論 文 商
業
労
働
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l
﹁流通革命﹂の理論的基礎づけのために井 il
田
晋
久
治
一蒔菜的賃労働者の問題における困難の二側面
ω
労賃
と利
潤率
川労賃と商品の販売価格
二商人的業務の資本と企業とにおける集積
商業的賃労働者の問題における困難の二側面
(1)
労賃と利潤率
﹃資本論﹄の﹁商業利潤﹂に関する説明は︑商人が消費者に売る商品の価格は社会の総商品資本の価値に流通費を
追加して成立する価格であることを数字で例解したのにつづいて︑もっぱら商業的賃労働者︑それは商業労働といっ
商 業 労 働
商
岩木
労 働
てもよいのだが︑の問題をもってその内容としている︒﹁そこで問題は︑商業資本家││ここでは商品取引業者
1 1 6
が使用する商業賃金労働者については事情はどうか?ということである﹂Q資本論円第三巻︑三O
三ペ
ージ
︑大
月書
唐
版全集︑第二五巻︑一一一六六ページ)という書出しではじまっているのがそれであるが︑以下この問題についての説明の
なかでマルクスは︑﹁厄介な点﹂︑﹁困難な点﹂︑﹁ほんとうの困難﹂︑あるいはさらに﹁解決しなければならない問題﹂
等々といって︑この問題の困難さと重要性とを大いに強調していることはよく知られているところである︒
そこでマルグスは︑商業労働者について︑他の労働者・生産的労働者と同じよ︑7に賃労働者であるとはいえ︑両者
のあいだには産業資本家と商人とのあいだにみられるのと同じ相違があることを指摘して︑いよいよ﹁厄介な点﹂を
組上にのぼせていくのだが︑﹁厄介なのは次の点﹂だといってつぎのようにいっている︒すなわち︑
﹁商業賃金労働者についての厄介な点は︑けっして彼らは直接には剰余価値:::を生産しないにもかかわらずとう
して直接に自分たちの雇い主のために利潤を生産するのか︑ということを説明することではない︒この問題は事実上
すでに商業利潤の一般的な分析によって解決されている︒::・︒厄介なのは次の点である︒商人自身の労働時間や労
働は︑すでに生産されている剰余価値の分けまえを彼のためにつくりだすとはいえ︑価値創造的労働ではないとすれ
は︑彼が商業労働力の買入れに投ずる可変資本については事情はどうなのか?
L
Q資
本論
﹄︑
第三
巻︑
一二
O四
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一 ニ
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ージ
︑大
月書
唐版
全集
︑第
二五
巻︑
コ一
六七
2
三六
八ペ
ージ
)
といい︑すぐそれにつづけて︑
﹁この可変資本は投下資本として前貸資本に加算することができるであろうか?も
L
できなければ︑それは利潤率平均化の法則と矛盾するように見える︒前貸資本として一
OO
しか計算できないのに︑一五
O
を前貸しする資本家があろうか?
もしそれをするとすれば︑それは商業資本の本質と矛盾するように見えるよ
それではなぜ矛盾するものとして現われるのか︑その理由はこうである︒すなわち
﹁この資本種類が資本として機能するのは︑産業資本のように他人の労働を動かすということによるのではなく︑
それ自身が労働するということ︑すなわち売買の機能を果たすということによるのであって︑ただそうすることの代
償としてのみ︑ただそうすることによってのみ︑産業資本が生産した剰余価値の一部分を自分の手に移すのだからで
ある
﹂(
﹃資
本論
﹄︑
第三
巻︑
一二
O五
ペー
ジ︑
大月
書底
版全
集︑
第二
五巻
︑コ
一六
八ペ
ージ
)︒
﹂こ
に
理論的に解明すべき問題がある︒
すでにあきらかなとおり︑商業利潤の一般的分析においては︑商業的賃労働者とそのための可変資本とはそのもの
としては考察の対象とされていない︒この捨象は︑一面では︑商人は︑自己のおこなう前貸を資本として増殖し産業
資本によって生産された剰余価値の分けまえにあずかることができるために︑産業資本家とはことなって︑賃労働者
を充用する必要はないという商業資本の基本的性格とも合致しているのであった︒
資本流通の諸機能である
w i
G
およびG l
w
を媒介するために必要な操作・商業労働をおこなうことによって商人は︑すでに産業資本家の流通代理者であり︑したがって自己の前貸資本に応じて利潤の分けまえに参加することがで
きる︒それゆえ︑彼の営業の規模が小さく前貸資本量が少なければ︑﹁彼自身が彼の充用するただ一人の労働者であ
ってもよい﹂からである︒とはいえ︑商人が分けまえに参加するその利潤の分量は︑彼がこの過程で充用することの
できる資本の分量によって定まり︑この分量はまた︑彼が充用する商業的賃労働者によって支出される不払労働量に
依存している︒こうして︑個々の商人は︑より多くの商業的賃労働者を充用して彼等からより多くの不払労働を取得
商 業 労 働
商 業 労 働
四
すればする程︑それだけますます多くの資本を売買に充用しより多くの利潤をあげることができる︒そうだとすれ
ば︑商業的賃労働者の充用すなわち大規模な︑資本主義的に営まれる商人的義務の形態こそは商業資本そのものにふ
くまれる必然的な関係であって︑いまこの関係が分析の対象とされる︒
商業資本にたいする利潤は︑価値実現の機能を媒介して︑﹁商品のなかにふくまれている不払労働を全部は生産的
資本に支払わないで拐さながら︑商品を売るときには︑まだ荷口聞のなかにふくまれているが自分はそれに支払ってい
ないこのような部分にも支払ってもらうことによって﹂弓資本論﹄︑第三巻︑一一一O
四ペ
ージ
︑大
月室
田居
版全
集︑
第二
五巻
︑
ハ七
ペー
ジ)
与え
られ
る︒
このことは︑商人的業務が小規模に営まれる場合にも大規模に営まれる場合にも︑
σ
そコままあてはまる一般的な関係である︒だから︑商業的賃労働者に関連してあさらかにすべき問題は︑不生産的労働者
でしかありえない彼ば﹁どうして直接に自分たちの雇い主のために利潤を生産するか︑ということを説明すること﹂
(﹃
資本
論﹄
第三
巻︑
一二
O四ページ︑大月書広版会集︑第二五巻︑三六七ページ﹀にあるのではない︒そうではなくて︑
彼
σ
〉ための費用の支出は︑いかにして商人の機能資本の一部であることができるかをあきらかにすろことにある︒しかも
この説明は︑さきに指摘したように︑商人は︑自己のおこなう前貸を資本として増殖し剰余価値の取得をつくりだす
ために︑賃労働者を充用する必要はないのだという商業資本の性格と矛盾してはならず︑この費用が単なる流通手段
のための支出にすぎないとはいえ︑利潤率均等化の法則とも矛盾していてはならないのであって︑以下のマルクスの
全説明は︑商業資本ならびに商業利潤にかんする諸理論にもとづくこの問題がふくむ諸側面の解明にむけられるもの
となっている︒それは︑商業資本の自立化にかんする説明︑利潤率均等化の法則︑あるいは純粋に商業的な流通費の
填補についての説明の厳密な適用であり︑したがってそれは︑この理論とこの法則とにたいする︑あらゆる修正主義
的歪曲と無縁でなければならない︒この点は︑ここでの必然的な問題提起ならびに提起された問題の意味の正しい理 解にとっての︑絶実的要件とさえいってよい︒
︑︑
︑︑
︑
(1
﹀いまここで︑わたくしのこの強調の意味をしめして余りある︑無数ともいうべき例証のうちの者千を紹介しておくのも無
駄で
はあ
るま
い︒
その一ロ!ゼンベルグについて
流通費の填補について︑なんの困難も呈しない物的な取引費用にたいして︑商業的賃労働者の可変資本の場合はまったくこ
となった事情にある︑とマルクスにしたがって指摘したのちロlゼンベルグは︑はじめて﹁函難﹂の一面をあきらかにしてい
るさきにその一部を引用しておいたつきの﹃資本論﹄の説明すなわち
﹁厄介なのは次の点である︒蕗人自身の労働時間や労働は︑すでに生産されている剰余価値の分けまえを彼のためにっくりだ
すとはいえ︑価値創造的労働ではないとすれば︑彼が商業労働力の買入れに投ずる可変資本についでは事情はどうなのか?
この可変資本は投下費用として前貸商人資本に加算することができるであろうか?もしできなければ︑ぞれは利潤率平均化
の法則と矛盾するように見える︒前貸資本としては一
OO
しか計算できないのに︑一五Oを前貸しする資本家があろうか?
もしそれをするとすれば︑それは商業資本の本質と矛盾するように見える││以下略││﹂弓資本論﹄︑第三巻︑三O五ペー
ジ大月書膚版全集︑第二五巻︑一二六八ページ)
を引用している︒しかも︑主題にかんする﹃資本論﹄の説明の引用としては︑あとにも先にも︑これで全部なのであるが︑
この問題を彼はこう解決するのである︒
﹁ではマルクスは彼の提起した問題をとのように解決しているだろうか?
流通部一白では分業はかなり制限されているとはいえ︑大きな取引も小さな取引も同一量の労働を必要とする︒だから︑商業
企業が大きければ大きいほど:::労働の充用における節約はそれだけ大きい︒
そこで︑商業資本は︑その本性︑その基本的機能か︑りして︑集積されたものでなければならないということになる︒
そこからまた︑商人は賃労働なしにはやっていけないということになる︒::・︒商人は︑事務員あるいは賃労働としてではな
商 業 労 働
五
商 業
労
働
ノ、
く資本家として産業家にとってかわるのである︒
産業家にかわって流通で商人が機能し︑資本主義的企業家としての彼に利潤が帰属するのである︒商業労働者と事務員への
支払いのための源泉は︑商品取扱資本に自立化した商品資本が分散していないだけでなく︑逆にいっそう集積されていること
によって︑つくりだされる︒そのため︑商品の購入に前貸しされる資本も︑流通費のすべての部分も減少し︑逆に資本の回転
速度は増大する︒これらすべてのことは利潤量の増加と利潤率の上昇をたすける︒
だから商人資本にたいする利潤は︑同じ大きさの産業資本の利潤よりも大きい︒この余分によって︑すなわち︑商業利潤と
産業利潤との差額によって︑流通部面における可変資本が補填されるのである︒あるいはj商人資本は現実の大きさよりも
大きな資本としてあらわれる︒それは︑商人資本にたにたいする利潤がll純粋の利潤︑すなわち平均的な産業利潤に等しい
利潤を控除したのち
1 1
商業労働者と事務長の賃銀を補填するのにたりるだけ︑大きい資本としてあらわれるのである﹂(デ
・イ
・ロ
lゼンベルグ︑前掲書︑二回二
1
一一
四三
ペー
ジ)
︒
このさい立ちいった検討はいっさいさしひかえるが︑是非とも︑ロiゼンベルグの注意を喚起して彼にたずねなければなら
ないことが一点だけある︒右の引用文の最後のパラグラフで︑商人資本にたいする利潤は同じ大きさの産業資本の利潤よりも
大さいといい︑商人資本は現実の大きさよりも大きな資本としてあらわれるともいっていたが︑彼はこの﹁解決﹂の典拠とし
た﹃資本論﹄の説明部分をいっさい指示していない︒だが︑そんなことはいまのわたくしにとっていっこうに差支えない︒お
そらくこれは︑可変資本にかんする﹁困難﹂の諸側面を論じた最後のところでマルクスが︑
﹁BH
一00
︑
b (商業的賃労働者のための可変資本
1 1
井田
)1
一O︑利潤率H一()%と仮定しよう︒われわれは
K
(物
的な取引費用
ii
井田
﹀
Uゼロとするのであるが︑そのわけは︑購買価格のうちでここでは凋題にならないすでにかたづいてい
る要素を再び不必要に計算に入れないようにするためである︒そうすれば販売価格は︑出十回︼十σ
十 回}
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﹃資
本論
﹄︑
第一
二巻
︑三
O八ページ︑大月書庖版全集︑第二五巻︑三七三
ページ)といっている個所に直推依拠したものであり︑あるいはまた
﹁商人の前貸しする可変資本がはいってくることによって︑販売価格は切+何十ず(切十回附)一什汁
τ
斗ぶ主語+ぴ打汁τ
斗んい
き益
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以﹂
(﹃
資本
論﹄
︑第
一ニ
巻︑
一二
Q
八ペ
ージ
︑大
月書
底版
全集
︑第
二五
巻︑
一二
七一
一ペ
ージ
﹀
という説明は直接関連させて基礎づけようとしたものであろうことは推測にかたくない︒いずれにせよ︑こうして彼は︑さ
きにみたごとく︑売員に充用される資本一
QO
にたいする利潤の分与が二一であるならば︑商人資本にたいする利潤は同じ大
きさの産業資本の利潤よりも大きく︑商人資本は現実の大きさである一
O Oとしてではなくたとえばより大きな二
OQ
の資本
としてあらわれる︑とい︑7マルクスに一即した﹂注解をしたわけであろう︒だが︑そうは問屋が卸さないとはこのことだ︒賃 労働者に労賃として支払われるべく数式日販売価椅の一つの要素となっている一Oあるいはbは︑商品価値にたいしてなされ
る価値を超えたあらたな追加要素なのだ︒
いま︑それのきわめて重要な意義をあきらかにするにあたって︑﹁商品の現実の価値追加分を形成しない﹂可変資本の場合
といえども︑これが﹁名目的な価値を形成する要素として商品の販売価格にはいる﹂のだとい︑7マルクスに即した認識は絶対
的な基礎である︒そして︑主観的でしかありえないとはいえ︑この基礎にたつべく彼ロiゼンベルグのはらった努力にかんす
るかぎり︑彼に敬意を表することについて︑わたくしはなんの跨踏もない︒そこで間短が生じる︒名目的価値の概念を否定し
たのは誰か?それは他でもない︑ロiゼンベグル自身ではなかったか︒名日的価値の概念にしめされた諸関係と法則とを否
定したのは誰か?それは他でもない︑ロiゼンベルグ自身ではなかったか︒名目的価値の概念のもつきわめて重要な意義に
ついての究明の道をいっさい閉ざしてしまったのは誰か?それは他でもない︑ロlゼンベルグ自身でなければならない︒
﹁いまたとえば呂を︑流通費に前貸しされるものとしてつけくわえれば︑第一に︑この
g
は剰余価値・::から控除されd第二
に︑それは平均利潤卒の均等化に参加するわけである︒いまや平均利潤率は︑
同 ∞
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となる︒:::︒マルクスはいまの脈絡では︑流通費を︑利潤率の均等化への参加という見地からのみ研究し︑剰余価値から控
除されるものとしてはまだ研究していないということを︑注意しておかなければならない︒だから彼のばあいには︑利潤率は
それほどひどくは低下せず︑
同 ∞
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商 業 労 働
七
商 業 労 働
八
となっている﹂(デ・ィ・ロiゼンベルグ︑前掲書︑二三八
i
二三九ページ)という彼独自の注解と補足とをあえてしたことについては︑すでに周知のとおりである︒いまはこの一点についての以上の簡単な指摘にとどめておく︒
とはいってもまだ少し附記しておきたいと思う︒われとわが身を打っこうした撞着ぶりもなんのその︑山口重克氏は︑さき
のロ
lゼンベルグからの円引用文のうちのいまみた﹁だから﹂云々にはじまる最後のパラグラフのすぐ前の﹁商業労働者と事務︑︑︑︑︑︑︑︑︑員﹂にはじまるパラグラフをまるまる引用して︑一マルクスは少くともこの章の部分においては︑必ずしもこのような形で︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑明確に解決を示しているとはいえない﹂(山口重克﹁商業資本と商業利潤ハ
2) ll
宇野教授の所説によせてつ一
)l
1J﹂
﹃電
気
通信大学学報﹄第一七号(人文社会編)所収︑八七ページ︑注︑(加)︑傍点││井出)というのだ︒この迷妄ぶりをなんと評
すべきかわたくしは一言葉をしらない︒この副題にみるとおり︑字野氏の忠実な継承者として振舞うかぎりでの山口氏の宇野氏
批判は︑かなりの正しさをふくむものとわたくしは考えている︒山口氏の﹁商業資本に商業利潤Lはそのかぎりで力作たるを
失なっていないとはいえ︑山口氏の右のマルクス批判こそはその理論的性格において︑マルクスの商業理論にたいする︑ロー
ゼンベルクならびに宇野氏の二窒でしかもまったく異質の曲説に深く根ざしたものであることを雄弁に物語っている︒
その二宇野弘蔵氏他について
﹁宇野森下氏は﹃資本論﹄のbのところがわかっているのですか︒その説明はできているかしら0
・:
・・
︒︐
a問題のない
ところにどうして﹃資本論﹄があれほとに苦労して論究しているのかiーそのくらいのことは考えてもよいように思う︒それ
にしても森下氏は︑﹃資本論﹄が︑::・この賃銀bにたいしても利潤を如何にして求めうるかという︑﹃真に困難がある﹄とし
ている考察をいかに考えるというのだろうか︒:・:︒
山口マルクスはこのいわゆる図難な同題を繰り返し提起して解決しようと試みるのですが︑結局︑解決できていないわけで
すね︒その点は森下氏も認めていて︑﹃﹃資本論﹄のこの部分が難解で︑商業労働の性格についての誤解のひとつの源泉となっ
ていることは否めない﹄::・といっていますが︑その点にワいてはそれ以上ふれないで︑﹃いずれ稿を改めてほりさげた考察
を試みたい﹄というのです︒それからついでにここでこの問題についての岡田説を見ておきますと︑岡田氏も﹃マルクスにお
ける問題の追求は︑・0・最後的決着をつける以前に終っている﹄::・ことは認めでいますが︑それでは︑﹃宇野教援の所説は
一根拠をもつものであるか﹄と問うて︑﹃そうではない︒マルクスによる問題の追求は︑この圏難の基本的性格を明らかにし
ている
::
:O
i‑
目‑
﹄と
して
いま
す︒
. .
宇野資本家が自分でやっているときには︑利潤は問題にならない︒ところが賃銀になると利潤がでるというのはどうやっ
て解決するのですか︒﹃資本論﹄がそれを解決していないから仰々しくいっているのです︒森下氏は︑問題をぼくがことさら
に仰々しくいっているようにいっているらしいが︑彼自身その点を解決しているのだろうか︒﹃資本論﹄もこれを難問として
仰々しくいっているのではないか︒むしろその点はマルクスについていうべきではないか︒
山口特にこのマルクスの数字例は︑まったくわからないですね︒
宇野まったくそうで︑われわれは﹃資本論﹄のいうところを何とかして解こうとして︑できないでいる︒森下氏にしても
岡田氏にしてもまず﹃資本論﹄のこの難解な叙述がわかっているならそれから解いたらよい︒明資本論﹄にたいしては何もい
わないのはどういうわけか︒もっともまたあとに問題とするというのでは︑それを待つほかはない︒実際︑﹃資本論﹄の叙述
には何としても理解しえない文句があるので︑むしろ編者のエンゲルスは何と考えてそのままにしたのかと思えるほどで︑わ
れわれはいつも繰り返し問題にしてきたので︑この正しい解釈が出れば大いに喜んで学びたい︒ぼくのほうはしかし何も仰々
しくいっているわけではない﹂(宇野弘蔵編明資本論研究円買生産価格・利湖︑一一一一二六
2
三三
七ペ
ージ
)︒
これは︑編者の宇野氏含中心にした︑いわゆる宇野理論のよさ理解者である山口重克︑大内秀明︑鎌倉季夫︑桜井毅ならび
に降旗節雄の各氏による﹁商業労働者の問題﹂にかんする一討論の一部である︒一読してあきらかなとおり︑当の宇野氏自身の
みならず︑森下二次也︑岡旧裕之の両氏をもふくめて︑右の文章に関連してすくなくともつぎの諸点を指摘してあやまりな
ω
マルクスのいっている﹁困難﹂が解決できない問題というふうにおさかえられているということ川マルクスのいっている﹁困難﹂はしたがって︑マルクス自身解決できないで提起されているにすぎないものとみている
ということ
川﹁困難﹂において象徴されている商業的賃労働者の問題にふくまれる諸側面について{まったくわからないで﹂当惑し
きっているということ
ω
理論的ならびに実際的見地からみてこの問題のもつきわめて重要な意義を理解することは︑まず不可能であるというこん)
というのがそれであるが︑以上の指摘に関連して︑一商業利潤﹂にかんする右の三氏の見解は︑とくにマルクス商業理論の
商 業 労 働
九
商 業 労 働
。
重要な点における歪曲に立脚し︑その性格は弁護論以外のなにものでもないということについて想起を促がしたい︒引用文にあるマルクス批判あるいは疑問といま列挙した問題点とは︑この弁護論的性格と内的に結びつきそれの必然的一帰結であっ
て︑すべてマルクスの諸理論にたいする曲解に淵源するものである︒さきに︑この点について絶対的要件として注意を喚起す
るゆ
えん
であ
る︒
ところで︑可変資本について解明すべきコ引かアいの一っすなわち﹁この可変資本は投下費用として前貸商人資本
に加算することができる﹂かどうかという問題の結論・解決はこうである︒
﹁直接に商品の売買に投ぜられる総商人資本をBとし︑これに相応する︑商業的補助労働者への支払に投ぜられる
可変資本をb
とす
れば
︑
切 十
σは︑どの商人も庄員なしでやってゆくと仮定した場合︑つまり一部分がbに投ぜられ
ないと仮定した場合に必要な総商人資本の大きさよりも︑小さい﹂(﹃資本論﹄︑第三巻︑三O六
1
三O七ペ
ージ
︑大
月書
庖
版会
集︑
第二
五巻
︑三
七
0
ペー
ジ﹀
︒
そして︑この結論をひきだす道筋は︑周知のところであるが︑商業資本の自立化の理論に立脚して商業的業務の大
規模な集積からえられる流通費の節約を論じた︑大要つぎのごときものである︒
﹁仮りに︑どの商人も彼自身が自分の労働で回転させることができるだけの資本しかもっていないとすれば︑商人
資本の無限の分散が現われるであろう︒この分散は︑資本主義的生産様式が進むにつれて生産的資本がより大きな規
模で生産しより大きな量を操作するようになるのと同じ度合いで︑増大せざるをえないであろう︒そこで︑両者の不
均衡がひどくなる︒:::︒そうなれば︑産業資本家の純粋に商業的な業務︑したがってまた彼の純粋に商業的な支出
は︑無限に広がってくるであろう︒:::︒純商業的費用のほかに︑それ以外の流通費︑選別や発送なども増大するで
あろう︒:::︒次に商人資本のほうを見てみよう︒第一には︑純商業的労働についてである︒:::︒:::卸売商業で
使用される商業的労働者の数は営業の比較的な大きさに比べればまったくとるに足りないほどである︒そうであるの
は︑同じ機能が大規模に行なわれても小規模に行なわれても費やされる労働時間は同じだということが︑商業では産
業でよりもずっと多いからである︒:・︒さらに不変資本の支出がある︒:::︒運輸費も:::分散につれて増大す
産業資本家は自分の業務の商業的部分により多くの労働や流通費を支出せざるをえないであろう︒同じ商人資本で る
も︑多数の小さな商人のあいだに分割されていれば︑この分散によって︑その機能の媒介のためにはずっと多くの労
働者が必要になるであろう︒そのうえに︑同じ商品資本を回転させるためにもより大きな商人資本が必要になるであ
ろう
﹂(
﹃資
本論
﹄︑
第三
巻︑
一ニ
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1
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ージ
︑大
月書
市出
版全
集︑
第二
五巻
︑三
六八
i
三七
0ペ
ージ
)︒
右のごとき結論とその道筋とにたいして︑﹁とはいえ︑これではまだ困難はかたづいてはいない﹂といって︑可変
資本についての事情の問題をさらに追求していく︒これこそ︑マルグスみずから﹁ほんとうの困難﹂等々といい︑そ
の﹁難解﹂さゆえに専問家にとって周知の説明となっているが︑可変資本にかんして解明すべき二つのうちの他の一
つである︒項をあらためてこの問題をみよう︒
(2)
労賃と商品の販売価格
も一つの﹁困難﹂についてのマルクスの問題提起は︑つぎのとおりである︒
﹁商品の販売価格は︑
ω
切+ σ
にたいする平均利潤を支払うのに足りるものでなければならない︒このことは︑
商 業 労 働
商 業 労 働
すでに切十ずが元来のB一般の縮少であり︑bのない場合に必要であろうよりも小さい商人資本を表わしていると
いうことによって︑説明されている︒しかし︑この販売価格は︑同bにたいする新たに追加的に現われる利潤のほ
かに︑支払われた労賃すなわち商人の可変資本
Hu
bそのものをも補填するのに足りるものでなければならない︒この
あとのほうのことが困難な点である︒bは︑一つの新しい価格成分をなすのか︑それとも︑∞+ヴによって得られる利
潤のうちの︑ただ商業労働者に関してのみ労賃として現われ商人自身に関しては彼の可変資本の単なる補填として現
われる一部分でしかないのか?
一般的な率に従ってBに落ちる利潤・プラス・bに等しいだけで︑このbは彼が労賃の形で支払うものではあ あとのほうの場合には︑商人が彼の前貸資本切
+σ
にたいしてあげる利潤は︑
' ‑ z
︐ ︑
ナJ+I
るが︑それ自身は少しも利潤を生まないということになるであろう﹂(﹃資本論﹄︑第三巻︑三O
七ペ
ージ
︑大
月書
庖版
全集
︑
第二
五巻
︑三
七0
ペー
ジ)
︒
可変資本についてあきらかにしなければならない事情が︑いまや︑この資本と商品の販売価格との関係いかんとし
て︑ことなった角度から考察されている︒すなわち︑マルクスは︑この事情について﹁厄介な点﹂をあらためて﹁因
難﹂という言葉でおきかえ︑この﹁困難﹂にたいしていわば軽度のものと重度のものとの二つの困難を指摘している
わけ
であ
る︒
﹁切+σにたいする平均利潤を支払うのに足りる﹂ような商品の価格形成がおこなわれなければならな
いが事情はどうなのかというのが前者であり︑しかもこの価格は︑それにとどまらず﹁凶支払われた労賃すなわち商
人の可変資本
Hb
そのものをも補填するのに足りる﹂ようにおこなわれなければならないがこの事情はどうなのかと
しているのが後者である︒そして︑前者・軽度の困難の問題にたいしては︑
﹁す
でに
︑
回+σが元来のB一般の縮少
であ
り︑
bのない場合に必要であろうよりも小さい商人資本を表わしているということによって︑説明されている﹂
と答えているわけであるが︑単なる一言葉のおきかえといヲて簡単に指摘したとおり︑
これ
は︑
﹁厄介なのは次の点で
ある︒商人が商業労働力の買入れに投ずる可変資本は投下費用として前貸世間人資本に加算することができるであろう
︑ ‑
AM
O‑
‑
もしできなければ︑それは利潤率平均化の法則と矛盾するように見える︒もしそれをするとすれば︑ぞれは商
業資本の本質と盾するように見える﹂といって︑利潤率均等化の法則との関連の角度から提起していた商人の可変資
本についての事情の問題に帰着し︑すでに完全に解決されていることはその道筋とともに︑前項においてみてきたと
おりである︒したがっていまは︑解決ずみのこの関係の基礎上での第二の困難・重度に属する困難な問題の提起であ
って︑ささの解決をふまえた解答でなければならないということになろう︒
商業的賃労働者のための費用が一般的利潤率に規定的に参加するところの商人の投下資本の一部分であるならば︑
それはまた回収を保障されたものでなければならず︑回収の機構が解明されなければならない︒この可変資本リbそ
のものはしたがって商品の販売価格の要素をなさなければならないとしても︑いまやそのこと自体が問われざるをえ
ない
︒﹁
b
は ︑
一つ
の新
Lい価格成分をなすのか︑
それ
とも
︑
国
+ σ
によって得られる利潤のうちの︑ただ商業労働
者に関してのみ労賃として現われ商人自身に関しては彼の可変資本の単なる補填として現われる一部分でしかないの
か?
﹂といっているのがこの問題なのであって︑文中の﹁それとも﹂によってあきらかなごとく︑それはAかBか
と二者択一のかたちをとって提出されている︒だが右にすぐつづけて︑Bの場合にたいしては︑利潤率均等化の法則
に反することとして︑﹁あとのほうの場合には︑商人が彼の前貸資本切十ヴにたいしてあげる利潤は︑ただ︑
一般
的
な率に従ワてBに落ちる利潤・プラス・bに等しいだけで︑このbは彼が労賃の形で支払うものではあるがそれ自身
は少しも利潤を生まないということになるであろう﹂といっているが︑すでにbが商人の可変資本・機能資本である
腐 業 労 働
商 業 労 働
四
とすればただし当然のことであろう︒Bとbとを投じた商人に帰属する利潤についてみるとき︑Bにたいしてだけ一
般的な率にしたがった分与がおとなわれて︑b自身はいかなる利潤も生まず資本として増殖できないとすれば︑ここ
で利潤率均等化の法則は作用することをやめなければならない︒これはまったく前提に反し︑主題に関連したこれま
での説明はすべて否定されることになるからである︒つまりはさきの問題提起の地点・振出しに逆戻りというわけ
だ︒こうして残された解決はAでしかありえない︒すなわち︑bは︑商品価格のあらたな成分をなすことによって填
補される︒そして︑ここでいっているあたらしい価格成分をなすといっているときの﹁新しい﹂と︑さきにみたとこ
ろの﹁この販売価格は︑同bにたいする新たに追加的に現われる利潤のほかに︑支払われた労賃すなわち﹂云々とい
うときの﹁新たに追加﹂されるとは︑国語的には同じ﹁新しでも︑理論的にはまったくことなる関係
ι
規定されたものとしての二つの﹁新﹂である︒後者は︑一般的利潤率に規定されて︑この機能資本bにたいしその大きさに応じて
支払われる商業利潤の一部であり︑その意味での商品の購買価絡にたいするあらたな追加すなわちあらたに追加的に
現われるbにたいする利潤︑ということである︒
ここまでくれば︑事態はいっそうはっきりする︒それに加えて︑
bH
可変資本をもふくむ純粋に商業的な流通費と
商品の販売価格との関係についての唯一の正しい説明が︑わたくしたちにたいして︑すでに一般的に与えられている
のである︒こうしていまや︑bについて︑それがあたらしい価格の成分をなすということの意味内容をその広がりに
おいてあきらかにする順序となったわけであるが︑ここでつぎのことを強調しておきたい︒すなわち︑マルクスが提
起した問題の考察にあたってわたくし辻︑標題によってすでに指示してきたとおり︑その困難なるものを性質をこと
にする一一つのものにわけて考えてきた︒マルクスの説明をみればあきらかなとおり︑この考察のしかたはことがらそ
のものに要請された必然的なものである︒これは︑ひとり可変資本の問題にとどまらず︑ひろく商業利潤の研究にお
( 1 )
ける重要な観点をなしている︒この点にかんする認識の欠如がいかなる事態をもたらすかについては︑すでにその一
端を指摘したとおりである︒
( 1 )
﹁円資本論﹄第三巻の﹁商業利潤﹂についての説明によれば︑・・・利潤率の平均化に関するこれまでの説明を補足したのに続いてただちに︑あらたな関係として流通費との関連で問題が考察され二つのことが徹底的に追求される︒一つは︑この費用と一般的利潤率との関係であり︑二つには︑この費用と商品の販売価格との関係についてであって︑これがいま問題としてい
る問題の提起とその解決である︒そして︑その解決は根本的かつ全面的である:::﹂(拙稿﹁商業利潤補論流通費と物価の根本問題l﹂﹃立教経済学研究﹄第二六巻第一号所収︑八ページ)︒かねてから強調している一例をあげたわけであるが︑いまもすべての点で新鮮さを失っていない︒﹁あらたな関係として流
通費との関連で問題が考察され二つのことが﹂云々となっているのを︑﹁流通費のうちの可変資本との関係で﹂と補足するだけで全文そっくり︑いまの場合に通用するものとなる︒このことは行論のなかであきらかにされる︒
さてそれでは︑﹁この費用と商品の販売価格との関係﹂を論じた二つめの問題にうつろう︒
﹁困難な点を精密に確定﹂するために︑
﹁直接に商品の売買に投ぜられる資本をB
とし︑この機能に消費される不変資本(物的な取引費用)を
K
とし︑商 人が投ずる可変資本を
b﹂
(﹃
資本
論﹄
︑第
三巻
︑一
二O七ページ︑大月書庖版全集︑第二五巻︑一二七0
ペー
ジ﹀
と仮定して︑つぎのようにつづける︒
﹁B
の補墳は少しも困難を呈しない︒:;︒商人はこの価格を支払う︒そして︑再販売によって彼の販売価格の一部 分として
B
を取りもどす︒また︑この
B
のほ
かに
・ : B
にたいする利潤を受け取る︒:・:︒さらにKを見れば︑これは︑
商 業 労 働
一五
商 業 労 働
一六
不変資本中の生産者が販売や購入に消費するであろう部分︑といっても彼が直接に生産に使用する不変資本への追加
分をなすであろう部分とせいぜい同じ大きさであり︑実際にはこの部分よりも小さい︒それにもかかわらず︑この部
分は絶えず商品の価格から補填されなければならない︒または︑同じことであるが︑商品のこれに相当する部分がこ
の形態で絶えず支出されなければならず︑また・・この形態で絶えず再生産されなければならない︒前貸不変資本の
この部分は︑直接に生産に投ぜられている全不変資本量と同様に︑利潤率に制限的に作用するであろう︒産業資本家
が自分の業務の商業的部分を商人に任せるかぎりでは︑彼はこの資本部分を前貸しする必要はない︒彼に代わって商
人がそれを前貸しする︒:::︒商人は︑第一にはこの不変資本を補填してもらい︑第二にはそれにたいする利潤を受
け取るのである︒だから︑この両方によって︑産業資本家にとっては利潤の削減が行なわれるのである︒しかし︑分
業に伴う集積や節約のおかげで︑この削減の程度は︑産業資本家自身がこの資本を前貸ししなければならない場合に
比べ
れば
︑よ
り小
さい
し(
﹃資
本論
﹄︑
第三
巻︑
三
O七
t
三O八ペ
ージ
︑大
月童
日底
版全
集︑
第二
五巻
︑一
二七
01
一二
七一
ペー
ジ)
︒
一見︑商業的賃労働者の買入れのための可変資本についての第一の困難にたいする解決を想起さぜるもの
﹂れ
は︑
がある︒だが︑この想起が︑もし︑さきの引用で﹁分業に伴う集積や節約のおかげで︑産業資本家にとっては利潤の
削減の程度は︑産業資本家自身がこの資本を前貸ししなければならない場合に比べれば︑より小さい︒利潤率の削減
は︑このようにして前貸しされる資本がより少なくなるので︑より少なくなるのである﹂といっているところに着目
してのことだとすれば︑それは問題ある反省である︒いまみている説明が︑さきの解決に支持されているとしても︑
単なる反復にすぎずマルクスの当惑をしめすものだなどと考えるとすれば︑それこそ︑もっぱら囚われたみかたにも
とづくきわめて不十分な理解だといわなければなるまい︒説明は︑いまや︑決定的な段階にはいりつつあるとさえい
うべきで︑物的な取引費用にかんする一歩すすんだこの説明を
E
しく読みとることなしには︑﹁ほ
んと
うの
困難
﹂︑
﹁解決しなければならない問題﹂の意味そのものを正しく受けとめることは︑おそらく期待できない︒
きちんと整理してみよう︒
いまみた説明で︑﹁この部分
(k
l物
的な
取引
費用
i井田)は絶えず商品の価格から補填されなければならない︒
または︑同じことであるが︑商品のこれに相当する一部分がこの形態で絶えず支出されなければならず︑またこの形
態で絶えず再生産されなければならない﹂といい︑さらにつづけて﹁謂貸不変資本のこの部分は︑直接に生産に投ぜ
られている全不変資本量と同様に︑利潤率に制限的トい作用するであろう﹂といっているのをみたが︑これは直接には
産業資本家に関連しての説明である︒商人との関連では︑これとまったく同じ内容にたいして︑﹁商人は︑第一には
この不変資本を補填してもらい︑第二にはそれにたいする利潤を受け取るのである@だから︑この両方によって︑産
業資本家にとっては利潤の削減が行なわれるのである﹂となっているのであって︑これのつぎにいま繰り返えして引
用して︑誤まった反省の根拠にはなりえないと指摘した説明がきている︒
産業資本家に関連した説明にしろ︑商人に関連した説明にしろいずれも︑前半にある第一の説明部分は︑この不変
資本と商品の販売価格との関係の問題・わたくしの区別による第二の困難にかかわり︑後半にある第二の説明部分
は︑この不変資本と一般的利潤率との関係の問題・同じくわたくしの区別による第一の困難にかかわるものであっマ︑
一方で利潤の削減といい︑他方で利潤率の削減をいうとき︑それぞれ右の二つの区別にぴったりと対応し︑それぞれ
厳密に区別されるべき内容においての削減をいっているのである︒だから︑こうした内容をもっさきの説明にたいし
て︑単に︑小規模で分散した商業ではなくて︑大規模で集積した商業によって機能が遂行されることから生じるとこ
商 業
労
働
一 七
商 業 労 存 動
/に
ろの︑資本にとっての社会にとっての︑空費の節約の巨大さを強調し︑利潤と利潤率とにたいする削減の度合いの減
少を指摘するだけでは︑﹁困難な点を精密に確定しておこう﹂という緊急の課題には答ええていない︒こうしてはじ
めて
︑
﹁こういうわけで﹂云々ではじまるつぎの説明が論理必然的となり︑
﹁ほ
んと
うの
困題
﹂
へとすすむことがで
きるのである︒節をあらためてこの問題を検討しよう︒
商人的業務の資本と企業とにおける集積
﹁こういうわけで︑これまでのところでは販売価格は切十同十(切+HC訂汗
τ
斗かさ盟から成っている︒販売価絡のこの部分は︑これまでに述べたところでは︑少しも困難を呈しない︒ところが︑今度はbが︑すなわち商人の前
貸しする可変資本が︑はいってくる︒
これがはいることによって︑販売価格は回+同十σ+(切+同)訂汗
τ
斗かさ瞳十ヴ打NHrJ斗がき盟となる︒Bは購入価格を補填するだけで︑Bにたいする利潤のほかにはどんな部分もこの価格につけ加えない︒K
は ︑
Kに
たいする利潤だけではなく︑Kそのものをつけ加える︒しかし間十円一
hNHτ
斗が謹盤すなわち︑流通費中の不変資本
の形で前貸しされる部分・プラス・これに相応する平均利潤は︑産業資本家の子のなかでは商業資本申水の手のなかで
よりも大きいであろう︒平均利潤の削減は次のような形で現われる︒すなわち︑まず完全な平均利潤が││i前貸産業
資本から∞+同が引き去られてからili計算されるが︑この平均利潤から切十日ハのために引き去られる部分が商人に
支払われ︑したがってこの引去り分が商入資本という特別な資本の利潤として現われるという形である︒
しか
し︑
σ
+
さ れ
Nυ
τJ﹃がさ謹については︑すなわち︑利潤率が一
O
労と想定されて︑るこの場合ではず+│﹁ずL H O
については︑事情は違っている︒そしてここにほんとうの困難があるのである﹂笥資本論﹄︑
第三巻︑三
O八ページ︑大
月査
一同
市出
版全
集︑
第二
五巻
︑三
七二
ペー
ジ)
︒
引用文中︑﹁K
は ︑
Kにたいする利潤だけではなく︑Kそのものをつけ加える﹂といっている︒ききに︑前節でb
について販売価格との関係をたずねたとき︑﹁b
は ︑
一つの新しい価格成分をなすのか︑それとも﹂云々といフて提
起されている問題そのものの内容を検討したが︑いまそっくり同じ関係にわかれたK
につ
いて
︑
﹁K
は ︑
Kそのもの
をつけ加える﹂という文章がなにをしめすかはまったくあきらかではあるまいか︒それは︑商品の販売価格にたいし
一つのあたらしい価格形成要素をなすものとして︑﹁Kそのものをつけ加える﹂のである︒
﹂の
こと
はす
でに
︑
この引用文の冒頭で︑販売価格が回十同十(切+同﹀打HHrJ斗おい謹監から成るとしていることであきらかにされてい
Kの問題を考察したとき︑商業資本の自立化の理論を抽象的に繰りかえして︑利﹁困難な点を精密に確定﹂すべく る
潤量や利潤率やの増加とか節約とかを云々したとしても︑繰りかえしは所詮繰りかえしでしかありえないことを指摘
したが︑不変資本と商品の販売価格との関係の問題・第二の困難の問題についていえば︑商品の取扱上消費したKを
自己の販売価格にたいするあらたな要素・名目的価値をなす要素として追加し︑買い手の収入によって填補してもら
う︒この買い手が生産的消費者・産業資本家だとすれば︑彼産業資本家にとっての収入・平均利潤の削減は不可避で
あって︑こうしていわば自由な可処分所得としての収入は︑その自由な使用にとって︑一つの璽大な制限をうけなけ
ればならない︒そしてこれは︑﹁商品のこれに相当する一部分がこの形態で絶えず支出されなければならず︑また
11
i
社会の総資本を見れば││この形態で絶えず再生産されなければならない﹂必要をも指示しているわけである︒
つ 寺
4F
商 業 労 働
九
R事
業
労 働
二O
り現物形態にかんしてのことである︒そしてこの費用・投下不変資本は︑利潤率均等化の法則にしたがって︑
利潤率の形成に参加ししたがって利潤率低下の原因となる︒﹁商人はこのような費用が存在しない場合に必要であろ
一般
的
うよりも多くの資本を前貸しするのであり︑この追加資本にたいする利潤は商業利潤の総額を大きくし﹂(﹃資本論﹄︑
第三
巻︑
三
O三ページ︑大月書底版全集︑第二五巻︑一二六五ページ)したがって産業資本家にとっての平均利潤・収入の削
減をもたらすのであって︑﹁だから︑この両方によって︑産業資本家にとっては利潤の削減がおこなわれる﹂ことに
なる︒すなわち総剰余価値一入
O
が︑生産的資本九00
・プラス・商業資本一四O
︑合
計一
O
四O
にたいして分配されることになる︒そこで︑一般的利潤率は一七色¥誌が加となるQこうして︑産業資本家は商品を商人に由︒︒+民間い
P
一戸ω
] 戸
︒
UH
lO明日
ーー
で売
り︑
商人
まそ
れを
一一
一一
O
つまり商品の価値に彼が支出して填補しなければならない物的な取引費用ロ ー
四
O
を加えた価格で売るのである︒ここで﹁平均利潤の削減﹂といい﹁完全な平均利潤﹂というとき︑一八
O
の剰余価値がまるまる総資本にたいして分配されることをふくみ︑
一入
O
から四O
を引去った残余の一四O
だけが分配されるのではない︒このことは︑完全な平均利潤のうちに表現されている諸関係のうちの︑重要な内容をなしている︒こ
れは︑﹃資本論﹄の別のところで︑
﹁前にあげた例で商人資本一
OO
のほかにさらに追加資本五O
が問題の費用のために前貸しされるとすれば︑今度は総剰余価値一八
O
が︑生産的資本九00
・プラス・商人資本一五O
︑合
計一
O
五O
に配分されることになる︒そこで︑平均利潤率は一七ミ
M
こ下がる︒産業資本家土商品を商人こむ00十日日i 同1U
HO
E‑
Ml
で売り︑商人はそれを一
l l l
寸 寸
一三
0 2
g o
は彼がさらに補填しなければならない費用)で売る﹂高資本論﹄︑第三巻︑三
+
包││乙の五O
O三ペ
ージ
︑
大A
書底
版全
集︑
第二
五巻
︑三
六五
1
一二
六六
ペー
ジ)
といって︑純商人的業務のための費用の追加によってもた︑りされるところの︑度合いを小さくし経路をごとにした
利潤率の減少について論じた思想とまったく同じものである︒しかも︑後者だけが集中的批判の標的にさらされてい
るのにたいして︑前者は承認されてそのまま受けいれられているかのごときまことに不公平な取扱いがなされている
当のものである︒
いまみた﹃資本論﹄の説明のなかで︑﹁平均利潤の削減は次のような形で現われる﹂云々といっていたが︑これこ
そ販売価格の要素である同十同打汗
τ
斗がき麓によっておこなわれる利潤削減の態様にほかならない︒これは︑すぐその前で﹁商人は︑第一にはこの不変資本を補填してもらい︑第二にはそれにたいする利潤を受け取るのである﹂と
いっているすでに検討ずみの説明にぴったり相応じたものとなっている︒さらにつけ加えるならば︑この説明にある
完全な﹁平均利潤﹂という言葉は言葉としては﹁商業利潤﹂の説明のなかではじめて出くわすものである︒これは︑
ずっとあとになって︑﹁一般的利潤率・・を最初に考察したときには(第三一部第二篇)︑まだこの平均利潤率はその完
成した姿ではわれわれの前に現われていなかった︒:・:︒この点は第四篇で補足され:::そこでは一般的利潤率と平
均利潤とが前よりも狭い限界のなかで現われたQ
資本
論﹄
︑第
一一
一巻
︑三
五
0
ペー
ジ︑
大月
書庖
版全
集︑
第二
五巻
︑四
二一
ぺ
ージ
︑傍
点
i
井田)といっている﹁利子生み資本﹂の説明の冒頭にある使い方にあたっている︒﹁商業利潤﹂の説明
l
によって訂正され補足され修正されたときの一般的利潤率には︑物的な取引費用四
O
は商業資本として計算されていなかった︒それはただ一
OO
としてだけ利潤率の均等化に参加するものとなワていたが︑いまは商業資本は︑一 OO
ではなくて︑このK部分をもふくめて一四
O
であってこの関係をさすものとして﹁完全な平均利潤の計算﹂といっているのである︒そして︑間もなくあらたに︑いまみている商業的賃労働者の可変資本の問題解決のあかつきには︑右
向 業 労 働
商.
業
労
働
の一
四
O
はこ
の一
O
をもふくむ一五O
となってより完全な関係をあらわして︑文字
どお
り︑
﹁平均利潤率はその完成
した姿﹂をとることになるのである︒
ところで︑こうした成果が︑﹁困難﹂におけるニつの区別︑物的な取引費用に関連した説明にみられる二つの区別︑
あるいはさらに利潤の削減の原因となる諸事情における二つの区別についての明確な認識に直接依存していることは
すでに示唆しておいたとおりである︒そして︑
﹁ほ
んと
うの
困難
﹂
をふくむbの問題についても︑この観点とさきの
KH
物的な取引費用についての説明とは︑b自身が販売価格の成分をなしかっ自己にたいする利潤をうけとるこの関係にかんするかぎり︑無条件に妥当する︒商人の前貸しする可変資本の問題を分析したマルグスが︑販売価格は∞+
同十ぴ十(切+同)打NHtJ
斗向
いき
醤十
ず打
NHτ
斗かき醤となる︑といっていることからみてもそうでなければならな
いQ
bKについての説明にならっていえば︑
は ︑
bにたいする利潤だけではなく︑bそのものをつけ加えるのだとい
う闘
係が
︑
Kの場合とまったく同様に語られているのである︒﹁一つのあたらしい価格成分をなすのか﹂どうかとい
うのがさきに提起されていた問題の内容だとすれば︑
﹁な
す﹂
といっていることについてはもはや疑問の余地はない
であろう︒問題は︑いまや︑bについてこのことの意味をあきらかにするにある︒つぎにみる引用文の説明を先取り
することになるが︑との費用bが可変資本であること︑したがってこの場合︑名目的とはいえ︑販売価格のあらたな
要素として追加されて商品の価値にはいるζとそのことが問題だというのだ︒ここまでくればもう解決されたも同然
といってよい︒
この問題にうつろう︒
﹁これが解決しなければならない問題なのだ﹂といって︑
﹃資
本論
﹄
は︑この間題についてつぎのようにいってい
。
。(商
人が
bで買うものは︑想定によれば︑ただ︑商業労働a:・でしかない︒ところが︑商業労働は︑資本が商人資
本として機能するために‑:一般的に必要な労働である︒それは︑価値を実現しはするが創造しはしない労働であ
る︒そして︑ただ資本がこのような機能を行今
71
il
つまり資本家がこの操作︑この労働を自分の資本で行なう
1 1
かぎりで︑この資本は商人資本として機能して一般的利潤率の規制に参加するのである︒:::︒ところが︑σ十ぴ打
汗
τ J
﹃・び当﹂醤では︑まず第一に労働に支払われ(というのは︑ぞれを産業資本家が商人自身の労働に支払っても商人
から支払を受ける者員の労働に支払っても同じことだから)︑そして第二に商人自身がしなければならないはずのこ
の労働への支払にたいする利潤が支払われるように見える︒商人資本は︑第一にbの払いもどしを受け︑第二にbに
たいする利潤を受け取る︒つまり︑このようなことは次のことから生ずるのである︒すなわち︑商人資本は︑まず第
一に︑自分が商人資本として機能するための労働にたいして支払を受けるということ︑そして第二に︑自分が資本と
して機能するので︑すなわち機能資本としての自分に利潤で支払われるような労働をするので︑利潤の支払を受ける
ということから生ずるのである﹂Q資本論守第三巻︑大月書底版全集︑第二五巻︑三七二
t
三七
三ペ
ージ
)︒
そしてさらに︑それぞれ販売価格についての算式をふくむ︑つぎの二つの説明を対置きせている︒
﹁B
日一
00
︑b
H一
O
︑利潤率H一O
勿と仮定しよう︒われわれはK
Hゼロとするのであるが︑そのわけは購買
価格のうちでここでは問題にならないすでにかたづいている要素を再び不必要に計算に入れないようにするためであ
る︒そうすれば販売価格は︑回+匂十σ十日ν
(H
切+
∞句
︑+
σ+
ヴ旬
︑ー
l q
一件
当醤
制)
H5
0十呂+呂十戸
H H
N H
と な
るで
あろ
う︒
商
業
労 働
商
業
労 働
二四
しかし︑もしbが商人によって労賃に投︑せられないとすれば!ーらはただ商業労働つまり産業資本が市場に投ずる
商品資本の価値の実現のために必要な労働に支払われるだけだから
i i
事柄は次のようになるであろう︒
BH
一C
︒で買ったり売ったりするために商人は自分の時間を費やすであろう︒bすなわち一
O
によって代表されている商業労働は︑もしそれが労賃によってではなく利潤によって支払われるとすれば︑もう一つの商業資本U一
OO
を前提する︒というのは︑その一
OM
はb u
一
O
だからである︒この第二のBU
一
OO
は商品の価格に追加的にはいらないであろうが︑しかし一
O
勿ははいるであろう︒それだから︑一OO
ずつで二度U二00
での操作が行なわれ︑商品をNC
O十
NOUNNCで買うであろう﹂Q
資本
論﹄
︑第
三巻
︑三
O九
ペー
ジ︑
大尽
書屈
服全
集︑
第二
五巻
︑三
七三
ペー
ジ)
︒
物的な取引費用たるKについてはすべての面であきらかにされている︒
販売価格一二一を構成している個々の要素をみると︑商人は︑資本一
OO
の人格化として︑利潤率一O%
という前提にしたがって︑商業利潤一
O
を取得することはいうまでもないとして︑なによりも︑支払ったbを払いもどしてもらうものとなっている︒これは︑商人資本は︑自分が商人的業務のための資本として機能するために必要な労働すな
わち商業労働にたいして支払を受ける︑ということをしめしている︒﹁商人資本は︑まず第一に︑自分がし云々といっ
ているときの商人資本にしろ自分にしろ︑いずれもこれは︑いまの場合でいえば︑商品買いいれのための資本たる一
00
を意味していて︑この一OO
の資本が︑商人資本として機能して︑産業資本が市場に投じる商品資本の価値を実現するために一般的に必要な商業労働への支払いにたいしての払いもどし︑ということである︒そしてつぎに︑商人
は︑この価格によって︑支払ったbにたいする利潤を保障してもらうものとなっている︒これは︑商人資本は︑自分
が資本として機能することによって︑この部分の支払いを受ける︑ということをじめしている︒﹁商人資本はそして