ヘーゲル﹃大論理学﹄批判︵六︶
速 川 治 郎
大論理学︑第二版の第二章は定有であり︑その中がA定有そのもの︑B有限性︑C無限性に分かれている︒今回は
無限性を論じたい︒C無限性が第一版では︵質的︶無限性となっている︒このほうが勿論よい︒ヘーゲルは冒頭﹁無
限的なものは差し当たって絶対的なものの新しい定義と見られる﹂と言う︒絶対的なものを定義すると無限的なもの
であると言うわけだが︑常識的に言えば︑絶対的なものの反対は相対的なものであり︑これは有限的なものであり︑
これの反対は無限的なものである︒この無限的なものは﹁規定のない自己関係bd①臨Φげ§σq山鼠あ8げという意味では︑
有︑成として立てられている﹂のだが︑無限的なものが自己関係になるとはどういう意味であろうか︒ ω凶︒げは﹁無
限的なもの﹂であるが︑これが対象言語であるか︑メタ言語であるか分からない︒ヘーゲルは漠然とした表現をする
から︑両方であろう︒ヘーゲルは悟性的︑抽象的なものを否定しながら︑抽象的な表現︑すなわち複数の解釈が可能
な︑あるいは明確な解釈が不可能な表現をよくする︒複数の解釈の可能なことは必ずしも欠陥でないが︑明確な解釈
の不可能なことは欠陥である︒ところで対象言語である無限的なものがヘーゲルの思考の中の無限的なもの︵メタ言
語︶に関係しているというならぽ︑自己関係は理解できないこともない︒ヘーゲル解釈者はこういう自己関係の自己
の意味に注意しないようだ︒そういう人はそのように自らを仕組んでいるのである︒規定のない自己関係は︑無限的
なものそのものが弁証法的に規定されない前の段階を意味していると言っても︑このことが自己関係を十分に表して
いるとは言えない︒固定的な無限的なものは動的な無限的なもの自身にかかわると動的になることによって右︑成と
して立てられていると言えようか︒なぜ無限的なものが有︑成であるかというと︑これらは有限的な︑制限をもった
規定態ではないからである︒これらを定有と比較すると分かりやすい︒というのは定有は一定の状態にある︑有限的
な規定態だからである︒とにかく無限的なものは制限性ゆσωoげ感ロ加島①罫をもたない︒だが︑しかし無限的なものは
実際には制限性と有限性から離れたわけではない︒だから重要なことは︑無限性の真なる概念︵真無限︶と悪無限と
を分けること︑換言すれぽ︑ ﹁理性の無限と悟性の無限とを分けることである︒悟性の無限は有限化された無限であ
る﹂︒どうしてか︒無限的なものは有限的なものから離れて純粋になり︑つまり全く別のものになるときには無限的
なものは有限化されるのである︒なぜか︒無限的なものは有限的なものではないというとき︑無限的なものは有限的
なものによって制限され︑有限化されてしまうからである︒
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a.無限的なもの一般
無限的なものは﹁否定の否定︑ つまり肯定的なものであり﹂︑制限性から﹃大輪理学﹄の始めに論じられた有自身
を回復して︑現れた有である︒否定の否定が何の否定か分からない︒否定の否定をヘーゲルが使うときは︑必ずこう
なっている︒これは欠点である︒ここでは有の否定︑すなわち制限︑この制限の否定︑すなわち無限的なものである︒
こうして無限的なものが有る限りで︑無限的なものは有である︒有の否定の否定が有になっているだけではないこと
ヘーゲルr大論理学』批判(六)
に注意する必要がある︒ヘーゲルの否定の否定が記号論理学の二重否定とは趣を異にするからである︒無限的なもの
が有るの有は﹃大論理学﹄の始めに出て来た直接的な有よりももっと深い意味をもった有である︒ ﹁無限的なものが
有る﹂の有は真の有であり︑制限を超越している︒無限的なものという名前を聞くと︑人間は自覚して︑自分も無限
的なものをもっと思うことによって︑心情︑精神から無限的なものの光が現れて来る︒なぜなら精神がこの精神自身
を自分自身にまで︑すなわち精神自身の思考︑普遍性︑自由にまで高めるからである︒直接的な︑未発展の精神が媒
介を通し︑自己発展した精神へと進むのである︒特定の人間︑例えばヘーゲルにより確立された弁証法的立場も︑あ
るいは︑あらゆる物事の基盤として自然を主張する人にとって自然も無限的なものと言えよう︒そうでなければ哲学
者は主張文を提出することもないであろう︒自分の考え︵立場︶が他人に必ずしも認められなくてもよいと言う哲学
者もいることはいる︒しかし︑そういう人も主張文を提出している限り︑そこには無限的なものがある︒
無限的なものの概念にとってまず明らかになることは次の通りである︒ ﹁定有が定有の即自有において︑定有自身
を有限的なものであると規定し︑そして︑その有限的な制限を越えるということである﹂︒この文は︑定有が有限的
な定有自身を越えるということを述べているだけで無限的なものの概念は出て来ない︒ ﹁有限的なものが自己︵有限
的なもの自身︶を越え︑自己の否定を否定して︑そして無限になるということが有限的なものの本性である﹂︒﹁自己
の否定﹂は文脈から言うと有限的なものである︒しかし有限的なものの否定がどうして有限的なものになるのであろ
うか︒実は定有を否定したものが有限的なものなのである︒有限的なもののもっている否定が定有の否定なのである
が︑定有の否定が直ちに定有を否定したものとなるであろうか︒疑問が残る︒とにかく無限的なものは既成のものと
して有限的なものの上位にあるのではなく︑逆に有限的なものは無限的なものの下位に︑あるいは外部にあるのでも
ない︒また︑われわれは主観的理性であるから︑有限的なものを越えて無限的なものになるのでもないゆまた無限的
なものは理娃概念であり︑無限的なものである理性によって︑われわれは時間的なものを越えているという場合︑こ
のことは有限的なものと無関係にある︒このようにして無限的なものと有限的なものとは完全に分離している︒しか
しながら︑そのように分離しているのではなく︑有限的なものがそれの本性から言って︑無限的なものになるのであ
る︒本性とは何であるか︒有限的なものは制限そのものをもっとともに当為をもち︑そして﹁その制限を越えるとい
うこと︑あるいは︑むしろ自己への関係切①Nδゴ琶σq山鼠あざげとして制限を否定し︑制限を越え出るということが有
限的なものの本性なのである﹂︒ωざげは文法的には何を指しているか不明で分からないが︑文脈から言うと有限的な
ものであろう︒関係とは或るものと他のものとの間にあるのだが︑ ヘーゲルの文では﹁自己への関係﹂とあるだけ
で︑その意味がもうろうとしており︑ここに欠陥がある︒有限的なものが有限的なものに関係するというのも分から
ない︒まだ弁証法的に発展していない有限的なものが発展すべき︑もしくは発展する有限的なものにかかわることに
よって︑制限を否定し︑越え出ると一応は解釈できる︒ ﹁有限的なものは自らωΦ一げ馨有限的なもの自身の本性によ
って無限的なものになるものにほかならない﹂︒ωΦぎ曾を使うことによって主客合一としての超観を示していると解
釈できる︒ ﹁a.無限的なもの一般﹂の項の後半で述べている個所では︑有限的なものがなぜ無限的なものになるの
かは具体的に何も述べてはいない︒もっとも後の叙述でもはっきりしない︒ ﹁無限性は:・有限的なものが真に即
自的にあるものである﹂U冨d昌Φ⇒亀凶︒げん虫二馨・..α⇔ρ≦器⑦ω類聾昌9︒津きωざげ響.この文から言うと︑有限的
なものは本当にそのものとして無限性をもっているととれる︒ところがきω一︒ゴを弁証法的にまだ発展しないで直
接あるだけのものの意味にとることは︑ここではできないであろう︒きωざげの意味が文脈からでなければ理解でぎ
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ないということは︑その意味が漠然としていることになる︒このことは隷﹃︒︒ぎ貫き とである︒漠然とした︑不明確な意味がヘーゲルにとって必要なものに思われる︒ §自隷吐ω︷9にも言えるこ
ヘーゲルr大論理学』批判(六)
b.有限的なものと無限的なものとの交互規定
前述のことから無限的なものは存在すると言える︒しかし︑それは存在する︵有る︶だけだから直接に有るものと
言うことができる︒無限的なものは﹁規定されたもの一般としての或るものというカテゴリーに後退している﹂︒も
っと詳しく言うと︑無限的なものは︑ ﹁規定性一般を止揚した﹂結果︑ ﹁自己に︵無限的なもの自身に︶反照した定
有﹂ユ霧ぎωざげ三二Φ算冨審ΦU霧¢ぎである︒﹁規定性一般﹂は何についての規定性一般であるか分からない︒文脈
から言うと︑それは有限性である︒ここにあいまいな表現がある︒規定性蝋般と有限性とは︑それらの意味に関して
同一ではない︒﹁無限的なものが自己に反照した定有である﹂というのもヘーゲル独特の表現である︒無限的なもの
として︑ただ直接に存在する語が実はヘーゲルの自覚し︑考えた無限的なものに還帰し︑この無限的なものが存在す
るということは写るものとして有る定有なのである︒そこで無限的なものは︑ ﹁それの規定性︑つまり有限性﹂とは
異なった定有するものとなってしまっているがゆえに︑限界をもった或るものというカテゴリーへ戻っている︒すな
わち無限的なものは有限的なものと境を接した或るものへ戻っている︒先の﹁規定性﹂は有限的なものと表現したほ
うがよいであろう︒ところが有限的なものは実際には﹁実在的定有﹂であり︑無限的なものに対立する︒しかし﹁も
の﹂は﹁有﹂にならないと温潤は考える︒とにかく無限的なものと有限的なものは別々となって相互に独立して存在
し︑質的関係︑すなわち相互に否定し合っている関係である︒そうすると無限的なものは有限的なものの存在となつ
てしまう︒なぜなら無限的なものが限界をもっているからである︒しかしながら無限的なものと有限的なものはとも
に限界づけられ︑関係しあっているだけではない︒両者はさらに展開して相互に対立して他のものであるというよう
に規定されている︒ ﹁有限的なものは制限として措定された制限が︑有限的なものの即自有の中へ移行し︑無限的と
なるという規定をもった定有である﹂︒﹁制限として措定された制限﹂とは明確な制限という意味であるが︑有限的な
ものがなぜ無限的となるのか︒即自由にその鍵がある︒今の段階では︑無限的なものがあるということは即自有であ
り︑有限的なものも即自有であるから︑有限的なものは無限的となるのである︒これは筆者の言う動的︑過程的同一
性である︒次に無限性が述べられる︒しかし︑なぜ無限的なものでなく︑突然無限性が出て来るのか何の説明もな
い︒無限性は有限的なものが無いのであり︑ ﹁有限的なもののもっている即自有︾彦凶︒房Φ冒と当為QDo=⑦昌であ
る﹂︒すなわち無限性も即自有と当為であるというわけである︒換言すれば︑無限性はそれ自体として有る﹁もの﹂
であり︑無限性は当為︑すなわち有限的なものがく有限的なものであるべき﹀であるのと同じように︑無限性は︿無
限性であるべき﹀であるという当為をもっている︒だから︑この当為は﹁当為自身に反照したものとして巴︒・ぎω一〇げ
話自Φζ凶Φ辞完成された当為﹂である︒有限的なものの当為が無限性の当為にぎω一〇7反照して︑無限性の当為とし
て完成されたものである︒ ω一〇ゴは当為に関する限りあるが︑主語︵ここでは当為︶といかなる意味においても同一
であるならば︑すなわち一つのものが有るだけならぽ︑ ω8げを使えないであろう︒また﹁無限性が有限的なものの
もっている当為である﹂の当為は何であるべきなのかがはっきりしない︒もやのかかったような表現になっている︒
ヘーゲル研究者は彼の抽象的な表現を解釈するのにこうではないかと推測して論を進めている︒解釈に幅があるとい
うことは彼の表現に欠陥があると言われても仕方がないのではあるまいか︒さて無限性は﹁自己にのみ関係する︑全
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ヘーゲルr大論理学』批判(六)
く肯定的な有し旨霞ωざげ養鶏巴9げωNげげΦ巳Φ9αq琶N£︒hh冒ヨ讐ぞ㊦ωω①冒である︒直接的に有る無限性は︑そこに止
まっている無限性自身にのみ関係し︑これ自身と間︵関係︶を保ち無限性であることを肯定して存在している︒だか
ら無限性の中で︑有限的なもののすべての規定性︑変化︑制限︑当為が消失していて︑有限的なものが無くなってい
るという言わば満足感がある︒この段階で言う即自有は有限的なものを否定していることとして規定されている︒す
なわち︑その即自有は﹁否定の否定﹂としてそれ自身において一口ω一〇げ肯定の性質をもつ︒ここでは即自有は無限的
なものが有ることを意味している︒否定の否定は何を指すのかはっきりしないが︑無限的なものがあることが否定の
否定であるから︑次のように解釈することができる︒すなわち無限的なものがあるのではなく︑有限的なものがある
︵否−定︑日本語では否において定︵定まったもの︶があり︑定において否がある︶︒だが︑やはり有限的なものがあ
るのではなく︑無限的なものがある︵否−定︶︒そうすると無限的なものは無限的なものそのものとは別の他のものと
しての有限的なものと対立してしまう︒だが︑ ﹁有限的なものは即自右の中に︑すなわち無限的なものの中にありな
がら︑同時に止揚されているものとして措定されているにもかかわらず︑また同時に他のものとして︑規定された︑
実在的な定有︵するもの︶である﹂︒有限的なものは無限的なものと対立していると言っておきながら︑直ちに﹁有
限的なものは無限的なものの中にありながら﹂という文を提出する︒無限的なものは有限的なものに対立して︑有限
的なものと境を接しているので︑有限的なものになってしまうという意味で︑有限的なものは無限的なものの中にあ
るのか︑簡単に無限的なものは有限的なものを内に含んでいると言うことなのかはっきりしない︒両方であると言う
人もいよう︒それならそれで︑そういうことをヘーゲルは述べておかなけれぽなるまい︒ヘーゲルにとって︑有限的
なものは一応﹁存在するもろもろの規定態︑もろもろの実在態の領域﹂である︒ところが︑彼がそう言っているとこ
ろで︑無限的なものは有限的なものではないと言う︒意味が目まぐるしく変わるのである︒無限的なものは無規定的
な空虚であるとも言っている︒そして有限的なものが有限的なものそのもので有るだけでは︑それは﹁即自有﹂をも
たないと言う︒この場合︑即自有は弁証法本来の姿であることを意味する︒有限的なものが自ら発展することになっ
ていないのである︒次に︑いわゆる悪無限︑悟性の無限が述べられる︒悟性にとっては絶対的な矛盾が出て来ると言
う︒有限的なものと無限的なものが対立していたのでは矛盾が生じると言うのである︒悟性にとって無限的なものが
﹁最高の真理︑絶対の真理﹂となっている︒なぜか︒ここで取り上げられた無限的なものを例えば︑どんなものに対
しても妥当する法則と取るならぽ︑無限的なものは分かりやすいであろう︒なぜならぽ︑その法則の真理は無限に妥
当する意味をもっているからである︒先程は︑ ﹁無限的なものは無規定的な空虚﹂と言ったが︑ここでは﹁最高の真
理︑絶対の真理﹂と言う︒意味をずらして論述しようとヘーゲルは考えている︒ところで悟性は真理を獲得して満足
したと思うのだが︑ここにおいて実は絶対の矛盾に陥っているのである︒この矛盾は例えば有限的なものがあるとい
うことが定有として無限的なものに対立するということの中に存在している︒無限的なものは有限的なものの限界に
あるに過ぎない︒だから無限的なものは限定された﹁有限的な無限的なもの﹂である︒ヘーゲルはこれが矛盾だと言
う︒ ﹁無限的なもの﹂を最高の真理︑絶対の真理︑﹁有限的な﹂を限界のあるという意味に取るならぽ︑限界のある︑
すなわち一定の限界内の最高の真理︑絶対の真理となる︒これは矛盾とは言えないであろう︒この段階では︑悟性は
矛盾に陥るから不適当だとヘーゲルは言うのだが︑ ﹃大論理学﹄全体の論旨から言うと矛盾があるから不適当だとは
言っていない︒一つの語がそれの文脈から言って意味が異なるという意味論になっており︑同時にヘーゲルの思考内
容となり︑一つの語と彼との関係が出ている︒その限りでの語用論が現れている︒無限的なものは有限的なものを直
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ヘーゲルr大論理学』批判(六)
接に否定しているが︑有限的なものは﹁その否定に対して﹂αq①σq①昌一窪①Z①αq㌶一〇昌否定されたものとしての他の趨る
ものである︒﹁その否定に対して﹂は無限的なものの行った否定に対しての意味であるが︑この否定に対立した否定さ
れたものとして有限的なものは残っている︒したがって︑この世の中という有限的な世界から抜け出て行こうとする
悟性が悟性の考えている最高のもの︑つまり無限的なもの︑例えばユートピアの世界に登っても︑悟性だけを駆使す
る人間にとっては︑その有限的世界︑すなわち現実の世界が離れないである︒そこで無限的なものは有限的なものの
上方に専ら置かれ両者は別々になっている︒無限的なものは有限的なものの﹁即自﹂◎霧︾霧ざげすなわち頭で考え
られた本質的なものとしてあるだけのものであり︑そして彼岸に有り︑到達できない︑かすんだ遠方にあるものであ
る︒無限的なものと有限的なものは共に否定し合うことによって︑関係づけられている︒その意味で間がある︒両者
はそれぞれ自分に反照し︑すなわち戻って来て二つの別々の黙るものとなり︑その或るものが互いに他を否定しなが
ら︑関係しているのである︒両者が否定し合っているということは両者に限界があるということである︒両者の各々
がその否定を各々自身のところにもつのは単に他のものに対してではなく︑むしろ︑その否定は無限的なものと有限
的なものという両者の﹁即自有﹂であり︑ ﹁各々はそれぞれ他のものから離れて︑独立して自分自身のところに限界
をもつ﹂︒否定が両者の即自有であるというのであるから︑否定は両者がそれぞれ自分でもっているものであるとい
うことになる︒そこで無限的なものと有限的なものとがもつ限界は﹁最初の否定﹂としてあり︑両老はそれぞれそれ
自身限定された有限的なものである︒最初の否定は両者の各々がもっているものである︒そこに限界がある︒しかし
ながら両者はそれぞれ自分に関係し︑無限的なものは無限的なものであり︑有限的なものは有限的なものでありなが
ら︑それぞれのもっている限界を否定する︒そこで各々は自分のもっていた限界を無いものとして排斥する︒だから
各々はそれぞれ限界を他のもののもつものであるとする︒そこで有限的なものは自分自身の規定︑すなわち内的本質
から言って﹁即自有﹂としての無限的なものに高まろうとする︒即自有はここではそれ自体として有る﹁もの﹂と
せざるを得ない︒なぜ無限的なものに高まろうとするかというと︑有限的なものは有限的なものとして有るわけだ
が︑しかし同時にそれ自体その内的本質から言えば︑空虚な︑消滅してしまうものだからである︒前の個所では無限
的なものが空虚なものとなっていた︒この考えから言えば︑有限的なものが無限的なものに高まろうとする必要がな
い︒しかし今の段階では無限的なものをユートピアと考えておきたい︒無限的なものは有限的なものではないという
否定と限界をもつものとして規定されている︒また無限的なものは﹁即自的に有るもの﹂ 9ω︾霧凶︒げωoδ昌α①であ
り︑無限的なものであるということで自己に関係して︑無限的なものであるということを肯定しているという抽象
島①﹀げ︒︒け鑓自警〇島台①円ω一〇げ舞h︒︒凶︒げげ①鼠①ゲΦ巳①昌﹀出h自白餌焦︒昌である︒別言すれば︑無限的なものはそれ自体と
してあるものであり︑直接的に有る無限的なものが即自由に有るものとしての無限的なものに関係し︑これを肯定し
ているだけに止まっている︒しかし無限的なものは︑ ﹁否定を媒介にして︑すなわち否定の否定としてのみ︑肯定的
な有となる﹂︒否定の否定とは何を意味するか︒第一の否定は他のもの︑無限的なものを否定している有限的なもの
であり︑この有限的なものの否定が無限的なものである︒こうして無限的なものがただ有るだけだから︑﹁肯定的有﹂
﹁単純な質的有﹂すなわち有限的なものではないというだけの無限的なものが有ることを意味している︒だから︑こ
の質的有の中に含まれる否定は単純な直接的否定に︑したがって﹁規定性と限界へ引き降ろされる﹂言い換えれば有
限的なものではない無限的なものという外的な本質︑すなわち規定性と無限的なものは有限的なものではないという
限界とに戻ってしまっている︒そうすると単純な質的有は︑ ﹁即自有﹂すなわち本来的な無限的なものが有るという
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ヘーゲル『大論理学』批判(六)
ことに﹁矛盾するものであるから﹂巴ω名置石ω買Φoび8αこの即自有から締め出されてしまい︑即自有に帰属するも
のでなく︑むしろ︑即自有に対立し︑これと境を接するので有限的なものとなってしまう︒ここで﹁矛盾する﹂と言う
のは間違いで︑対立するという意味しかない︒とにかく︑こうして有限的なものと無限的なものとの﹁各々は﹂Uo住①ω
﹁それぞれのところに有りながら︑観点を変えると確かに﹂ きぎ日ωoま凝すなわち各々の規定から言って無限的
なものは有限的なものを︑有限的なものは無限的なものを論理的に提出せざるを得ないから両者は不可分である︒し
かしながら︑この両者の統一は︑両者が質的に他のもので有るということの中に隠されている︒すなわち有限的なも
のは無限的なものが有るということの中に︑無限的なものは有限的なものが有るということの中に隠されている︒だ
から︑両者の統一は表面にはっきりと出ていないで︑奥深い所︵問︶に有るのである︒要するに両者の統一は有るこ
とは有るのだが︑明白ではないというわけである︒
両者の統一は無限的なものから有限的なものへ︑有限的なものから無限的なものへ推移することである︒このこと
は一定の状態に有ることであり︑ヘーゲルにとっては﹁定有の中で﹂措定されていることになる︒そこで﹁他者は他
者のところで現れるに過ぎない﹂︒ この表現は意量的に普通の表現を避けているように思われて仕方がない︒そもそ
も他者という表現は或るものが有ってその他老というのが普通の言い方である︒それを無視した表現になっている︒
とにかく無限的なものと有限的なものとは相互に他者のところで﹁自己の直接的な発生をもつ﹂すなわち無限的なも
のは有限的なもののところで︑または逆に有限的なものは無限的なもののところで直接に︑すなわち弁証法的に十分
に考えられないで生じるだけだから︑両者の関係はまだ外的な関係である︒
次の段階では︑無限的なものが有限的なものになるが︑これは︑また無限的なものになるという具合に無限に続く
ことを述べている︒有限的なものが無限的なものに移るというとき︑無限的なものは空虚なものである︒無限的なも
のは有限的なものと﹁不可分﹂であるために︑限界が生じる︒ロムバッハの﹃構造存在論﹄の﹁無限界性﹂○お嵩①甲
ざω圃αq閃︒罫という章の中に次のような考えがある︒仕組みのもっている﹁外は内において成立する︒外は内において
成立するだけでなく︑この内を形成する︒仕組みは何よりもまず外によって特徴付けられ他のどんなものによっても
特徴付けられない︒このことが内的に規定されている︒そして︑その外を仕組みが財投する﹂︒外を無限的なものに︑
内を有限的なものに置き換えるとヘーゲルとつながる考えが浮かび上がって来る︒筆者の考えでは︑無限的なものと
有限的なものとの対の関係は両老の﹁問﹂において成立している︒間︵という仕組み︶は何ものでもない︒間は有り
はしないからこそ︑それは何ものでもない︒人間︑時間︑空間の間はなくてもよい︒だから間は何ものでもない︒が
間は人間において生きており︑あらゆるものは人﹁問﹂との関係において︑生き生きしている︒しかし︑このことは
ヘーゲルの今の段階︑すなわち無限的なものと有限的なものとが不可分であるので︑限界が生じるという段階ではな
い︒が︑この段階を一つの過程として﹁内﹂﹁外﹂﹁間﹂は包括している︒無限的なものと有限的なものとは対である
ことにより︑不可分であり︑限界がある︒こうして無限的なものは有限的なものとなる︒この有限的なものが現れる
と︑以前に有限的なものを止揚したことが無駄になる︒だから新しい有限的なものを止揚すべきである︒そこで﹁再
び空虚︑すなわち無が生じる﹂︒ヘーゲルは空虚︑無と言うが︑文脈から言って︑それは無限的なものの意味である︒
そういう意味であるならぽ︑そう言うべきである︒とにかく無限的なものは︑有限的なものとの間にまた新しい限界
が生じることによって︑有限的なものになる︒このようにして無限に続くのである︒
こうなると有限的なものと無限的なものとが交互に出て来ることになる︒有限的なものは無限的なものと関係する
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ヘーゲル『大論理学』批判(六)
ことによって有限的なものであり︑無限的なものは有限的なものと関係することによって有限的なものである︒両者
は︑その意味で不可分であるが︑相入があるわけではないので︑全く他のものである︒各々はU&①ωそれ自身の所
にp︒旨ひ目ω色びω一それぞれ他のものをもつ︒﹁それ自身の所に﹂はそれ自身の所にありながら︑ 9・昌ωざげωΦぎ斡で
はないので︑観点が変わって明らかにという意昧になる︒こうして︑各々は各々の規定性の中では﹁それ自身でも︑
それの他のものでもないという定有﹂だと言うが︑意図的に否定形にしていると思われる︒ ﹁それ自身でない﹂は無
限的なものが有限的なもの︑有限的なものが無限的なものであるとすれば︑そうなる︒また﹁他のものでない﹂は無
限的なものは無限的なもの︑有限的なものは有限的なものであると言うにすぎない︒さらに﹁定有﹂はここでは定有
するものでなければならない︒
﹁自己自身と自己の否定とを否定する交互規定﹂が無限進行だということも否定形を無理に出しているように思わ
れる︒ ﹁自己自身﹂が無限的なものだとすれぽ︑ ﹁自己の否定﹂は有限的なものである︒無限的なものと有限的なも
のは対概念であるから︑無限的なものの否定は有限的なものになると言うことはできる︒無限進行は﹁矛盾であり︑
この矛盾は解決されないで︑いつまでも存在するものとして﹂ある︒その矛盾は本当にあるのであろうか︒無限的な
ものと有限的なものとが不可分の統一したものであると同時に分離された別々のものというのが矛盾であるとヘーゲ
ルは考えている︒ところが不可分の統一の意味は両者は対になって一つになっていることであり︑分離された別々の
ものとは両者がその意味通り別のものという意味である︒そうであるならぽ︑矛盾と言わなくてもよい︒無限的なも
のが有限的なものであり︑この有限的なものが無限的なものであると続く無限進行があるということは言える︒各々
が自己を﹁越え出る運動は越え出られない﹂という表現はどういう意味か︒有限的なものは無限的なものへ︑無限的
なものは有限的なものへ越え出る運動というものは越え出られないというだけのことである︒その越え出る運動が抽
象的な運動であると言う︒無限的なものと有限的なものとはどこまでも同じような﹁退屈な交替﹂にすぎない︒その
意味で︑無限的なものは他者である有限的なものと関係しているだけである︒無限的なものは有限的なものと境を接
して︑限界をもっているから︑有限的なものになってしまうが︑それだからこそ︑そういう無限的なものは︑これま
でとは別の仕方で越えられる︒このような意味のことをヘーゲルは言いながら︑このすぐ後で﹁この悪無限性は繰り
返される当為と同じものである﹂と言う︒この悪無限性は︑無限的なものが他者としての有限的なものになり︑後者
が前者になることであるが︑当為と同じものであろうか︒ ﹁なる﹂が﹁なるべき﹂になるであろうか︒悪無限性は︑
今のこの段階では乗り越えられないという意味であり︑当為も乗り越えられないから当為であるので︑その限りでは
悪無限性は当為と同じであると言える︒
無限進行という無限性が有限的なものによって限界付けられているから︑有限であるということ︑このことは有限
的なものと無限的なものとの統一であるように思われる︒しかし︑﹁この統一への反省︑熟慮がない﹂魯陽葉①ωΦ短早
げΦ詳乱乙巳︒葺お自①恩一①答だが︑この統一は有限的なものの中で無限的なものを︑無限的なものの中で有限的な
ものを﹁呼び出す﹂といったものにすぎず︑いわぽ無限進行の原動力になっているだけである︒ ﹁反省︑熟慮﹂は反
照とも訳せるが︑この文脈では無理であろう︒そうすると既述のように︑一つの語の意味が何であるかは文脈によっ
てしか分からないという欠陥が出て来る︒しかしヘーゲルにとっては一つの語が多くの意味をもつことはよいことな
のである︒それにしても文脈によってしか分からないということはよいことであろうかという疑問は出て来る︒ ﹁あ
の先生はたいした奴だ﹂ ﹁先生が来られる﹂という二つの文の中で︑先生という語の意味のニュアンスが変わってい
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ヘーゲルr大論理学』批判(六)
る︒前の文は先生と言われる職業についていない人に対して先生という語が使われている︒そういう使い方はすべき
ではないとは必ずしも言えない︒そうすると文全体の意味は︑その文を使っている人との関係︵間︶を含めて重要で
あるということになる︒ヘーゲルの場合でも同じであると言えよう︒そうならば先の欠陥はあっても仕方がないので
あろうか︒顧る一つの概念の意味が文脈によってしか決まらないということが完全な特徴でもある︒欠陥が特徴にな
っている︒その限りでは欠陥が欠陥ではない︒一つの概念の意味が文脈によってしか決まらないということにより︑
その概念が動的な意味をもちうるとも言える︒普通の考えは先程の統一が現れるだけで満足する︒有限的なものと無
限的なものとの交替の繰り返しは︑無限的なものの中にそのつど新しい限界を生じるが︑無限的なものなので︑その
限界に止まることができない︒無限的なものは彼岸にあり︑有限的なものは此岸にある︒有限的なものは︑無限的な
ものから見れば他者という規定をもち︑ ﹁有限的なもの自身の彼岸の中で繰り返し繰り返し︑しかも彼岸とは異なる
ものとして繰り返し繰り返して︑有限的なもの自身を産み出す定有﹂という︑いつまでもそのままであり続けるもの
である︒ ﹁彼岸の中で⁝しかも彼岸とは異なるものとして﹂とはどういう意味か︒ここでは有限的なものが二つ
の意味に取られている︒すなわち彼岸の中で無限的なものが有限的なものであるという有限的なものという意味と彼
岸とは異なる此岸にある有限的なものという意味とである︒しかしながら﹁彼岸の中で﹂と言うすぐその後で﹁彼岸
とは異なる﹂と言うのは読者泣かせなことである︒とにかく︑・この項では有限的なものと無限的なものとの真の統一
がありそうでまだないということが述べられているのである︒
︵未完︶
安らかに眠らんことを」とあった。
18歳のときに,情事というにはあまりにも淡く幼い情事を経験し,生涯 その相手が忘れられずに慕いつづけ,そのために外の男といるときにも心 で思うのはその男,それで自然に情がこもって数知れぬ男から愛されるの だが,そのじつ,彼女は生涯にたった一人の男しか思わず,抱かず,そし て死んでいった。いうなれぽ彼女なりに恋に生き,恋に死んでいった。こ の短.篇はそういう女,セルマの「女の一生」である。
(つづく)
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