• 検索結果がありません。

A.Zemlinskyの研究 : 歌曲を中心として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "A.Zemlinskyの研究 : 歌曲を中心として"

Copied!
99
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)AZem]inskyの研究 一歌曲を中心として一. 教科・領域教育専攻 芸術系コース(音楽). 杉本 奈緒 1.研究の動機と目的. には燗熟した芸術が新たな表現スタイルを 渡填中(1999−2000)、オーストリア出身の. 作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキー (Alexander Ze㎡lnsky 1871−1942)の存在とそ. の歌曲作品を初めて知り、その後期ロマン 派、近代の特徴を持った彼の作品に漠然と 興味をおぼえた。. 帰国してからツェムリンスキーについて 詳しく知りたいと考え、情報を収集しよう としたところ、そのあまりの少なさに驚 き、日本ではまだ知名度の低い作曲家であ ることを知った。収集した数少ない資料、 楽譜、.CDなどを参考にわずかながら知識を 持った上で彼の作品を再度聴いてみると、. 初めて耳にした時以上に私にとって一層興 味深いものとなり、本論文でツェムリンス キーを取り上げ、より深く理解したいと考 えた。それは、その音楽からブラームス (Johanns Bra㎞us 1833−1897)やマーラー (Gustav Mah畏er 1860−1911)、シェーンベルク. (Amold Sch6nberg 1874−1951)という同時代の. 代表的作曲家の影響、そして19世紀後半か ら20世紀前半における、調性音楽から無調 音楽への音楽的変容を強く感じたからであ る。. また彼の生きていた19世紀末ヨーロッパ. 求めて、各国に共通する一つの特徴的な芸 術運動「アール・ヌーヴォーA丘Nouveau」 を見せていた。この芸術運動、様式はドイ ツ、オーストリアでは「ユーゲント・シュ ティールJugend Stil」と呼ばれ、ツェムリン. スキーもこの運動のまっただ中でその影響 を受けていた、あるいはこの運動を担って いた一芸術家であるといえるであろう。. ヨーロッパにおいては、世紀末ウィーン の文化の再評価、特に美術、工芸、建築、. 文学等の分野でのユーゲント・シュテイー ルの再評価と平行して、彼は近年再評価さ れる傾向にある。ツェムリンスキーという. 作曲家は大作曲家シェーンベルクの唯一の 師であり、彼の才能をいち早く見抜き、対 位法を教えたという功績を評価されている が、実際のツェ:ムリンスキーの作品や音楽. 史上の意義についてはいまだ正当な評価を 受けているとは言い難い。. ツェムリンスキーの生涯や業績、当時の 時代性など踏まえて彼の残した歌曲作品を. 分析することによって、彼の音楽的特徴を 明らかにし、自らッェムリンスキーの音楽 史的意義を確認していきたいと考えた。.

(2) 2.論文の構成. 第5曲目「今は時」OP.274 ‘‘Jetzl ist dieZeit. 序. 詩:カーリダーサ. 第1章ツェムリンスキーをめぐる諸相. 第1節ッェムリンスキーの生涯 第2節 ツェムリンスキーが生きたウィーンの. 世相と芸術. 第1項世紀末ウィーンの世相 第2項世紀末ウィーンの芸術. (1937/38). 第3章. ツエムリンスキーの音楽的特徴と音楽史 的意義. 第1節. ッェムリンスキーの音楽的特徴. 第2節. ツェムリンスキーの音楽史的意義. 結び. 第3項反ユダヤ主義とナチスの台頭 第3節ツェムリンスキーを取り巻く作曲家と 歌曲作品の特徴 第1項ブラームスとの関わりとその歌曲作品 の特徴について. 第2項シェーンベルク、新ウィーン楽派との 関わりとその歌曲作品の特徴について. 第3項アルマ・マーラーとの関わり・人物・. 歌曲作品について. 3.今後の課題と展望. 楽曲分析ではツェムリンスキーの作風が 時を経てどのように変化していったかを探 るため、作品の成立時期ができるだけ均等 になるよう留意し上記の5曲を選出した。 歌曲に見られる範囲で可能な限りッェム リンスキーの手法や傾向を見つけ、また歌 曲の歴史における位置づけを行なってみた. 第2章 ツェムリンスキーの歌曲作品とその分. 析・考察 第1節ッェムリンスキーの歌曲作品研究の現. 状. が、歌曲5曲の分析のみで彼の音楽的特徴 や音楽史的意義を自ら定義することは難し く感じられた。もっと多くの作品、あるい はツェムリンスキーの主とする領域であっ. 第2節 ツェムリンスキーのテキストの趣向. たオペラ作品を考察することを通してより. 第3節 楽曲分析・考察. 体系的に彼を捉え、歌曲作品には見られな. 第1曲目「おやすみ」. い新たな要素を見い出すことが、ツェムリ. “Gute Nacht”(1889/90). 詩:アイヒェンドルフ 第2曲目「叩けよ、さらば開かれん」op.10−5 “Klopfもt,so wird euch au㎏etan”(1901). 詩:リンデン 第3曲目「あの人が戻ってくればlop.13・5 ‘‘Und kehrt er einst heim”(1913). ンスキーの理解を一層深め、彼の正当な評 さ. 価へとつながるのではないだろうか。. またッェムリンスキ門の歌曲研究を通じ て行なった自らの作品解釈をもとにッェム. リンスキーの演奏を実践し、演奏の方法論 を導き出すことが今後の課題である。. 詩:メーテルランク 第4曲目rいまだきみの息を頬に感じている」 NOGh SPUf ich ihren A恵eIロ,’(1916). 詩:ホフマンスタール. 主任指導教官 保坂 博光.

(3) 平成13年度. 学位論文 A.Zemlinskyの研究 一歌曲を中心として一. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育専攻 芸術系コース 音楽. MOO217K 杉本 奈緒.

(4) 目次 凡例. 画. 図1章 ツェムリンスキーをめぐる諸相・・… 一・一一・1 第1節ッェムリンスキーの生涯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 1 第2節 ッェムリンスキーが生きたウィーンの世相と芸術・・・・・・・・… 5. 第1項世紀末ウイーンの世相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 5 第2項 世紀末ウイーンの芸術・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 6. 第3項 反ユダヤ主義とナチスの台頭・・・・・・・・・・・・・・・…. 10. 第3節 ッェムリンスキーを取り巻く作曲家と歌曲作品の特徴・・・・・…. 11. 第1項ブラームスとの関わりとその歌曲作品の特徴について・・・・… 12 第2項アルマ・マーラーとの関わり・人物・歌曲作品について・・・… 14 第3項 シェーンベルク一往ウィーン楽派との関わりと作品の特徴について・19. 第2章 ツェムリンスキーの歌曲作品とその分析・考察… 22 第1節 ツェムリンスキーの歌曲作品研究の現状・・・・・・・・・・・…. 22. 第2節 ツェムリンスキーのテキストの趣向・・・・・・・・・・・・・…. 27. 第3節楽曲分析・考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 30. 第1曲目『おやすみ』 “Gute Nacht”(1889/90) ●’’” ’.●31 第2曲磨『叩けよ、さらば開かれん』・・・・・・・・・・・・・… 36 ‘‘Klopf奄t, so wkd euch aufgethan,, oP.10−5(1901). 第3曲目『あの人が戻ってくれば』・・・・・・・・・・・・・・…. 43. “U塾dk:e㎞t er e血st heim”op.13−5σ913). 第4曲目『いまだきみの息を頬に感じている』・・・・・・・・…. 51. ‘‘Noch sp血!ich l函ぼen Aten1” (1916) 第5曲目 『今は時』 ‘‘Jetzt ist die Zeit”op.27−4(1937/38)・ ・ ・ ・・…. 62. 第3章 ツェムリンスキーの音楽的特徴と音楽史的意義… 67 第1節 ッェムリンスキーの音楽的特徴・・・・・・・・・・・・・・・…. 67. 第2節 ツエムリンスキーの音楽史的意義・・・・・・・・・・・・・・…. 72. 結び… 一一一… 一一一… 一… 一・一一・74 謝」辞 ・ 。 り ・ ・ …. 。 ・ ・ ・ ・ ・ …. 9 。 …. 。 。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ …. ◎. 77. 巻末資料1 ッェムリンスキー年譜・・・・・・・・・・・・・… ’・… 78 巻末資料2 歌曲作品リスト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 81. 参考文献及び資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. ”・・’・’89.

(5) 凡例 1. 『. 』 邦題の作品名、論文名を示す場合に用いる。. 2. “. ” 外国語の作品名、論文名を示す場合に用いる。. 3. 「. 」 引用文、特定の語に対する強調を示す場合に用いる。. 4. [. ] 引用文献の出典を示す場合に用いる。. 5. ( ) 補足事項、二二、外国人名のアルファベット表記と生没年を示す場 合に用いる。 6. 〈. 〉 団体名、協会名を示す場合に用いる。. 7.人物名はカタカナ表記の後( )内にアルファベット表記と生没年を記すが、特 に重要でないと筆者が判断した人物についてはアルファベット表記と生没年を省 略した。 (例)アレクサンダー・ツェムリンスキー(Alexander Zeml三nsky 187 M942) フランツ・クレン(F.Kren:n). 8. 楽曲分析における和声表示は「理論と実習1・∬・1山(島岡譲、他)音楽之友 社出版に基づいている。本論文で使用した和音記号の一例を下記する。. 和音記号 琉 ・・ ・ …. 呼称 。。 ・ ・ ・ ・・…. 属9. 廿孝・・・・・・・・・・・・・… W度の借用属7の第2転回形 幸『・・・・・・・・・・・・・…. V度の借用属9の根音省略形. +1矯・・・・・・・・・・・・・…. ドリア和音の属9の第2転回形. ロガ・・・・・・・・・・・・・… ナポリ和音の第1転回形 IV’6・・・・・・・・・・・・・… IV度の付加6の和音. ヤレ・・・・・・・・・・・・・…. 属7の上方変位. W』・・・・・・・・・・・・・…. IV度付加6の下方変位. *和音記号の(○)印は準固有和音を示す。.

(6) 9.調性、音名、小節表示はドイツ語表記を用いた。また音高の記譜については次の ように示す。三種類の機能(トニカ、ドミナント、サブドミナント)についてはそ れぞれ(T)(D)(S)と略記する。. (例) 一点ハ音→d 二点ハ音→c・・. 10.楽曲分析における楽曲の部分を示す場合は大文字アルファベット93Cを、区分を 示す場合は小文字アルファベットabcを用いる。.

(7) 序 渡心中(1999−2000)、オーストリア出身の作曲家アレクサンダー・ッェムリンスキー (Alexander Zem㎞sky l 871・1942)の存在とその歌曲作品を初めて知り、その後期ロマン. 派、近代の特徴を持った彼の作品に漠然と興味を覚えた。. 帰国してから書物でツェムリンスキーの名を見つけた時、初めて彼が生存していた 時代や彼に関するわずかな情報を知り、彼に対する興味はますます高まった。そこで さらにツェムリンスキーについて詳しく知りたいと考え、情報を収集しようとしたと. ころ、そのあまりの少なさに驚き、日本ではまだ知名度の低い作曲家であることを 知った。収集した数少ない資料、楽譜、CDなどを参考に、わずかな知識を持った上で 彼の作晶を再度聴いてみると、初めて耳にした時以上に私にとって一層興味深いもの となり、本論文でツェムリンスキーを取り上げ、より深く理解したいと考えた。それ はその音楽からブラームス(Johannes Bra㎞}s l 833一董897)やマーラー(G“stav Mahler l860・. 1911)、シェーンベルク(Amold Sch6抽erg 1874・1951)という同時代の代表的作曲家の影. 響、そして19世紀後半から20世紀前半における、調性音楽から無調音楽への音楽的変 容を強く感じたからである。. また彼の生きていた19世紀末ヨーロッパには出血した芸術が新たな表現スタイルを 求めて、各国に共通する一つの特徴的な芸術運動「アール・ヌーヴォーA鷲Nouveau」. を見せていた。この芸術運動、様式はドイツ、オーストリアでは「ユーゲント・シュ ティールJugend S削と呼ばれ、ッェムリンスキーもこの運動のまっただ中でその影響 を受けていた、あるいはこの運動を担っていた一芸術家であるといえるであろう。 ヨごロッパにおいては、世紀末ウイーンの文化の再評価、特に美術、工芸、建築、. 文学等の分野でのユーゲント・シュティールの再評価と平行して、1971年の生誕100年 を期にッェムリンスキーの評価が高まってきている。実際のツェムリンスキーの作品 や音楽史上の意義についてはいまだ正当な評価を受けているとは言い難い。. ツェムリンスキーの生涯や業績、当時の時代劇などを踏まえて彼の残した歌曲作品 を分析することによって、彼の音楽的特徴を明らかにし、自らツェムリンスキーの音 楽史的意義を確認していきたいと考える。.

(8) 第1章 ツェムリンスキーをめぐる諸相 第1節 ツェムリンスキーの生涯 アレクサンダー・ツェムリンスキー(Alexander Zemlh豆sky 1871−1942)は、1871年10月. 14日にウィーンで、スロヴァキア出身の父アドルフと、サラエヴォのユダヤ系イスラ ム教徒の家系の母、クラーラとの問に生まれた。ッェムリンスキーという姓は、ポー ランド南東からウクライナにかけてのガリツィアに多いといわれている。父はカト リックであったが、アレクサンダーは母方の祖父の希望で、1899年に自らユダヤ教を 捨てるまで、ユダヤ教徒として育てられた。 ツェムリンスキーは1884年に13歳で〈ウィーン音楽院Wie巖er KonservatGdum der Gesdls。h餓der Musik飴u琶de>ピアノ科に入学し、ヨハネス・ブラームス(∫ohalmes Bfahms l 833−1897)の友人であるピアニスト、アントン・ド閨門ル(A. Door)に師事す. る。それと並行して、和声学をフランツ・クレン(F.Kre盆礁)、対位法をロベルト・. フックス(R.Fuchs)のもとで学んでいる。1890年にピアノ科を卒業し、続けて音楽院で. ヨハン・ネポムク・フックス(工NFuchs)に師事し、本格的に作曲を学び始めた。古典. 主義の精神に基づいた音楽院、そして師の教えは、確固たるブラームスの伝統の中に あり、音楽院時代からのツェムリンスキーの習作や初期作品には、ブラームスの影響 が色濃く見られる。1892年に作曲科を卒業し、卒業作品として彼の最初のオーケスト ラ作晶r交響曲二短調』“Sy聯ho貧ie d−mo11”を作曲している。卒業の翌年に、ブラ ームス派の音楽家たちが組織していたくウィーン音楽家協会Wiener Tonk爵nstlervere癒〉. に加盟し、会員として彼の室内楽曲がこの音楽家協会の音楽会で初演され、そこで成 功をおさめたことによって注目されはじめた。. 1895年にウィー叱のアマチュアオーケストラ〈ポリヒムニアPolyhy㎜ia>に指導者 として招かれたツェムリンスキーは、その中でチェロを担当していた銀行員のアルノ ルト・シェーンベルク(Amold Sch6nberg 1874−1951)と出会い、その頃すでに独学で作. 曲をしていたシェーンベルクの才能をいち早く認め、彼の唯一の師、同じ方向を目ざ す同士、そして時には後援者となり、生涯を通して彼と友好関係を深めた。シェーン ベルクを含む同時代の進歩派芸術家たちとの交流によって、ツェムリンスキーの音楽 1.

(9) はブラームスの伝統的和声に基づく音楽、さらに後期ロマン派の芸術全般に大きく影 響を与えたりヒャルト・ワ「グナー(Rich雛・d Wagner l813一1883)の手法をも継承し、進. 歩的、耽美的傾向が見られるようになった。. そのころ作曲された彼の最初のオペラ二心rザレマ』“Sarema”(1896)は作曲コン クールで入賞し、翌年ミュンヘンで上演され[ユルグ1993:169玉、また1900年には彼. の2作琶のオペラ『むかしむかし』“Es w斑ei鵬al”が、当時ウィーンの宮廷歌劇場 の監督であっ’たグスタフ・マーラー(Gustav Mahler 1860。19U)の指揮によって初演され. た。ツェムリンスキーはマーラーによってその才能を認められ、1900年忌らウィーン のくカール劇場Wie韮er Carl−Theater>の指揮者に、そして1904年忌らはウィーンの. 〈フォルクス・オーバーWie鍛cr Vo1ksoper>の第一常任指揮者となり、当時の最も活. 躍した指揮者のひとりと言われるほどの、彼の指揮者としての経歴が始まった。彼の 指揮者としての能力はストラヴィンスキー(lgor S重ra廠sky I 882−1971)の次のような証. 言からも高水準であったことが明らかである。. r最も着実に高い基準に達した人。私は彼がプラハで指揮した『フィガロの結婚』 を、自分の生涯で最も満足の行くオペラ体験として覚えている」 [ハロルド1980 :406]. 一方その間に、シェーンベルクとツェムリンスキーの妹マティルデ(Ma甑lde)が1901. 年に、そして当時ッェムリンスキーの作曲の生徒であったアルマ・シントラー(A㎞a Schindler 1879−1964)とマーラーが1902年に結婚している。ツェムリンスキーが絶大な. る尊敬と信頼の念を寄せるマーラーと、熱い思慕の念を寄せていたアルマとの結婚 は、彼にとっては厳しく残酷な現実であり、その心理的影響は彼のその後の作品に少 なからず見てとることができる。長木は、「メルヒェンやファンタジーの領域に題材 を求めたッェムリンスキーの作晶は、耽美的な表層に隠された毒々しい現実や、夢想 的な主題が秘める素朴な残忍さが、官能的で洗練された和声法と、色彩あふれるオー ケストラ書法によって描かれている」と述べている。 [長木1992:U6]. ツェムリンスキーは1903年、保守的な〈ウィーン音楽家協会〉をやめた後、シェー ンベルクと共に自分たちの音楽上の進歩的傾向や思考に基づいて、1904年にマーラー を名誉会長とするく創造する音楽家協会Vereh亘g㎜g scha騰nder To鍛嫡nsder>を設立. し、ド自分たちと聴衆との間の直接の関係の確立、ウィーンに同時代の音楽を育成す ることのできる場を設けること、聴衆に音楽の現状についての知識を絶やさず与える こと」 [エーベハルト1998:40]を目的とする演奏活動を開始した。この協会は資金. 2.

(10) 不足のためわずか1年あまりしか存続しなかったが、この協会の演奏会は多くの同時 代の代表的な作品をウィーンで初演したのである。その姦賊としてはリヒャルト・ シュトラウス(Richard S漁ロss 1864−1949)の『家庭交響曲』 “Sinfb簸ia domestica”. op,53、マーラーの『亡き子をしのぶ歌』“碕盤d戯ote面edくガ’、『少年の魔法の角. 笛』“Des Knabe鼓Wu簸derhom”の数曲、シェーンベルクのrペレアスとメリザンド』 “Pe孤eas皿d Me五sande”OP.5、またツェムリンスキーの重要作品といえる交響詩r入 魚姫』“Die Se句囎g丘aポ’などが挙げられる。このころ、ツェムリンスキーは3作目 のオペラ『夢見るゲールゲ』‘‘Def Traumg6rge”を作曲し、マーラーの指揮で1907−8. 年にかけてのシーズンに〈宮廷歌劇場Wie級er Ho{bper>で初演されることが決まって. いたが、マーラーの突然の音楽監督辞任によってその初演は果たされず(この作品は 結局1980年まで初演されなかった)、その影響でツェムリンスキーがウィーン宮廷歌 劇場と第一常任指揮者として契約を交わすこととなった。しかしマーラーの後任者フ ェーリクス・ヴァインガルトナー(F.W面ga血ef)と衝突し、宮廷歌劇場でデビューは したものの1年後にツェムリンスキーの方から契約を取り消している。 一方、19U年まで契約が続いたフォルクス・オーバーで彼は、19◎8年にポール・ デュカス(Pa秘I D嘘as 1865−1935)のrアリアーヌと青ひげ』“A魚ne et Barbe−ble鵬”、. 19至0年にはリヒャルト・シュトラウスのrサロメ』 “Salome”OP.54のウィーン初演を. 指揮し、また岡年、ッェムリンスキーの4作目のオペラ『馬子にも衣装』“】凱eider mache難しeute”も初演している。このウィーンでの活躍期の1906年に、ツェムリンスキ ーは最初の妻であるイーダ・グットマン〈LG城tm斑m)と結婚している。. 1911年、マーラーの死去したウィーンから、ッェムリンスキーはプラハに、シェー ンベルクはベルリンにそれぞれ移り住み、ツェムリンスキーは1911年から1927年まで プラハのくドイツ歌劇場K61並gHche deutsche L鋤destheater>で第一歌劇監督を務めた。. このプラハ時代にツェムリンスキーは自らの創作活動と指揮活動の頂点を築いたとい えるであろう。つまり彼の最も代表的な博学は、この時期に作曲されているのであ る。例えば2作のオペラ『ブイレンツェの悲劇』“Eine登or㎝血ische Trag6d{e”σ917 年にシュトゥットガルトで初演)、r王女の誕生日』“Geburtstag der In㎞tiバ (初演. 当時の題目は『小人』“Der Zwerg”1922年にケルンで初演)の他に、『メーテルリン ク歌曲集』 “Mae重er1溢ck Ge蜘ge”OP.13、また彼の管弦楽曲の主要作品ともいえる. 押弦楽四重奏曲第2番』“Streichquart磁”◎p。15、インドの詩人ラビンドラナート・. 3.

(11) タゴール(Rab溢(㎞ath Tagore 1861・1941)の詩によるソプラノとバリトンのための7楽章. から成る『民情交響曲』“L頭sche Sy重n画。通e”op.18などがそれである。またツェム. リンスキーは、1920年からはプラハの〈ドイツ音楽アカデミーDeutschen Akademie館r Musik und darsteHe豊de K㎜st>で作曲科の科長を務め、1918年にシェーンベルクがウィ. ーンで設立した〈私的演奏協会〉の支部ともいえる〈プラハ私的演奏協会Vereh覧s f極r 搬建sikalische Pdvatauf翔㎞ngen(Prag)〉を1922年に設立し、後にその協会は薪ウィーン. 楽派の活動の申心となっていった。. ツェムリンスキーの16年間に及ぶプラハ滞在の問に起こった第1次世界大戦の影響 でチェコスロヴァキア共和国となってからというもの、ナショナリズムが反ドイツ感 情をあらわにしはじめ、その影響は音楽界にも及び、結局プラハを去るという形で彼 のプラハ時代は終結した。. 当時芸術や学術の面で先導的な立場にあった中心都市のひとつのベルリンに移った ツェムリンスキーは、豆927年から1930年の間、現代オペラと古典の新演出を中心とし た第2国立オペラの〈クロール・オペラK:rolloper(Berl㎞)〉で楽長を務め、その後. 〈オペラ・ウンター・デア・リンデンQpef皿ter der L魚d瓠〉の客演指揮者として活躍 した。また彼はく国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス):Na加掘soz嫡s丘sch。 De雛sche Arbeiterpartei>が政権を取る1933年までくベルリン高等音楽院Staatliche akade搬ische Hochschule飯Musik(Ber韮i鷺)〉で教鞭を取っていた。このベルリンでの期. 間にr交響的歌曲』“Symph面sche Gesa灘ge”oP.2◎、オペラr白墨の輪』“Der K搬dekreis”などの作晶も残している。また1929年に最:初の妻イーダが亡くなり、そ. の翌年に彼はプラハ出身の歌手ルイーゼ・ザクセル(LSachseDと再婚している。 しかしユダヤ人のツェムリンスキーはナチスによってベルリンでの職を追われ、 1933年ウィーンに再び戻り、ウィーンでは主に創作活動に専念し、op.22とop.27の2 つの歌曲集、 ドシンフォニエッ列 “S血ietta”op.23、 『詩篇13翻 “13. Psalm”. op24、『弦楽四重奏曲第4番』“Streic矯魏art磯”op.25、オペラ『カンダウルス王』 i未完)などを生み出した。しかし、1938年にオーストリアがナ. “Dcr K6Rig Ka磁㎞至es”. チス・ドイツに合併されたので、ッェムリンスキーはプラハ、パリを経由してアメリ カに亡命した。ニューヨークの音楽界では無名に等しかったツェムリンスキーは、財 政上の理由からポピュラー・ソングや大衆音楽を作曲して生活するほか仕方がなかっ た。そして1942年3月15日ニューヨーク州ラーチモンドで、71歳のツェムリンスキーは 孤独な最後を遂げた。. 4.

(12) 第2節 ツェムリンスキーが生きた世紀末ウィーンの世相 と芸術 第1項 世紀末ウィーンの世相 オーストリアは中央ヨーロッパを統治していた3大一族(オーストリアのハプスブル ク家、ロシアのロマノブ家、ドイツのホーエンツォレルン家)のひとつであるハプスブ ルク治下で、トルコの侵略やペスト渦にもかかわらずほぼ100◎年にわたって安定した 帝国として繁栄していた。1867年にハンガリーに自治権を与え、オーストリア=ハンガ リー二重帝国が誕生し、その首都ウィーンはボヘミア、スラブ、ゲルマン、ユダヤ、 トルコといった多民族の入り交じった独自の文化を築いていった。激しい階級的・民. 族的対立によってこの巨大帝国の君主制が揺らぎ始め、不安定な社会情勢に陥り出し たのが、ちょうど19世紀末である。危機に直面した政府は、社会的・心理的な力と深 く関わっている〈文化(芸術)〉によって、失われた統一を取り戻そうと、経済的繁 栄と文化政策に力を注いだ。この世紀末に、ニーチェ(Fdedrich Nietzsche 1844−1900)と. ワーグナーが唱えた“芸術による社会と政治の再生”という思想が大流行し、この時 代のあらゆる分野の芸術家に大きな影響を与えることとなった。. もともと音楽の都としてその確固たる地位と栄光を手にしてきたウィーンの人々に とって、芸術は人生を美化し、現実の世界の不安や絶望から逃避する手段となり、そ の芸術への情熱はさらに強まり、どのような状況下でも弱まることがなかった。それ は、ウィーンの知識入や芸術家たちはカフェに集い、意見や議論を交わして交流を深 め、平均的なウィーン市民は朝刊で真っ先に劇場の演目に目をやり、宮廷俳優やオペ ラ歌手はどの人にも知られていたといわれるほどである。. ウィーンという街とウィーン市民の「保守的な」気質は、政治、芸術、教育などの あらゆる領域において発揮され、それはこの世紀末ウィーンに活躍した進歩的な芸術 家たちを、常に悩ませる要因となっていた。ウィーンはそのアカデミックで伝統的な 文化を保持しようとするあまり、急進的な現代芸術を担う前衛芸術家や大胆な試みに 対して用心深く、それらを受け入れようとはしなかった。新しい芸術は保守的な批評 家に容赦なしに酷評され、ウィーンを追われる芸術家たちも少なくはなかった。それ にもかかわらず、世紀末のこの街には多くの天才が存在し、彼らは「すべての時代に は芸術を、芸術には自由を」というモットーのもとに、新しい芸術の在り方を模索 し、帝国の繁栄を支える原動力となっていった。. 5.

(13) 第2項 世紀末ウィーンの芸術 1900年のパリ万国博覧会を頂点として19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期に「新 しい芸術の運動」がヨーロッパの各国に広がった。それはフランスではアール・ヌー ヴォーArt:No即eau、イギリスではモダン・スタイルModem style、ドイツ、オースト リアではユーゲント・シュティールJ豊ge澱dS田、イタリアではスティレ・リバティ. S磁e肋磁と呼ばれ、それぞれにニュアンスの違いがあるが、共通する特徴や思想を有 する運動である。伊藤は19世紀を「時代全体が理性の陶酔ともいうべき酔い心地にお ちこんでいた世紀」[伊藤1993:179]と呼び、その世紀の終わりにはうって代わっ て、時代の変わり目に見られる終末論的幻想(「世の終わり」という意識)が支配し た時代であったと述べている。. この頃急速に進展していた科学上の発明や発達によってさまざまな技術革新がもた らされたことがこの薪しい芸術運動 「アール・ヌーヴォー」の動因となっているが、. その中でも鉄とガラスの加工技術の発達と、日本の浮世絵や版画などに見られる波う つような曲線の美の影響が、建築の分野で新たな装飾様式を産み出したといえるであ ろう。流れるような線を鉄によって表現することによって、従来の伝統的なヨーロッ パの建築の左右対称の理念から逸脱した曲線美による新芸術スタイルが確立したので ある。この運動はイギリスのオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beards韮ey 1872−1898)や フランスのアルフォンス・ミュシャ(題fb藍s Mucha l 860・1939)などによる美術、工芸の. 分野でも開花し、絵画、文学へと及んだのである。. ドイツ、オーストリアで起こったユーゲント・シュティールはイギリスやフランス の「アール・ヌーヴォー」の余波を受け、またそれと同時期に国内で起こっていた同 質の芸術様式のことである。1896年にミュンヘンで創刊された雑誌「ユーゲント(若 者)」めタイトルをとって名付けられた。その特徴についてユルグは次のように述べて いる。. 「文藝においても造形芸術においても、ユーゲント様式は、流れる動きを表現する モチーフを選ぶ傾向がある。すなわち花、蔓植物、波そして乙女の髪は、絶えず繰り 返して現れる主題である。描写されるものは装飾のなかに溶解するが、見分けられな くなることはない。そして装i飾はくっきり縁取られた輪郭を持ちながら流れはじめる. が、その時象徴的身振りによって深い意味を与えられるのである。」[ユルグ1993:. 6.

(14) 142]. このように世紀末芸術は平面的で並列的な装飾性と象街的意味とを兼ね備え、エロ ティシズム、性と死と愛というモティーフに導かれた自己陶酔の耽美的世界を描き出 すものであった。一般的に音楽におけるユーゲント・シユティールについては、具体 的基準を見出すのは難しいとされている。しかしこのようなユーゲント・シュティー ルの特徴を、絵画、文学などの他の領域と結びつきの深い音楽の領域に見出すことも. できるであろうと思われる。よってこの時代の音楽家とその他の芸術家を関連づけて 述べていくこととする。 世紀末ウィーンの前衛芸術家たちは、蔓897年にグスタフ・クリムト(Gustav Kl㎞重 1862−1918)(p.9写真①参照)を会長とする〈ウィーン分離派〉注’を結成し、旧体制のア. カデミズムから分離して、音楽、文学、演劇、美術等のそれぞれの芸術を統一し、総 合的な芸術空間を作り上げようとした。1898年にはヨーゼフ・オルブリヒ(Josef Maria. Olb廊h 18674908)によって、黄金色の月桂樹のクーポラをシンボルとしたく分離派会 館〉〈p.9写真④参照)が設計された。この会館にはクリムトの代表作である壁画『ベ ートーベン・フリース』“Beethov㎝・Fdes”が収められている。ウィーン分離派のメン バーには、この時代の最も重要:な建築家オットー・ワーグナー(0縫oWa群¢r 1841− 1918)、ヨーゼフ・ホフマン(Josef Ho茄na㎜1870−1956)、画家のエゴン・シーレ(Ego虹 Schiele I 8904918)、オスカー.ココシユカ(Osk訂KQkoschka l 886・1980)@9写真③参. 照)、コロマン・モーザー(Kolom鋤Moser 1868・1918)(p。9写真⑤参照)、アルフレー ト・ロラー(A1加d RoUef l 864−1935Xμ9写真②参照)、リヒャルト・ゲルストル(Rich肛d Gerstl l 883−1908)注2、カルル・モル(Carl Mom 861・1945)窪3などがいた。. 同時代の文学界ではアルトゥル・シュニッツラー(A曲ur Sc㎞itz蓋er l862−1931)、カー ル・クラウス(Kad Kraus l874−1936)、フーゴー・フォン・ホフマンスタール(Hugo vo叢. Ho㎞alms出烈1874−1929)、ヘルマン・バール(He】㎜a㎜Bahd 863−1934)などが世紀末作. 家と呼ばれ、音楽家としてはマーラー、R.シュトラウス、ツェムリンスキー、シェー ンベルク、フーゴー・ヴォルフ(H:ugo Wolf l 860・1903)、アルバン・ベルク(Alban Berg. 1885−1935)、アントン・ヴェーベルン(Anton Web㎝1883−1945)、フランツ・シュレー カー(Franz Schreker l 878−1934)、ッェムリンスキーの弟子であるエーリヒ・ヴォルフガ. ング・コルンゴルド(Edch Wo1亀a離g Komgdd 1897−1957)、オペレッタ作曲家として有 注1. ウ式名称は〈オーストリア美術家連麗〉。ドイツ語ではSecess緬:ゼツェッション. 湿ッェムリンスキーの妹でシェーンベルクの妻となったマティルデと恋仲になり、自殺を翫つた。 注3. }ーラーの妻となるアルマ・シントラーの義父。. 7.

(15) 名なフランツ・レハール(Fra脇Lehar 18704924)、オスカー・シュトラウス(Oscar S枕auss 18704954)などが;挙げられるであろう。. またこの時代には精神分析の創始者ジークムント・フロイト(Sig皿nd Freud 1856・. 1939)がウィーンで活躍し、彼の創始した深層心理学の理論は人文・社会科学や芸術に 大きな影響を与えた。. 8.

(16) ウィーン世紀末芸術の特徴を持った作品. ,.. ①グスタフ・クリムト. ソミ撒そ. ’?藍. i.轟. 「接吻」. ④ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ設計 ウィーン分離派館. 嫁i鵯箋騒 ②アルフレート・ロラー 分離派の機関誌「ヴェル・サクルム」. 酵類ぬ. 第1巻第1号(1898年)表紙. A,、 蓼.∫ ... △. 直鍵盤. ⑤コロマン・モーザー 第5回分離派展ポスター. 】③オスカー・ココシュカ 「風の花嫁」. *「西洋音楽史大系8」学習研究社、 「アール・ヌーヴォーの世界3 クリムトとウィーン」学習研究社より転載. ココシュカと当時同棲していた アルマ・マーラーの自画像. 9.

(17) 第3項 反ユダヤ主義とナチスの台頭 1860年代になってオーストリアでは、ユダヤ人に対する法的な制限が廃止され、医 師や法律家などの専門職につくことが許され、ユダヤ人たちが帝国の生活の中で、以 前にも増して決定的な役割を果たすようになってきた。18世紀以降、多くのユダヤ人 がウィーンに移り住み、経済の発展をも促し、ウィーンで進歩的な活動を続けていた 芸術家たちの大半がそうであったように、多くのユダヤ人が成功をおさめていく一方 で、同時に圧迫された非ユダヤ系の市民による反ユダヤ感情が高まっていった。. この多くのユダヤ系芸術家たちによって担われていた前衛的・世紀末芸術がその終 焉を迎えることとなった原因のひとつに、当時の目まぐるしい社会情勢の変化による 影響が挙げられる。. まず第一に反ユダヤ主義の風潮の激化であり、1914年サラエヴォでオーストリアの 皇太子の暗殺が引き金となって勃発した第1次世界大戦、68年間この国を統治してい た皇帝フランツ・ヨーゼフ(Fr繊Joseph l830−1916)の後を継いだカルル1世(㎞l I. 18874922)の退位によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊(1918)、ドイツでヒトラ ー(Adolf Hitler 1889−1945)が政;権を握った後に強行したナチスによるユダヤ人迫害とオ. ーストリア併合(1938)、そして第2次世界大戦への突入という歴史的変動によるもの である。この一連の状況下でマーラー、シュレーカー、クリムト、シーレ、シュニッ ツラー、ホフマンスタール、作家のフランツ・カフカ(Franz Kafka l 883−1924)、詩人の. ライナー・マリア・リルケ(Rainer Ma魚Ri童ke 1875−1926)などの世紀末芸術を担ったユ. ダヤ系芸術家たちは終戦をみずに亡くなり、ドイツ、ウィ’一ンでの活躍の場を追われ たツェムリンスキー、シェーンベルク、エーリヒ・コルンゴルド、オスカー・シュト ラウス、作家のシュテファン・ツヴァイク(Stef加Zweig 188H942)、トーマス・マン (Thomas M㎜1875・隻955)、フランツ・ヴェルフェル(Fr鋤z Werf611890−1945)といった他. の芸術家たちは亡命を余儀無くされ、合衆国へと移住した。彼らの芸術が再び見直さ れ、今日のように注目を浴びるようになってきたのは、ユダヤ人抑圧の時代が終結し た第2次世界大戦後になってからである。. 10.

(18) 第3節 ツェムリンスキーを取り巻く作曲家と歌曲作品の 特徴 ツェムリンスキーの音楽の特徴について、矢野は次のように端的に述べている。. 「ツェムリンスキーの本質には、つねにある種の「状況主義」が宿っていた。自ら の主体性を拠り所に孤高の境地を保つのではなく、周辺で輝くきわだった個性に素直 に感化され、その感化のもとで作品をつづるという性癖が、いわば終生みられた。」 [矢野1991:113]. このことからッェムリンスキーは多くの先駆者たちの影響を、自らの音楽の申に見 事に取り入れ、それらを自分の創作の源とし、常に時代の流行に敏感に、うまく適応 した作曲家であると言い換えることができるであろう。直接交流することのなかった ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスはもとより、実際に接触し、その意見や教え を乞うことのできたブラームスやグスタフ・マーラーの影響は、彼の音楽の基礎を形 成していると思われる。また当時、指揮者として多くの同時代の作曲家の作品の初演 を指揮していたッェムリンスキーは、初めて世に送り出されるそれらの斬薪で刺激的 な音楽を、最も身近に感じることのできた人物の一入であったといえよう。この意味 で彼が同時代の作曲家の影響をもその都度吸収することのできた状況にあったことを 容易に説明することができるであろう。. 一方、ツェムリンスキーの影響を受けた人物として、シェーンベルク、その弟子達 のアルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルン、そしてツェムリンスキーの生徒であ りながら、彼の創作にも大きな影響を与えたアルマ・マーラー柱1が特に重要であると 思われる。. これらの作曲家の人物像やツェムリンスキーとの関係、そして彼らの作品に琶を向 けることが、ッェムリンスキーを理解する手がかりとなり、また彼が継承したもの、 次代に残したものを鮮明にするであろうと考える。. 磁旧姓アルマ・シントラーA㎞aSch撫d16r. 11.

(19) 第1項 ブラームスとの関わりとその歌曲作晶の特徴 修学時代にブラームスの友人のピアニスト、アントン・ドールに師事していたツェ ムリンスキーは、卒業後、ブラーームス派の音楽家達が組織していたくウィーン音楽家. 協会〉に所属した。1896年に、この団体の主催する演奏会でツェムリンスキーの『弦 楽五重奏曲二短調』(1893)の初演を聴いたブラームスは、この新人作曲家に興味を示. し、彼を自宅に招き、彼の作品を一緒に研究し、助言を与えただけでなく、財政的に 援助することを約束した。この様子はッェムリンスキーの個人的回想“Pe罫s6磁che E曲emngeガ’α922)の長木による翻訳の申に見られる。. 「ブラームスと話すのはそれほど簡単なことではなかった。質問と回答は短くそっ けなく、しばしば非常に皮肉めいていた。彼はピアノのところに座って、私の弦楽五 重奏曲をいっしょに研究した。はじめは寛容に添劇し、そこかしこをつぶさに見てく れた。(下略)しかし彼は再び私を向き、私の暮らし向きを尋ね、毎月財政的に援助し. てくれる旨を伝えた。それによって私は時間を無駄にすることが少なくなり、より多 くの時間を作曲に充てることができるようになった。最後に彼は私を彼の出版社であ るジムロックに推薦し、そこは私の最初の数作品を引き受けてくれたのである。」 [長木1992:132ユ. その結果、 ざクラリネット三重奏曲』◎p.3(1896)と『弦楽四重奏曲第1番』op.4. (1896)がジムロック社から出版された。翌1897年にブラームスは死亡しているため、. その個人的な交流もごくわずかな期間ではあったと思われるが、ッェムリンスキーが いかにブラームスを賛美していたかを、ブラームスの死後20年以上も後に書かれた記 録にも見ることができる。. 「ブラームスその人と知己になるという幸せを得ることができた時代のことを考え ると(中略)、彼の音楽がどれだけ魅惑的で逃れられないほど、いやまさに困惑させ るほど大きな影響をわたしに与えたかに気付くのである。」 [エルンスト1994:28]. ッェムリンスキーに大きな影響を与えたブラームスの歌曲作品(約380曲:一声、二 声、四声を含む)の傾向は、彼と近い間柄にあったシューマン(Robert Sch鷺ma㎜1810一. 12.

(20) 1856)ではなく、シューベルト(Fr㎜Schnb戯1797・1828)の歌曲を理想としたもので. あった。またブラームスの歌曲における民謡の役割は、大きな特徴の一つといえるで あろう。他の民族の歌曲やドイツの民謡が常にブラームスの興味をひき、その滅びか けようとしていた民謡の中に真価を認め、彼の作品全体に一貫して影響を与えたので ある。. ブラームスのテキストの選択にも、ある一貫性を見ることができる。ブラームス は、詩が音楽によって高められ、音楽が詩に何かを付加できる場合においてのみ、歌 曲としての意味があるのであって、詩が「完壁」であり、音楽によってもはや何もな す余地がない場合は、何の課題も見いだせない、という見解に基づいて、自らの作品 のテキストとなりうる詩を選択しているのである。現在しばしば、ブラームスが文学 的趣味のなかった作曲家であると言われている主張は、ブラームスのこの態度によっ て説明することができるであろう。. またブラームスの歌曲作品の形式、作曲過程について、カールは次のように言って いる。「ブラームスのリートにおいては、 (中略)テキストに注意深く適合された流 暢でリズミックな、そして表情的な旋律の線を、他の何よりも尊重する。 (中略)第 :二に重要なものは、歌曲のバスである。対位法思考に訓練された音楽の練達をもっ. て、彼は旋律の基礎を構成するのみならず、固有の活力、表現力、モティーフの潤沢 のうちに声の声部に対抗するところの、バスの声部を書くのである。 (中略)ブラー. ムスの歌曲のその他の特徴は、素晴らしい有機的統一と完全性にある。彼は作曲の異 なる部分、声の声部とピアノ伴奏をもまた、同じモティーフの使用によって結びつけ る。その上、はっきり分丁づけられた形が、ほとんど常にブラームスの歌曲の基礎と して見出されるであろう。次に純粋に今節的な歌曲に対しては、彼は個々の骨節が多 かれ少なかれ変えられるような形式を殊更に好んでいる。しかし完全に詩節形式から 解放されている歌曲でさえも、作曲者は同じ楽句、また少なくとも関係のある楽句の 再現を完全にしょうと注意を払っている。」 [カール1975:315−316]. この記述はまず第一に、ブラームスが場合によっては、詩の正確な朗読を犠牲にし てでも旋律の均一な流れを保持し続けたということ、また彼の心に深く根付いている バロック、古典派の音楽の形式概念が、彼の歌曲に有節形式や三部形式、そして展開 変奏形式の作品を多くもたらしたということを理由づけている。. 13.

(21) 第2項 アルマ・マーラーとの関わり・人物・歌曲作品について ツェムリンスキーの最も早い時期の生徒のひとりにアルマ・シントラーがいる。シ ントラー家は代々続いたウィーンの名家で、彼女の父工一ミール・ヤーコプ・シント. ラーは画家であったが、彼の死去後、母アンナは同じく画家の仲間のカルル・モルと 再婚した。アルマの家にはいつも芸術家が集い、その恵まれた芸術的環境の中でアル マは高い知性と教養、芸術の才能、人並み外れた処世術を身につけた、ウィーンでも 有名な才色兼備な女性へと成長したといわれている。彼女が生まれた頃から彼女をよ く知っているクリムトが、彼女の最初の恋人といわれているが、まだ18歳のアルマに その他にも多くの地位のある男達が言い寄っていたといわれている。 アルマは音楽の道を志し、ロベルト・ゴウント(R.Go澱d)、ヨーゼフ・ラボー・ル(J.. Labor)に対位法を学び、そしてッェムリンスキーに作曲を習った。アルマより7つ年 上のツェムリンスキーは当時28歳で、彼の音楽、人柄の申に知的で高い精神性を感じ 取ったアルマは彼に夢申になり、そして彼もアルマの虜となった。アルマが「ツェム リンスキーは醜悪な倭人であった。小さくて、顎がなく、歯は欠けていて、いつもカ. フェーの臭いをさせ、きたなかった… しかし彼の鋭く激しい精神のちからで、彼 はこのうえもなく魅力的な人となっていた」 [アルマ1963:22]と当時のことを述べ. ているが、このことはツェムリンスキーが容姿端麗ではなかったことと、またアルマ が外見よりも知性重視であったということを容易に想像させる。. ッェムリンスキーの指導のもとで彼女は歌曲を創作し、それらは後に3巻の歌曲集 におさめれられて出版されている。彼女の現存する作品はわずか歌曲が16曲あるだけ で、その他の作晶は第2次世界大戦の際に焼失してしまった。彼女の作品があまりに も少ない理由の1つに、後に彼女の夫となるグスタフ・マーラーの強要によって彼女 が作曲家の道を諦めざるを得なかったという事実がある。作曲の勉強を始めたわずか 数年後の1901年に、アルマは当時宮廷歌劇場監督としてウィーンの音楽界に君臨して いたマーラーと出会い、その数週間後には婚約している。ツェムリンスキーとの恋は マーラーの登場によって終焉を迎え、またツェムリンスキーも自分を高く評価し、自 分の音楽活動を全面的に支援してくれる尊敬すべき人物であるマーラーの前では成す すべもなかったであろう。マーラー家とッェムリンスキーとの交流はその後も続き、. ツェムリンスキーはシェーンベルクとともに、よき理解者であるマーラーを慕って引 入のもとをよく訪れていたようである。. 14.

(22) マーラーとの死別後のアルマの恋の遍歴について簡単に要約しておく。1911年にマ ーラーが死憎したことによって10年間の結婚生活を終えたアルマは、その後親子ほど 年が離れていたマーラーとは対照的で、若さに溢れた情熱的な画家オスカー・ココ シュカとの二丁に溺れる3年間を過ごした。正式な結婚ではなく、それは同棲生活で あったが、この時期にココシュカの才能はアルマによって高められ、彼はアルマをた くさん描いている(P.9写真③参照)。アルマのココシュカとの激しい恋愛は、彼女が 1915年にココシュカとは全く性質を異にした建築家ワルター・グロピウス(Walder Gfopius 1883−1969)と結亥昏したことによって、半ば一方的に終焉を迎えた。グロピウス. との結婚生活は事実上は璽929年の破局まで続いたことになるが、グロピウスとの疎遠. な結婚生活と並行してアルマが愛を育んでいた相手が詩人のフランツ・ヴェルフェル である。グロピウスとの結婚中にアルマは、ある文学雑誌に掲載されていたヴェルフ ェルの詩『認識する者』“Der Erk㎝蹴ende”に感銘を受けた。彼女はすぐさまその詩に. 作曲したのであるが、彼と知り合う前からすでに彼の虜になっていたアルマは、その 後ヴェルフェルの心をも捕らえ、ヴェルフェルの子を宿したことをきっかけに、また 新たな恋へと身を任せたのである。ヴェルフェルとの間に生まれた子は生命力が弱 く、生き延びることができなかった。. アルマのこれ以外の出産について述べると、マーラーとの間に2人の女の子を授か り(長女のマリアはマーラーの生存申に死去、次女のアンナは彫刻家になっている)、. グロピウスの問にも1人の女の子マノンを授かっている。ココシュカとの間には、そ の関係が終わろうとしていた頃に授かった命をアルマは堕胎している。マノン・グロ ピウスは病弱であり、成人しないままにこの世を去ってしまった。彼女の美しく神秘 的で天使のような存在は、この世の人とは思えないような印象を周りの予々に、そし て母のアルマにも与えていたといわれている。彼女をよく知り、彼女の運命に心打た れたアルバン・ベルクは彼女の鎮魂曲として『ヴァイオリン協奏曲』《一入の天使の 思い出に》を作曲している。. グロピウスと別れてヴェルフェルと一緒になってからは、アルマはヴェルフェルと 最後まで連れ添い、運命を共にしたのであるが、ヴェルフェルがユダヤ教徒であった こと、そしてアルマがユダヤ入であったマーラーの未亡人であり、現在はヴェルフェ ルの妻であったことが、この第2次世界大戦前のナチス勢力が最高潮に達していたヨ ーロッパに留まることを許さなかった。二人はアメリカに亡命し、ヴェルフェルはア ルマが66歳の時に死罪し、彼女は1964年に85歳で亡くなっている。. 15.

(23) アルマは他にも長年にわたってハンス・プフィッッナー(H鋤sP丘zner l869−1949)に. 求愛され続けており、また晩年には若く才能溢れる作曲家ベンジャミン・ブリテン (Be蜘min Bri伽dg13・1976)を愛おしんだ。彼女の歴代の夫をはじめ、ッェムリンスキ. ー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、プフィッツナー、ブリテン、その他多 くの、彼女に愛され、あるいは認められた男達は、彼女によってその才能を高めら れ、また世に認められる才能や機会をも手にしたのである。. 彼女は世紀宋芸術の文化を沸き立たせる源であり、まさしく世紀末芸術が象徴する 女性像そのものだったのではないであろうか。. アルマが作曲することを固く禁止していたマーラーが、彼女がマーラーとの結婚前 に作曲していた曲を見つけ、その才能を評価し、また出版の手助けをもしたのである が、それはマーラーがアルマを抑圧することが原因で生じた:二人の結婚生活の危機を. 何とか救おうとするマーラーの歩み寄りによるものであった。ツェムリンスキーやプ フィッツナーにその才能を認められていたにもかかわらず、マーラーには作曲するこ とが許されないまま、その秘かな望みを捨て切れずにいたアルマは、大切に自分が昔 に作曲した数曲をその時まで保管していたので、長い歳月を経てやっとマーラーの理 解と協力のもと、出版されることとなった。彼女の現存する作為(16曲)は全てピアノ 伴奏用に作られた歌曲であるが、現在ではオーケストレーションもされている注し。. 1910年に出版された『5曲の作晶から成る歌曲集』“恥nfLieder”はツェムリンスキ ーの指導のもとで作曲された作晶が集められている。笠915年に笛版された『4曲から 成る歌曲集』“Vier Lieder”は、ッェムリンスキーの指導を受けずに自力で仕上げて. いる。これらの作品と同時期に作られ、愛の告白としてアルマに捧げられたツェムリ ンスキーの歌曲集『ばらのイルメリンと他の歌』“lr組e㎞Rose und andere Gesange”. op,7とアルマの歌曲は、テキストの趣向、あるいは作曲上の特徴においても、多くの 点で共通点が見られる。’彼女はテキストの選択においてハイネ(Heinrich Hehle 1797・ 1856)とノバリス(NovaHs 1772・1801)以外は、リヒャルト・デーメル(Richard Dehme1. 1863−1920)やリルケ、ヴェルフェルを含む彼女と同時代の詩人の作品に向かう、限定. された傾向を見せている。またッェムリンスキーと共通する作曲上の特徴は「十二落 すべてを等価値とすること、伴奏声部が動機を持っていないこと、縮小への意志が見 られること、和声の変化を最大に使いながらも、装飾的な部分を切り捨てるピアノ伴 注1. Aルマの生存中にもオーケスきレーションがされていたと記されているが」漁孤Re畢ordslこよる環在のオーケス}. レーションは全く薪しいものである。. 16.

(24) 奏が使われていること」[ベルント1989:49]などである。1999年に出版されたリル. ケの作品集『母』“M礁er”からの2つの歌曲もマーラーとの結婚以前に作曲された ものである。1924年に出版された『5曲から成る歌曲集』 “F伽fGes臼nge”はマーラー. の死後作られた作品である。この歌曲集の中にはヴェルフェルの詩による唯一の作品 『認識する者』“Der Erkemende”があり、他の作品に見られる広々とした大胆な形式 とは違って、かなりの節約・抑制された作品であるといわれている。. 17.

(25) アルマ・マーラーに恋した男たち. 灘疑1 嵐 i. 「. ワ.−.. 綻. マーラー死後の同棲者 オスカー・ココシ.ユカ. ゆや. …、. 譲\. 最初の夫 グスタフ・マーラー. 、壌・. ドじ・. 、 撃・. 〃. /v斗 礎. 2人目の夫 ワルター・グロピウス. 」〆.『、. .幽炉. ¥. 妻 ’穿. アルマ・マーラー. 作曲の教廓 アレクサンダー・ツェムリンスキー. 3人目の夫. 章撚エ凝議。、幣欝壼1離畿1藷陽罐1灘嵐. フランツ・ヴェルフェル. 18. 「新」ウィーン楽派の人々」音楽之2.

(26) 第3項 シェーンベルクー新ウィーン楽派との関わりと作品の特徴について ウィーン音楽院の課程を修了したばかりのツェムリンスキーはアマチュアオーケス トラ〈ポリヒムニァ〉に指揮者として迎えられ、その一楽団員としてチェロを弾いて. いたシェーンベルクと知り合った。そこでシェーンベルクの才能に気付いたツェムリ ンスキーは独学のシェーンベルクに数カ月間対位法を教え、それからは師弟関係を超 越してお互いに影響を与え合う最良の友となった。ッェムリンスキーが「シェーンベ ルクの唯一の教師」であり、彼を発見し、応援し続けたという事実のみがよくツェム リンスキーの手柄として知られているところではあるが、確かに彼の最大の業績はそ れであったとしても、天才シェーンベルクを指導し、彼にとってなくてはならない存 在であったツェムリンスキーの音楽上の功績を誰よりも正当に評価しているのはまぎ れもなくシェーンベルクなのである。シェーンベルクは後に音楽誌の中で「作曲技 術、作霞の諸問題に関する知識は、私はそのほとんどをツェムリンスキーに負ってい る。」 「ツェムリンスキーは偉大な作曲家であると私はずっと信じてきたし、今でも. その確信は変わらない。彼の時代は私たちが考えている以上に早くやって来るだろ う」[エーベハルト1998:14]と述べ、自分や彼の周囲の際立った才能の陰に隠れて結 果的に音楽史上においてこれまで脚光を浴びることのなかったッェムリンスキーを、. 友人または生徒として尊敬の念を持って評価しているのである。また彼らはシェーン ベルクがツェムリンスキーの妹マティルデと結婚したことによって義兄弟となり、よ り親密な間柄となった◎. またシェーンベルクが「ッェムリンスキーと知り合った頃には私は《ブラームジァ ーナー》だった。ツェムリンスキーはブラームスはもちろん、ヴァーグナーにも愛着 の念を注いでいたので、すぐに私もこの二人両方の心からの信奉者となった。」 [エ ーベハルト1998:16]と語っていることから、当時のツェムリンスキーの:二人の巨匠. への傾倒ぶりと、その影響を受け継いだシェーンベルクへの音楽的系譜が見られる。. 1897年の夏、シェーンベルクはツェムリンスキーと共に休暇を過ごし、彼のオペラ 『ザレマ』“S欝ma”のピアノ編曲譜を作る仕事をしたり、彼に最初の『弦楽四重奏 二二長調』の指導を仰いだりと密接な交流を持っていた。この頃の二二の作品につい でユルグは次のように述べている。. 「ツェムリンスキーの歌曲集と作品七と作晶八そして『リヒャルト・デメルDe㎞eI の詩によるピアノのための幻想曲』作品九は一八九七年から一九〇〇年の間に生まれ. 19.

(27) たが、これらの作晶とシェーンベルクの作品一から作品三までの歌曲は直接に影響を 及ぼしあったことが認められる。」 [ユルグ1993:171]. 1898年にシェーンベルクの初期歌曲作品がリサイタルで演奏されたが、そのピアノ 伴奏を務めたのはッェムリンスキーであることも興味深い事実である。 190◎年代に入ってシェーンベルクはこの時点ではまだ彼に好意的であったR。シュト ラウスの推薦で音楽院での教師の職を得る(後に二人の関係は悪化することになる)。. またベルクやウェーベルンといったその後、新ウィーン楽派としてシェーンベルクと 共に急進的な音楽の道を進むことになる生徒達に授業を始めるようになった。機能和 声の崩壊と調性の危機が限界に達しようとしていたこの頃、シェーンベルクはもはや ツェムリンスキーをも追い越して独創的な道を進み、 『ゲオルク・ヘンケルとシュテ ファン・ゲオルゲの詩による2つのピアノ伴奏歌曲』“Zwei Lieder飴r Gesang und Klavier”op.14(1907−1908)、『シュテファン・ゲオルゲの《二二に架かれる庭園の 書》による15の歌曲』“Fi血肋㎞G6dichte aus《Das Buch der Hangenden G顔en》von Ste㎞George”op.15(1908・1909)、 『3つのピアノ曲』 “Drei Klav三erst旋cke”op.11. (1909)の作品で決定的な無調様式へと踏み出したのである。シェー・ンベルクは1910年. のOP. UとOP.15の初演の際のプログラムの中にこの新たな様式について次のように述 べている。. 「『グレの歌』の作曲は一九〇〇年の最初の頃であり、『ゲオルゲ歌曲集』と『三 つのピアノ曲』は一九〇八年のことである。その間の年月がおそらく、両者の大きな 様式の相違を説明してくれるだろう。(中略)『ゲオルゲ歌曲集』によって私は、長年. 目の前に漂っていた表現と形式の理想へと近づくことに初めて成功した。この理想を 実現するためには、それまでは私に力と確信とが足りなかったのだ。しかしこの道に 思い切って足を踏み入れた今、私は既成の美学の制限をすべて乗り越えてしまったこ とを意識している。」 [エーベハルト1998:79]. 無調時代には新しい様式と表現を模索し、その中で音列的手法やシュプレッヒシュ ティンメなどを考案し、ついに1923年「12音による作曲技法(12音技法)」を公に発 表した。これは「オクターブ内の十二の音を一度ずつ用いて基本音列を作り、その反 行形、逆行形、反回の逆行形を構成し、さらにこの四つの音列の十二の移置(高)形を. 加えた計四十八種の音列を水平・垂直に組み合わせて、音高構成を行なう」 [長木 1992:35]という技法で、20世紀を代表する新たな音楽体系となった。. このようにシェーンベルクは次々と未開の領域を開拓した最も前衛的な芸術家で. 20.

(28) あったが、アメリカに亡命後の作品には調性の要素を取り戻しているものもある。彼 の先鋭的思想を引き継ぎ、さらに突きつめて戦後の若い世代の手本となったのは、彼 の生徒ウェーベルンであった。新ウィーン楽派のもう一人の担い手のベルクはウェー ベルンと共にシェーンベルクの従順な生徒であり、12音技法を受け継いでたくさん作 曲しているが、12音技法の響きの面でのコントロールが不可能であるという特徴には. 賛同できず、厳格な技法と優しい響きを融合させた独自の作風を示したので、r最後 のロマン主義者」と呼ばれている。ベルクの作品『弦楽四重奏のための好情組曲』 “Lydsche Suite”. i1925−26)はツェムリンスキーの『拝情交響曲』op.18の影響を受けて. 作曲され、自分の作晶を何度も指揮してくれた信頼をよせる友人ツェムリンスキーに 捧げられている。従ってッェムリンスキーとシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン は密接な距離間で共にウィーンの前衛音楽の普及に力を注ぎ、自らその先進力となっ て独自のスタイルを築いていったといえるであろう。. 21.

(29) 第2章. ツェムリンスキーの歌曲作品とその 分析・考察. 第1節 ッェムリンスキーの歌曲作品研究の現状 ツェムリンスキーは1970年代のはじめにオーストリアのグラーツで開かれたツェム リンスキーの最初の回顧展によって戦後再び脚光を浴び始めた。彼のピアノ伴奏歌曲 についての論述は、音楽研究の分野において全体的に見るとかなり少ないといえる。 彼の全作晶の完全な召録というものはまだ存在していないが、ウェーバーα{.Weber)の ツェムリンスキーの書籍(1977)と、オンクレー(L.AO鍛cley)のツェムリンスキーの書籍 (1975)、臼本語で書かれたものでは『ベルク年報〔5〕1991/1992』(アルバン・ベルク. 協会編集)でのツェムリンスキー特集でその大旨を見ることができる。それによると彼. の声楽作品は全部で約160曲あり、未完成や未出版の作画もいくつか残っている。以下 に紹介する研究の現状、第2節のテキストの趣向についてはラーデマッハー(U. Rade搬acher)著の文献『Vokales Scha鍛嫡n der Schwelle zur Neue敷Musik還(1996)に基づ. いている。. 1992年に開催された第2回ツェムリンスキー・シンポジウムでは、アンドラシュケ (P.Andraschke)、クローネ(H. Kr◎簸e)、ウェーバー(H. Weber)、ヒルスブルンナー(T.. Hksb㎜ner)の報告において、1916年以降の未出版の作晶、ならびにツェムリンスキー・ と詩人のデ附子ル(1越chard De㎞en 865。1920)との関わりについての議論が注琶を浴び た。. アドルノ(T.W. Ad◎凱。)の“Quasi㎜、a㎞tasia”(1978)という論文は、1945年以降に. ツェムリンスキーの歌曲について書かれた最も早い時期の重要な発表である。アドル ノはッェムリンスキーが折衷主義者であるという主題から出発し、彼が新時代の音楽 への動機づけに大きく貢献したという問題を取り上げ、また歌曲作晶をそれに従って 個別的に分類している。アドルノはop,7をブラームス的和声とワーグナー的半音階の 無限旋律と、相互に関連づけている。その中の一曲『二人の子供がいた』“Da ware簸 zwe三Kinder”を、彼は12音音楽の思想の直接的な先駆けであると言っている。アドル ノは『メーテルリンク歌曲剰OP.13を作品の中核とみなし、 「凝i縮されたメリスマ」. へと向かう表現主義の方向性を証明している。そのほかに彼は民謡との関連、そして. 22.

(30) マーラーの作曲様式に向かう編曲技法との関係を示したこの作品集を模範的に打ち立 てている。しかし、言葉と音との関係についての具体的な論述はなされていない。 “The轡b蔓ished w(∬ks of八Z鍍曲iskゾ(1975)におけるオンクレーの研究の考察ではア. ドルノの研究と同様に、第一に具体的な言葉と音の関係を探し出すことではなく、全 作品を通した音楽的発展の道筋を際立たせることを重視している。これに加えて彼は 詩の選択、形式、メロディー、リズム、伴奏、テンポ、表現記号、和声を基準とし て、出版された作品を体系的に分析している。彼の歌曲作品の研究はop.13の作品集で. 終わっている。オンクレーはツェムリンスキーの音楽的発展を、とりわけ形式と和声 の領域においで証明している。 まず形式という点ではop.5の作品あたりから有簾形式からの脱却が見られ、 op.8で. は完全な通作形式を提示したとしている。op.6は民謡調で書かれた歌曲であるが、ツ. ェムリンスキーの形式における試行錯誤の跡が見受けられる。次に和声の点において は、op.2はフックス灘と保守派の影響下からの方向転換によって特徴づけられている 作品である。◎p.5は和声の構成の点でワーグナーの影響を強く受けた作品であり、◎p.. 6は「決して緩まない和声の緊張状態」によって特徴づけられている。オンクレーは op.7の和声法(コード自体はそれほどでもないが、それらの用いられ方において)を進 歩的であると捉え、:重要な意味を認めている。op.8はその伴奏においても、各々のテ. キストにとって適当な音楽の作風に到達するに至る発展過程を見ることができる。 メーテルリンク歌曲集op.13はオンクレーの最後の分析作品であり、「これらの曲は. 様式、表現法のどちらにおいても、ツェムリンスキーの音楽とシェーンベルク、ベル ク、ウェーベルンの表現主義的作品、無調作晶との間の大きな隔たりを例証してい る」というような説明で締めくくっている。. ツェムリンスキーの歌曲作品についての最も重要な書物にウェーバーの論文があ る。ここではブラームスとシューマンの特徴をなした初期の歌曲(OP.2.5,6を含む作品 とその前後の二二)の系統と、ワーグナー的様式によって特徴づけられたop.7.8.10の. 歌曲の系統に区分される。ウェーバーはop.13を最高潮の作品として論述しており、そ. の後生み出された歌曲には触れていない。彼はまず第一に、歌曲の思想に関する影響 範囲の根本的な要因としての、外面的、内面的現実の聞の心理的葛藤を述べている。. そしてこれに加えて模範的な方法で、形式と和声法の領域から音楽的表現法の要素を 見つけ出している。そのひとつに主音に近い、そして主音から遠い和声二次元は、内 融ロベルト・フックスR.Fuchsツェムリンスキーの修学時代の和声の教師で、多くの作曲家(マーラー、ヴォルフ、 ツェムリンスキー、シュレーカーなど)の緬として、伝統的な和声や対位法を指導した◎. 23.

(31) 面的、外面的現実局面の異なった距離感を象徴しているということが挙げられてお り、そして『深い憧れ』“Tie魚Se㎞s聾cht”(◎p.5−4)の中で人ユ:的に扱われた詩節形式. は、現実の生活と回想の交換可能なことを表現するにまで至ったのである。. シェーンベルクの「野情詩における新しい音調」がデーメルの影響を受けているの と同;様に、ウェーバーはツェムリンスキーの『呼びかけ』“Entbiet㎜9”『海の瞳』 “Meeraugeバ(◎p.7)の歌曲にもその影響を見ている。ウェーバーは両面性のある主音. (Dur/mo11)の和声上の現象を、輝きと陰うつの反対感情並列として解釈している。彼の. 分析は、ツェムリンスキーのもとでは言葉と音の結びつきが特に和声と形式を重視す ることによって強められているということを明示している。 ノイヴィルス(G.Neuw厩h)は第1回ツェムリンスキー回顧展(1974)後に公表された研. 究報告のひとつに、op.13の歌曲集を取り上げている。ノイヴィルスによるこの歌曲集. とシュレーカーの『低声のための5つの歌曲』“F伽fGesa膝gen鍬eine戯b S㎞me” (19◎9)との比較調査は、音楽の様式におけるッェムリンスキー独特の表現方法の発見. に貢献している。彼はこの方法でッェムリンスキーの耽美主義者としての位置を中心 課題として研究した。. ツェムリンスキーの歌曲作品の他の曲(中でも未出版の作品〉についての数少ない概 究のひとつに、ウェーバーによってなされた『ジェイン・グレイ』“Ja蹴e Gray” (ア. ーマン〉の詩によるシェーンベルクとツェムリンスキーを通じての2つの作品の比較 がある(ツェムリンスキー、シ瓢一ンベルクとも1907年に作曲)。無調への問いについ. ての二人の作曲家の異なった姿勢に直面して、シェーンベルクは調性の末期段階にお ける「様式の傾向の分岐」を探求している。. 最近のツェムリンスキーの歌曲研究をテーマとする学術的なものの申に、1992年の ウィーン音楽大学において開催されたシンポジウムの研究報告が挙げられる。ツェム リンスキーの歌曲全体は、クローネの『A.Zemll盤skyの歌曲作品における調性と和声の 意味論』(1992)という論文で取り上げられている。その2つに分けられた研究報告. は、まず第一に言葉と結び付けられた音楽全体の度重なる研究を基に、ッェムリンス キーの主な師であるブラームスとフックスの耽美的カテゴリーを防護することによっ て、調の性格を定義する試みを含んでいる。この方法でクローネは「悲劇的な」内容 の表現として解読されるd−moll、「言葉では言い表せない悲しみ、満たされていない 情熱、激しい嫉妬や陰うつな自然の趣」の感覚のes−moll、「愛らしいもの」、「光 り」、 「愛」としてのAs−D嘘、そして最後に「美、あるいは美しい女性」としてのH.. 24.

参照

関連したドキュメント

るとする︒しかし︑フランクやゴルトシュミットにより主張された当初︑責任はその構成要素として︑行為者の結果

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における

まず, Int.V の低い A-Line が形成される要因について検.

行列の標準形に関する研究は、既に多数発表されているが、行列の標準形と標準形への変 換行列の構成的算法に関しては、 Jordan

看板,商品などのはみだしも歩行速度に影響をあたえて

ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

或はBifidobacteriumとして3)1つのnew genus

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。