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(1)

n

J

n

ロ リ ︒

︑ . 衣 其 ノ

の 諸

問 題

ソ ン

││主意主義と秩序問題

111

一 ︑ は

じ め

パiソンズを理解しようとするとき︑彼の初期の作品を検

討することは︑次の意味で重要であると思われる︒パ1

ソン

ズは︑先行する他の諸理論との関係を明確に意識しながら︑

彼にとっての問題を構成しており︑それがこの時期に集中的

に表現されている︒また︑初期の作品と彼の後の理論展開と

の聞の連続性については︑速断できないとしても︑初期パl

ソンズの検討が︑彼の膨大かつ難解な一連の作品を理解する

一助になるかもしれない︑ということである︒

そこで︑彼の且取初の著作﹃社会的行為の構造﹂(吋

E

∞芯

5 1

Z

﹃冊︒同∞︒ロ広}﹀

2 ‑ o p 5 ω

r

) (

下﹃構造﹄あるいは∞‑∞・﹀・と略記)を︑彼自身の他の先行

諸論文をも参照しつつ検討してみたい︒﹁構造﹄には︑大著

として当然のことながら︑様々なテ!マが同時に扱われてお

j 毒

音 B

日 川

E UF  

り︑無数の伏線が張りめぐらされている︒とりわけ︑パlソ

ンズ自身は︑実証主義的伝統と観念論的伝統が︑主意主義的

行為理論へと収赦していることを証明することが︑最大のテ

ーマであると強調している︒けれどもこの﹁収赦﹂は︑(グ

lルドナーの﹁収敵性のイデオロギー可という論難はさてむ

くとしても)やはり﹁一種の力業十﹁であり︑それ故ここでは

パlソンズの意気込みをいくらか割引いて︑彼自身と当時の

アメリカ社会学界のための︑ヨーロッパの諸理論の導入ない

し総点検として受けとるにとどめたい︒

﹁構造﹂に含まれる彼の問題関心は︑次の二つに大別でき

よう︒第一は︑概念構成に関わる科学哲学的な議論である︒

彼の議論は︑ウェlパーによってなされた経験主義批判を辿

り︑さらにウェ!パiの理念型の方法に生じていた概念の﹁実

‑ 1 ‑

(2)

体化﹂や﹁虚構性﹂などの難点を明らかにした上で︑パlソ

ンズ自身の﹁分析的リアリズム﹂

g

包可片付巳﹃

S F g

を定式化

するに至る︒ただし﹁分析的リアリズム﹂については︑この

小論では扱うことができない﹃

第二のテlマは︑行為理論として提出される﹁共有価値﹂

の理論であって︑これは﹁実証主義﹂をその主要なポレミ1

クの相手として展開されており︑関係する問題は以下の二つ

である︒第一は︑行為の規定要因を︑究極的には︑遺伝・環

境などの﹁条件的要素﹂に還元してしまう﹁実証主義﹂の図

式の狭さを批判し︑﹁条件的要素﹂には還元しえないような

﹁価値要素十﹁を付け加えるという問題︒第二の問題は︑﹁秩

序問題﹂である︒﹁秩序問題﹂は︑パiソンズ自身も︑また

諸研究者も指摘するように︑パiソンズの一貫したテーマを

形成しているq﹁構造﹄においてはもこの問題についての議

論は︑明確なまとまった形をとっているとはいいがたく︑鍛

密なものではないけれども︑基本的な特徴は︑この初期の段

階ですでに現われているという点で︑見逃しえない︒ところ

で︑﹁主意主義﹂というタiムは︑従来ともすれば第一の問

題にのみ関連きせて理解されがちであったが︑ここでは﹁秩

序問題﹂と密接に結びついているものとして考えたい︒

﹁主意主義的行為理論﹂を︑これらの二つの問題に関連さ

せて考察する理由について付言しておきたい︒おの二つの問

題は︑もちろん密接にからみあっていて︑最終的には﹁一共通 価値システム﹂による﹁共通価値統合﹂という概念に・おいて結びつけられるのだが︑二つの問題は若干性格を異にしている︒﹁秩序問題﹂は︑復数の行為者からなるシステムのレヴェルに特有の問題であるが︑他方︑第一の問題︑すなわち行為の規定要因としての﹁価値要素﹂を位置づけるという問題は︑単位行為のレヴェルで︑すでに議論しうる︒﹁構造﹄にお

ける

iソンズの議論は︑単位行為のレヴェルから出発し

て︑システムのレヴェルへと漸次的に移行しているように思

われる︒けれども︑解釈のしようによっては︑この移行に伴

って

︑パ

lソンズの議論に若干の変化が見出されないごとも

ない︒そこで︑この﹁移行﹂が︑これまで主意主義的行為理

論の読み手の側に︑さまざまな解釈上のニュアンスを生むも

ととなってきたのである︒しかし︑主意主義的行為理論のポ

イントは︑やはり﹁秩序問題﹂にも相当鼠かれている︒単位

付為レヴェルにおけるパiソンズの議論の円標は︑﹁分析的

リアリズム﹂に従いながら︑分析のための概念袋援を準備し︑

同時に﹁実証主義﹂に対する批判のうちの第一番目の問題を

片付け︑システムのレヴェルでの﹁秩序問題﹂ヘ橋渡しをす

ることにある︑とさえ考えられるのである︒従って︑主意主

義的行為理論の原解は︑この二つのレヴェルの問題を検討し

たトしで︑はピめて得られるのであって︑二つのレヴェルの議

論を分離して解釈することは適当ではないように思われる︒

‑ 2 ‑

(3)

二︑単

~T

為 位

パlソンズは︑行為システムをより小さな部分へと分解し︑

具体性を失わない最小の単位として︑単位行為

5

常 宮 神 を

設定する︒この単位行為を記述するために最小限必要とされ

る諸要素が︑準拠枠に明示される︒この図式と古典力学の図

式とのアナロジーが用いられてわり︑単位行為が質点に︑目

的・状況・規範が質量・速度・位置に対応するといわれる︒

注意しなければならないのは︑この図式は記述に用いられる

諸カテゴリーの表示であって︑それらのカテゴリーが具体的

行為と関係づけられるときの︑具体的行為の内容について︑

あらかじめ何らかの合意をもつものではない︑ということで

ある︒だからこれらのカテゴリーの設定から︑パlソンズが

念頭においているかもしれない﹁人間像﹂を直接ひきだすこ

とはできない︒この準拠枠は︑﹁人間像﹂などの仮説的な具

体性をもっ行為の類型について語っているのではない︒たと

えば︑﹁合理的な行為類刑己も﹁非合理的な類型﹂も︑これ

らのカテゴリーを基本的に用いることによって︑描写される

のであって︑それは︑質量・速さなどのカテゴリーが︑重い

ものも軽いものも︑速いものも遅いものも記述できるのと同

様である﹃

単位行為は最小限以下の諸要素によって記述される吻山目

的︒邑︒行為の過程が方向づけられているところの未来のあ

る事態︒叩状況印言伊丹百戸︒行為はこの﹁状況﹂の中で発動

される︒状況は次の二つの要素に分析される︒川条件

g E γ

z g

目︒行為者が︑目的の達成にあたって変化させたり︑変化

するのを防ぐことができない︑つまり制御しえない要素︒同

手段

5 2

コ刊行為者が制御しうる要素︒制規範

5 5 d (

規範

的指

向コ

ミヨ

世伸

一︿

O

広三

三一

Oコ︑選択的基準白色

2 t

︿ 巾 伯 仲

2 1

骨﹃仏)︒手段は︑まったく状況に依存しているのでも︑ランダ

ムに決定されるのでもなく︑ある選択を通じて採用されるG

このことは︑行為がある独立の選択的基準に関係づけられて

いることを示している︒ここでいわれる﹁規範﹂は︑もっぱ

ら道徳的規範に限定されているのではなく︑科学的知識やシ

ンボリックな基準などをも含むように定義されている︒

この図式に関して︑いくつかの補足を次に列記するつ

山この図式は︑具体的ないし記述的レヴェルと分析的レ

ヴェルの二つのレヴェルで適用されることができる︒﹁具体

的な目的﹂とは︑予期される具体的な事態であり︑﹁分析的

目的﹂とは︑﹁具体的目的﹂から︑もし行為者の作用品

g ︐

ミ氏子叩恒三

2

が介入しなくても生起しうるであろう事態

を引いた残りの部分のことである︒このような具体的意味と

分析的意味の区別の導入は︑力学図式とのアナロジカルな対

応を崩しているが︑この区別の眼目は︑﹁目的﹂が︑行為者

には左右することのできない﹁条件﹂によって︑あますとこ

ろなく規定されているのではないごとを︑強調することにあ

‑ 3ー

(4)

る︒つまり︑行為理論を﹁条件﹂決定論の文脈から救出し︑

人間独自の意志作用

g

宮片言を強調するためである︒

叩行為は当然のことながら︑行為の作用者匝曹三とし

ての行為者

g g

円を含む︒単位行為は個人の単位行為である

が︑普通﹁個人﹂で意味されるすべてが︑分析的意味での完川

為者﹂の概念に含まれているのではない︒パlソンズは行為

者の肉体や心理学的能力を︑﹁外的環境﹂と同様に﹁状況﹂

のカテゴリーに繰り入れている︒たとえば肉体的﹁力﹂や﹁心﹂

は︑手段あるいは条件でありうる︒そこで︑分析的意味での

﹁作用者﹂ないし﹁行為者﹂は︑とくにエゴないしセルフと

呼ばれる︒この﹁エゴ﹂﹁セルフ﹂の概念は︑カテゴリーと

して提出されているだけで︑立入った説明は与えられていな

いが︑先に述べた﹁分析的目的﹂の﹁状況﹂からは独立な﹁作

用性﹂の源泉として︑位置づけられているのであろう︒パlソ

ンズの分析的方法は︑﹁行為者﹂という概念においても非常

に徹底しており︑その意味では︑生きて肉体をもっ具体的な

人聞が︑画面に直接的には入ってこないのも当然ということ

にな

る︒

叩目的・状況・規範を結びつける要素として︑﹁努力﹂

丘町︒ユが考えられている︒﹁努力﹂は力学におけるエネルギ

ーの対応物であるといわれる︒日常的用語法にお作る︑困難

に打克ちながら刻苦勉励するというような意味あいが︑この

﹁努力﹂という概念に付着しているのかどうか︒ここではエ ネルギiの相似物という説明に力点をおいて︑一つの専門用

語と受けとっておきたいq

凶目的達成︑また﹁正しい﹂手段の選択に・おいて︑失敗

の可能性が指摘されているcエラlの可能性は︑行為が自動

的画一的な反応ではないことを含意しており︑またある規範(合理性の規範)からみればエラ!と考えられる行為の分析

から︑異なる種類の規範(シンボリックな規範︑道徳的な規

範)の発見に至るという︑方法論的手がかりを提供している︒

回行為の定義として︑﹁目的﹂が掲げられている箇所も

みうけられる

( ω

ω

・﹀

・唱

・品

々け

れど

も﹁

構造

﹄中

では

︑目

的│手段図式が適用し難いような︑芸術などの﹁趣味の問題﹂

ヨ巴

芯円

gE

司︑家族などのゲマインシャフト関係における

﹁表

出の

様式

﹂自

a g o

2 S

己も扱われているから︑

行為の﹁目的﹂による定義は狭すぎる︒また目的│手段関係

を含む行為に限定したとしても︑﹁目的﹂という概念は︑単

位行為を前提とする準拠枠中ではじめて考えられたものであるから︑厳密に考えれば︑これは循環論であろう伊為の官

的﹂による定義は︑パlソンズ以外にも時々みられるけれど

も︑やはり右の疑念は拭い去ることができない︒なぜなら︑

行為論的社会学理論にとって︑行為は第一次的な対象であっ

て︑単為行為はそれ以上遡る必要のない︑いわば公理的な概

念と考えるべきであろうからである︒ただし︑単位行為の準

拠枠は︑単位行為の定義とは考えられないけれども︑記述の

‑ 4 ‑

(5)

際に役立つものであるから︑単為行為と準拠枠は︑相

E

に依

存しあうことによって︑それぞれをある程度理解しやすくす

る関係にある︑ということは無視できない︒

制この準拠枠は︑主観的見地

E Z 2

伸 一 語 司

O E O

同︿信者

(行為者の見地)を採用している︒この方法が︑﹁目的﹂や

﹁煽範﹂などの行為者の心の内にのみ存在している︑﹁究極

的には条件に還元できないような主観的カテゴリー﹂の発見

を可能にする︒﹁主観的見地﹂はウェ!パlの﹁動機理解﹂

の系列に属しているが︑パlソンズは︑ゥェlパlの方法と

彼の立場を次のように区別している︒ウェlパlは︑理解し

うる動機をもつのは︑個人行為のみであるとして︑理解の方

法をともすると方法論的個人主義に短絡させがちであった︒

他方︑方法論的個人主義の地平に止どまることを嫌うパiソ

ンズの﹁主観的見地﹂は︑個人の動機のみにレファレンスを

もつのではなく︑﹁意味の複合体そのものの理解﹂にも適用

できるのであって︑システムのレヴェルにおいてもこの方法

が可能であるとされる(詳しくは∞・

ω

・﹀

・事

‑ g u

占稲上・

厚東訳第四分冊二五一1三頁参照

v o

間この図式は︑日常的に行為が記述される際の常識的な

用語とごく近いものである︒けれども一見して気づくことで

あるが︑この図式では︑﹁結果﹂(随伴的結果も含む)に狛立したカテゴリーが与えられていない︒⑫日常的な図式では︑

一般に﹁結果﹂の概念に強いアクセントが置かれている︒ま た︑我々が普通︑行為をひとまとまりの完結性をもつものとして取出すことができるのは︑﹁結果﹂の概念によってであパiソンズが﹁目的﹂﹁状況(条件と手段)﹂﹁規範﹂で十

分であるとする基準は︑・おそらく次のようなものであろう︒

これら三つを独立変数としてとれば︑その行為がどのような

ものであるか︑従ってまたその﹁結果﹂も予測・記述できる

から︑﹁結果﹂は従属変数である︒また時間的プロセスとし

ての行為の﹁単位トがいわれるとき︑パlソンズはその﹁単

位﹂の区切りの問題には言及していないが︑それは︑﹁質点﹂

が﹁拡がり﹂をもたないように︑﹁単位行為﹂に﹁対応規則﹂

を与えておく必要がないと考えたのか︑あるいは同一の目的

と手段が採用されている限り︑単一の行為であるということ

かもしれない︒このように考えてくると︑パlソンズが﹁結

果﹂の概念に︑分析的な独立性を与えないのは︑首肯できる

ように思われる︒

では︑日常的な図式における﹁結果﹂の概念の比重の重さ

は︑どういう意味をもっているのだろうか︒先程︑﹁状況﹂

などの独立変数の具体的値いが与えられれば︑行為のコlス

を予測しうると述べた︒けれども﹁状況﹂には他の行為者も

含まれ︑この他者の反作用は︑不確定な要素となりがちであ

るし︑また無際限と考えられる﹁状況﹂の内から︑どれだけ

の範闘が変数としてカヴァーされなければならないのか︑と

‑ 5ー

(6)

いう問題は確定することができない︒思いもかけない状況の

要素が︑行為に影響を及︑ぽす可能性が常にあり︑この可能性

は行為の事前分析では︑完全には把握しえないものである︒

このような不確定性の認識が︑日常的図式における﹁結果﹂

概念の重要性の一つの理由であろう︒つまり不確定な要素の

影響を︑﹁結果﹂という事後的な概念によって︑総括するの

である︒けれども︑事後分析によって︑﹁思いもかけなかっ

た結果﹂が見出されても︑事前に視野に入れられていなかっ

た﹁状況﹂の要素が発見されれば︑再会ひこの﹁結果﹂は︑﹁状

況﹂﹁目的﹂﹁規範﹂の従属変数として記述できるから︑﹁結

果﹂の概念を独立させる必要はなくなる︒だから︑﹁結果﹂

は事前・事後分析のズレを発見するためのいわば戦略的な概

念であると考えられる︒

特に︑事前・事後分析のズレ︑あるいは﹁目的﹂と﹁随伴

的結果﹂との予盾・インバランスが︑分析の中心的問題とな

る場合には︑﹁結果﹂の概念を独立させておく必要性はかな

り高いように思われる︒たとえば︑このような問題の重要な

一ケ

1スである公害問題では︑公害を引起した加害者の図式

と被害者の図式が一致しない場合が多い︒事前分析と事後分

析との本来的なズレに加えて︑加害者の側の図式では︑﹁ロ

的﹂と﹁主要な結果﹂との関係が中心とされ︑望ましくない

﹁随伴的結果﹂への注意が歪曲・抑圧されやすい︒他方︑被

害者が企業の行為を分析する図式においては︑﹁随伴的結果﹂ こそが重要な意味をもってくる︒つまり︑﹁目的﹂の公共性を重視する立場と﹁随伴的結果﹂を告発する立場の対立が︑採用する分析図式の違いと結びつくのである︒このようなケiスに︑パlソンズの目的

i

手段図式のみを適用するのは︑

片手落ちであるし︑﹁目的﹂と﹁随伴的結果﹂のバランスを

考慮する態度も︑生ビにくいであろう(もっと一般的に︑フ

ィードバックにがける﹁結果﹂の概念の重要性も無視できな

い)︒従って︑行為を記述するために最小限必要な独立変数は

何かという︑一般理論的レヴェルでは︑﹁結果﹂のカテゴリ

ーを独立させる理由はないが︑不確定な要素に考慮を払うと

すれば︑あるいは図式を適用する具体的状況によっては︑(特

に﹁随伴的結果﹂を見落さないために)︑パi

ソンズの白的│

手段図式に︑﹁結果﹂の概念をつけ加える方が︑戦略的には

有効であると考えられる︒

ところで︑﹁主結果﹂と﹁随伴的結果﹂のバランスを重視

する図式は︑ウェlバlの﹁責任倫理﹂の類型に内在的であ

った

︒パ

lソンズは﹁責任倫理﹂に関するウェlパlの議論

を知っていたはずだから︑彼が﹁結果﹂のカテゴリーを省い

ているのは︑たしかに誤りとはいえないけれども︑﹁結果﹂

が必要かどうか︑について少しも議論を費していないのは︑

若干不自然な気がする︒彼が﹁結果﹂の概念を軽視している

理由を︑別の観点からいくつか指摘しておきたい︒

パiソンズの図式は︑その一般性が主張されてはいるもの

一 6

(7)

の︑やはり彼の特殊な問題関心にあわセて設定されでいる︒

﹁秩序問題﹂の文脈でも︑内的な拘束によって形成される秩

序が問題にされており︑彼の関心は行為の動機や意図の平面

に向けられている︒この観点からすれば︑﹁結果﹂は偶然的︑

周辺的なものとなる︒このような考え方には︑故意犯こそ最

も危険であるとする刑法思想の影響を指織することもできよ

う︒あるいは︑﹁結果﹂はどうであれ︑﹁成功﹂に向って﹁努

力﹂することが重要なのだ︑というヤンキー気質の影響なの

かもしれない︒⑭ 

︑ パ

l ソンズによる実証主義批判

パlソンズのいう﹁実証主義﹂とは︑一方の極に功利主義︑

他方の極に二種類の﹁極端な実証主義﹂を含む︑かなり広汎

な思潮に与えられている用語である︒経験的な実証科学のみ

が︑外界.に対する人間の唯一可能な意味ある認識的関係を構

成している︑という見解を︑暗黙のうちにせよ含んでいる理論システムが︑実証主義と呼ばれる喝

ま︑ず︑功利主義的理論システムの特徴として︑以下の四点

が指摘されている︒

川原子論︒概念的に孤立させた単位行為の属性からの直

接的一般化のみによって︑つまりシステムにh叩ける創発的属

g

S

哲 三

82

々を考慮することなく︑行為システム

の諸属性を推論していた︒

ω A u m

一牲

の一

想範

手 段

11

1目的関係を支配する規範のう

ち ︑

5可回口白山口な合埋性の規範という特定の一つのタイプが過

度に強調され︑他の規範的要素についての積極的な概念が欠

如していた︒合理的な規範からの逸脱は︑否定的な言葉で描

写されるだけであった︒つまり行為者は純粋な科学者と同一

視されていた︒

制目的のランダムネス︒原子論的傾向の帰結として︑合

理的な単位行為からなるシステムにおける諸目的聞の相互関

係については︑何も述べられていない︒目的は︑統計的な意

味で全くランダムであると仮定されていることになる︒けれ

どもこのような仮定は︑経験的にも正しくないと考えられ︑

またランダム性を前提とすることは︑科学的研究に対して究

極的な限界を設けることであり︑科学は本来的にこのような

前提を嫌うとされる︒パlソンズは︑ランダム性に対立する

何らかの規則性を認識するのが︑科学の仕事である︑と考え

ているのである︒このランダム性の否定は︑﹁秩序問題﹂へ

の一つの導入部となっている︒

州経験主義︒これは﹁分析的リアリズム﹂に属する問題

であるから︑ここでは省略せざるをえない︒

ランダム性の仮定が功利主義に内在的な不安定性をもたら

し︑これをめぐって実証主義が功利主義を離脱し︑極端な実

証主義に到る契機は二つある︒目的のランダム性を回避する

一つの方法は︑手段の選択に際してのみ︑科学的知識が作用

‑ 7 ‑

(8)

するという功利主義の見方を拡大して︑目的の選択も科学的

知識に基づいている︑と考えることである(﹁極端な合理主

義的実証主義﹂可けれども︑これは︑現在及び過去の状態に

ついての科学的知識に基づいて予測された未来の状態を︑﹁目

的﹂へ転化させるという考え方である︒この考え方は︑分析

的意味での﹁目的﹂カテゴリーを﹁状況﹂に同化させ︑功利

主義では保存されていた﹁目的﹂概念の分析的独立性を破壊

していると批判される︒なぜなら︑行為者自身の予測が遮確

であるとすれば︑エゴないしセルフとしての分析的意味での

行為者の作用が介在しなくても︑その目的は実際に生起する

はずだからであろう︒目的実現の過程で﹁努力﹂が必要とさ

れるが︑これは有機体的エネルギーの消費であり︑﹁条件﹂

に属する︒また︑﹁目的﹂の独立性がなくなれば︑﹁手段﹂

と﹁条件﹂の区別は‑無意味になるから︑結局︑行為は︑行為

者が左右しえない﹁条件﹂に対する合理的適応のプロセスと

なり︑行為者の積極的役割は︑﹁状況﹂を理解し︑その未来

の発展のコlスを予想することに縮減されてしまう︒

右のように︑パ!ソンズは︑行為者の側での科学的知識の

応用と判断という情報処理のプロセスを︑エゴないしセルフ

としての行為者の作用であるとは考えていない︒パl

ソン

の科学的知識に関する考え方は︑非常に独特であって︑注意

を要する︒パlソンズによれば︑科学的知識はたしかに行為

者の主観的要素ではあるけれども︑それは経験的外界のみ午 レファレンスをもつものであるから︑その内容はいわば客観的なものごとの﹁反映﹂であって︑非主観的な用語によって表現されることができる︒つまり科学的知識は︑行為が﹁条件﹂によって規定される際の︑単なる﹁媒体﹂にすぎないと考えられているのである︒それに対して︑宗教は﹁超自然的な実体﹂ないし世界の﹁非経験的側面﹂にレファレンスをもつものであるから︑非主観的・客観的な用語には還元できないとされるのである︒ここからわかるように︑環境・遺伝などの﹁条件﹂と︑行為者の心の中に抱かれる﹁観念﹂とがまず区別され︑さらに︑﹁観念﹂のうちでも︑科学的知識などの客観的認識的側面が︑﹁条件﹂へ左還元され︑結局︑条件的要素といわば純粋に主観的な観念的要素が峻別されているのである︒このような独特なダイコトミi

の表

現と

して

パlソンズはさまざまな対概念を用いているが︑ここではと

りあえず︑﹁非主観的(ないし条件的)カテゴリー﹂と﹁主観

的カテゴリー﹂という用語を採用しておこう︒さらに︑﹁非

主観的用語で定式化できる主観的カテゴリー﹂(∞・∞

‑ P ‑

ヲ∞品)という一言葉で︑科学的知識ないし合浬慢の規範が︑﹁主

観的カテゴリー﹂に含まれないことを明示している場合もあ

る︒この二分法が︑パlソンズの実証主義批判の主要な武器

であって︑単位行為の図式にみられた独特な分析の仕方も︑

この二分法を導出するためであったといってもよい︒こうし

てみてくると︑実証主義とは︑行為をもっぱら﹁条件的要素﹂

‑ 8

(9)

の画数であると考える立場と定式化すれば︑パlソンズの議

論を適切に要約したことになるだろう︒

きて︑第二の極端な実証主義は︑合理性の規範という﹁媒

体﹂さえも放棄してしまう立場である︒行為は﹁条件﹂に対

する完全にオートマチックな反応とみなされ︑行為図式の﹁主

観的カテゴリー﹂は捨て去られる(﹁極端な反知性主義的実

証主義﹂︒行動主義・ダーウィニズムなど)百以上の二つの極

端な立場は︑行為を︑究極的には非主観的な条件(遺伝と環

境)によって説明しており︑パlソンズはこれらを︑﹁機械

論的決定論﹂として批判している︒

こうして︑実証主義は︑功利主義かラディカルな実証主義

かという﹁功利主義のディレンマ﹂に陥入っているといわれ

る︒このデイレンマの両方の角に対するパl

ソン

ズの

批判

は︑

次のように要約できる︒功利主義に・おいては︑﹁主観的カテ

ゴリー﹂のための席はあけられていたが︑システム・レヴェ

ルにおけるランダム性を帰結している︒極端・な実証主義は︑

﹁価値要素﹂つまり﹁主観的カテゴリー﹂を位置づけること

に失敗している︒ランダムネスの回避︑すなわち行為の斉一

性については︑﹁条件﹂の反映として生ずる斉一性しか把握

していず︑とくに反知性主義的立場では︑動物と同じレヴェ

ルでの斉一性を問題にするにとどまっている︒

次に︑単位行為からレヴェルを一段上げて︑システムの問

題に

移ろ

う︒

四 ︑ 秩

題⑬ 序 間

パlソンズによれば︑ホップズの社会理論は︑典型的な功

利主義の特徴を示しており︑目的のランダム性の合意を定式

化してゆく過程で︑﹁秩序問題﹂胃

o v r s

o

o E 2

を最もラ

ディカルに提出した︒パiソンズの関心は︑ホップズの社会

契約の思想にではなく︑その基礎にある︑万人の万人に対す

る戦い︑という自然状態の概念に向けられている︒

盲目的な欲望によってランダムに決定される目的︑手段の

選択にのみ作用する理性︑善悪の共通の規則は存在しないこ

と︑という点で︑ホップズの自然状態の理論は︑功利主義の

ほとんど純粋なケlスであるといわれる︒資源の稀少性を前

提とすれば︑ランダムな目的の追求は︑互いに衝突しあい︑

このような状況では︑最も有効な手段は︑結局のところ︑カ

と詐術﹃O

円口

惜世

﹃丘

﹃日

丘と

なる

︒功

利主

義の

図式

では

︑ご

力と詐術の採用を排除することができないから︑社会システ

ムは戦争状態と考えられることになる︒このような帰結は︑

一般に経験的事実に反するけれども︑かつてなかった程︑問

題をはっきりと定式化したという点で︑パ1ソンズは志ツプ

ズを評価している︒

ホップズの提出した︑権力問題が秩序問題の中心的位置を

占めているという観点は︑その後長い間(マルサス︑マルク

スまで)無視されたり︑暗黙の仮定によって隠蔽されること

‑ 9 ‑

(10)

になったといわれる︒例えばロックの自然状態では︑理性に

よる統御が働いており︑理性は情念の召使いではない︒理性

ある人聞は︑目的の追求に際して︑他者の自然権を尊重する

という規則に服従すべきであり︑また自己の直接的な利害関

心をある程度犠牲にすることが︑結局はすべての人間の目的⑬ の達成のための条件であることを︑各人が理性的に認識する

から︑彼らは一一般にこの規則に従うであろう︒ロックの場合

には︑功利主義的関式に固有ではない規則という規範的要素

の導入によって︑功利主義的合理性に従えば不可避であった

危険な手段の採用に︑制限が謀せられている︒けれども︑各

人の利害関心が︑究極的には矛盾しあうものだとすれば︑ロ

ックのいうように他者の権利を尊重し︑自己の利害を犠牲に

することは︑ありえないだろう︒だからロックの立場は︑﹁利

害関心の自然な一致﹂という﹁形而上学的な前提﹂を基礎に

している︑とパlソンズは批判している﹃

パiソンズによれば︑ロックの﹁利害関心の自然な一致﹂

によるホップズ問題の回避は︑古典経済学の発展に道を開く

という皮肉な帰結をもたらした︒目的の追求における手段に

は︑権力と詐術などの暴力的な様式と︑共同の目的の下の協

力およびサlヴイスや財の交換という平和な様式︑というこ

つの部類がある︒後者が重要な比重を占めるためには︑前者

がコントロールされていなければならない︒しかし︑このコ

ントロールの問題が理論的に解決されていると前提すること ができれば︑後者の現象に︑理論的関心を集中できる︒功利主義は︑前者の種類の手段が統御されている状態︑つまり秩序がある程度存在するという事実を︑理論的に説明することには失敗していたが︑このギャップをロックの仮定によって埋めていた︒こうして分業と交換を出発点とする古典経済学は︑幸運なエラ1の下に発展することができた︑とパl

ソン

ズは述べている︒そして︑経済学が前提にしている﹁秩序問

題﹂の解決こそが︑パlソンズにとっての社会学の仕事なの

である︒以上のように︑パiソンズの社会学は︑﹁秩序問題﹂

を媒介にして経済学と接合している︒之れは︑経済学から次

第に社会学の研究へ移ってきた彼自身の経歴と対応している︒

ところで︑パ!ソンズの発想において︑﹁秩序問題﹂に至

るル

lトとしてニつを区別できるように思われる︒第一は︑

行為システムに何らかの認識可能な規則性を見出そうとするアプローチ吻これは︑具体的現象が︑何らかの規則性を含む

ことを前提とする分析的リアリズムの最も基礎的見解に由来

する︒第二は︑ホップズを経由して︑ランダム性に戦争状態

という解釈が与えられ︑社会が維持・存続するためには︑こ

の戦争状態を抑止する何らかのメカニズムがあるはずだ︑と

いう要件論的アプローチ︒第二のアプローチは︑第一のアプ

ローチの延長上にあるが︑目的論的アプローチが補強されて

いる︒これはいうまでもなく︑後年の機能主義の萌芽である︒

要件論的アプローチは︑統合モデルと結びつけられると︑現

‑10

(11)

状維持的・保守的イデオロギーという批判を蒙りやすい︒こ

の批判の当否はさておくとしても︑小なくとも第一のアプロ

ーチは︑このような批判とは無縁であろう︒

︑ 規 範 的 要 素

﹁非主観的カテゴリー﹂と﹁主観的カテゴリー﹂のダイコ

トミ

lについてはすでに述べた︒この二分法よりも︑より頻

繁に用いられるもう一つのダイコトミーがある︒﹁非規範的

要素(条件的要素)﹂と﹁規範的要素﹂のダイコトミーであ

る︒この二つの二分法は︑よく似ているが︑全く重なるもの

ではない︒﹁規範的要素﹂よりも︑﹁主観的カテゴリー﹂の方

が︑より広い概念であり︑この違いは両概念がそのために用

いられる問題の違いに由来すると考えられる︒

規範的という諮の定義を引用しておこう︒﹁あるものが︑

山集合体の成員達にとって倒集合体の一部の成員遼にとって

間単位としての集合体にとって︑それ自体目的である(他の

目的のための手段であってもよい)という感情を︑一人以上

の行為者に抱かせるような︑行為システムの一つの側面︑部

分ないし要素に︑ふさわしい語として︑規範的という用語が

用い

られ

る﹂

(∞

・∞

‑ p w

‑ U

1 9 0

この定義の特徴は︑ある要素

が︑成員聞に共通して望ましいと認められていること︑ない

し認められるべきだと行為者が考えているということ︑つま

り成員間における共通性(ないし共有性)が強調されている

こと

であ

る︒

規範は︑規範的要素の一つである︒上の引用文のすぐ後に︑

﹁規範とは︑望ましいと考えられている行為の具体的コlス

の遂行を︑行為者に命令する言語的な記述である﹂(∞・∞

‑ P ‑

HY

吋印)と定義されている︒この定義だけならば︑単位行為に

関連して述べられていた﹁手段と目的を関連守つける基準﹂と

いう定義と変わらない︒けれどもパiソンズの論旨の展開に

おいては︑成員聞に共通する規範的要素としての規範が︑重

要なのである︒だから何らかの一般的な妥当性を主張できな

いような基準︑つまりある特定の行為者のみが独特に採用し

ている基準がありうるとしても︑そのような基準は︑規範的

要素としての規範から排除されているのである︒規範的要素

のもう一つの主要な要素は︑目的であるが︑これについても

同様

であ

る︒

以上から明らかなように︑﹁規範的要素﹂という概念は︑

複数の行為者から成るシステムを前提にしてむり︑複数の行

為者による共通の承認ということを含んでいる︒この点で︑

﹁主観的カテゴリー﹂と異っている︒﹁主観的カテゴリー﹂

は︑成員による承認・不承認とは関係のない概念であり︑特

殊個人的な基準や目的をも包摂していたはずである︒﹁規範

的要素﹂の概念は︑成員聞の共通性という意味を付け加える

ことによって︑﹁主観的カテゴリー﹂をより狭く限定してい

る︒﹁非主観的カテゴリー﹂と﹁非規範的要素﹂は同一と考

(12)

えて

よい

ところで︑パiソンズは社会的規範を﹁規範的要素﹂と考

えているけれども︑それは︑個人行為者にとって外在的であ

り︑コントロールできない側面を持つから︑前の定義によれ

ば︑﹁条件的要素﹂に属するのではないか?けれども︑パ

iソンズは︑規範は人間一般にとって左右しうるものである

として

( ω

‑ P

・ ∞

司 ・

8

‑ v

弓@)︒それを﹁条件的要素﹂と

は考えていない︒とすれば︑行為者が制御しえない状況の要

素という︑﹁条件﹂の定義を拡張して︑人間一般のコントロ

ールと定義しなおすべきであろう︒こうして︑パlソンズの

用いる最も主要なダイコトミlは︑﹁非規範的要素﹂と﹁規

範的要素﹂の区別である︒

﹁主観的カテゴリー﹂と﹁規範的要素﹂は混在して用り勺

れる場合もあるが︑問題がシステム・レヴェル︑つまり﹁秩序問題﹂に進むにつれ︑後者にカ点が移動しているゆこの移

行は︑パlソンズの﹁秩序問題﹂がシステムの統合的側面に

焦点があわされていることと関連している︒つまり︑﹁主観

的カテゴリー﹂から︑個人的ないわば非社会的な側面が︑脱

落させられているのは︑これらの要因が︑システムにおいて

は︑ランダムなものあるいは闘争を招くものとして現われる

から︑行為の規則性あるいは統合を問題にする﹁秩序問題﹂

のレヴェルでは︑当面の議論にとって︑必要のないものと考

えられたからであろう︒

こう

して

1ソンズは︑﹁人間は︑諸刺激に単に反応する

だけではなくて︑行為者ど集合体のメンバーによって塑まし

いと評価されるパターンに︑自分遠の行為を一致させようと

する(これが規範的指向│引用者)︑するという経験的事実﹂

( ∞ ・ ∞

‑ p w

uぷ)を分析の出発点にして︑この規範的指向を︑

行為の根本的な要素とみなすことになる︒

けれども︑この﹁経験的事実﹂の反面︑つまり共通のパタ

ーンに一致しない行為の可能性が存在することも確かである︒

パiソンズの主旨は︑後者を否定するのでは会くて︑前者の

事実に問題領域を限定する︑ということである︒このことを

彼は明確に自覚していて︑次のように述べている︒﹁空間が

古典力学にとって︑根本的であるのと同じ意味で︑規範的指

向は︑行為図式にとって根本的である︒:;空間的位置の変

化以外に運動がないのと同様に︑規範に従おうとする努力

え﹃︒吋件以外に︑行為はない︒どちらの場合も(力学と行為理

論│引用者)この命題は︑定義ないし定義からの論理的な帰

結である︒けれども︑人間行為が︑実際に規範的に指向して

いるかどうかという問題を提起することは︑今の目的にとっ

て必

要が

ない

( ω

‑ P

・ ∞

・叶

日・

)︒

この

文章

は要

する

に︑

ステム・レヴェルにおいて採用されている概念閲式を明示し

ているものと考えられる︒﹁規範に従おうとする努力﹂とい

う行為の定義スケッチは︑彼の種々の定義スケッチの中で︑

(﹁秩序問題﹂が彼の第一のテlマであるとするならば)最

‑12‑

(13)

も直裁的な表現であろう︒

⑫ 

構 造 的 要 素

パlソンズは︑行為システムの﹁構造サという概念と結び

つけながら︑﹁規範的要素﹂のより詳しい議論を行っている︒

﹁規範的要素﹂の諸種類が述べられ︑それらが成員間に﹁共

通﹂していることに加えて︑行為者に対して﹁拘束﹂的な意

味をもっていること︑さらに様々な﹁規範的要素﹂が相互に

矛盾した関係にあるのではなくて﹁統合﹂されていることが

強調されている︒これらの﹁共通性﹂﹁拘束性﹂﹁統合性﹂の

三つが︑行為システムにあらわれる行為の斉一一位邑﹃Oヨ岳可

を説明することになる︒

行為システムの構造的要素は︑次の三つのグループにまと

められている

3

‑ P

・ ∞

司 ・ 己

2

)︒

究極

的な

﹁条

件﹂

ある

は﹁手段﹂を構成する遺伝と環境が第一︒第﹂一は︑一

2 5

5

な手段│目的関係の中間の領域主巾﹃

g a E

印由

凸ざ

﹃︒

第三

は︑究極的価値システムのまわりに凝集している諸要素であ

る︒この第三グループは︑もちろん﹁主観的カテゴリー﹂﹁規

範的要素﹂に対応するものであるが︑それほど明確に定式化

されてはいない︒特に︑初期パlソンズにおいては︑文化体

系・パーソナリティ体系・社会体系が︑行為体系から分化し

ていず︑また﹁制度化﹂と﹁価値の内面化﹂のメカニズムが

理論化されていないので︑三つの体系における﹁価値要素﹂ が未分化の状態にある︒﹁制度化﹂と﹁内面化﹂を媒介として﹁制度的統合﹂を説明する後年の

25 5

理論化と比較す

れば︑それぞれの体系の分化と相互関係の分析は欠けている

が︑それぞれの体系に含まれる諸価値要素を︑何か一つのよ

り根本的と考えられるもの(﹁共通価値システム﹂や﹁究極

的価値態度﹂)へ遡らせて︑行為システムの統合的側面を主

張する傾向は︑既に強く認められる︒例えば︑﹁究極的価値

システムのまわりに凝集している諸要素﹂といわれる時には︑

おそらく文化体系が中心の軸となっているが︑﹁究極的価値

態度

﹂z

z

s R

∞話

}E

巾忠吾邑巾という用語が中心的位置を

占めている場合も多い︒この場合には︑﹁規範的制度﹂﹁儀礼﹂

﹁究極的目的﹂﹁態度の表現の様式の規範﹂などは︑この﹁究

極的価値態度﹂の﹁現われ﹂

S S F

伯仲恒三02ないし表出

a i r g

臼芯

ロで

ある

とい

われ

q究極的価値態度の一例は︑かの

プロテスタントの禁欲的態度であり︑つまり価値システムが

パーソナリティに﹁内面化﹂されている状態を意味している

ので

あろ

う︒

諸要素の統合についてのパlソンズの説明は︑(デユルケ

lム

︑ウ

lパーを扱っている掌での間接的な補強を除けば)

分析的レヴェルにとどまって経験的レヴェルに踏みこむもの

ではないので︑それほど実のあるものではない︒例えば︑中

間的セクターの最

t

位に︑価値システムと接して位置する究

極的目的相互の関係は︑ひとつの一貫した

g Z 2 2

シス

‑13‑

(14)

ムを形成している︑とパlソンズは考えているが︑その理由

は次のようなものである(∞∞・﹀

‑ b v

立・

1ある個人に

関して︑彼が目的を選択する場合︑それがでたらめな選択で

はなくて︑ある程度分別のある埋にかなったものであるとす

れば︑それらの目的が相互に関連しあって選択肢を構成して

いるはずである︒この限りで究極的目的は︑統合されたシス

テムを構成しているといわれる︒次に︑この究極的目的の体

系は︑諸個人の聞においても︑ランダムではなくひとつの共

通なシステムに統合されていると考えられる︒その理由は︑

もしそうでなければ︑﹁万人の万人に対する戦い﹂に陥入っ

てしまうからである︒

以上の議論で注意しなければならないのは︑ホップズに対

する批判としての﹁秩序﹂は︑具体的レヴェルでいわれてい

るのではなくて︑﹁秩序﹂という分析的属性が存花するとい

うことだけであって︑そこから出発すれば︑究極的目的の統

合されたシステムの存在を仮定する必婆があるということで

ある︒パlソンズ自身この仮定の一面性について注意を喚起

することを忘れてはいない︒﹁(このように仮定することは

i

引用者)社会それ自体の性格にある意味で内在的なものとし

て見出されるところの︑社会秩序の基礎についてのひとつの

解釈に途を開くだろう︒この要素(統合された究極的目的の

システム

l

引用者)が︑経験的な重要性をもちうるかどうか

は︑本質的に事実問題であり︑抽象的・分析的であるここで の議論のみによっては答えられない問題である﹂

( ω

‑ p

・ ∞

w

甘・

自宅

つま

りパ

lソンズは︑﹁秩序﹂以外の分析的属性を

否定するのではなく︑ただ問題として扱っていないだけなの

である︒だから︑﹁批判者は︑この図式に適合しない現象が

存在することばかりではなく︑この図式に適合する現象が存

在しないことをも証明できなければならない﹂

( g z g

己 申

︿伊]己巾♂目

yB

∞)ということになる︒

このようなパlソンズの立場は︑ダiレンドルフの二元論

と似ているように思われる︒ダ!レンドルフは︑社会生活の

統合と闘争の二側面の存在を指摘し︑この二側面を同時に理

論化することは困難であるとしながらも︑パlソンズが統合

モデルに偏向していると批判したが(邦訳﹁階級および階級

闘争﹄害・出アNNS︑右に引用した文章は︑パiソンズ自身が

既にそのことについて︑ある程度意識していたことを示して@ 

いる

c

‑14‑

中間的セクター(この領域に関する諸問題一については︑パ

iソンズは主にパレlトの﹁論理的行為﹂の分析を出発点に

している)は︑一三ユコ己凸な領域と定義されていたから︑合理

性の規範への指向から生ずる規則性は︑既に前挺されている︒

けれども︑それだけでは︑手段

目的の長い連鎖のどこか

l

で︑究極的目的の体系を侵害する行為が出現する可能性を封

じこめることができない︒そこでパlソンズは︑デユルケl

ム解釈を通じて︑道徳的規則の体系としての﹁制度﹂の概念

(15)

を導入する︒デユルケlムは︑規範の拘束性の第一の源泉は︑

道徳的義務の意識であり︑利害の打算に訴えるサン夕︑ンヨン

は第二義的な様式であるとした﹃ここでパlソンズが︑この

道徳的拘束性をもっ規範の概念を︑合理的な規範につけ加え

ることによって︑行為が少なくとも二重の指向︑有効性の規範と制度的規鞠への指向をもっていること︑とくに一般的に

﹁規範的要素﹂の﹁拘束性﹂を強調していることに注意したい︒

以上のような性格をもっ﹁規範的要素﹂と行為システムの

規則性との関係について︑パlソンズは﹁事実的秩序﹂と﹁規

範的秩序﹂という概念を用いてまとめていると考えられる︒

﹁事実的秩序﹂とは現実に観察される状態のことであるが︑

﹁規範的秩序﹂については納得のいく説明が与えられていな

い︒規範的要素に行為が完全に一致している極限的な統合状

態とも考えられるが︑それでは︑パ

lソ与ズが排斥する理

念型的概念ということになってしまう︒ここでは﹁規範的秩

序﹂という語を︑﹁事実的秩序﹂の背後に規範的指向が潜ん

でいることを指し示す概念︑と解しておきたい︒﹁:::規範

的姿素は︑特定の事実的秩序の維持のために︑本質的である︒

プロセスが︑ある程度規範的要素に従っているとき︑事実的

秩序は存在する﹂﹁:::一定の規範的要素が効果的に機能し

なければ︑事実的秩序は安定性を保ちえない﹂(∞・∞

‑ P ‑

CN

事実的秩序の形成・維持のメカニズムには︑種々考えられ るだろう(例えば︑ハチ・アリの社会にみられる本能的メカニズム︑あるいはニホンザルの順位制など)︒けれどもパlソ

ンズは︑生得的なものでも︑アメとムチによるものでもない︑

人間レヴAルに独自な規範的要素が作用している限りでの︑

事実的秩序を問題にしているのである︒

以上にわたって︑初期パiソンズの主意主義的行為理論を︑

特に﹁秩序問題﹂にアクセントを置いて検討してきたが︑﹂

応のまとめのために︑経済学や政治学と社会学の関係につい

ての

lソンズの定式化を参照しておこう︒パl

ソン

ズは

中間的セクターの分析的属性として︑技術的要素円

a g ‑

E

口担

}巾

}巾

ヨ恒

三の

他に

︑二

つの

創発

的属

性を

挙げ

てい

る︒

経済的要素

2 8 0 5

3 2

円︒単一の目的に対する要目的

な手段の考慮という技術的問題に︑さらに複数の目的と手段

の相対的な稀少性という要因が関連してくる場合には︑手段

のコスト︑及び複数のオlルタナテイヴな目的聞の緊急性が

問題になってくる︒この要素は︑あるひとりの個人の行為シ

ステム(クルiソ!の経済学)にも︑また複数の偶人を含む

システムにも存在する要素であるが︑複数の行為者からなる

システムを問題にすれば︑政治的要素がさらに画面に入って

くる

‑15‑

政 治 的 要 素

} E

E ‑

巾}

23

3円

︒交

換や

協同

など

によ

る手

獲得の他に︑強制力

2 2

E

︿冊目当者ミの行使による手段獲得

の可能性があり︑従って強制力それ自体が近似的目的となり

(16)

うる︒権力の無限定的な行使は︑システムの安定性を脅やか

すから︑ここに社会秩序の問題が現われてくる︒そこで︑諸

個人の関係の権力的側面に︑何らかの規制が作用していなけ

ればならない︒権力闘争の可能性と︑さらにこの闘争が政府

の強制力によって規制されている限りでの秩序の側面とを含

めて︑パiソンズは政治的要素と呼んでいると思われる︒こ

の要素の中に︑パlソンズはホップズ的秩序問題を再定式化

している︒ホップズに対する批判は︑彼が政治的要素のレヴ

ェルにおける秩序しか問題にしていなかった︑ということで

ある︒ロックに対する批判は︑政治的要素以外に︑秩序の要

素が存在することを指摘したことは︑正しかったが︑それの

説明は︑﹁利害の自然な一致﹂という楽観的な前提に依拠し

ていた︑ということである︒

さらに︑中間的セクターからは離れるが︑もう一つの要素

がつけ加えられでおり︑これを仮りに﹁社会学的要素﹂と呼

ぶことができよう︒秩序問題の解明のためには︑物理的強制

力の独占という政治的要素の他に︑諸行為者が︑共通価値シ

ステムによって統合されているという側面を︑視野に入れな

ければならない﹃この問題を扱う科学が︑パlソンズによれ

ば社会学である︒﹁社会学とは︑社会的行為の体系が︑共通

価値統合

85 58 ES 巾Z 富市 句

SZロという属性の見地から

理解されることができる限りにおける︑これらの体系の分析

的理論を発展させようとする科学である︑と定義できるだろ

う﹂

(∞

・∞

‑ P ‑

唱 ・ 斗

g y

この定義の中に︑初期パl

ソン

ズの

つの主要なテlマが要約されている︒すなわち︑価値システ

ムそれ自体の探求と︑それを媒介にして成立する秩序の解明

である︒これを︑構造制御情報のいくつかのタイプと︑特に

政治的側面に関する情報論的制御の問題といいかえることも

でき

よう

︒一

一つ

のテ

lマの相対的比重に・ついては︑右に引用

した社会学の定義をみれば︑﹁秩序問題﹂が第一のテl

マで

あるとみることもできる︒いずれにしても︑初期のパl

ソン

ズにおいて︑﹁秩序問題﹂が既に大きな比重を占めているこ

とに変わりはない︒

七︑主意主義の解釈について

‑16‑

多くの論者が︑初期パ1ソンズを問題にする時︑必らずと

いってよいほど引合いに出す主意主義という言葉は︑半ば合

い言葉化されていて︑それは︑個人の能動的創造的側面を重

視するというかなりロマンチックな立場を表現する用語として用いられている吻けれどもパlソンズの主意主義は︑その

ように符丁化されている﹁主意主義﹂とは異っていると思わ

れる

確かに︑合い言葉化された﹁主意主義﹂に対応する言明が︑ ︒

パlソンズの著作の内に断片的に見出されないこともない︒

例えば︑﹁構造﹄に先立って書かれ(一九三五年)似通った

論旨をもっ﹁究極価値﹂論文の冒頭には︑﹁(実証主義は)人

(17)

聞が本質的に能動的︑創造的な︑評価する存在であるという

事実を暖昧にしている﹂

( g t g g

︒ぐ包

SF

MU

・槌

弓こ

れと

様の命題は︑﹁構造﹂中にも︑やや調子を落とした形で散見

される︒けれどもこのような命題がどれだけの合意をもって

いるのか︑ということを︑パlソンズは彼の理論と結びつけ

て限定してはいない︒従って︑右のような文章を︑初期パi

ソンズの全体に照らして限定する作業は︑読み手の側に残さ

れているということになる︒そこで︑これまで検討してきた

パ!ソンズの所説に従って解釈すれば︑右の文章中の人間の

能動性・創造性とは︑行為が﹁規範的要素﹂によっても規定

されており︑その際行為者は規範的要素に対して︑強制から

ではなく︑ぞれのもつ拘束性に誘発されて指向するのであり︑

またその規範的要素は︑条件的要素とは異って︑社会の成員

によって修正・創造されうるものである(この側聞をパlソ

ンズは︑付言するだけで十分に議論してはいない)︑という意

味にすぎない︒

先に引用した文章を︑

A7

述べた規範的要素に関する能動性

創造性にとどまらないもっと積極的な合意をもつものと解釈

して︑主意主義とは個人の﹁主体性﹂を強調する立場である

とか︑パlソンズの主意主義の中に一種のズレがある'とする

見解は︑例えば佐藤勉氏に見られる︒佐藤氏は﹃社会学的機

能主義の研究﹄(H

巧同

)の

中で

︑パ

lソンズの主意主義を︑

﹁創造的主意主義﹂(﹁究極価値﹂論文に見られるような行為 についての﹁哲学﹂的前提をさす)と﹁規範主義的主意主義﹂(規範的要素の重視)とに区別し︑二つの主意主義の問に一種の断絶を認めているのこの区別の背後にある佐藤氏自身の主張は︑﹁社会﹂対﹁個人﹂という図式を中心にしてゐり︑ここでの関連で要約すれば︑行為図式の中に︑﹁社会的要素﹂の他に﹁個人的要素﹂をとり入れなければならない︑と勺フことであろう︒佐藤氏はこの閲式にひきずられて︑先の引用文を読みこみすぎているように岡山われる︒たしかに佐藤氏のいう﹁創造的機能主義﹂は︑少なくともパlソンズの行為理

論のうち単位行為レヴェルのものとは非同立ではない(既に

みたように︑単位行為レヴェルでの﹁主観的カテゴリー﹂は︑

佐藤氏の強調する︑成員にとって共通ではないような︑個人

に独自な要素をも︑含みうる概念である)︒しかし﹁創造的機

能主義﹂は︑システム・レヴェルで展開されるパl

ソ ︑

J

行為環論にはあてはまらず︑佐藤氏はこのレヴェルを﹁規範

主義的主意主義﹂と呼んでいるようである︒とすれば︑佐藤

氏は結果的には︑主意主義を単位行為レヴェルとシステム・

レヴェルにおいてそれぞれ別個のものと従えてしまっている

ことになる︒けれども︑行為理論が単位行為レヴェルのみに

限定される理由はないし︑またシステム・レヴェルにおいて

は︑

iソンズ流の﹁秩序問題﹂が中心に設定されれば︑佐

藤氏のような﹁個人﹂対﹁社会﹂図式が表面にでてこないの

は当然であろう︒パl

ソ ン ズ の 場 合 に は

︑ 条 件 的 要 素 と

ヴ ︐

(18)

規範的要素の二分法に見られる通り︑﹁自然﹂対﹁文化﹂という

図式が中心なのであって︑これは﹁個人﹂的要素対﹁社会﹂

的要素というこ分法とは︑重なるものではなく交差するもの

であ

ろう

⑧ パlソンズは︑理論システムは﹁論理的に閉じたシステム﹂

を形成しなければならない︑と主張している如く︑理論シス

テムの論理的一貫性について︑敏感な理論家である︒従って︑

﹁究極価値﹂論文冒頭やその他で見られる命題の含意は︑他

の諸命題との関連において把握されなければならない︒また

パlソンズの議論に・おいて︑単位行為レヴェルの準拠枠がそ

れのみで独立の行為理論を形成しているとも考えられない︒

従って︑単位行為とシステム・レヴェルにおける議論を統一

的に解釈すれば︑パ!ソンズのいう能動性・創造性とは︑端

的に︑条件的要素に対して規範的要素がもっそれであると結

論できる︒とすれば︑佐藤氏の﹁創造的主意主義﹂という概

念は︑パlソンズ解釈としては︑不必要であろう︒佐藤氏の

解釈は︑諸命題の相互連関を重視せずに︑余りに断片的な言

明にこだわりすぎているように思われる︒これは︑佐藤氏と︑

﹁秩序問題﹂に焦点をあわせているパlソンズとの問題設定の違いに起因していよう海

パiソンズの能動性創造性の言明は︑彼の全体的な理論構

成からみれば︑やや遊離しているという印象を免れないが︑

では何故このような強調があえてなされているのだろうか? このような暖味な言明は︑直接的には実証主義の叶条件﹂決定論に対する批判という意味を担っていると考えられる︒けれども︑決定論(決定論とはどういうものを指すかという一般的問題には触れないことにする)に対するパiソンズの批

判の調子は︑不自然なほど声高である︒

ここでは︑グlルドナーの見解に従って(の円

E P

口宮

司・

パ!ソンズの決定論に対するポレミlクは︑ウェlパl

の ︑

官僚制の普遍的な進行に伴って社会は窒息し﹁化石化﹂して

しまうだろうというペシミズムに向けられていることによっ

て︑増幅されている︑と考えたい︒パ!ソンズは︑一九二九年の論郊の中で︑ウェlパlをマルクス主義批判として読み

ながら︑ただ官僚制の不可避的な進行というウェlパl

の﹁

定論﹂的な予言に関しては︑ウェiパiに対して疑念と不満

を表明している︒﹃構造﹄の中では︑﹁分析的リアリズム﹂

の立場からの﹁理念型﹂批判が︑ウェiパlのペシミスティ

ックな予言に対する表立った反論となっているが︑反決定論

の議論も︑実は実証主義に対するものというよりは︑むしろ︑

明示されてはいないが(ウェlパlは条件決定論には属さな

いか

ら可

ウェ

lパーにより多く向けられていると考えられる︒

﹁決定論﹂に対するパlソンズの論難は︑論理的にはさして

強力ではないが︑声高であるだけに︑かえって︑マルクスと

ウェ

iパiの現代資本主義社会についてのペシミズムを︑パ

iソンズが強く意識していることを窺わせるゆ

︒ ︒

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