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長 谷 川

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Academic year: 2022

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(1)第3巻第1号(2002年7月〕. 早稲田杜会科学総合研究. ﹁神の義﹂か﹁人問の理性﹂か ー古い知の枠組は現代に通用するか−. ︵︶. ︑マ. 三. ニューヨーク市立大学の調査によると︑アメリカ国民の﹁脱宗教. 国の一般的視点の一つである科学的視点からみると非・反科学的と. 道はこの三点についてだけであるが︑調査の目的は︑現代の先進諸. れる︒二千年問続いてきたキリスト教の教義が︑﹁科学﹂というハ. ﹁脱宗教化﹂の理由に関する報道はないが︑次に紹介する︑英国. きものである︑などと思う者はいないであろうが︑今日の一般常識. ちろん科学と宗教が同一であるとか︑同一の視点から考えられるべ. カリで正誤を問われている側面がそこには見えかくれしている︒も. BBC放送が英国のキリスト教聖職者を対象におこなったアンケー. に上まわっているという覇日新聞︑二〇〇二年三月九日朝刊九面一︒. 一パーセントであり︑九〇年の前回調査で出た八パーセントを大幅. 化﹂が十年前にくらべて著しく進み︑カトリックとプロテスタント. けの特異現象ではなく︑世界の聖職者の平均的数値であろう︶︒報. 女受胎を信じない者が四分の一であったという︵この数字は英国だ. 名︑アダムとイブが実在したと考える者は十三名︑聖母マリアの処. 回答した聖職者百三名のうち︑神による天地創造を信じる者は三. 示唆しているかもしれない︒. ト調査結果覇日新聞︑一九九九年一二月二九日朝刊三面一が︑その答を. 長谷川. 羊. もみえる教義に対する聖職者の反応を知ることであったように思わ. 約﹂のそれを指している︒. ﹃旧約聖書﹂︵以後︑﹃旧約﹄と記す︶における﹁神の義﹂と ﹃新約聖書﹂︵以後︑﹃新約﹂と記す一の中でイエスがいわれる ﹁神の義﹂とは異なるが︑この小論の題名の﹁神の義﹂は﹃旧. 注. を通じて﹁無宗教﹂と答えた人の割合は︑成人五万人のうち一四・. 序.

(2) 祀. から見たときあまりにも荒唐無稽に見えるものは迷信・妄信と見ら. と言えるのではないか︒. 求めていることを︑二つの新聞に報道された調査結果が示している. イエスの教えではない教義の別の例として﹁腰罪﹂がある︒これ. れるようになり︑信者からすら見向きもされなくなることは︑どの 宗教にも見られることである︒. は︑パウロの﹁ただキリスト・イエスによる膜いの業を通して︑神. いことをする不完全な存在であるから︑神が﹃旧約﹄を通して六百. 聖職者の不信は︑﹃旧約﹂の教義に対するものが圧倒的に多いが︑. ﹁新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない︒そんなことを. 十三の戒律を与えたとしても︑守れるものではないとパウロは考え. の恵みにより無償で義とされます﹂一ロマ書三・24一という言葉から. すれば︑革袋は破れ︑ぶどう酒は流れ出て︑革袋もだめになる︒新. た︒では︑守れるはずのない戒律を神が与えた理由は何か︒人類. ﹃新約﹄の重要な教義の一つである処女受胎に対しても向けられて. しいぶどう酒は︑新しい革袋に入れるものだ︒そうすれば︑両方と. は︑白分がいくら努力しても白力では救われないと気付いたとき︑. 欧米型神学へと定着したものであり︑イエスの教えではない︒この. も長もちする﹂一マタイ伝九・17一というイエスの言葉のように︑﹁現. はじめて神を信じようという心がおきると考え︑それを計算に入れ. いることは︑従来の教義が現代の﹁聖職者の知性﹂にすら合わなく. 代の知性﹂︵新しいぶどう酒︶は﹁現代の知の枠組﹂︵新しい革袋︶. たうえで律法を人類に与えたとパウロは考えた︒人がそれに気付. 解釈は﹃旧約﹄の﹁原罪﹂観に基づいている︒禁断の木の実を食べ. の中でこそ活性化しうるのであって︑﹁古い知の枠組﹂︵古い革袋︶. き︑信仰の道に入れば︑六百士二の戒律はその役目をおえるという. なっていることの証左であろう︒このことは︑一般市民の﹁脱宗教. の中では破綻をきたすのではないか︒一般市民の﹁脱宗教化﹂はお. 発想から︑キリスト教には﹁愛﹂以外の戒律は全て消えてしまつた. たことで楽園から追放され︑原罪の烙印を押された人類は︑必ず悪. だやかな破綻であり︑一方アルカイダのモハメド・アタ等の高度な. というのである︒. 化﹂の理由をも示唆しているとみてよいのではないか︒. 教養および最先端科学技術修得者らによる﹁9・u事件﹂は強烈な. の教義に不信の反応が示されたことは象徴的である︒不信の対象と. であるが︑実はいずれもイエスの教説ではない︒イエスの教説以外. 不信の対象となった先の三つの教義は︑キリスト教の代表的教義. キリスト教の︿﹁信﹂こそ人が救われる契機であって﹁行﹂︵戒律の. ではなく︑信仰による−⁝・﹂一ロマ書三・28一というパウロの言葉は︑. であるというのである︒﹁人が義とされるのは律法の行いによるの. く︑神そのものを信仰することと︑自分の罪の深さを自覚すること. キリスト者にとって大切なことは︑神から与えられた戒律ではな. なる古い教義︵古い革袋︶を全て取り去って︑イエスの心を直接反. 遵守︶は不要である﹀という思考へと発展していった︒外面的行動. 破綻と一一一日えるのではないか︒. 映した新しい魅力ある教義︵新しい革袋︶を︑聖職者も一般市民も.

(3) 「神の義」か「人間の理性」か(一) リ. わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入るのである︒. 狭い門から入りなさい︒一マタイ伝七・些. 一マタイ伝七・21︶. より内面の信仰を重視するということである︒ では何を信じればよ. あらわ. いのか︒次がパウロの解釈である︒ おおやけ. などともいわれている︒狭い門から入るということは︑六百十三の. 口でイエスは主であると公に言い表し︑心で神がイエスを死者の. 問から復活させられたと信じるなら︑あなたは救われるからで. 他律戒よりもはるかに厳しい律法︵白律戒︶を通らなければならな. いことを示唆するし︑﹁天の父の御心を行う﹂という言葉は︑天国. す︒実に︑人は心で信じて義とされ︑口で公に言い表わして救わ れるのです︒一ロマ書一〇・910一. の︑信だけあればよく行は不用とする﹁蹟罪﹂という教義は︑イエ. に入るには本物の﹁行﹂が必要であることを明示している︒パウロ. 死からのイエスの復活を信じることによって﹁義﹂とされ︑それ. スの教えからはほど遠く︑信者にすら不信感を与えていることは︑. 限り︑パウロから始まったキリスト教神学の﹁知の枠組﹂には根本. 基督教の伝える第三の真理は基督の蹟罪と云うことであります︒. 内村鑑三氏の次の苦悩にあらわれている︒. を口外することで﹁救われる﹂ということである︒パウロの言う ﹁義﹂と﹁救済﹂はキリスト教の教義となっているが︑それはイエ. 的矛盾がありはしないか︒. 即ち十字架上の基督の死に由って人問の罪が膜われ︑その膜罪の こ 恩恵にあずかりし者は神より無事の者として認められるというこ. スのいわれる﹁義﹂や﹁救済﹂とはちがっている︒この点に関する. 禁断の木の実を食べたという﹁原罪﹂によって死ぬこととなった. の人々を蹟かせるものでございます︒ただに基督を信じない者ば. とであります︒これはまた非常に奇態な教義でありまして︑多く. かりではございません︒これ︵. 一創世記三・3一がイエスの蹟罪によって人類の罪は蹟われた︑とい. うのだが︑それなら人類は再び不死となるはずだが︑昔も今も不死. の教義を信じない人が沢山あります︒︵﹃宗教座談﹄二九. 三〇頁︑原. 基督︶を信ずると云う人でもこ. の人間は一人もいない︒この一事をもってすら︑﹁蹟罪﹂という教. る信者ではない内村氏は︑キリスト教の重要な教義の﹁蹟罪﹂を. 教団から与えられた教義を批判すること一つせず鵜飲みして信じ. 文は旧漢字・旧かなづかい︶. 義には矛盾があることになる︒次に︑イエスは律法が不要であると いわれたのではなく︑完成するためにきたといわれているのである 一マタイ伝五・17一︒結論からいえば︑それまでの律法は不完全であっ. たから完全なものにしなければならないということである︒﹁完全﹂. とは︑他律戒から自律戒への移行であろう︒またイエスは.

(4) 結論づけておられる︒労をいとわず引用しておく︒. 撞着の書となるから︑蹟罪という教義を捨てさることはできないと. キリストの救済がほとんど全く実の無いものとなるし︑聖書が自家. ﹁奇態な教義﹂と述懐されるのである︒だが︑それを捨て去ると︑. 従来のキリスト教教義からおのずから生じる矛盾に対して適正な反. でおられたことが分かる︒実はこれは内村氏だけの悩みではなく︑. つの聖書を指しているのであり︑氏は二つの聖書の尉の矛盾に悩ん. ﹃旧約﹄の原罪と﹃新約﹄の蹟罪両者がからんでいることから︑二. した基督の救済なることがほとんど全く実の無いことになりま. 着の書となってしまいます︒それはまだよいとして︑前に述べま. ありません︒しかしそうすると聖書という書はまるっきり自家撞. の教義を取除いても他に基督教に立派な教訓は残ってあるに相違. しかし私は未だこの教義を棄てることが出来ません︒なる程蹟罪. と思っているのか︑あるいは別神であると思っているのか﹂という. し︑もし信じていないとすれば︑﹁二つの聖書の神が同一神である. の聖書の神がそれぞれ別神であると彼等は思っていることになる. 約﹄の神は信じているのだろうか︒もし信じているとすれば︑二つ. らかの形で信じていないことが判明したわけであるが︑では﹃新. さて︑英国の九九パーセントの聖職者達は︑﹃旧約﹄の神をなん. 応を示す全ての人の悩みでもあるのではないか︒. す︒同書三〇一一二頁一. ら︑全く新しい神学を構築されたなら︑﹁救済﹂についてもイエス. 内村氏は︑せっかく﹁蹟罪﹂の奇態さに気付かれたのであるか. づいてきたキリスト教の神概念が彼等の心の中では根本から崩れさ. いないことになる︒一方︑もし別神であると思うなら︑二千年間つ. を信じていないアンケート調査結果から︑﹃新約﹄の神をも信じて. 新たな疑問が生じる︒もし同一神であると思うなら︑﹃旧約﹄の神. の真意に適った定義を見出すことが出来たかもしれないのである︒. っていることになるし︑その場合彼等には﹃新約﹄の神はどのよう. な神であると思っているのか︑という別の問いが発せられなければ. しかしそれは︑明治という時代ではまだ早すぎたのかもしれない︒. ところで︑英国の聖職者百三名のうち︑神による天地創造を信じ. るし︑ひいては﹃旧約﹄白体を信じていないことを意味していると. の業を信じないということは︑﹃旧約﹄の神を信じないことに通じ. ﹃旧約﹂の神の業を信じていないことを意味している︒﹃旧約﹄の神. まいか︒それがアンケート調査への回答となってあらわれたのでは. 白家撞着性に気付き︑新しい神概念を求めるようになるのではある. 知性と感性にもとづいて判断するとき︑人は聖書の中の非史実性や. 彼等の答を待つことは出来ないので︑私見を述べるなら︑現代の. ならなくなる︒. もいえる︒一方︑内村氏は﹁聖書という書はまるっきり自家撞着の. あるまいか︒聖職者という立場上︑二千年問の伝統をあからさまに. る者はわずか三名だけという事実は︑聖職者の九九パーセントは. 書となってしまいます﹂といわれたのだが︑その場合の聖書は︑.

(5) 「神の義」か「人間の理性」か(」). できた︒その対象が︑今日の視点からすれば取るに足りない迷信・. 令で禁止することは出来ない︒仮に国家がそれを行おうとしても︑. 否定することができず︑さりとて新しい神概念を見出すことはでき. ヤハウェ神がイスラエル民族だけの守護神であることの証左とし. 心の問題であるから潜伏可能であり︑結局は実現不可能となる︒日. 妄信・邪信レベルのものもあろうし︑逆に今なお畏怖や信仰の対象. ては︑﹁あなたの神︑主があなたに渡される諸国民の民をことごと. 本の場合︑明治憲法︵1−大日本帝国憲法︶と昭和憲法︵u日本国憲. ないのであろうが︑彼等の思い求める神は﹁天地創造神﹂でもなけ. く滅ぼし︑彼らに憐れみをかけてはならない﹂一申命記七・16一とい. 法一で﹁信教の白由﹂がうたわれていることは︑その辺の事情を勘. となるに値するものもあろう︒そのいずれにせよ︑人類のみが持つ. う神白身の偏愛の言葉をあげるだけで充分であろう︒一方イエスの. 案したうえでの決定であったと思われる︒秀吉や江戸幕府によるキ. れば︑イスラエル民族の守護神以上であるとは思われないヤハウェ. 信奉される神は﹁悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ︑. リシタン禁止令︑幕末における天理教や金光教などの新宗教への弾. といわれるこの感性は一種の本能であるから︑外部からの圧力や命. 正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる⁝⁝﹂一マタイ. 圧・差別がひきおこした数々の不都合な側面に対する反省が︑明治. 神でもなくなっているのが現実ではないのか︒. 伝五・45一といわれる普遍愛の神なのである︒イエスはヤハウェ神. 憲法︵明治二十二年公布︶の条文に結晶したものと思われる︒労を. 明治憲法第二十八条. いとわず引用してみる︒. の偏愛性を意識しつつ︑この言葉を述べられた確率がきわめて高い. ことは︑その前後の文脈からして明らかである︒そのことからも︑. い神学の誕生がのぞまれるのである︒神が同一で契約だけが異な. 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於. イエスのいわれる﹁父なる神﹂についての的確な概念を持つ︑新し. る︑という従来の解釈では聖職者自身が納得しなくなつているので. テ信教ノ自由ヲ有ス. 句は明治憲法において初めて用いられた法律用語のようで︑現在の. ﹁信教﹂という句の意味が筆者には分かりかねるからである︒この. ののようである︒﹁ようである﹂という推理でしか一一一一目えないのは︑. かぎりは︑﹁何を信じようと自由である﹂ことを国家が保障したも. 右は︑人が安寧秩序を妨げず︑また臣民としての義務に背かない. ある︒. 第一章人は何を信じてもよいのか 1殺人や器物損壊を正当化する教義を信じたら どうなるのか 人類は太古の昔から心を強く打つものなどを畏怖し︑信じ︑ 仰い.

(6) の﹁レリジョン﹂がもつ﹁熱烈に信奉する信条﹂﹁主義﹂﹁後生大事. る︒﹁信教﹂の﹁教﹂が﹁宗教﹂を意味するのか︑それとも西洋語. いからなのではないか︑という思いを筆者は払拭できないのであ. であるといえる︒それは︑この句の意味が不明確で国民になじまな. 宗教界ですら︑憲法がらみで用いる時以外は用いられることが絶無. 重要なこと﹂であり︑﹁レリジョン﹂は﹁人間にとって最も根本的. 神は絶対者であり︑絶対者の啓典に従うことは信者にとって﹁最も. の書である啓典に従うことが﹁レリジョン﹂であった︒その場合︑. ン﹂という場合︑神の実在が一大前提となっていて︑その神の啓示. 解釈﹂として受けとめられてきている︒つまり西洋で﹁レリジョ. やトマス・アクィナス︵嵩曽−曽盧︶によって支持され︑﹁正統的. ところが十七世紀−十八世紀のイギリスに拾頭したジョン・ロッ. に考えていること﹂などの広い意味をもこめて用いられているのか. を妨げるような教義を持たない︑一定レベル以上の教義をもつ信仰. ク︵畠竃−ミS︶やデビッド・ヒューム︵ミ旨ーミぎ︶などの経. な尊い教え﹂というべき意味をもつことになる︵その意味では︑後. 内容なら︑どんなものであろうと信じてもよい﹂という意味なのか. 験論者によって︑﹁レリジョン﹂に柔軟性をもたせる寛容な姿勢が. が不明確なのである︒従って︑﹁迷信・妄信・邪信などをも含め何. が不明なのである︒このことは︑西洋の次のような状況と似ている. 生まれ︑宗教界がもつ閉鎖性が打破されていった︒デカルト︑ライ. に述べる漢字の﹁宗教﹂と近似の意味をもっている︶︒. し︑あるいは西洋のその状況を勘案した上での用語であったのかも. プニッツ︑カントらが合理主義を説き︑理性的思惟が認識過程を積. を信じようと自由である﹂という意味なのか︑それとも﹁安寧秩序. しれない︒. ストを通じて再び神に緒びつく﹂という意味を﹁レリジョン﹂の中. 神に結びついていた人間がいったん神から離れたが︑イエス・キリ. 教の考えを体系化しようと試みた最初のひとりであり︑﹁もともと. つを結びつける﹂の意とされている︒ラクタンティウスはキリスト. ラクタンティウス︵>.U︒覇oI声貝竃望︶の説で﹁結び上げる︑二. 説で﹁再び読んだり思索したりすること﹂の意とされ︑他の一つは. 説がある︒その一つは古代ローマのキケロ︵甲ρ−雇. 甲oお︶の. 西洋語の﹁レリジョン﹂の語源は必ずしも明確ではなく︑二つの. が︑経験論ではそれが否定されるのである︒経験論では︑経験に先. をもとに特殊なものの認識に達せんとする演緯的思考が好まれる. を見出すことは出来ないと主張した︒合理主義の場合︑普遍的原理. のみ可能なのであり︑現象事例観察の結果から事物間に不変的結合. する推論は人間の知識を作りあげているが︑それらは経験によって. ヒュームはそれを全面的に否定する︒原因・結果という因果律に関. 原因として完全な実在として存在しなければならない﹂としたが︑. 体例をあげてみよう︒デカルトは神の証明を求め﹁神はわれわれの. いものは原則として悟性には存在しえないと主張して対立した︒具. 極的に構成すると主張するのに対し︑彼等経験論者は感官に存しな. から汲みとったのであり︑彼の説はアウグスティヌス︵ω邊−おo︶.

(7) 「神の義」か「人間の理性」か(一〕 巧. されることになり︑﹁レリジョン﹂の概念は大きく変わっていく︒. 適用しようとするのである︒その場合︑﹁初めに神ありき﹂は否定. 行する形而上学的命題を否定し︑観察的・白然科学的思考を認識に. 動様式の白由﹂という意味であるなら︑人間の心の自由を幅広く認. は先にこの句の意味が分かりかねると述べたのであるが︑もし﹁行. 全ての宗教もしくは信仰を意味するのかが明らかでないため︑筆者. 場合の﹁レリジョン﹂も︑神の存在は一大前提ではなくなる︒﹁エ. とであり︑それが﹁レリジョン﹂であると提唱したのである︒その. とは︑人間の行動を意識的・無意識的に突きうごかす行動様式のこ. ものに対しては︑その自由が憲法ではうたわれていなかったことに. ﹁宗教﹂の定義がなされなければならないし︑﹁宗教的宗教﹂以外の. じること﹂という意味に限定されていたのだとしたら︑あらためて. 矛盾することになる︒一方︑もしその﹁信教﹂が﹁宗教的宗教を信. めたことになる︒だがそれなら︑明治・大正・昭和前半の政府が共. トス﹂は英語の9巨Oと語源を一にしているため︑正・不正の判断. なる︒その場合︑例えば儒教や道教などを宗教と考えない人々もい. 一方十九世紀に入ると︑ドイツのマックス・ウェーバー︵−o︒震−. を根底にした命令や禁止などを含む倫理道徳的な意味をも持つが︑. るので︑それらに対する扱いが微妙になってくるし︑新宗教に対す. 産主義や特定の宗教団体に対して弾圧を加えた歴史的事実と憲法が. そればかりではなく︑倫理道徳とは無関係の習慣や風俗などをも意. る弾圧もそのためであったのだろうか︑という疑問も出てくる︒明. 一竃O︶は﹁レリジョン﹂を﹁エトス﹂︵宰Oω︶と定義した︒エトス. 味している︒そのため︑政治イデオロギーや日常的習慣などまでも. 治憲法の場合︑昭和憲法とは違って︑﹁思想及び良心の自由﹂や. 昭和憲法第二十条. か︒引用してみよう︒. は判断に困る場合があったと思われる︒では昭和憲法はどうなの. ﹁学問の自由﹂に対する保障がうたわれていなかったので︑当事者. が入ることとなり︑結果として﹁レリジョン﹂を﹁エトス﹂︵1−行. 動様式︶として解釈することになったわけである︒その場合︑毎日 散歩することを規則としている人にとって︑それも﹁レリジョン﹂ ︵HエトスH行動様式︶になるということである︒それは︑神を一. 的宗教﹂と呼ばれることがある︒以上のように西洋語の﹁レリジョ. 信教の白由は︑何人に対してもこれを保障する︒いかなる宗教団. 大前提とした宗教が﹁宗教的宗教﹂といわれるのに対して︑﹁世俗. ン﹂には複雑な意味があるため︑簡単に定義することは不可能なの. 体も︑国から特権を受け︑又は政治上の権力を行使してはならな. 強要されない︒. ②何人も︑宗教上の行為︑祝典︑儀式又は行事に参加することを. い︒. である︒. さて︑明治憲法の﹁信教の自由﹂の﹁信教﹂が︑﹁宗教的宗教﹂ を信じることを意味するのか︑それとも﹁世俗的宗教﹂をも含めた.

(8) μ. はならない︒. ③国及びその機関は︑ 宗教教育その他いかなる宗教的活動もして. をひきおこすことは︑この百年間における日本の宗教界の様相がよ. 大転用した誤用は︑ミソとドロの区別が出来ないことと同様の混乱. く示している︒. ﹃入楊伽経﹄を漢訳するに際して﹁宗﹂と意訳するようになったと. サンスクリット語の﹁シッダーンタ﹂︵ω巨彗罫亘︵1−成就され. 直後に﹁宗教団体﹂﹁宗教上の行為﹂﹁宗教教育﹂という三つの句が. いう歴史的経緯がある︒漢字の﹁宗﹂には﹁いちばんだいじなとこ. ここでも﹁信教﹂という句が用いられているので︑明治憲法の場. 登場するので︑﹁信教﹂という句は﹁宗教を信じること﹂の意味と. ろ﹂﹁おおもと﹂﹁たっとい﹂などの意味があるので︑﹁宗教﹂は適. た極地︶を︑中国では初め﹁悉檀﹂︵しっだん︶と音訳していたが︑. して用いられているのであろうという推理がうかび︑迷路に入った. 切な意訳であったといえる︒つまり﹁シッダーンタの教え﹂が宗教. 合と同様に︑﹁信教﹂の意味をめぐって迷路に入りそうになるが︑. という思いはしないですむ︒だが﹁それなら︑なぜ︿宗﹀という語を. であり︑それは釈尊など真に偉大な人物の悟りの内容を意味するの. 根本の教え﹂という意味でのみ用い得ることになる︒このように漢. 省いたのか﹂﹁その宗教は宗教的宗教のみなのか︑世俗的宗教をも. 現在の日本には﹁宗教﹂に対する定まった定義は存在しない︒一. であるから︑﹁宗教﹂は﹁悟りを根底にもつ︑人生に関する高度な. 九五一年に当時の文部省調査局宗務課から出された﹃宗教の定義を. どは入り得ないことが明らかとなる︒そして︑ラクタンティウス︑. 字の﹁宗教﹂誕生の経緯をたどると︑そこには迷信・妄信・邪信な. 含むのか﹂﹁宗教とは何か﹂などの疑問が浮かぶ︒. めぐる諸間題﹄と題する小冊子には東西の著名人百四名による定義. 一方︑﹁信仰﹂という句は高度な. アウグスティヌス︑トマス・アクィナスなどによって支持された. 般的には︑迷信・妄信・邪信などをも含めた信仰上の全ての教義を. ものにも低俗なものにも通用しうる. が収録されているが︑そのこと白体が国民総意の統一された定義も. 意味するものとして用いられているのが現状である︒﹁オウム真理. 句である︒そして一般的には﹁宗. ﹁レリジョン﹂の意味と近似であることも明白となる︒. 教﹂﹁法の華﹂﹁ライフ・スペース﹂などの団体が宗教団体として扱. 教﹂と﹁信仰﹂が混同されているの. しくは国家による定義が存在しないことを証明している︒しかし一. われていた事実が︑それを証明している︒しかし﹁宗教﹂という句. で︑整理する試みがなされるべきで. あろう︒筆者の試みを次に記してみ. 信仰. 味を知らないところから始まった誤用である︒本来この句は︑高度. る︒. をそのようなレベルのものにまで用いることは︑この句の本来の意 な教えだけに適用されるものであったのであり︑それを知らずに拡.

(9) 「神の義」か「人間の理性」か(一) 巧. はあり得ず︑そこにはまった人を時には蟻地獄のように苦しめる︒. び得るのはAの正信だけであり︑Bは信仰ではあっても﹁宗教﹂で. Bとでは次元が全く異る︒﹁宗教﹂︵H成就された極地の教え︶と呼. ﹁信仰﹂は前頁の図のA・B両者に適用しうる句であるが︑Aと. 示しているように思われるからである︒また昭和憲法の場合︑国及. し︑心の問題であるから自由である生言わざるを得なかった事情を. 信仰内容を信じようと︑○○さえクリアーしていれば実害はない. ノ自由ヲ有ス﹂とことわっているのは︑レベルがそれほど高くない. わざ﹁安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教. ないレベルの信仰教育や特定の宗教の宣伝教育を意味しているから. AとBは共に人問の心に強いエネルギーではたらきかけるが︑Aの. がある︒﹁信仰﹂は人の心と行動を左右するので︑﹁行動様式﹂に近. であろう︑と考えられるからである︒つまり両憲法でいわんとして. びその機関が宗教教育をおこなうことを禁止しているのは︑その. い意味をもつが︑内容が正信か否かで大きな差が出てくることは否. いることは︑心の中で迷信・妄信・邪信などを信じようと︑犯罪と. 場合はプラスに作用し︑人は限りなく向上することが出来るのに対. 定できない︒正信か否かを定める具体的な線引きはきわめて困難で. 結びつかない限りは禁止できないし︑個人の心の問題であるから白. ﹁宗教教育﹂が高度で重要な根本的教育ではなく︑あまり重要では. あろうが︑一般論として右のようなワクを設定してみることは︑五. 由を保障せざるを得なかったという消極的理由からであったと思わ. し︑Bの場合はマイナスに作用し︑破壊・排他・独善へと向う場合. 里霧中にあって取り返しのつかない世界へと陥って後に悔いる人々. れる︒. ところで︑人は或る信仰を持つと︑それを絶対視して執着し︑か. にとっては︑有効な指針となるはずである︒﹁民間信仰をあなどる べきではない﹂という人々がいるし︑筆者もそれを無視してはいな. い︒だが︑その排他性こそ信教に伴う最大の難点なのである︒﹁心. つそれに捉われ︑それ以外のものを否定・排斥せんとする側面が出. ところで明治と昭和の両憲法でうたわれている﹁信教の自由﹂. の自由の保障﹂︵1−信教の白由︶は万人が歓迎することではあろう. い︒ただし民問信仰にも︑Aに属するものとBに属するものがあろ. は︑どうやらあらゆる信仰教義にあてはまるものとして用いられて. が︑白由を保障された心が作り出す信仰上の教義が︑信者をして一. てくる場合があり︑宗教戦争はその典型例である︒両憲法は﹁信教. いるように思われる︒そして﹁宗教団体﹂﹁宗教上の行為﹂﹁宗教教. 般社会や他宗教社会にとって破壊活動となる行動をさせ︑しかもそ. う︒あるいは︑A・Bのいずれにも属さず︑慣習的なものとして心. 育﹂などの句で用いられている﹁宗教﹂という句は︑本来の高度な. れを正当槻する﹁神の命令﹂という視座をも備えているとなると︑. の白由﹂を保障しはしたが︑信仰に伴う排他性にまでは触れていな. 意味としてではなく︑全てのレベルの﹁信仰﹂ていどの意味として. 問題は全く別となる︒﹁それも自由﹂とばかりは言っておれない状. の慰籍となっているものもあろう︒. 用いられているように思われる︒なぜなら︑明治憲法の場合はわざ.

(10) 兆. 況が出てくるからである︒﹁人間の理性﹂を超えた﹁神の命令﹂を. ー︶に変換し得るものでなければならないという結論に至る︒一共. 代・宗際時代の神学︵セオロギー︶は︑人間学︵アントロポロギ. ^注︺. 受けて行動がなされたとき︑人間の理性からは﹁狂﹂としか見えな. と発展していくケースが多い︒﹁他宗教に対して寛容であれ﹂とい. されることになり︑対他国となればお墨付きをもらった宗教戦争へ. る︒同一国家内でそれに対する批判が出ても︑国家権力で逆に弾圧. の行為は﹁神の命令﹂によるという理由から正当化される場合があ. 物損壊が正当化されることはないが︑政教一致国家の場合︑それら. 政教分離国家の場合︑宗教界で発生したものであろうと殺人や器. の執着は︑文盲の人だけではなく︑先端科学技術を修得した高い教. ルな知の枠組の構築こそ急務となる︒数千年前に構築された教義へ. が無制限の紛争を誘発しているのが現実であるとしたら︑グローバ. べきであろう︒他宗教には通用しない複数の﹁義﹂と﹁義﹂の衝突. る︒国際社会では︑人間学に変換し得ない神学は危険となるという. ではなく︑複数の﹁神の義﹂に捉われた結果の戦争であることにな. の神がいることを意味するし︑宗教戦争は人間の理性や信念の争い. 同体に通用する﹁神の義﹂が他の共同体に通用しないことは︑複数. うスローガンはきこえはよいが︑相手国の国運がおびやかされる状. 養を持つ人々をも﹁狂﹂へと駆りたてることは︑アルカイダのモハ. い現象があらわれるからである︒. 況にあっては意味をなさない︒大勢力をもつ宗教団体の教義に時代. メド・アタ等のテロ行動が示している︒. ところでユダヤ系一神教のうち︑キリスト教とイスラムの母体は. 錯誤的なものがあれば︑一触即発で国際紛争が生じ︑人類終焉の可 能性もあることは︑﹁9・11事件﹂を含む昨今の国際状況が明示し. あるとする論法が一神教にはある︒﹁義﹂とは︑一般に言われてい. ところで︑人間には﹁狂﹂に見えても︑神側からすれば﹁義﹂で. 姉妹宗教といわれる三宗教を融和させるのではなく︑逆に互いに敵. ト教とイスラムに影をおとしていはしないか︒しかもその特性が︑. した排他性やカルト性があることは知られているが︑それがキリス. ユダヤ教であるとされている︒そのユダヤ教には選民思想を基調と. る﹁正義﹂の﹁義﹂のことではない︒それは﹁神の命令はいかに理. 対視させる結果となっているのが現実である︒. ている︒. 不尽なものに見えようと︑それに百パーセント従って行動するこ と﹂を意味している︒神の命令を受けて息子イサクを殺そうとした アブラハムの絶対服従の心が︑神にいわせれば﹁義﹂なのである︒. だが︑複数の宗教でいう﹁義﹂がそれぞれ異なるとしたら︑その ﹁義﹂に普遍性や客観性があるとは思えない︒一神教間の宗教戦争. は﹁義﹂と﹁義﹂の衝突なのである︒これに気付いた時︑国際時. 本的には守ってきたのである︒人間には﹁良心﹂があるといわれるが︑そ. 筆者がここで用いている﹁人間の理性﹂は︑﹁全人類に初めから共通し て内在する判断基準﹂ほどの意味である︒例えば︑﹁殺すなかれ﹂という 戒は︑神から命令されずとも全人類には共通して初めから内在する戒であ ればこそ︑神を立てない仏教でもうたわれ︑また原始の時代から人々は基. 注.

(11) 「神の義」か「人間の理性」か(一〕 η. の良心はこの﹁人間の理性﹂から生まれるといえる︒人がこの理性に基づ いて行動するなら︑理性は全人類共通であるため︑基本的には﹁殺し﹂は 生じない︒だが神の命令に従い︑神から﹁義﹂とされることを願って行動 する時︑﹁人間の理性﹂が失われて﹁殺し﹂が発生することは︑神の命令 を受けて周辺の異民族を皆殺しにしたモーゼの従者ヌンの子ヨシュアの事 例が証明している︒﹁殺すなかれ﹂を﹁十戒﹂の一つとして授けた神が︑ ヨシュアには﹁殺し﹂を命令した結果︑ヨシュアは理性を捨てたというこ とができる︒もし﹁殺し﹂を避けたいものなら︑神の命令には従わず﹁人 間の理性﹂︵■良心︶に従うべきである︑という発想の転換が必要となる︒ その具体例を現在のイスラエルに見てみよう︒ イスラエル軍の予備役兵士らの間で︑パレスチナ人居住地区のヨルダン 川西岸とガザでの軍務を拒否する運動が広がりを見せていることが報道さ れている︵朝日新聞︑二〇〇二年二月六日朝刊六面︶︒軍務拒否の根拠は. ﹁命令が上官からのものであろうと︑違法であると思ったら従うべきでは ない﹂という軍法の規定である︒五六年にアラブ人の村で村人五十名がイ スラエル兵に虐殺された事件の軍法会議の裁定が根拠の一つになつてい る︒軍法会議の席で︑当兵士が﹁上官の命令に従って行動し虐殺しただけ だ﹂と主張したが︑裁定は﹁命令があっても兵士は良心の声に従わねばな らない﹂という理由から有罪判決を下したのである︒. 兵士にとって︑上官の命令は﹁神の命令﹂に等しい︒従わなければ白分 の命が保証されないし︑もともと軍隊というところは︑命令への絶対服従 の上に成立するものであるからである︒しかし軍法会議の裁決は﹁命令が あつても兵士は良心の声に従わねばならない﹂し︑従って殺すべきではな かったというのである︒﹁良心の声﹂は﹁人間の理性の声﹂である︒神の 命令に等しい上官の命令よりは︑﹁人間の理性﹂の声に従うべきであると いうのが軍法会議の判決である︒この判決の主旨に従って軍務拒否をする. 予備兵士が急増していることに軍当局が動揺しているというのだが︑ユダ ヤ教の本拠地であり︑政教一致でこそ一九四八年に建国し得たイスラエル 国におけるこの事件は︑神の概念の転換をせまるものといえる︒. 第二章. 各宗教は︑白教の矛盾や時代錯誤を. 検討すべき時期にきている. 一九九〇年代に入ったころから﹁二十一世紀は宗教問題がクロー. ズアップされる世紀となるだろう﹂という声が聞かれるようになっ. ていたが︑予言通りというべきか︑二十一世紀元年の三月︑アフガ. ニスタンを実効支配していたイスラム原理主義勢力﹁タリバーン﹂. ︵タリフの複数形で︑神学生達の意︶が︑バーミアンの岩山に掘ら. れた世界文化遺産の大仏像を︑それがイスラムで禁止されている. ﹁偶像﹂であるという理由から破壊し︑イスラム穏健派の人々を含 む世界中の識者から批難された︒. また同年九月一一日には︑ニューヨークの世界貿易センタービル. と首都ワシントンのペンタゴンが︑同じくイスラム過激派組織﹁ア. ルカイダ﹂︵アラビア語で基地の意︶による同時多発白爆テロによ って破壊された︒. 前者の件であるが︑イスラム圏では偶像の制作・礼拝は共に禁止. されている︒それはムハンマドの先例︵詳細は後述一によるものであ. る︒そして仏教は偶像を制作・礼拝する宗教という理由から︑イス. ラム圏では基本的に信仰が禁止されている︒だが矛盾しているの. は︑キリスト教ではキリスト像・マリア像など多数の偶像を制作・. 礼拝しているにも拘らず︑イスラム圏ではその信仰が禁止されてい ないことである︒. ところで仏教の場合であるが︑仏像礼拝を偶像崇拝とみなすこと.

(12) 挑. がそもそもの誤解である︒仏像は︑木仏・金仏・石仏そのものを礼. タリバーンとアルカイダの暴挙の根にある教義は﹁偶像禁止﹂と. 壊性・排他性・独断性にもとづく﹁報復﹂論理があるとみられる︒. すでにあって︑それがイスラムに引きつがれたと見ることができ. 拝・崇拝するために存在しているわけではない︒仏像は︑それが象 間に内在する﹁願い﹂と逆対応的に位置している︶への礼拝や感謝. る︒﹁十戒﹂の偶像禁止は︑ムハンマドの﹁スンナ﹂︵11先例︶に引. ﹁報復﹂であるが︑この根はユダヤ教の﹁モーゼの十戒﹂の第二に. をあらわすよすがとしての存在である︒信者にとっての重要性とい. きつがれたとみることもできる︒﹁十戒﹂の第二を引用してみよう︒. 徴する﹁宇宙の法性﹂と﹁法性に内在する本願﹂︵その本願は︑人. う点では︑ムスリムにとってのメッカのカーバ神殿に安置されてい. こそないが︑形ある点でも︑信者から礼拝されている点でも︑仏像. とも伝えられ︑隈石といわれている︶に匹敵しよう︒黒石は偶像で. り︑また地の下の水の中にある︒いかなるものの形も造ってはな. たはいかなる像も造ってはならない︒上は天にあり︑下は地にあ. あなたには︑わたしをおいてほかに神があってはならない︒あな. る﹁聖なる黒石﹂︵アダムが楽園を追放されたとき持ってきたもの. の場合と大同小異である︒巡礼者は黒石に口づけまでするのだが︑. らない︒あなたはそれらに向かってひれ伏したり︑それらに仕え. い神である︒わたしを否む者には︑父祖の罪を子孫に三代︑四代. 仏像礼拝が否定されるのに対し︑それへの礼拝・口づけが肯定され. 黒石が否定・攻撃対象となったならムスリムが抱くであろう怒り. までも問うが︑わたしを愛し︑わたしの戒めを守る者には︑幾干. たりしてはならない︒わたしは主︑あなたの神︒わたしは嫉妬深. や悲しみを︑今回仏教徒は味わわされたのである︒もし他の某宗教. 代にも及ぶ慈しみを与える︒一出エジプト記二〇・3−6一. る客観的根拠はあるとは思えない︒. の偶像が対象となっていたらどうなっていただろうか︒仏教には ﹁報復﹂という概念がなかったことは︑全世界にとって僥倖であっ. 次にアメリカが同時多発自爆テロの対象になった事件であるが︑. はないということである︒まず﹁わたしをおいてほかに神があって. 的に伝えた他律戒の言葉であり︑民衆から生じた内発的な自律戒で. 初めに確認しなければならないことは︑これは神がモーゼに一方. アメリカの中東問題関与における不公平さへの不満が誘発したもの. はならない﹂に排他性がみられ︑﹁わたし﹂が絶対者であることの. たというべきであろう︒. だと報じられている︒アメリカがイスラエル寄り路線をとりつづけ. 客観的証拠を示さぬままに自己を示威する姿勢に高圧性がみられ︑. 神である︒わたしを否む者には︑父祖の罪を子孫に三代︑四代まで. ﹁わたしは主︑あなたの神﹂には独断性があり︑﹁わたしは嫉妬深い. てきたことは︑多くの識者が認める客観的事実であるにしても︑ア ルカイダが採る無差別テロ一犠牲者の中には多くのムスリムがいた. と報道されている︶の背後には︑ユダヤ系一神教特有の高圧性・破.

(13) 「神の義」か「人問の理性」か(一〕 η. モーゼから聞かされるなら︑民衆は畏怖と恐怖の混ざった精神状態. も問う⁝⁝﹂には高圧性・破壊性がみられる︒神のこれらの言葉を. 宗教の神は同一の天地創造神ということになる︒. である︒以上のことから︑少くともイスラムの発想からすれば︑. となって従わざるを得ず︑堅固なヤハウェ共同体が結成されていく のは自然であろう︒そして︑神のそのような姿勢を聞かされて成長. する者には︑そのような性質が理想として映り︑人々にもその性質 がひきつがれ︑一触即発的にそれが﹁義﹂に適うこととして実践さ れることは必須であろう︒. もっとも﹁ムハンマドはヒジュラ︵メッカからメディナヘの移住︶後ま. のを﹃コーラン﹄として彼に授けたというのである︒もし他の啓典. 後の項言者としてアラブの民に遣わし︑先だった啓典を訂正したも. ろいろの民族にそれぞれの啓示をくだしてきたが︑ムハンマドを最. ⊂昌昌苧ぎ冨げが一枚の石板という形で実在し︑それをもとに神はい. 書﹄や﹃新約聖書﹄や﹃コーラン﹄などの原典である﹃啓典の母﹄. るのが見えてくる︒具体的にいうなら︑天の神のそばには﹃旧約聖. かなくユダヤ教を凌駕していると見える根源的状況が設定されてい. がちであるが︑;一章三九節を読むと︑イスラムにはイスラムにし. やイヴまで登場するので︑一見﹁模倣の宗教?﹂という印象を受け. 教の教典から多くの事項を﹃コーラン﹄へと引用している︒アダム. 教の伝統を引き継いでいることを公言し誇りにもしていて︑ユダヤ. ている︒西暦六一〇年にイスラムを創唱したムハンマドは︑ユダヤ. 発想からすれば︑両宗教の神は同一の天地創造神ということになっ. ウェ﹂と﹁アッラー﹂で異なっている︒しかし少くともイスラムの. ムによれば︑アブラハムは啓示の書こそ授からなかったが︑﹁真の. し︑これをアッラーに住み家として献上したとされている︒イスラ. ﹁立方﹂を意味し︑この神殿はイスラムの最も神聖な神殿︶を建立. ルと一緒にメッカに行き︑イシュマエルとカーバ神殿︵カーバ・は. は奴隷女とされてはいず︑アブラハムは妻ハガルや息子イシュマエ. エルは追放されたことになっている︒だがイスラムの場合︑ハガル. ラが九十才の時︑二人の間にイサクが授かると︑ハガルとイシュマ. の時アブラハムは八十六才︶︒そして後に︑アブラハムが百才でサ. ラハムの側女とし︑イシュマエルを産ませたことになっている︵こ. め︑サラの発案でサラがかかえるエジプト人の奴隷女ハガルをアブ. 場合︑アブラハムと妻サラの間にいつまでも子供が授からないた. 扱う扱い方は︑ユダヤ教での扱い方とはかなり異なる︒ユダヤ教の. という︒ただし︑イスラムがアブラハムとその息子イシュマエルを. ユダヤ人の始祖とされているアブラハムはアラブ人の始祖でもある. ところで両宗教の共通点は神だけでない︒ムハンマドによれば︑. ⊂冒昌芭−ξ国ずがムハンマドの作り話であるとする推理もある︒. もなく︑ユダヤ教徒との論争の過程で︑律法と誠命とを記したラウフ︵石 板︶のことを知り︑﹃コーラン﹂の原本として﹁啓典の母﹂という観念を もった﹂︵中央公論社﹃コーラン﹄二五一頁︶ともいわれてきているので︑. との間に矛盾があるならば︑﹃コーラン﹄の記述が正しいというの. ところでユダヤ教とイスラムは別宗教であり︑神の表記も﹁ヤハ. 注.

(14) であったとする︒そしてイスラムの創唱者ムハンマドはアブラハム. とイスラムにおいて遵守されているのであるが︑少くとも﹁十戒﹂. 破壊が誘発されたといえる︒偶像崇拝禁止は︑このようにユダヤ教. 一﹃イスラム事典﹂一六一二頁一という先例があるため︑タリバーンの大仏. の宗教を復活させたのであり︑彼が授かった﹃コーラン﹄は︑それ. を注意深く読むと︑広狭の二つの解釈が可能であることが見えてく. 宗教の信徒﹂︵1ーハニーフ︶である﹁イスラム信者﹂︵Hムスリム︶. に先立つ啓示の書﹃旧約聖書﹄や﹃新約聖書﹄の誤りを正したもの る︒. 広義←自宗教の神の像をも含め︑いかなる像であろうと造って. というのである︒. 話を元に戻そう︒﹃モーゼ五書﹂の中で︑ヤハウェ神は偶像制作. 礼拝することを禁じているとする解釈で︑ユダヤ教とイスラ. ︑. や礼拝を厳禁しているが︑﹃コーラン﹄でもそれを引き継いだ結果. ︑. ムがその解釈を採って実践している︒ ︑. ︑. 狭義←﹁モーゼの十戒﹂には﹁それらに向かってひれ伏したり︑. ︑. であろうか︑それは最も重い罪として禁止されている︒人間の手に. なる被造物にすぎない偶像を礼拝することは本末顛倒であるという. は︑イスラムのこの発想に基づくものである︒この事件について︑. 対象の中には白宗教の神像は入っていないとする解釈であ. その偶像は複数であることが分かる︒そのことから︑禁止の. それらに仕えたりしてはならない﹂と記述されているので︑. イスラムの穏健派の人々は︑イスラムは他宗教と共存する宗教であ. る︒キリスト教はこの解釈を採り︑イエス・キリスト像︑マ. ︑. ると言い︑破壊行為をすすめる教えは﹃コーラン﹄に説かれてはい. リア像︑その他の聖者像を制作・礼拝している︒. 理由からである︒タリバーンがバーミヤンの大仏を破壊したこと. ないと弁明している︒だがイスラム法の古典理論でいう法源︵Hウ. コーラン︵神による啓示の書・根本聖典︶. する宇宙の法性と︑法性に内在する本願への礼拝・感謝をあらわす. とはない︒なぜなら︑先にも述べたように︑仏像はその仏像が象徴. 右の広義と狭義のいずれに立とうと︑仏像破壊が正当化されるこ. スンナ︵先例・範例︶. よすがとしての存在であるからである︒. スール︶には. イジュマー︵共同体の合意︶. ところで仏教の場合︑教義そのもののなかに排他性がないので︑. 国際間で摩擦をおこすことは基本的にはあり得ないが︑一神教の場. キャース︵類推︶. の四つがあるが︑そのうちの﹁スンナ﹂はムハンマドの先例・範例. 合は﹁偶像禁止﹂の場合のように︑﹁神の命令﹂の;一口で破壊活動. ののなかにあるといえる︒一神教の信者同士がその共同体内で戒律. がおこなわれるので︑国際間・宗教間の摩擦は初めから教義そのも. を意味していて︑ムスリムはムハンマドの先例を価値判断の規準の 一つとしている︒﹁ムハンマドはメッカ征服の時︑カーバの周りに. 置かれていた偶像の目を弓の先で打った後に撤去・破壊させた﹂.

(15) 「神の義」か「人間の理性」か(一一) 那. る二つの一神教が対立すれば︑真の和解がくることはきわめて困難. ると直ちに摩擦が噴出することは歴史が証明している︒教義が異な. で︑人権侵害などの問題が多発しているが︶︑対他宗教共同体とな. を遵守しながら厳格に生きる場合はともかく︵実際には︑共同体内. アは実行している︒その戦勝の記録が﹁ヨシュア記﹂である︒そ. 先々の異民族を皆殺しにするよう命じ︑その命令を受けたヨシュ. ラエル人の領土として与えることを約束し︑必要とあらば行く. のヘト人の全地を含め︑太陽の沈む大海に至るまでの土地をイス. 川を渡るよう告げ︑レバノン山を越えユーフラテス河に至るまで. 一生の間︑あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう︒わ. の時︑神は次のように言っている︒. となる︒それぞれが信奉する神の命令を﹁絶対﹂とし︑神から ﹁義﹂とされるべく自宗教の論理を貫くなら︑﹁折衷﹂は基本的には. 有り得ないからである︒一神教の場合︑人は﹁人間の理性﹂で行動 するのではなく︑理由が分からずとも神から与えられている﹁神の. 間に紛争が生じる確率がきわめて高くなろう︒そもそも︑異民族を. する神であるなら︑どういうことになるのだろうか︒二っの民族の. 視することは白由であることになるのだが︑その神が異民族を差別. ところで﹁信教の白由﹂を保障されている場合︑信じる神を絶対. 法の書をあなたの口から離すことなく︑昼も夜も口ずさみ︑そこ. らない︒そうすれば︑あなたはどこに行っても成功する︒この律. ーゼが命じた律法をすべて忠実に守り︑右にも左にもそれてはな. せる者である︒ただ強く︑大いに雄々しくあって︑わたしの僕モ. たは︑わたしが先祖たちに与えると誓った土地を︑この民に継が. たしはモーゼと共にいたように︑あなたと共にいる︒あなたを見. 差別する神は︑宇宙唯一絶対神でもなければ天地創造神でもないと. に書かれていることをすべて忠実に守りなさい︒そうすれば︑あ. 命令﹂で行動するのだが︑それが国際時代・宗際時代における最大. 考えるのが現代の﹁知性﹂であろう︒その現代の﹁知性﹂と背反す. なたは︑その行く先々で栄え成功する︒わたしは︑強く雄々しく. 放すことも︑見捨てることもしない︒強く︑雄々しくあれ︒あな. る﹁神による排他﹂は︑ユダヤ系一神教の元祖であるユダヤ教には. あれと命じたではないか︒うろたえてはならない︒おののいては. の障害になっているといえる︒. 初めから組みこまれていて︑信者には今も通用しているのである︒. ならない︒あなたがどこに行ってもあなたの神︑主は共にいる︒ ︵ヨシュア記一・5−9︶. 数 例 だ け を 引 用 してみよう︒. ○アブラハムにあらわれた神は︑カナンの地に住む異民族を追放. 注. 神はヘト人の全地をもイスラエル人に与えると告げているが︑そのヘト 人というのは︑アブラハムが妻サラを埋葬する時に墓地用の土地をゆずっ て欲しいと頼んだところ︑こころよく提供してくれた人々であることが︑. し︑そこをイスラエルの民に与える契約を緒んでいる︒一創世記一 五・18−21︶. ○モーゼの死後︑神はモーゼの従者ヌンの子ヨシュアにヨルダン.

(16) 弘. ﹁創世記二一二・u 20﹂に記されている︒神は︑イスラエル人にとつて ﹁恩人﹂ともいうべきヘト人の土地をもイスラエル人に与えたことになる︒. 右は異民族の土地を奪い取るためには︑モーゼが命じた律法をす べて忠実に守り︑おののきおそれることなく前進せよという神の激 励の言葉である︒しかも﹁どこに行ってもあなたの神︑主は共にい る﹂という援護の言葉までついている︒そのような一一一日葉を聞けば︑. その民族の士気が高まり﹁向うところ敵なし﹂の力を発揮すること. は想像にかたくない︒また︑﹁モーゼが命じた律法をすべて忠実に 守り︑右にも左にもそれてはならない﹂という神の言葉からも︑ユ. ダヤ教の神の律法はユダヤ人だけのための律法であることは明白で. ある︒現在のイスラエルとパレスチナの︑領土権をめぐる紛争を妨 佛させる﹃旧約﹄の事件をめぐっての神の異民族差別的な言葉を︑. 同じ神を信じるムスリム︵パレスチナ人の八割はムスリムであると いわれる︶はどのように解釈するのだろうか︒﹃旧約﹄という啓典 が誤っているというのだろうか︒だが︑﹃旧約﹄と﹃新約﹄の二つ. を﹃コーラン﹄より低いとみなすイスラムの論法に客観性があるの だろうか︒そこには別の排他性がないだろうか︒その論法の中に︑ ユダヤ教やキリスト教への差別意識や挑戦意識を汲みとる識者は少 なくない︒. ○ユダヤ教には食物に関する禁忌が多数あることが﹁レビ記一一. 章﹂﹁申命記一四章﹂に記されていて︑神による定めということ になっている︒﹁創世記﹂には︑神は全ての生物を造って﹁良し﹂. といわれたとあるが︑﹁レビ記﹂と﹁申命記﹂では理由も告げず. に動物を清いものと汚れたものに峻別し︑後者の全てを禁忌とし. ている︒そればかりではない︒﹁死んだ動物は一切食べてはなら. ない︒町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか︑外国人に売り. なさい︒あなたは︑あなたの神︑主の聖なる民である﹂という神. の言葉もある車命記一四・21一︒﹁創世記﹂では全ての民を平等に. 造ったはずの神が︑ここでは民族差別を行つているのだが︑これ. は﹃旧約﹄の神の白己矛盾といえないか︒ただし︑天地創造神と. ヤハウェ神は異なる神だとすれば︑自己矛盾ではなくなるが︒. 一方のイスラムの場合︑飲食物の禁忌は豚肉とアルコールだけ. であるが︑ユダヤ教と同一の天地創造神の命令にしては違いが大. きすぎはしないか︒しかも豚肉が禁忌とされる理由は︑それが. ﹁穣れである﹂一六・些というのだが︑檬れていることの理由は. L巾. 何一つ記されていない︒しかし︑神の命令であるためか︑信者は 厳格に遵守している︒ 注. イスラムの食物としての禁忌対象は︑種としては豚肉だけであるが︑種 以外のものもあることが﹃コーラン﹂に記されている︒引用してみよう︒. ﹁死体︑血︑豚肉︑神以外の名によって犠牲にされたもの︑絞め殺され たもの︑打ち殺されたもの︑墜死したもの︑突き殺されたもの︑野獣に食 い殺されたもの︑ただし︑おまえたちが屠ったものは別であるが︑そして 偶像の前で屠られたもの︑これらはおまえたちに禁じられている︒﹂︵五・ 3︶. ﹁言ってやれ︑︿私に啓示されたものの中には︑死骸︑流された血︑ある いは豚肉︑これは稜れであるが︑あるいは神以外の名で屠られたけがらわ. しいもの︑これらを除いては食べても禁制となるものはなにもない﹀︒﹂.

(17) 「神の義」か「人間の理性」か(」) ∬. 神がキリスト教徒に新しい契約を縞んでくださったからという発想. スラエル人以外の者は守る必要がないという発想なのか︑それとも. 〇﹁出エジプト記﹂には﹁わたしの民から利子をとってはならな. からなのか︒前者の発想からであるなら︑キリスト教徒はその神に. 一六・蝸一. い﹂一二二・24一とあり︑﹁申命記﹂には﹁外国人には利子をつけ. 全面的信頼をよせていないことになるし︑後者の発想からであるな. ら神が新しい契約を結んだことを示す文献を提示しなければならな. て貸してもよいが︑同胞には利子を付けて貸してはならない﹂ 一二三・20 21一という神の言葉がある︒﹁わたしの民﹂という言葉. いが︑そのような文献は絶無である︒そもそも後者の発想はユダヤ. イエスは安息日に働く者は死刑に処すという﹃旧約﹄の神の戒め. からしても︑また利子をめぐって異民族を差別する点からして あろう︒ユダヤ教が誕生したイスラエルの場合︑信者がその神を. を破って人々の病気をいやされたことは衆知であるし︑﹁山上の垂. 教に対して非礼となろう︒その点をイエスの言動から見てみよう︒. 絶対神とし︑あるいは天地創造神とみなすことは白然の成り行き. 訓﹂一マタイ伝五−七一の中で︑ヤハウェ神を批判したとしか考えら. も︑これはイスラエル人だけの守護神であると考えるのが自然で. であろうが︑イスラエル人以外の異民族がその神を信じるという. れない発言をいくつもしておられるし︑それを別の角度から強調し. ︵聖︶. ことはどういうことなのだろうか︒. ようとされた時. 人が犯す罪や︵神への︶冒漬はどんなものでも赦されるが︑. ところで︑キリスト教も﹃旧約﹄を第二聖典として尊重し︑カト リックでは﹁神はイスラエル民族を白分の民と選んでそれと契約を. 霊に対する冒漬は赦されない︒一マタイ伝一二.31一. という言葉となったとみることができる︒. て︑またその民を白分のものと聖化することによって︑その民を 徐々に教化した﹂一﹃第ニバチカン公会議公文書全塁五三頁一というほど. 葉として次のような記述がなされている︒. しては︑﹃旧約﹄の中で神がイスラエルの民に命じた多くの命令・. カトリックは﹃旧約﹄の神を信奉していることになる︒だがそれに. うならば︑寄留する者も土地に生まれた者も同じく︑死刑に処せ. 刑に処せられる︒共同体全体が彼を石で打ち殺す︒神の御名を呪. 神を冒漬する者はだれでもその罪を負う︒主の御名を呪う者は死. 一方﹃旧約﹄ には神の言. 結び︑その民の歴史の中に自身と自分の意向とを表わすことによっ. に﹃旧約﹄の神を全面的に信じている︒この第ニバチカン公会議は. 戒律のほとんどを︑キリスト教は二千年間にわたって守ってきてい. られる︒一中堕彼らは神を冒濱した男を宿営の外に連れ出して石. 一九六四年に開かれたものである︒二十世紀の半葉においてなお︑. ない︒イスラエル人に限定したうえでの命令・戒律であるから︑イ.

(18) 舛. りに行った︒一レビ記二四・15−23一. で打ち殺した︒イスラエルの人々は主がモーゼに命じられたとお. 漬してもよい神ではなく︑冒漬してはならない聖霊なる神であるこ. る︒また︑イエスが﹁父なる神﹂として信奉しておられる神は︑冒. イエスが右の言葉を知らないとは考えにくいにもかかわらず﹁神. が軽視されているのは︑それが﹁他者﹂であるからであり︑﹁他者﹂. は︑人間にとつてイエスは﹁他者﹂であるからである︒神とイエス. とも見えてくる︒次に︑イエスに逆らうことが赦されるということ への冒漬はどんなものでも赦される﹂といわれたのは︑ヤハウェ神. への依存をイエスは先の言葉で戒められたと見ることができる︒一. ﹁殺仏殺祖﹂. よ・つ︒. はっきり言っておく︒アブラハムが生まれる前から︑. ﹁わたしは. 生言われたのだと筆者は観る︒次にイエスの別の言葉を引用してみ. えず︑従って﹁絶対﹂である︒従って︑それへの冒漬は赦されない. 方︑聖霊は万物に内在する大我なる﹁白己﹂であるから︑否定し得. への批判・否定がなされたものと解す以外に解釈のしようがない︒. イエスにおける. 筆者はここにイエスの﹁殺仏殺祖﹂を観ているのである︒. 第三章. 多くの神学者達が避けてきた次の言葉こそ︑ イエスの真意を解く カギであろう︒. アブラハムはイエスより二千年︵?︶も昔の人で︑イスラエル人の. ある︒﹂一ヨハネ伝八・58一. 対する冒漬は赦されない︒人の子に言い逆らう者は赦される︒し. 始祖・ユダヤ教の始祖であるが︑イエスはそのアブラハムが生まれ. 人が犯す罪や︵神への︶冒漬はどんなものでも赦されるが︑霊に. かし︑聖霊に言い逆らう者は︑この世でも後の世でも赦されるこ. る前から﹁わたしはある﹂生言われたわけである︒これは 始祖を絶対視しないこと︒. を意味しよう︒これら川何バ︺のうち︑ωと■はユダヤ教では絶対. ■. とがない︒︵マタイ伝一二・31−32︶. 整 理 す る と 次 の ようになる︒. に︑臨済義玄の﹁殺仏殺祖﹂を重ね合わせて感じとるのである︒紙. に赦されず︑犯せば処刑の対象となるのだが︑筆者は川何目の三つ. 人の子︵Hイエス︶に言い逆らうことは赦される︒. 面の都合で︑原漢文と読みくだし文は省略し︑朝比奈宗源氏訳を引. 川神への冒濱は赦される︒ ㈲. 聖霊に対する冒漬や言い逆らいは何時の世でも赦されない︒. 用させていただく︒. バ. 右の三点から︑神と聖霊が別の存在として扱われていることが分か.

(19) 「神の義」か「人間の理性」か(一). て天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった︒これ. 禅に参じた︒その後︑大善知識に逢って︑真正の悟りを得︑始め. あると知ったので︑思い切ってその勉強を打ち切り︑仏道を求め. が︑後に︑これらは世間の病気を治す薬の効能書のようなもので. も出家した当初は戒律の研究をし︑また経論の勉学に努力した. お前たち︑出家たる者はなによりも修行が肝要である︒わしなど. 筆者は観ているのである︒一方︑聖霊を冒漬することは何時の時代. されなかつたのは︑禅の﹁殺仏殺祖﹂と同質の意図からであったと. 漬・反逆しても赦される生言われ︑アブラハムという始祖を絶対視. ことを﹁見性﹂というが︑実はイエスが弟子達に︑神とイエスを冒. とを目ざす自覚の宗派である︒心眼をもって真実の白己を徹見する. 比重が大きい︒禅宗は﹁真実の白己に覚醒する﹂︵1−仏になる︶こ. りわけ禅宗の場合︑﹁仏になる﹂ことが他宗派に比べて意識される. 人間の外側にいて六百十一二の戒律を課し︑少しでも逆らえば処刑. は母から生れたままで自然にそうなれたのではない︒長い間︑体. いけない︒内に向っても外に向っても︑逢ったものをば皆殺せ︒. にするとおどし︑三代四代の子孫にまで崇ると告げるような神にひ. でも赦されないということは︑聖霊が万物の根元であり︑従って人. 仏に逢えば仏を殺し︑祖師に逢えば祖師を殺し︑羅漢に逢ったら. れ伏してはならず︑他者としてのイエスに依存してもならないとい. 究練磨を重ねて始めてそうなれたのだ︒お前たちよ︑正しい見解. 羅漢を殺し︑父母に逢ったら父母を殺し︑親類縁者に逢ったら親. うのがイエスの真意であっただろう︒それは釈尊の自帰依・法帰依. 間に内在する︑﹁真実の白已︵H大我︶﹂であるからであろう︒. 類縁者を殺して︑始めて解脱することができよう︒そういけれ. の教えと同質である︒人が﹁真実の白己︵H聖霊︶﹂になれた時︑. を得ようと思うならば︑何はともあれ︑ものについてまわっては. ば︑なにものにも束縛されず︑全く白由白在である︒一岩波書店. 愛そのものとなれるので︑他者から強制的に与えられた六百十三の. 偉大な存在をも認めるなという戒めの言葉である︒白分の外に権威. 殺祖﹂と略されて世に臆灸している︒これは︑自分の外に如何なる. 仏・祖師・羅漢・父母・親族の全てを殺せという言葉は︑﹁殺仏. る﹂一マタイ伝五・17一といわれた真意も理解できるのである︒他律. と思ってはならない︒廃止するためではなく︑完成するためであ. き︑イエスが﹁わたしが来たのは律法や理言者を廃止するためだ︑. 以外に戒律が一つもないのはそのためであり︑それが理解できたと. ﹃臨済録﹂八八 八九頁︶. あるものの存在を認めることは︑偽りの小我がつくりだした妄念で. 戒は不完全であり︑聖霊という真実の自己から内発する愛という自. 戒律がなくとも﹁戒﹂に適うことができる︒キリスト教には︑﹁愛﹂. あり︑それでは真実の自己︵1−大我︶を知ることが出来なくなるか. 律戒によって律法は完成されるということである︒. ﹁律法の文字から一点一画も消え去ることはない﹂一マタイ伝五・18一. ら︑徹底して否定せよという戒めである︒仏教とは﹁仏の教えを聴 くこと﹂と﹁仏になること﹂の二つの目的をもつ宗教であるが︑と.

(20) 36. るものはないという意味ではない!. イエスがいくつもの戒律を無. というイエスの言葉は︑六百十三の戒律のどれ一つとして不要にな. 者を﹁霊から生まれたもの﹂と呼ぶという意味であった︒従って︑. 執着している者を﹁肉から生まれたもの﹂といわれ︑大我に生きる. では︑人が小我を滅却し本来の大我を取り戻すにはどうしたらよ. 小我を滅却し大我に生きる時︑人はあらためて﹁霊から生まれたも. とであっただろう︒﹁律法﹂は絶対に必要であり︑一点一画も欠く. いのか︒それは﹁信﹂による︒では何を信じるのか︒外在神の存在. 視し破戒しておられるのは衆知のことなのだから︒イエスの真意. ことは出来ない︒ただしそれは六百十一二の戒律のことではなく︑. や神の戒律を信じることではない︒それはユダヤ教の場合である︒. の﹂となり得るのであり︑その典型例がパウロであったわけであ. ﹁真実の自已﹂︵H聖霊︶から内発する白律戒のことであり︑具体的. イエスの﹁信﹂とは︑﹁父なる神︵11聖霊︶﹂になりきっているイエ. は︑﹁真実の自己︵1−聖霊︶﹂から内発する本物の自律戒なら不要な. には﹁愛﹂だけである︒﹁愛﹂があれば︑必要なものは全てその中. スが語る﹁真理︵⊥言︶﹂を信じることである︒それは次の言葉で. る︒. におさまり︑逆に不用なものは全て消え去る︒イエスの真意はそれ. 明示されている︒. ものは一つもなく︑したがって消え去るものは微塵もないというこ. であろう︒パウロが﹁愛は律法を全うするものです﹂一ロマ書;一・10一. 滅却すれば本来の大我︵H聖霊︶の働きが現出する︒イエスは小我. はどうすればよいのか︒それは小我を滅却することである︒小我を. それならば︑人が﹁真実の自己︵1−聖霊11大我︶﹂に目覚めるに. 言葉は︑白分から話しているのではない︒わたしのうちにおられ. の内におられることを信じないのか︒わたしがあなたがたに言う. しください︒﹂生言うのか︒わたしが父の内におり︑父がわたし. わたしを見た者は父を見たのだ︒なぜ﹁わたしたちに御父をお示. というゆえんである︒. を﹁肉﹂と表現し︑大我を﹁︵聖︶霊﹂と表現されたのであつた︒. だれでも水と霊とによって生まれなければ︑神の国に入ることは. い︒もしそれを信じないなら︑業そのものによって信じなさい︒. り︑父がわたしの内におられると︑わたしが言うのを信じなさ. る父が︑その業を行っておられるのである︒わたしが父の内にお できない︒肉から生まれたものは肉である︒霊から生まれたもの. はっきり言っておく︒わたしを信じる者は︑わたしが行う業を行. 右の言葉は︑外在神や他者イエスヘの依存や帰依のうながしでは. い︑また︑もっと大きな業を行うようになる︒一ヨハネ伝一四・9−12一. は霊である︒一ヨハネ伝三・5一. 右の言葉は︑人間には﹁肉から生まれたもの﹂と﹁霊から生まれ たもの﹂の二種類があることを意味しているわけではない︒小我に.

参照

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