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竹 森 元 彦

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Academic year: 2022

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—学校や地域の中で物語を紡ぐこと一一-

竹 森 元 彦

はじめに

籠者は、臨床心理士の立場にて、学校やその他の事例検討会に呼ばれ、スーパーバイザーとして そこで意見を求められることがある。多様な事例への意見が求められるが、事例検討会の場は、事 例である子どもと家族にとって、事例提供者にとって、参加者にとってどのような意味を持ち、ど のようなダイナミックスがあるのか。スーパーバイザーとしてのカウンセラーはそこでどのような 態度を示しているのか。どのように支援を行うのか。

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年に渡る香川県教育センターと香川大学と の共同研究である「不登校への対応における学校と教育支援センターの望ましい連携のあり方」

(2005) においても、事例検討会について考える機会を与えられた。それらの経験を通して、学校 における事例検討会について再考してみたいと思う。臨床心理士や教師、子どもに関わる人にとっ て、子ども理解、自己理解につながる方法論として、事例検討会は大切な経験でもある。

心理臨床大事典 (2001) にある 臨床心理士 における事例検討会を参考にして、学校における 事例検討会について考えると、その目的は「事例に関する理解を深め、お互いに関わりの過程を検 討しあうことによって、より効果的な関わる技法を見出していくとともに、子どもに関わる教師の 資質を向上させるところにある」と言える。同様に、スーパーバイザーの役割について考えると、

同程度の技量の教師ばかりのカンファレンスであると、ケース提供者は、メンバーの中の心ないス タッフの発言に左右されて、意気消沈してしまったり、その場で冴えすぎた解釈を聞かされたりす ると、教師もいつの間にかわかったつもりになってしまって、子どもやその家族との関係に微妙な ギャップを生じるのでスーパーバイザーは、報告者が、子どもと共同作業をしているということを 念頭において、シリアスな中にも温かい配慮をする必要がある。

学校で行われる事例検討会は、その多くにおいて教師が事例提供者となり、参加者もまたその学 校教師が多い。そのような場の中で、カウンセラーであるスーパーバイザーはどのような態度を

もってその事例検討会の目的を開いていくのか、論考を深めたい。

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学校における事例検討会とは何か

学校における事例検討会とは何か。その問題についてはいくつかの視点から問い直される必要が ある。ひとつの視点は、提示される事例が、学校の中での物語であるということである。これは、

学校で特に担任が困っているということである。事例提供者は、自分の対応にて良いのかどうか確 信が持てないでいる状況にある。もっと他の視点で考えると効果的であったのではないかと思った り、自分の行った対応が子どもにとって適切であったのかどうか、不安や罪悪感さえ持っている時 がある。「府に落ちない」「心許ない」「落ち着かない」「これでよかったのか」などと自問自答して いる。学校全体として取り組んだが、うまくいかない場合もある。事例提供者は、学校という組織

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の中で、良いにせよ、悪いにせよ、学校のあり方に規定されつつ問題を抱えている。そのような事 例提供者の状況と心理の中で、事例検討会が始まる。

もうひとつの視点は、子ども自身の物語はどのようなものであるのか。学校において対応に困っ ているというが、子ども自身がどのように困っているのかについて見定めないと、学校の都合に よって子どもに対応していることになり、それは問題をみないで、問題を解決しようとしているに 等しい。つまりは、子どもの持つ物語についてみる視点である。

3つ目の視点は、家族の物語である。家族がこの子どもと関わってきてどのように感じ、どのよ うに悩んでいるのか。それは子どもにとって、どのような意味をもっているのか。家族を支援しな いと、子どもの支援には成り得ない場合が多い。家族の中でどのように問題は発生しているのか、

いつから亀裂は生じてきているのか。家族もまた、どうしていいのかわからないという物語を抱え ている。

そして、この事例検討会という場にて作られる物語である。会に参加している人たちは何らかの 関係を子どもと持ち、そこでうまくいかないという経験を重ねている。或いは、関わりがなくとも、

その子どもに対して何らかの関係性を持ちうる可能性がある人たちである。そしてこの事例検討会 の中で、それぞれの立場から主人公として参加できるような物語への期待がある。

事例検討会とは、これらの物語が交錯する場と言える。一つ一つの物語へ目を向けて、それらの 関係性を明らかにしながら、この参加者自身が事例検討会という物語の主人公として自分の位置づ けを見出し、それらを全体として共有していく過程が、事例検討会であると筆者は考えている。

スーパーバイザーとは、事例という謎にひとつの物語を見出し、その分断された物語に、新しい意 味を与えるものであるということになる。

「物語る」という方法論については、論議をする必要があろう。

下山 (2001)は,臨床心理学の研究方法について包括的な検討を行い、臨床心理学の実践研究に ついて「循環的仮説生成一検証過程」として捉えて、「循環的に仮説生成一検証を繰り返しながら 事例のストーリーを解明していく研究過程となっている」と指摘した。さらに、「臨床心理士は、

読み"を事例の当事者や関係者に伝え、協力して事例の状況に介入することで、新たなストー リーを構成する。この点で、実践過程は、新たなストーリーを生成する物語構成の作業ともなる」

と述べている。つまり、「物語る」ことは、実践研究における有益な方法である。

しかし、この事実は、即ち誰もがその実践ができることを意味しないという難しさがある。物語 生成のためにはどのような力動が必要なのかについて具体的な手順として示すことの困難さがある。

なぜならそれは物語が主観的に構成されたものであり、一方、ともすれば事例から乖離した物語も また成り立つ危険性も持つ。有益な事例検討会は、現象としてはあり得るが、スーパーバイザーに は、その事例に必要でかつ有益な新しい物語を生成するために、豊かな臨床経験を踏まえた 読 み"が求められる。有益であるが実際に行うのが難しいという矛盾を抱えている。さらに、「教え る」というパラダイムを重視する学校においては、この「物語る」というパラダイムは、異質な体 験でもある。

主観性を大切にする意味ーー事例提供者の心の中で構成される事例—

従って、事例検討会とは、単純な事例の羅列ではなく、事例提供者が語る物語を、二つの側面、

その内容と感情の側面から一一、特に感情の側面について焦点化して、その事例を描き出そうとす る。つまり、描き出された事例には、二つの意味がある。ひとつは、事例そのものの状況や情報で ある。もうひとつは、事例提供者がその事例と関わりあって主観的に感じとった事例の姿である。

感じ取るというのは、情緒や感情を通してである。事例とは、あくまで事例提供者の主観的な感情

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の総体と言える。事例の客観的な情報とは、事例に関わる人の感性によって多様な色付けが行われ る。例えば、学校を休んだという事実は、学校を休むのがいけないと考えるのか、そのようなとき もあると考えるのかで変わってくる。事実の捉え方によって、その人の考え方が現れてくるのであ る。主観的な考え方は客観性に欠けて問題があると考える人もいるが、心の問題に関して客観的な 情報をいくら集めても、その数を増やすとか、減らすという論議となりあまり有益ではない。例え ば、不登校が30日あるから、 29日にしようと言う話し合いには、子ども像がない。あったとしても それがその子どもを適切に取り出しているかどうか疑問である。こうあってほしいと願う一方的な 子ども像が優先される場合が多い。それよりも、まさに関わった人が感じる主観的な感じ方は、そ の子どもの心を理解する上では、事例提供者の考え方・感じ方のフィルターを通して見える姿とし て、生き生きとしている。心は見えないから、我々は客観的な姿として何とか描こうと努力するが、

どこかで主観的なものとしてしか描き切れないという限界がある。その限界を踏まえて、心理検査 などは利用される必要がある。

主観的な感じ方を通じて、その人の主観を描いていくことは大切であり、つまりは、事例検討会 での子ども像は、子どもと事例提供者の心理的な相互作用あるいは多様な防衛的な関係性の総体と

して示される。事例検討会を通じて、事例提供者の関わり方の癖やものの見方などが見えてくる。

その視点から見た子ども像が描かれる。つまり、事例とは、子どもの姿に見えるが、実はその姿の 中に既に事例提供者自身が居るのである。その関係性を分断することなく取り出し、むしろ利用し ながら子どもの姿を見出していく。子どもと日常的に果敢に取り組み、試行錯誤してきた事例提供 者だからこそ、子どもの心に近づく道を持っている。ところが、事例提供者にとって、その道はこ れまでの自分が歩いてきた道ではなかったりする。そのために、子どもをどうみるかについての道 が見えなくなり、自らの道を失った喪失感のために「もどかしく」もあり、時に「怒り」が湧き起 こり、「居心地の悪さ」を感じるのである。その感情を、事例提供者が自らの中にどう収めていく のかが事例検討の過程である。その過程の中で、これまでの自分のあり方について「気づき」(自 己理解)が生じてくる場合も多い。

「悩み」とは何か—物語ることの意味ー一

事例検討会に事例が提示される理由は、学校、子ども、家庭の物語が交錯するが、そこに一つの く意味>が持ちえていないからであろう。ともすると「駄目だった」という<意味>が生じてくる ことも多い。例えば、「あのお母さんは駄目だ」とか、「あの子どもは病的だから駄目だ」という<

意味>である。その否定的な視点でしか子どもを見ていない、つまりは、それを言った側の自らの 行き方と言える道を喪失することへの怒りを防衛したことによって生じてきている意味であるとし たら、それは、言った側が自分の感じ方を見直す必要がある。むしろ、そのような視点でしか見る ことが出来ない現実から出発する必要はないのであろうか。「駄目だ」という意味は言う側にとっ ては、容易でもある。それが、怒りの防衛であることを自ら見出すことは、かなりの困難さを伴う。

時に生じてくる別の意味もある。例えば、「可哀想な子どものために」「子どものことを考えて」

などという意味である。これは、子どもの心の現実を見定めていくことを避けて、「可哀想であ る」という状況から意味を形成しようとしている。実は、子どもの心の現実を見るための道を失っ ていることの防衛によって生じてきている場合も多い。

時に形だけの事例検討会もある。これは、この二つの防衛を超えて、事例を見定めようとする視 点が欠けているからである。

事例検討会での事例提供者は、以上のような二つの防衛的な意味を超えて、「居心地の悪さ」を 覚えつつ、迷いながら事例を提供している。それは事例提供者にとって辛い状況であり、極端にい

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うと自信をかなぐり捨てての提案なのである。事例そのものを投げ捨てずに、それを「悩み」とし て抱えようとしている中で、事例検討会は提示される。どのようにこの事例を抱えるのかは、即ち、

その「悩み」を事例提供者や参加者がどう抱えるのかと言う問題と表裏一体である。

事例提供者と参加者は、多様な努力と工夫を重ねたが、どうしようもなくなって事例を提示して いる。「悩み」とは、それまで生きてきた物語に亀裂が生じてきた時に生まれてくる。「こんなはず ではなかった」「どうしたらいいのかわからない」と感じ、その中で、捨てることも出来ず、前に 進むことも出来ず事例は提示されている。つまりは、事例検討会の場とは、提供者にとって「諦 め」の場であり、「諦め」であるからこそ、多様な物語の生成の可能性が生まれてくる。自ら関 わってきた物語を自らいったん心理的に距離を持って、その事例検討会へと委ねる態度がある。お そらく、事例は、事例提供者の意識・無意識の総体として関わってきた物語であり、その事例は自 分自身と主観的にはつながっている。物語に、事例提供者の日常とそこでの感情を含めた関係性が 語られる。

つまり、事例検討会には、事例提供者の意識・無意識がそこに姿を垣間見せるのであろう。ちら ちらと垣間見せる意識・無意識の姿をどのように読み取り、参加者自身の意識・無意識と呼応させ るか。その場にまさに意識と無意識が存在し、それらが力動的につながる。そこで描かれた物語は、

参加者の意識・無意識に力動を生み出す。事例提供者の意識・無意識が、参加者の意識・無意識と 連動し始める。子どもの心理と家族の物語、参加者の物語が呼応して息づき始める瞬間が訪れる。

その物語の生成のためには、事例を聴き取るための、場の在り様とか意味が問われる。場の意味 とは、事例を聴き取る人が事例提供者の意識・無意識に対して開かれていることが大切である。意 識・無意識に開かれているとは、事例の情報だけではなく、そこに生きた人の感情に対して開かれ ているということである。感情は意識化されている部分と意識されていない部分がある。スーパー バイザーには、それらの総体としての感情を大切にする専門的な態度が求められる。その態度とは、

個人に対して示されるスーパーバイザーの態度だけではなく、一人の人に開かれつつも、その場に 開かれている態度であろう。

「場」とは、物理的な空間だけではなく、心理的な空間である。「場」の中に、人は生き、そこ で呼吸をする。例えば、家庭という場、学校と言う場、会社という場など。物理的な場は、次第に、

そこに生きる人達によって形成された意味空間となってくる。私が生きた家庭とか、私の嫌いな親 とか、それぞれの意味が生成される。場の意味が自分にとってフィットしていると、「居心地の良 い家」であったり、自分にとって意味がズレていると「居心地の悪い家」であったりする。その場 の意味が生成されることによって、事例検討会という場は参加者にとっての心地良い場となる。場 の意味が共有されることによって、参加者にその場に開かれる態度が生まれ、その場のイメージを 共有して生きることが可能となる。そして、それぞれの立場で、自律的に活動することへとつな がっていくのではないか。その状態が、「連携」というものがうまく行っている状態と言える。教 育現場において「連携」という言葉がよく言われるが、その場に「関係者が集まる」だけではなく、

そこに生きた心理的空間が生まれ、イメージが共有され、その中でそれぞれの役割が生き生きと実 感された瞬間をいうのが本質であると考える。

その場を生成するための物語とは、子どもと家族の物語を軸として、学校の物語、教師の物語な どを子どもや家族の物語の中に統合する必要がある。物語それ自体が了解されることはすなわち癒 しでもある。ところが、子どもの物語が読み間違っていると、学校や教師の物語は適当なものでは なくなる。あるいは、子どもの物語が学校側や教師側の都合から解釈されると、子どもの物語がで きないばかりか、子どもやその家族にとって強引な関係が生じてくる。このような誤りが、事例検 討会には生じやすい。

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学校の文化とカウンセラーの態度について

学校で事例検討会を行う場合、学校とカウンセラーの立場の違いについて論じる必要がある。こ の違いを明らかにすることで、スーパーバイザーに求められるカウンセリングの態度の重要性につ いて明確に出来ると考えられる。

学校はどのような場なのか。学校では生徒の意識のレベルに対して働きかけると考えられる。合 理的、理性的、客観的、分析的なアプローチを行う。授業という場において、これまで蓄積された 人類の知恵を伝えていく。ある文章を読解し、そこに解答を求める。数学においてはひとつの答え を、数式にあてはめながら出していく。生徒指導と呼ばれるように、教師は指導するものであり、

生徒は指導されるものである。よりよく生きることが求められ、学校やクラス全体として、できる だけ平等で同質の教育が展開する。個性と言われながらも集団性が重視され、集団性の中での個別 性がある。不登校の増加に見られるように、従来の学校の持つアプローチに効果があまりないケー スが増えて、そのアプローチの仕方に疑問が提示されてきた。学校の持つアプローチそのものが間 違っている訳ではないが、子どもによっては、学校の持つアプローチだけではなく、無意識を重視 した、カウンセリングの考え方に拠るアプローチが必要な子どもも多く出てきたことを示している。

カウンセラーは個別性を重視する。つまり、個の意識・無意識のダイナミックスを見る。この発 達を重視し、時間をかけて個々の成熟を支援しようとする。無意識的、感覚的、全体的なアプロー チである。ひとつの答えはなく、個々の生き方が重視される。不登校のような個別的な事例の中に、

人間の普遍性を見出そうとする。個別性とは例外として統計的な立場から排除されるものではなく、

その個別性の中にこそ、全体の問題が内在すると考える。母性的、受容的、共感的な態度を用いて、

主観的に関わり、関わりながら物語を生成してアプローチする。主観的に心へ関わることで、心の 真実へと迫ろうとする。

これらのことを、山本 (1995)は「こころの問題への二つのアプローチ」としてわかりやすく提 唱している。その一つである「働きかけの知」について「われわれ現代人にとって支配的なものの 考え方」「問題を解決するには原因をみつけて、原因が分かれば結果が改善されるという修理モデ ルである。ボタンを押すところが分かれば結果がポンと出てくるパターンにわれわれは慣れっこで ある。問題行動があれば修正すればよい。そのために指導を厳しくするという発想もこの常識的知 の構造からきている」と説明した。それに対して、臨床心理士の独自性が依って立つ知の構造とし て、「一人ひとりの心の意味の世界を大切にし、表に現れた行動や症状の意味に着目し、それを解 釈学的にアプローチする。また人の心の世界を、共感的に理解し、相手の心の参加する意識を大切 にする」として「受身の知」をあげた。そして、どちらがよいというのではないがこの二つの知の 両方を上手く備えることが心の問題に上手く対処できることとなるが、教師は前者の考え方に偏り がちであると指摘した。

現在、多くの中学校に配置されたスクールカウンセラーは、それらの個別性を大切にしながらも、

コミュニティやシステムに働きかけ、子どもやその家族をめぐる環境をよりよいものにしようとす る。個別性と集団性の両者に働きかける。そこでのアプローチはやはり基本的にはカウンセラーと してのパラダイムに立つ。子ども、家族、クラス、学校、社会と幾重にもリンクするシステムヘと アプローチする方法もまたその中核にあるのは意味世界、つまり「物語」である。つまり、「物 語」によってシステムをつなぐ。

スクールカウンセラーに見られるアプローチの仕方(例えば、竹森、 2000)が、事例検討会にも 求められる。子どもを中核とした家族、学校、そして地域の中の人達がいる。これらのシステムを つなぐのは、子どもの物語、つまり子どもがどのように生きてきたのか、いま生きているのか、こ れから生きていくのかについての物語である。子どもをめぐる意識・無意識レベルで生成される物

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語へ迫るパラダイムは、カウンセラーの持つ基本的態度であり、その態度によって、参加者自身が 子どもについて語り、自らを語り、気づくことが促される。

カウンセラーの基本的態度とは、ロジャーズ (Rogers,C. R.)によって示された態度であること は言うまでもない。具体的には、治療者の基本姿勢として次のようなものがある(畠瀬、

1 9 9 0 )

①すべてのクライエントは、自分の問題をより適切に解決してゆく潜在力を持っている。クライ エント中心の治療者は、クライエントの持つこの基本的潜在力を最大限に尊重する哲学、姿勢、態 度の上に立っている。②クライエントこそ面接を進めてゆく上での最上の案内人である。この自己 実現傾向への信頼の具体的実践は、クライエントが面接の方向や速度を主導してゆき、治療者はそ れに的確にフォローしていくことで示される。③したがって、治療者はできるだけ許容的な関係を クライエントとの間につくりあげ、若干の制約(一定の時間の約束、暴力の否定など)はあるが、

クライエントが最大限に自己を表現してゆくのを援助していく。④この方法は、知的な側面よりも、

情動的・感情的側面を重視している。大部分の不適応は知識の欠如から起こるのではなく、情動・

感情の問題から起こっており、この方法はこれらの調和ある再体系化をはかろうとするものである。

⑤この方法はまた、個人の過去よりも現在の状況、個人の認知のあり方に重きをおいている。個人 の生活史からではなく、治療的面接そのものの中からよりよい理解の図柄が生まれてくる、と考え ている。⑥治療者のうちたてようとしている関係は、真心のこもった、誠実で偽りのないものであ り、クライエントが自分の内面を正確に理解されているという実感をもつような関係を発展させて ゆくことに努力が注がれる。

VI  正確な読みに応じた支援とは

スーパーバイザーが、ロジャーズ (Rogers,C.R.)によって示された態度を示すことによって、

事例提供者や参加者の本来持っている力が活性化されることは大切であるが、事例の重さや状態に よっては、カウンセラーとしての正確な判断が求められるし、病態水準も含めた「見立て」や「ア セスメント」の力が重要である。即ち、正確な読みがスーバーバイザーに求められる。

また、事例提供者とスーパーバイザー、参加者によって語られ、紡がれた物語は、それ即ち了解 となり、癒しとなる。それは、森岡

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がクライエントとセラビストの語りについて次のよう に述べたことと同じであろう。「ことばの底に沈む体験、出来事が語られだすとき、治療へとつな がる。語られることが同時に経験となり、表現が同時に了解となるようなことばを捜し求める、そ れがクライエントとセラビストの対話になる」。

一方、スーパーバイザーが事例検討会という場に対して意識・無意識的に開かれていない場合、

そのような状況は成り立たない。また、事例提供者自身の成熟の問題もある。例えば、事例を通じ て提供者が自分に直面化できない場合もある。そのときに問題について指摘してもあまり意味がな い。対象の子どもとその家族、事例提供者、参加者、場の見立てなどを、リアルタイムな中で行っ ていくことが求められる。

一般に、症状や心理的防衛が、その人にとって受け入れがたい現実に対する必要なもの、自分を 守っている状態であると考えると、それらを無理に指摘して引き剥がすことは、心理的苦痛を与え ることにつながる。その自我状態を丁寧に見定めつつ、その人がわかる形での説明も必要となる。

スーパーバイザーが語る物語は、ひとつの見方であり、強制できるものではない。

一方、事例検討会にて描かれた物語がその個人をよく表現されていればいるほど、自然と支援の 形は示されている。支援とはあくまで個人のサポートであり、必要な支援は、より適切な理解の図 柄の中から生まれてくる。

それが、参加者の意識・無意識の中で「了解される」「腑に落ちる」「地に足が着いた」ものとな

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るように、丁寧で相手を尊重した、受容的・共感的・傾聴を重視した態度を示し続けることが、直 接・間接的に、事例提供者や参加者の態度に影響を与え、その人達からの、子どもと家族へのアプ

ローチにも深い意味を与えていることをいつも忘れてはいけない。

強制しない、指示しないやり方の中で、参加者自身が自発的に気づいた瞬間が何よりも、大きな 変化へとつながることを、そしてそこに至ることが誰にも生じると信じることが大切である。例え、

事例の物語がうまく出来なくとも、事例提供者と共に揺らぎながら誠実に対応する態度をもって示 すスーパーバイザーの在り方は、事例提供者や参加者が、問題の子どもやその家族と共に生きると いう態度にもつながっている。

"  

結語

以上、事例検討会に生じている過程を、事例の持つ客観的事実や情報だけではなく、スーパーバ イザーが、事例提供者の持つ主観的物語として捉え、それに傾聴し、事例提供者の意識・無意識ヘ とつながりながら、参加者の意識・無意識とも融合する過程として、そこに新しい物語を生成する ための態度を示し続けることの重要性を考察した。そこで生じてきた物語は、その事例への理解が 深ければ深いほど、そこに即ち参加者の了解があり、了解の中で支援が自然と生まれてくる。それ ぞれの参加者にとっての関わることの意味が見え、自らの自発的な関わり方が見える。事例検討会 において、スーパーバイザーにはカウンセラー的な態度に加えて、見立て、アセスメントする専門 家としての読みの力が強く求められる。一方、共に歩く態度を示すこともまた、悩みを抱えること が意味深い態度であることを参加者に対して隠喩している。

文献

不登校に関する研究プロジェクト会議 (2005): 不登校への対応における学校と教育支援センターの望ましい連 携のあり方(平成16年度不登校に関する研究プロジェクト会議研究成果報告書) 香川大学教育学部附属 実践総合センター

畠瀬 (1990): クライエント中心療法小此木啓吾・成瀬悟策•福島章(編著) 臨床心理学体系7 金子 書房

森岡正芳 (2002): 物語としての面接 ミ メ ー シ ス と 自 己 の 変 容 新 曜 社

下山晴彦 (2001): 事例研究 下山晴彦・丹野義彦(編著) 講座臨床心理学2 臨 床 心 理 学 研 究 東 京 大 学 出 版 会

竹森元彦 (2000): スクールカウンセリングにおける、生徒、家庭、学校の支え方について 心理臨床学研究、

18(4)、313‑324.

氏原 寛・小川捷之・東山紘久・村瀬孝雄・山中康裕(共編) (2001)  : 心理臨床大事典 培風館

山本和郎 (1995): 序にかえて 村山正治・山本和郎(編著)スクールカウンセラー その理論と展望 ミネル ヴァ書房

(平成17年5月31日受理)

参照

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