第2章 ツェムリンスキーの歌曲作品とその 分析・考察
第2節 ツェムリンスキーのテキストの趣向
ブルサッティ(0。Brusatのの1900年頃の詩と音楽との間の受容の観点における概究に は、ツェムリンスキーによって作曲されたテキストの包括的な描写がみられる。その 中では、ツェムリンスキーの初期の歌曲と合唱曲は、まだほとんどアイヒェンドルフ(
Joseph Fre皿}err von Eiche烈dofff 17884857)やハイゼ(Pau1 JQha㎜Ludwig vo簸]F蔓eyse 1830−
1914)、そして民謡の色に染まっており、ウーラント(Ludwig Uhla離d 17874862)、ハイ ネ、シュトルム(Theodor Woldsen Sto㎜18174888)に続き、急速に、しかも突然に1900 年からはそれらとりーリエンクロン(Detlev Freiherr von Liliencrod8444909)、ホルツ
(Amo Hd幻863−1929)、デ一審ル、ヤコブセン(Jens Peter Jacobsen l 847−1885)、ホフマン スタール(H:ugo von Hof㎏a㎜曲al I 874−1929)などの同時代人の詩を混ぜ合わせていると 記され、この過程はツェムリンスキーの成長の大筋と、別の点においては彼の創作期 の芸術的思考を表している。その中で最初にデーメル、後にゲオルゲ(Ste伽George 1868−1933)の作晶へと到達している過程は、歌曲作品の範囲でツェムリンスキー同様 に過ぎ去った世紀の伝統から抜け出たシェーンベルクとの平行を示している。
ッェムリンスキーは初期創作期同様、後期創作期においてもゲーテ(Joha㎜Wol亀ang vG且Goethe l7494832)の作品を手がけている。そして1900年以前のツェムリンスキーの 作曲上の成長に大きく関わる詩人に、op.6の陣門集のためのテキストを産み出したイ
タリア人グレゴローヴィウス(Ferdinand Gregorovius 182 M 891)がいる。ツェムリンスキ ーが幾度か、また決定的な創作期に付写した主要なその著者に焦点を当てると、彼が 手を加えたその著者の多くが強い特徴を示している。ロマン派時代には彼が初期創作 期において、また彼の最:初の出版物や作品集op.2においても重点的に取り組んだアイ
ヒェンドルフがツェムリンスキーにとって明らかな魅力を持っている。ハイネに関し ては1903年までにッェムリンスキーが作曲したピアノ伴奏歌曲のジャンル内では確か にそれほど多く扱われていないが、リーリエンクロン、ヴェルトハイマー(PauI
We曲e㎞er 1874−1937)やモノレゲンシュテルン(C㎞stian Morge紅stem l 871−1914)などの同
時代の詩人とともに用いられ、それゆえこのジャンルにおける音楽的表現力の発達段 階にとって意義があるように思われる。
ッェムリンスキーにとって最:も重要なビーダーマイヤーの詩人はハイゼであった。
作品集OP.2とOP.5には二曲この詩人のテキストへの作曲がみられる。しかし1897年以 降はすでにハイゼの名はッェムリンスキ・一の選んだ詩人たちの申にはみられない。そ れと同じ現象は、また彼と同時代に分類されるプファウ(Ludwig Pf加182 M 894)の場合 にもいえることである。彼の作品はOP 5の1巻の申のハイゼのテキストと共に作曲さ れている。
ツエムリンスキーがとても早い時期(1896)に従事した最初の同時代人の詩人として 重要なのが、ウィーン人のヴェルトハイマーである。しかし、この初期のウィーン近 代性への志向は聞もなく終わりが見られ、op.5のH巻ではベルリン人工一ヴァース
(Fra1隻z Evefs 1871・1947)の好情詩を取り上げている。またop.5とop。8ではリーリエンク ロンの詩にもいくつか作曲している。この作家は董904年には『蝶3 Schmette伽ge という詩で、ツェムリンスキーの重要な歌曲作曲上の発展のために作品を提供してい る。1900−1901年のスカンジナビア人の自然主義者ヤロブセンの詩への作曲も、この関 連の中に見られる。
ツェムリンスキーのデーメルの作品への作曲は、シェーンベルクの場合と同様に、
自然主義的な着想を備えたベルリン学派とツェムリンスキ・一が最も深く関わったとい うことを示している。1900年と1907年はツェムリンスキーの歌曲集OP.7(1900)の中の デーメルのテキストによる作品と、この詩人のテキストだけをもとにして選ばれた未 出版の作品集(1907)において決定的な意味を持っている。これらの歌曲は1900年と 1907年の間の音楽上のイディオムの比較を示しており、彼の作曲上の進歩を知る上で 重要である。一方シェーンベルクがゲオルゲのテキストですでに無調様式へ手を伸ば していたちょうどそのころ、ツェムリンスキーはまだデーメルの野事詩を好み、ウィ ーンの急進的な音楽上の動きに外見上はむしろ遅れをとったのである。
ツェムリンスキーの歌曲作品にとって重要な人物に、19◎0年頃だけではなく彼の後 期作品集op.22(1934)においても作曲された詩人のモルゲンシュテルンがいる。彼の仔 情詩はベルリン学派の著者たちと同様に哲学者ニーチェへの取り組みに源を発してい
るが、結果的にモルゲンシュテルン特有の、一段と個人的に提示された撮界厭世主義 的要素を増した極めて不安定な健康状態に行きついた。その結果これらのテキストへ の取り組みの申で、ツェムリンスキーはウィーン近代派の思考の多様性へと向かう徴 候をも示している。
ツェムリンスキーの歌曲三二における代表的詩入は、1910年以降象徴主義の耽美的 志向と同時代のウィーンにおけるある種の思想との結合を土台としていた。ッェムリ
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ンスキーはOP」3において6つの内容豊かな作品集であるメーテルリンク(Ma面ce Maeterl溢cM 862・1949)の詩に作曲している。1916年にはホフマンスタールとボードレ
ール(Charles B3udel撮ro 1821・1867)のテキストを手がけている。ゲオルゲの詩は1937−38 年に作られたいろいろな出所の詩による特徴的な構成をした作品集op.27の申に見られ
る。この作品集の中にはインドの詩人カーリダーサ(Ka1idasa 4−5世紀頃在世)やアマル
(Am細7−8世紀頃在世)のサンスクリットの詩文と並んで、社会批判的ニュアンスに蜜
んだアメリカの詩人ヒューズ(James H紅ghes 1902−1967)とマッケイ(Claude Mckay 1890?一
1948)の詩が含まれている。このような、テキストに見られる成長過程の輪郭は、初期 創作期においていかにツェムリンスキーの「芸衛(音楽)による芸術(詩)の理解」
が、ロマン派やビーダーマイヤーの詩人を好んだかを示している。その後比較的早 く、ここからの方向転換を計るために、まずウィーン近代派の個々のテキストや観念 を取り上げ、そしてその約10年問はベルリン学派やスカンジナビアの自然主義のテキ ストをとりわけ好んだ。191◎年以後初めてッェムリンスキ・一は、世界厭世主義の「暗 号化された、秘教的で完全な反自然主義」である「ウィーンの耽美主義」を代表する テキストを探し始めた。その後30年間の後期創作期においては、選ばれた詩入の多様 性は広範囲に及び、ヨーロッパ内外の地域の文学の全く異なるテキストを含んでい
る。
ツェムリンスキーによって作曲された詩人の多さと多種多様性は、時代精神ととも に移り変わる彼自身の個人的興味の軌跡を示していると思われる。一貫性のないテキ ストの選択のようにも見えるが、創作の重きを「言葉」におき、常に言葉を必要とし たと言われているツェムリンスキーは、自身の「内面的論理」に忠実にテキストを選 択した結果がこのように外見上は不均一に見える結果となったのであろう。