一 は じ め に 二 実 証 主 義 史 学 へ の 挑 戦
□
社会学からの批判
① エ ミ ー ル
・ デ ュ ル ケ ー ム
② フ ラ ン ソ ワ
・ シ ミ ア ン 口 歴 史 哲 学 か ら の 批 判
① 方 法 の 探 究
目
次
2
9 9
、'~,3
︑'
︑ ' ︐
4
9 9
⑤ ア ン リ
・ ベ ー ル 口 歴 史 学 と 社 会 学 と の 論 争 三 ラ ン プ レ ヒ ト 論 争 と フ ラ ン ス
四
む す
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I D
.クセノポル
ポール・ラコンブ
︵以 上本 号︶
シャルル・セーニコボス
世 紀 転 換 期 フ ラ ン ス の 史 学 論 争 口
渡
辺
三九七
和
千J
ノ ー
7-3•4-785 (香法'88)
社会史パラダイムの成立を見るうえで︑
もない︒勿論︑この時期に新しいパラダイムが出現したというのではない︒社会史パラダイムが制度化するためには︑
リュシアン・フェーヴルによる﹁歴史のための闘い﹂を必要としたからである︒しかしこの時期に︑理論面では
史理論の批判的かつ実りある再検討﹂がなされたこどや︑実際面でも︑政治史や外交史を中心とした歴史から経済史・
文化史・社会史をも含めた歴史研究の﹁アプローチの多様性﹂が生じたことを看過すべきではないであろう︒
そもそも文献考証や史料批判に基づく政治史︵ランケ・パラダイム︶は︑
探究する歴史家の意志と︑
って凱歌を挙げたのであった︒
現わ
れた
︒
それは科学と民主主義の同盟︑歴史学と共和政との同盟として ところが勝利したランケ・パラダイムも︑政治問題から経済・社会問題への課題の変化︑社会学や心理学
という新興科学の出現︑唯物史観に依拠するマルクス主義の影響などによって批判に晒されるようになったのである︒
この批判から歴史論争が生まれ︑歴史学の再生が始まるのである︒このかんの歴史学の変貌のプロセスを︑われわれ
(5 )
は︑オーラールからジョレスやルフェーヴルにいたるフランス革命史研究のなかに窺うことができる︒それは史料に
基づく政治史から経済や階級を中軸としたマルクス主義的歴史︑
型的なプロセスであった︒ 一九世紀後半に︑学問としての歴史学を
(3 )
ナショナリズムを動員して国家の統一や近代化を達成しようという国家意思との一致によ
期がクローズ・アップされてきたのである︒今日︑ つまり︑ランケ・パラダイムに代わる新しい社会史パラダイムヘの過渡期として︑
(6 )
この時代に国際的な関心が注がれるゆえんである︒
は じ め に
一九世紀末から二
0
世紀初めの時期の重要性については︑贅言を要すまで
フランスにおいては︑
さらに先駆的な心性史への移行として要約される典
二九
八
この時
﹁ 歴
世紀転換期フランスの史学論争(一)(渡辺)
( 6
)
それを克服する道が模索され始めていたからである︒
時期のフランスでも同様の方法論争が展開されていたからである︒
本的モチーフや実証主義史学を捉える視点については︑
( l )
を打ちだせなかったとはいえ︑ フランス史学の状況を︑ラダイムを事実探求方法として︑
ドイツのランプレヒト論争ほど著名でも大規模でもないが︑
歴史学方法論の根本的な方向性 のちの仏独両国の歴史学の発達に大きな饗影を及ぼすことになるであろう︒筆者の基
(8 )
前稿を参照していただきたい︒
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6
(1 98 4) , 3 0.
( 3
) スターンはこの二つを︑﹁近代のすべての歴史家に響影を及ぽした二つの基本的趨勢﹂と呼んでいる︒
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96 4) , pp.
8
2‑ 84
. 麻中史家{へのマルクス主葬セり影響はヽアンリ・オl
ゼルに見 られる︒経済史を専門にしていたオーゼルは︑﹁カール・マルクスと史的唯物論の理論の影響を被らない者はいない﹂と述べてい た ︒
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(1 90 2) , 2 4.
( 5
)
前川貞次郎﹃フランス革命史研究﹄︵創文社︑一九五六年︶第七章︒G
.ルフェーヴル﹃革命的群衆﹄二宮宏之訳︵創文社︑一九
八二
年︶
︒ 一九八三年七月に︑歴史学方法論史国際委員会は︑この時期の歴史学方法論についての世界大会を︑フランスのモンペリエで開催
した
︒
この方法論争は︑
三九 九
同 実証主義的に理解し摂取したフランス歴史学も︑
この時期には︑
瑣末主義に陥り︑ ランケ・パ アプローチした邦語文献に︑
井上 幸治
︑
本池
立︑
この時期の史学論争は重要性を増している︒
(7 )
両氏のモノグラフがある︒本稿は両氏の業績をふまえ︑
ドイツ史学の状況を視野にいれつつ分析することを目的としている︒ フランスの現代歴史学の成立という見地からも︑
なぜ
なら
︑
この時期の このような視点から
7 ‑3•4 ‑787 (香法'88)
"
クセノポル︑
(1 )
な学問的事情があったのである︒ ボスとラングロワ︑
それではなぜ︑
社会学は批判者の位置を占めえたのであろうか︒
アンリ・ベールなどが︑
歴史の方法についての書物を出版した背景には︑ 社会学との関係という新しい問題を︑歴史家につきつけたのである︒
一八
0
九年代
に︑
ポール・ラコンブ︑
実証主義史学への批判は︑ 曰
社 会 学 か ら の 批 判
まず新興の社会科学たる社会学の領域からなされた︒社会学の学問的成長は︑
実証主義史学への挑戦
( 7 )
井上幸治﹁アナール学派の成立基盤﹂﹃歴史評論﹄三五四号︑
八二
年︒
( 8
) 渡辺和行﹁一九世紀末フランス史学を見る眼について﹂﹃香川法学﹄第七巻第二号︑一九八七年︒カルボネルは︑今世紀の﹁新し い歴史家﹂によって否定的かつ侮蔑的に用いられる﹁実証主義史学﹂の定義を鵜呑みにする怠惰な精神を批判し︑一九世紀後半の フランス歴史学の複雑さについて繰り返し論じている
( C h a r l e s
, Ol i v i e r
C a r b o n e l l ,
i s H t o i r e e t h i s t o r i e n s 1 86 5‑ 18 85 , To ul ou se ,
19 76 ,
p p .
40 1‑ 40 8. ,
D o . ,
" L ' h i s t o i r e < l i t e p o s i t i v i s t e e n F r a n c e '
̀ Ro ma nt is me ̀ N os .
2 1
ー
22 , 19 78 ., D o . ,
"
H i s t o i r e n a r r a t i v e e t h i s t o i r e s t r u c t u r e l l e d an s l' h i s t o r i o g r a p h i e
p o s i t i v i s t e u d X I X e s i e c l e , "
S t o r i a d e l t a s t o r i o g r a f i a N, o.
1
0, 1 98 6) . 等 キ
去 口
も ︸
カ ル
ギ 小
ネルの議論に賛成であり︑かれの論点
( h i s t o i r e p o s i t i v i s t
e と
h i s t o i r e p o s i t i v e との区別︶をふまえたうえで︑筆者は﹁実証主義 史学﹂という語を用いていることを付言しておきだい︒実証主義の語義については︑渡辺和行﹁フランス実証主義史学の成立とガ
ブリエル・モノー﹂﹃香川法学﹄第六巻第四号︑一九八七年︑を参照されたい︒ 一九七九年︒本池立﹁﹃アナール﹄への道﹂﹃思想﹄七0
二号
︑
四
00
このよう セーニョ 歴史学と
一九
世紀転換期フランスの史学論争(一)(渡辺)
年 ︶ ︑
﹃自
殺論
﹄(
‑八
九七
年︶
︑
周知のように︑社会学は当時︑誕生したばかりの学問であった︒社会科学系ディシプリンの導入を︑高等教育改革 の目玉商品として位置づけるという社会的好条件は︑たしかに存在した︒しかし新たに生みだされるディシプリンが
共通して体験するように︑社会学もまた﹁生れ出づる悩み﹂を抱えていた︒われわれはデュルケームの苦闘のなかに︑
その悩みを看取することができる︒
しかしこの苫闘があったからこそ︑社会学の基盤は磐石となり︑隣接領域の学問
(4 )
の性格に関するデュルケームの涸察も深まったのである︒この時期のデュルケームの労力は︑社会学が独立科学とし
て存立しうることの論証に費された︒
四〇
フラ
かれは︑社会学が独自の研究領域と固有の研究対象をもつことを明らかにし︑
その対象を分析する研究方法の考察に邁進したのである︒新しいディシプリンを創出するという点では︑ガブリエル・
モノーと労苦を共有する面もあったが︑デュルケームの仕事はモノーの仕事以上に厳しいものであった︒というのは︑
歴史学は﹁過去における人間の行為﹂という厳然たる研究対象をもつのにたいして︑社会学はそれをまず明らかにせ ねばならなかったからである︒われわれは社会学の制度化を志向するデュルケームの知的営為を︑一八九
0
年代
の一
連の業績のなかに窺うことができる︒かれの努力は︑﹃社会分業論﹄(‑八九三年︶︑﹃社会学的方法の規準﹄(‑八九五
(1)
﹃社
会学
年報
﹄
エミール・デュルケーム
︵一
八九
八年
︶
として結実したのである︒このようにデュルケームは︑
方法の問題︑すなわち︑社会学の存在論と認識論という学問の基礎づけの問題に敏感であったからこそ︑歴史学が抱
えている方法論的諸問題をも観察しえたのである︒それでは︑デュルケームの歴史学批判に耳を傾けてみよう︒
社会学の確立をめざしたデュルケームにとって︑歴史学との関係は避けて通ることのできない問題であった︒
ンス社会学の始祖であったオーギュスト・コントが︑すでに︑社会動学の要として歴史を重視していたし︑デュルケ
(6 )
ームが高等師範で師事した歴史家のフュステル・ド・クーランジュも︑﹁真の社会学は歴史学である﹂と道破していた
7 ‑3•4 ‑789 (香法'88)
(7 )
からである︒デュルケームも﹁歴史的な一切は︑社会学的である﹂と記したように︑
の関係は︑緊密な相補的関係である︒﹁これら二つのディシプリンが︑
(8 )
ある﹂とすら主張しているのである︒しかし﹃社会学年報﹄を創刊した一八九八年に︑デュルケームは﹁今日でも社
(9 )
会学的研究に関心をもつ歴史家は稀である﹂と述べざるをえない状況であった︒デュルケームの目に映った歴史学と
は︑﹁子供の初期の段階にある歴史学﹂︑すなわち︑﹁なんら理論による結びつきをもたない事実の収集﹂の段階の歴史
( 1 0 )
学であった︒﹃古代都市﹄を著わしたフュステル・ド・クーランジュのもとで歴史を学んだデュルケームは︑たんなる 事実学に堕した素朴実証主義を批判するのである︒・歴史学も社会学から知的刺激をえて︑科学とならなければならな いのである︒歴史学は︑社会学の方法︑すなわち︑諸事実の比較によって類型や法則を導きださんとする社会学の方 法を︑学ばねばならないというのである︒なぜならデュルケームの見地では︑歴史学は比較による説明をとおしての
み︑科学たりうるからであった︒もっともデュルケームも︑
任を転嫁しえない理由として︑デュルケームは︑社会学の側の責任とフランスの大学制度の欠陥という二つを指摘し
てい
る︒
一方的に歴史家を指弾したのではない︒歴史家にのみ責 それは﹁歴史学が社会学にたいしてしばしば示してきたあの不信の原因﹂の一半が︑事実を軽視しがちな社
( 1 2 )
会学の側にもあったことを認める発言となって表われたり︑正規の学生をもたないために︑科学的な方法や厳格さよ
( 1 3 )
りも雄弁を喜ぶ一般聴衆を対象とした文理学部の公開講義に弊害があることの指摘や︑歴史学者がこれまで
( 1 4 )
というよりは文学的な教育をうけてきた﹂ことの指摘となって表われているのである︒
ともあれデュルケームの歴史学批判︑デュルケームの歴史観は︑
義ー
ーー
開講
の辞
﹂
のなかに見てとることができる︒やや長いが︑
歴史学者は普遍化を目的とする学者でないことを私はよく知っている︒歴史学者の特別の︑独自の役割は︑法則
その一節を引いておこう︒
一八八七年にボルドー大学で行なった﹁社会学講
﹁科
学的
︱つの共通のディシプリンに融合する運命に
かれが求めた社会学と歴史学と
四〇
世紀転換期フランスの史学論争(一)(渡辺)
を発見することではなく︑各時代︑各民族にその特有の個性と独自の特徴を明らかにすることである︒
域は特殊性のそれであり︑
のた
め︑
の本
質︑
あっ
て︑
そうであるべきである︒
かれはそれらを記述するだけに満足せず︑
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後に
︑
それらを相互に結びつけ︑
四〇
かれの領
かれの研究する現象はいかに特殊的であれ︑
その原因と条件とを探求するのである︒そ
かれは帰納を行ない︑仮説をつくる︒もしかれが経験的にのみことをすすめ︑試行錯誤するだけで社会
その機能︑機能間の関係についての何らかの概念によって導かれなければ︑どのようにして時々道を誤
ることから免れることができよう︒その網の目が大規模な社会の生活を構成している事実の巨大な総斌のなかに
かれはどのように選択をするであろうか︒それらの事実のなかには︑日常生活の些細な出来事として以
外何の科学的意義のないものもある︒もしかれがそれらを全部無差別にうけいれたら︑
だけ
であ
る︒
かれはむだな博識に陥る
かれはごく小範囲の博識家の関心をよぶことはできようが︑有用な︑生命のある業績をつくること
は不可能である︒ところで選択をするためには︑指導的概念︑規準が必要であって︑それは社会学にしか求める
ことはできない︒社会学は歴史家にたいして社会の根本的な機能︑本質的機関が何であるか︑を教えるであろう
し︑歴史家がとくに努めて向かおうとするのはこれらの機能や機関の研究である︒社会学は歴史家の研究を限定 し︑指導する問題を提起するであろうし︑反対に︑歴史家は社会学に回答の要素を提供するであろう︒こうして
二つの学問は︑この好意的な奉仕の交換という便宜によって相互に利益を得られこそすれ︑損をすることはない
( 1 5 )
であ
ろう
︒ 引用にも明らかなように︑デュルケームの歴史学批判の骨子は︑歴史学は個別的な歴史現象の記述科学にとどまる ことなく︑帰納や仮説や比較の活用によって︑説明科学にまで高められねばならないというものである︒無限に存在
する経験的事実のなかから︑ある事実を選択する規準を歴史学はもつ必要があり︑その規準を歴史学に与えうるもの
7 ‑3•4 ‑791 (香法'88)
""""""""""'"""""'" ‑‑‑‑
的に評価するのである︒ よ ︑,1
この点ではセーニョボスを肯定
こそ︑社会学であるというのである︒歴史学を社会学に包摂せんとするこの大望は︑
のちに﹁社会学︵帝国︶主義﹂
とか﹁各々の学問の存在理由を認めないで他の学問に自分の優位を認めさせる﹂という批判を招くことになるが︑
ケームのセーニョボス批判に明らかである︒デュルケームは﹃社会学年報﹄のなかで︑
( 1 7 )
応用された歴史の方法﹄をとりあげて︑批判を加えたのである︒デュルケームは︑
中心におき︑ セーニョボスの
む しろこの時点では︑社会学の制度化に賭けるデュルケームの意気込みの表われと解するべきであろう︒
ともあれデュルケームの歴史学批判は︑あくまでも社会学の擁護という観点からなされたのである︒それはデュル
しかも歴史を主観的構築物に還元していることを批判する︒このようなセーニョボスの見解は︑三年前
の﹃歴史学入門﹄のなかに散見されたものであった︒
により︑必然的に主観的科学である﹂とか︑ そのなかでセーニョボスは︑
﹁歴
史は
︑ その資料の性質そのもの
﹁歴史は︑今なお形成の途次にある政治的ないし社会的諸科学の完成にも
不可欠のものである﹂と述べていたのである︒しかもデュルケームにとって︑﹁幾人かの社会学者によって認められて
いる﹃社会的事実﹄というのは︑哲学的構成物であって歴史的事実ではないのである﹂というセーニョボスの:文は︑
( 1 8 )
デュルケーム社会学の根本概念を否定するものであり︑とうてい座視しえなかったはずである︒そこでデュルケーム セーニョボスの誤りを︑社会科学概念の誤解にあるとみて︑自己の社会科学
( 1 1
社会学︶論を展開したのである︒
しかしデュルケームといえども︑史料批判や歴史批判の方法の重要性を認めており︑
またセーニョボスとラングロワの
﹃歴史学入門﹄を書評したドミニク・パロディも︑歴史学の科学性や歴史学と社
( 1 9 )
会学との関係についてのセーニョボスの見解に批判を放った︒パロディは︑歴史学が独立科学であるというセーニョ ボスの主張を否定し︑歴史学は個別事象を取り扱い︑社会科学に素材を提供する﹁宝庫﹂
であり︑歴史学と社会学と
セーニョボスが歴史を社会科学の
﹃社会科学に 四
0
四世紀転換期フランスの史学論争(・) (渡辺)
が引
用し
︑
一九
0
年に六は結合してこそ︑﹁完全な科学﹂となると主張するのである︒デュルケームと同じ観点からの批判である︒
フランソワ・シミアン
とこ
ろで
︑
( 2 0 )
ヴィクトール・カラディが︑デュルケームの学問的生涯を﹁半挫折
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﹂と捉えたように︑
︶
ヘ
︑ ツ ー
J九
0
年代には︑社会学の制度化を阻む空気も強かった大学社会にあって︑デュルケームの歴史学批判が︑
インパクトをもちえたのか疑問なしとしない︒歴史家のジョルジュ・ルフェーヴルも︑デュルケーミアンの歴史の取 り扱いは︑ある歴史家の結論を既定のものと見なしたり︑文献を批判的研究もなしに利用するという間接的なもので
( 2 2 )
あったと述べている︒デュルケーム社会学に好意的なポール・ラコンブも︑社会学者はこれまで未開に専念しすぎて おり︑開化した民族についての研究の蓄積は不十分であると考えていた︒デュルケームは︑歴史的遡及法ないし遡源
かれの関心が個別的事実よりも類型や法則に︑歴史そのものよりは︑法・道徳・宗教・
家族・教育といった領域にあったことも︑デュルケームの歴史学批判の鋭さを鈍らせたと思われる︒歴史学批判の点 でデュルケームより犀利であったのが︑社会経済史に関心をもっていたフランソワ・シミアンである︒実証主義史学
への批判の鋭さと︑
氏の近著についての批判的研究ー│̲﹂と題する論文を﹃歴史総合評論﹄(‑九
0
三年
︶
( 2 6 )
困惑させる戦い
u n
e c
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p a
g n
を︑歴史家にたいして始めた﹂ところであった︒e
的方法について語っているが︑
(2)
四
0
五 シミアンリュシアン・フェーヴルを始めとして︑若い歴史家に与えた影響の大きさという点で︑
(4 )
/2
を逸するわけにはいかない︒
当時︑三
0
歳の若き哲学のアグレジェであったシミアンは︑﹁歴史の方法と社会科学││̲ラコンブ氏とセーニョボス( 2 5 )
に掲載し︑﹁歴史家をおおいに
一九二二年以来しばしばフェーヴル
( 2 7 )
﹃年報ーーー経済・社会・文明﹄が再録したことによって有名になった論文である︒ どれほどの
八
7 ‑3•4 ‑793 (香法'88)
場は︑実証科学の否定につながるという認識があったからである︒シミアンにとってもデュルケームと同様に︑﹁社会 的事実﹂.﹁社会的要素﹂.﹁社会現象﹂
た︒であるがゆえに︑
道具としてシミアンが利用するのは︑ ‘‘~、シミアンカ
セーニョボスが否定した抽象・概念・類型の積極的使用である
シミアン論文のテーマは︑﹁伝統的歴史学と新しい社会科学﹂との関係である
( p .
1)
︒立論の前提をなすライトモチ ーフは︑社会現象を研究する社会科学も︑間接的認識の方法である﹁歴史の方法﹂に依存せざるをえないが︑歴史家 と社会科学者との間には︑歴史の構成の段階において分岐が存在しており︑
する必要があるというものであった
( p p .
2‑
3)
︒
的研究に代えること﹂を︑﹁新しい世代の仕事﹂ シミアンが依拠するのは︑勿論︑﹁実証科学﹂の立場である︒それは
本来の意味での︑自然科学的な実証主義の立場である︒このような見地からシミアンは︑﹁伝統的歴史学﹂の方法論が︑
実証的社会科学の方法を認めていないことを指弾し︑﹁伝統的方法を︑科学的説明を可能とする人間現象の実証的客観
であると位置づけたのである
( p .
157) ︒
シミアンが批判の対象としたのは︑概説史をもっぱらとする﹁歴史のための歴史家
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s t
o r
i e
n h
i s
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J
( p .
3)の
思想と実践である︒
サブタイトルによると︑ラコンブとセーニョボスの二人が批判の俎上にのせられていることにな っているが︑社会学の方法の摂取を主張していたラコンブには好意的評言がなされており︑標的はセーニョボスであ たのである︒
セーニョボスの原子論的社会観•原因概念・歴史の構成方法・事実の分類などを、逐一、批判し
このようなシミアンの批判は︑他のデュルケーミアンと比べても︑
その批判の広さと深さの点で際吃っ セーニョボスの主観的心理主義的な歴史観や原子論的な社会把握を批判したのは︑
ていると言いうる︒ っ
た ︒
シミ
アン
は︑
は心理的かつ主観的なものではなくて︑客観的かつ集合的に実在するのであっ
﹁実証科学の役割は︑主観から客観を取りだすこと﹂
( p .
6)
になるのである︒そのための方法的
( p .
1 0 ,
p .
148) ︒ セーニョボスの立
この分岐に関する認識論的諸問題を考察
四
0
六世紀転換期フランスの史学論争(・) (渡辺)
.
こうして﹁社会現象の客観的考察﹂をめざす﹁﹃社会学的抽象﹄が︑規則性・法則性・科学的説明に導くかどうかを研究す
る﹂
( p .
12
. 傍
点︑
イタリック︶ことが︑重要な問題となるのである︒この点こそ︑﹁伝統的歴史学の精神﹂とシミ
このような方法上の相違を生む基底には︑歴史の説明に関わる﹁原因概念﹂の相違が横たわっていた︒シミアンは︑
セー
ニ
1ボスが必要条件や十分条件を原因と混同していること︑誘因による説明で満足していること︑社会現象の原
因を個人のモチーフに還元することを批判したのである
( p
p .
14
ー17) ︒
念﹂
は︑
J.S
・ミルに依拠した厳密に実証的な概念であった︒的な前件現象﹂のことであり︑因果関係とは﹁安定した関係︑規則性︑法則﹂を意味していた
( p .
17
)︒この定義に従
えば︑反復する事実や規則的なものが注目され︑特異な事実や偶然的なものが退けられるのはコロラリーであろう︒
セーニョボスやアンリ・オーゼルがドイツ史学から摂取した説明原理としての﹁社会的連関ふ
' Z u s a m m e n h a n g "
s o c i
﹂a l
この観点から批判されることになる︒シミアンは︑﹁社会的連関﹂が有効性をもつのは︑研究を一っの社会に制限
することなく︑複数の社会との比較や論理的抽象の操作によって︑
らかにしえた場合のみであり︑
その
とき
には
︑
その連関は因果関係をもちうると主張するのである
また事実を引きだす資料
d o c u m e n t
につ
いて
も︑
﹁歴
史の
構成
﹂に
つい
ては
︑
も ︑ アンたちとの分岐点なのである︒
四
0
七 この﹁精神の方向﹂をこそ変ねばならなそれにたいして︑
シミアンによれば︑﹁現象の原因とは︑不変で無条件
その連関に同一的で規則的な関係があることを明
( p
p .
134138) — 。
シミアンは︑資料の主観的性質を認めるが︑研究が事件や意図に
ではなくて︑制度や現象間の客観的関係に向けられるなら︑資料は主観性を減殺しうることが述べられた
( p .
21) ︒
シミアンは︑事実の収集から構築にいたるまでを司る枠組の重要性を指摘する
( p
p .
131
ー133)︒その枠組とは︑﹁構成的仮説﹂
( p .
148)のことである︒伝統的歴史学に不足しているのは︑資料ではなくて﹁構
成的精神﹂なのである︒重要なのは材料ではなくて︑﹁精神の方向﹂であり︑ シミアンが提示した﹁原因概
7-3•4-795 (香法'88)
し広い視野から一八九
0
年代の歴史学の状況を検討しよう︒版された歴史学方法論の著作を
1督しておきたい︒転形期の実証主義史学をめぐる議論の状態と︑
であ
る︒
フランスの現代歴史学の成立という見地からも︑ 総合評論﹄を主要な活動の場としたベールの努力が︑ い︒なぜなら﹁材料は︑精神によって構想され抽象され分類され整序されてはじめて︑存在する﹂からである
( p .
15 1)
0
﹁探究的分析は︑科学の建設的総合に従い︑同時に︑総合は︑分析に基づき︑分析に支えられつつ構築されるのである︒﹂
( p .
148)
このようにシミアンは︑歴史における総合の重要性および総合と分析の不可分の関係を述べ︑伝統史学の﹁三
つのイドラ﹂との闘いを呼びかけたのである
( p
p .
154ー156)
︒第一に︑事件の歴史である政治史を中心に置く政治のイ
ドラ︑第二に︑歴史を制度や社会現象との関わりからではなく︑個々人の歴史として考える個人のイドラ︑第一一一に︑
各時代を等しく重要と考え︑歴史をすべての部分が同じように作成された切れ目のない巻物と理解する年代学のイド
ラで
ある
︒ 以上のように︑伝統的歴史学の欠陥を別出したシミアン論文は︑大きな反牌を惹き起こし︑
実証主義史学への第二の批判は︑伝統的な人文科学たる歴史哲学の領野から放たれた︒
れで
ある
︒
H
・ベ
ール
は︑
当時
︑一
︱
1
0
代という若さであった︒口 歴 史 哲 学 か ら の 批 判
者との論争の契機となったのである︒
そ①こともあってか︑
のちの歴史家と社会学 アンリ・ベールの批判がそ
かれの挑戦は︑総合を時期尚早 と考える歴史学からは無視され︑膝下の哲学からも哲学本来の領域から外れた仕事として黙殺された︒
しかし
アナール学派の第一世代を育んだことは︑今日では固知の事実
ベールに関心が注がれるゆえんである︒ここでは︑
ベールの伝統的歴史学批判を見る前に︑ 四
0
八もう少
ほぼ同時期に出 そのなかから叫々
﹃歴
史
世紀転換期フランスの史学論争(‑‑)(渡辺)
あるポール・ムージュオル
P a u l M o u g e o l l
e が の声をあげた﹃歴史総合評論﹄
方法の探究
の背景を知るためにも︑
それは不
欠な作業であるからである︒n J
一 八
﹂ ハ
0
年代から始まった歴史学の科学化が︑精緻な文献考証や厳格な史料批判の方法によって促進されたことに﹃歴史・文学批評雑誌﹄や﹃史学雑誌﹄による方法の喧伝と監視などに負っていた︒
フュステル・ド・クーランジュの個人的才能︑高等研究院第四部の組織的努力︑
いざ考証や批判の具体的 方法となると︑それぞれの歴史家の判断と能力に任されており︑体系化されたマニュエル
m a n u e l は存在しなかったの である︒ましてや歴史の構成方法や歴史認識の客観性といった科学方法論的な考察は︑欠落していたと言わざるをえ ない︒なるほどバックルやテーヌは自著の一巻ないし一章を歴史哲学的考察にあてており︑その重要性は否定しえ
( 2 8 )
な し し か し 一 八
八
0
年代の後半まで︑ここで検討に値するような歴史学の認識論的諸問題を考察した本格的な書物
( 2 9 )
が著わされなかったという事実が︑何よりも理論や方法の欠如を雄弁に物語っている︒この問題が歴史家の一部に自
( 3 0 )
一八
八
0
年代であったのである︒実証主義史家が﹁方法論学派﹂と形容される理由も諒解しうる であろう︒それは︑方法の欠如を自覚し︑方法を希求したかれらの学的態度を表現しているのである︒
かくして方法の探究が始まる︒それはまず︑歴史学の隣接領域から始められた︒
両者はともに本職の歴史家ではなかったし︑ 覚され始めるのが︑ ついては多吾を要しない︒それは︑
(1)
﹃歴史の諸問題﹄を著わし︑
四
0
九 一八八八年には哲学者のルイ・ブールドー( 3 1 )
L o u i s B o u r d e a
u が﹃歴史と歴史家ーーー実証科学として考えられた歴史についての批判的試論﹄を著わした︒ムー
ジュオルの著書は︑歴史哲学の領域に属する本であり︑プールドーの著書は︑歴史学方法論の領域に属する本である︒
かれらの著書が今日まで影響を及ぽしているわけでもないが︑かれらの 一八八六年に理工科学校の出身で し
かし
︑
7 ‑3•4 ‑‑797 (香法'88)
一九世紀末から二
0
世紀初頭の方法論争に接続していったがゆえに︑無視することはできない︒かれらはと もに︑進歩史観と本来の意味での実証主義に依拠し︑統計学を重視するなどの共通点も多い論を展開している︒今少
﹁歴史に環境の影脚︵という考え︶を導入した最初の近代人はフランス人である﹂
(p .4 32 )
ヘーゲルのそれではなくて︑
あった︒それはかれが︑遺伝や種族をキー・ワードとした生物学的理論を拒否し︑環境を重視した地理学的歴史観を
展開したところに示されている︵第二部第三編および第三部︶︒
集団の階級間の不平等の起源﹂を明らかにしえないからである
候や風土に求める点で︵第四部︶︑地理的決定論という欠陥をもっていると言いうる︒このような欠陥を認めたうえで
なお重要なのは︑ムージュオルの素朴実証主義批判である︒かれの基本的な立場は︑本来の意味での実証主義であり︑
ロ ワ
進歩史観であった︒それはかれが︑﹁偶然的変化は人類史では重んじられない﹂
(p .3 27 )
とか︑﹁法則が人類を支配す
ロ ワ
る﹂
.﹁
社会
は法
則に
従う
﹂
( p .
43)と断言したり︑﹁歴史学は十分に進歩していないので︑今後︑社会の進化を詳細に
描写しえない﹂
(p p.
222‑223)
て批判した
(p
.
223) ︒
ジャン・ボダンやモンテスキューの衣鉢を継ぐもので
かれの見るところ︑種族理論では﹁社会集団間や同1
( p .
231)
︒も
っと
も︑
(第一部第三編)、英・独•仏三国の歴史学や生物学の力点の相違を地形や気
と記しているところに窺うことができる︒
の歴史
l ' h i
s t o i
r e
de
a l
r
e g
l e ﹂を目ざさない
﹁偶然の歴史
l ' h i
s t o i
r e
de
!'
a c
c i
d e
n t ﹂を指弾するのである と誇示
いわば頂上の探検にとどまっており︑光も射さない峡谷を冒険する気もないと比喩をまじえ
かれが批判する﹁偶然の歴史﹂とは﹁戦闘史
l '
h i
s t
o i
r e
' b
a t
a i
l l
e ﹂のことであり︑﹁事実間の関係
という忍耐のいる研究に専念しないで︑奇妙な偶然の.致や突飛な関係に注意を向ける﹂歴史であった
( p .
38
)︒
﹁歴
れはこれまでの歴史は︑ 明の発達の関係を法則として提示したり し
たよ
うに
︑
かれの歴史哲学は︑ ムージュオルが しく両者の歴史論を見ておくことにしよう︒ 議
論は
︑
( p .
38
) ︒
か
ムージュオルはこのような見地から︑
﹁法
則
かれの理論は︑高度や緯度と文 四一〇
世紀転換期フランスの史学論争(・) (渡辺)
ムージュオルの書物が出版されて二年後に︑本来の意味での実証主義に基づく歴史理論を構築しようとしたのが︑
( 3 3 )
正統派のコント主義者であるブールドーであった︒かれは﹃歴史と歴史家﹄を︑﹁歴史は作り直されねばならない︒
やむしろ︑歴史はまだ作られていない﹂
( p .
1)
という大胆な主張で始めた︒
ためには︑次の四条件を満たす必要があると述べる︒第一に︑対象が明確に定義されること︑第二に︑解決すべき問 ムージュオルに論及する価値があったのである︒がったという点で︑ 理論化の度合はクセノポルの方が高いのであるが︑
かれは歴史が科学として位置づけられる ﹃歴史の諸問題﹄がクセノポルに刺激を与え︑
四
し)
のちの史学論争に繁 ジュオルの書物から︑ムージュオルの時
ムー
史においては︑変則的なものや偶然は主要な役割を演じない﹂
( p .
414)
ろう
か︒
関係として提示されるのは地理学的法則である︒ と考えるムージュオルが︑国王・予言者・征
服者・立法者などの歴史上の偉大な個性を過大評価しないのは当然である
外を退け︑大衆・通常・法則を対置するのである︒それでは︑かれの言う﹁歴史法則
un l o e i h i s t o r i q u
e ﹂とは何であ
それは第一に﹁事実の全体﹂︑第二に﹁時間と空間といった壮大な変数L の二要素の関係と要約される
( p .
97) ︒
事実間の関係とは因果関係のことであり︑時間と事実との関係の中心をなすのは﹁進歩﹂思想であり︑空間と事実の
かくして地理学的歴史観が展開されることになる︒かれは統計の利
用によってこそ︑﹁これまで例外の研究でしかなかった歴史は︑法則の研究となるであろう﹂
( p .
19 7.
その他
p .
̀
41p .
43)
と︑統計を用いた新しい歴史について語りもするが︑地理的決定論へと大きく傾斜するのである︒
以上のようなムージュオルの歴史論は︑世紀末にクセノポルによって批判されることになる︒とりわけムージュオ
( 3 2 )
ルの生物学的理論の拒絶や地理的歴史観をクセノポルは批判するのである︒しかし批判と同時にクセノポルは︑
のちのかれの理論的展開にとって有益な着想を得たと推測される︒それは︑
間と空間による事実の二分法や﹁歴史系列
l e s s e r i e s h i s t o r i q u e
﹂s
( p .
89
)
という考えである︒勿論︑後述するように ︵
第一
一部
第一
編︶
︒
かれは︑個人・異常・例
7 ‑3•4 ‑799 (香法'88)
場合でしかない﹂と述べる 連続的な共通の事実である すなわちブールドーは︑ 則として定式化されることである︵以上︑ 題が合理的プログラムを構成すること︑第三に︑真理を明らかにする方法をもつこと︑第四に︑獲得された知識が法
p .
1)
︒ブールドーは︑現在の歴史学がこの条件を満たさないことを批判し︑
この条件を満たす歴史理論を展開したのである︒
素朴実証主義の批判という点で注目に値するのは︑次の諸点である︒
いう個人と有名な事件のみを対象としてきたことを徹底的に批判する︒
第二
章︶
︒
かれはこれまでの歴史が︑英雄やエリートと
かれは﹁人間の一般性を観察しないで人物し
か見ず︑理性の働きを探らないで出来事を物語るにとどめる﹂歴史家を批判するのである
( p .
12) ︒
人や事件は一時的価値しかないのである︒なぜなら﹁労働者のいない発明家︑公衆のいない芸術家︑弟子のいない学
者︑兵士のいない将軍︑臣下のいない王︑信者のいない予言者︑.かれらは皆︑
これまでの歴史が大衆
f o u l
e や民衆
p e
u p
l e
を無視してきたことを批判したのである︵第一編
かれが対置する歴史は︑﹁非個体的・一般的﹂性格の歴史
( p .
1 0 9
)
︑換言すれば︑全体的・社会的な歴史であった︒それは﹁代々の人口動態や富の状態を確認し︑
127)︒このような主張の理論的根拠を示すために︑
それらの増減の原因を証明し︑嗜好の変化・科学の進歩・習
俗の改良・公的自由の拡大を説明する﹂歴史であり︑﹁衣食住の歴史︑芸術・思想・道徳の歴史﹂
かれは諸事実を﹁出来事
e v
e n
e m
e n
t s
﹂と﹁関数
f o n c
t i o n
﹂といs
う 一
1種類に分類することを提言する︒前者の事実は︑偶然的で一時的な例外の事実であり︑後者の事実は︑規則的で
( p .
l l O )
︒これら1一種類の事実の関係については︑ かれにとって︑偉
その役割を失う﹂からである
( p .
1 0 7
)
0であった
ブールドーは﹁出来事は関数の特殊な
( p .
132)
︒そして﹁出来事の物語に満ちた歴史﹂が︑例外の事実を重要視していることを
非難し
( p .
111)︑﹁いかなる偶然も研究に値しない﹂
( p .
122)︑﹁関数的事実の研究こそ︑人間生活の認識にとって最も
価値がある﹂と断定し︑歴史における原因の究明においても︑﹁出来事を関数に従属させる﹂ことを主張するのである
四
( p
p .
126
ー
世紀転換期フランスの史学論争(一)(渡辺)
ここまでブールドーの主張を検討してきたわれわれは︑
かれが歴史の方法として﹁数学的方法﹂を提出しても驚か
ばならない﹂
( p .
1 1 )
という歴史の定義も︑ここから生まれるのである︒ ある (
p.
3 1
1)
︒なぜならブールドーには︑規則的事実こそ﹁科学研究の真の対象﹂
体的・断続的・不規則的なものではなくて︑普遍的・漸進的・連続的なもの﹂を対象とするという認識があるからで
( p .
94
)︒﹁漸進と連続の法則は理性の発達を支配する﹂
( p .
28
)
は理性の諸発達の科学である﹂
( p .
5)とか︑﹁歴史の対象は︑理性が導き︑理性が影饗を被る諸事実の普遍性を含まね
ないであろう︒ブールドーは﹁数学的方法は物語的方法にとって代わるべきであり︑数学によって物語を置換すべき
であ
る﹂
(p
.
28
9)
と主張する︒なぜなら﹁科学の永遠の公準たる確実性が︑物語史には欠けている﹂からである
(p
.
28
1)
︒
数学的方法とは統計的方法のことである︒ であり
(p
.1
23
)︑﹁実証的歴史﹂は﹁個
という基本的な考え方があったのである︒﹁歴史
かれにとって統計学は︑﹁数字によって表わされた社会的事実の科学﹂であ
った
(p
.
28
9)
︒この点については︑ブールドーはムージュオルよりも詳細な議論を展開しており︑﹁統計による歴史学
( 3 4 )
の革
新﹂
(pp.317ー
32
4)
を要求しさえするのである︒このようにかれが︑数学との﹁親密で豊かな同盟﹂を結ぶように
歴史学に要請するのも
(p
.
29
1)
︑歴史は法則を打ちたてる能力を証明することによって科学として認められると考え
一般法則と特殊法則に区ているからである
(p
.3
28
)︒それではかれの考える法則とは何であろうか︒かれは法則を︑
分し︑さらに特殊法則を秩序の法則と関係の法則に細分する︒一般法則とは進歩の法則であり︑その数学的公式化が 企てられもしている︒特殊法則のなかの秩序の法則とは︑事物の類似性に関わる法則であり︑関係の法則とは事物の
変化に関わる法則である︒秩序の法則では統計が重視され︑関係の法則では因果が重視される︵第四編第二章︶︒ブー
ルドーはこれらの法則によって︑特異な事実も予測の可能性を高めると記すが︑基本的には﹁法則が支配する体系に
おいては︑偶然が存する場所はない﹂
(p
.
34
1)
という考えであった︒
四一三
7 ‑3•4 ‑801 (香法'88)
る
゜
ゴリウス
G r
e g
o i
r e
d e
T o
u r
s が著わした 文献が出版されていたことを︑
フュステル・ド・
クーランジュの歴史解釈に疑問を提出したことによって始まり︑﹁早まった比較は︑歴史に多くの誤りをもたらした﹂
という後者の全面的反論を招来して終わった論争である︒
ールドーのような歴史の認識論に関わる議論ではなくて︑史料批判や考証のカテゴリーに属する議論であったのであ ーランジュとの間で︑
﹁比
較﹂
ブールドーの著書が︑
力)
以上のような特徴をもつブールドーの歴史理論は︑本来の意味での実証主義的歴史理論と言いうる︒かれの理論は︑
( 3 5 )
偶然・事件・個人を退け︑法則・統計・大衆を重視する︒それは史料実証主義とは対蹄的なものであった︒かれの理
論への賛否は別として︑ブールドーが︑アナール学派より半世紀以上も早く︑﹁事件史﹂に反対して︑﹁全体史﹂.﹁日
常生活史﹂.﹁数量史﹂.﹁非個体的歴史﹂を主張した点は承認されねばならないであろう︒
どれほどの影響力をもったのかを判定する材料を︑筆者は残念ながらもちあわせていない︒
セーニョボスやクセノポルが批判的に引用しているのは︑後述する理由から当然としても︑不可解なのは︑
多いと考えられるラコンブやシミアンがまったく引用していないことと︑
H
・ベールも一八九0
年の書評以外には︑( 3 6 )
三箇所で控え目に引用する扱いにしていることである︒不明のまま残さざるをえないが︑
われわれは記憶に留めておこう︒
ところで同じ時期に︑本職の著名な歴史家の間で論争がなされていた︒
﹁分
析﹂
ガブリエル・モノーとフュステル・ド・ク
( 3 7 )
かといった論議が展開されたのである︒それはモノーが︑
しかしこの論争も︑
﹃フランク人の歴史﹄ その実態はといえば︑
の解釈をめぐってなされたものであり︑したがってブ トゥールのグレ 一八八八年にブールドーの 四一四
共通点も