他有の外面性がある︒そこで他有はその意味を持った否定の否定

であり︑その意味が閉じている限りで限界を持っている︒そのような否定の否定という意味を通って︑彩るものは

限界を持っているのである︒そこで﹁停るものに内在する他有が規定と性状という両面の関係として措定されてい

る﹂︻考えられている︼︒﹁他有﹂は規定の他者︑すなわち性状があることであり︑その限りで他有の中に規定と他

者が現れている︒だから他有は規定と性状という両面の関係を持っているとなるのであろうが︑他有﹀巳興ωω虫昌

は文字通りの意味ではそうならない︒文字表現とその指示対象︑意味が不明確であることは拭・兄ないであろう︒

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

 論るものは﹁この馨るものの即自的にある規定﹂すなわち或るものそれ自身の中にある規定と限界との関係を持

つ︒しかも︑ ﹁この関係は或るものの内在的限界︻限界が或るものに内在している場合のその限界︼を或るものの

中で否定するのである﹂︒規定と限界との関係が内在的限界を否定するとは何を意味するのか︒規定は託るものの

内面的本質であるが︑限界は或るものに内在しているにしても本質ではないので︑規定は限界を否定するという意

味か︒少し違う︒或るものには規定と限界との関係があるから︑この関係は或るものに限界だけが内在するとする

その限界を否定するのである︒ こうして﹁自己と同一である自己内耳∪器ヨ淳ω幽︒げ置Φ巨一ωoげΦ一昌ω一〇房Φぎ︻自

己内書は自己内有であるということであり︑自己内有そのものを意味する︼は自己内有自身の非有︹限界がある︺

︻或るもの自身の内に本当にある本質としての自己内有から見れば︑限界があるということは内的本質があるとは

言えない目非有︼としての自己そのものに関係する︻自己内有﹁の﹂非有であるが︑その限りで自己内有に関係す

る︼L︒ この文の中では自己ω一︒げという語が多く使われているが︑特に問題にしたいのは﹁自己と同一である自

己専有﹂という表現である︒これは自己が重なることによって︑上述の意味に取れなくなる︒ ωざぽという字は

ぎωδげωΦ冒でなくて︑ω8げであるからである︒しかしながら︑ωざげの意味はぎω闘︒げωΦぎである︒ 旨詳ωざゲの

ωざげと冒巴曾ωΦぎのωざげとは同じでありながら︑その意味は違うのである︒このような自己においてその構造

があらわれる︒このことによって弁証法の一つが生じているのである︒

 ﹁自己内有は否定の否定としてある﹂︒すなわち自己内旨は非有︻限界が有るということであるが︑ヘーゲルは

限界という意味に取っている︼を否定することとしてある︒しかし同時に非有は自己内有の中に定有を保持する︒

なぜなら定有は或るものの自己内奏︻規定︼の質だからである︒このようにして或るもの自身の限界が或るものの

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否定者︻或るものについての否定的なものという意味であるが︑限界が内的本質ではない︵非有︶ということを指

す︼であると同時に︑本質的︻限界は規定と同じく定有を持つ︼であるということによって︑その限界は単に限界

そのものではなくて︑むしろ制限ωoげ鑓昌キΦである︒

 ヘーゲルは否定の否定という表現によって周知のように弁証法の特徴を出そうとしているが︑その表現と表現の

意味対象が不明確である︒否定の否定はここでは前述のように︑非有を否定することであり︑結局︑限界を否定す

ることである︒しかし限界は庵るものの内的本質ではないが︑定有を持っている︒そこで限界は制限となる︒自己

内有は文字通りには自己の内に有ることであるが︑否定の否定であることによって自己に成るであろう︒自己は生

成を持つと言えよう︒自己は一つの意味内容のある構造であり︑主観でも︑客観でもない超過であり︑主観でも︑

客観でもある超観である︒自己はここでは或るものでありながら︑ヘーゲルの考えたものである︒ヘーゲルの考え

たものではない或るものでありながら︑へ;ゲルの考えたものであり︑ヘーゲルの考えた或るものでありながら︑

そうではない︒自己はこのようなものとしての構造である︒否定という表現が肯定の意味を持っていることに注意

すべきであろう︒否定は力動態の契機となっていると言えよう︒

 ﹁制限は否定されたものとしてのみ措定されたものではない﹂︒ここでも否定されたものが肯定されたものへと

動くにもかかわらず︑そういう表現になっていない︒否定されたものは力動態の契機になっている︒動くことによ

って︑否定されたものはここでは限界となっている︒だから︑その表現の意味は︑制限は限界であるだけではない

となる︒だが否定︻限界︼によって否定されるものとして巴ω器αq一①暮︻否定される性質を持つものとして︼措定

されるもの︻弁証法的に更に展開されるもの︼が限界であるので︑否定︻限界︼は二つの意味を持つ︒ここでは限

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

界が限界自身︑すなわち自己に成っていることが分かる︒そうでありながら︑そこには突破︑飛躍がある︒否定が

二つの意味を持っていることがそれを物語る︒その限界はそもそも或るものと他のものとを区別するためにあるの

で両方に共通のものであるが︻この共通のものが第一の意味である︼︑また規定そのものの即自有︾ロω一〇げω①貯︻そ

れ自体として有る︼という規定でもある︻この規定が第二の意味である︼︒従って︑その即自有︻これは先の即自

有とは違い︑発展して来て︑更にここから発展する段階にある即自有を意味し︑限界︑制限とは違う規定自体とし

て有り︑後の当為を指す︼はこの即自有と区別される限界との否定的関係︑すなわち制限としての即自有との否定

的関係であり︑だからその即自有は当為ωo一一①昌である︻制限を否定した意味で︑制限と関係しているもの︑すな

わち当為である︼︒ ヘーゲルは同じ語を使用して意味を分かりにくくしている︒繰り返すようになるが︑彼の分か

りにくい文を上げておく︒ ﹁限界は⁝規定そのものの即自有という規定でもある︒従って︑この即自有は︑こ

の即自有とまた区別される限界との否定的関係︑すなわち制限としての自己との9︒ξω一〇げ︻即自有との︼否定的

関係であるから︑当為である﹂︒﹁即自有は制限としての自己との︻即自有との︼否定的関係である﹂という文は即

自有が自己を否定する関係であるということになるが︑有ることは関係であろうか︒後になって当為になる即自有

は制限としての即自有自身を否定する関係を持っている︒二つの意味を持つ即自有が否定的関係を持っているので

ある︒表現形式としては一つの即自有があるのだが︑それの意味から言えば二つの即自有があることになり︑二つ

の即自有が関係なのである︒親子が関係であるようにっ

 ︹2.有限性の本質一当為と制限との本性︺

 ﹁直るもののところにある限界が制限であるためには︑宿るものは︑写るもの自身の中にありながら同時にこの

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限界を越えていなければならないし︑しかも或るもの自身のところに碧ぎヨ存在しないものとなってしまってい

る限界に関係していなけれぽならない﹂︒この文は次のようになる︒著るものの限界が制限であるためには︑削る

ものは限界を越えなけれぽならない︒が躍るものは依然として或るものである︒浸るものは限界を越︑写ることによ

って︑限界は或るもののところにはないが︑しかし聰るものは限界に関係していなけれぽならない︒

 或るものの定有は静止してただ定有としてあるだけで︑穿るものの限界と並列してある︒つまり乾るものの定有

と或るものの限界が別々にある︒が写るものは限界を否定して︑これを越えている状態そのものである︒状態その

ものとは何であるか︒これは︑限界が制限としての規定そのものの中にあることである︒それゆえ︑覧るもの自身

を越えている︒先には﹁然るものは煮るもの自身の中にありながら︑限界を越えていなければならない﹂と言うの

に︑ここでは﹁隠るものは謬るものを越えている﹂と言っている︒これではヘーゲルにとってどちらでもよいこと

になりはしないか︒もちろん﹁制限としての規定﹂の中にある場合であるから︑制限を強調して怠るものを越︑兄て

いると言っていることは分かる︒しかし﹁或るものは盗るもの自身の中にありながら︑限界を越︑兄ていなければな

らない﹂の中では﹁造るもの自身の中にありながら﹂を強調するだけで或るものの中にあることになるのであろ

うか︒それは恣意的な強調に見えて仕方がない︒

 ﹁当為は二重の規定を持つ︒第一の規定はΩ︒口ωざげω虫Φ昌傷Φゆ①ω畝日三寿ロσqσqΦぴqΦ昌a①ズΦσqp︒江8である﹂が︑

これは︑否定︑すなわち限界に対立する規定が即心的に有るだけと解釈できるし︑また否定作用に対立して︑まだ

即時的に有ると肯定されているだけの規定とも解釈できる︒要するに弁証法的に発展して限界を越・兄︑当為に達し

たが︑まだ当為の規定が有るだけなのである︒第二の規定は﹁非有として︑即自的に有るという規定を持つ﹂︒非

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

有とは何か︒それは︑当為がまだ実現されて有るのではないという意味である︒ ﹁非有は制限ならば︑先の即自的

に有るという規定と区別される﹂︒ ここで述べられている制限は︑後に明らかになるものであるのに突然出て来て

いる︒ ﹁有るべきこと11当為﹂が実現されていない︵非有︶ので︑当為も制限を持つ︒実現されていない限り制限

がある︒この制限が述べられているのである︒

 有限なものは︑有限なものの規定が有限なものの限界と関係を持つものとしてある︒このような関係の中で︑規

定は当為であり︑限界は制限である︒当為と制限は有限なものが論理的に発展する場合の契機となるものである︒

﹁しかし制限だけが有限なものとして措定されている﹂︒すなわち制限だけが明確に有限なものとなっている︒と

ころが当為は即自的にのみ︑つまり﹁われわれにとってのみ﹂ ︻当為を問題にしているヘーゲルにとってのみ︼制

限されていることが分かっている︒当為は︑当為そのものの中に有る限界にかかわっているので︑制限されてい

る︒このような意味のことを言うヘーゲルにとって︑この段階では限界と制限は大体同じ意味になっている︒しか

し特に制限には︑限界が自覚されて︑当為に本質的にあるという意味がある︒しかし﹁当為の制限が即自的に有る

だけ﹂︑つまり︑まだ明確には規定されていない︒

 ﹁有るべきもの乏霧ω①冒ωoζは有ると同時にない﹂︒ヘーゲルの典型的な表現がここにある︒だが﹁有る﹂の

意味の否定が﹁ない﹂ではない︒ヘーゲルの表現は全体に漠然とした︑曖昧なものになっているので︑それを明確

にし︑しかもそれに力動態︑生成を持たせることができないであろうか︒ ﹁もしも﹃有るべきもの﹄が有ると言う

なら﹃有るべきもの﹄は﹃有るべきもの﹄ではないであろう﹂︒この表現は適確な表現とは言えない︒﹁有るべきも

の﹂例えば他人に対する親切は有るべきものであるが︑この﹁有るべきもの﹂が﹁有る﹂という場合の有るは規範

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言語としてただ﹁有る﹂の意味に取れるからである︒有るべきものが規範言語としてただ有るだけということは有

るべきものが有るべきものであると言える︒ヘーゲルは有るべきものが有るという場合の有るは実現されて有ると

いう意味である︒有るべきものが実現されて有るならぽ︑有るべきものは有るべきものではない︒ ﹁だから当為は

本質的に制限を持つ﹂︒すなわち当為は﹁有る﹂ではなくて︑﹁有るべきもの﹂に制限されている︒当為は人間にと

って規定であるが︑実現されて現実にあるのではないから︑当為が主張されているのであり︑主張されている限

り︑当為は外面的に現れているので︑一つの規定性にすぎない︒

 ﹁図るものの即自有諺づω一〇房Φぎは自己内有ぎ巴︒げωΦぎ︑すなわち否定の否定という意味で一個口否定︵否定

するもの︶として他の否定︹制限︺と統一している﹂︒謙るものの即自有とは或るものがそれ自体として有るだけ

であり︑その意味で規定があるが︑この規定は規定であるというだけで︑弁証法論理的展開が行われていないで有

るだけである︒このことはまた規定自身の内に止どまっているだけである︵自己内有︶︒ここに出て来たω一︒げは

或るもののω憎げであり︑これを考えている﹁私﹂でもあり︑或るものと私の統一であり︑その意味でωぎプの超観

構造である︒ただし︑この構造は静的なものではなくて︑動的なものであることを付け加えておく︒否定の否定と

は規定が規定自身の中に止どまり︑他のものを寄せ付けないで︑それ自体として︵きω一9に︶あり︑他のものを

否定するものとしてあり︑こういうものとして他の否定︹制限︺と統一していることである︒結局︑否定の否定の

意味は規定の持つ制限︑つまり規定と制限との統一である︒ところが先の他の否定︹制限︺は同時にこれとは異な

ったもう一つ別の限界としてある︒だから規定と制限との統一はその限界︹武市訳はここに﹁制限﹂を入れてい

る︺との関係︹武市訳はここに﹁当為﹂を入れているが︑無理ではないか︒なぜならぽ関係は当る二つの物事の問

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

にあるものであるが︑当為は二つの物事の間を意味しているわけではないからである︺としてある︒すなわち制限

のある規定は限界との関係としてある︒これはどういう意味か︒限界と関係していると言う場合の限界とは何か︒

それは限界のある規定のことではないか︒そうであるならば︑前に戻って︑そのことは制限のある規定となってし

まう︒これが当為である︒ヘーゲルは﹁有限なもの自身の規定は有限なものの制限でもある﹂とも言っているが︑

この文は﹁制限のある規定﹂と同じ意味である︒ただし︑その文の中では制限が強調されている︒そして制限は規

定と当為との共有物であるというよりも︑むしろ制限は規定と当為とを同一にしてしまうものである︒

 ︹3.推移−制限の超越︺

 更に﹁有限なものは当為を持つからには有限なもの自身の制限を越えて行く﹂︒有限なものが当為を持つという

意味は︑例えば有限なものである人間は思考するものであるが︑たえず人々がそう言っていると知らず知らずの内

に人間は思考すべきものに変わってしまうことを指す︒ ﹁その有限なものの否定である規定性︹制限︑従って当為︺

が止揚されて︑その規定性は有限なものの即自有である﹂︒﹁有限なものの否定である規定性﹂の規定性はここでは

規定の意味である︒規定は甦るものの内面的本質であるから︑それ以外のものと端的に制限されていて︑当為にな

っている︒ ﹁規定性は有限なものの即自有である﹂は規定性が当為としてフ・・すべきである﹂という形で存在

している︒

 そして与るものは当為としてあるから或るものの制限を超越しているが︑しかし逆に上るものは当為としてある

だけで︑当為を超越しているわけではないから制限をもっている︒このことはこの段階ではまだ弁証法的発展にな

らないことを意味している︒また或るものは︑或るもの自身の規定の中に他者の否定を持つ限り︑他者とは違うと

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いう制限を持つが︑﹁規定はこの制限が止揚されていることでもある﹂︒他者とは違う制限が止揚されているという

ことはどういう意味か︒規定は当為を持つことになるが︑当為が実現されずにただ有るだけだから︑当為という他

者がただあるだけと同一である︒他者がただあるだけならぽ他者と違う﹁制限が止揚されている﹂ことが分かる︒

 注解︹当為︺

 ﹁当為ということは︑最近哲学上︑特に道徳と関連して大きな役割を演じている﹂ということは分かりやすい︒

それにすぐ続いてある︑当為は﹁即自有︑あるいは自己自身ωざげω色σ馨︻当為のこと︼との関係と規定性あるい

は限界との同一性という究極的︻最終的︼絶対的概念として大きな役割を演じている﹂ということは分かりにく

い︒その意味は次の通りになる︒すなわち︑即自有とはそれ自体として当為が当為としてあるだけである︒自己自

身との関係とは当為が当為と関係しているということだから︑結果的には即自有と同じ意味である︒このような即

自有あるいはそういう関係が規定性︑限界と同一であるという意味は︑当為はそれ自体規定性となっているし︑限

界を持っているから規定性︑限界と同一なのである︒

 ところでヘーゲルは︑当為がωざげω巴げ馨と関係するというように主語がω一〇げ︒・Φ子ω一と何かになるという表現

をしぼしば使う︒このω8げω9σωけにおいて︑あるいはωぎげもしくはωΦま9において当為の構造というよりは︑

構造そのものが現れていることに注意すべきである︒﹁構造とは何ものでもない︒ ∪δω霞信巨象一節巳︒げ一ω・しか

し構造が何ものでもないということは︑構造が︿有り﹀はしないからこそである︒構造の内にも何ものも有りはしな

い︒それにもかかわらず構造は生きており︑あらゆるものは構造の内で生きている﹂︵出.国︒ヨげ器﹃勲ミミミ§ミ武黄

写9げξσqし留どρ一嵩︶︒構造は先のωざげω①8馨で有るのではなく︑ 甑9ω巴σ鴇になるのである︒構造は何かで

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

あるのではなく︑何かになるのである︒その限りで何ものでもない︒﹁構造は自己との関係である︒Uδω窪二匹霞

闘ω↓畠ω<①島島け巳ω聾巴︒げ﹂︵ω.①国︶︒ここに自己へ還帰する力動態がある︒当為も自己自身への切藁があり︑こ

こに当為の重複︑繰り返しがある︒その限りで当為は生きている11存続しているのである︒しかしながらω一塁ω巴σωけ

において自我の働きが生じている︒このことがヘーゲルの特徴になっている︒彼の表現の中にωぎげという語が多

いことは構造を考えさせる契機になるのではないだろうか︒

 ヘーゲルは先に﹁究極的絶対的概念﹂と言ったが︑ これは﹁⁝が有るべきである﹂と言う時︑それは拒否で

きない︑他の概念にすりかえられない最終的なものという意味である︒そうすると要するに当為は人間にとって重

要な役割を持っているということになる︒

 ﹁汝はなすべきであるが故に︑汝はなし得る﹂はカントの実践理性批判にある表現である︑当為の概念の中に入

る︒その理由は︑当為はなすべぎであるということにより︑できなかった制限を超越することであり︑ ﹁限界は当

為の中では止揚されているのであり︑こうして当為の即自有はその即自有との同一的関係置①馨一ωoげΦbdΦ瞳Φげ§αq

窪hω一〇げであり︑当為の即自有はなし得ること囚α目①口の抽象である﹂︒汝はなすべきであるという当為の中で

は︑なし得なかった限界は捨てられている︒こうして﹁汝はなすべきである﹂という当為はそれ自体としてただ有

るだけである即自有であり︑これは対象としてある︒これがωざげという即自有と同じだということは何を意味す

るのか︒即自有が即自有と同じだということか︒全く同じだとすると一つの即自有があるだけである︒そうならば

同じとは言えまい︒即自有はω8ゴを目指して︑運動して︑ ω8げ へ戻って行く︑その限りでωざぽはその生起

を支えているものである︒ ωざげはヘーゲルにおいては弁証法を構成する運動全体の内で成立しているのであり

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﹁構造全体の一性格﹂となる︒ω一〇げは﹁構造の自我﹂︑構造の持つ自我であり︑主観︑客観ではなくそれらの統一

態としての超観の契機としての自我である︒ここで超観の内容を述べておく︒例えば物質は物質として有るという

場合︑﹁物質として﹂は巴ωωざげである︒のざびにおいて超観が出現している︒物質が有るという場合でも超観が

出現している︒物質が現実に有るとは誰かの自我が言うか︑思うのであり︑自我の思考内容である︒しかし思考内

容であると言った時には︑既に単なる思考内容ではなく︑物質が有るのである︒例えば﹁この机は一九八九年一二

月八日午後五時に早稲田大学︑一四号館︑一〇七教室にある﹂ということは︑一定の時︑所に実在する一定の机の

ことであり︑それを認識した一定の自我の頭の中にあるその机の像のことではないとよく言われる︒しかし一定の

時︑所に実在する机と言った時︑既にその中に自我の思考が入っている︒一定の時︑所に実在する机は対象言語で

あるが︑そういう机と言った時には既にそれに対する思考のかかわりがある︒しかもそういう机が一定の対象を指

すと言った時には︑その机は言語であり︑実在する一定の対象︑机ではない︒実在する机は言語によって指示され

るだけのものであろうか︒そういう机は所与のものとしか言いようがないのであろうか︒しかし︑そのものも主観

になったり︑客観になったりする︒こうならしめる所与のもの以前の超越した根源的なものにさかのぼることによ

って生じるのが﹁現実的なものの自己構成﹂と言えよう︒机は机自身︵自己︶によって構成されている︒机は人間

によって製作されたものであるが︑自然に逆らっては製作されない︒だから机は自己によって構成されている︒

 ﹁当為の即自有はこの即自有︵自己︶との同一関係である﹂において︑当為の即自有は対象であり︑即自有︵自

己︶は判断内容とも取れるが︑逆に当為の即自有が判断内容であり︑即自有︵自己︶が対象とも取れる︒しかしな

がら︑これらのことを超越して当為の即自有が自己との同一関係であることにおいて︑即自有が自己構成している

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

と取れる︒ここに構造の五宮があるといえよう︒別の言い方をすれぽ超観があると言えよう︒当為の即自有は主観

の内にある内容であるが︑しかし︑それは同時に規範としてあり︑実現できないから規範であり︑主観の外にある

事実でもある︒

 先に﹁当為の即自有はなし得ることの抽象である﹂と述べた︒この意味は︑ ﹁なすべきである﹂はできるという

ことの抽象化︑すなわち︑やれぽできるのだということを積極的に︑だが抽象的に表現したものである︒

 ﹁逆に﹃汝はなすべきであるがゆえに︑まさになし得ない﹄も正しい︒なぜかと言うと︑当為の中では制限︻﹁な

すべきである﹂という制限︼はそれ以外に出ることもないからである﹂︒この表現では分かりにくいかもしれない︒

要するに﹁なすべきである﹂はそれ以上のことを言っているわけではないから︑なし得ないと言えるのである︒当

為は罵ることが現実に存在することではなくて︑存在し得るかも知れないということ︵可能性︶であり︑具体的に

駈ることをなすべきであると言っているのでもない︵形式主義︶︒﹁可能性の形式主義﹂は可能性であるというとこ

ろに実在性︑つまり質的他在︻可能性とは異なっていること︼を持っている︑言い換えると可能性には実在性があ

るということから﹁可能性と実在性との関係は矛盾である﹂とヘーゲルは言うが︑この関係は矛盾ではない︒しか

し︑その可能性は﹁できないということ﹂あるいは︑むしろ不可能性だと彼が言っているところは認め得る︒ ﹁善

いことをなすべきである﹂という当為は常に不可能性を持っているからである︒

 ︹1︺この段階から制限と当為についての二つの偏見が批判される︒第一の偏見は制限は超えられないというこ

と︑第二の偏見は当為は制限の超越であるということである︒思考︑理性等の制限が重要だとされ︑思考は思考自

身の制限を越えることができないとされる︒しかし﹁或るものが制限のあるものとして規定されている時︑既に制

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(16)

限が超越されているしという表現は極めて弁証法論理的である︒ヘーゲルはこの理由として︑﹁規定性︑限界︻制限

の意味である︼はこれらとは別のもの︑つまり無制限なものとの対立においてのみ制限として規定されているから

である﹂と言う︒思考することは思考に止どまっているのではなく︑思考を超越してしまっているというのが弁証法

論理である︒ところで﹁石は思考しないし︑決して感覚することもないので︑石の制限は石にとって制限ではない︒

﹁石は例えば感覚︑表象︑思考等を持っていないので︑石の中にはそれらに対する否定はない︒しかし石ですらも

漁るものであるからには石の規定︑石の即自有︑石の定有に区別されていて︑その限りでは石も石の制限を越える

のである︒石を即自的に存在させる概念はこの概念以外の他のものとの同一性を含む﹂︒ヘーゲルは﹀昌ω8げωΦ冒の

ω一Z﹃に特に注意しているわけではない︒石の巴9を言っていること自体思考のω一9であり︑その限りで思考の

ω8げは石のω一〇げである︒石の即自有ではなくて石の定有である限りで︑石は石の制限というよりは︑石の即自

有という制限を越えていると言った方がよいであろう︒ 7・・概念は⁝他のものとの同一性を含むしの中の

﹁他のもの﹂はあらゆる他のものの意味ではなくて︑特別な他のもののことである︒その点ではそれは不完全な表

現である︒他のものはヘーゲルにおいては石が﹁塩基であるとか︑酸化するとか︑中和するということ﹂である︒

これらの他のものが石を即自的に存在させる概念と同一であると言うのである︒さらに他の例が挙げられる︒ ﹁植

物は萌芽であるという制限を越え︑また花︑実︑葉であるという制限を越える︒また空腹︑喉の渇き等の制限を感

ずるものは︑この制限を越えようとする衝動によって実際に越える︒苦痛を感ずるのも制限である︒なぜなら感覚

を持つ者は総体性である自己についての感情を持つものであり︑この自己はもともと苦痛を越えた者︑苦痛という

制限を越えた者だからである﹂︒私は歯が痛いというのは私全体を阻害する制限である︒私は本来歯痛を持つので

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

はない︒その制限を越えたものである︒要するに制限は越えられるのである︒この次にライプニッツによる磁石の

ことが述べられているが︑理解しやすいし︑さほど重要なことではない︒

 ︹2︺当為は制限を超越しているが︑当為それ自身は有限的な超越にすぎない︒有限的とはどういう意味か︒そ

のわけは当為が有限性の領域にその存立意義を持っているからである︒その領域で当為は制限されたものに対して

﹁即自有﹂を固持し︑主張する︒即自有はここでは﹁⁝すべきである﹂という意味で︑本質的なものである︒

義務ももちろん当為である︒こういう当為は人間の特殊な意志︻これは普遍的なもの︵善︶ではなく︑利己的なも

のであるから特殊なのである︼利己的欲望︑勝手気ままな関心に対して向けられる︒或る人は道徳上の当為を極め

て高く掲げるが︑他人がその当為を究極のもの︑真なるものと認めてくれないと︑道徳は駄目になってしまうと考

える︒また語る理屈屋は当為を次々に立ててますます高く掲げ︑その当為の中に盛りだくさんな知識を押し込み︑

当為は有限的な人間にとって手の届かないものになってしまう︒しかし当為を次々に立てて︑ますます高く掲げるこ

と自体︑当為をそういう理屈屋は完全に認めているのであるが︑このことに気が付かないのである︒ヘーゲルは﹁理

屈屋の生活圏である有限性にとって当為は完全に認められる﹂ ⁝匹︒こ︒h旨島①国昌巳焦げ評Φ騨一挙興︵侮興業蔚︒・

冨Φ霞ω︶国お冨Φα器QDo=Φ昌く︒コ吋︒隔日Φ口曽口Φ爵き暮≦一円αと言っているが︑﹁有限性にとって⁝認められる﹂

という表現は理解できない︒﹁⁝によって認められる﹂なら分かるが︒また﹁人間の生きている有限な世界から

見れば認められる﹂と言うのであれぽ分かるが︑しかし︑それは世の中一般の人たちによって認められるという意

味であって︑理屈屋によって認められたことにはならない︒とにかくヘーゲルの表現の不正確さは拭えない︒筆者

が既述したようにする必要があるのではないだろうか︒

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 当為が次々に立てられるということは︑有限性が絶対的であるというほどに︑すなわち有限的な人間が絶対によ

くならないというほどに︑この世の中がみすぼらしいということを指しているわけではない︒言い換えれば︑この

世の中は少しはよくなっているということである︒注釈の最後にヘーゲルはカント︑フィヒテの哲学に少し触れて

いる︒ ﹁理性の矛盾を解決する最高点︻最高の考え︼として﹂すなわち理性は善の実現を目指しながら︑実現され

ていない︒それだからこそ当為を掲げたが︑しかし︑このことは有限性の超越を主張しながら︑有限性に固執して

いる︒だから有限性︵罪悪のなくならない世界︶を超越することを主張しながら有限性を超越していない︵ロ有限

性に固執している︶︒ ヘーゲルはこう言いたいと思われ︑そして︑このことを矛盾だと考えているようだが︑彼の

表現では矛盾が出て来ないことが分かる︒ ≦oω:●O臼ω8巳b§葬畠①ωゆΦげp︒護Φ霧ぎ新興国ロ巳一〇ゴ閃Φ臨け軽口畠

q㊤ヨ騨一8芝置Φ諺嘆︒畠Φ一ωけ有限性に固執することが矛盾に固執することにはならない︒

 γ.有限的なものが無限的なものへ推移すること

 有限的なものから無限的なものへ推移することについてのヘーゲルの論理はかなり無理がある︒このことはよく

言われることであるが︑十分な内在批判は行われていないようである︒最初﹁当為はそれだけで制限を含み︑制限

は当為を含む﹂という文で始まる︒両者が有限的なものであるからである︒当為が有限的なものであることは既述

した︒すなわち当為は有限的超越であり︑その限りで有限的なものにその存立意義を持っており︑有限的なものに

限定されているのである︒制限が当為を含むのは︑制限が有限的なものであり︑ここに止どまるべきだからであ

る︒当為と制限は有限的なものであるが︑これは両者を﹁有限的なものの自己内有ぎωざげω①冒の中に含んでいる﹂︒

この自己は有限的なものを指している︒有限的なものと自己とがその意味から言って一つであるのに︑その表現形

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

式から言って別のものになっている︒ここに有限的なもの自身の力動態がある︒すなわち一つのものから別のもの

へ︑別のものから一つのものへの運動がある︒これが自己内紫という語になって現れていて︑反照構造が現れると

言えよう︒

 当為と制限は有限的なものの規定の二つの契機である︒そして制限は当為を否定するもの︑当為は制限を否定す

るものとして規定されている︒このことからヘーゲルは﹁有限的なものは有限的なもの自身の中で︑有限的なもの

との矛盾︑つまり自己矛盾α雪を乙Φ誘起︒げωΦげ臼︵◎Φω国口話一〇げΦロ︶である﹂と言う︒有限的なものは有限的な

ものであって︑有限的なものではないとヘーゲルは言いたいのであろうが︑要するに有限的なものが他のものにな

ることを彼は言いたいのである︒ここに既に無限的なものになる伏線がある︒しかしながら︑このすぐ後では有限

的なものが他の有限的なものに移る運動を示しているだけである︒

 有限的なものは自己ωざげを止揚し︑消失する︒有限的なものが有限的なもの自身を止揚するという有限的なも

の自身の運動として一見客観的なものに取れるが︑客観的なものでも︑主観的なものでもない非分化の超観があ

る︒有限的なものがひとりでに動きながら︑それをひとりで深く考えている哲学老がいるのであり︑またそういう

哲学者がいながら︑ここから離れた﹁形﹂によって︑有限的なものがひとりでに動くのである︒そういう形が超観

として出て来る︒

 有限的なものの運動の結果として言えるのは︑ ﹁否定的なもの一般︻否定の働きを持つということ︼が一.有限

的なものの規定そのものであるということである﹂︒ へ;ゲルはここで否定が規定であることの一つの形を出して

いる︒なぜ︑そういう規定であるのか︒有限的なものが運動する結果は否定的なものの否定的なもの︑すなわち有

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(20)

限的なものを否定するものがまた否定されてしまうということ︑しかし本当は有限的なものを否定するものが現

れ︑この否定するものをまた否定するものが現れることであるからである︒このことが有限的なものの規定なので

ある︒従って有限的なものは﹁消失してしまうが︑消失しない﹂︒こういう表現は安易に使うべきではない︒意味の      ヘ  ヘ  ヘ  へ混乱を起こすことになるからである︒そこで︑その表現の意味を述べておこう︒有限的なものは消失して︑他の有

限的なものになる︒だが後輪もまた他の有限的なものに移る︒こうして︑このことは無限に続く︒だが有限的なも

       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へのはいつまでも有限的なものである︒だから有限的なものは消失しないのである︒2.この有限的なものが運動し

た結果を検討してみると︑ ﹁有限的なものは有限的なもの自身を否定しながら︑有限的なものの即自有﹀ロω一︒冨①冒

に達する﹂︒有限的なものは他の有限的なものになることにより︑有限的なもの自体p・口ωざげが有ることに気付く︒

だから︑この否定によっては有限的なものは有限的なもの自身と一致するのである︒一致するということは有限的

なものの契機︵当為と制限︶についても言える︒この後ヘーゲルは﹁当為は制限を︑ つまり当為自身を越える﹂

・:oqo耳・:二σ践ωぎゴω9げ馨プぎ窪ωζ一=口っている︒この表現では当為と制限が同じものになっている︒当為は

﹁⁝すべきである﹂という制限︑すなわち当為を越え︑更に別の﹁⁝すべきである﹂という制限︑すなわち

当為を提出すると言えよう︒しかしながら﹁当為を越えるということ口げ巽Φω︵畠㊤ω ω〇一一①昌︶げ冒9信ωすなわち当

為の他のものは制限である﹂とヘーゲルは直ぐに言う︒越えるという運動が直ちに当為の他のものにはならないの

ではないか︒論理的に不適切ではないだろうか︒また当為と制限が同一だと言いながら︑直ちに両者は別のものと

言う︒ここには意味の変動が出ている︒その変動を明らかにしておくべきではないのか︒しかしながら当為と制限

が別のものであるということは直ぐに分かることではある︒ヘーゲルに沿って言えば︑当為と制限は二つの契機と

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ヘーゲルr大論理学』批判(五)

いう関係から両者が別のものであるということであろう︒

 ﹁当為は制限と同じように即自有と定有とに分裂する限りで︑同じもの︻当為︼である﹂とヘーゲルは言う︒こ

の場合﹁同じもの◎霧︒︒9げ①﹂とは︑何と同じものなのかはっきりしない︒それは制限と同じものにも取れる︒し

かし︑それに直ぐ続く文は﹁制限は制限自身を越えながら︑制限自身と累月ω言げ一致する﹂となっている︒要す

るに制限は制限だと言っているので︑前の文も当為は当為だと取れる︒当為が即自有と定有とに分裂するとはどの

ように解釈できるであろうか︒当為は提出されてあるだけで︑まだ弁証法的に展開されずに︑それ自体としてある

だけだということ︑および一定の状態にあり︑なすべき事柄が少し具体的にある︑例えば親切にすべきであるとい

うことにあることと解釈できよう︒UδωΦ固①巨詳讐日津臨︒げ噂&①乞Φαq鋤自︒づ侮︒同Z①σq讐凶oP翼長臨同気㊤温くΦω

       ヘ  ヘ       ヘ  へωΦ一Pこの文は︑1.制限が制限自身と同一になることは︑制限を否定して当為を目指しながら︑当為を否定して制

限に戻る︑つまり制限を肯定する有である︒こうして自己同一性は肯定的有であると解釈できるが︑また次のよ

うにも解釈できる︒すなわち︑2.制限が制限自身を越えながら︑制限自身と同一になること︑ ﹁すなわち﹂制限

を否定して︑当為となり︑これを更に否定すること︑このことが肯定された有となっていると︒自己同一性が否定

の否定と同じであるとするならば︑この否定の否定は肯定されたものを既に持っていると言わざるを得ない︒肯定

されたものが有限的なものの他のもの︑すなわち無限的なものなのである︒こうなると2.の解釈の方がよいよう

に思われるが︑しかし﹁すなわち﹂の前の表現の意味と後の表現の意味とがつながらない︒問題点は否定の否定の

意味にあると思われる︒それが〜・〜℃川娼となるか〜︾川ρ︺〜ρ川昌.●〜・〜O田﹁となるかである︒否定

が肯定された有となっているとするならぽ︑﹁⁝制限自身と同一になること﹂は﹁...否定すること︑このこ

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との否定は両者を持っている﹂と意味の上でつながる面を持っている︒1.の解釈では﹁制限を肯定する有である﹂

となっているが︑原文では鷺艶﹁筥讐ぞΦのQDoぎなので︑この直ぐ後の﹁有限的なものの他のもの﹂を意味している

とも取れる︒この場合の肯定的有は肯定的である限り︑論理的展開をしているのである︒肯定的有が有限的なもの

の他のものであるとなるが︑ωΦぎが自註︾旧跡Φ掃であると言うのは厳密ではない︒ヘーゲルは表現を漠然とする

ことによって有限的なものから無限的なものの推移を行ったと言えよう︒

       ︵未完︶

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