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ょじもこ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
一︑物質的存在および動植物的生命の存在性格⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:2│5 頁
二︑人間の存在性格⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
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頁
1︑人間とその自然的社会的文化的環境との関係⁝⁝⁝⁝
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6 │
8 頁
2、人間とその身体的感性的衝動的環境との関係…………•••8|10頁
三、人間存在の有限性………•••11126頁1、理論理性の自由における有限性………••-11|14頁2、実践理性の自由における有限性………•••14|22頁3、人間存在の根源的有限性………•••22|26頁
内
六合石
2 頁 瀬 秀
ム 口
ヽ >ィ `
人間の根源的存在性格に関する若干の考察
‑ 1
‑ 2 ‑
のであることは新めていうまでもないであろう︒ 私は曽って︑拙論﹁人間と社会﹂︵富大経済論集︑第十二巻︑第三︑四号合併︑昭和四十二年三月︶において︑
宇宙や太陽系や地球などの発生成立について︑それぞれの専問家の験尾に従って︑その大筋を要約し︑
そうした地球上における生命体や人類︵ヒト︶
ついで
の誕生進化の過程を大まかに辿り︑さらにそうした人間の特徴 として文化と社会と歴史を挙げ︑それらのそれぞれについて幾つかの問題を説明したのであった︒ところで︑
私は︑そうした問題との関連において︑とくに人間の歴史性あるいは歴史的主体性という観点から︑曽ねてよ り人間の存在性格をさらに一層根源的に検討するという方向に進まざるをえなかったのである︒私は︑こうし た観点から︑この小論ではそうした人間の根源的な存在性格について少しく触れてみたいと思うのである︒
とは言っても︑この小論の草稿はすでに早く昭和二十二年に上記と同じ問題意識にもとづいて或る講義のた めに書かれたものであるが︑今回は通合によりそれを大体そのままここで活用することにした︒なお与えられ た紙数も限られているので︑文献上の挙証は殆んどすべて割愛せざるをえなかった︒
一︑物質的存在および動植物的生命の存在性格
われわれは人間の根源的な存在性格について述べる前に︑まず物質や動植物的生命体の存在性格を簡単に検討することから始めよう︒
まず︑単なる物質的存在の世界︑あるいは他の言葉で云えば︑単なる無機物の世界は全く所謂因果律の必然 性に支配せられ︑因果的必然性によって規定せられているのであって︑そこには所謂自由の入る余地のないも
は
じ
め
に
3
一般に生物生命体の世界についてはどうであろうか︒原理的に云って︑
植物や動物のような生命体は︑それが単なる物質的存在あるいは物体とは異なり︑まさに生命体であるかぎり において︑単なる因果的必然性のみにはつきないところの自発的能動性︑
らないのである︒すなわち︑そうした生命体はすべて環境のうちに生存し︑その環境から例えば栄養となるも のを外から必然的に与えられることによってその生命を養われるのであるから︑すべて生命体はまずこの外な る環境に受動的必然的に順応せねばならず︑そのかぎりそうした生命体は外なる環境にたいしては受動的︑必 然的︑被限定的なのである︒しかし︑そうした生命体が外なる環境に受動的に順応し︑外なる環境から例えば 栄養となるものを摂取同化排泄する作用そのものにはすでに一種の自発性がみられるのである︒けだし︑外な る環境を内に同化するということは︑外なる環境の物質をみずからの力によって︑ある形に形成するというこ
とであり︑
つまり︑生命のあるところに自由があ
つまり︑自発的に外を内に形成するということであり︑従って外からの必然の力を自発的に内に変 容するということだからである︒こうした自発性が全くないものであるならば︑動植物的生命体におけるさま ざまの作用や活動は全く成立しない︒生命体が絶対的に必然的なる制約を環境から受けるものであるならば︑
最早生命としての自発性が失われて︑機械的となり︑生命ではなくなる︒すなわち︑生命あるかぎり︑自発性 があり︑自発性があるかぎり︑絶対に必然とはいわれない自由があり︑
ると考えられるのである︒そのかぎり︑そうした生命体は環境にたいしては受動的︑必然的︑被限定的であり
なが
ら︑
しかも同時に環境にたいして能動的︑自発的︑限定的なのである︒このように︑生命現象は︑すべて 生命体が環境に受動的に順応し︑環境より被限定的に養われると共に︑他面自発的能動的に環境のものを自己 のうちに摂取し︑自己のうちで消化し︑同化し︑排泄する作用や活動によって成立しているのである︒生命と は︑総じてこのようにそうした受動的順応と自発的活動とが︑自己同一の形において︑統一されている現象な
それでは︑次に︑植物や動物の如き︑
つまり自由をもつといわねばならな
‑ 3
‑ 4
つまり環境が個体を限定することと個体が環境を限定 することとが自己同一を形成しているところに成立する︑環境と個体との連関的全体の場の現象なのである︒
生命は決して個体のみの現象ではなく︑また同様に単に環境のみから理解されうる現象でもない︒従来︑前者 の立場においては生気論的生命観が考えられ︑後者の立場からは唯物論的生命観が主張されてきたのである︒
しかし︑生命現象はすべて生命個体と環境との連関的全体︑あるいは両者の相互媒介的場の出来事なのである︒
ところで︑
しかし︑動植物的生存がいかに生命として上に述べた意味での自発的自由をもつとは雖も︑それ はなお殆んど環境︵外的及び内的の︶から直接に制約限定されているといわねばならないのである︒すなわち︑
動植物的生存においては︑その個体の環境にたいする反応は環境のいかんに殆んど必然的に制約せられ︑反応 する自由はあっても︑自由なる反応はみられない︒それらの作用や活動は外なる環境に殆んど必然的に制約規 定されており︑そこにはまだ真に自由が顕わになっていないのである︒それらの活動は時にはまことに巧妙な 自発的創造活動を営むようにみえるものもある︒しかし︑そうした行動の終局の規定原理は矢張り真の自由で はなくして︑種的一般者なのである︒
アリストテレスが︑動物は種の奴隷である︑
根拠あるいは行動原理を種的環境的一般者のなかにもち︑
と語る所以である︒それら はどこまでも種的一般者の制約限定のもとに立ち︑それらの真の行動の規定中心となっているものは種的環境 的一般者なのである︒それらはどこまでも種的環境的一般者からの必然的制約限定のもとに行動しているので あって︑それらの生存や行動の根拠は決して個体の自発性のがわにあるのではない︒動植物的生命はその生存
かかる一般者の自己限定として必然的に制約規定さ れているのである︒個体の生存範域は種的一般者の生存範域と相表裏し︑両者は直接に連続融合している︒従 って︑動植物的生存においては︑生命個体と環境が互に否定的に対立するものとはならず︑それらは真実の意
味において環境を対象としてもつことがないのである︒それ故︑そこにはいまだ真の十分な充実した意味での のである︒すなわち︑生命は環境的限定と個体的限定︑
5
さらに感覚と欲求との作用を有し︑ でそうした生命体に属するかぎりにおいては︑
一層高等なる動物霊魂は植物霊魂の上に
アリストテレスによれば︑﹁生物
何らかの形や次元において︑それと同様の性格や構造をも含
個体や個体の自由が顕わになっていないのである︒それらは自然の被造物として自已を限定する自然はもつけ れども︑みずからが限定する自然をもたないのである︒種的環境的限定というものがその生の凡てであって︑
勝義の自由なる個体的限定というものをもたないのである︒それはただ︑みずからを産む自然的環境的種的一 般者によって支配限定されるのみであって︑自己の母胎たる種的環境を他者として対象化し︑さらには自己や 自己の欲求すらも他者的対象としてこれにたいして距離をもち︑逆にこれを限定支配する自主的能動性や自発 このように︑動植物的生存においては︑それが生命であるかぎり︑上に述べた意味での自発性や自由をもっ
てはいるが︑しかしそれはなお殆んど環境の必然的規定のもとに立ち︑いまだ真に自発性や自己規定性をもつと はいえないのである︒みずからの行動の規定原理や規定中心をまさにみずからの内にもち︑自己が真にみずか らの行動の決定根拠となるという意味の自由は遂に動植物的生存のうちには認められないのである︒
二︑人間の存在性格
われわれは︑前の節において︑動植物的生命体一般の生存性格について述べたのであるが︑人間も広い意味 有していることは云うまでもないのである︒しかし︑人間の生存や実存は単にそうした動植物的生命︑あるいはその作用や活動につきないものをもっていることも明白である︒例えば︑
はその霊魂の種類によって段階を異にする︒霊魂とは生物において物質を動かし変じ形づくる形相を意味する︒
最下等のものは植物の霊魂にしてただ栄養と繁殖との作用を有する︒
一部のものは移動の能力をも有する︒人間においては以上の諸能力の上に
的創造性をもたないのである︒
5 ‑
6 ‑
さらに理性が加わる﹂
のである︒すなわち︑人間の実存はまさに理性をもつことにおいて動植物的生存と本質 的に相異する︒ところで︑理性とは根源的には現在において過去的経験を媒介にして未来の行為を先取し︑企 劃するところの推論の作用である︒
つまり︑人間が現在において過去の経験を媒介にして未来を実行に先だち 概念を通して先取予料し︑これを企劃投企するところに理性の本源的機能がある︒理性の働きは行為実践にお ける推論的予料投企なのである︒したがって︑﹁理性は行為を産出する原因である﹂
(K an t, Kr it ik d er r ei ne n Ve rn un ft , s .
578)
といわれる︒そして︑人間にとって未来が理性によって企劃投企されるものであるのは︑
理性が本来的に自由を前提にしているからである︒だから︑﹁我々は自由を理性の原因として認識する﹂
(K an t, ib id .s 83 1) 理性と自由とはまさに相関概念であり︑両者は云わば同一物の両面にほかならない︒理性はまさに 自由を産出発現する能力であり︑理性があるということは自由があるということであり︑自由があるというこ とは理性があるということなのである︒このように︑人間にとって理性がその本質的な実存性格をなすと同様 に︑自由もまた人間実存の本質的契機となっているのである︒
さて︑ここでそうした人間の自由に関する決定論と非決定論との論争などに立入ることは省略して︑直ちに そうした人間の自由における実践的や倫理的な意義に関連して二つの点に触れておきたいと思う︒
1
︑人間とその自然的社会的文化的環境との関係 先に既に暗示したように︑まず人間の意志行為を全体的具体的に考察した場合︑そうした人間の意志行為は︑
一面においては外からの環境的必然によって運命的に限定せられてはいるが︑しかも他面においては未来をイ デアや価値の実現を志向しつつ使命的に改革創造するものであるかぎりにおいて︑自由なのであり︑過去的必 あり︑世界の内に必然的運命的に投げ入れられた被投的存在なのである
(H ei de gg er ,
然即未来的自由なのである︒云うまでもなく︑人間存在は根源的に所謂﹁世界内存在﹂
(l n‑ de r‑ We lt
1 s
ei n)
で
Se in u nd Ze it
)︒
人 間
‑ 7
Ko sm os ) だ か ら
︑ 人 間 の 主 体 的 行 為 は
︑ な る ほ ど 人 間 が 根 源 的 に 世 界 内 存 在 で あ る か ぎ り
︑ そ う し た 外 的 環 境からの制約限定を脱することはできないが︑
しかしまたそれは外的環境から単に因果必然的に制約限定され つまり︑それを否定的媒介として︑逆に主体的に内から未来にイデアや価 値を志向しつつ外なる自然的な︑また社会的文化的な環境を改革創造していくものなのである︒
論 理 的 に 言 え ば
︑ 個 体 的 主 体 は 決 し て 単 な る 普 遍 の 特 殊 で は な い
︒ 個 体 が 単 な る 普 遍 の 限 定 に つ き る も の で あ る な ら ば
︑ 個 体 は 個 体 の 充 分 な 充 実 し た 意 義 を も つ こ と が で き な い の で あ る
︒ 個 体 的
t
体の充分な充実した 意義は外なる環境的普遍の限定を逆に内から否定的に限定超越するところにあると云わねばならないであろう︒
このことは決して目新しいことを述べたものではなく︑寧ろ陳腐な事柄に属するとも言うべきであろう︒し
るのではなく︑それにも拘わらず︑ 逆に内から制約限定するという関係が生ずるのである︒
Di e St el lu ng d es M en sc he n im
﹁世界内存在﹂であるかぎり︑その生活や行為は常にそうした現実の世界からさまざまの制約 規 定 を 受 け ざ る を え な い の で あ る
︒ 人 間 は い か に す る も 外 な る 自 然 的 の
︑ あ る い は ま た 社 会 的 文 化 的 な 現 実 の 世 界 か ら の 制 約 限 定 を 脱 す る こ と は 不 可 能 で あ る
︒ し か し ま た こ の こ と は 決 し て 人 間 の 行 為 が 単 に そ う し た 外 界から因果必然的に制約限定されるものであることを意味しない︒
一体われわれ人間が外的環境からの制約限 定を︑恰も外からの制約限定として自覚するのは︑まさにわれわれ人間が自由にして外的環境を否定超越し︑
外的環境を逆に主体的に内から制約限定しうるからにほかならない︒外的環境からの必然的制約限定はそのかぎ り ま さ に 行 為 的 主 体 の 内 か ら の 自 発 的 制 約 限 定 を 予 想 し
︑ こ れ と 相 関 的 に の み 自 覚 さ れ る の で あ る
︒ ま さ に 相 等 し き も の の み が 相 等 し き も の を 知 る こ と が で き る の で あ る
︒ シ ェ ラ ー も 言 え る ご と く
︑ 人 間 の み が 世 界 を 自 己 の 対 象 と し て こ れ に 対 立 す る の で あ り
︑ ま さ に そ の こ と に よ っ て 人 間 の み が 環 境 を 対 象 と し て も つ も の と な り
︑ 人 間 に お い て の み 外 的 環 境 は 真 実 の 意 味 に お い て 人 間 を 制 約 限 定 し
︑ ま た 人 間 も さ ら に こ の 外 的 環 境 を (M . Sc he le r,
が 常 に そ う し た
7
‑ 8 ‑ 次
に
︑ わ れ わ れ 人 間 の 自 由 な る 行 為 が 今 述 べ た よ う に 外 か ら の 環 境 的 規 定 に 単 に 因 果 必 然 的 に 制 約 限 定 さ れ るものでないということに関迎して︑またこれと同様に︑
衝 動
︑ 感 情 な ど に よ っ て も
︑ 決 し て 単 に 直 接 に
︑ あ る い は 因 呆 必 然 的 に 制 約 限 定 さ れ な い も の で あ り
︑ ま た そ うあるべきではないという点についても少し触れておきたいと思う︒
これも既に先に述べたように︑元来︑人間は決して単なる動物的感性的なる生存ではなくして︑同時に精神 的理性的なる実存なのである︒人間は根源的に感性的にして同時に理性的なる二重性格的実存者なのである︒
道徳的当為ということもそこにこそ成立の根源的根拠をもつのである︒
的欲求に触発されるものでありながら︑なお自己の本質たる実践理性を意志の規定原理とするいう連関におい てのみ成立するのである︒それ故に︑われわれが単に感性的欲求に因果必然的に規定せられて行為するという ことは︑その本質たる実践理性の立場からみるならば︑われわれがその本質たる理性の立場に背反し︑それを 喪失して︑単に動物的感性的欲求に因果必然的に拘束束縛されているにほかならない︒それは自己の内なる環 境的他者としての感性的欲求の力に因果必然的に強制束縛されている状態︑あるいはその奴隷となっている状 態である︒人間の行為が外的環境から因果必然的に規定されていることが自由でないように︑それがまた内的
2
︑ 人 間 と そ の 身 体 的 感 性 的 衝 動 的 環 境 と の 関 係
にはなるまいと思う︒ かし︑今日世界の文明先進国においてさえ︑﹁大衆社会﹂状況において︑そうした歴史的社会的環境にたいする過
剰 に 両 一 的 平 準 化 的 な る 模 倣 的 同 調 傾 向 や 所 謂
﹁ 他 人 志 向 型
﹂ や 狭 い 自 閉 的 な 私 生 活 じ 義 に 刷 附 す る 傾 向 な どがみられ︑従って逆に未来に対するイデアや価値への志向性や将来社会に対する︑
E
体的な改革的創造性など の生活意識において欠けるところがあるのを省みる時︑矢張りこの点はどれ程注怠しても︑注怠し過ぎることさらに云わば内なる環境としての身体︑特に本能︑
つまり︑道徳的当為は人間が深く感性
9 ‑ Kr
it ik d . p•V•
Vo rr ed e, s .
4)
尚引続きカントの言葉を引用しておこう︒
﹁実践的意味における自由とは決 一面においてそうした感性によっ
Jろに成立するのである︒ 環境︑すなわち自己の内なる他者としての惑性的欲求から因果必然的に限定せられるのも自由ではありえない︒両
者 の 場 合 に お い て 形 式 的 に 相 違 す る の は
︑ 根 本 的 に は た だ 他 者 と し て の 環 境 が 外 的 で あ る か
︑ 内 的 で あ る か と い う こ と だ け で あ る
︒ 人 間 の 自 由 は こ こ に お い て も ま た 人 間 の 内 な る 他 者 的 環 境 た る 単 な る 感 性 的 欲 求 か ら 決 し て 因 果 必 然 的 に は 規 定 さ れ な く て
︑ 却 っ て こ れ を 自 己 の 本 質 的 普 遍 た る 実 践 理 性 に よ っ て 否 定 超 越 す る と し
か し
︑ 勿 論 こ の こ と は
︑ 人 間 の 行 為 が 本 能
︑ 衝 動
︑ 感 情 の よ う な 感 性 的 欲 求 の 制 約 や 触 発 を 全 く 免 れ う る ものであるということを意味するのではない︒もともと︑人間は︑上にも述べたように︑感性的にして理性的な る二重性格的実存なのである︒だから︑人間が人間たる限り︑その感性を離脱し︑
れるということは原理的に不可能なのである︒人間のいかなる行為と雖も︑
て 触 発 さ れ
︑ 刺 激 さ れ て お り
︑ あ る い は そ れ と 何 ら か の 関 連 を も た ざ る も の は な い
︒ ま た
︑ 感 情 の う ち に も さ というものもあるのであり︑ まざまな価値ある感情がみられるのであり︑感情と理性とが美しく滲透し合い︑調和し合っている﹁美しい魂︐
さ ら に は 偉 大 な る 事 業 は 偉 大 な る 情 熱 な し に は 成 し 遂 げ ら れ え な い の で あ る
︒ 然 し
︑ そ れ に し て も
︑ こ の こ と は 矢 張 り 人 間 の 行 為 が 全 く 惑 性 的 な 力 に よ っ て 因 果 必 然 的 に 制 約 限 定 さ れ る も の で あ る こ と を 怠 味 し な い
︒ 人 間 の 自 由 は だ か ら 一 面 そ う し た 感 性 に 深 く 触 発 さ れ な が ら も
︑ こ れ を 実 践 理 性 の 道徳法則によって否定的に超越するというところに成立するのである︒
卜 ょ
︑
, 1
カン
理 論 理 性 の 立 場 に お い て 証 明 す る こ と の で き な か っ た 自 由 の 実 在 性 を
︑ 道 徳 法 が 直 接 に 意 志 規 定 Fa kt um de r Ve rn un ft
さ ら に は そ の 触 発 制 約 を 免 の
原 理 と し て 働 い て い る と こ ろ の
﹁ 理 性 の 事 実
﹂ の 立 場 か ら 確 立 し て
︑ 自 由 は 道 徳 法 の 存 在 根 拠 ra ti o es se nd iであり︑道徳法は自由の認識根拠
ra ti o co gn os ce nd
であるとしたのである︒i
(K an t,
9 ‑
‑ 10 ‑
されても︑強調し過ぎることにはなるまいと思う︒ ていくどころに成立するのである︒ 邸
性 が 感 性 の 衝 動 に よ る 怖 制 か ら 独 立 す る こ と で あ る
︒ 蓋 し 決 怠 性 は
︑ そ れ が 受 動 的 感 性 的 に
pa
th ol og is ch
︵即ち感性の動因によって︶触発
af fi ci er en せ ら れ る 限 り
︑ 感 性 的 で あ る
︒ 決 怠 性 が 受 動 的 に 怖 制 さ れ う る 場 合
こよ
︑
9 , 9 1
そ れ は 動 物 的 th ie ri sc h である︒人間の決怠性は一面成程感性的である︒が然し他面動物的
br ut um
で
は な く し て
︑ 自 由 li be ru m で あ る
︒ 何 故 な ら ば
︑ 感 性 は そ の 側 き を 必 然 的 た ら し め な い で
︑ 却 っ て 人 間 に は 感 性的衝動による強制から独立にみずから自己を限定する能力が存するからである︒﹂
(K ri ti k d . r .
V .
s .
562)
﹁ 感 性 的 衝 動 に よ っ て の み
︑ 換 言 す れ ば 感 性 的 に の み 限 定 さ れ う る 決 慇 性 は 単 に 動 物 的 で あ る
︒ 然 し
︑ 感 性 的 衝 動 か ら 独 立 に
︑ 従 っ て 理 性 か ら の み 表 象 せ ら れ る 動 機 に よ っ て 規 定 せ ら れ 能 う 決 意 性 は 自 由 な る 決 意 性 で あ
る ︒ ﹂
( ib i d .
s 830)
す な わ ち
︑ 人 間 の 真 の 自 由 は そ う し た 内 な る 環 境 的 他 者 と し て の 感 性 的 欲 求 を 自 己 の 本 質 的 普 遍 た る 実 践 理 性 の 法 則 に よ っ て 否 定 的 に 克 服 超 越 し
︑ 実 践 理 性 が 意 志 の 規 定 原 理 と な る と こ ろ に 成 立 す る の で あ る
︒ と に か く
︑ 今 ま で 述 べ て き た よ う に
︑ 人 間 の 真 に 自 由 な る 行 為 と は
︑ 外 的 環 境 に た い す る 場 合 と 同 様 に
︑ そ れ の 内 的 な る 環 境 か ら の 制 約 限 定 を 否 定 的 に 媒 介 し な が ら
︑ 進 ん で そ れ を 逆 に 制 約 限 定 し
︑ 止 揚 克 服 し と
こ ろ で
︑ 今 こ こ に 述 べ た こ と も
︑ 新 め て 言 う 迄 も な く
︑ 従 来 す で に 広 く 説 明 紹 介 さ れ て き て い る と こ ろ で あ る
︒ し か し
︑ 先 に 指 摘 し て お い た の と 同 様 に
︑ 今 日 の
﹁ 大 衆 社 会
﹂ 状 況 や 改 革 と 革 命 と 戦 争 と い う 激 動 的 危 機 的 な 国 際 状 況 や 国 内 状 況 が
︑ 感 性 的 衝 動 的 な 人 間 類 型
︑ あ る い は 短 絡 的 な 刹 那
E
義的人間傾向︑
さらには衝 動 的 消 費 型 の 行 動 傾 向 な ど に 基 づ く さ ま ざ ま な 社 会 病 理 的 な ま た は 社 会 解 体 的 な 諸 社 会 現 象 の 増 大 を も 刺 激 し 病 め る 狸 性 の 時 代 や 理 性 か ら の 逃 避 の 時 代 の 感 を も 免 れ な い の を 省 み る 時
︑ 矢 張 り こ の 点 も 何 度 繰 り 返 し 強 調
‑ 11 ‑ 与えられる多様なる感覚的実質をまず前提とするのである︒
つまり︑人間の悟性は︑まず直観に外から多様な
原理的に取り上げて問題にしたところのものである︒カントにおいては︑自然認識は決して白然の模写として成 われわれが﹁自然﹂とよぶ現象における﹁秋序と合法性﹂とは︑そこへ
﹁経験の創始者﹂なのであり︑﹁自然の法則の源泉﹂なのであった︒
﹁我々白身が持ち込む﹂ものにほかな らないのである︒このようにして︑人間の悟性が自然にたいして立法者的な地位に立っているのである︒しか
し︑この場合︑人間悟性が自然にたいして立法者の地位に立つとはいっても︑それはどこまでも外から直観に 立するのではない︒却って︑人間悟性が
第一の問題は︑ゞカントカ﹁純粋理性批判﹂
にお
いて
︑ 悟性はいかにして自然を認識するかという形において
三︑人間存在の有限性
われわれは︑前の節で︑人間存在における理性的自由の実践的や倫理的な意義について少し述べたのであるが︑そうした人間の理性的自由は近代以来特に自然科学による自然認識の領域において広く顕著に発展せしめ られるにいたっているのであり︑そこに所謂﹁自然の発見﹂が行われたことは周知のとおりである︒このよう にして︑自然の世界は人間悟性の働きにより観察や実験にもとづいて限りなくその姿を顕わにされうるものと 考えられ︑やがて人間の悟性が余すところなく自然の世界を照しだすことによって︑人間そのものが遂には自 然の支配者となることが信ぜられたのである︒これらの問題にたいし今ここで広く論ずることは省略して︑
だ次の二つの問題︑すなわち人間悟性の自由とは一体いかなる構造を有するものなのであるかという問題と次 に人間が自然を理性によって自由に支配するということはそもそも何を意味するのかという間題について簡単 に吟味し︑そうした理性的自由についてみられる一種の言わば有限的性格を指摘しておきたいと思う︒
ー︑理論理性の自由における有限性
た
‑ 11 ‑
‑ 12 ‑
的な事実に基づくものなのである︒ 悟 しても︑その悟性が外から与えられる多様なる直観を前提とし︑多様なる直観が外から与えられた場合にのみ︑ するのである︒だから︑人間の悟性がその自然認識においてどれほど自然の創始者であり︑立法者であるとは 理︑あるいは﹁範疇﹂によって統一綜合するのであり︑そこに始めて対象に関するわれわれ人間の認識が成立 る感覚的﹁実質﹂が与えられることによってのみ︑その多様なる﹁実質﹂を自己のさまざまなる﹁形式﹂的原
性 が そ う し た 統 一 綜 合 を 実 現 す る の で あ る か ぎ り
︑ そ れ は ま さ し く 哲 学 史 上 に お い て 所 謂 神 的 な る 悟 性 や 叡 知的直観や無限なる悟性と名付けられうるものではなくして︑外から対象が与えられることによってのみ直観 が可能となるような受動的なる感性を媒介にする有限なる悟性にほかならないのである︒私は今この点につい てこれ以上深入りしたくないのであり︑ここでは唯人間の認識能力としての悟性が上に述べたような邸味と構 造において有限なる悟性であることを指摘するだけで充分なのである︒
そして︑これは︑拙論﹁人間と社会﹂において述べたように︑もともと宇宙や地球における原始牛命が︑宇 宙や地球におけるさまざまな物質の原子や元素が極めて長い年数にわたって化学的に因果必然的な形において 反応し合い︑融合し合うという過程を通して︑発生誕生し︑またそうした原始生命が宇宙のなかで一面におい てその多様なる環境的諸条件に因果必然的に順応しながら進化発展してきたものであり︑もちろん人間生命も 同様に一面においてはそうした外からの多様なる所与の環境的諸条件に因果必然的に順応していくことによっ てのみ︑その生命の行動や認識活動を営み得︑また発展もさせることができたものにほかならないという根源 次に第二の問題に移ることにしよう︒第二の問題は︑人間の悟性が自然を自由に支配創造すると語られる時
それは一体いかなる意味なのであろうかということである︒実際︑われわれ人間は特に近代以来多くの科学的 知識の成果を応用して現実の世界や生活を自由に支配し︑創造するにいたっているのであるが︑
しかしこの場
‑ 13 ‑
の で あ る
︒ だ か ら
︑ こ の 点 に お い て わ れ わ れ 人 間 の 環 境 支 配 は 恰 も 行 限 な る も の と よ ば れ る の が 正 堺 な の で あ る
︒ そ れ は 決 し て 言 わ ば 神 の ご と き 全 智 令 能 な る 者 の 支 配 創 造 で は な い の で あ る
︒ われわれ人間が︑増上慢にも︑
し ば し ば 自 然 や 社 会 を 支 配 す る と 語 る こ と に よ っ て
︑ そ の 実 自 然 や 社 会 の 極 く 微 少 微 細 な る 領 域 の み を 近 視 眼 的 に 形 振 か ま わ ず 操 作 し て い く と い う 過 程 が 進 む か た わ ら に お い て
︑ 未 曽 布 の 大 小 さ ま ざ ま な 形 に お け る 悲 惨 な 公 害 や 自 然 環 境 の 破 壊 と 残 酷 極 ま り な い 原 子 爆 弾 や 戦 争 悪 に よ る 災 害 や 不 幸 な ど を ま き ち ら し て 憚 か ら な い の で あ る が
︑ 今 日 緊 急 に 先 ず 科 学 と 倫 狸 の 関 係 に 真 摯 に 留 怠 し
︑ 資 本 じ 義 的 利潤追求第一主義や二元道徳的帝国じ義などにもとづく社会悪︑戦争悪︑国家悪にたいしもつと高次のトータ
ルな観点から公正間到に反省配慮することが切望されてならないのである︒しかし︑地球上においてわれわれ人 理法に従うということ︑ 合
そ う し た 自 然 の 自 由 な 支 配 や 創 造 と は い か な る こ と を 意 味 す る の で あ ろ う か
︒ そ れ は
︑ 言 う ま で も な く
︑ 人 間 悟 性 が 言 わ ば 神 に お け る 無 か ら の 創 造 支 配 の よ う に 全 く 思 う ま ま に 現 実 の 世 界 や 生 活 を 実 現 し
︑ 創 造 し う る こ と を 意 味 す る の で は 決 し て な い の で あ る
︒ す で に フ ラ ン シ ス
・ ベ ー コ ン も 言 え る よ う に
︑ 人 間 の 悟 性 は た だ
﹁自然に服従することによってのみこれを支配し﹂うるにすぎないのである︒われわれ人間はただ自然の秩序や 法 則 に 随 順 す る こ と を と お し て の み 自 然 を 支 配 し う る の で あ っ て
︑ わ れ わ れ 人 間 に は 自 然 の 秩 序 や 法 則 そ の も の を 自 由 に 支 配 す る こ と は 全 く 不 可 能 な の で あ る
︒ わ れ わ れ 人 間 が 自 然 的 環 境 や さ ら に は 歴 史 的 社 会 的 環 境 を さまざまに支配して︑これらを改革創造することができるのも︑一面においてわれわれ人間が自然の法則とか歴 史や社会の理法を遵守しこれらに随順することによってのみ可能となるのである︒われわれ人間がそうした自然 的 環 境 や 歴 史 的 社 会 的 環 境 を 変 革 創 造 す る こ と が で き る か ぎ り に お い て
︑ 成 程 わ れ わ れ 人 間 は 自 由 で あ る と い う こ と が で き る の で は あ る が
︑ そ う し た 自 由 な 変 革 創 造 は 他 面 に お い て 必 ず そ れ ら の 環 境 の 必 然 的 な る 法 則 や つ ま り そ れ ら の 環 境 の 必 然 的 制 約 規 定 を 媒 介 す る と い う こ と に よ っ て の みu r
能となる
‑ 13 ‑
‑ 14 ‑ 間 が 永 遠 の 国 際 的 な 反 戦 平 和 と 国 内 的 な 民
E
人 権 に も と づ く 万 民 の 福 祉 に 到 逹 す る ま で に は︑ ま だ ま だ 多 く の 愚かな試行錯誤と長い年数を必要とするのでもあろうか︒
人 間 の 道 徳 的 臼 由 の 怠 味 に つ い て は す で に 前 に 述 べ た と こ ろ で あ る
︒ す な わ ち
︑ わ れ わ れ 人 間 は 感 性 的 に し 一 面 感 性 に 深 く 触 発 規 定 さ れ な が ら も
︑ 他 面 こ れ を 自 己 の 本 質 的 普 遍 た る 実 践 理 性 の 道 徳 法 に よ っ て 統 制 規 律 す べ き も の な の で あ っ た
︒ こ の よ う に し て
︑ 例 え ば カ ン ト に お い て は
︑
﹁ 汝 の 総 志 の 格 率 が 常 に 同 時 に 普 遍 的 立 法 の 原 岬 と し て 妥 刈 し う る よ う に 行 為 せ よ
﹂ と い う こ と が
︑ 実 践 即 性 の 厠 則とされたのである︒われわれも︑カントと同様に︑狸性的道徳法の客観的普遍性の概念はこれを確信して疑わ な い
︒ し か し
︑ 現 実 の 世 界 に お い て は こ の 普 遍 的 な る 道 徳 法 の 実 質 的 客 観 的 内 容 が 何 で あ る べ き か と い う こ と いちいちの社会的状況において既成的に示されているわけではない︒もちろん︑
日 常 平 凡 な る 社 会 的 状 況 に お い て は
︑ 道 徳 法 の 具 体 的 客 観 的 内 容
︑ あ る い は 道 徳 的 善 の 実 質 的 客 観 的 内 容 が 何 で あ る べ き か は 何人にも容易に狸解されるでもあろう︒しかし︑われわれ人間が︑真に深く道徳的たらんと欲し︑
行 為 に お け る 道 徳 的 善 の 実 質 的 内 容 が 何 で あ る べ き か を 洞 察 せ ん と す れ ば す る 程
︑ ま た 行 為 の 場 の 状 況 が 非 常 非 凡 に し て そ う し た 洞 察 に た い し て 複 雑 に し て 困 難 で あ れ ば あ る 程
︑ わ れ わ れ 人 間 に と っ て し ば し ば 善 の 実 質 的 内 容 を 洞 察 把 握 す る と い う こ と が 極 め て 困 難 な も の と な る を 禁 じ え な い で あ ろ う
︒ 倫 理 学 上 所 謂 直 覚 説 は 善 の具体的客観的内容はその都度直覚的に明らかになるものと考えられているが︑
しかし決してそうではない︒
そうした直覚は時代により︑グループにより︑人により異なりうるのである︒だからわれわれはそうした直覚と
いうことについて決して明るいオプティミズムをもつことができないのである︒人間が道徳的たらんとする程︑ については て同時に理性的なるものであり︑
2
︑ 実 践 理 性 の 自 由 に お け る 有 限 性
いちいちの
‑ 15 ‑
又さらには行為の場の状況が非常非凡にして複雑不透明なる程︑
そ う し た 行 為 的 場 の 善 の 具 体 的 実 質 的 客 観 的 内 容 は 決 し て 容 易 に は 洞 察 し 難 く な る
︒ 倫 理 は 本 来 論 理 を 内 に 含 む も の な の で あ る が
︑ そ し て わ れ わ れ 人 間 が 真 に 倫 理 的 た ら ん と す る 程
︑ 論 理 を つ く し て そ れ ぞ れ の 行 為 的 場 に お け る 善 の 内 容 を 客 観 的 に 確 立 し な け れ ば な ら な い の で は あ る が
︑ そ う し た 善 の 実 質 的 客 観 的 内 容 が し ば し ば 遂 に 把 握 さ れ 難 い も の と な る 時
︑ そ れ は 人 間 の 実 践 理 性 の 有 限 性 や 限 界 を 語 る も の に ほ か な ら な い と 思 う
︒ わ れ わ れ に と っ て 善 の 具 体 的 実 質 的 客 観 的 内 容 が 時 々 刻 々 に お い て 凡 て 直 覚 的 に 明 瞭 な も の で あ る な ら ば
︑ あ る 怠 味 に お い て 人 生 は ど れ ほ ど 生 ぎ 易 く な る か も し れ な い と も い え よ う
︒ し か し
︑ 人 間 の 行 為 は し ば し ば 新 た な る 極 め て 困 難 な 実 践 的 場 に 直 面 し
︑ 恐 ら く は 相 互 に 衝 突 す る 二 つ 以 上 の 価 値 を 含 む 追 徳 的 状 況 に お い て
︑ そ の 都 度 そ の 都 度 み ず か ら そ う し た 新 た な る 難 局 を 解 決 し
︑ そ れ に 新 し く 創 造 的 に 応 答 し て い か ね ば な ら な い の で あ る
︒ こ の 場 合
︑ そ の 応 答 は 常 に 新 た に み
ずから洞察して︑
みずから出し与えねばならないのである︒これに対して︑例えば学間上の問題︑
理 論 岬 性 の み の 領 域 に お け る 間 題 は
︑ そ の 解 決 を
︑ 止 む を え ざ る 場 合 に は
︑ 次 の 世 代 や 時 代 に 引 渡 す の で あ る が
︑ そ れ は し か し 本 質 的 に は 決 し て 悪 と よ ば れ る べ き 事 柄 で は な い で あ ろ う
︒ し か し
︑ 現 在 自 己 に 課 せ ら れ た 現 在 の 実 践 的 場 か ら の 問 い か け に た い し て は
︑ 自 己 み ず か ら が こ れ を 洞 察 し て
︑ こ れ に 応 答 し て い か な け れ ば な ら な い の で あ る
︒ そ の 応 答 は 今 此 所 と い う 実 践 的 場 か ら そ の 提 出 を 緊 急 に 待 期 さ れ つ つ あ り
︑ 今 此 所 と い う 実 践 的 場 に お い て 是 非 に も 自 己 み ず か ら 答 え て い か ね ば な ら な い の で あ る
︒ そ れ は 原 理 的 に は 延 期 せ ら れ た り
︑ ま た 他 の 者 に 代 行 し て も ろ う こ と を 許 さ な い も の な の で あ る
︒ こ こ に こ そ 人 間 の 行 為 が 道 徳 的 に は し ば し ば 恰 も 一 種 の 飛 蹄 や 冒 険 や 賭 け ご と の 性 格 を も つ 所 以 が み ら れ る の で あ る
︒ こ の よ う に し て
︑ 現 実 の 惟 界 か ら の 道 徳 的 間 い か け に 遂 に は 答 え ら れ な い
︑ あ る い は 答 え 難 い と い う 体 験 や 境 位 か ら
︑ 人 は し ば し ば 道 徳 的 自 由 そ の も の に 絶 望 し
︑ こ れ か ら 逃 避 し
︑ さ ら に は こ れ を 懐 疑 的 に 否 定 す る と い う 態 度 さ え も と る に い た る の で あ る
︒
つまり単に
‑ 15 ‑
‑ 16 ‑
だから︑人間が道徳的自由をもつということは︑なるほど人間の特権であり︑あるいは人間の偉大性を示すも のではあろうが︑しかしわれわれ人間が真に深くその都度の実践的場における道徳的善の実質的内容を見出す ということが︑時には極めて困難︑さらには不可能でさえあることを省みる時︑そうした道徳的自由が却って 人間にとり労苦と苦悩やさらには懐疑的絶望の源泉ともなってくる︒このようにして︑人間の理性が時には特 定の実践的場における善の実質的内容を洞察把握することが困難不可能となり︑従って人間の理性がその有限 性や無力性︑さらには二律背反的性格を暴露するにいたる時︑人間の理性はまさにその本来の意味や機能を喪
失せるものにほかならないこととなる︒
力性を顕わにする時︑ つまり︑人間の理性はその二律背反性︑あるいは有限性︑
さらには無
それは最早人間の実践的行為を予料的投企的に媒介する能力を失っ.てしまうからである︒
人間は自由なる行為者として理性的実存であるに拘わらず︑人間が真に理性的となり︑深く自由を実現せんと
する程︑却って言わば不自由となって了う︒人間の理性は所詮人間の理性なのであって︑言わば神の全智全能
なる理性ではない︒もちろん︑このような人間理性の有限性や二律背反性は日常平凡の世界においては生じえ
ないのである︒日常平凡の世界においては︑人間理性はそうした有限性や二律背反性を示さず︑何程の支障も
なく︑また其程の困難もなく︑人間の行為を予料的投企的に指導媒介しているのである︒しかし︑われわれ人
間が︑真に非常非凡なる現実に直面せる場合に︑そうした人間理性が支離滅裂や四分五裂に陥り︑遂には現実
の行為を予科的に媒介することができないという体験や境位に遭遇するという事実のあることは︑何人も否定
できまいと思う︒そして︑こうした体験や境位は︑単なる妥協や無為や判断中止というような消極的逃避的生
に止まることを欲しないかぎり︑やがては絶望的懐疑や痛酷なるニヒリズムを経て︑われわれをやがては宗教
の次元や世界に導いていくのでもある︒ルッターはある箇所で次のように述べている︒﹁物事は汝︵人間のこ
と︶の悟性に従って行われるものではなく︑汝の悟性を超えて運ばれるものだ︒⁝⁝何所へ汝が往くべきか︑
‑ 17 ‑
ところで︑われわれ人間が︑道徳的良心を鋭敏にして︑自己の内面を余すところなきまでに直視すればする 程︑自己がみずからの内にいろいろの形やさまざまな次元においてそうした根本悪に根深く︑あるいは根惟<
繋縛纏綿せられているものであることを自覚せざるをえないのである︒なるほど︑道徳的自由はそうした根本 機となっているのである︒ 道徳的自由についてはすでに先に述べたのであるが︑ 一体当為ということは︑人間がまさに感性的にして同 ができれば︑それでよいのである︒ 月発行を参照されたい︒︶ここではただ理性的自由の限界や有限性や二律背反性と宗教との関係を指摘すること 論﹁ルターとカントとマルクスにおける自由の問題﹂富山大学紀要﹁経済学科論集﹂創刊号︑昭和二十八年三 ある︒﹂︵七つの悔改の詩篇︶私はここでこれ以上ルッターに関説しようとは思わない︒︵ルッターについては︑拙 汝に示そうとする者は汝ではない︑すなわち人間ではない︑被造物ではない︑むしろ我︵神のこと︶みずからで これを汝が知らないことが︑汝の往くべきところを正しく知ることなのだ︒⁝⁝汝を教えて汝の歩むべき道を
次に私は︑実践理性︑あるいは道徳的自由の他の面における根源的な限界や有限性について触れたいと思う︒
時にまた理性的でもあるという二重性格にもとづいてこそ成立するのであった︒ つまり︑人間はその本質的普
遍たる実践理性の道徳法の立法者であるにかかわらず︑その本質的普遍に背反反逆する悪への傾向を根源的に 内にもっており︑その故にこそ道徳的当為は成立するのである︒だから︑道徳の立場は︑恰もこうした悪への 傾向︑すなわち人間の本質的普遍たる理性の立法に背反反逆する傾向や可能性をまず前提とするのである︒道 徳的自由は原理的形式的には人間のこうした本質的普遍たる理性を否定する感性的傾向をさらに否定克服する という二重の否定において実現されるのである︒だから︑道徳的自由の成立には︑まずそうした人間の本質的 普遍たる理性に背反反逆する自由︑すなわち所謂﹁根本悪﹂や﹁悪への傾向﹂や﹁悪の可能性﹂が不可訣的契
‑ 17‑
‑ 18 ‑ カントは︑こうした根本悪は﹁根絶する﹂
ve rt il ge n きるとした︒しかし︑もし根本悪にして︑
は 例 え 根 絶 さ れ え な い も の で あ る に は し て も
︑ 道 徳 的 白 由 に た い し て は そ れ 程 の 難 間 や 限 昇 を 残 さ な い も の と な り
︑ 従 っ て 根 本 悪 と も 呼 ば れ る 必 要 の な い も の と さ え な る と も 言 え る で あ ろ う
︒ も ち ろ ん
︑ こ れ は 克 服 す る と い う 言 葉 の 意 味 や 内 容 に か か わ る こ と で も あ ろ う が
︑ 然 し と に か く 根 本 悪 は 決 し て こ れ を 全 く 完 全 に 克 服 す る こ と が で き る と い う よ う な 徴 弱 な 力 で は な い の で あ る
︒ 例 え ば
︑ こ こ で フ ロ イ ド 流 の 心 狸 学 や 深 層 心 郎 学 な ど の シ ェ ー マ を 思 い 浮 べ て み て も よ い で あ ろ う
︒ 根 本 悪 は
︑ 克 服 し た と 思 っ て も
︑ 姿 を 変 え
︑ 所 を 移 し て
︑ い ろ い ろ の 形 や さ ま ざ ま な 次 元 に お い て
︑ 立 ち 現 わ れ て く る よ う な 根 深 く
︑ 根 強 い も の な の で あ り
︑ だ か ら こ そ 根 本 悪 と よ ば れ る の で あ る
︒ 例 え ば
︑ ま た
︑ 唐 突 か も 知 れ な い が
︑ わ れ わ れ は 時 あ っ て
︑ 愛 に つ い て 語 る の で あるが︑一体われわれは他者としての汝をどこまで愛しうるものなのであろうか︑愛他や汝への献身のうちに自 愛 が 何 ら か の 形 で 忍 び こ ん で い な い だ ろ う か と い っ た よ う な 問 題 を こ こ で 省 り み て も よ い で あ ろ う
︒ ともあれ︑われわれの道徳的良心が鋭敏になればなる程︑
潤 纏 綿 せ ら れ て い る の に 気 付 か ざ る を え な い の で あ る
︒ そ う し た 根 本 悪 や さ ら に は 原 罪 の 体 験 は 優 れ た 道 徳 的 自 覚 に 逹 せ る 人 々 が 一 様 に 告 白 し て い る と こ ろ に よ っ て も 明 白 で あ ろ う
︒ 例 え ば
︑ 次 に パ ウ ロ の 有 名 な 言 葉 を
﹁ わ が 欲 す る と こ ろ の 善 は こ れ を な さ ず
︑ 反 っ て 欲 せ ぬ と こ ろ の 悪 は こ れ を な す な り
︒ 然 れ ば 善 を な さ ん と 欲 す る 我 に 悪 あ り と の 法 を わ れ 見 出 せ り
︒ わ れ う ち な る 人 に て は 神 の 律 法 を 悦 べ ど
︑
引用しよう︒ るをえないのである︒ 悪
を 否 定 克 服 す る と こ ろ に 成 立 す る の で あ る
︒ が
︑ 然 し
︑ わ れ わ れ 人 間 の 多 く の 行 砧 は
︑ 深 く そ の 内 奥 を 省 み ればみる程︑それが何所までも根強く根本悪に根ざし︑根深く根本悪に浸潤せられているものであると辛日わざ
ことはできないが︑﹁克服する﹂
Ub er wi nd en ことはで その都度令く完令に克服することのできるものであるならば︑
それ
わ れ わ れ は 自 已 の 行 為 が そ う し た 根 本 悪 に 深 く 浸 わ
が 肢 体 の う
‑ 19 ‑
ちに他の法ありて我が心の法と戦い︑我を肢体のうちにある罪の法のもとに虜とするを見る︒唸われ悩める人
なるかな︑この死の龍より我を救わん者は誰ぞ︒﹂
ごうことのできぬ自己の惨めさと無力の自覚に責めさいなまれていたアウグスチィヌスはこのパウロの告白の
人 間
﹂
ho
mo
ab ys su s
うちに自己の姿をまざまざと見出し︑﹁人間はなんという深淵であろう﹂と叫んだのである︒そこには﹁深淵の
の体験と自覚が語られている︒また︑例えば︑親鸞は﹁いづれの行もおよびがたき身な
れば︑とても地獄は一定すみかぞかし﹂ ︵歎異紗︶と悲嘆し︑﹁一切の群生海無始より巳来乃至今日に至る迄稜
悪汚染にして清浄の心なし︑虚仮詔偽にして真実の心なし﹂︵教行心證︶
ハイデルベルクの宣言︑第
と述懐したのであり︑またさらには
﹁誠に知ぬ︒悲しきかな愚禿鸞︑愛欲の広海に沈没し︑名利の大山に迷惑して︑定緊のかずにいることをよろ こばず︑真證の證に近づくことを快まず︑恥づ可し︑傷むべし﹂︵教行心證︑信巻︶とも告白懺悔したのであっ た︒浄土真宗において﹁二種深信﹂が語られる所以であろう︒又ルッターも﹁人間のわざは人間の眼を惹き善 らしく見える︒しかしそれは死に至る罪に相当するものであるに相違ない︒人間のわざは外観は善く見える︒
しかし内部は汚物で充満している﹂とし︑こうした死に至る罪は﹁たとえ外的に善らしく思われても︑内的に は悪しき根を持つわざである﹂としたのである︵藤田孫太郎訳︑
三 及
び 五
︶ ︒
以上のように︑人間の自由なる道徳的行為は︑それが単に道徳的立場に止まるかぎりは︑その内において深
く根本悪に繋縛纏綿せられたものであり︑
そのかぎりわれわれが道徳的良心を鋭敏にし︑道徳的自由の内面を 言わば隅々にいたるまで深く内省する程︑却って根本悪に繋縛せられた不自由な自己を見出さざるをえないの である︒ルッターは次のようにも語っている︒﹁堕罪以後の人間の自由意志は看板にすぎない︒自由意志がそ の力の及ぶかぎりのことをやっているかぎり︑自由意志は死に至る罪を犯すのである︒何故なら︑自由怠志は
︵ 新
約 聖
書 ︑
ルター選集︑ I ︑
ロマ書︑第七章︶人間の内に宿る罪の法にあら
‑ 19 ‑
‑ 20 ‑
れうるものであることは承認されてよいであろう︒ 書の第二巻で言う︑﹁汝らは自由意志を自由であると言う︒しかし自由意志は実際奴隷的意志である﹂と︒﹄ ﹁恩寵なき自由意志は罪悪的なものを為す力を有するにすぎない﹂と︒彼は又﹁ユリアヌスに対して﹂という著 所でアウグスティンを引用して次のようにも述べている︒﹃アウグスティンはその著﹁御霊と儀文﹂ 為すことに自由であるという意味である︒﹂︵同書︑ハイデルベルクの宣言︑第十三︶又ルッターはその同じ箇 罪の虜であり︑奴隷であるからだ︒それは自由意志を無であるかの如くいうのではなく︑自由意志は全く悪を
このように︑人間の道徳的意識が高まり深まり︑そうなればなる程︑自己が深く根本悪に束縛纏綿せられた 不自由なものであることを知り︑さらには自己が罪の主体であるにほかならないと痛感することにより︑遂に は道徳的自由の主体としての自己そのものに懐疑し︑絶望せざるをえなくなるのである︒
で言
う︑
人間が真に深く道徳的自由に徹していく程︑却って不自由を痛感せざるをえないということは︑極めて大き な矛盾であると言わねばならないであろう︒これはまさに道徳的自由の自己矛盾︑あるいは限界︑さらには有 限性と呼ばれてよい事態であろう︒人間の道徳的自由は︑善への可能性と悪への可能性との矛盾するものの統 一として︑根源的に自己矛盾的なのであり︑あるいはまた人間の道徳的当為は善が却って悪を自己の否定的媒 介の契機としてもつことによってのみ成立するのであるかぎり︑恰もその故にこそ人間の道徳的自由は︑それ が何所までもそうした道徳的当為の立場に止まるかぎりは︑矢張りどこまでも根本悪に束縛纏綿せられたもの として︑これから超脱することのできない苦悩深淵の実存として︑まさに限界的有限的なる実存であると呼ば このようにして︑人間の道徳的実存がその限界的有限性を暴露し︑痛酷なる虚無的絶望に陥り︑従って人間
的実存が遂に罪に縛られた不自由な主体であることを自覚するにいたる時︑矢張りそこに宗教の門が開かれて くるのでもある︒宗教は︑人間が単にその道徳的自由に安住し︑あるいは自己の小さな善を傲慢に誇り︑さら
‑ 21 ‑
を人生観の基調とするわけにはいかないのである︒ あ
る︒
には並の業績を偽善的に自負するような立場には無縁のものであろう︒人間が︑自己を道徳的に極めて悲惨な ものとして︑その罪業の深さに虚無的に絶望懺悔する時にのみ︑こうした罪業深重の罪人の救済として宗教の 立場が現われるのである︒だから︑真実に自己の罪悪深重の自覚に達する程︑われわれは宗教の立場に近づい ていくのである︒﹁善人なほもて往生す︑況や悪人をや﹂︵歎異紗︶といわれる所以である︒とにかく︑宗教の 立場は︑ややペダンティックに聞えるかも知れぬが︑人間がその実存の根源的なる内在的内面的矛盾に撞着し た時︑そうした単なる相対的な自己内在的立場を超越して︑自己の実存の深い根源に徹し︑そうした根源的な 言わば超越的絶対者のうちに新たなる生命や真実存在を生きるところにある︒それは道徳の次元とは全く異な り︑之を超えたものなのである︒
私はここではこれ以上道徳と宗教との関係や宗教の意義を追求することは控えたいと思う︒ここではただ人 間の道徳的自由の限界や有限性を指摘し︑道徳がやがて必然に宗教に連関することを明らかにしたかったので われわれは今まで人間の道徳的自由の構造や意義を明らかにし︑進んでそれがいかなる意味において限界や
有限性をもつかということについて述べてきたのである︒このように︑人間の道徳的実存の領域においても︑
その自由はまさに限界のある有限なる自由なのであり︑従ってわれわれは単にこうした限界のある有限なる道 徳的自由にたいするオプティミズムのみに安住し︑そうした道徳的自由の不断の開発進歩完成ということのみ 私は︑前の節とこの節において︑人間の理性的自由が︑その悟性の領域においても︑また実践理性の領域に
おいても︑それぞれ一種の限界や二律背反や有限性をもつことについて述べてきたのであるが︑ここで次の事 柄について一言注慈を加えておくことにしよう︒それは︑すなわち︑私は決して単に人間の理性の限界や有限
‑ 21 ‑
‑ 22 ‑
性のみを認めて︑
そうした理性のもつ正当な意義と価値とを無視︑あるいは軽視しているのではないというこ とである︒私は人間理性の言わば無限性やあるいは理性の特権や神話といったものを無批判的に安易に肯定礼 讃する単なる理性主義には賛同することができないのであるが︑
つまり新
しかしまたそれが人間存在においてもつ正当 な意義と価値を肯定することを決して忘れているのではないのである︒私はただ︑批判的精神に従って︑
において人間理性の意義や価値を認めながらも︑他面においてそれに固有の限界や有限性をも明らかにし︑理 性の現実を全体としてその真実の姿において評価したいのである︒この小論が余りに人間理性の限界や有限性 を示すに急であるからといって︑私の立場が決して単なる非理性主義でもないということを注意しておきたい 最後に︑私は︑人間の実存そのものの根源に関して認められる︑言わば人間実存の根源的有限性とでも呼び
うるものについて述べることにしよう︒
人間の実存が︑ほんらい一種の生命体として︑死の必然的運命を免れないということは︑他の動植物的生命
体と何ら変らない︒これは︑
ほんらい生命一般にみられる︑生命の増殖に伴なう生命の周期的交替︑
しい世代の生命の誕生や成長にかわる古い世代の生命の老衰や死滅ということにもとづくことにほかならない のである︒しかし︑人間の実存は︑それぞれ意識的自覚的単独者として︑この必然的運命としての死を単独に 覚悟して死んでいかねばならないという特別の境位におかれているのである︒ここでそこにみられる問題につ
いて少し触れることにしたいと思う︒
人間の生命は根源的に︑例えば︑﹁死へ向って進んでいる存在﹂
Se in
zu
m
To de なのであり︑死という終末
3
︑人間存在における根源的有限性
と思
う︒
一面
‑ 23 ‑
き要求なのであり︑それは決して単なる道徳上の要請︑
つまり善人が永い生活の途上において必ず何時か善果
Se
in
u
nd
Ze
it
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のある生命として︑その﹁終末に向って進んでいる存在﹂
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なのである︒
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︑ 人間がどれほど自由な自覚的行為者であるにはしても︑しかし死の必然的運命を免れること は全く不可能なのである︒古来︑人間は死の運命を免れ︑不老不死となるために︑時には魔術に︑或いは科学 にさえも︑その救いの手段を求めて止まなかったのである︒不死永生ということは人間生命にとっては抜き難 をもって報いられ︑悪人が必ず何時か悪果をもって報復されるべきであるというような観念のみから成立して
いるものとは言えないのである︒人間生命にとって︑その生命の否定としての死去死滅ということは本質必然 的 に 嫌 悪 忌 避 さ れ る の で あ る
︒ し か し
︑ 人 間 に と っ て 不 死 永 生 と い う こ と が ま た ど れ ほ ど 願 わ し い も の で あ るにはせよ︑所詮生命体としての人間存在は死の必然的運命から免れることはできない︒人間の存在がどれほ ど実存的自由を有するとはしても︑
はその根源において死に繋がれ︑死に縛られたものなのである︒人間は︑如何にするも︑この死との繋がりを 断ち切ることはできないのである︒人間の自由の根源には︑それをもってしても如何ともすることのできないと ころの︑人間の自由を遥かに超越した生命一般に本質必然的な死の運命としての不自由が根を張っている︒そ れは︑人間の自由をもってしても︑如何ともすることのできないものであり︑人間の実存の根源に横たわる運 命的必然性であるかぎり︑人間存在における根源的有限性と呼ぶことができるであろう︒このように︑人間は その実存の根源においては︑全く有限なるものなのであり︑それは不断に死の終末に向いつつその生命を生き
るのである︒
それは決して死の必然から解放された自由であるのではない︒人間の実存 いや︑念々刻々の瞬間の内には常に死の可能性が手を差し伸べているのである︒言わば︑人間の
生命は刻々死につつあるのである︒われわれはその意味で生死一枚の生命を生きているのであり︑また生死一 枚の死に死んでいくのである︒ここからして︑人間がその生命を真に自覚的に生きようとする場合︑死の不安
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