ま じ め
r
に
は じ め
に
フヴォストフ事件︵蝦夷地乱妨始末︶の歴史的背兼 I I
大槻玄沢追物フヴォストフ文書について
I I I
山
片蝠桃旧蔵フヴォストフ文害
について
I V
フヴォストフ・ダ
ヴィドフの事
件に関する文献︵むすびに代えて︶
︹付録︺フヴォストフ・ダヴィドフ略年譜
i
おg和二七年に︑本学図書館が購入
した大槻茂質︵玄沢・磐水︶旧蔵の一束の地図・文
書類 中に︑色褪せた
一葉の美涙紙が混入
していた︒
当時
︑
筆者は新参
の書記
として雑誌係に勤務していたが︑時の館長岡村千曳先生が︑右の
美猥紙を筆者のところへ持 参され
︑勤務の余暇に調査するようにと申された°見れば︑達筆なロシャ
語で星書した書付で
︑終り
に︑フヴォストフとしるし フヴォストフ文書考
ー
︹内 容︺
t
フ ウ
ォ ス ト フ 文 書
考
高
野
明
‑ 1 ‑
フヴォストフ事件︵蝦夷地
乱妨始末︶ー
の 歴 史 的 背 景
.
拝するo 本年五月五日︑恩師岡村千曳先生が長逝されて︑もはや浩鑑を仰ぐこともかなわぬ日々ながら︑この拙い一篇を捧げて余香を
イギリスのロツヤ研究家︑バーナード・ペアズ(
S ir Be rn ar d Pares)~、いわゆる古きロシャの友であり、ロンドン大学に スラヴ研究所(Sch
oo
l
of S la
vo
Sin itdc ue
s)
を創設した学究
である︒彼は︑ソビニト政権の独裁制には好意的ではなかった
が︑新らしいロジャの秩序のなかに︑かぐわしく醸成された民 したいと考え
てい
た︒
てあるが︑その文意たるや︑まことに奇妙で︑何のことやらにわかに解しかねる始末であった︒冒頭の﹁一八
0
六年
一
0
月一〇日︑ロジャのフリゲ
ート
艦ュノナが当地に来航し︑一村落を︿疑惑﹀と命名した﹂という文章から︑ようやく文化年問の日函関
係であろうかと見当もつき、暇をみて調べてみた。ところが、この一葉の文密が、実はきわめて重要な史料であり、日付•内容
.箪跡などの点で︑各々考察の余地があることを知った°筆者は︑あれこれと文献を漁って︑昭和二八年の﹃日本歴史﹄六五・
六六号に
︑ ﹁ 大槻玄沢追物フプォストフ文書考﹂﹁同上補追﹂と題する小論を発表した︒しかし︑わずかに一年の歳
月で
︑しかも
勤務の余暇を利しての暗中模索であったから︑筆者として意にみたないところが多かった︒その後︑昭和三二年春︑大阪の愛日 小学校で︑山片小右衛門︵蝠桃︶旧蔵の文献を調査した際に︑このなかにも未発表の同類文書二葉を見出だすことができた︒さ らに︑
近年
の諸書にも︑いわゆるフヴォストフ事件についての彼我の見解が示されてい
るの
で︑いつの日か稲をあらためて補訂
族の息吹を
︑﹁
その歴史はつづけざまの植民の歴史であった
I
ーその大部分は︑政府によるよりも人民による植民で︑人民は
政府のうるさい干渉を逃れたいという希望にうながされたので
あった﹂田と表白する°鰍者が︑好んで第三者の言を冒頭に掲
げるのは
︑ロ
ジャにすぐれた歴史家がいないからではない°ョ
ーロッパとアジャにまたがり︑世界の陸地の六分の一を占める
多民族国家の歴史を学ぶためには︑ロジ
ヤ人自身の見解
以 上
に︑さらに客観的な距離と振幅が必要とされるからである°ロ
ジヤ史の流れからみれば︑日露関係史上のさまざまな現象も︑
いわば一脈の支流にすぎず︑スラヴ民族の奔放なアジヤ進出に
ともなう派生史実である︒
一八世紀初頭までに︑ジベリヤとカムチャツカを征圧したロ
ジヤ人の多くは︑
牒奴制から逃れようとした自由民コサック
や︑官憲から追放された囚人たちであったとはいえ︑彼等が単
に群盗のように猪突猛進して︑
搾取と侵略だけを意図したと見
るのは︑明らかに公平ではない︒ロジヤ人による北太平洋地域
の開発は︑カムチャッカおよびロ
ジャ
11
アメリカ会社の歴史を
研究したオークニ教授
(
C .
5.
O
Ky
Hb
)によれば︑彼等の進出
は︑
一八
世
紀初頭まで続いたロジヤ経済の深刻な危機
︑すなわ
ち貨幣価値の低
下 ︑
主として洵外から輸人した金属を新鋳した
銀貨の発行︑ロシヤ南部における近東政策の波紋を背景として
行なわれた︒とくに︑各種租税の滞納によって︑ロシヤ政府が
輸出商品のひとつとして︑
ジベ
リヤの黒紹毛皮に済目し︑︒
ヒョ
ートル大帝が︑
一六
九七年九月
︑ト
ボリスクの骰族に訓令を発
し︑新たな土地の発見と︑毛皮類による徴税を制定して︑国家
による黒紹交易の独占に踏切ったことは
︑ロ
ジヤ植民政策の道
標を示したものといえよう四︒政府よりも人民による植民であ
ると
説く
︒ヘ
アズ教授と︑帝制ロシャのツァ
ーリ
ズムにもとづく
植民政策を強調するオークニ教授とは︑互いに矛盾するようで
あるが︑実は︑両者の意見は︑表襄一体をなした正論なのであ
る ︒
スラヴ民族東漸の歴史︑とくにジベリヤ植民史を研究した
モスクワ大学のバフルージソ教授
(Ce pr ei" i BJ I3
) l HM
Hp
B0
H ' ‑ I
フヴォストフ文害考
Ga
x
E
臣︶は︑ジベリヤは一六世紀いらいロジヤ国民の企業py心と精力をひきつけ︑自然発生的な自由移民の奔流と︑政府の
人為的政策との二重の︒フロセスを経て獲得されたとのべ︑ウラ
ルから太平洋にいたる全領域の征服をもって完逐された北東ア
ジャヘのロジャ人の進出は︑史家クリュチェフスキー(Ba
C HJ I H I1 0C H! l0 BWI KJ I1 0' le BC KI 1h
が︑労作﹃ロジヤ史教程﹄@のなか)
で解明したように︑ロジヤ民族が植民的方法をもって行なった
東ヨーロッパ平原占領の長い歴史過程の延長にほかならないと
論じている0バフルージン教授は︑その進出の特徴︑領土獲得
の方法と目的︑移住民たちがその土地で定住する諸関係は︑一
七世紀においても︑またそれ以後においても︑フィソ族が支配
していた時代のヴォルガ沿岸地方におけるスラヴ民族の植民方
法を反復踏襲したものであって︑ウラル以東にたいする植民の
現象を研究すれば︑幾世紀かの昔にロジャの本土で起こった諸
諸の︒フロセスが具体的にうかがわれることを指摘しているぃ︒
さらに留意すべきことは︑ロジャ人のアジヤ進出にともなう
幾多の学術的成果である°ェール大学のロジャ史研究家ジョー
ジ・ヴェルナドスキー
教授
(G eo rg e Ve rn ad sk y)
は︑
︒ ヒ ョ
ー
トル大帝の死とエカテリナニ世の即位の間︑一七二五年から一
七六二年にいたる半世紀は︑ロジャの新たな東方政策の基本線
が樹立された時期であるとのべ︑極東および近東にそのための
指標を与えたのは︒ヒョートル大帝であり︑中国および日本との
国家的関係の推進︑ベーリング探検隊の組織による北方海域の
‑ 3‑
学術的解明の意義について概述する︒また︑一七六二年から一 七 九 六 年 ま で の エ カ テ リ ナ ニ 世 の 治 世 は
︑ ロ ジ ャ の 対
外
政 策 の 関 心 を
︑ 極 東 お よ び 中 東 か ら 近 東 お よ び 西 欧 へ 移 し た 時 期 で
︑ 極 東 は 個 人 的 商 人 の 進 取 に 委 ね ら れ
︑一八世期後半には︑
露領アメ
リカ︵
主としてアラスカ︶およびその
近 傍 に ロ ジ ャ 植 民地を建設した﹁ロジャのコ
ロ
ンプス﹂
│
│
ジェ
リ ー ホ フ
(f
pH rO pH f i Yl Ba HO BH 'I l ll eJ IH XO
B)
の江
H動に着目している°ッ ェリーホフは︑二八オでジペリヤ
に移住し︑一七七七年ク
リー
ル
︵ 千 島
︶ 列 島 へ の 最 初 の 船
︵ 商 船 型 ナ タ リ ヤ 号 ー 第 者
︶ を 傭 い︑ついでアレウト︵
アリューシャン︶
列島への航海を行なっ た︒一七八四年︑彼は︑シペリヤの豪商ゴリコフ
( v !
.
J , !. f
OJ IH , KO B) 一味と貿易会社を創立し︑アラスカ沿岸のカディヤク島 を 中 心 と し て
︑ 原 住 民 か ら 海 豹 や 海 狸 の 高 価 な 毛 皮 を 徴 集 し つ つ次第に勢力を拡張し
︑一七九七年に設立
した﹁合同アメリカ 会 社
﹂ は
︑ 一 八
00
年十月に﹁ロジャ
11
アメリカ会社﹂に発展 し た 固
0
この間の変遷について
︑
ソビエトの東洋学者バルトリ ド 教 授 (B aC Hm if I 8J ia
, l l H
MH p0
BH '
I 6a pT OJ lb ,l
)l
は︑つぎのよ う に 書 い て い る
o
前 枇 紀 か ら 一 九 批 紀 へ 受 け つ が れ た 学 術 的 諸 問 題 の ひ と つ
は︑
日本列局とアジヤ沿岸との関係についての問題で
︑日本
人 と 通 商 関 係 を 確 立 す る 経 済 問 題 も ま た こ れ に 関 連 し て い た︒このことは
︑ロシャ
11
アメリカ会社にとって特別な意義
をもっていた
0
日 本 沿 岸 の 調 査 は
︑ ロ シ ャ が 企 画 し た 第 一 回 世界周航
( K o ‑
︱ ︱ ー
K o ‑
︵)の主要な目的のひとつであった°こ の遠征隊の隊長には
︑
海軍大尉︵のちの海軍大将︶クルーゼ ンシュテルン
(l
1B aH
<P e. n: op os Hq
Kpy
3e Hl ll Te pH
)
が任命さ れ
︑ 日 本 人 と の 外 交 交 渉 の た め に は
︑ 侍 従 官 レ ザ
ー
ノフ
(H
HK OJ Ja fi
IT
eT po sH q P e3 aH oB
)
が遠征隊に参加することに なった°レザーノフは
︑シェレー
ホフ︵原文のまま
0シェリ
ー
ホフと同一人物
ー ー 箪者︶の女壻で︑その嗣子はロシャ
11
ア
メリカ会社支配人の要職にあった°クル
ー
ゼンシュテルンの 遠征隊は
︑
その学術上の任務を果たして︑日本列局の諸島の 位 骰 を は じ め て 解 明 し た
° し か し
︑ ロ シ ヤ 人 は
︑
ラクスマン に与えられた信牌を持って
︑
日本人が指定した長崎港へ到達 し た が
︑ 日 本 と の 通 商 関 係 を 確 立 す る 試 み は 成 功 し な か っ
た0
日 本 人 が ロ シ ヤ 人 と 関 係 す る こ と を 拒 否 し た の は
︑ お そ ら く 独 占 の 巨 利 を 博 し て い た オ ラ ン ダ 人 の 影 梱 が 若 干 あ っ た ようにおもわれる°その上︑レザーノフは︑クルーゼンシュ テ ル ン と の 間 に 個 人 的 な 誤 解 が あ っ て
︑ ク ル ー ゼ ン シ ュ テ ル ン か ら 当 然 の 援 助 を 得 ら れ な か っ た
︵ エ カ テ リ ナ ニ 世 と 同 様 に︑クルー
ゼンシュテルンは
︑
日 本 と 通 商 関 係 を 締 結 し て
も︑
ロシャにとっては大した意義はないと考えていたのであ る ︶
o
レ ザ ー ノ フ は
︑ 日 本 人 の 固 晒 に 憤 慨 し て
︑ 二 名 の 士 官
I
フヴォストフ(HH KO JJ af i AJ Je Kc aH .n :p oB H"
I Xs oC To s) とダヴィドフ
(f
a1 3p HH JJ l1BaHQBHq
)]:
aBbl .ll:OB)~
命じて日
本 沿 岸 を 製 焙 し
︑ 海 岸 の 数 個 村 を 掠 蒋 さ せ た の で
︑ 結 局 は
n
本 人 の 対 鋸 感 情 を 一 庖 悪 化 さ せ る こ と に な っ た
° レ ザ ー ノ フ の 行 為 は 重 大 な 責 任 問 題 と な り
︑
彼 は 部 下 の 士 官 に 責 任 を 転 嫁 し よ う と 試 み た が
︑
シ ベ リ ヤ 経 由 で 帰 国 の 途 中
︑クラスノ
ャ ル ス ク で 死 亡 し た
° フ ヴ ォ ス ト フ と ダ ヴ ィ ド フ は
︑幸いに
して日本
人 の 報 復 を 免 がれたが︑ペテルブルグで吊橋の上っ
ている夜半に︑ネヴァ河を渡ろうとして溺死した°
一八︱一年に派造されたつぎの遠征隊は︑
さ ら に ひ ど い 失 敗 に 終 わ っ た
° 隊 長 ゴ ロ ヴ ニ ン
(Bae芝
IH
H
MHX8HJI0BW!
r g
OBHHH)は︑日
本 人 に 捕 縛 さ れ
︑一八一三年になって︑ 副 艦 長 リ コ ル ド
︵
コeTp
1l Ba HO BH 'I P
HK
Op
. D. )
の助力によっ
て よ う や く 釈 放 さ れ た
° ゴ ロ ヴ ニ ン と 同 様 に リ コ ル ド も ま た
その航悔記録を出版した°ゴロヴニンの手記﹃日本幽囚記﹄
は︑幽閉の記録以外に︑
こ の 国 家 と 民 族 に 関 す る 若 干 の 梢 報 と 日 本 語 研 究 上 の 多 少 の 賓 料 を 含 ん で い る 1 6 1 0 右のバルト
リド教授の記述中︑レザーノフの対日交渉失敗の
一因として︑オラン
ダ 商
人の
干 渉 を あ げ て い る が
︑レザーノフ来航当時(KO四•文化元年)、長崎の日本商館付甲比丹をつと
めていた︑
ヘン
ドリ
ック
・ドゥーフ(
He
nd
ri
k
Do
e ff )
は︑そ の﹃回想録﹄において︑つぎのように記録している︒
フヴォストフ文書考 レサノッフ氏は政府・
亜 細 亜 領 地 評 説 員
・及 艇 国 駐 在 和 蘭
公 使 の 祁 状 を 予 に 渡 せ し が
︑ 此 等 は 皆 レ サ ノ ッ フ 氏 を 親 切 に 待 遇 す る こ と 及 其 計 画 を 指 助 す る こ と を 切 に 勧 告 せ り
° 予 は
' 此 等 の 芯 状 に つ き て 熟 考 せ し 結 果
︑ レ サ ノ ッ フ 氏 に 対 し て は︑ 露 国 の 使 節 と し て 出 来 得 る 限 り 親 愛 の 情 を 示 す こ と と せ り0
さ れ ど 第 二 の 点 に 閑 し て は
︑ 予 は 欧 州 の 政 府 よ り も 日 本 の実情を熟知するを以て︑
特 に 之 を 考 應 す る こ と
︑
又一般
外
国 人 に 対 す る 態 良 に つ き て
︑予て予がバタヴィヤより受けた
る 命 令 を も 考 胞 に 囮 く こ と と な せ り
° 予 は 日 本 に 在 留 を 許 さ れ た る 唯 一 の 欧 州 国 家 の 商 館 長 な り
° 然 し て 予 は 其 の 法 度 及 古来の慎例が
︑ 他 の 欧 州 国 民 の 入 国 を 厳 禁 す る こ と を 知 る
o
今 若 し 我 等 が 鋸 国 人 の 為 に 仲 介 の 労 を 執 ら ば
︑
日本人は我等 和 蘭 人 に 対 し て 如 何 な る 感 想 を 作 す べ き か
° 此 事 が 疑 深 き 日 本 人 を し て 我 等 に 対 し て 疑 念 を 抱 か し め ざ る べ き か
° 恐 ら く 役 等 は 函 国 人 を 拒 絶 す る 他 の 理 由 を も 考 出 せ ん
︒ 即 ち 彼 等 は
蘭露両国が日本帝国に対し︑共同して陰謀を企つるが為に︑
我等が●竪国人の諮願を援助するものと確信するに至るべし︑ 此 故 に 予 は 日 露 間 の 一 切 の 交 渉 及 後 者 の 企 図 に つ き て は
︑ 全
然関係せざることに決心せりり︒
さらに
︑ドゥー
フ 商 館 長 は
︑ ロ ツ ヤ 遠 征 隊 に た い し て は
︑通
商 以 外 の 件
︑すなわち長崎滞留中のか蹄船の碇泊地の安全︑
乗 組 員 へ の 食 粗 の 供 給 な ど に 十 分 の 配 感 を 行 な っ た 事 実 を 記 録 し て いる°従って︑ド
ゥ ー フ の 態 度 は 至 っ て 公 正 で あ り
︑レザーノ
‑ 5 ‑
フの対日交渉を妨害した証拠は見出だし得ないのである°ロジ
ヤ側は︑オラソダ人が日本との交易を独占しているという先入
観に加えて︑オラソダ側が甜極的にロジャの通商交渉に協力し
なかったことから︑交渉失敗の一因をオランダに帰したのであ
ろうが︑これは飛躍した見解というべきであろう0バルトリド
教授のようなすぐれた学究が︑オランダ側の態度に疑義をさし
はさんでいるのは︑いかなる根拠にもとづくのか不明であるo
筆者としては︑むしろバルトリド教授が指摘しているように︑
レザーノフ使節とクルーゼンツュテルン遠征隊長との間の意見
の相迎ーーこれは︑とりもなおさずロジャ
11
アメ
リカ会社の立
場と
︑ロ
ジャ本国の軍事的見解との相違を示すものとみて差支
えないとおもうが︑こうしたロジヤ側内部の不和もまた看過し
えない事情であると考える°柏民政策の実力者が︑
対日通商を
主眼としたのは当然であろうが︑一方︑ロツヤ最初の世界周航
という壮挙のリーダーにとっては︑対日交渉だけがすべてでは
なく︑バルチック海から太平洋へ︑
さらに北方
︑南方海域の十
分な学術的調査という大きな指標を掲げていたことは明らかで
ある°クルウゼンシュテルンの計画が︑いかに辿大かつ周到で
あったか︑また︑彼の遠征隊によってもたらされた成果が世界
史的意義において評価される所以は︑﹃クルウゼンジュテルン
日本紀行﹄の訳注者羽仁五郎氏の巻頭序説に詳しい凹0ドウー
フ商館長は
︑レ
ザーノフ使節にたいする日本側の態度に言及し
て︑ 斯かる間に一八
0
五年となりしが︑未だ何等茄府の決定を聞かず°されは使節の忍耐し難きも当然にて︑通詞及番所衆は回
答の遅延につきて閣下の機嫌を損ぜらるやう苦心せり°我等和
曲人は︑日本人との交渉に於て︑斯<緩慢なる多くの慣習の避
け難きを知るを以て︑之に恨らさる°然れども強大なる皇帝の
使節として派造せられたる者をして︑六ヶ月間も回答を待たし
むるは︑実に不都合といふべしo︵中略︶遂に二月に至りて︑
我等は江戸より近日使者の来ることを知りたり°奉行は厖国使
節に会見を許すに当り︑予の乗物を借用せんことを所望せしが
故に︑予は直に之を承諾せり0されど江戸より使者︵遠山金四
郎︶の到着は遅延して三月末となり︑従って使節の出頭は四月
四日︵西暦︶となりたり°其際日本官憲の外国人に対する疑心
は極度に現はれ︑使節の行列の通行する所︑人家は総て簾を垂
れて閉
し ︑
小路の分るA所は板を以て塞ぎたり°又長崎の住民
は行列に近き街路に出づることを厳禁せられ︑職務上已むを得
ざる者の外は︑身体を現はすことを得ず°故に臨国人は市街も
住民も地も視察すること能はざりき°斯かる周到なる警戒によ
りて予は使節の交通自由の諮願は聴許せられざるものと察知せ
り団°とのべて︑日本側の強硬な姿勢を伝えている︒幕府
のほ
とんど非礼に近い態度については︑司馬江悦が﹃春波楼筆記﹄
にお
いて︑
魯西亜の使者を半年長崎に留め上陸をも免さず︑其の上彼等
が意に戻り︑且其の返答甚だ失敬︑不遜︑魯西亜は北方の辺地
不毛の土にして下国なりと雖も大国にして屈国も亦多し︑
一概
に夷秋のふるまひ非礼ならずや°レザノットは彼の国の王の使
者なり︑王は吾国の王と異ならんや︑
夫 礼 は 人 道 教 示 の 恭 と
す︑之を榜へば位官正しきに裸になりて立つが如し︑必や吾国
の 人 を 彼 等 究 獣 の 如 く 思 ふ な る べ し
︑ 嗚 呼 慨 哉
⑩
o
と長歎息
し︑松平定信もまた﹃婆心録﹄に︑
日本の人は砧せは︵ま力︶<してオ小也︑故に只船とても岸
をはなれずこぎ行たぐひにて︑江戸のものは︑かな川の海さへ
しら
ず︑
又みる事を欲せず︑其心をもて蛮梢をはかる故皆大に
馴甑す︑︵中略︶ヲロシャも日本へは不通と諸蛮国もいえば是
非通じたく思ふはもとより人情也︑ことに紅毛日本に通ずる故
にて富を極む事︑蛮国皆こぞりて羨む所也︑故にヲロシャこれ
には毀をいとはず何十年の力をもてやうやう先頃長崎へ至り︑
このたびこそ通商出来ることA思ひて︑すでに前年より諸蛮夷
へその旨ふれ造すほどの勢なり︑しかるにわけもなくおひかへ
されしかば国の面目を失ふによって大にいかりし也闘°と論じ
て︑当時の祁府当局の井底蛙風をいましめている°従って︑鎖
国制度下の日本においても︑一九世紀初頭ともなれば︑かなり
海外の事箭に通じた識者が悲出し︑各々一流の批
判精神
を発椰
して︑日本の国力を前進させようと念じてやまなかった︒
一八〇六年︵文化三年︶秋︑レザーノフの部下で︑ロシャ
I I
アメリカ会社附の海軍大尉ニコライ・アレクサンドロヴィッチ
フヴォストフは︑フリゲート艦ュノナ
( e
p er ar︽f
Ot to Ha︾
)に
フヴォストフ文害考 駕して︑突如サ
ハリ
ン︵樺太︶島南部アニワ︵楠渓︶湾の日本
部落を急襲
した︒本件は︑翌文化四
年︵
一八
0七
︶に
︑ ジ ラ ヌ ジ
︵白主︶巡検中の松前藩北蝦夷地支配役柴田角兵衛によって︑
はじめて藩主に報告された︒このとき︑都府は︑フヴォストフ
署名の樺太占領宣言に接して葱倒した︒しかも︑この年の春︑
またもやフヴォストフと士官候補生ガプリール・
イワ
ーノヴィ
ッチ
・ダヴィドフのユノナ︑アヴォス
(T
eeHA︽p
AB 0C
b︾
)両
艦による
ニト
ロ
フ島その他の攻撃が繰返され︑ナイホ︵
内浦
︶
︑
ジャナ︵紗那︶︑ルウタカ︵留多加︶の各地で掠奪を行ない︑
レプンジリ︵礼文島︶沖では︑松前の
商船宜幸丸
︑
藩船貞祥丸
を製って釈荷︑武器を奪い︑さらにリイシリ︵利尻品︶沖で︑
官 船 万 春 丸
︑商船誠竜丸を焼打に
か け る と い う 暴 挙 に 出 た
︒
﹃日露関係
北日本史料
﹄の著者ポズドネーエフ教授
(J l: HM
!U pm ',
¥
M•コ03AHeea)
t !
︑﹃文
化度蝦夷日記﹄︵一八0B
ー一
八一
八︶
︑
﹃文
化
乙丑魯西亜人渡来記﹄︵一巻°一八〇翌推定︶︑﹃千葉政之進節記﹄
︵一
巻°
一八
0七
︶
︑﹃蝦夷文化
録﹄
︵一 巻︶
︑﹃蝦夷地騒動聞書実録﹄
︵ 一
巻°
一八
0七
︶
︑﹃蝦夷記聞﹄︵四巻°一︿O
匹
︶
︑
﹃同 上﹄
︵五 巻° 八一
〇 七
︶
︑﹃蝦夷乱届書﹄︵一巻°一八0四‑1<1<)︑﹃蝦夷騒擾邸報﹄
︵ 一
巻°
一八
0七
︶
︑﹃蝦夷騒乱
記﹄
︵一 巻︶
︑﹃蝦夷裸記﹄︵一巻︶︑
﹃東 蝦
夷クナツリ島乱﹄︵一巻︶︑﹃北舒小誌﹄︵二巻︶︑﹃北密小
誌抄
﹄
二︵
巻︶
︑﹃
北地
実記﹄︵二巻︶︑
﹃北 磋
小
録﹄
︵一 巻︶
︑﹃
北陣杞
憂﹄
︵一
巻°
一八
0七
︶
︑﹃北秋肺肝﹄︵姫路滞一色広信撰°一五巻°一八五
六 ︶
︑
﹃氷海製盗記﹄︵新楽間斐撰°一巻°一八
0七
︶
︑
﹃夷 乱事 略﹄
︵
一
巻°一八0七—KO八)、『伊藤見達筆記』(一巻oI
^
O七︶
︑﹃ 海防 至要 秘録
﹄︵ 二巻
︶
︑
﹃観 火録 附録
﹄︵ 一巻
°一 八
0 1︱
‑︶
︑﹃
嘉陵
腹談
︵﹄
ニ
巻°
一八
〇八
︶
︑
﹃見 達物 語﹄
︵二 巻︶
︑
﹃休明光記﹄︵羽太正毅撰
0九
巻°
一七
究ー
一八
0七
︶
︑﹃休明光記附録﹄︵羽太正旋撰°一巻°一八
O ‑︱l)︑
﹃休明光記附録別
巻﹄
︵四
︶巻
︑﹃休明光記追稿﹄︵六巻︶︑
﹃目
さ
まし』(一巻°一八0七)、『二斐諒奇』(久保田見達•新楽問斐共撰°
五巻
︶
︑﹃大村治五平口書﹄︵一巻°一八0
七 ︶
︑﹃俄羅斯人蝦夷乱記﹄
︵三
巻︶
︑
﹃俄羅斯人応接上申書﹄
︑﹃俄羅斯人取ヵワセ書付﹄
︑﹃ 佐
口宗四郎上
書﹄
︵一
巻°
一八
〇六
︶
︑﹃靖北録同拾追﹄︵六巻︶︑
﹃丁
卯 筆記
﹄︵ 一巻
°一 八
0七
推定
︶
︑
﹃秋 艦事 略﹄
︵七 巻︶
︑
﹃東 奥辺 諏異 事﹄
︵二
巻︶
︑
﹃通航一覧﹄︵林輝編°三二二巻
・附
録二
巻三
°一
八五
︳︱
‑︶
︑
﹃野
人
独話
﹄︵ 一巻
︶
︑﹃有北紀聞﹄︵一巻︶︑
﹃未
曾有
後記
﹄(
‑︱
︱ 巻 ︶
︑﹃続未曾有後記﹄︵二巻︶などの写本を︑主として﹃国書
解題﹄および﹃続々群書類従﹄第四巻によって掲
示している⑬o
しかも︑これらの写本のほかに︑内閣文庫や市立函館図書館そ
の他にも多数の文献が収蔵されていると推定されるので︑
フヴ
オス
トフ・ダヴィドフの事件が︑当時の日本に与えた反野がい
かに朝野を席捲したか想像に難くない︒文化五年から翌六年にかけて︑間宮林蔵︑松田伝十郎の樺太探検が行なわれ︑幕府の
蝦夷地経営と北辺野備が本格的なものとなったのは当然である
が︑文化八年のクナシリ
島 に お け る ス ル ー プ 艦 デ ィ ア
ーナ
( E
臼o n
︽ 昔
at ta
︾)艦長.コロヴニソ少佐
(Ba
CH JJ II H 1M 1xa i 1
,
角O
BI
!'
! f
g
OB HI IH
)以下七名の捕縛によって︑日露間の紛争は 頂点に達したかの観を呈した︒文化九年には︑副艦長リコルド
︵コ
eT p l1 Ba HO B1 i'
! P
mr np . l l )
によって︑観世丸の船主高田屋嘉
兵衛と水主四名が捕えられ︑カムチャッカヘ連行された︒しか
し︑嘉兵衛は終始沈店に善処して︑リコルドの信頼と尊敬を
得︑リコルドもまた︑その手記から判る通り︑分別のある高潔な士官だったので︑彼我の真剣な努力が効を奏して︑日
r p 踏 関係
は一応和解の段階に到箔した囮°かくて︑
フ ヴ ォ ス ト フ 事 件
は︑
ロ ジャ帝国の意志とは無関係であるというロシヤ側の申出
と︑オランダ商館長ドゥーフの証言によって︑三年間にわたっ
たゴロヴニン幽囚事件も解決し︑文化一
0
年の帰国となったわけである︒この間の迂余曲折に関しては︑わが国では勿論
︑ロ
ジャ
︑
オランダその他にも幾多の記録や研究が発表されている
ので
︑
フヴォストフ文害そのものの考察を焦点とする本稲にお
い
ては
︑以上の概述にとどめたい︒
本文書は︑既述の通り︑色あせた一葉の美涙紙(68X 28cm)
に墨書した涵文の害付︵口絵参照︶である°紙面の左肩
上に︑和文で小さく﹁銅板ノ字﹂とあり︑その下に印刷体の露文が四行︑行を改めて︑やはり和文で﹁仝﹂の字が見え︑その下
に同
じく印刷体の露文が五行︵以上はいずれも銅板から転写し
たも
のと考えられる︶︑さらに行をおいて︑比較的長い
吋峠 文が 記筆
I l
大 槻 玄 沢 追 物 フ ヴ ォ ス ト フ 文 書 に つ い て
体で認められ︑フヴォストフの姓で終っている
︒まず
︑
本文書
の全文を邦訳するとつぎの通りであるo
︹銅板ノ字
︺ 一 八
〇 六 年 一
0
月一
0
日︑ロジャのフレガート
•ユノナ当地に来航し、一村落をcyMttem1e八疑惑Vと命 名せり
0
〔仝〕一八0六年一0月―一/二三(新暦—ーー訳者)日、ロジャのフレガート•ユノナ当地に来航し、一村落を』I060 , I Tb l TC TB
八好奇O
V
と命名せり
0
一八
0
六年
一
0
月︱︱/三︱‑日︑海軍大尉フヴォストフ 指揮の下に︑ロ
ッャのフレガート・ユノナは︑サハリソ島
ならびに
同
島住民等の
ロジヤ皇帝アレクサンドル一世至仁
の庇設下に服厖せる証として︑アニヮ湾西岸に位置する一
村落の
長老にウラジ
ー
ミル綬銀褒章を授与せり°溺今来航
の一切の船舶は︑ロジヤ船たると外国船たるとを問わず︑
右長老を遇するにロツヤ巨籍をもってされんことを請う0
ここに自署︑家紋押捺
ロツヤ海軍大尉
上記の訳文中︑
cy Mt te 1r ne
︹スムニィエーニエ︺︑J
l l0
6o nb1 T ' CT BO
︹ス リュボプイトト
ヴ ォ
︺ は
︑ そ れ ぞ れ 英 語 の do
ub
t ,
cu
rio
isty
に相当する︒︹
銅板ノ字
︺以下を第一文︑︹仝
︺以下 フウォストフ文害考
フヴォストフ
を第二文
︑筆記体の部分を第一一︳文と仮称することとして論を進
めたい︒第一文については
︑ゴロヴニソの手記に︑つぎのよう
な記録が
見られる
︒ただ
し ︑ 年月日を欠いて
い
る ︒ 貞助と熊次郎が
︑日
本紙に芯かれたつぎのような写しをも ってきた°ー「ロシャのフレガート•ユノナ当地に来航し、
当村を疑惑の村と命名せり﹂
I
ー我々は︑フヴォストフが日 本の或る一村落に︑このような銅板の文字を残して行ったこ
とを知らされた0日本人ぱ我々にその意味を説明するように
所望した°ここで︑
我々は新
たな困難に遭遇したo
﹁疑
惑の
村﹂という名称をどう説明したものか︑また︑日本の村がこ
うした風に呼ばれたのは何故であるか
°我
々が︑疑惑という
言葉の意味を
日本人に
説明することに成功
したときでさえ︑
彼等は︑彼等自身で我々が意味をとり違えなかったかどうか
疑っていた︒というのは
︑
彼等にしてみれば
︑
村の名称など の場合に︑こうした言策が用いられることは不可能だと考え
ていたからである°我々もまた我々で︑
同じくフヴォストフ
が
こんな文句を使
った理由は皆目判らなかった°我々が︑こ
の銅板の筆者の意向がわかるロシャ人は一人もいないと確信
した際にも︑彼等は︑
我々が欺むこうとして
︑なにか我々に
不利になることを置そうとしているのだと疑っていた︒この
仕事には数日を費やした閥°
‑ 9 ‑
以上は︑文化八
年一
0
月末ごろ
︑ゴロヴニンが松前幽囚中に
取調べを受けた時の記録で︑リコルド副艦長が︑ゴロヴニンに
宛 て て 救 援 の 決 意 を し た た め た 書 簡
や
︑ ラ ク ス マ ン
(A .l la M K1 1p HJ JJJ OB H' I Jl aK
CM
aH )
来航当時︵寛政四年︶︑
根室で病死し
た乗組員のために︑エカテリナ号
(Tp a1
‑1 cn op T
︽E
1r nT eapmr
︾ )
船長ロフッすフ(
fp r‑1ro p1 1f 1 JT os Qo s)
が刻んだという墓標な どが持込まれて
︑釈明を要求されたころの挿話である°松前の
産で︑村上貞助という年少気鋭の通詞が︑はじめてロジャ語を
習いだしたのもこのころで︑アイヌ語の通詞上原熊次郎ととも
に︑
ゴ ロ ヴ ニ ン の 手 記 に し ば し ば 登 場 す る
︒ 前 掲 の 文 中 に
︑
﹁フヴォストフが日本の或る一村落に︑云々﹂とあるが︑この
村というのは
︑本文書の年路雁日附﹁一八〇六年一
0
月一0
日︵文化三年九月一
0
日︶
と﹂
︑﹁唐太島蝦夷申口の趣舌付写﹂に
よって判断すると︑オフイトマリ︵旧雄吠泊︶のことである︒
すなわち
︑
去秋雪も少々降り候時分︑異国船一艘唐太島東浦オフィ
トマ
リと申す所え相黙り︑同所に蝦夷家一軒有之︑チウラフシクル
と申蝦夷人住居致し候処︑梱船にて異国人共上陸いたし︑内え
入心易く何事か申候て︑チウラフシクル枠を船え辿行候間︑親
共不相成旨申候処︑鉄砲を打おどし候て︑無理に船え乗せ︑右
蝦夷家え真鍮の様なる札を懸︑同所出帆いたし︑夫より一里半
程隔︑クシュンコタン︵旧大泊楠渓ーl箪者︶番届の沖え昼時頃 相繋
︑其日は上陸の様子祖見不申候︑翌朝橋船三艘にて異国人 共上陸いたし︑
番人へ何か申
︑
商ひ々々と申候得共
︑
訳も不相 分︑番人共飯を出し候処︑給不申候︑其内頭立たる者懐中より 何か芯付を取出し︑長崎︑松前と申︑其外は相分不甲候
︑︵中 略︶番人を述行候後︑祓に有之米︑洒︑煙草︑
共他諸品鉄物等 異国船之苗入
︑其後番屋其外共火をかけ︑弁天社をも焼払︑神 体は持行侯様子に御座候︑鳥居相残し︑
其限に真鍮の様なる札 二枚︵これは︑オフイトマリの蝦夷家と︑翌日のクシ
﹃ 一
ンnタ
ンの弁天社に四残したものを指すのであろう°従って
︑本
文害
の第一文と第二文の日附には一日の差がある故
︑村上
貞助
︑上
原熊次郎がゴロヴニンに示した銅板の写しは︑オフイ
マト
リに
あったものと推定される'̲鍬者︶其他共宗谷へ持参致候
U S l
︒と
見えている︒これは︑文化四年五月︑
箱 館 奉 行 支 配 調 役 深 山宇 平 太
︑
同 下 役 小川 喜太郎が
︑
樺太から宗谷に移住
し
た蝦夷人
リ
リカアイノ︑ョッタウヱンクル両名の陳述によって書いた報告
芯である︒さらに︑同年六月の箱館奉行戸川筑前守︵安倫︶︑
羽太安芸守︵正養︶の上申書には︑
右残し骰候品々︑カラフト品夷人とも︑ソウヤえ持参の品も
御座候処︑同所懸り支配人へ差
出候
由︑
右の者共
低支配向ソウ
ヤ洛以前に︑
カ ラ フ ト 島 え 航 海 仕 候 間
︑ 難 和 分 候 に 付 取 寄 候
様︑ソウヤ詰松前若狭守家来之支配向より申談爵︑
先別紙の通
様子申越候趣の処︑引続右異国人残霞候鉄砲一挺︑
絵図並鋲鍮
の板金二枚︑浅黄地
厚紙に認
︑
朱印等有之品三枚
︑
若狭守家来
より取揚候由にて︑
支配より差越候間
︑
差 上 申 上 候 囮
° と あ
る︒なお︑文化四
年六月二五日附の﹁松前若狭守御屈﹂にも
︑
﹁唐太島に罷越候私家来︑新谷六左衛門え申逍取寄
︑則鉄砲一
挺︑銅札二枚︑
紙札三枚︑同廿日今井新右衛門持参﹂間とある
から︑
フヴォストフが文化三年に樺太島に置残した銅板は二
枚︑
書面は三枚であったことがわかる°本文書の第一文
︑第二
文は︑従って銅板の写しであり︑
第三文は紙札の中の一枚を写
したものである︒第二文は︑
兜者が参看した史料には見当らな い部分で︑
第一文もまた本文也通りの日付のものはない︒﹃通 航一既﹄その他の記録では︑フヴォストフがはじめてオフイト マリに上陸したのは︑
一八
0
六年
一
0
月︱
一日
︵文
化一
︱︱
年九
月
︱一日︶となっているが︑銅板に関する限りは︑一八〇六年l
0
月一
0
日が正確な記録とされている⑱oいずれにせよ︑第一︑
第二文ともに﹁疑惑﹂とか﹁好奇﹂と
かいう抽象的な表現をしている点は注目に値する︒いささか独
断的推測になるが︑フヴォストフにしてみれば︑あるいは蝦夷 部落にたいする関心をそのまま表現したまでで︑格別に深い仔 細とてなかったのかも知れない︒いわば︑はじめての土地に上
陸したときの﹁疑惑﹂なり﹁好奇﹂なりの印象を︑文字通りに
部落名として用いたものとも考えられる岡°蓋し︑フヴォスト
フの攻想が︑実際にロジヤ帝国の意志にもとづく行為であった
ならば︑
蝦夷部落の名称にはおそらく客観的で具体的なものが
用いられていたであろう°だが︑本文忠の第三文に︑皇帝アレ
クサンドル一世(
A Ji e K ca H . 11 p
I,
一八
0 ‑
I
二五在位︶の名がフヴォストフ文杏考 明示されている以
上 ︑
当時の日本側としては︑フヴォスト
フ事
件は︑
ロツヤ帝国および皇帝の意志によるものと見倣し︑右の 蝦夷地名称問題の曖昧な点を追求したことは至極当然の成行き
であった︒けれども︑
現在では︑ゴロヴニンの釈明以外にも
︑
直接フヴォス
トフ
およびダヴィドフに接して日本製撃の経緯を
明らかにした︑
チフ
メ
ニョ
フ︵
コe︑rp
AJ ie Kc aH np oa w1
Tn x
Me
,
He
B)
やラングスドルフ
(L an gs do
r f ,
Ge or
g He
i nr i c h vo n)
の
記録が現存するので︑いわゆるフヴォストフ文雹なるものが︑
彼個人の非公式な私文書であることを認めることができる凶°
これを要約すれば︑日本との通商交渉に失敗したレザーノフは
︑
一八
0
五年七月一八日附の害簡を︑皇帝アレクサンドル一世に送 附 し て
︑
実力行使による日本との通商打開計画を進言したと
ころ
︑
皇帝からの裁許も得られず
︑ついに一八
0
六年八月︑部下のフヴォストフ︑ダヴィドフとともに︑ノヴォ
・アルハンゲ
リ
スク港を出航して日本遠征の途についた訓
o
しかるに︑レザーノフは︑オホーツク港に到舒後
︑にわかに
方針を変更して︑
九月二四日附のフヴォストフ宛書簡を残
し
て︑
陸路ペテルプルグヘ向け帰国の途についた︒右の書簡の要 旨は︑ サハリソ島へ遠征する時期は︑前播の故障と逆風による 航行遅延によって既に逸したので︑費官は直ちにノヴォ・
アル
ハンゲリスク迷へ帰航せよ°ただし︑順風であれば
︑
サハ
リン
島へ赴むき︑
住民にメダルや贈物を与えて︑日本の楡民地を視
察すればさらによい︒だが︑常にロジャ
1 1ア メ
リカ
会社の利益
を念頭において行動するように
︑
とのべられていた四°フヴォ
スト
フは︑この曖昧な二重の訓令に困惑して︑早速
とし 問しよう
t L
たが
レ︑
ザー
ノフは早々に出発した後で︑
何の手がかりも
得られなかった︒そこで︑彼は別段全面的に日本遠征を停止さ れたわけではないと判断して
︑
ただちに予定通りサハ
リンヘ南
航したというのである四°
レザ
ーノフにしてみれば︑
皇帝の裁許なくして日本へ向かう ことは不安だったろうし︑同時に初志を全く徹回することもま
た残念だったのであろう0従って︑
フヴォストフならば自分の 意図を汲んで行動するであろうし
︑万一の場合には自己の責任
を免がれ得ると考えたものと想定される°
レザーノフは︑アレ
クサンドル一世の父︒ハーヴェル一世︵コ
a se J I
I,
七一
染ー
一八
0一 在
位︶の治世に︑
すでに︑合同アメリカ会社の設立を建言して許
可され︑
一七九七年︵寛政九年︶に
︑このロジヤ産業資本の代
表機関が創設されていらい
︑
その権勢は当代随一と称せられて いた︒だが︑アレクサンドル一世もまた︑史家ヴェルナドスキ ーがのべているように︑民族国家の自由な連合を理念としてナ
ボレ
オンと闘争し︑その政治的知性と鋭利な独断を駆使した皇 帝であったから︑レザーノフの急進的な対日策には似重を期し て裁下を与えず︑もっばら対フランス
︑対トルコ問題に専念していたわけであろう四°
従っ
て︑
フヴ
ォ一
︿
トフの日本襲撃は︑
ジロ
ャ
皇
帝の意志ではなくて︑レザーノフ個人の独断に端を発 していることは明白な事実であり︑しかも彼が腹心の部下に自
己の宜任を転嫁した当然の結果として︑フヴォストフ文書のよ うな怪文因が日本側に残されたわけである°蝦夷地名称問題の
ごときも︑フヴォスト
フの主観によって処理されたために
︑日本側の常識では到底判
断の及ばない厄介なものとなり
︑ゴロヴ
ニンも流石に悲鳴をあげる始末であった︒
もっとも︑ゴロヴニンがはじめてフヴォストフ文書に接した のは︑文化八年八月三一日
︑
箱館奉行の訊問の際である°通詞 上 原 熊 次 郎 か ら 手 渡 さ れ た 一 枚 の 書 面 を
︑ ま ず ム ー ル 少 尉
( e g
op
C l >
g
O0BJFI pM )yp が読みあげた︒その内容が︑すな わち本文忠の第三文に該当する︒この文忠をめぐって展開され るロツヤ側の必死の抗弁は
︑
ゴロヴニンの手記の前半では興味 のある圧巻となっているが︑長文なので
︑その一端を要約してのべておこう0
一 ロ ジ ャ は 強 大 な
国家であるから︑少数の人間に命じて他
国の部落を製撃するなどという姑息な手段を執る筈はな
︑
0しニフヴォストフの文書中に認められるウラジ
ーミル綬銀褒
章は︑もしそれが正式に外国に適用される場合には
︑
一洵
軍大尉から手渡されるような手続は用いない︒
―――フヴォストフ指揮のフレガート
•ユノナ号が、皇帝の軍艦であると断ずる根拠はない°
フレガートは船型の呼称で あって︑広く商船の場合にも︑また単に個人の持船の場合
NS.
フヴォストフ文杏考
. ,
,ao5 ,o., ● o,m,6p• H ,., Pocciur.,;;, 中pmm>
"1‑0HOHO, ... , ... ,cm,o心 中.,oma'"''"''""''・""ふ ← ,.cuw,a, n ,.,. 訳,."P""'"'i'ormpo,o Cu>aAuHa• ,. ••
.,'"'・"" o.,arn no心UCCMU,¥OCW"'"'山" nn●P"● ""''心cm●0
,.l'occii,c, ん,oIIヽ"
'
"バo≫A.nxc,,.,ぃ n,,,.,.• ,,.cw,pw
● " ' ' " ' ●
i• Ha ""'A"••• 6•p•'"f ,y6w''""'" ," . . ,.,,. ●●真•C中,Gp,町
K > ' " ・ " "
H● Buが,.;pc•••,¥K • .,mt. Bじ9●oe spy,oeop● , . , ● ' " " cy,'"o, "'"'l'ucd,>,・xoo ,, ma.-• ""ocmp,,.,..,, "P"•""'cm,pw""Y m o "P""""I'..
Mam
● ,a uccwcxa,o oo
ぶ . . .. , . .
no,n● .... ,
l
,,,.PA ucum,HaHmOcciucxa,o炉入oma,ocmo,o. . .
,.y c m
" P " " " ' " '
,. ,ep6• 中
, . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . . . 0
戸 ,~---1
|—— I
(第一図) ゴロヴニン『日本幽囚記J0816)所収
にも適用され得るo
以上の反駁にも若千隙があって十分なものとはいえないが︑
しかしゴロヴニンは︑﹁もし我々を信じないならば殺
し
てく
れ°
死は我々の恐れるところではない︒おそかれ早かれ事態は明白
になるだろうjと唆呵を切っている︒
ところで︑ゴロヴニンが記録した原文︵第一図︶閻と︑本文書
の第三文とを比較すると︑
字句の点では﹁アニヮ湾西岸の村﹂
(c
eJ Je mr n , rn 3a na .l lHO M 6e pe ry r y6 b1 A HH Bb I)
が前者︑﹁ア
ce JJ eH H JJ e) Ka ma ro H a 3a na .l (H OM
ニヮ湾西岸に位爾する村﹂︵
6e pe ry
B
ry
6e
A1 1H Bb 1) が後者となっている以外はほとんど
同一であるoC
g
eH Hl l
が︑後者で
ce Ji eH ll
となっているのは︑
後者のあやまりであるここは論をまたない︒また︑前者には最
初に
N
5
の番号があり︑日付は︑﹁一八0
六年
一
0
月︱二
/ニ
四日﹂と
なっている︒さらに全文の下には
︑
中 央 に
@
︑ そ の 下 に 図 自
の旗
印8が印刷されているが︑後者にはなにも認め
られない︒
N
番号はフ文書の枚数を示すもの5のフヴォスト︑
であろう0
既述の通り︑松前若狭守の記録その他に﹁銅板二校︑
紙札一一︳枚﹂とあるから︑本文書の第一︑第二文が銅板の
写 し で︑第三文およびゴロヴニン記録の原文は︑紙札三枚のうちの それぞれ別の一枚を写したものと認定される︒また
︑深山宇平
太︑小川喜太郎迎名の報告害︵前掲︶のつぎに︑
﹁真
鍮版
其訳
文﹂
r a n
として第三文に該当する内容が意訳されているが︑後半に誤 訳が認められ︑訳者の名も誌してない°標記の﹁真鍮版﹂とは 銅板のことであろうが︑それにしてもこれは銅板のものではな く︑紙札からの訳文ではないかとおもう0日付は﹁一千八百六
年十月廿四日﹂となっている︒ところが︑同じく﹃通航一団﹄
第七•巻三0
二に収録されている上原熊次郎の訳文「文化三丙
寅年︑魯西亜人北蝦
夷地へ渡来乱妨之時
︑同所クジュンコタン
乙名え︑魯西亜人より相渡横文字書付通弁書﹂には︑
北蝦夷地乙名分之者︑不残魯西亜
皇帝アリキサンドロヘリワ
コフに別心無之候付︑年暦千八百六年十月十一日騨竺眩⑫声年虹 侶北蝦夷地へ致渡来候魯西亜船
︑
船名ユノナ船中重役人ホフス
トフより︑し
るしのため北蝦夷地西方之方入江クシュンコタン
‑ 13 ‑
に住居罷在候乙名え︑銀銭一枚︑絹糸にて織候縞の真田一筋差
遣︑魯西亜国腹心の者に相違無之候付︑右為証拠此害付之ホフ
ストフ印形押樅候間︑魯西亜国其外之船北蝦夷地え渡来致し候
はA︑乗組之者え右芯付為見候はA︑
前芯の通相
心得可申︑右
苦面之控ホフストフ所持之銘啓えも記置候段︑脇芯に認有之候
魯 西 亜 海 上 役 人 役 名 レ イ チ ア ナ ン ト 名 前 ホ フ ス ト フ とあり
︑本文書の第三文と日付が一致してい
る ︒ 上 掲 の 訳 文 は︑文
化
八年
一
0
月に︑ゴロヴニンの協力によって作成された ものであるが︑ゴロヴニソの記録では︑日付が一日ずれているから︑あるいは︑フヴォストフは︑
同文の紙札を
︑一
0
月︱
︱ 日︱二日の再度にわたってしたためたものとも考えられるo 右訳文中に
︑﹁銀銭一枚︑絹紙にて織候縞の真田一筋﹂とある
のは
︑ウラジーミル綬銀褒章のことであろう︒なお︑
﹃視
聴草
﹄ 所載の﹁文化四年江戸風説の内﹂から︑典味ある記事を引用し
よう0
六月の末にや︑
蝦吏地より
︑赤人の建置し銅板二枚︑
紙札 三枚
︑外に日本文字の紙一枚⑳江戸え舒致し候山︑七月二日
按ずるに︑究政年間魯西亜を御勘定所え呼寄られ︑よませ国より帰国せし濶人なり︑
ゆへん一円相知れ不申由相答られしに文字はよめ候ても︑︑ 幸太夫
候旨︑其後桂川氏鱈町い加間麟咋gえ右の品々来り︑
御写に相
成候︑長崎阿岡陀大通詞二人被召呼可申取沙汰の処︑又々や
めに相成候︑写を長崎えつかはされ︑カビタンによませ可被 申趣に相成候よし︑右銅板は二枚同じ文字︑紙札も同じ文字
にて︑角に印と船印有之候よし︑さまざまの風説あり︑
一︑此度異国人の立たりし銅の札は︑六七寸ばかりにて︑
はりがねの如くなるものに字を打出し︑四方へあなをあけ︑
札に打付けたるものにて︑紙は魯西亜の字にてしたAめ︑脇
に印と船印を芯たり、其船印の形は零〗の如くのものなりと
いふ人あり︑また一人の説を間に︑船印ニヶ所にあり︑ある 蛮学の達人および幸太夫といふ者によましめられしに︑
彼岡
学人いかなるゆゑありしにや︑幸太夫にもよむことなかれと
いひしとなり︑拐曲学人も始終はかりよみ得たるよしを︑演
達せしとなり︑其故ほ始終よみ候へば︑処々差合多きゆゑに
隙然となし屈たりといふ四°
右の文中に︑﹁右銅板は二枚同じ文字﹂とあるが︑これは同
じ函文で彫られているという意味で︑文章が同文であるという
意味ではないであろう0
さて︑大槻玄沢辿物フヴォストフ文書の筆者は一体誰であろ
うか︒何分にも︑今日まで永らく匝底に蔵されていた史料なの
で︑断定は困難であるが︑﹁銅板ノ字﹂﹁仝﹂の和文の晶色は硲
文と同一であり︑ロジヤ人であれば間違う筈のない文法上およ
び表現上のあやまりが随所に見られる点から︑
本文書の筆者は 勿論日本人であろう
0然らば︑桂川国瑞︵甫周︶か︑
それとも
蘭書訳局︵第叩い取潤所︶で︑大槻茂質とともに訳局員を勤めた
フヴォストフ文害考 馬場佐十郎
︵貞
由
・殻里︶の筆であるか︑おそらくはそのいず
れかであろうと推
定される︒前掲の﹁江戸風説の内
﹂
では
︑桂
川氏がフヴォストフ文害を写したことになっているが︑本文告
の露文の第記体は︑
まことに流暢で本格的な鰍法であるから
︑
相当に練達し
た者の手跡に相違ない°岡
村千曳先生は︑幸太夫
の筆跡とも異なるから︑
おそらく馬場氏の書ではないかと申さ
れた°馬場氏は︑和蘭
通詞であったが︑文
化一
0
年二月下旬︑新奉行服部備後守︵
貞勝︶の松前赴任に随行
して︑司天台雁局
の足立左内︵信頭︶とともに松前に到り︑ゴロヴ
ニン
から露語
を習得している︒このとき︑足立氏は︑
伊勢礫民大黒屋光太夫
将来の﹃露国国民学校用算術入門書﹄図を学び︑また︑通詞村
上貞助も︑その素質をゴロヴニソから認められていた︒馬場氏
コB 1
イソは︑文化一
0
年に︑﹁魯西亜冗老因口授馬場佐十郎節記﹂と註した﹃魯文法規範﹄五冊と︑﹃E
酪語
字典
﹄
︑﹃俄羅斯語小成﹄の
二巻
一︱
冊を網して塙府に献じ︑
足立氏は﹃魯西亜国字反切音
訳﹄を著わ
し ︑ 文政
七年に﹃魯西亜文字害﹄︑
天保六年に﹃魯 西亜辞書﹄を網集している°因みに
︑文化四年にニトロフ島で
フヴ
ォストフに捕えられた松前番人五郎次が︑
オホ
ーツクの医
師から貰ったという露文の種痘書は︑
馬場氏によって松前滞在
中に訳され︑
﹃ 遁
花
秘訣﹄と名付けられた︒この我国最初の牛
痘種痘書は︑嘉永三年︑
利光仙胞が﹃魯西亜牛痘全忠﹄と改題 して上梓した即°このように
︑文化年問には︑かなり多くの識
者が︑すでに露語を学んでいたので︑
本文書の箪者の鑑定は困
I l l
山 片 蝠 桃 旧 蔵 フ ヴ ォ ス ト フ 文 害 に つ い て
難である°序でながら︑本文書のず蹄文がどのように誤写されて
いるかを簡単に指摘しておこう
0
まず︑第一文第四行︵口絵
参 照︶
の中性名詞cy
MH eH HM は︑単数造格であるからcyMHeHH~Mとなるのが正しく、第二文第四
行の副詞3臼
ec b (h er e)
のつぎには︑接続詞H(a
nd )が必要 である°また︑第五行の中性名詞
J I I
06
0l lb ITCTB0は︑単数造格号60llb!TCTBO~となるべきである︒第三文は︑単語の間隔
が不明瞭だったり︑
pu nc
tu
a ti o
n
が不正確であったり
す
るほ
か︑cgem
r nがc︑
eJ Je
と誤記されている︒なお誰が付しm1︑
たものか︑二︑三加朱されている形跡があるが
︑第三行右側の
名詞
r rp ,r nH
翠ITぱ生格であるから本文書通りが正しい︒︑
本文忠は︑
昭和三二年五月︑筆者が大阪の愛日文即︵市立愛 日小学校蔵古︶を訪ねた際に調査したもので
︑洋学者の一人山
片小右衛門図の旧蔵史料である︒文書は二葉あって︑いずれも
厚手の和紙(39X 28
cm )
に星書された露文で︑保存状態はき
わめて良好である°本文書は︑
︵江
︶
一︑
去寅九月酉太島クツユソナイエ異国船渡来上陸致し番屋
焼払候節同新弁天社之華表へ掛悩し唐金板弐枚之内︵第二図︶
二︑
丙寅九月唐太島クジュンナイ番屋焼払残監し三通之内
︵第
三図
︶
‑ 1 5 ‑
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OI
フヴォストフ文書考 と︑それぞれ明記されているので︑一見してフヴォストフ文書
の写しであることがわかる︒ただし︑本文書の露文は︑きわめ
て癖のあ
・ 9独特な華跡で
︑このままでは判読困難な代物であ
る︒ところで︑本文書の一︑すなわち弁天社の華表へ掛置し唐
金板弐枚之内の一葉は︑前章でのべた大槻文書中の印刷体第一
文に相当する
︵第
二図
参照
︶
o
だが
︑後者と比較すると︑一
0
月一〇日の日付が︑
単に
一
0
月とだけ筆写されているのと︑c g
e H ( :! eを
ce J ie t te
と誤写し︑また︑
﹁疑
惑
﹂が
cy Mt
et
mr eM
と正しく
記されている点が注目される︒さらに︑
O
印が転写されているのは
︑本文書の一が︑銅板の写しとして独立した存在であるこ
とを示し︑五ヵ所の釘穴を︑原板通りに記録したものと解され
る︒また︑字体から判
断す
ると
︑
ロジヤ人が不器用な手で銅板
に彫りつけたままを︑転写したのではないかと推定される︒ま
た︑文法上の誤記︑運筆のたどたどしさから︑フヴォスト
フ自
身ではなくて︑無学な水夫が彫ったものではないかということ
も考えられるが︑この点は断定しがたい︒
つぎに︑本文書の二︑すなわち番屋焼払残置し三通之内
の 一
葉は︑大槻文書の鉦記体第三文﹁一八
0
六年
一
0
月︱
一/
三︱
︱
日︑海軍大尉フヴォストフ指揮の下に︑
云々
﹂
に 相 当 し ︑
また︑日付その他の点では大槻文書と一致するが︑旗印と
O
印の存在︑N o
が記録たフヴォストし ニンいる点では︑ゴロヴ
5
の槻示をそのまま記録てしフ文
書︵
第
二図︶と酷似してい
る︵
第三
図
参
照︶︒本文書の露文節記体は︑きわめて乱雑であるが︑こうした独得の乱れは︑筆写した日本人の悪筆ばかりではなく︑むし
ろ原
紙札の籠跡の癖を忠実に再現すべく努めた結果生じたのではな
いかとさえおもわれる︒この点の当否はさておき︑本文書もまた
完全に独立した存在であることを示している︒従って︑山片文書は︑大槻文書中の第二文︵前節参照︶を欠いているが︑いわゆる
フヴォストフ文書とし
ては
︑かなり原型に近いものではないか
ということ︑或いは大槻文書以前に︑直接に転写したものでは
‑ 17 ‑