8-1
菱形の耕地割を持つ児島湾干拓興除新田曽根の村落空間特性
堀尾 菜摘 図 1 対象地区と興除村村域の干拓時期区分 1. はじめに 1-1. 研究の背景と目的 岡山県児島湾沿岸地域は,一級河川による堆積作用 と,島嶼部を利用した段階的干拓によって形成された 地帯であり,散居村が広く展開している干拓地である。 児島湾干拓地の中でも,近世末に成立した興除新田は 一定の規格を基にして計画的に区割りされた耕地が広 がっているが,その集落内には菱形という特異な耕地 割を持つ村が存在している。そこで本研究では,その 菱形耕地が見られる興除新田内の曽根に着目し,実際 に成立した干拓村落における居住空間の実態を把握す ることを目的とする。また,菱形耕地の村落空間を考 察するにあたり,同一新田内で正方形耕地を持つ内尾 についても取り上げ,曽根と内尾の両村において比較 分析を行う。尚,資料には絵図及び航空写真,旧版地 図等を使用した。また,現地調査を実施し,屋敷の実 測と居住者へのヒアリングを行った。調査期間は 2014 年 5 月から 2015 年 1 月までである。 1-2. 岡山の干拓と興除新田干拓の歴史 児島湾における大規模な新田開発は,江戸初期に備 前岡山藩の石高増強策として開始された。その一環と して 3 代藩主池田光政に仕えていた津田永忠の指揮の もと,元禄 13 年(1701)に興除新田干拓が企画される。 しかし,興除新田は備前藩と備中藩の地先に位置して いたため干拓開発地の帰属問題,藩の境界争い,地元 農民漁民の反対運動,水利権の問題等が発生し,新田 開発は遅延していった。その後,幕府の仲裁により, 幕命に基づいた藩営という形をとって新田開発が推進 されるが,財政難に陥っていた備前藩は児島郡に新田 開発を一任した。よって,周辺地域の豪商農を主体と した開発が行われ,文政 4 年(1821)に着工,文政 6 年(1823)に興除新田が完成することとなった。干拓 完成時には,北から「東ひがしうね疇」「内尾」「中なかうね疇」「曽根」 「西にしうね疇」の 5 村が成立している。 豪商農を中心として干拓が行われたことから,それ らの人々が干拓後の土地を独占的に所有することと なった。それら豪商農が地主として,土地所有権であ る「底土権」を獲得していった一方で,小作人,歩作 人が土地を耕作するための用益権として「作株」を獲 得していった1) 。よって,興除新田の住民は地主層と, 小作人や歩作人の階層に分かれることとなり,耕地は 農地改革以前の時点で自作地 20.3%,小作地 79.7% と,小作地が集落の多くの面積を占める状態になった。 2. 興除新田における曽根と内尾 2-1. 興除新田の耕地割 興除新田内の耕地は,1 町歩を基本形とし,碁盤目 状に張り巡らせた水路によって分割されている(図 22) )。また,その土地区画は干拓当初から,一方向を 「割」,もう一方を「升」として地番を割り振られてお り,計画的に分割された耕地であることが表れている。 しかし,同一時期に干拓された 2 村ではあるが,耕地 形状とその分布には異なった特色が見られる。曽根を 見ると,約 1 町歩の菱形耕地が集落全域を形作ってい ることがわかる。対して内尾は,一町歩の正方形区割 りを基本形とした耕地が広がっているが,集落の北東 部には不整形な耕地も存在し,耕地形状にばらつきが 見られる。 対象地区: 正方形耕地「内尾」 対象地区: 菱形耕地「曽根」 藤田二区 藤田六区 藤田五区 藤田七区 児島湖 西疇 東疇 中疇 興除新田(1821 ~ 1823) 興除新田 第二期干拓(1875 ~ 1878) 興除新田 第三期干拓(1879 ~ 1904) 旧島嶼部 0 250 500 1000(m) 図 2 干拓初期における興除新田の耕地割と耕地等級 上田 中田 下田 屋敷畑を含む田 堤防 ミチ 水路・川 西疇 中疇 内尾 東疇 曽根 一割 一割 一割 一割 一割 一割 一割8-2 2-2. 現在の興除新田の水 2 村における耕地形状の違いは水路で区割りするこ とによって造られたものである。干拓当初から現在ま で,興除新田の中心的な取水は,高梁川から分岐した 湛井十二ヵ郷用水の余水であった(図 3)。興除新田 はその用水の末端であり番水の権利を持っていなかっ たため,水不足による甚大な被害を被ることの多い地 帯である。また,興除新田内に流れ込む水は,湛井 十二ヵ郷用水から興除用水へと流れ,興除新田西端を 通る大用水と,集落中央を通る中用水の 2 つの幹線水 路によって,内尾,中疇,曽根,西疇の順に給水される。 曽根と内尾の両集落を見ると,水路内の水は集落外 周部に設置された水門や樋門によって,集落全体でそ の量を調整されている。また,集落内を通る水路には 通年水が溜められており,水路の交差部では,水の流 れる方向が決まっていないことが見て取れる。このこ とから,両集落共に,水を流路として確保しているの ではなく,集落内の水路全体で貯水させる仕組みであ ると考えられる。 2-3. 曽根と内尾のミチ 集落内を見ると,多くの箇所で水路の傍にミチが引 かれている様子が見て取れる(図 4,5)。曽根のミチ は,全ての水路の傍に通っているわけではなく,ミチ の位置に関しては不規則である。また,水路に対して 右岸か左岸かに偏ってミチが通るという傾向も見られ ない。対して,内尾のミチを見ると,<十一割>より 西側の正方形耕地が広がる地域では水路に沿って碁盤 目状にミチが交差しており,耕地形状と同様に整然と した配置となっていることがわかる。また,<十一割 >より東側は南北方向にミチが通っているところが多 く見られる。東側における不整形な耕地が広がる所で は,1975 年以降に開発された住宅地が広がっている が,それ以前から立地していたと思われる屋敷は存在 せず,そこにはミチも通っていない状態が見て取れる。 図 5 内尾における現在のミチとアプローチ 図 3 興除新田の水の流れ アプローチ ミチ 水路 幹線水路 主屋 住宅地 大用水 中用水 イ 一二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 ~ 二六 二七 二八 二九 三十 三一 三二 三三 三四 三五三六 三七三八 ロ ニ ハ ホ ヘ ト チ リ 割 升 図 6 曽根における明治 7 年頃のミチ 計画されたミチ 「道」記載箇所 「往来」記載箇所 水路 堤防 主屋 稲荷神社 ミチは明治 7 年の絵図に描かれたものを記載した。屋敷は 1947 年の航空写真で確認できるものを標記した。そ れに近年の地図や航空写真より現在の情報を加味し,屋敷の向きやアプローチを推定した。 イ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 又イ ロ 又ロ ニ ハ ホ ヘ ト チ 割 升 大用水 中用水 稲荷神社 水路 幹線水路 ミチ アプローチ 主屋 住宅地 曽根 内尾 図 4 曽根における現在のミチとアプローチ 中用水 興除用水より 大用水 内尾 中疇 曽根 西疇 広域水系 児島湖 高梁川 中用水 興除用水 湛井十二ヵ郷用水路 大用水 高梁川合同堰 2014年現在の樋門 中用水の給水域 大用水の給水域 水の流れる向き 幹線水路 集落全体の水の流れ 用水路 旧島嶼部 ミチは明治 7 年の絵図に描かれたものを記載した。屋敷は 1947 年の航空 写真で確認できるものを標記した。それに近年の地図や航空写真より現在 の情報を加味し,屋敷の向きやアプローチを推定した。
8-3 3. 曽根の集落空間 3-1. 明治 7 年頃における曽根のミチ 曽根におけるミチの形成過程を考察するにあたり, 明治 7 年(1874)頃の曽根を描いた絵図3) と昭和 22 年(1947)以降の航空写真を用いて,明治 7 年頃に通っ ていたミチを推定した(図 6)。この絵図には,耕地の 一部に「道」「往来」の記載が見られる。これらのミ チを見ると,ミチは水路と同様な整然とした格子状に は引かれておらず,1 町から 2 町程の間隔で不規則に 通っており,行き止まりのミチも数カ所見られる。ま た,集落北側にある稲荷神社より南西方向へ伸びたミ チを見ると,集落内を通り抜けられるようになっては いるものの<ハ升>と<ロ升>に位置する耕地を行き 来しており,一直線に集落を貫通するミチとはなって いないものが見受けられる。以上のことから,これら のミチは計画的に引かれたものではなく,住民の生活 の中で後発的に形成されたと考えることができる。 また,現在のミチと絵図とを比較すると,明治 7 年 には既に現在とほぼ同じ位置にミチが存在しているこ とから,現在のミチの骨格は新田成立後の早い時期か ら形成されていたことがわかる。また,行き止まりの ミチが延長されており,集落を通り抜けるミチが増え ているという変化も見て取れる。 これらの集落内を通る畦やミチは,かつては人が通 るためのミチであったためとても幅が細かったとい う。重い荷物や大きな物を運ぶ際には,水路内を通る 川舟4) を利用し水路を動線として利用することが多 かったことからも,そのミチの細さを窺い知ることが できる。しかし,昭和 30 年代に入り,自動車の普及 に伴ってミチは拡幅,延長され,自動車のための道路 へとミチの性質は変化していると言える。 3-2. 屋敷へのアプローチ 曽根の屋敷の多くはミチのそばに立地し,その向き はほぼ全てが南側や南東側を向いている。よって,ア プローチも屋敷に合わせて南側から引き込むミチを設 けている。そして,ミチから少し離れたところに立地 した屋敷のアプローチも同様に,屋敷の南側へと回り 込むように設けているものが多く見受けられる。 また,内尾のアプローチも南側に設けている屋敷が 多く見受けられ,曽根と同様であることがわかる。 3-3. 曽根の屋敷構え 3-3-1. 現在の屋敷構え 現在の曽根の屋敷構えを考察するにあたり,集落内 でも付属屋を多く持ち屋敷構えを捉えやすい N 邸,Ky 邸,Kt 邸の 3 つの屋敷について図面採取を行った(図 6 ~ 9)。これらを見ると,主屋は 3 つの屋敷全てにお いて南入り右勝手となっている。また付属屋は,主屋 の背面にクラやフロなどの建物が並び,主屋右手に はナヤやウシゴヤ,又は それらを改修してハナレ ザシキとした建物が建て ら れ て い る。 そ し て, そ れらの付属屋どうしを繋 げる様に塀で囲むことに よって,ほぼ正方形で閉 鎖的な屋敷を形成してい る。 図 6 Kt 邸平面図(曽根) 図 10 戸倉家家相図(曽根) 川市 川市 クラ Ky 邸 0 5(m) 5(m) 0 1 Kt 邸 土間 イマ 仏壇 カミノマ ナカノマ シモノマ ナヤ クラ (未採取) イタノマ ダイドコロ ナンド ナヤ 昭和 20 年頃建築 祠 ハナレザシキ ウラザシキ クラ Kt 邸 0 5(m) ウラザシキ クラ 川市(ウチガワチとソトガワチ) ウチナガヤ カマド ・ダイドコロ ソトナガヤ 倉庫 昭和 50 年頃まで 現在は居室 ウシゴヤ 事務所 フロ N 邸 0 5(m) 子 丑 寅 卯 辰 巽 巳 午 未 申 酉 甲 乙 丙 丁 坤 庚 辛 戌 乾 亥 壬 癸 艮 四 六 浴室 厠 床 押入 押入 押入 祠堂 四 四 六 九 六 六 納屋 納屋 牛屋 供部屋 土蔵 土蔵 内蔵 表門 浴室 厠 床 付属屋 川市 川市 クラ Ky 邸 0 5(m) 5(m) 0 1 Kt 邸 土間 イマ 仏壇 カミノマ ナカノマ シモノマ ナヤ クラ (未採取) イタノマ ダイドコロ ナンド ナヤ 昭和 20 年頃建築 祠 ハナレザシキ ウラザシキ クラ Kt 邸 0 5(m) ウラザシキ クラ 川市(ウチガワチとソトガワチ) ウチナガヤ カマド ・ダイドコロ ソトナガヤ 倉庫 昭和 50 年頃まで 現在は居室 ウシゴヤ 事務所 フロ N 邸 0 5(m) 子 丑 寅 卯 辰 巽 巳 午 未 申 酉 甲 乙 丙 丁 坤 庚 辛 戌 乾 亥 壬 癸 艮 四 六 浴室 厠 床 押入 押入 押入 祠堂 四 四 六 九 六 六 納屋 納屋 牛屋 供部屋 土蔵 土蔵 内蔵 表門 浴室 厠 床 付属屋 図 8 N 邸屋敷図(曽根) 図 9 Ky 邸屋敷図(曽根) 図 7 Kt 邸屋敷図(曽根)
8-4 また,内尾における屋敷構えも曽根のそれと同様の ものであり,主屋を中心として北側と西側に付属屋が 建ち並んでいる。この 2 村に共通した正方形の屋敷構 えは,正方形耕地の内尾では角を合わせて配置するこ とができる。しかし,菱形の耕地である曽根に適用さ せる際には,菱形の耕地に四角形の屋敷地を配置する こととなり余剰の土地が発生する。現在,曽根では耕 地の頂点に屋敷を構える際,耕地の一辺のどちらかに 沿うように立地しており,三角形の余剰の土地には祠 を置いたり,畑や庭にしたりして活用している。 3-3-2. 現在と安政 7 年頃の屋敷構えの比較 曽根の富裕層であったと思われる戸倉家の安政 7 年 (1860)の家相図5) (図 10)と実測を行った 3 邸を比較 すると,屋敷構えに共通点を見ることができる。家相 図を見ると,3 邸と同様に主屋は南入り右勝手に描か れており,主屋の北側と東側,南側には「蔵」,西側 には「納屋」や「牛屋」と記載されている。また,主 屋北側の付属屋の中には六畳と四畳の部屋が描かれて いるが,これは N 邸におけるウラザシキと同様に,使 用人や若夫婦のための部屋だと推測される。この様に, 現在の屋敷にも戸倉家と類似した屋敷構えを確認する ことができ,安政 7 年から同様の構え方をした屋敷が 集落内に建てられていたことがわかる。 3-3-3. 屋敷構えの変遷 文献6)によれば,干拓当初,移り住んできた地主階 層以外の農民は簡素な主屋のみか,主屋と納屋のみを 持つ屋敷ばかりであったという。一方で地主層・富裕 層の屋敷には蔵や観賞用の庭があり,土塀や板塀をめ ぐらした屋敷となっていた。明治・大正期には,小作 農民は水の確保や飢饉,洪水対策に奔走していたため 住居に配慮する経済力等はなかったが,地主層は牛馬 小屋や,堆肥小屋,舟小屋,米倉庫などの多くの付属 屋を建てていたそうである。その後,昭和になると農 地改革によって小作農民が自作農化し,農業の機械化 をいち早く取り入れたことによって急速に経済的な力 をつけ,現在のような重層入母屋の屋敷が集落内に建 ち並ぶようになったという。 これらのことから,明治・大正期における小作農民 と地主の屋敷はその規模に明確な差が存在していたと 考えられる。その後,昭和初期に集落の大半を占める 小作農民の屋敷が急激に改変,拡大することによって, 集落の様相が大きく変わったことが推測される。 4. まとめ 干拓地の初期条件として与えられた耕地割と水系, その後,人が居住することによって形成されてきたミ チと屋敷について,同一新田内の内尾と比較すること により,菱形耕地を持つ曽根における居住空間の実態 を把握し,集落空間に関する考察を行った。まず,干 拓の初期条件として計画された耕地割を見ると,内尾 では正方形耕地を持ち,整然とした区割りがされてい る所と不整形な耕地が見られる所の 2 つが存在してお り,耕地内にばらつきが見られた。一方で,曽根は菱 形の耕地が集落全域を形作っており,菱形という形状 を除けば整理された耕地割であると言える。また,水 系を見ると,内尾の方が曽根よりも上流側にあるが, 集落全域で水を貯水させる仕組みは両集落共に変わら ないと考えられる。これより,曽根や内尾に居住する 際に干拓地の初期条件として与えられたものは,耕地 の形状に違いはあれど,その他の点ではあまり差がな かったのではないかと考えることができる。 その後,その土地に居住することで,ミチと屋敷が 集落内に形成されていくようになった。ミチは,干拓 計画時にはほとんど計画されていなかったが,その後, 住民が生活する中で,耕地内を通るミチが後発的に形 成されていったと考えられる。そして,新田成立後か ら現在までミチの位置に大きな変化はなく,形成当初 のミチの骨格は現在も残されていると言える。しかし, 農業等の生業や,人の生活に密接に関わるミチであっ たものが,自動車のための道路へと変わっており,骨 格こそ残っているものの,ミチの性質は変化している と推察される。 そして,アプローチと屋敷構えを見ると,屋敷は集 落に関係なく南又は南東向きに建てられていることか ら方位に依拠していると推察され,それに合わせてミ チからアプローチが引かれていることがわかる。また, 屋敷は改変と拡大が顕著である。集落内には僅かに茅 葺民家が残存しているが,その他の屋敷の建物自体は 新しいものである場合が多い。しかし,方位に依拠し 安政 7 年時点で存在していた屋敷構えは,今も集落内 に数多くみられ,その屋敷の型は現在も継承している と言える。 <参考文献と注釈> 1)興除新田における「底土権」と「作株」の関係については「慣行小作権」として 多くの研究が行われている。一例として『慣行小作権の研究』が挙げられる。(『慣行 小作権の研究』/ 桑原正信 / 昭和 38 年(1958)7 月) 2)『興除新田絵図』(清書版,『岡山県史』付録)/ 原図は文政 6 年(1823)頃 3)『明治七年十月地図帳 岡山県管外第三十六区備前国児島郡西疇』/ 明治 7 年(1874) 4)川舟は,米,麦,イ草などの収穫物,木材・土砂・石材などの建築資材,飲料水 等を運んでいた。昭和 20 年代までは至る所で係留されている様子を見ることができ たそうだが,昭和 30 年代に入り,自動車の増加に伴ってその数は減少していった。 5)『家相図』(戸倉家文書のうち 1 枚)/ 安政 7 年(1860)(家相図の原図より書き起 こし,付属屋の着色,主屋と屋敷への入り口を加筆した。) 6)『興除村史』/ 興除村史編纂委員会 / 昭和 46 年(1971) ・『岡山県史 第 8 巻 近世Ⅲ』/ 岡山県史編纂委員会 / 昭和 62 年(1987) ・『岡山県史 近世編纂物』/ 岡山県史編纂委員会 / 昭和 56 年(1981)