小学校国語科授業改善についての一考察 : 説明的文章の指導を中心に
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(2) 「小学校国語科授業改善についての一考察」. 一説明的文章の指導を中心に一. 目次. 1. はじめに. 第1章. 5. 現在の説明的文章指導の問題点一. 6. 第1節. 説明的文章指導の現状. 第2節. 内容主義と形式主義及びその問題点. 第3節. 内容主義的偏向と形式主義的偏向の今日的問題一一16. 第2章. 内容主義と形式主義の統一. 10. 25. 第1節. 小田逓夫氏の「レトリック認識の読み」. 25. 第2節. 森田義信氏の「筆者の工夫を評価する読み」. 33. 第3節. 藤井囹彦氏の「述べ方読み」. 45. 第3章. 授業の実際と考察. 64. 第1節. 授業の意図と目的. 64. 第2節. 授業の概要. 68. 第3節. 学習指導案. 74. 第4節. 授業過程とその考察一. 96. 第5節. 授業の反省と今後の課題. おわりに. 108 111.
(3) 資料. 授業実践記録 教材「カブトガニを守る」(光村4年上) 「雪国は今 一 」 (光村4年上). 謝辞.
(4) はじめに. ラ 現在、 「社会の変化に主体的に対応する能力の育成を図る」 必要性が 叫ばれている。このことから、国語科においても説明的文章指導の必要 性が求められ、様々な研究が進められてきている。各学校でも一入ひと りの教師が熱心に指導し、そして指導改善のための研究を行っているの である。しかし、子どもの文章離れ、説明文離れが一向におさまらない のも事実である。どのように一人ひとりの子どもを指導すれば、説明文 に興味や関心を示し、進んで学習に取り組んでいくのであろうか。. 私はこれらの原因の一つに授業の展開があまりにも機械的で形式的に なりすぎているからではないかと考えている。. 一般的な説明的文章の指導展開をあげてみると、 (1)段落分けをす. る(2)段落ごとの要点をまとめる(3)段落相互の関係をつかむ(4) 要旨をまとめるといった順序で進められているのがふつうである。この 手順が悪いというのではない。しかし、これらの手順がばらばらになり、. それらの相互関係がおろそかになっているのではないかと思われる。例. えば(1)段落分けをすることが目的になってしまい、段落分けするた めの段落指導になったり、 (2)段落ごとの要点をまとめることを重視. するあまり、それらが要点指導になったりする場合が多く見られるので ある。私はこれらの手順はあくまでも内容を読み取るための手段と考え ている。何のための段落指導なのか何のための要点指導なのかをはっき りさせていく必要があると考えられる。. 現在の説明的文章指導の問題点として大槻和夫は「ことばを操作する ラ だけの操作主義的読み方の指導」 及び「文章そっちのけで、もっぱら ヨラ 書かれている内容を問題にする授業」 をとりあげ、前者を「言語操作. 一1一.
(5) ラ. うラ. 主義」 、後者を「内容主義」 として次のように批判している。 形式的言語操作主義の授業では、 「文章全体をコンポジション的に分 析し、 (中略一引用者)問題提起の文と結論の文とをつなげば要旨がと シ らえられたとするような読みの指導」 になる。これでは「どのように. 論証していったのか、どのような論理になっているのかを厳密にとらえ、 アラ 吟味する作業は抜け落ちてしまう」 というのである。また、内容主義. の授業だと例えば『自然の破壊』という公害にかかわる文章を取り扱う. 場合「文章を読むということを抜きにして公害についてあれこれ調べさ ほう せたり(中略一引用者)話し合わせたりする」 ような指導になり、 ロ 「公害学習にはなり得ても読み方の指導にはならない」 と指摘してい る。. 私が疑問に思ったことも大槻が指摘しているように指導が「形式的言 語操作主義」に偏った指導になっているのではないかと考えているので ある。. そこで、私は「形式的言語操作主義」と「内容主義」の立場を検討し、 より望ましい説明的文章指導を明らかにしょうと考えている。もちろん、 ロロラ このような統一を目指した提案はこれまでにも小田玉壷 カラ. コ ラ. 、藤井囲池. 、森田信義. などによってなされている。私もこれらの提案をも参. 考にしながら、説明的文章指導の改善を目指したい。. 本研究では、小学校中学年を対象として要点指導、段落指導の在り方 を検討してみることにした。なぜなら、一般に指摘されているように 「形式的言語操作主義」に陥りやすいのがこの時期の指導と考えたから 13》 である。. 以上のことから本論では次のような構成で論述していく。. 第1章では、現在の説明的文章指導の問題点を明らかにするとともに 一2一.
(6) 形式的言語操作主義偏向と内容主義偏向の弱点を明らかにしょうと試み た。. 第2章では、形式的言語操作主義と内容主義の統一のためになされた 提案を分析し、典型的な授業と比較しながら改善点を明らかにしょうと 試みた。. 第3章では、1、2章をもとに授業実践をおこない、分析していった。 以上のような過程をたどっていくことで国語科説明的文章指導の改善に ついてほんの少しでも答えが出せればと思っている。. 一3一.
(7) 【註】. 1). 小学校学習指導要領 文部省 平成元 p. 1. 2). 大槻和夫. 「説明的文章の授業の現状と問題点」 太田政臣・大. 西忠治編著『たのしくわかる中学国語の授業』あゆみ出版198. 3年忌p. 125 3). 上掲書. p.. 4). 上掲書. p.. 5). 上掲書. p.. 6). 上掲書. p.. 7). 上掲書. p.. 8). 上揚書. p.. 9). 上血書. p.. 10)小田辿夫 11)森田信義. 128 127 128 127 127 129 129. 『説明文教材の授業改革論』明治図書1986 「筆者の工夫を評価する説明的文章の指導』明治図書. 1989 12)藤井囲彦. 「説明文の読ませ方をこう改善したい一『ことがら読. み』からe述べ方読み』への転換を一『教育科学国語教育』38. 1号 明治図書1987 p.p.5∼13 13)奥山正通「対段落過剰反応症候群こそ停滞の根源だ」『教育科学. 国語教育』第449号明治図書1991年p.31. 一4一.
(8) 第1章 説明的文章指導の現状と問題点. 現在、説明的文章教材を扱った研究に取り組む学校が徐々にではある が増えてきている。以前は、研究授業といえば大部分が文学的文章(物 け 語)を扱ったものであった が、今回の指導要領の改訂(思考力の育成 などの強調)の影響も加わり説明的文章指導もずいぶん注目されてきた う ように思われる。 また、グループや個人でも増えていることは教育雑. 誌での実践報告や店頭にならぶ教育図書の多さからも明らかである。. しかし、このような傾向に対して「説明的文章で何を教えていいのか はっきりしない。」とか「授業がマンネリ化してしまって子どもがのっ てこない。」などという用語もある。これらのことをも十分配慮して説 明的文章指導の在り方を考えていく必要があると私は思う。. 説明的文章指導において内容を教えるのは当然であるが、ただ内容 (情報)を読み取らせればそれでよいという指導では不十分である。内. 容を読み取ることを通して子どもに論理的な思考力や認識力を付けさせ ことが重要なのである。しかし、そこには大きな困難や問題もみられる。. それは、子どもが説明的文章を読むのは来知の内容を知るために読むの であり、文章の構成をつかむために読んだり、要点をまとめるために読 んだりはしないからである。多くの場合、子どもは内容が理解できれば それで満足するのである。一方、論理的な思考力や認識力を付けさせよ うとする場合には、単に言語操作的な学習にならざるを得ない場合もあ る。そのため授業が途中で分断されたり、子どもの思考がとぎれたりす ることが多いのである。これらの問題を解決するためには、内容と形式 的な言語操作との調和のとれた授業を明らかにする必要があると考えて 一5一.
(9) いる。. 授業を改善していくためにはまず現在の説明的文章指導の在り方を考 察し、そこにどんな問題があるかを把握する必要があると思う。. そこで、この章では説明的文章指導の現状をとりあげ、そこにみられ る問題を形式主義的考え方と内容主義的考え方の立場を基礎にして考察 し、明らかにしていこうと考えている。. 第1節. 説明的文章指導の現状. 一般的に子どもたちは、新しい教材を目にしたとき、 「それは何だろ. うか。」「いや、何が書いてあるんだろうか。」とわくわくした気持ち になることが多いように思われる。そして、その教材を手にしたとき子 どもたちは、教師の指示がなくてもどんどん読み進めるのである。この ようなことは、私も授業でしばしば経験していることである。しかし、. その教材をもちいていろいろ説明し、質問していく中で、子どもたちは 始めに持っていた目の輝きを次第に失っていく。このことは一体何を示 しているのだろうか。. そこには指導者(教師)の指導の在り方に問題があるようである。 現在の説明的文章指導の展開には、 (1)段落分けをする。 (2)段 落ごとの要点をまとめる。 (3)段落相互の関係をつかむ。 (4)要旨. ラ をまとめる。といった伝統的な手順で進められていることが多い。 こ のことは「国語科が音楽、体育などとともに技能教科とも言われ、社会 ラ 科、数学などの内容教科と対比的に位置づけられる」 ことによると思. 一6一.
(10) うが、あまり強調しすぎたり、形式化しすぎたりすると、退屈な授業に なりかねない。また、渋谷孝は「昭和三十三・四十三年の学習指導要領 国語科編が出されて、技能教科という立場が示されて、そこにたいへん 困ったことが起こったと私はみている。それは国語技能の形成を重視し さう すぎるようなことが起こったことである。」 そして、さらに「言語技. じフ 能それ自体が価値を帯びて一人歩きをし始めた。」 と述べている。技. 能を付けるための教材、例えば「事実と意見を読み分けよう」という言 語技能の目標を達成するために教材が選ばれるようになったということ である。これでは「説明的文章の読み方の指導が非常におもしろくない アラ ものになるのである。」 と述べているように、教材は単に言語的習得. の手段になってしまうということである。このようにして選ばれた教材 での指導は、段落分けをするならどこで分けるかというような言語的技 能指導だけが前面にでてきて(このような指導も必要ではあるが)機械 的な、いわば内容を伴わない無味乾燥な授業になりやすい傾向があるよ うに思われる。. 以上のような言語技能を重視した指導の在り方に対して、内容を重視 した指導も数多くみられるのである。内容を重視した指導は、文章の読 み取りにおいて新しい知識を与えることに重点が置かれる。そのため、. 叙述に従って内容を理解し、深めるのではなく、単に知識の習得のため の指導になる傾向がある。. 渋谷は、内容を重視した指導は、 「叙述のかたちに規定された「内容」. の読解であることを越えて、問題としての内容の読み取りになってしま いやすい。 「自然の破壊」 (学図二)とか、 「瀬戸内海と赤潮」 (三省. 一)などは社会科公害の授業のようになってしまったり、または、 「ヴ ェロニカ」 (血書二)、 「ラスコー洞窟の壁画」 (光村二)などは、美. 一7一.
(11) ラ 術の鑑賞のようになってしまったりしゃすい」 と述べている。これは. 中学校の指導について述べたものであるが、小学校の場合も同様なこと がいえると思われる。渋谷は、 『説明的文章の授業研究論』で「さけが ロラ 大きくなるまで」(教出二)の授業 について次のように考察している。. 教科書75ページの写真と第二章との関係の読み取りのところで 児童C24が、 「川底をほっているようにも見えるし、たまごを うめているところのようにも見える」と言っている。それについ て授業者が次のように言っている。. まったく、そうですね。でも、どうかなあ。この写真のよう すから見ると、尾びれでありったけの力をふりしぼって、川 をほっているようだから、 「川底をほっているところ」とし ましょう。そのわけをお話しますとね、 (阿部嚢著『サケの. 一生』の読み聞かせをしながら)「たまごをうめる」時は、. たまごをうむためにほった川底よりも、ちょっと上流に暗い でいって、尾びれをふるのです。 (中略)この写真は、その. ように見えませんね。だから尾びれで「産卵床」をほってい るところとしていいでしょうね。. ここは一種の補いである。一見すると読み取りを深めたように思 われるが、ここが問題となるところである。もしも、精読段階にお いて、このような補いを行ったとしたら、それは文章の叙述の読み 取りを深めたことにはならない。叙述された「内容」の吟味ではな to) くて、現実の次元における事柄としての内容に近づいていく。. 渋谷が「叙述された『内容』の吟味ではなくて、現実の次元における 一8一.
(12) 事柄としての内容に近づいていく。」と述べているのは、補助資料によ ってその教材に取り上げられている内容(事実や事象など)そのものを 深めることはできても、叙述された「内容」を深めることにはならない ということを意味していると思われる。教材に取り上げられた内容に関 する補助資料を使えば子どもの読み取りが深まるとする指導は、内容主 義的な考え方でもあり、普段の授業でもよく見かけるものでもある。. さらに、渋谷は「叙述された内容の自律的なまとまりが、文芸作品に 対比したときには劣っているので読み取りが、より正確に豊かにするこ とを目ざして種々の補助資料が使われることがある。 (中略)ただし、. 補助資料にたよりすぎると、現実の次元の素材や現象が主要教材の座を うばいかねないことになり、そこからの知識の習得に傾き、読み方教材 としての独自性が失われて、社会科や理科の授業に限りなく接近したも ロリ のとなりやすい。」. とも述べている。説明的文章指導において補助資. 料を使うときには十分注意しておかないと、国語科と社会科や理科の混 同が起こるというのである。このように、渋谷は、極端な内容重視の指 導で陥りやすい問題点を補助資料の扱いを例にあげて述べているが、こ の他にもまだ問題があるように思われる。それらについては、第3節で 述べることにする。. 以上、説明的文章指導には、言語技能を重視した指導と内容を重視し た指導というように大きく分けて2種類の型があるのである。大槻はこ き れらの2種類の型を、前者を「形式的言語操作主義」 ロ ラ 「内容主義」 と呼んでいる。. 一9一. と呼び、後者を.
(13) 第2節. 内容主義と形式主義及びその問題点. 前節において、説明的文章指導の在り方に2つの型があることを述べ てきた。またそれが、 1つは「内容主義」であり、もう1つが「形式主 義」であることも述べた。. ここではこの「内容主義」「形式主義」とはどういうものであるのか をもう少し明らかにしておこうと思う。. 内容主義. この立場は、文章の内容を重視し、知識を与えることに重点が置かれ る指導である。そのため、書かれている内容そのものについての理解を 深めることに指導の中心が置かれている。そのため、内容の不足を補う ために、それに関係する資料を利用することもしばしばある。. 内容主義は説明的文章指導においてその内容の理解を重視する考え方 である。. サ ラ 飛田多喜雄は、このような指導は、明治時代の『読本』. において顕. 著であったとしている。すなわち、 「内容偏重の立場をみるに、読みの. 教授は文章に盛られた内容を教えるにねらいがあるとした。読みは読み、 内容は内容として、きれぎれに取り扱われ、しかもその内容に至っては、. 文章内容から脱線した新知識のつけたしを得々と教えるような授業もあ カらフ. つた。」. と述べ、文部省読本の第五巻「汽車のたび」の教授例をあげ. 16》 ている。. 〔教材〕十一. 汽車のたび. 小太郎は、おとうさんと停車場にいきました。ふたりはこれから. 一10一.
(14) をばさんのところへ行くのです。. 停車場では、もう人がおほぜい切符をかっていました。ふたりも 切符をかってまっていました。. まもなく汽車がけむりを出してむかふから来ました。. はじめは機関車ばかり見えました。小太郎は、汽車があまり早く. 来るから、おとうさん、汽車はここにとまりませうか。」とたつね ました。おとうさんは、 「とまります。」といひました。そのうち に汽車が着きました。. ここの停車場で、人がおほぜいおりました。入りかはって、また おほぜいのりこみました。すると、きてきがなって、汽車が動きだ しました。. 小太郎はおもしろがって、まどの中からそとを見ていました。汽 車がだんだん早くなってきて、山も川も後の方へとんで行くやうに 見えました。たんぼで働いている入も、みちをあるいている人も馬 も車も、見えたかとおもふとすぐ後になってしまひました。. 目的. 内容一停車場で切符を買ふときの心得・並に性質に関する知識を与へ る。. 教授. 目的指示一今日は小太郎といふ子供が、おとうさんと汽車に乗って、 をばさんの処に行った話の書いてある処をおけいこするのであります。. 予備一左の問題につき対話 △諸子は汽車に乗ったことがあるか。 △停車場はどんな処か。. 一11一.
(15) △停車場に行って汽車に乗らんとする時には如何なる手続きをなすか。 △切符とはどんなものか。又如何なる色をしているか。. 教授一その順序は左の如し △左の諸項につき内容の知識を与ふ(対話及び講演). ×切符を買ふ時の心得×改札前後に関する談話×切符の種類及び有効 期限に関する談話 △左の順序に従って形式の教授. ×「行く」という新字の読み方及び書き方教授×教師範読を示す×児 童に素読の練習をなさしむ×教師話し方の模範を示す×児童に話さし む. 練習一その順序左の如し ×左の漢字を本につきて書かしむ 小太郎 停車場 切符 ×左の新語をして各自に短句を綴らしむ 停車場 切符 これから 行く ×本をはなれて文意を話さしむ. ×板上にある漢字を消し去って「行く」といふ字の書き方を口唱せし む. この例をみると当時の内容主義的指導の在り方が分かる。 予備において△…如何なる手続きをなすか。△切符とはどんなものか。. 又如何なる色をしているか。また、教授において×切符を買ふ時の心得 ×改札前後に関する談話×切符の種類及び有効期限に関する談話などは、. 教材にはなにも書かれていない。しかし、教師が児童にとって必要な知 識とみなした場合、それを教え込むのである。 飛田はこの指導について、 「これでは文章の蔵する読解内容や技能教. 一12一.
(16) リア 授にはなっていない。」 と批判している。また、 「当時の他の教授書. ロ フ をみても大同小異である。」 とし、当時の指導が内容のみを重視して. いると指摘している。. 形式主義. この立場は、飛田によれば、内容主義の指導の欠点を補うために起こ ったものとされている。すなわち、 「現場における行き過ぎた内容偏重. の動向に対して、明治四十一年ごろから形式重視の風潮が強くなった」 19》. というのである。. 形式主義は、 「国語教授の主たるねらいは発音・文字・語句・語法な ロフ どの形式や国語の理解そのものにあると」. されている。そのため、内. 容にあまりふれない教授となる傾向がある。飛田は、当時の教授書を調 べ、 「懇切ていねいな六書に触れた字源教授や、機械的な語句の取り扱 り い例が数多く示されている。」. と述べ、形式主義は、子どもに文字、. 語法、修辞法などの言語技能を教えることに重点が置かれた指導法だと している。. 内容主義と形式主義の対立することを批判する形で、大正11年に垣 おう 内松三の『国語の力』よっていわゆる「形象理論」. が打ち出された。. 垣内は芦田恵之助の「冬景色」の授業を分析し、 「1.文意の直観 2.. 構想の理解 3.語句の深究 4.内容の理解 5.解釈より創作へ」 24》. という展開の順序を示した。そして、文の内容と形式とは対立するも. ちフ のではなく、それらは「相互に内在的関係に置かれる」. べきだと述べ. ている。これは当時の国語の学習が内容主義と形式主義の対立によって ビラ 「無用の思弁のために煩はされ悩ませれて居る」. ことに対してセンテ. ンスメソッドの観点より前記の展開の順序を示すことによって「内容と アラ 形式の区別も無ければ、内容主義形式主義という対立も無い」. 一13一. という.
(17) ように、この2つを統一しようとしたものである。 このことは、当時の国語教育界において大きな影響を与えたであろう と考えられる。飛田が「『国語の力』はその名の示すごとく、マンネリ. ズムに陥っていた国語教育界に新生の魂を吹き込んだばかりでなく、実 にこの国の国語教育史上コペルニクス的回転の役割を果たすことになつ シ. た。」 と述べていることからも推察がつく。. また、昭和10年には、石山修平は、 e教育的解釈学Sで、形式主義 と内容主義の弊害を指摘している。前者については、 「語句の一般的意. 味とそれの文法的関係とを理会することは解釈の第一着手であり先決要 リユ. 件」. であるとしながらも、 「それにも拘わらず、形式の追究語学的穿. 墾がそれ自身のために行はれて、文の解釈を停滞せしめ乃至迷路に導く ロラ ことの弊害は世上に顕著なる事実である。」. と述べ、後者については、. 「卓越せる天才に於いてでない限り、常人に於いては多くは独断的解釈. に陥り、軽卒なる『早呑み込み』に堕することの危険を十分に警戒しな コ う ければならぬ」. と述べている。つまり、 「内容主義は解釈の深さを求. めて客観性を失ひ易く、形式主義は解釈の客観性を求めて深さを失ひ易 き フ. い」 というのである。そして、これらの弊害を解決するために、両者 の弁証的止揚として形式と内容との一体を説き、 〔通読段階の任務〕素. 読一注解一文意の直観〔精読段階の任務〕主題の探究・決定一事象の精 査及び統一一情調の味得または基礎づけ一解釈的構想作用一形式による 自証〔味読段階の任務〕朗読一高諦一感想発表〔批評段階の任務〕内在 きヨラ 的批評一超越的批評という実践過程を発表した。. さらに、石山は『国. 語教育論』でこの過程に対して修正を加え、 〔通読〕(一)全文の素読 (二)未知難解の文字語句の註解(三)内容の概観〔精読〕 (一)内容 の探究(二)形式の吟味〔味読〕 (一)朗読(二)暗訥(三)演出(四). 一14一.
(18) るラ 感想発表の三段法を発表した。. 飛田によれば、 「この方法は戦後の単. 元学習、さらに技能主義等の読解指導においても、ある部面では活用さ き う れつつ今日に到っている。」 というのである。ということは、石山が. 内容主義と形式主義の統一を目指したにもかかわらず、実際にはそれが ) 完全には実現できなかったということになるのである。. 戦後においては、昭和三十三年の学習指導要領改訂にともない国語科 において読解技能ということが、各指導事項として示されたため文章の 叙述形態の学習ということが特に説明的文章指導において重視された。. 浮橋康彦もこのことについて「二十二年版・二十六年版において、も っぱら指導内容の重点と考えられていたさまざまの「読み物」一目にふ れるすべての文章一というものが、三十三年版では、 「指導事項」では なくなっている。 「何を読むか」が国語学習内容なのではなくて、その 読み物は、 「指導事項」を実現するための手段・媒介・機会として、 「活動事項」として位置づけられた。つまり、指導すべき内容は、 「何. を読むか」ということではなくて、技能・態度・読み方だということを はっきり示したのである。これは、言語活動中心主義から、技能中心主 ラ 義に移行したものと見てよい。」. と述べている。このことかち、昭和. 二十から三十年代の学習指導要領改訂にともない内容と形式について揺 れ動いていたことが分かる。その原因について、渋谷は「技能教科とい う立場が、明治以降の国語科教育史においてはじめてはっきりと示され たのである。ただその技能教科という主旨は誤解されて、文章の叙述の アラ かたち自体が学習すべき目標と考えられたのである。」. と述べている。. このように「内容主義」と「形式主義」については明治時代から少し ずつ形は変えながらも対立は続いているのである。. しかし、現在では、特に強調してこのことをいう研究者はあまりみら 一15一.
(19) れないように思われる。また、 「内容主義」と「形式主義」はひとまず. 落ちついたという研究者さえもいるのである。例えば、倉澤栄吉は「今 ラ 日では形式主義者も内容主義者もいない」. とし、 「内容問答に片寄っ. たり、言語要素の反復練習を重視しすぎたりする実践を反省することな ヨむう く行う人はきわめて少ない」 と述べている。私もこのことについては. 一応認めてよいと思う。実際、小学校の国語の指導において、明治時代 にあったような極端な授業を提唱する実践家も少ないし、 「内容問答に. 片寄ったり、言語要素の反復練習を重視しすぎたりする実践を反省する ことなく行う」実践家もいないであろう。そのことは、実践報告や研究 授業においてもみられることである。. 以上、 「内容主義」と「形式主義」について歴史的な概要を述べてき た。.また、これらの対立は、一応おさまったようにもみられるが、私に. は現在も様々な形で残っているように思われる。それゆえ、説明的文章 指導の改善にはどうしても避けて通れない問題であると考え、歴史的考 察を試みることにした。. 次の第3節では、これらの偏向の今日における問題を考察してみたい と思う。. 第3節. 内容主義的偏向と形式主義的偏向の今日的問題. 内容主義的偏向の問題. 内容主義的偏向の指導では、子どもに新しい知識を与えることに重点. 一16一.
(20) が置かれる。そのため、書かれている内容そのものについての知識や理 解を深める指導になる。時には、実物やそれに関係する資料を持ち込ん での指導となる場合も多い。特に理科的・社会科的なものごとを扱った 説明的文章指導においてそのようなことが行われるように思われる。例 えば、 「じゃがいもの花と実」という文章の読みの授業において、実際. に学校法にじゃがいもの種をまいて、成長の様子を観察させて指導した ロラ. リ. 、 「自転車の歴史」という文章の読みの授業において、教師がその. 当時の自転車を再現(木馬型、 ドライス型など)し、実際児童に試乗さ う せて指導したり するといったものである。もちろん、そのようなこと. を児童に経験させることが無意味ということではない。読みの指導にお いて、そのことのみに終始したり、中心に据えたりすることが問題なの である。. 渋谷は、 「文章を読んで分かるということは文章中のものごとと実生. 活上のものごととを対応させて確認することではない。科学読み物を読 みとって分かるということは、学習者が既有の体験的知識や考え方を基 コ 盤として未知のことを類推でき、想像できるということである。」 と 述べている。このことから考えると、 「じゃがいもの花と実」の指導で. は、じゃがいもの成長の様子を文章から類推し、想像することが大切な のであり、また、 「自転車の歴史」の指導では、教師が前もって作った. 木馬型やドライス型などの自転車の不備な点などを、文章から類推し、 想像することが大切であると考えられる。. 渋谷は、上記の例のような内容主義的偏向指導の問題として、さらに 次のように述べている。. 「このような立場(文章中のものごとと実生活上のものごととを対応さ. せて確認する一引用者)を推し進めようとしても、ただちに行きづまる 一17一.
(21) ことは目に見えているではないか。 『ビーバーの大工事』 (東京書籍二 年)、 『海をわたるちょう』(日本書籍五年)、 『フシダカバチの秘密』 (光村図書中学・一年)、 『さまよえる湖』(教育出版中学一年)などの. 教材について検討してみれば明らかなことである。素材としてのものこ 4S) とに、一・つひとつ、つき合わせることは不可能なのである。」. であるから、内容主義的な考え方を強調していくと教材の幅が狭めら れてくるという問題も起こってくることになるのである。. ただし、先に挙げた例で、文章を読みとった後にじゃがいもの観察な り、自転車の試乗などをすれば、児童は以前とは違ったものの見方、考 え方をするようになり有意義な指導になると思われる。. 形式主義的偏向の問題 形式主義的偏向の指導は、文園の作成とか段落の構成とか指示語、接 続語の意味を把握するというようなことに重点を置いて、文章の形態や 文法についての指導だけでおわりにしてしまいやすい。文図の作成や段 落分けなどが指導の目的になってしまい、それができれば児童は文章を 読み取ったと錯覚してしまうのである。文図の作成や段落分けは、あく. までも叙述されている内容を読み取るための手段ではないだろうか。ま た、文図の作成とか段落分けなどのみに重点を置いて指導すると、内容 を伴わないものになり、子どもたちが求めようとしているものとは直接 結びつかないようにも思われるのである。. 大村はまが次のように指摘している部分は大変参考になる。. 「『段落はどう分かれるのですか。』これもよくたずねられる問いで すが、段落を考える必要のある場面にぶつかってもいないのにこういう. 一18一.
(22) ふうに聞くことは一つのマンネリズムであり、国語の時間をたいくつな ものにしそうです。 (中略一画面者)ですから、段落を特に問題にする. ならば、それだけの理由があるときにしたいと思います。たとえば、あ る文章の要旨を取りまちがえていて、それが段落に注意して読んでいな いことから起こった思い違いであることが分かったときなど、段落指導 というものが生きてくるのだと思います。ですのに、だれも読み違えて いない場合に段落を分けてみなさいということは、ほんとうにいらない ことをしていることになると思います。何も心血が起こっていないとき. に、ただ文章がでてきたから、そして、論説文であるから段落を切らせ. 44) る、ということではあまり意味がないと思います。」 このように述べられているところに、そのような「あまり意味がない」. 指導、すなわち何のための段落指導なのか見通しのない指導をしている 教師がいかに多いかということを批判されているようにも読み取ること ができる。読む目的が曖昧になることが、形式主義的偏向の一つの問題 といえるのではないだろうか。. 次に、あまり形式主義的な指導に偏ると文章を機械的に操作し、内容 を読み取らなくても読んだようになってしまう危険性があるということ である。例えば、文章の要旨を考えるとき、叙述されている内容よりも、 書き方に注目させ、 「どこに問題提示されているか。」「結論の部分は. どこか。」と問い、文の形や接続語などの言葉からそれらを検証させて、. 問題提示文と結論の文とをつなぎ合わせることによって要旨をとらえた とするようなものである。これでは、どんな力が付いたのか分からない のである。大槻は大学入学試験の採点をしていて、このような言語操作 をしてまとめたと思われる答案にしばしば出くわすことを述べている。. 一19一.
(23) 45》. そして、そこには「筆者の内在的論理をおもてにひき出し、読み手の. 思考をくぐらせて要旨をとらえるという、本格的な要旨のとらえ方はな ほう されていない。つまり、分かってはいないのである。」. と述べている。. 私も、大槻が指摘するように、文章の形や文法的な事柄が分かっても、. 読み手自身が書いてある内容について認識し、思考をはたらかせなけれ ば文章を読み取ったことにはならないと思うのである。このような指導 では授業が無味乾燥なものになるだろう。. 一20一.
(24) 【註】. 1)野口芳宏著『鍛える国語教室』NO,15 1990年明治図書pp18∼ 19 ある県の調査、校内でとりあげた研究主題の傾向を次のよう にあげている。. ・文学的教材の鑑賞指導…78% ・説明的教材の読解指導…11% ・作文の指導. … 7%. ・言語事項の指導他. … 4%. 2)平成元年の学習指導要領の目標と昭和52年の学習指導要領の目標 とを比較すると、 「思考力や想像力を養う」ことが加えられている。. 3)大槻和夫「自問自答としての読み」 『教育科学国語教育』第353. 号1985年明治図書p.12 4)渋谷孝著『説明的文章の教材本質論』1984年明治図書p.24 6. 5)上掲書p.45 6)上掲書p. 45. 7)上掲書p.45. 8)上掲書p.247 9)渋谷孝心e説明的文章の授業研究論』1985年明治図書p.p. 57 一一 104. 10)上掲書p.109 11)上掲書p. 109 −21一.
(25) 12)大槻和夫「説明的文章の授業の現状と問題点」太田政臣・大西忠. 治編著『たのしくわかる中学国語の授業』あゆみ出版1983年 p. 127. 13)上掲書p. 128 14)明治三十年代まで、今日のような理科が無かったし社会科もない。 また、今日のように文芸教材が極端に少なかったので、 『読本』の 文章の題材は、 ミニ百科事典の項目のように多種多様にわたってい. た。 (国語教育研究所編『国語教育研究大辞典』明治図書pp.2. 33∼234) 〔渋谷孝一稿〕. 15)飛田多喜雄著『国語教育方法論史』1979年明治図書p.61. 16)上掲書p.p.61∼62 17)上掲書p.63 18)上掲書p.63 19)上掲書p.65. 20)上掲書p.65 21)上掲書p.65 22)上掲書p.66 23)形象理論は、社会主義リアリズム論における「オーブラズ(形象)」 の用語との混用もあり、今日においては、多義的で曖昧な用語で あることは否めない。しかし垣内はこの語を社会主義リアリズム. の理論が移入される前に自己の文学理論の核として使用した。形 象理論は、もともと日本文学を対象とする国文学の研究方法とし て出発し、対象の本質を規定する理論として構築されたものであ つた。ところが、それは、国語教育の教授理論として論議される. 一22一.
(26) ことが多く、なかでも、読み方教授の方法論としてとらえられが ちであった。 (国語教育研究所編『国語教育研究大辞典』明治図. 書pp.235∼238 〔横山信幸一稿〕 24)垣内松三著『国語の力、国語のカ(再稿)』1977年明治図書 p. 32. 25)上掲書p.40 26)上掲書p.40 27)上掲書p.41 28)飛田多喜雄著『国語教育方法論史』1979年明治図書p.12 2. 29)石山脩平著『教育的解釈学国語教育論』19.73年明治図書p.. 79. 30)上掲書p.79. 31)上行書p.p.80∼81 32)上掲書p.81. 33)上掲書pp.104∼120 34)上掲書p.p.282∼303 35)飛田多喜雄著『国語教育方法論史』1979年明治図書p.20 6. 36)浮橋康彦「読むカ」全国大学国語教育学会編『講座国語科教育の. 探究3s1981年明治図書p.43 37)渋谷孝著『説明的文章の教材本質論』1984年明治図書p.2 48 38)垂直栄吉「国語教育における形式主義・内容主義」田近淘一・井. 上尚美編著e国語教育指導用語辞典』1984年明治図書p.2 −23一.
(27) 61. 39)上掲書 p.261 40)渋谷孝著『説明的文章の教材本質論』1984年明治図書p.1 28 41)奥村雅幸著『自己教育力を高める教授学習過程の研究』1989 年兵庫教育大学大学院修士論文. 42)上掲書p. 128 43)上掲書p. 128. 44)大村はま著e国語教室の実際』1973年三文社p.88 45)大槻和夫「形式的言語操作主義からの脱却を」『教育科学国語教. 育S第312号1983年明治図書p.54 46)上掲論文 p.54. 一24一.
(28) 第2章. 内容主義と形式主義の統一. 第1章において、現在の説明的文章指導の問題点を内容主義と形式主 義との観点から考察してきた。そして、説明的文章指導の改善には内容 主義と形式主義の統一を目指すことが重要になるということを述べてき た。. この章では最近の国語教育界において、内容主義と形式主義の統一を 目指した提案を考察していくことにする。それは1つは小田迫夫の「レ ロユ トリック認識の読み」 であり、2つ目は森田信義の「筆者の工夫を評 ラ. ラ. 価する読み」 で、もう1つは藤井囲彦の「述べ方読み」 である。 これら三つは、それぞれ相違点はあるが、子どもに筆者の表現上の工 夫を意識させることによって、内容と形式を統一的に理解させようとし たものと思われる。以下、順を追って考察していくことにする。. 第一節. 小田迫夫氏の「レトリック認識の読み」. 1 説明的文章指導(内容と形式)について 小田は説明的文章指導の史的考察を大正期を垂心におこなっている。. それは、明治期においては「実科教材(説明的文章一引用者)が国語読 本の大部分を占めていたときは、読み方教育の中でとりたてて説明文教 ひ 材の指導法を強く意識することはなかった」 が、大正期に「文学教材. を国語科の主教材と見なし、宅の読ませ方を問題とするようになってか. 一25一.
(29) ら、それと対比される形で、それ以外の教材をいかに読ませるべきかが ヨラ 問題意識にのぼってきた」 からと思われる。つまり、大正期に説明的. 文章指導の在り方が問題にされるようになったというのである。. 小田は、そこでの指導の在り方を 一 文学教材の鑑賞読みの性格を含ませようとするもの 二 説明文の表現法を学ばせ、知的思考力を育てようとするもの 三 調べ読みによる読書活動に導こうとするもの う というように三つの方向性を持つものとして分類している。 そして、 「一は主として表現主体(書き手)の思想・感動を追体験させる読み、. 二は主として表現形式および思考方法を学ばせる読み、三は主として表 アラ 現対象を追究させる読みに向かうもの」 と述べている。これを内容主. 義と形式主義の観点から見ると、一・と三が内容主義的指導であり、二が. 形式主義的指導であるといえる。小田は、現在の説明的文章指導は「表 現形式を伝達のための形式とのみ見ないで、そこに表現主体の対象認識 ロラ のしかたを見出そうとする」 とみている。これは、 「批判読みの立脚 ラ. 点」 である。. 小田は「読む対象となる言語作品を表現主体(こころ)・表現対象 ロラ (ものごと)・表現形式(ことば)の相関関係から成り立つもの」. と. みている。そして、この立場から、明治期、大正期の説明的文章指導に ついて「明治期の読み方指導では、ことばか対象かの一方を求める読み が多かった。大正期は、その両者を合致させる方向が求められ、さらに その合致の拠点たる表現主体のこころを読みとらせようとする方向に向 コ う かった時代であった。」. と述べ、現在の説明的文章指導、すなわち. 「主体の対象へのかかわり方をその表現のしかたに見ようとする」読み. 方の前提条件は、すでに大正末までにととのえられていたと考察してい. 一26一.
(30) ロ う. る。 このように小田は、ことばと対象の合致、すなわち形式と内容の. 統一が大正期に求められ、形象理論を経てひとまず理念的には解消され たと指摘しているのである。しかし、:大正期の読み方指導が文学を中心. とした形象読みであったことから小田は「形象読みとは異なる立場から、 その表現形式を学ばせる必要がある」 と述べている。小田の考えには、. 大正期の内容主義と形式主義の統一を目指した先入の研究をふまえつつ も、新しい視点に立とうとする意志が見られるのである。. 2 レトリック認識の読み 小田は説明的文章指導が不活発になる要因を「“説明”という表現方 法すなわち文体(描写体、物語体に対する説明体)の抽象的伝達性にあ り、しかもその理解に正確性、論理性を求める読ませ方の形式化、画一一 コ ラ 化にある」. とし、その活性化の手だてに「レトリック(修辞学)の原. コ ラ. 理」 を活かそうとしている。 「レトリック」について調べてみると、 「伝達を効果的にするための. 技法の総称。中国や日本では、伝統的に文章表現を効果的にするための ロうラ 技法についていう」. とあり、一一般には主として表現上の技法と考えら. れている。しかし、小田は、井上尚美がレトリックを定義したところの ロ 「効果的なコミュニケーションのための技術」. に着目し「効果的なコ. ミュニケーションということは、ひとり表現者の技法の用い方だけで決 のフう まることではなく、理解者の理解の仕方とあいまって達成される」. と. 考えたのである。つまり、文章が伝達のためにレトリックをもって表現 されたものならば、それが成立するためには読み手が書き手のレトリッ. クを理解できなければならないということを意味しているだろうと思わ れる。. 小田はこのようなレトリック観に立ち、説明的文章指導では「読み手 一27一.
(31) の教材文体への感応力を増幅させるような読ませ方を工夫することであ り、あるいは、その教材を読む目的・必要を学習者に意欲的に持たせる ユヨラ 手だてを指導過程の上に施すこと」 が望まれると述べている。これは、. 説明的文章の叙述内容がいつも読み手にとって一義的な意味として伝わ るのではなく「すべて、対象認識とその伝達の過程で、表現者と理解者 の個性、立場、状況などの差異によって、その表現→理解にずれや障害 セ ラ を生じること」 を前提としている。そのため、教師は読み手の理解を. できるだけ正確なものにするために、 「書き手のレトリックを読み手に ロう. つなぐ」 すなわち、書き手が読み手に分からせようとするために用い ているレトリックを読み手に意識させるような指導をする必要があると いうのである。つまり、 「読み手の教材文体への感応力を増幅させるよ. うな読ませ方」とは、書き手のレトリック意識を読み手(児童)がより. 強く感応できるように、教師自身も書き手のレトリックを把握し、それ を児童につなぐ指導の工夫をおこなうようにすることなのである。小田 け はこのような教師の「レトリカルな指導力」 に期待しているように思 われるのである。. 3 レトリック認識の読みの実践例 小田は、書き手のレトリックに対する読み手の感応を増幅させること. に成功した例として『季刊文芸教育』24号(明治図書・昭和53年8 月刊)に掲載された「『旅だつ種子たち』の授業」をあげている。 「旅だつ種子たち」 (日本書籍5年上). 植物は、日光・空気・永・栄養分によって、生命を保ち、成長を続け る。それと同時に、植物は、種子を作り、その種子を分散させ、自分の 種族をできるだけふやそうとする。ところが、多くの植物は根によって 土にくぎづけされている。そこで、ある種の植物たちは、自分の種子を. 一28一.
(32) さまざまな方法で、手もとから遠くへ旅だたせようとするのである。 (中略). このように、植物の種子の中には、いろいろなしくみで散らばってい くものがある。その方法はさまざまであるが、すべて、一つの意志に支 配されているといってよい。その意志というのは、最初に述べたように、. できるだけ、自分の一族をふやし、栄えさせようということである。種 子が親の植物の根もとに落ちたのでは、親op植物と、同じ土申の水や栄 養分をうばい合うことになる。えだを広げる空間もないし、日光もじゅ うぶんに浴びることができない。そこで、親の根もとで育ちにくい植物 の種子たちは、安住の地を求めて旅だつ。そして、新しい場所を得て、. せいいっぱい成長し、また新しい種子を育て、それを旅だたせるのであ る。. 指導者が題名に着目し教材研究をおこなっていることに対して、小田 は、教師自身の「増幅読み」として考察している。 「『旅だつ』という語韻には、単に『旅に出る』とか『旅に出発する』. という感じだけでなく、昔、遠くの旅に出た旅人たちが、妻や子と水さ. かずきをかわして旅だっていったおもいが、そこに感じられ、何か『旅 だつ』とは、一生のうちでも大事な『旅』に出かけるのだという意味を ふくんでいるように読みとれるわけです。 そして、本文全体から筆者は『植物の輪廻s 『自然の摂理の偉大さ、. 不思議さを理解させようとしています』と授業者は述べた上で、さらに しかし、このことは、植物の世界のことだけでしょうか。作者がなぜ 『旅だつ種子たち』と擬人法を用い、比喩として人間生活にかかわりの. あるものを出しているのは何故なのかを考えさせ、人間の世界でも、子. 一29一.
(33) どもは親から離れて旅だって自立し、また子を産み育て、やがてその子 も旅だっていくことに気付かせたい。. というふうに述べて、自然現象の合目的性を入間の生活行動に結びつ け、自然のありようから人間のあり方に思いを及ぼすといった方向での ラ 増幅読みをおこなっている。」. というように考察している。. これを見て分かるように、小田は教師自身による書き手のレトリック 読みを重視しており、書き手のレトリックと読み手(児童)をつなぐこ う とは「授業者の読みの主体性の強化によってもたらされる」. というの. である。つまり、教師のレトリカルな指導を重視しているのである。 マるラ そして、 「授業は授業者の意図どおりに展開した。」. として、その. ポイントにあたる部分のみ、引用している。. T…そうすると作者は、みんながいってくれたように、入に似せて書 いたり、人間のように書いているのだけど、何故こんなふうに植物 を入間のように書いたり、人間に関係あることを出したりしている のだろう。. (班での話し合いが、活発に行われる) マ♂一画面づマ. Cはい、作者がなぜそういう書き方をしているかというと、植物は親 でしょう。種子は子どもで、親は子どもを生んで、その子は大きく なるとお嫁さんにいくでしょう。そしてまた、子どもを生んで育つ ていくから、何か人間とおなじようだからじゃないかと思いました。. Tそうね。すばらしい意見ですね。そうなのね。作者は植物や種子、 こういうものは何ですか…『自然』ですね。自然のことを書いてい るんだけど…。,. Cああわかった、人間と同じなんだよって言いたかった。 一30一.
(34) T人聞の生き方の問題をみんなに、なげかけていたのですよね。. Tもう一度題名の『旅だつ種子たち』を考えてみましょう。みんなに 何か呼びかけているんじゃないかな。. C『旅だつ子どもたちよ』といっている。 Tそうね。 『旅だつ子どもたちよ。』あなたたちも、やがて大きくな. って親のもとをはなれてお嫁にいき、新しい家庭を作って、また子 どもを生み育てて、やがてその子も旅だっていくんだよと、作者は 25) 読者であるあなたたちに呼びかけているんだと思いますよ。. 小田はこの実践について「授業者がきわめてレトリカルな指導力を発 ほコ 回した授業である」. と述べている。それは、 「書き手の擬人法のレト. リックに対する読み手の感応をいわば読み手本位に大きく増幅させるこ. とによって、一般の説明文教材の読みでは得られにくい情的な感動が教 フフ 室を満たした」 からである。授業者が読みとった書き手のレトリック. を読み手(児童)にも同じ方向に導いていったからこそ、児童は書き手 のレトリックを意識しながら積極的に読みとることができたのである。. ただ、小田は単に書き手のレトリックを言語技能として理解させるこ とには警戒している。小田は「教材研究によって見出した書き手のレト リックを学習事項化するだけでなく、そのレトリックに読み手が感応す. る可能性の検討と、その感受の効果を高める手だてを講じることが大切 う. である」. とし、 「レトリックを認知させる前に、そのレトリックの場. に立たせること、レトリックに関する言語理解よりも、そのベースとな るレトリック感受の言語体験を得させることが実践上の先決課題となる ロひ べきである。」. と述べている。これを上記の授業記録に照らし合わせ. てみると、教師が「何故こんなふうに植物を人間のように書いたり、人 間に関係あることを出したりしているのだろう。」と発問し、話し合わ 一31一.
(35) せているところがレトリックの場に立たせているところであり、レトリ ック感受の言語体験を得させているところであると考えられる。 そして小田は、このような指導が必要であり、 「言語体験に裏打ちさ. れた言語認識の場を組織し得ないレトリック理解の授業は、明治・大正 の旧修辞学的言語事項の指導とさして変わらぬ結果となるであろう」 30}. と述べている。. 4 レトリック認識の読みに対する批判 け 寺井正憲は小田の提案を「修辞学的な読み」. と呼んで、批判的に考. 察している。. 寺井は、修辞学的な読みは「筆者意識を明確にすることによって、内 ラ 容と形式の統一、あるいは先行知識の活用を図っている。」. と述べ、. 「しかし、内容と形式の統一や先行知識の活用のために、筆者を想定す おきう る必然性はあるのだろうか。」. と問題を投げかけている。そして、小. 田がとりあげた「旅だつ種子たち」の授業について、 「読み手は『旅だ. つ種子たち』の擬人法のもつ意味を、筆者の認識の反映と想定すること ラ なしに、考えることができるであろう。」. と指摘している。寺井によ. れば、 「内容と形式の統一、先行知識の活用については、修辞学的な読. みでは、表現の背後に筆者を想定していた。しかし、筆者という因子が、. 読み手と文章の間で行われる読みの過程に、どのように関係してくるか が明瞭ではない。これについて、読解指導理論内に筆者という因子を組 さリラ み込むかどうかの問題とともにく今後検討が必要である。」. というの. である。. 5 レトリック認識の読みについて 寺井が指摘する「筆者という因子が読み手と文章の間で行われる読み の過程にどのように関係してくるか」を明瞭にする必要はあると思うが、 一32一.
(36) この「レトリック認識の読み」は、説明的文章指導の改善について考え るときに、大変参考になるものである。. 明治期以来の説明的文章指導の伝統的課題である内容主義と形式主義 の統一の問題を、読みの意識の中に書き手意識をはたらかせることによ って実現しようとしたところに、従来の読解指導概念にない新しさがう. かがわれるのである。また、指導における教師の位置を「書き手のレト リックを読み手につなぐ」ところに置きながらも、教師の意図的な指導 の重要性、すなわち教師のレトリカルな指導を前面に出した点は見逃せ ない。私も、指導とはやはり教師の積極的、主体的な教材研究を反映し た意図的な営みと思っている。そのため、教師は児童の思考・認識の仕 方に十分注意して、責任を持って授業を構築し、児童の読解活動を促進 しなければならないと思う。その結果、1」・田のいうような、 「教材の内. 容と理論とが学習者に生き生きと伝わり、学習者がそれに意欲的に反応 ヨビう する学習活動を実現することができる」 指導ができると思われるので ある。. 第2節 森田信義氏の「筆者の工夫を評価する読み」. 1 説明的文章指導(内容と形式)について 森田は、説明的文章指導の陥りがちな問題を、 「ことばの教育である. 国語科で、説明文を指導することの意味は、常に言誇表現に着目しつつ、. 筆者の認識の過程と結果を問題にすることであって、認識の結果のみを 問題にすると内容主義になり、ことばの力を高めることになりにくい。. 一33一.
(37) また、ことば表現の側面ばかりを重視して、 『国語科的』な扱いをする ヨフラ ことは、形式主義、技能主義になりやすい。」と指摘している。. 森田. によれば、 「書き手は、筆者が説明の対象であるものごとについての認. 識にもとづいて、説明文を構成するにあたいする材料をとりそろえ、そ れらを、自己の認識の過程、読者の認識の過程を考慮しつつ位置づけ、 お シ ことば化して文章を完成する」. のである。そのため、その説明的文章. は「知識、情報を与えるという機能のほかに、書き手が説明の対象とし ているものをどのように認識しているのかを提示する機能をもっている」 39). というのである。つまり、筆者のものごとに対する個性的な認識の過. 程が、認識の結果として、文章に表現されているのである。. そこで、指導において「認識の結果」のみを問題にすると知識、情報 を与えることに指導の重点が置かれがちになり、いわゆる内容主義にな ると指摘しているのである。また、同様に「認識の結果」を書き手の認 識の過程を抜きにして表現の側面、すなわち書き手の言語操作、表現形 式などを求める指導は形式主義になりやすいと指摘しているのである。. また、森田は「教室における読みの深まりを、三層の構造をもつもの るロユ としてとらえ」 ている。. (1)内容、ことがらを理解することを主とする第一層の読み (2)表現や論理構造の把握を主とする第二層の読み (3)筆者の立場を追究することを主とする第三層の読み なう. とし、. さらに(3)を意識するなら、 (1)、 (2)は. (1’)なぜ筆者がそれらのごとh{らをとりあげ、. (2’)なぜそのような論理を用い、表現したか う ととらえるべきである. としている。これらを内容主義と形式主義から. 考えてみると、第一層の読みが内容主義的読みであり、第二層の読みが 一34一.
(38) 形式主義的読みと思われる。しかし、 (1’)、 (2’)からわかるよ うに、森田は内容と形式とを分けることなく、 「相互に関連をもちなが きう. ら」. 常に筆者を意識した読みをすることによって、 「筆者の認識の過. 程と認識の結果、そのことば化としての表現の両方を絶えず問題にして う いく学習指導」. を目指しているのである。つまり、内容主義と形式主. 義の統一の手がかりを「筆者の認識(過程と結果)と表現をつなぐ」 ヨラ. ビラ. こと、すなわち森田のいう「筆者の工夫」 に求めたのである。. 2 筆者の工夫を評価する読み 森田は、説明的文章指導の目的を「複雑、多様な情報が混在する現代 を、認識主体としての自己を見失いことなく生きぬく力を身につけるこ アラ. と」. とし、こうした力をつける読みの指導を「筆者の工夫を評価する. 48》 読み」 (あるいは「評価読み」)と呼んでいる。 森田は、 「文章という情報源が、どのように個性的に、あるいは主観. 的に作られるかということを理解することなく、筆者の個性だけを尊重 して、読み手である子どもに、その個性の受容者であることだけを強い う てはこなかったであろうか。」. と投げかけ、 「私たちは、情報に対す. る公正な受け手でなくてはならない。また同時に、個性的な受け手でな らリラ くてはならない。」. と述べている。このことは、説明的文章指導にお. いて、教材を絶対的なものとして子どもに受身的に読ませるのではなく、. そこには個性的な筆者が存在していることを念頭に置いた子どもの主体 的な、個性的な読みの指導が必要であることを意味していると思われる。 そのためにも、 「情報のあるがままを厳密にとらえるとともに、その情. さけ 報の価値と問題を厳しく問い続ける存在でなくてはならない」. という. のである。. このように森田は、個性的な読み手が個性的な書き手の認識の過程と 一35一.
(39) , 結果を評価すること、すなわち「筆者の工夫を評価する読み」によって 読み手自身の認識能力を高めることができると考えているのである。 ラ そして、その指導過程として次のようなものをあげている。 ヨ これは「『一つの』過程であるにすぎない」. ただし、. のであり、森田も「教材、. 指導目標、子どもの実態等に応じるためには、指導過程にも柔軟性が必 要である。特定の指導過程にとらわれることは避けるべきである。」 54》 と述べていることをつけ加えておく。. 題名読み ○説明の対象になっている「もの」、 「こと」について、読み手の認 識のありようを把握させる。 ○「知っていること」、 「予想できること」、 「疑問に思っているこ と」、 「意見」、 「説明や主張したいこと」、 「説明や主張の方法. (表現、構成など)」を考えさせ、記録させる。これらが書かれたも のを、仮に「認識の見取り図」と呼ぶ。 ○自分なりに、題名に即した文章を書いてみる。. 教材の通読 ○「認識の見取り図」を念頭において、教材文と照らしあわせて読み 通す。. ○反応(予想、同意、疑問、発見、意見、感想、批評など)を書き込 む。. ○「内容読み」が中心になるが、多くを要求しない。. 教材の精読 ○教材の客観的把握(書いてあることを書いてあるとおりに把握する) ○通読段階で得た学習課題(反応を学習課題化する)を解決する。. ○新しい反応の創造と解決(通読段階の「内容読み」を内包しながら、 一36一.
(40) 「論理展開」、 「表現」の読みを目指す). 教材の総合的把握 ○先行する段階に現れた反応(学習課題)を総合的にとらえ、筆者の 立場に迫る。. ○残された反応を確認し、反応の意味を考える。 (反応の仕方の評価 をする). まとめと発展 ○教材文の総合的批評を「批評文」にする。 ○学習の発展を図る。 (読みの拡充その他). ここにみられるように、題名読みにおいて、 「認識の見取り図」をもと. に自分なりに題名に即した文章を書かせ、読み手自身の認識の仕方を把 握させる。そのようにして、読み手自身の認識の仕方と筆者の認識の仕 方(過程)との違いに着目させれば、自ずと主体的な(筆者の立場に立 った)読みになっていくだろうと考えている。そうすれば、教材の通読 ・精読においても、内容の読み取りは、単なる知識の獲得ではなくなり、. なぜ、筆者がそれらのことがらを取り上げ、そのような論理を用い表現 したかというような観点でおこなうことができる。そして、教材の総合 的把握・まとめと発展では、それまでの学習をふまえて筆者の工夫を評 価させることで、読み手自身の認識能力(内容・方法)を育てることが できるのである。. 3 筆者の工夫を評価する読みの実践例 森田は上記の指導過程をもとに、 『みつばちのダンス』光村三年上. (昭和55∼58)で実践を試みている。 『みつばちのダンス』. (1)一びきのみつばちが、花畑でみつをすっています。そのみつばち 一37一.
(41) がとび去ると、何分かして、たくさんのみつばちが、次々とみつをすい にやってきます。どうして、花畑が分かるのでしょう。. (2)ある学者は、はじめの一びきのみつばちが、すばこに帰って、な かまに教えたのではないかと考えました。そして、次のようにして、み つばちをかんさつしました。. (3)はじめに、すばこから十メートルはなれた所に、花のみつのかわ りに、さとう永を入れたさらをおきました。目じるしをつけた一びきの みつばちが、さとう水をすってすばこに帰ってきました。注意ぶかく見 守っていると、そのみつばちはダンスを始めました。右回りや左回りに、. 円をえがくようにダンスをするのです。それが合図になって、なかまの みつばちは、次々にとび出して、さとう水の所へ行きました。. (4)次に、三百メートルはなれた所にさとう水のさらをおいて、同じ ようにかんさつしました。すると、今度も、みつばちはダンスをしまし た。しかし、よく見ると、前とはちがって、8の字を書くようにダンス をするのです。それが合図になって、やっぱりなかまのみつばちは、次 々にさとう水の所へとんで行きました。. (5)この二つのかんさつから、みつばちは、ダンスでえさのある場所 をなかまに教えるのだということが分かりました。. (6)しかし、みつばちは、なぜ、はじめに円のダンスをして、次に8 の字のダンスをしたのでしょうか。. (7)そこで、その学者は、すばことさとう水のきょりをいろいろにか えてみました。すると、みつばちは、だいたい百メートルよりも近い所 にえさがあるときは円のダンスで教え、百メートルよりも遠いときは8 の字ダンスで教えるということがわかりました。. (教材文中の挿し絵、図は省略) 一38一.
(42) 森田はこの教材を使った授業で、 「批判的な読みの体験を持たない子. どもたちに、限られた時聞(2時間)で、教材の抱えている問題に触れ ヨらひ させ、可能な限り、その問題を克服させようと試みた」. のである。以. 下ポイントと思われる部分をあげ、考察することにする。 森田は、 「授業を実現させる上で最も重要なものは、私たちが教材そ コ り のものをどのように読んだかというそのこと」 であり、 「子どもも、. フラ 読み手として、私たちと同じ地平にあること」. と考え、教材研究にお. いて自らも筆者の工夫を評価する読みをおこなっている。そして、 「二 ら う つの『かんさつ』の構造と問題」 と「重大な欠陥一『方向』について」 59》. 明らかにしている。まず、前者について森田は次のように考察してい. る。. 〔第一の観察〕 ア. すばこから十メートルはなれた所に. イ. (花のみつの代わりに)さとう水を入れたさらをおく. ウ. (目じるしをつけた一びきのみつばちがさとう永をすって、すば こに帰り)円のダンスをする. 晒. ダンスが合図になって、なかまのみつばちは、次々にさとう水の 所へ行った. 〔第二の観察〕. ア 三百メートルはなれた所に イ さとう水のさらをおく. ウ 8の字ダンスをする エ ダンスが合図になって、なかまのみつばちは、次々にさとう水の 所へ行った. ア∼エは、それぞれに対応している。第一の「かんさつ」を読みと 一39一.
(43) つた子どもが、第二の「かんさつ」の内容を読みとることは、極めて 容易であり、二つの「かんさつ」の問の異同を明らかにすることも、 困難なことではない。. ところで、アとイについては、その理由が分かりにくい。すなわち、 ア なぜ、十メートルと百メートルという距離設定ができたか。 イ なぜ、 「みつ」を使用しなかったか。. という疑問が生じるのである。いずれの場合も、その理由は書かれて いない。特にアの距離設定には、教材文の筆者による作為が認められ る。 「ある学者」には、この観察の条件設定の段階では、百メートル. という距離が、みつばちに対して持っている意味は、まだ明らかでな いはずである。にもかかわらず、百メートルを強く意識して、百メー トルより近い距離として「十メートル」を、また百メートルよりも遠 い距離として「三百メートル」という距離を、いきなり設定している のである。. 次に、後者について. 花畑という蜜源を特定するためには、二つの「かんさつ」の結果と して明らかになった「きょり」のみで十分であろうか。 (中略)本教 材が全七段落をもって明らかにしたのは、この円周に過ぎない。 (中 略)すばこから等距離にある線上の一点を特定するためには、 「方向」 の指定が必須である。 (中略)みつばちのダンスが、距離と方向を教. えることによって、花畑という蜜源の特定を可能にしているというこ とが分かり、読者は、論理的に納得することができるのである。 「ど. うして、花畑が分かるのでしょうjという問題を解明するためには、 いかに困難でも「方向」も取り上げなくてはならない。 (中略)した. がって、この教材には、どうしても取り上げなくてはならない重要な. 一40一.
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