責任判断としての違法性の意識の可能性
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(2) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. はじめに. 三八. 刑法理論上︑違法性の錯誤の事案の処理をめぐって激しい対立が存在する︒学説の多くは故意犯の成立について何. らかの形で違法性の意識を考慮すべきであるとしているが︑違法性の錯誤の場合に故意犯は成立しないとする見解は ︵1︶. 少数であり︑違法性の意識の可能性が存在しないときに故意犯の成立が阻却されるとする見解が多数を占めていると. される︒他方︑判例は伝統的に違法性の錯誤は故意犯の成立に影響しないとしてきたが︑近年の最高裁判例のなかに. は︑将来︑違法性の錯誤について相当の理由のある事例があれば︑故意責任を否定することに含みを残しているもの. ︵4︶. と受けとめうるものが現れてきている︒例えば︑羽田空港ビル事件の第二次上告審判決は︑﹁相当の理由に基づく違 パこ 法性の錯誤は犯罪の成立を阻却する﹂とした原判決を破棄するに際して︑その理由を事実誤認に求めたが︑判例違反 ︵3︶ による破棄ではないことが将来の判例変更の可能性を残すことを意昧していると理解されたのである︒また︑百円紙. 幣模造事件において︑違法性の意識を欠いていたことにつき相当の理由があるとはいえないことを根拠に故意犯の成 パゑ. 立を認めたが︑これは前記判決の傾向を強めたもの︑あるいは実質的に判例変更がなされたと同様の効果が生ずるに. いたったとも考えうる︒このような状況において︑まさに違法性の意識の﹁可能性﹂の内容︑すなわち違法性の錯誤. について﹁相当の理由﹂を具体化していくことが求められるとの主張も強まってきている︒実際︑かつては違法性の. 意識の可能性が故意責任を認めるためには必要であると論じるだけであったのが︑近年になり︑違法性の意識の可能 パを 性の判断基準について論じているものが多々みられるようになってきている︒けれども︑それらにおいて示されてい. る違法性の意識の可能性についての基準が︑故意責任の実質的な根拠との積極的な関連性を意識して論じられてはい ないように思われる︒.
(3) 違法性の錯誤について行為者の免責が問題となる事例は︑百円紙幣模造事件のように︑行為者が第三者に自己の行 ︵7︶. 為の法的性質を照会した事案で生じることが多く︑このような場合︑通常照会により獲得した情報を信頼したときに. 免責の可能性があるとされる︒しかし︑照会行為は犯行に先行してなされることから︑これを違法性の錯誤の免責の. 要件とするのであれば︑それが行為と責任の同時存在の原則に反しないのか︑行為責任と矛盾しないのか︑詳細に検. 討する必要がある︒ここでは︑具体的な基準の鼎立を急ぐあまり︑理論的な説明・論拠がないがしろにされている傾 向が認められる︒. ︵8︶ ところで︑わが国では故意に提訴機能を認める見解が有力であるが︑この見解では︑提訴機能のある故意をもちな. ︵10︶. ︵∬﹀. がらもなお違法性の意識の可能性がないことがありえるのかは検討を要する︒とりわけ︑コ般人ならば違法性の意 ︵9︶ 識を持ち得る事実の認識﹂が故意であるとする見解が主張される背景には︑故意があれば原則として違法性の意識の. 可能性は存在するという理解が存することに注意しなければならない︒例えば︑平成元年七月一八日の最高裁判決は︑. 公衆浴場の無許可営業の事案に関して︑正規の許可状が交付されていないことを認識していたとしても︑県の担当者. の言質︑変更届の受理などにより︑無許可営業の故意は認められないとしたが︑故意の内容をいわば自然的な事実の ︵12︶. 認識であるとするならば︑営業許可がある︵適法な営業である︶と誤信したことについて相当な理由があると認めう. る事案において︑端的に故意の存否を問題にしている︒そこで︑故意の提訴機能と違法性の意識の可能性の関連性と. いう観点からも︑理論的に違法性の意識の可能性の判断基準を構成することが要請されることになる︒ ︵13︶. 以上の観点から︑本稿は︑主としてドイツにおける責任説の展開と禁止の錯誤の回避可能性についての議論を参考. 三九. として︑違法性の意識の可能性の基準の問題を理論的に分析し︑その責任判断における意義を再構成することを試み るものである︒ 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(4) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 第︸節違法性の意識の可能性の論拠. 四〇. 故意犯が成立するためには違法性の意識が必要ではなく︑たんに違法性の意識の可能性があれば足りるとする見解. は︑その犯罪体系上の処理の点から︑二つの立場に分類することができる︒第一は︑故意には違法性の意識を欠いた. ことへの行為者の過失かまたは違法性の意識の可能性で足りるとし︑違法性の意識を欠いたことについて過失がない ︵き かまたは相当の理由がない場合に故意が否定されるとするものである︒第二は︑いわゆる責任説と呼ばれる立場で︑. 違法性の意識の可能性は事実認識としての故意とは別個︑独立の責任要素であるとする︒違法性の錯誤の免責のため. の要件を考察する場合︑この二つの立場で免責のための基準が相違しないのかは問題である︒そこで︑違法性の錯誤. の免責の基準を検討する前提として︑また免責の基準を理論的に基礎づけることを可能にするためにも︑まず故意犯. 故意説からの展開. の成立には違法性の意識の可能性が必要であるとする見解の論拠を概観することにする︒. 一. 1 違法性の意識の可能性を故意の前提とする見解には︑まず︑違法性の意識を欠いたことについて行為者に過失 B︶ がある場合を法律の過失として故意と同様の取扱を認めるものがある︒この説の根拠は︑法は法自身を知ることを国 ︵協︶. 民に命じており︑少なくともその身分・職業・趣昧などに応じて日常生活に密接な関係のある法はつねにこれを知ら. なければならないということである︒すなわち︑国民には法を知る義務が強く課せられており︑法を知っていること ︵η︶ の強い期待に反してそれを知らなかったため法に違反した場合には重い責任非難が生じるとする︒この見解の基礎は. 法を行為規範として理解することである︒法が行為規範として国民に妥当し︑その規範的効果を発揮するためには︑.
(5) 国民が法規範の内容を知っていることが必要であり︑法規範の妥当性を確保するために法を知るという責務が国民に. 課せられていると考える︒この法律の過失をも故意とする立場が理論的根拠および事案の具体的解決の点で責任説と. また︑故意の要素として違法性の意識の可能性を要求する見解も存在する︒この見解は︑当初︑人格責任論を. 同様であることが示されれば︑責任説との実質的相違は存しないものとなる︒ ︵18︶. 2. 基礎として主張され︑例えば︑団藤博士は︑人格態度の直接的な反規範性が故意責任の本質をなし︑人格形成に即し ︵沿︶. て違法性の意識の可能性がみられるかぎり︑犯罪事実を表象している以上規範の問題に直面しているのであるから︑. 故意責任を認めてよいとされる︒この見解は人格責任論に依拠せずにも主張された︒故意のある犯罪に向かった意思. 形成が非難されるのは︑犯罪事実に直面した場合︑当然︑当該行為の違法性を意識し︑それを避けうる抑止力の形成 ︵20︶ が可能なはずであるのに︑その期待に反して違法行為に踏み切ったことにあるとするのがそれである︒しかし︑団藤. 博士も︑行為者が犯罪事実を認識したときに規範に直面することを認めており︑そのかぎりで︑両者は軌を一にして. いる︒では︑なぜあえて人格形成責任をその論拠として持ち出す必要があるのだろうか︒ここで注目すべきことは︑ ︵21︶. 法を知るべきことまでは要求しないが︑法を知ろうと欲しなかった場合には故意を認めることができ︑それは行為前. の人格態度により基礎づけられるとされていることである︒人格責任論が行為前の事情により故意責任を基礎づける. ために援用されているのである︒このことは︑錯誤の回避可能性を考察するうえで重要な点である︒. いずれにせよ︑犯罪事実の認識により規範に直面していることが故意責任にとって決定的であるとしている点が重. 要であり︑このことが違法性の意識の可能性で足りるとしつつもなお責任説にいたらない理由になっている︒藤木博 ︵22︶. 士は﹁違法性の意識と犯罪事実の認識との概念上の区別は可能であるが︑犯罪事実の認識とは︑当然︑違法性の意識. 四一. を喚起してしかるべき事情であるという意味で密接に関連している︒違法性の意識の問題は︑責任要素としての故意 責任判断とし て の 違 法 性 の 意 識 の 可 能 性 ︵ 石 井 徹 哉 ︶.
(6) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. ︵23︶. 四二. の一環として論ずべきである︒﹂とされている︒また︑前田教授は︑﹁規範に直面するか否か﹂はコ般人ならば違法. 性を意識し得るか否か﹂ということであり︑違法性の意識の可能性を事実の認識の問題に構成し直すとコ般人なら. ば違法性の意識を持ち得る認識﹂となるとされる︒それゆえ︑故意があれば︑原則として︑故意のほかに違法性の意 ︵24︶. 識の可能性を論ずる必要性はなく︑違法性の意識を欠く行為者を免責できるのはー期待可能性の領域でー極めて例外. 的場合でしかないという帰結を示される︒そうすると︑故意の提訴機能を要求する責任説の論者ー特に故意を責任要. 素とする論者ーは︑実際上︑故意の体系的地位との関係で責任説を維持することが有益であることを示す必要が出て. 付言すると︑違法性の意識の可能性を故意の問題とすることは︑とりあえず犯罪事実の認識と一体化されるこ. くることになろう︒. 3. とから︑違法性の意識の可能性の要件が行為時の問題として考慮する要請が強く働くことになる︒違法性の意識の可. 能性として行為前の行為者の態度を考慮することができるのは︑責任説に依拠するか︑または故意説の立場で人格責. 任論に依拠するかあるいは法律の過失を問題にするかのいずれかである︒この意味で︑違法性の意識の可能性を故意. 二. 責任説は︑故意を犯罪事実の認識に限定し︑違法性の意識の可能性を故意とは独立の︑かつ過失と共通の責任. 實任説の存在論的・規範論的基礎. の要素とすることは故意と過失を混同するものであるという批判が後二者の立場に妥当することになる︒. −. 要素であるとする︒責任説のきわめて形式的な論拠は目的的行為論から導き出される︒すなわち︑行為の違法性は人. 問の行為についての評価であり︑それは行為に関連して﹁禁止されている﹂という賓辞を意味している︒評価と評価. の対象は相互に区別されなければならないから︑行為に属する要素は評価の対象として評価の帰結︵すなわち違法性︶.
(7) ︵25︶. に関係できない︒故意は行為に属し︑評価される対象の一部であるから︑故意には違法性の意識つまり評価の帰結の. ︵27︶. 認識は属しえない︑と︒しかし︑これではせいぜい故意と違法性の意識を相互に区別すべきことしか認めえず︑故意 ︵26︶ 犯の責任にとって違法性の意識の可能性を要件とすべきことまでは論証していないのである︒. そこで︑ヴェルツェルは︑次のように責任説を実質的に基礎づける︒責任は個々の違法な行為の非難可能性であり︑. 責任非難は決意にしたがって遂行される違法な行為への価値決定を対象とする︒非難可能性が前提とするのは︑責任. 能力ある行為者が具体的な所為に関して違法な行為意思にかえて適法な行為意思を形成しえたということであり︑こ. れは︑行為者が自己の所為の不法を認識したかあるいはそれを認識しえた場合に︑認められる︒違法な行為意思は︑. 行為者に行為の違法性が意識され︑それが意識を規定する反対動機となりえた程度に応じて︑行為者に非難される︑. と︒この意味で違法性の意識の可能性を責任の要素とするのは規範的責任論の所産である︒ここでは︑責任非難を直. 接に基礎づけるものとして︑犯罪的な意思決定に抵抗する規範的な意識として反対動機の形成可能性を問題にするこ ︵28︶. とから︑違法性を現実に意識していたのかそれとも意識する可能性があったかということに質的な相違は存在しない ︵29︶. アルミン・カウフマンは規範論から責任説を基礎づける︒規範とは︑法益保護という目的を実現するために︑. ことになる︒. 2 ︵30︶. 一定の具体的状況において一定の個人に規範化された行為を義務づける機能を有する法命題であり︑この義務づけに. 反することが不法となる︒さらに︑規範は︑法益保護を目的とするかぎりで︑当該規範そのものが義務にかなった行. 為の動機として︑または義務違反の行為の反対動機として作用しうるものでなければならない︒そこで︑法秩序は規 ︵31︶. 範によって動機づけ可能な者に適法な行為を遂行するよう働きかけなければならず︑もしそのような者が義務違反行. 四三. 為を行ったときは︑その違法な行為を非難可能であると評価する︒こうして︑規範による動機づけ機能ないし意思形 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(8) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 四四. 成機能の観点から責任の構造が解明される︒まず︑行為者が義務を現実に意識するかまたは意識する能力を備えてい. ないと︑義務は個人の動機として作用しえないから︑義務認識の能力が動機づけの前提として要求されることになる︒. 義務の認識は義務侵害の認識でもあり︑義務侵害は不法を意味することから︑義務認識の能力は不法の意識の可能性. ということになる︒また認識した義務による意思形成能力が要求される︒この二つの能力が非難可能性の個別的な前 ︵32︶ 提要件の総体を意昧するかぎりで︑体系的に﹁責任能力﹂と呼ばれ︑唯一の責任の構成要素と理解される︒以上の理. 解から︑不法と責任は義務づけと動機づけの観点により区別され︑﹁違法な意思﹂としての故意ーどこへ動機づける. かーと﹁有責な意思﹂としての不法の認識−何により動機づけるかーはそれぞれ不法と責任とに組み入れられ︑責任 ︵33︶ の問題として義務認識能力である違法性の意識の可能性が必要とされる︒ ︵34︶. この理論に類した見解を示されるのは木村博士である︒木村博士によると︑刑事責任の根拠は︑刑法規範が一定の. 行為を禁止・命令することにより︑行為者に対して規範に合致した意思決定の義務を課し︑行為者は適法な行為の決. 意にでねばならないにもかかわらず︑義務に反して適法な行為の決意にでず︑違法な行為の決意をなしたことにある︒. そこで︑責任は意思の形成すなわち決意が法秩序の要請に反するという無価値判断であり︑違法性が意思実現として. 行為規範という観点は故意と違法性の意識の可能性がまったく異質のものであることを理論的に基礎づけるの. 5︶. の行為が法秩序に違反するという無価値であるのに対して︑責任は実現意思の形成にいたる動機決定についての評価 ︵3 であり︑両者は当為と可能により区別されることになる︒. 3. に有益である︒たしかに︑規範的責任論の見地から︑違法性の意識の可能性が責任の中核的メルクマールたりうるこ. とを基礎づけることは可能である︒しかしながら︑それが故意とは一線を画した概念として形成できることを反対動. 機形成可能性という視点だけでは導出しえない︒責任説は行為規範論の基礎を獲得することによりーそれとともに故.
(9) 意を違法性の領域へ放逐することによりー十分な説得力を獲得する︒ ︵36︶. 規範的責任論は責任を非難可能性と理解し︑責任を行為者に他行為可能性があったかどうかという規範的判断であ. 7︶. るとする︒しかし︑フランクやゴルトシュミットにより主張された当初︑責任はその構成要素として︑行為者の結果 ︵3 に対する精神的な関連性という心理的事実と︑行為者およびその行為した事情の規範的な特性を含むもので︑心理的 ︵38︶ 要素と評価的要素の両方が含まれていた︒このような責任概念は﹁複合的責任概念﹂と呼ばれている︒これに対して︑ ︵39︶ 目的的行為論は純粋に規範的な責任概念を主張し︑責任を純粋の規範的評価として捉え︑またアルミン・カウフマン. 流の行為規範論もその論拠を提供した︒この立場では︑故意と違法性の意識の可能性の機能的な分担が明確にでき︑ ︵40︶. かつその理論的構成を可能にする︒禁止の錯誤の回避可能性の内容を規定する場合でも︑責任が精神的事態から自由. であることから︑責任判断の対象が行為時に限定されにくいのである︒しかしながら︑複合的責任概念によると責任. ︵41︶. が精神的事態と非難可能性の両者を合わせもつため︑錯誤の回避可能性を犯行以前の事象から基礎づけることは困難. になる︒さらに︑故意を責任要素としても理解するなら︑故意と違法性の意識の可能性の責任論における相互関係が. 不明確とならざるをえない︒たしかに︑故意は犯罪事実に対する行為者の意思的関連性を問題にするものであり︑違. 2︶. 法性の意識の可能性は行為者がそのような故意をもつにいたった動機形成過程を非難できるかという問題であるとし ︵4 て︑両者を理論的・概念的に区別することは可能であり︑またそれは正当な理解である︒けれども︑規範的責任論で. は︑行為者が犯罪事実に対して意思的関連性を有していることではなく︑違法な行為にでないという反対動機を形成. する可能性があったにもかかわらず︑そのような反対動機を形成せず︑違法な行為を決意した点に︑非難の根拠をみ. いだすものである︒複合的責任概念は︑故意と違法性の意識の可能性がともに責任要素とされながら︑それぞれが非. 四五. 難可能性概念のもとでどのように関連しているのか︑なぜ両者の区別が必要なのかをいまだ十分には説明しきれてい 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(10) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 責任説の政策的・予防的基礎. ないし︑ 両者をともに要求することは故意を形骸化し︑. 三. 四六. ひいては責任を形骸化する危険を随伴するごととなろヶ︒. 1 責任説から故意説に対する批判の一つに︑故意説が刑事政策上耐えがたい帰結をもたらすというものがある︒. 故意説によると︑常習犯人は規範意識が鈍麻しているために規範意識の抵抗を感じないことがあり︑違法性の意識が. ないことが多く︑不可罰とせざるをえず︑また︑行政犯の多くは過失処罰規定をもたないことが多々あり︑違法性を. 意識しないと不可罰となり︑取締目的を達成できないと批判する︒さらに︑一般的に法を知る努力を麻痺させ︑誰も. このような責任説の刑事政策的基礎をより明確に理論化するのがいわゆる積極的一般予防論である︒積極的一. 知らない法を無効にしてしまうことを意味し︑法の妥当性を危うくすることとなるとも︑責任説の論者は主張する︒ ︵43︶ 反対に︑違法性の意識の可能性さえあれば行為者の責任を肯定する責任説は刑事政策的基礎をも有するとされる︒同 ︵弱︶ 様のことは︑違法性の意識の可能性を故意の問題として考慮する見解も主張している︒. 2. 般予防論は︑刑罰の予告によって犯罪行為にでないように威嚇するという消極的一般予防とは対照的に︑法秩序の拘. 束力ならびに実行力に対する信頼を維持しかつ強化することとして予防を理解するが︑この考えによると︑刑罰は法 ︵45︶. ︵菊︶. 共同体に対して法秩序が確固たるものであることを明らかにし︑国民の法的な忠誠を強化するという任務を有するこ. とになる︒より先鋭化した形で︑ヤコプスは︑刑法システムを刑罰に裏づけられた規範の内面化を国民にもたらし︑. それを確保するための国民を教育する道具であると考えている︒規範への信頼が刑法の本来の目的である法的な忠誠 ︵解︶. の習練︵卑昌9凝5評︒耳鋒亀にとって重要な条件であるとする︒この考えの背景には︑刑法的介入は具体的に. 危険にさらされた法益の保護にはつねに遅れるので︑効果的に法益を保護するためには法に対する安定した肯定的態.
(11) ︵49︶. ︵48︶. 度によってのみ実現されるという理解がある︒このような積極的︼般予防の考え方それ自体は新しいものではない︒. ヴェルツェルは︑刑法の社会倫理的機能として︑個々の法益に対する尊重という積極的な行為価値が確固として妥当. していることを国家に許されたもっとも印象的な方法で明らかにし︑市民の社会倫理的判断を整え︑市民がなお有し. ている法に忠誠である心情を強化するということを述べ︑それにより法益の保護がはかられるする︒つまり︑積極的. 一般予防論の基礎には法規範は行為規範であるとうい考えが存在し︑規範の決定機能に実効性をもたせるために国民. の法的忠誠を習練することが必要になるのである︒少なくとも︑犯罪行為ないし法益侵害もしくはその危険が生ずる ︵50︶. 前に法規範によって国民の行為を事前に規制することを重視するのは︑その発想からして人的不法論ないし違法性を. 行為規範違反であるとすることを前提としているのである︒積極的一般予防は︑人的不法論の理解を責任論・刑罰論. ︵5. 2︶. では︑責任説は刑罰威嚇という意味での消極的一般予防論によっては基礎づけられないであろうか︒周知のよ. 1︶. において具体化ないし発展させるものであって︑行為規範論とともに責任説を基礎づけるものと理解される︒この限 ︵5 りで︑責任説と行為規範論はヤヌスの双面にすぎない︒. 3. うに︑フォイエルバッハは︑心理強制説に基づいて︑法律上の刑罰威嚇が心理的強制としてその実効性を発揮し︑犯. 罪意思の実現を阻止しうるためには︑行為者が法規に規定されている当該行為に対する刑罰威嚇を認識していること. が必要であるとした︒しかし︑行為者が刑罰威嚇を認識したにもかかわらず︑犯罪行為にでた場合︑それはたんに刑. 罰威嚇の実効性が発揮されなかったことを意味するにすぎず︑責任を基礎づけるものではありえない︒フォイエルバ. ッハは︑個々の事件における判決と刑の執行は刑罰威嚇が真剣であることを示すことで︑威嚇効果を補強するもので. あるとした︒けれども︑それでは犯罪者の処罰はスケープゴートでしかないことになる︒消極的一般予防では刑罰威. 四七. 嚇と現実の処罰が理論的に結びつきえないが︑積極的一般予防論は︑犯罪者が処罰されることを国民が認識すること 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(12) 早稲田法学会 誌 第 四 十 四 巻 ︵ 一 九 九 四 ︶. 四八. によってその規範意識が強化されるとし︑また刑罰威嚇を法規範の決定機能に代替することで︑犯罪論体系との接合 を果たすことに成功しているのである︒. 他方で︑刑罰威嚇によって動機づけられうる心理状態を刑罰の要件とすることは可能である︒犯罪行為とそれに対. する刑罰を法律で予告し︑それが個人の動機形成過程に採り入れられることにより行為を規制しようとするという前 ︵53︶. 提に立脚するのであれば︑動機形成過程に刑罰の予告が入りえない状態であるときには︑そもそも犯罪規制の前提を. 欠くために処罰しえないことになる︒たしかに︑このように予防目的を考慮することは可能であるが︑ひるがっえて ︵54︶ このような心理状態がただちに刑罰を科すことまで正当化するかはなお検討を要する︒この点︑町野教授は︑刑罰威. 嚇に違法行為抑止の機能を認める以上︑自己の行為の可罰性の認識・認識可能性が存在しない行為者に刑法的非難を. 加え︑処罰することは︑刑罰による犯罪抑止という刑法の目的と無関係なところに︑刑法上の責任を認めるものであ. ると述べられている︒この場合︑動機づけの問題が︑規範の決定機能による動機づけから刑罰威嚇による動機づけへ. と代置されていることに注意しなければならない︒この点に消極的一般予防が否定的に評価された理由が存するよう. に思われる︒つまり︑消極的一般予防論は︑刑罰が害悪の付加であることを率直に承認し︑害悪の付加といういわば ﹁脅し﹂によって国民の行為を規制しようと試みるものだからである︒. 四 刑罰法規・規範・予防. 1 以上から︑違法性の意識の可能性を故意責任の前提要件とする見解の基礎には︑行為規範と積極的一般予防的. 考慮が存在することが示しえたであろう︒ビンディング以来︑法益保護と刑法の法律効果である刑罰との問に一つの. 法的過程として国民に向けられている命令・禁止のシステムが存在するとされてきた︒それが﹁規範﹂である︒ビン.
(13) ︵55︶. ディングによると︑規範は刑罰法規に概念的に先行する法の命令であり︑犯罪者は︑自己にあらかじめその行為の基. 準を示している命題としての規範に違反し︑規範に違反することにより︑犯罪者は刑罰法規を充足する︒刑罰法規は︑. それ自体禁止としてではなく︑裁判官を名宛人とする刑罰効果の発生を正当化する記述された法命題であり︑刑罰法. 規が存在する前提には︑刑法には属さない規範の有効性がある︒このようなビンデイングの規範論そのものについて ︵56︶. は種々の批判が存在するが︑個々の刑罰規定の前段の法律要件に対応する﹁行為規範﹂とその後段の法律効果に対応. 7︶. する﹁制裁規範﹂とが対置され︑行為規範は決定規範として事前に機能し︑制裁規範は行為規範に対する侵害を前提 ︵5 として事後的に機能することは︑ドイツではほぼ承認されており︑わが国でも有力に主張されている︒. 行為規範は事前に国民の行為を規制するものであるから︑禁止・命令の対象とされる行為もあらかじめ確定される. ︵58︶. ことが必要である︒規範は当為を規定しているだけで規範に対する不服従について何も述べていない︒構成要件を形. 成することによって︑規範の対象が明確に示されかつ規範違反の態度が国家刑罰権に服することになる︒犯罪の実質 ︵59︶. が行為規範違反であることから︑責任判断においては︑行為規範違反の認識可能性が違法性の意識の可能性の問題と. して浮上してくる︒法は︑原則として行為者が法的な禁止ないし命令を意識しまたは意識しえた場合にのみ︑責任非. 0︶. 難を提起しうる︒なぜなら︑規範によって行動を制御しようとするならば︑規範によって制御可能な者すなわち規範 ︵6 によって動機づけられる者の行動だけを対象とすべきだからである︒さらに︑行為者による行為規範の無視に刑罰を. 結びつけることは︑行為規範の法規範たることを確証し︑これに対する信頼と尊重を維持︑強化ないし回復すること ︵飢︶ になり︑刑罰の︵積極的︶一般予防的要請ー規範の安定化ーに答えることになる︒. 行為規範違反を犯罪の実質として理解し︑行為規範による動機づけの可能性を責任判断の問題とすることは︑刑法. 四九. における第一次的統制を重視することになる︒ここでは︑構成要件はすべての市民に対する告知板として機能し︑罪 責任判断として の 違 法 性 の 意 識 の 可 能 性 ︵ 石 井 徹 哉 ︶.
(14) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 五〇. 刑法定主義の自由主義的な側面が前面に押し出され︑しかも︑行為規範は刑罰法規から切り離された存在として機能. するため︑一般の法の規制作用と異なるところは存在しない︒これらの前提の下で形成される責任は︑結局︑法益保. 護という︵刑︶法の目的に支配され︑刑罰を積極的に要求する事態ー犯罪の抑制という目的1に根拠を有している︒. したがって︑規範による規制作用が責任にとって決定的であるとする場合︑その責任概念はつねに刑罰目的と結び付. けられることになる︒しかも︑規範は刑罰と切り離されているから︑責任を規定する刑罰目的は︑特別予防や刑罰威. 嚇ではなく︑積極的一般予防となろう︒ここにいたってはもはや他行為可能性に基づく刑罰による非難可能性という ︵62︶ 責任論は形骸化し︑予防的必要性が責任概念を支配するにいたる︒. 2 このような理解には賛成しえない︒まず︑行為規範が刑罰法規から分離され︑独自に機能し︑この規範の機能. を確保することないし法的な忠誠の習練という予防目的が刑罰の目的であるとすることに問題がある︒この考えでは. 刑罰が害悪であるというもっとも本質的な部分が軽視されかねないからである︒国家が刑罰法規によって国民の行動. を規制しようとするが︑それは害悪を付加するという脅しによって行っていることは看過されてはならない︒規範シ. ステムだけを問題にすることは︑刑罰が害悪の付加であるという否定的側面を覆い隠し︑刑罰を美化する危険を孕む. ものである︒むしろ︑刑罰は国民の権利侵害を内容としているということを明確に意識することによって︑その発動. に対して謙抑的でなければならず︑罪刑法定主義および貢任主義の要請が生じることになる︒そこで︑刑法の規制的 ︵63︶ 機能を認めるとしても︑それは刑罰威嚇という消極的一般予防という形態によるものであり︑したがって︑責任にお ︵㏄︶. いて刑法の規制作用を問題にできるとすれば︑それは刑罰威嚇が行為者の動機づけに作用しえたかどうかということ だけでしかない︒この点では︑消極的一般予防に優位が認められなければならない︒. 確かに刑法は法益保護を目的とするが︑原則として結果の発生︵法益侵害およびその危険︶をまって刑事的介入を.
(15) 行い︑事後的処置ー行為者の処罰1によりその目的を追求する︒行為規範は行為自体の違法性を確定することはでき ︵65︶. ても︑結果が発生した場合にはもはや機能することはでない︒結果を事後的かつ客観的に評価するためには︑法規範. は異なる作用を営まなければならない︒こうして︑刑法の事後処理的性格をその本質的部分として認めるべきであれ. ば︑刑罰法規から導出される刑法規範は裁判規範性ないし制裁規範性を有するものとすべきであり︑このような理解 ︵66︶ が結果の発生から遡って行為者の責任を追求する方法をとるいわゆる結果無価値論に親近性をもつことになる︒それ. ゆえ︑刑罰法規の裁判規範性から︑結果の発生を事後的に違法と評価することによって︑これに対する反動として刑. 行為規範と法遵守義務. 第二節 責任主義と違法性の意識の可能性判断. 罰の発動が要請される︒この限度で刑罰は応報的性格を有することになる︒. 一. 1 行為規範に責任における中心的意義を認めることは︑国家が規範により国民の行為が支配可能であるとする前. 提に立脚するものであり︑このことは国民が国家秩序と一致すべきことを厳格に要求することによって︑一貫した形 ︵67︶. ︵68︶. 態を示すことができる︒ドイツの連邦通常裁判所は︑禁止の錯誤のついての基本的な方向を示したー責任説を支持し. たー判決において︑有責な禁止の錯誤︵<震ω9巳号§く①吾︒邑葺毒︶の基準として行為者の不法を回避する義務を. 要求した︒﹁行為者は︑自己に不法だと明らかになっていることだけをしない場合には︑この義務を充足してはいない︒. むしろ︑行為者がまさにしようとすることすべてについて︑それが法的な当為の命題と一致するかどうかを意識しよ. 五一. うとしなければならない︒疑念は熟慮︵ぎ魯留爵9︶もしくは照会︵国詩巨q蒔毒αq︶により除去しなければならない︒ 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(16) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 五二. そのためには良心の緊張︵>霧冒召q福号ω曾&器8が必要であり︑その程度は事案の諸事情および個人の生活範. 囲ならびに職業関係に依拠している︒﹂と︒この判決には︑後に判例・学説で展開される回避可能性の前提要件の要. 素がすべて含まれている︒﹁良心の緊張﹂︑﹁熟慮﹂および﹁照会﹂がそれである︒もつともこれらの相互関係は不明. 確ではあったが︑法遵守義務の侵害を禁止の錯誤の非難可能性の実質としてそれらの諸概念を統合したのである︒以. 降︑ドイツの判例の展開は﹁良心の緊張﹂を軸に展開されていった︒﹁良心の緊張﹂の内容は︑特定の態度の適法性 ︵69︶. ないし違法性について判断することが必要である場合︑行為者には自己の認識能力ならびに倫理的な価値表象のすべ. てを投入する義務があるということである︒また︑相当な良心の緊張をしたにもかかわらず自己の態度の違法性につ. いて認識しえなかった場合︑錯誤は行為者に帰責されないが︑その前提としてすべての認識能力を投入することが必. 要であり︑浮かび上がった疑念を熟慮もしくは照会により除去しなければならない︒そのため︑照会を怠った場合に ︵70︶ は︑照会によってどのような情報が得られたかを問わず︑禁止の錯誤は行為者に帰責される︒さらに︑違法性の意識. ︵72︶. の可能性には過失犯についての基準より厳格なものが要求される︒なぜなら︑ある行為が構成要件に該当することで ︵π︶ すでに通常当該行為の違法性が存在しており︑それは一般的に知られているからである︒. 2 このような判例に対しては批判は多い︒なかでも重要なものは︑禁止の錯誤における責任が犯行とは無関係な. 錯誤それ自体に対する責任によって認められていることに集中する︒すなわち︑法遵守義務と禁止の錯誤の回避可能. 性を非難可能性の枠内で同一視することは︑責任主義に反するとされる︒照会により適切な情報を獲得できない場合 ︵73︶. にさえ︑行為者に責任を認めることは︑他の適法な行為への動機を提供することができなかったのであるから︑具体. 的な犯罪行為に対する非難可能性は認めることができないからである︒以上のドイツの判例の展開において注目すべ. き点は︑禁止の錯誤の回避可能性を一般的な情報収拾義務により基礎づけていることである︒これは︑わが国での違.
(17) 法性の錯誤について過失があれば故意責任を認めるとする見解が法を知る義務を認めていることと同一のものであ. り︑上記の批判がわが国の見解にも同様に妥当するであろう︒しかし︑行為規範としての法規範が有効に機能するた. めには国民の法を知る義務は不可欠のものであり︑判例はその意昧で一貫性をもっていることに注意しなければなら. 1. 二. ドイツにおける学説は︑判例に反対して︑回避可能性判断を具体的な違法性を認識する可能性という精神的事. 違法性を検討する﹁契機﹂とその規範化. 違法性の意識の可能性の予防的考察. ない︒. ω. 実に結びつける︒回避可能性の本質は自己の行為の具体的な違法性を認識する可能性に存するとし︑回避可能な禁止. の錯誤の状態で行為する行為者に責任が負わせられるのは︑行為者が自己の態度の違法性を認識する能力を使用せず︑ ︵74︶. そのため自己の態度を認識した法義務にしたがって決定する可能性を放棄した点に理由があるとする︒こうして︑行. 為者に犯罪行為の時点において自己の態度の違法性を熟慮するいかなる契機︵︾巳簑︶も存在しない場合︑行為者は ︵75︶. 自己に客観的に付与されている違法性を認識する可能性を利用しえないことを理由に︑禁止の錯誤の回避可能性の前. ︵76︶. ︵77︶. 通説は客観的な契機に対する認識可能性で足りるとして︑﹁契機﹂の概念の規範化を図る︒行為者に不知を理. 提条件として︑行為者がそのような契機を有していたことが要求される︒. 働. 由に非難を加えるべきかどうかという評価の問題が重要だからである︒とりわけルドルフィは︑行為者が自己の態度. の違法性を自らの熟慮により知見し︑あるいは第三者へ照会することによりそれを知る可能性を利用しなければなら. 五三. ない程度およびその範囲は︑規範的基準を利用して限界づけなければならないとし︑一方で可能な限り包括的な法益 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(18) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 五四. 保護の必要性と︑他方で責任および行為者ならびに間接的に社会に関係する損失の程度を慎重に比較衡量することに. よって回避可能性の内容が規定されることになるとする︒そこで︑法の侵害に注意している人ですら︑当該状況にお. いてかつ行為者の精神的能力を備えたとしても︑もはや照会を行うことによってその態度の違法性を知りえない場合. には︑たとえ行為者自身にはなお違法性を認識する手段ないし方法が存在しえたとしても︑つねに禁止の錯誤は回避. 不可能とされることになる︒この場合︑一般予防上の必要性が考慮され︑予防的な法益保護という根拠が︑禁止の錯. ︵80︶. 誤の回避可能性の判断に際して行為責任を一般化することになる︒それは責任理念とは調和しえないものであり︑行 ︵78︶ 状責任を考慮する範囲内でしか行為責任・責任主義との一致が図られない︒ここでは︑責任意識のある人間にとって ︵79︶ 自己の態度の法的性質を明確にするのに十分な根拠となる事情を認識すれば足りることになる︒. さらに︑ロクシンによると︑禁止の錯誤における責任は不法に到達する可能性にのみ存するが︑それはそのような. 可能性のない者には規範的な感応可能性がないことを理由とする︒しかしまた︑その限界は﹁健全な判断力に裏づけ パむ られた刑事政策﹂という要請によって規定されるべきで︑予防的に不可欠なところで限定されない責任説は禁止の錯 ︵82︶. ︵83︶. 誤の状態の行為者の可罰性を極端なものにし︑﹁法の不知は宥恕せず﹂へ逆戻りすることになるから︑行為者が﹁通. 常の法的忠誠﹂という要求を満たした場合︑不可罰であるとする︒そのためには︑第一に︑当該状況が行為者にそも. そも自己の態度の許容性について考慮する契機を与えたに違いないか︑第二に︑第一の前提が肯定された場合︑信頼 パゑ. に値する専門家に問い合わせることが︑計画した態度を思い止まらせる原因となったかどうかを検討することで十分. であるとした︒不法を認識せずかつ通常の法的忠誠を備えたとしても簡単に禁止の錯誤に陥る市民に故意犯の刑罰を へゐレ. 科すことは︑刑事政策的に不合理であり︑非難可能性がわずかである禁止の錯誤の場合には刑法上の答責性が阻却さ れるとすべきであるとする︒.
(19) ⑥法に無関心な行為者を免責することを回避するために﹁契機﹂概念の規範化が試みられるが︑まったく特別の. 無関心から自分の生活範囲に妥当している法に注意を払わなかった者には︑犯罪行為の時点において規範を遵守する ︵86︶ 支配的動機があったとしても︑それは規範内容を認識することに役立たず︑免責の可能性はなお残っている︒さらに︑ ︵87︶. ﹁契機﹂概念の規範化は︑契機がまったくなくとも法的な罪悪感を感じる良心的で法的忠誠のある市民に不利に働く. ことになる︒そこで︑信頼に値する情報を信頼した場合は保護すべきであるとの思想がででくる︒この場合︑行為者. がその違反した法規範を認識するために尽くさなければならない努力が責任の程度を規定することになる︒しかしな. がら︑このような犯行以前の照会行為を禁止の錯誤における責任の問題としてもちだすことを︑行為責任から実質的. に基礎付けることは困難である︒そこで︑ルドルフィは予防的な法益保護に裏打ちされた行状責任に︑ロクシンは通. 2. ロクシンやルドルフィの議論が示すように︑法に無関心な者の不処罰を回避し︑かつ法的忠誠のある者を不当. 積極的一般予防による規範化. 常の法的忠誠という予防的必要性に依拠したのである︒. ω. な処罰から回避するという刑事政策的な考慮を実現するには︑禁止の錯誤の回避可能性の判断には規範化が必然的に. 伴うということであった︒このような規範化はたんに﹁契機﹂概念についてとどまらず︑一貫するなら︑回避可能性 ︵88︶. ︵8. 9︶. 判断全般に及ぶはずである︒こうして︑行為者個人の能力ではなく︑刑事政策的必要性だけが正当化しうる目的連関. を導入する責任論に基づき︑法遵守の能力が一般化される︒ヤコプスとティムペは︑機能的責任概念を基礎に禁止の ︵90︶. 錯誤の回避可能性を次のように規定する︒行為者が錯誤について責任関連性がある︵N房鼠呂邑と判明した場合︑. 五五. その錯誤は回避可能であり︑重要なのは︑行為者が不知に責任をもたなければならないのかあるいはそのようなこと から距離を置いておけるのかということである︑と︒ 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(20) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 五六. ヤコプス・ティムペ理論の基礎にあるのは︑積極的一般予防により規定される責任概念である︒刑罰にとって︑規 ︵91︶. ︵92︶. 範を信頼する者のその信頼を確証することによって社会的相互行為の諸条件を保護し︑規範の妥当を確証することが. 重要であるから︑刑罰の任務は規範を承認するように習練するという積極的一般予防であり︑この刑罰目的によって. 形式的な責任概念はその内実を次のように獲得する︒遂行された違法行為について行為者に当該規範にしたがって動 ︵93︶. 機づけをする用意が欠如しており︑それゆえ一般的な規範の信頼に影響を及ぼす場合︑行為者は有責である︑と︒こ. の意味で︑ヤコプスによれば︑責任は法的忠誠の欠如として理解される︒機能的責任概念の下では︑禁止の錯誤の回. 避可能性の判断にとって︑高度の規範産出と急激な規範変更により法の実定化が社会および法に服する者に対して必 ︵劔︶ 然的に伴う危険を配分することが問題になる︒したがって︑行為者が実定法を遵守する用意もって行為したかが問わ ︵95︶ れ︑実定化された法の妥当根拠を間題にすることで︑禁止の錯誤の規定は法の実定性を保証する装置として機能する︒ ︵96︶. この立場では︑ドイツ刑法一七条の規制領域は二つの類型を含んでいる︒一つは︑一定の社会の規範存続の中核的. 領域に属する規範に関する錯誤であり︑もう一つは︑実定化された法︑すなわち規範の内容が秩序の基本原則によっ. てはまだ確定されていないことから︑ある判断では妥当するが他の判断によると変更可能である法についての錯誤で. ある︒第一の類型である基本的規範についての錯誤の場合︑その錯誤が行為者を免責するのは︑それが法の特殊な規. 定内容のために中心的な規範の存続に無害であると判明する場合だけである︒基本的な規範の内容はそれぞれの秩序. の基本的価値判断が反映しており︑社会的な同一性が失われないかぎりこの規範は自由に処分しえない︒そのため︑. 社会の中心規範の内容についての認識は︑社会的な行動に関与する者にその固有の任務として帰属︵N易︒ぼΦ一び8︶. され︑行為者の責任関連性の範囲内にあるものとされる︒というのも︑法の不知は法を不確実なものとし︑秩序その. ものを自由な処分に委ねることになるからである︒そこで︑他の文化圏に属していた場合だけは回避不可能とされう.
(21) るが︑このような社会化に問題がある場合を除いて︑禁止の錯誤は回避可能であることになる︒第二の類型では︑実. 定化された法に関する錯誤ないし処分可能な領域における錯誤が問題になる︒この法領域では︑相当な注意をもって. 法的関係に参加する者ですら規範内容をかならずしも理解できないことがありうる︒この処分可能な領域における規. 範では︑規範の内容ではなく︑規範の妥当根拠が重要となる︒この種の規範は︑規範に服する者がその内容のゆえに. 受け入れられるのではなく︑その妥当根拠すなわち定められた手続きで規範設定者が決定したことを理由として受容. されるからである︒この錯誤について︑行為者が妥当根拠により目指されたことの実現1すなわち変更可能な法を思. 考することーを過度に危殆化する行動をした場合にのみ︑行為者に責任関連性がある︒したがって︑この領域では︑. 個々の規範が行為者の不知により危うくされることが秩序の存続を阻害するのではなく︑行為者が当時妥当していた ︵97︶ 内容を突き止めることに十分な注意を払うことなく行為する場合にはじめて阻害される︒. ㈲ 以上の前提から︑法の状態について熟慮する﹁契機﹂の内容が帰責目的によって規定される︒行為者の態度が ︵98︶ 実定法の妥当と矛盾し︑錯誤が偶然や他のシステムに帰属されるべきでない場合にはつねに﹁契機﹂が存在する︒契. 機が存在しても︑錯誤が他のシステムあるいは偶然に起因するならば︑なお錯誤について行為者は責めを負わない︒. 行為者が注意深く実定法の妥当している内容を調査した場合がそれである︒行為者が信頼に値する情報源に情報を求. め︑その照会の結果が明らかに行為者の計画が許容されるというものであった場合︑行為者は免責される︒この場合︑ ︵99︶ 情報を獲得する義務が問題になるのではなく︑錯誤に対する責任関連性を欠く前提要件としての情報が問題になる︒. こうして︑禁止の錯誤の回避可能性の判断にとって精神状態の所見を受け入れることは問題にならない︒答責領域の. 確定は一つの規範的問題だからである︒然るべき注意を払って法の認識に努めた行為者に法の認識に関してその努力. 五七. にもかかわらずさらに何が到達可能であったか︑または何が行為者に到達不可能であったかということは︑関心がな 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(22) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 五八. い︒然るべき注意にもかかかわらず計画した態度の適法性についてなお疑念を抱いている者︑または自己の企図の違. 法性がありえないものではないと判断した者は︑葛藤を有責なものとして帰責するために︑なお到達可能な認識状態 ︵m︶. に引き止められえないことが必要である︒というのも︑葛藤の重要な原因は他の下位システム︑現行法の不明確さも. この見解は︑ロクシン・ルドルフィの立場では不徹底であった﹁契機﹂の規範化を押し進め︑回避可能性判断. しくは偶然に移すことができるからである︒. ㈹. ︵翅︶. を規範化すべきことを説く︒この意味では︑回避可能性判断に予防的考慮を導入することを徹底するものである︒も ︵皿︶ とより︑このヤコプス・ティムペ理論に対しては︑機能的責任概念それ自体に対する批判を除くとしても︑次のよう な問題点を指摘することができる︒. まず︑禁止の錯誤がまったく回避不可能である場合ですら︑一般的に法秩序全体への信頼を確保するために︑制裁. が法秩序を安定化するのに薦められることがありうる︒次に︑実定化された法についての錯誤の場合に免責すること ︵鵬︶. が法の実現可能性を放棄するものであるとする点にも問題がある︒不認識ほど法規範を危うくするものはないからで. ある︒たしかに︑この批判に対しては︑この領域では規範内容の保証は付随的であり︑錯誤している者が任意の内容 ︵脳︶ の規範に従う用意を拒むことをその態度に明確に表明しないかぎり︑秩序を害さないと反論する︒しかしながら︑こ. の立場の前提からは︑規範の設定がすでにその内容のために生じるのではなく︑法に従うという目的をもって構想さ. れることになる︒それゆえ︑法規定が原則的に変更しうるとしても︑その背後には規定が遵守されるという期待が存. し︑規範の名宛人自身の態度が偶然的である場合にも︑規範信頼の動揺が生じ︑秩序はまったく否認されることにな. る︒さらに︑規範が変更可能であることから︑自己の態度が規制対象に該当することを名宛人は信頼できないことに. なり︑むしろ規範内容の信頼により高い価値が認められるはずである︒最後に︑﹁法的な忠誠﹂あるいは﹁法遵守の.
(23) 用意﹂﹁責任関連性﹂という概念によって回避可能性判断を予防的考慮から機能的に解釈することは︑概念の外枠だ. けで処理される危険を随伴する︒回避可能性の判断を精神的事実から乖離させて規範化することは︑結局︑責任の実. 質的な基礎をもたずに︑たんに予防的枠組みだけで責任判断することを意味しているのである︒そして︑回避可能性. 判断の規範化は︑行為者の精神的事態との関連性を欠くがゆえに︑事実上︑責任判断を犯行以前の時点に遡及するこ. 一般予防的考察の問題. とをも可能にしていることにも注意しなければならない︒. 3. 積極的一般予防を刑事責任にとって重要なものとすることは︑行為の際の行為者の精神的事態から制裁を受けない. 規範違反が惹起するであろう作用へと判断の対象を転換することになる︒﹁法的忠誠への習練﹂︑﹁規範の安定化﹂な. どはこのことを端的に表現するものである︒これは違法性の意識の可能性それ自体を規範化する方向に向かう︒ドイ. ツの通説はまだ﹁契機﹂概念を規範化するにとどまっているが︑これは予防的考察からすれば不十分なものである︒. 積極的一般予防論を徹底するのであれば︑ヤコブス・テイムペのように︑行為者が規範違反に対して責任関連性があ. ったのかどうかだけを問題にすれば足りるはずである︒しかし︑このような責任論はもはや行為者への非難を問うも. のではなく︑リスク配分の問題にすぎなくなってしまう︒また︑予防的考察によって犯行に先行する照会行為に違法 ︵燗︶ 性の意識の可能性を決定する意義を認めることも︑行為責任を越えて責任判断を行っている疑念が存在する︒. さらに︑一般予防が責任にとって重要であるとすることは︑刑罰により国民の行為が支配可能であるとする理解が. 背後に存在している︒そうすると︑例えば明確な事実の認識はなくとも︑まったく慎重さがないことから事実に対し. て無関心であり︑そのために犯罪事実の認識を欠いたとしても︑生じた犯罪結果についてはなお行為者を予防的に処. 五九. 罰することは可能である︒このような行為を処罰すると︑一層注意深く規範に適合した態度をとるようになるからで 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(24) ︵燭︶. ︵瑚︶. 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 六〇. ある︒すでにハートは英米法における厳格責任が犯罪予防効果をもちえないとはいいきれないことを示唆している︒. 同様に︑心理強制説を代表とする刑罰威嚇という予防目的を責任における指導原理とすることも︑やはり刑罰による. 支配可能性のない行為の処罰を否定する原理を予防論に内在して基礎づけることは困難である︒とくに威嚇は︑偶然 ︵珊V. の処罰をも恐れられることによって犯罪行為を回避するための注意はいっそう高まることから︑まさに犯罪として認 ︵鵬︶. 識されうる行為以外にも向けられうるのである︒そもそも︑予防的考慮は将来実現されるべき目的︵犯罪予防︶と将. 来とられるべき手段との衡量という比例性原理を基本とするが︑ここでは過去の犯罪行為に対する関連づけが喪失し. 行為貢任における違法性の意識の可能性の意義. てしまい︑犯罪行為の客観的重さも主観的な重さも責任とは何の関係ももちえなくなってしまう︒. 第三節. 禁止の錯誤における非難可能性を基礎づけるために︑﹁熟慮﹂と﹁照会﹂が行為者のとるべき手段としてあげ. 一 照会行為と先行責任. −. ︵m︶. られる︒まず︑行為者がすでに有していた規範の知識を現実のものとしまたは規範を自ら導き出すという方法により. 規範の存在ならびに内容についての意識を獲得することは可能であるが︑それが意昧するのは行為者が熟慮により犯. 罪行為の時点において確信をもちうるということである︒この場合︑禁止の錯誤の回避可能性が行為責任と一致する ことに問題はない︒. 問題は﹁照会行為﹂である︒照会行為は犯行の時点ではもはやそれを行うことは不可能で︑行為者にその行為の適. 法性について疑念を抱きあるいはそうする契機がある場合︑行為をせずに静観しえたといえるにすぎない︒ドイツの.
(25) 判例が︑照会行為の可能性およびその内容とは関係なく禁止の錯誤の責任を判断してきたことだけは︑行為責任の観. 点からは評価しうる︒契機がある場合に適切な照会行為を怠ったために錯誤が回避可能であるとすると︑行為者に非. ︵麗︶. 難されるのは︑行為者が犯罪行為を行為の時点において企てたことではなく︑あらかじめ行為の適法性を確認するこ ︵m︶ となく犯罪行為を企てたことであり︑過去の解怠行為が責任にとって決定的となっている︒. 例えば︑ロクシンは契機を肯定すべき三つの類型をあげているが︑その一つに行為者が個々の法的に特別の規制に. 服している領域で活動していると意識している場合をあげている︒このような場合︑行為者は︑あらかじめ特別な法. 律の知識を身につけていないとそれを犯行の時点で習得することができない︒行為者に対する非難が行為をやめて当. 該行為の適法性についての情報を入手しなかったこととするのは非現実的であり︑行為者に期待できかつ可能である ︵罵︶ のは︑行為者が法的に規制された領域に立ち入る時点で当該領域全般についての情報を獲得することでしかない︒け. れども︑この塀怠により錯誤した行為者に責任を認めるならば︑それは﹁契機﹂が存在する時点までも遡及させてい. るのである︒この問題はさらに照会の具体的内容についても影響する︒照会行為については︑学説上︑信頼に値する ︵m︶ 情報源への照会しえたこと︑および照会により適切な情報が獲得しえたことが要求されている︒この情報の信頼性・. 獲得可能性も︑犯罪行為以前の時点に遡らざるをえない︒例えば︑照会して得た情報によると最高裁判所の判例が行. 為者の計画を適法であるとしていたが︑照会後ほどなく犯行に移す直前に判例が変更され︑違法とされた場合︑行為. 者は免責されるのであろうか︒真面目に法について取り組んだ者は法的忠誠を示しているとするなら︑過去の行為を. 評価することになる︒しかし︑あくまで犯行時点での一致を要求すると︑行為者の免責の余地は乏しくなる︒. 六一. ルドルフィは端的に行状責任の観点をもちだす︒すなわち︑法的に特に規制された領域で活動する場合には︑. 2 限定的な理解 ω. 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(26) 早稲田法学会誌第四十四巻︵一九九四︶. 六二. 後の具体的な不法に向けられてもいる行状責任に基礎づけられた行為責任非難が問題であり︑このような具体的な不 ︵珊︶. 法に間接的にしか関連しない責任非難を承認する点に︑必要なーしかも事実の過失ならびに量刑論ではすでに行われ. ているー行為責任概念の拡張が存在しているとする︒他方で︑犯行の時点において一般的なあらゆる人に向けられた. 法規範について錯誤している場合︑行為者に非難できることは︑行為者がそのかつての生活において法的な禁止なら. びに社会において一般的に承認されている法秩序の基本的価値に対して十分には習得していなかったことであり︑そ ︵珊︶. れどころか︑この責任非難は︑具体的な不法に対する具体的な関連性を欠くがゆえに︑行為者の処罰を正当化するこ. ︵聡︶. とはないとする︒しかしながら︑行為者が法律状態について博識のある人聞にならなかったことを理由にして︑行為 ︵田︶ 者に錯誤に対する責任を認めるのは︑範囲の限定があるにせよ︑問題が残ろう︒. ω ﹁引受責任︵⇔幕毒筈幕<R零巨包窪との概念も導入される︒この場合︑責任非難の基礎はのちに生じる法違. 反を予期せしめる具体的な注意義務違反に求められる︒時間的には結果を直接惹起した行為の前に存在しているが︑. このことを最初から誘発した明確に限定しうる不注意に︑行為責任が存在する︒しかし︑このことで明らかとなるの. は︑禁止の錯誤の回避可能性がまさに事実の過失と異ならない法律の過失であるということである︒たしかに︑法令 ︵m︶. ・規範およびその意味内容は行為者の外部に存在し︑それは読むか聞くかして知見できるから︑その認識構造は一般. の事実の過失と異ならない︒けれども︑そのような理解はすでに厳格故意説の理論的基礎の上にある︒また︑責任説. の前提からすると︑事実の過失は行為および法益に関係しており︑注意義務の範囲は原則的に行為者の直接支配可能. な領域に由来するが︑禁止の錯誤の回避可能性では︑回避可能性判断が行為者と一般的な法規範との関係にかかわる. ため︑両者を橋渡しすべき段差が大きく︑禁止の錯誤の回避可能性が故意行為に対する故意責任であるという前提か パ らは︑故意行為と故意責任の関連性が重要であり︑過失との類比は無意昧である︒.
(27) たとえ禁止の錯誤の回避可能性を過失と同様に処理できるとしても︑引受責任自体にもお問題がある︒通常の過失. では自分の行為が結果を惹起することの予見可能性が問題になるのに対して︑引受責任では︑行為者の引き受ける活 ︵凱︶ 動に対する能力の欠如の予見可能性が問題になる︒そのため︑行為に関する責任判断の内的・精神的な過程に対する ︵盟︶ 関連性だけでなく︑故意から過失へといたる責任の形式すら変更されてしまう︒また︑このような責任形態を特に法. 的に規制された領域に限定しているが︑それは必然的ではなく︑問接的に構成要件的行為との関連性が認められれば︑. 行為者に責任を認めてよいはずである︒しかし︑そうしないのは︑引受責任を禁止の錯誤の回避可能性に導入する背. 後に予防的考慮が潜んでいるからである︒法的な特別の規制はi道路交通法の例からわかるようにー一定の社会的領. 域における諸行為に基づく高められた危険を類型的に減少させることに役立つものであり︑社会はその特別の規制が. 遵守されることを信頼できなければならない︒したがって︑特別の知見を必要とする行為者がそれを怠ったことは︑ ︵鵬︶ 規範遵守の用意を自ら放棄したものとして︑法的忠誠の欠如を理由に有責だということになるからである︒ここでも︑. 一般予防的観点のもとで処罰にとって重要であると思われる事情が責任にとっても重要となり︑それが犯行を遂行す. る時点に拘束されるずに︑予防的考慮が責任を拡張するのではないかという疑問が生ずることになる︒. 3 先行責任の一般化. これに対して︑禁止の錯誤の回避可能性を全般的に﹁先行責任︵く︒ミΦあ︒巨置窪︶﹂の形態として扱うべきだとの. 主張がある︒先行責任のもとでは︑構成要件に該当する結果の帰責が少なくとも当該結果を直接惹起した構成要件的 ︵謝︶ 行為に時問的に先行する態度にも結びついている事例類型が扱われる︒先行責任を禁止の錯誤の回避可能性に導入す. るのは︑すでに他の責任要素について立法上ないし解釈上それが導入されているものを︑一般的な責任の原理として ︵伽︶. 六三. すべての責任要素に及ぼそうという考えによる︒この場合︑行為と責任の同時存在の原則とどのように適合させるの. 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉︶.
(28) ︵伽︶. 早稲田法学会 誌 第 四 十 四 巻 ︵ 一 九 九 四 ︶. かが︑問題になる︒. 六四. q P シュトラーテンヴェルトは︑責任の本質的要因を﹁決意の自由﹂に求め︑﹁行為者が責任阻却された状態で遂. 行した故意犯を理由として責任を問われるのは︑行為者がその状態を回避可能な態様で惹起し︑その際︑少なくとも. 行為者がその状態でおそらくそのような犯行を遂行することを予見しえた場合である﹂とした︒これによると︑行為. 者が先行責任の時点において自分が故意に犯行を行うことを予見しえた場合︑禁止の錯誤の状態で行った行為につい. て責任を負うべきことになる︒すなわち︑十分な確実さをもって予見された行為だけがその法的性質を検討する契機. となり︑その場合にだけ禁止を認識する可能性を行為者がもつのである︒すなわち︑法に従って決意する自由の前提. として︑行為者が将来の態度の法的性質をその遂行前に知りえたということが存在する︒こうして︑禁止の錯誤の回. 避可能性は︑それが行為者にとって他行為可能性を朋くかぎりで非難の前提を形成するにすぎない︒シュトラーテン. ヴェルトは精神的事実である故意を非難の対象とはするものの︑非難の前提とはしない︒したがって︑純粋に規範的. 責任概念を堅持していることが︑過去の行動を責任非難の問題として処理することを可能にしていることに注意しな ︵餅︶. ければならない︒. 吻 ルシュカは︑先行責任を責務︵○喜詔Φ旨葺︶違反として理解する︒責務は行為規範に含まれている行為指示. ︵悌︶. の内包物であり︑あらゆる行為指示ができるだけ大きな効力をもって規制するために存在している副次的な禁令であ. る︒そこで︑法に服する者はみな自己にとって重要な諸規定について明確にする責務があり︑禁止の錯誤を回避しな. いことが行為者の責務となっている場合に︑責務違反として禁止の錯誤について行為者は免責されないことになる︒ パゆレ. 禁止の不知を除去することを怠った行為者は︑禁止の不知を除去することを行為者に課している責務を侵害した場合. にのみ︑責任を問われる︒ルシュカの﹁責務﹂概念は行為規範の実効性を担保する機能を果たすのであり︑ゆえに︑.
(29) ︵㎜︶. 法的忠誠ないし規範の安定化という積極的一般予防の内容が責務概念に認められる︒. これに対して︑ノイマンは︑先行責任の諸事例は刑法上の責任理論によってもたらされる諸原則ではとらえること. ができないとして︑ルシュカの責務論を発展させ︑責任論を補充する理論的道具を用意する︒まず︑国民の法への信. 頼を安定させるという一般予防的考慮からは︑正義に適った帰責の原理を取り入れる必要があるとする︒そのような. 帰責原理は答責性の帰属について日常道徳のルールと一致する傾向を有しており︑そうでないと︑法秩序への信頼が. 損なわれることになる︒そこで︑過去の態度により犯罪行為の際に責任がないことについて責任のある者は︑免責を. 認めると法秩序への信頼が動揺するため︑そのことを援用することができないとする︒その根拠は行為者の責務違反. に求められるが︑ルシュカとは異なり︑責務違反は非難可能性を基礎づけるものではなく︑制裁規範の枠内で免責の. 可能性を排除するにすぎないとしている︒すなわち︑責務違反を帰責の中核に高めるモデルは︑答責的な違法行為の ︵搬︶. 非難に対する自己弁護の可能性に関係するものとする責任の理解を包含するのであり︑責任判断は対話的構造をもつ ︵麗︶. ことになる︒ノイマンの責務論が積極的一般予防と責任の対話的構造から導き出されている点が︑規範自体から責務 ︵鵬︶. を導き出すルシュカとの相違である︒また︑制裁規範の枠組みのなかで免責可能性を一般予防の観点から考慮するこ. とは︑わが国において主張される可罰性︵可罰的責任︶阻却と類似していることは興味深い︒. もっとも︑ルシュカ・ノイマンの責務論は︑結局︑法規範が規制作用を最大限に発揮できるために持ち出されたも. のである︒この意味で︑その責務の内容はともかく︑理論的な意義はドイツ判例の法遵守義務やわが国の法を知る義. 務と実質的に異なるものではない︒また︑責務論の具体的な機能ないしその基礎が積極的一般予防に求められること は︑行為規範性と積極的一般予防との結びつきの深さを印象づけるものである︒. 六五. ⑥ 犯罪行為以前の塀怠行為を理由に犯行に対する責任を認めることは︑責任判断と行為者の犯罪行為時の主観的 責任判断としての違法性の意識の可能性︵石井徹哉V.
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