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青 山 夕 夏

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(1)

近代 H 本人作曲家による初期のフルート音楽

青 山 夕 夏

The E a r l y  F l u t e  Music by Modem  J a p a n e s e  Composers  YukaAoYAMA 

A b s t r a c t  

I n  t h i s  a r t i c l e  I  d i s c u s s  some modern J a p a n e s e  works f o r  f l u t e  composed m a i n l y  from t h e   1 9 2 0 s  t o  t h e  1930s i n c l u d i n g  K o s c ; a k  Yamada's p i e c e s .  These works were c r e a t e d  under t h e   i n f l u e n c e  o f  i n t e r r e l a t i o n s h i p  b e t w e e n  many a r t i s t s  o f  v a r i o u s  f i e l d s .  F o r  e x a m p l e ,  when a  f e m a l e   J a p a n e s e  p o e t  Sumako Fukao was s t a y i n g  i n  P a r i s ,  s h e  was g i v e n  f l u t e  l e s s o n s  by a  v i r t u o s o  M a r c e l   Moyse who g o t  i n t e r e s t e d  i n  J a p a n e s e  music t h r o u g h  m e e t i n g s  w i t h  h e r .  T h e i r  c r o s s ‑ c u l t u r a l   e x c h a n g e  f u r t h e r  i n f l u e n c e d  some J a p a n e s e  composers who s t a r t e d  on c r e a t i n g  new p i e c e s  f o r   f l u t e .  T h i s  a r t i c l e  f o c u s e s  on s u c h  c o m p l i c a t e d  human r e l a t i o n s h i p s  t h a t  e n c o u r a g e d  t h e  c r e a t i o n  o f   s e v e r a l  p i e c e s  o f  J a p a n e s e  modem f l u t e  m u s i c .  

T h i s  a r t i c l e  i s   a  g r e a t l y  e n l a r g e d  a n d  r e v i s e d  e d i t i 9 n  o f  a  program n o t e  o f  t h e  c o n c e r t  e n t i t l e d   t h e  B e g i n n i n g  of F l u t e  Music by Modern J a p a n e s e  C o m p o s e r s ,  where I  p e r f o r m e d  t h e s e  p i e c e s   a t  Kanazawa Phonograph Museum a s  a  p a r t  o f  t h e  c o n c e r t  s e r i e s  Music L i v e  C i r c u i t ' 0 6  i n   K a n a z a w a .  

はじめに

芸術の各分野で優れた業績を残した人は、そ の生涯において、他領域の抜きん出た人たちと 幾多の関わりを持っているものである。そのよ うな関わりは様々な形態で記録に残され、後生 に伝えられている場合も多い。現在に生きる 我々は、それらの貴重な資料を通して芸術への さらなる興味が喚起されるだけでなく、芸術作 品の核心に迫る糸口を得ることができる。特に 音楽についていえば、

2 0

世紀に入り、こうした 記録の一つとしてレコードが付け加えられた。

エジソンが音を再生する仕組み(円筒型蓄音機)

を発明して以来、いくつもの技術革新を経なが

らレコードと音楽は密接な関係を保ってきた。

特に円盤型レコードが発明され、電気録音式の 録音によるレコードが発売される

1 9 2 5

年(大正 14)以降になると、再生された音楽を聴くこと が新たな聴衆の飛躍的な増加をもたらしただけ でなく、音楽作品の質的な変化をももたらすこ とになる。

筆者は、

2 0 0 6

2

月に金沢蓄音器館でフルー ト演奏会を行う機会を得たが、演奏すると同時 に、曲目の選択を委任されることとなった。金 沢蓄音器館は、地元で蓄音器を販売していた篤 志家私有のコレクションの寄贈を受け、金沢市

(2)

2 0 0 1

年に開館した博物館で、ホールも併設す る。現在、蓄音器

5 4 0

台、

SP

レコード2万枚を 超えるコレクションを所蔵している。

今回の演奏会の開催にあたり同館からの要望 が一点あり、それは「演奏に接点のあるレコー ドを聴く時間を設けてほしい」というものだっ た。筆者は、演奏を主体として演奏者が演奏し たい曲目をランダムに演奏するという方式では なく、地域の特色や蓄音器館独自の財産を生か し、何らかのテーマを持つ演奏会を行いたいと 考えた。そしてそのテーマの下で、曲目相互が 何らかの関連性を持ち、全体として一貰性のあ るプログラムとなることが望ましいと考えた。

そこでまず、同館で収蔵されているフルート 関係のレコードの調査を依頼することから始 め、その結果「収蔵数が最も多いのは、マルセ ル・モイーズ演奏による盤である」との回答を 得た。 M.モイーズは、

1 9 3 0

年代に名実共に惟 界の頂点を極めた、

2 0

世紀最大のフルーティス トである。

1 9 2 0

年代に入ると、独奏者としてレ コード録音を始めている。フルートを独奏楽器 として世に認めさせた初のフルート奏者である が、その世界的な名声には、この革命的な音楽 再生装置が大きな役割を果たした。モイーズの 傑出した音色は、レコードという媒体を通して 世界的に受け入れられ、多くの演奏者を触発す るものでもあった。モイーズによる録音は、電 気録音時代のレコードの歴史の最初期を代表す る作品といえようし、その時代はまさに日本で 初めてのフルート曲が誕生した、昭和初期の 5年間とも重なっている。また、稀有の教育家 でもあったモイーズが日本人最初の弟子を受け 入れたのもこの頃であり、その一人が詩人とし て知られる深尾須磨子である。また、彼が東京 藝術大学初代フルート教授、吉田雅夫

( 1 9 1 5 ‑ 2 0 0 3 )

の師でもあることは、現在日本のほとん

ど全てのフルート奏者のルーツをたどれば、こ の師弟関係に遡りうることをも意味している。

こ れ ら の こ と か ら 筆 者 はM.モイーズのレ コードをひとつの手がかりとして「日本人フ ルート作品の最初期」というタイトルを設定し、

それに適しい曲目の演奏を行うことにした。

この演奏会で取り上げた楽曲は相互に関連が 深く、昭和初期のフルート音楽を概観するうえ で興味深い点も多い。演奏会当日の「プログラ ムノート」は、演奏に付随して配布される資料 であるため、自ずとその紙幅には制約がある。

そこで本稿では、改めてそのプログラムを準備 する過程で見出した様々な事柄を整理し、楽曲 の解説を行い、あわせてこの演奏会の趣旨及び 内容を報告する。

1.  キーワードの選択とプログラム

1  ‑1 

キーワードの選択

「日本人フルート作品の最初期」のタイトル の下で、まず以下の3つのキーワードを決定し て選曲にあたることにした。合わせて演奏会の 場所(金沢)、開催時の季節(演奏会当日が立春 の日)、生誕

2 5 0

周年を迎えたモーツァルトの誕 生日 (1月

2 7

日)が近いことも考慮し、プログ

ラムを構成した。

キーワード

. M. モイーズと深尾須磨子

·1926年 ~1931年(昭和元ー昭和 6)

・日本人が作曲した最初期のフルート作品 そのほかの考慮事項

(モーツァルト生誕

2 5 0

周年)

(立春)

(金沢)

1‑2 

プログラムの選曲とレコードの選択 選曲は、各曲が上記のキーワードに合致する 内容を含んでおり、楽曲が相互に何らかの関連

(人間関係、共演等々)をもっていることを条件 に行った。また演奏を主体とする演奏会である としても、蓄音器館という場を生かし、レコー ド資料の活用によって内容がより深められるこ とを意図した。そして選択したレコードを当時 の蓄音器で聴き、音の世界を歴史的に追体験で きるようにした。さらに会場設置のピアノがメ イソン・アンド・ハムリン社の

1 9 2 7

年(昭和

2)

製の楽器であり、近頃復元を終えて演奏できる 状態にしたものであることも生かすことにした

(ピアノ奏者が演奏)。その結果、プログラム、

レコードは以下のように選択した。あわせて、

(3)

使用する蓄音器、主要な登場人物の略歴も記 す。

プログラム ( )内は作曲年代 1. 

P .  

ウェッガー:小川のほとり

O p . 3 3  

(作曲年不明)

2 .   c . w .  

グルック:精霊の踊り

( 1 7 7 4 )   3. 

宮城道雄:春の海

( 1 9 2 9 )

4. 

菅原明朗:笛吹き女

( 1 9 3 1 )  

(作詞深尾須磨子

1 9 2 8 ) 5 .  

山田耕搾:ピアノのための〈からたち

の花〉/前奏曲卜長調

( 1 9 2 8 )  

(原歌曲作詞北原白秋

1 9 2 4 ) 6. 

山田耕搾:この道による変奏曲

( 1 9 3 0 )

(原歌曲作詞北原白秋

1 9 2 7 )

レコード 〔〕内は録音年代

①  W.A. モーツァルト:

フルートとハープための協奏曲

K . 2 9 9( 1 7 7 8 )  

Victor French Gramophone  [ 

1 9 3 0

頃〕

フルート: M. モイーズ ハープ: L. ラスキーヌ 指揮:

P .  

コッポラ パリ音楽院管弦楽団

②  弘田龍太郎:かもめ

(作詞室生犀星

1 9 1 9

頃) Victor French Gramopho皿 〔

1 9 3 0

頃〕

ソプラノ:荻野綾子 指揮: P. コッポラ パリ交響楽団

③  吉澤検校一菅原明朗編曲:

千鳥ー等曲によるパラフレーズ

( 1 9 3 3 )  

日本ビクター

1 3 3 1 6

1 9 3 3

ソプラノ:荻野綾子 等:宮城道雄 指揮:菅原明朗

日本ビクター室内管弦楽団

④  山田耕

r f :

紫(作詞 深尾須磨子

1 9 2 4 )

Nipponophone 

1 5 7 0 5 日 9 2 5 . 6

月〕

ソプラノ:荻野綾子 ピアノ:山田耕

r i

蓄音器

ビクトローラークレデンザー

製造

1 9 2 5

‑1928

年(大正

14‑

昭和

3)

イギリス製手捲卓上型蓄音器

製造

1 9 2 7

年(昭和

2)

主要な登場人物

・マルセル・モイーズ

( 1 8 8 9 ‑ 1 9 8 4 ) 20

世紀最 大のフルーティスト。

・深尾須磨子

( 1 8 8 8 ‑ 1 9 7 4 )

与謝野晶子の弟子

(詩人)。モイーズに師事。日本人2番目の弟子。

・荻野綾子

( 1 8 9 8 ‑ 1 9 4 4 )

日本の西洋音楽草創 期を代表するソプラノ歌手(ハープ奏者)。

•宮城道雄 (1894-1956) 宮城流(生田流)等演 奏家、作曲家。「新日本音楽」の旗手。

・菅原明朗

( 1 8 9 7 ‑ 1 9 8 8 )

作曲家、評論家、フ ランス音楽の紹介者として活躍。

山田耕~(1886-1965) 日本の西洋音楽史に 偉大な足跡を残した巨人(作曲家)。

2 曲目に関する解説

以下は、演奏曲目順に沿って楽曲に関連する 事柄を述べる。

演奏会に先立って、モーツァルト生誕

250

周 年のお祝いの意味も込めて、モーツァルトがパ リ滞在時の

1 7 7 8

4

月に作曲したフルートと ハープのための協奏曲を聴いた(レコード ①)。 モイーズの全盛期である

1 9 3 0

年(昭和

5)

に、 P.

コッポラ(荻野綾子とも馴染みの深い)の指揮 で録音された盤である。

2‑1 

明治期のフルート音楽

2 ‑ 1 ‑ 1  P. ウェッガー:小川のほとり

O p .  33 

(作曲年不明)

明治時代に入り日本に本格的にフルートが伝 えられた頃の様子についてはその多くが明らか になってはいないが、日本人初のフルーティス トが誕生したのは、薩摩藩軍楽伝習隊において であったとされる。薩摩藩軍楽伝習隊は、イギ リス公使館の警備を行った薩摩藩士が、軍楽隊 を持つイギリス軍の統率の見事さに感銘を受 け、その創設を島津久光に進言したことで

1 8 6 9

年(明治2)に組織された。そこでフルーティ

‑19‑

(4)

ストとなったのが同藩出身の飯島太十郎国廣 (1854‑?)である(近藤2003,p.24)。飯島につ いては西南戦争で西郷隆盛と運命を共にしたと

も伝えられるが、その出自を始め、詳細は明ら かになっていない。

明治初期には、横浜や築地に外国人居留地が でき、そこでは演奏会も開かれ、オペラ歌手の 伴奏を主たる目的として外国人フルーティスト が来日するようになる。彼らは、数々の逸話と ともに、フルート独奏曲も含む音楽会の記録を 残している。その頃しばしば演奏された曲目の 一つにウェッガーの「小川のほとり(森の小川)」

がある。情景描写そのものといった標題音楽で あり、連続する 2つの部分から構成される。後 半部は、その頃にヨーロッパで流行していたト

レモロを多用している。 M.モイーズによる録 音もあることから、しばらくの間はフルート奏 者のレパートリーの一つとしてよく演奏されて いたようだが、今日ではほとんど取り上げられ ることはない。当時の聴衆や演奏家の趣味の一 端を垣間見ることができる作品である。

外国人居留地と関係が深い音楽家には山田耕 作と宮城道雄がいる。山田は「築地の居留地の ピアノが自分を音楽家にした」と語っているし、

宮城道雄も神戸の居留地と縁が深い。宮城は、

父が神戸の外国人居留地にある商社に勤めてい たこともあり、「この町で育ったことが、自分 の音楽に西洋音楽のスピリットを与えることに なった」と語っている。

2 . . . . : . .   2  M. 

モイーズと深尾須磨子 レコード ②  かもめ

作 曲 弘 田 龍 太 郎 / 作 詞 室 生 犀 星 ソプラノ:荻野綾子

指揮: P. コッポラ パリ交響楽団 Victor French Gramophone (1930 /昭和5

頃)

2‑2‑1  M. モイーズ

M. モイーズは、 1920年代からパリを中心に 活動し、第二次大戦前は伝統あるパリ・コンセ ルヴァトワールのフルート科教授としても活躍 していた。しかしユダヤ系であったことから

ヒットラー占領下で職を追われ、終戦後の混乱 期にアメリカに渡って、生涯をその地で終える

こととなった。 M.モイーズのフルート奏者と しての功績には、歌の歌唱法に倣ってフルート にヴィブラート奏法を取り入れたことや、数多 くの教則本の著作が挙げられる。深尾須磨子 は、昭和48年に門馬直美のインタビューに答 え、 M.モイーズについて次のように回想して いるlo

モイーズの教え方で特徴があるのは、既存 のメソードだけに頼らないということです ね。非常に難しい小指の練習のときなど は、細かいきれいな音符で書いてくれるん です。そういうのがずいぶんたまりました が、私一人がもっているのももったいない ので、帰ってきてから、フルートに呆けて いる方々にさしあげました。

M. モイーズが、テクニック上のあらゆる練 習法を日常的に書きとめていたことや、生徒の 抱えている問題に合わせて練習曲を作っていた ことは、教えを受けた多くの生徒が語ってい る。深尾の言葉もこれを裏付けている。こう して誕生した多くの教則本(練習曲集)は、現 在もフルート奏者の練習に欠かせないものと なっているばかりか、例えばDela Sonoriteゃ Gammes et Arpegesは、他の木管楽器の音作り や基礎教則本としても使用されている。それら の教則本の中にはモイーズ自らによって録音さ れたものもあり、現在はCD「マルセル・モイー ズ大全集」2でその妙技を聞くことができるのだ が、その巻頭には深尾の詩「フリュートの神マ ルセル・モイーズに」が掲げられている。

深尾は初回の渡欧を機会にフルートを学んで

いち

おり、「パリーのばらの花」と呼ばれたマダム・

リュシー・ドラゴンに師事している3。この時 モイーズの演奏には接していたものの、実際に 師事する機会を得たのは第2回目の渡航の時 で、時はまさにM.モイーズが演奏家として全 盛期にあった2年間のことであった。

2‑2‑2 深尾須磨子と荻野綾子、そして山 田耕符

第二次『明星』発刊の直前に、深尾須磨子が

(5)

亡夫、深尾賛之丞4の遺稿詩集出版に際して与 謝野晶子の知遇を得たことは、彼女の詩人とし ての出発には絶好のタイミングであった。

1 9 2 1

年(大正

1 0 )1 1

月の同誌発刊以来、深尾の歌が 数多く掲載されているのだが、ここには同時に 荻野綾子の歌や作曲作品も掲載されている。友 人の紹介で荻野が深尾と知り合い、深尾宅に起 居するようになったのはその直前の

1 9 2 1

年(大 正

1 0 )8

月頃という。荻野は日頃から俳旬を読 み、深尾とともに詩と音楽を研究する会「泉の 会」を立ち上げてもいる。当時、与謝野晶子、

深尾、荻野は多くの行動をともにしていたよう である。また、与謝野晶子は夫の与謝野鉄幹が 西村伊作とともに立ち上げた文化学院5文学部 の学監でもあった。荻野と山田も、この文化学 院の歴代講師陣に名を連ねている。

深尾の二回の渡欧に同行した荻野は、日本の 西洋音楽草創期を代表するソプラノ歌手であ り、ハープ奏者でもあった。ソプラノ歌手、三 浦環

(1884‑1946)

1 5

歳年下となる。荻野は 東京音楽学校在学当初はドイツ歌曲を中心に学 び、その後日本歌曲にも取り組み、渡仏してか らはフランス歌曲を習得した。

1 9 1 0

年代の山田 作品は、山田の恩師にもあたる三浦環による演 奏が多いが、

1 9 2 0

年代に入ると、荻野が山田と 三木露風の作品や、深尾の作品の初演を行うよ うになる。特に

1 9 2 2

年(大正

1 1 )

から

1 9 2 5

年(大 正

1 4 )

には、山田の歌曲に集中的に取り組んで いる。山田の歌曲作品に荻野が重要な役割の一 端を果たしたことは間違いない。また荻野がパ リ滞在中の

1 9 3 1

年(昭和 6)

2

月に、山田は「あ やめ」(オペラバレエ)上演のため渡仏している。

その際に「山田耕作 日本の作品」演奏会 (6月 6日)がパリ市内で開催され、荻野も演奏して 好評を博したという記録が残っている只

山田は

1 9 2 4

年(大正

1 3 )

夏に深尾の「夢の家」

(7月

2 1

日)八「紫」

(8

1 3

日)\「わかれ」

(8

2 0

日),に相次いで作曲し、それらは、荻野と 山田自身の伴奏によって

1 9 2 4

1 0

2 3

日(報知 新聞社主催 報知講堂「山田耕搾歌曲作品発表 音楽会」)に初演されたほか、

1 2

月6日「ヤマダ・

アーベント」10でも演奏されている。近年発売さ

れたCD『山田耕作の遺産 歌曲編

I

11には三 浦と山田の演奏とともに荻野が山田のピアノ伴 奏で歌う「紫」を始めとする作品が収録されて いる120

荻野の初録音は「

1 9 2 5

1

月か

2

月に山田耕 作の「芥子粒夫人」13、「紫」を歌ったこと」14が該 当するようだ。山田が、深尾の詩に作曲したも のとしては、ほかに「手まりうた」15、「婦選の 歌」があり、編曲作品として「卒業の歌」16、「な かよし円舞曲」17がある。

ここまで、深尾と荻野の第一回渡欧前まで の状況をみてきたが、その直前の

1 9 2 5

年(大正

1 4 )

『音楽新潮』

4

月号には、以下のような記 述がある。

楽 団 消 息 荻 野 綾 子 女 史 の 渡 欧 文 化 学 院 の声楽講師荻野綾子女史は此度山田耕作 氏、与謝野晶子女史等の後援を受けて四月 初旬渡欧することに決定したさうである。

因に女史は巴里に

1

年独逸に

2

年の予定で 主に声楽作曲を研究すると同時に我が作曲 家の歌曲を発表する由である18

2‑1  ‑3  M. 

モイーズと荻野綾子

深尾は「

1 9 3 0

年に私はまたパリに行きまし た。そのころ荻野さんが向こうで録音をしまし てね、日本の歌かなんかの吹込みをしたんで す。そのときに、室内楽のような形の伴奏のな かに、やはりモイーズが入っていたんですね。

それで荻野さんがモイーズに勝手に相談してし まったんです。モイーズは、いまはそういうア マチュアには教えないが、遠い日本からきてフ ルートを習っているような人なら、まあよこし てごらんといってくれたんですドとモイーズに 師事することになった経緯を述べている。また 深尾が日本人最初のモイーズの弟子とされたこ ともあったようだが、この回想には同時に、最 初の弟子は「私の前に、モイーズについた日本 人がもう一人いるんですよ。松本の何という方 でしたかね」と語っているので、事実は日本人 第二番目の弟子ということのようだが、いずれ にしろ日本の女流フルーティストの魁であった ことは間違いなさそうである。このときに「荻 野さんが録音した」とされるレコードとしては、

(6)

「昼の夢」(高安月郊作曲)、「犬と雲」(橋本國 彦作曲)、「かもめ」(弘田龍太郎作曲)が残さ れている。今回の演奏会では、この中からキー ワードの主旨に合わせて、金沢出身の文学者、

室生犀星の詩による「かもめ」を聴いた。この 曲の作曲者である弘田は、昭和 3年にベルリ

ンに留学し、後に東京音楽学校(現東京藝術大 学)の作曲科教授となった。一時は宮城道雄ら の「新日本音楽」運動に参加したこともあるほ か、童謡「春よこい」「すずめの学校」「叱られて」

などで知られる。

ジャポニズムの影響もあると思われるが、荻 野が渡欧の際に持参した日本人作曲家の手によ る数十曲の楽譜は、フランス人から関心をもた れたようである。またモイーズが演奏したこと で、日本で再評価されるようになったものもあ る。

(M. モイーズは)レコードもずいぶん録音 しましたよ、「荒城の月」とかその他の日 本のメロディも吹き込みましたね。あれ

は、荻野さんの楽譜や彼女の歌うのをきい て、面白そうなのを選んで、息子のルイ・

モイーズがアレンジしたんです。みなSP です。フルートの曲としての「荒城の月」

は、このレコードで日本でも有名になった のですね(深尾回想)20 

ルイ・モイーズによって編曲された「荒城の 月」を含む作品は、現在も全音出版より「 3つ の日本の歌による変奏曲」として出版されてい る。のちに荻野は結婚し太田太郎夫人となって 三度目の渡欧をした。その際にM.モイーズ宅 を訪ねて歓待されるのだが、「今回は曲がない こと(日本人作品の楽譜を持参していない)」を 残念がられてもいる冗

深尾には、

1 9 2 4

1 2

6

日「山田耕作作品に よる演奏会で助奏(フルート)として参加」とい う記録もあるのだが(近藤

2 0 0 3 ,

p. 

1 6 4 )

、プロ グラムとチラシからは確認が取れない22。第一 回渡欧後の

1 9 2 8

1 2

2

日、

1 9 2 9

5

1 3

日に は深尾と荻野(ハープ)によるデュオ演奏会を 開催している。

2‑2  C.W. 

グルック:精霊の踊り

( 1 7 7 4 ) 2‑2‑1 

精霊の踊りと

M

モイーズ

電気録音時代に入り、モイーズがソリスト として初録音したのは

1 9 2 7

年(昭和

2)

である。

このときの録音としては4曲が知られている が、その中で「精霊の踊り」が一番初めに録音

されたといわれる。

グルックはイタリアで学び、ウィーンでカー ル6世の「宮廷作曲家」として活躍した後、パ リでも成功を収めるなど国際的に活躍した作曲 家である。グルックの死後に「宮廷作曲家」の 称号をついだのが、長年ウィーンで宮廷つき音 楽家を目指していたW.A.モーツァルトであり、

その俸給がグルックの半額であったことは良く 知られている。また、神童時代のモーツァルト がシェーンブルン宮殿の床で転んでしまい、マ リー・アントワネットに助け起こされた有名な 逸話がある。グルックは、その宮殿でマリー・

アントワネットの音楽教師を勤めていた。王太 子妃となっていたかつての教え子マリー・アン

トワネットの援助によって、「オーリードのイ フィジェニ」(パリ・オペラ座、

1 7 7 4

年〔ルイ

1 5

世統治下〕)の成功を契機に、グルックは次々 とフランス・オペラの傑作を作曲した。グルッ クのオペラは、フランスの伝統を継承するもの として受け継がれることとなった。この作品は 当初「オルフェオとエウリデイーチェ」と題し てウィーンで初演された作品に、様々なフラン ス好みの改編を加えて

1 7 7 ・ 4

年にパリで上演され たものである23。この「聖霊の踊り」も、フラン ス版でバレエ・シーンとして付け加えられた。

深尾が

1 9 3 3

年(昭和

8)

のラジオ出演の折に

「精霊の踊り」を演奏したという記録もある

深尾は前出「素顔の巨匠たち」の中で「モイーズ 先生の教えを忘れないようにいつでもふけるよ うにしている3曲」として、「シリンクス」 (c.ド ビュッシー)、「アンダンテ・パストラール」

( P .

タッファネル

2 5 )

、「精霊のおどり」を挙げてい る。

またこの作品は、

1 9 0 3

7

2 3

日(明治

3 6 )

に東京音楽学校奏楽堂において三浦環(柴田環)

らによって日本で上演された初のオペラで、大

(7)

成功の記録が残っている26。初演はピアノ伴奏 で行われた。

余談だが

2 0 0 5

年には、当時の様々ないきさつ で上演されずにいた森鴎外による日本語訳「オ ルフエウス」が東京藝術大学奏楽堂で初演され た。これは鴎外が

1 9 1 4

9

月(大正

3)

に雑誌

『我等』に掲載したものである。深尾は、自ら が詩人としての第一歩を踏み出すきっかけと なった亡夫、深尾賛之丞の遺稿詩集『天の鍵』

創刊にあたって、森林太郎(鴎外)に序の執筆 を戴いている。後年、鴎外について「慈父の まなざしを感じた」と語っている(高野

1 9 7 6 ,p .  

119)

2‑3 

宮城道雄:春の海

( 1 9 2 9 ) 2‑3‑1 

宮城道雄と新日本音楽

現在では日本の伝統音楽を代表する一曲であ り、正月を祝う音楽として欠かせない「春の海」

だが、作曲当時の宮城道雄は吉田晴風(尺八)

とともに「新日本音楽」

( 1 9 2 0

年以降)の旗印の 下で売り出し中の新進気鋭の音楽家であった。

「日本音楽の革命児」であった宮城道雄は、当 時の「伝統的音楽」からは、かけ離れた存在で ある。

1 9 2 9

年(昭和4)に発表した「春の海」(原曲 は尺八と等)は、春の瀬戸内海の印象を3部形 式にまとめた「標題音楽」である。宮城はレコー ド解説に「第

1

部がゆるやかな波、船端の小波 の音、かもめの鳴き声、その鳴き交う様を表 し、第2部が勇ましい櫓拍子の漁船のいきかう 様を描写している」と記している。ルネ・シュ メー切との録音でアメリカ、フランスでもレ コード発売されたことを契機に、世界的に知ら れる作品となった。この第とヴァイオリンの演 奏に当時の人々が熱狂する様子は宮城自身の随 筆「春の海」や、川端康成の小説「純粋の声」か らも知ることができる28。また、後にモイーズ もこの曲を演奏し、宮城自身の随筆「春の海の 思ひ出」の中に「フルートの大家モイーズ氏も 吹いて下さつたといふ事を聞いて、光栄に思っ てゐる」と喜ぶ様子も綴られている29。「春の海」

当時の状況については、渡辺裕

( 2 0 0 2 )

に詳し

30 

宮城の音楽への新たな取り組みが、大正ロマ

ンの自由な雰囲気の中で、ラジオという新しい 媒体を通して高い人気と支持を得ていたこと

は、宮城がNHKのラジオ放送(当時東京放送 局)開始初日(大正

1 4 )

に等の演奏で出演したり、

ラジオを通して等曲講座を開講したりしている ことなどからも窺える。邦楽器と西洋の楽器の アンサンブルが新規な試みであったり、邦楽作 品を西洋楽器で演奏することが人々の熱狂の対 象となっていたことなど、現在では想像し難 い。当時はレコード、ラジオという新しい媒体 を通して新しい音楽表現が求められ、音楽を取 り巻く考え方や音の嗜好が劇的に変化する渦中 にあった。宮城と後述する菅原明朗の対談「新 日本音楽の限界」(昭和

1 6 )

の中にも、音のそ のものの変化について語られている(松下

1 9 9 8 , p . 2 1 8 ) 。

(菅原)現在の

2 0

歳以下の若い人に音楽の 話をするときに西洋音楽の例を使ったほう が、親しみがいいんです。その年頃の人に

とっては日本音楽よりも洋楽の方が遥かに 身にしみている音楽らしいですね。そうで しょう。生まれて聴く音楽が既にラジオだ の蓄音機で洋楽を盛んに聴いて、そうして 聴く日本音楽というものの大部分がむしろ 新日本音楽の方が多くて学校で西洋風の唱 歌を教わって、在来の日本音楽というもの はほとんど聴く機会がないですから……。

今の若い人に宮城さんの曲を聴かして、こ れが洋楽の非常な影響を受けた日本の音楽 だといっても判らないらしいですね……

(中略)……僕のおふくろさんなんかに感 想を聴いて見ると宮城さんの等の音はピア

ノみたいな音がするというから……

また菅原は、黒澤明が製作主任として製作し た日本製トーキー映画の第一作「藤十郎の恋」

の音楽(編曲指揮)を手がけ、その中で宮城も 演奏を行っている。菅原は、映画の中で筆の音 がマイクロフォンを通してこその効果を発揮し たことに触れている。音そのものの質的な変化 とともに、新しい媒体の出現で音の表現が変

(8)

わったことで、それに伴って作品自体が変質し たことを記している。

2‑3‑2 

宮城道雄と菅原明朗

レコード ③  千鳥一箪曲によるパラフレーズ 吉澤検校一菅原明朗編曲

ソプラノ:荻野綾子 等:宮城道雄 指揮:菅原明朗

日本ビクター室内管弦楽団 日本ビクター

1 3 3 1 6 / 7  [ 1 9 3 3 /

昭和

8

〕 菅原は宮城と同じく兵庫県生まれで、キリ スト教系幼稚園で幼稚園唱歌、賛美歌に触れ て育ち、中学では吹奏楽部に所属してフラン ス音楽の伝統に触れ(指導者がフランス式陸軍 軍楽隊出身者)、中学校中退後には、大田黒元 雄31のサロンに通うようになった。大田黒は私 財で、英米仏の音楽雑誌を中心とした新しい ヨーロッパの音楽や、文芸思潮などを紹介する 評論雑誌『音楽と文学』を刊行し32、フランス近 代音楽の紹介に足跡を残した人物として知られ る。このグループに所属する人達はいずれも東 京音楽学校出身者ではなく、これまで同校関係 者を中心としたドイツ派で占められてきた音楽 界に一石を投じることとなった。その後、菅原 は東京を離れ、 7年間奈良で音楽を独自に勉強 した。留学して西洋音楽に伍そうとした山田の 時代とは一線を画し、日露戦争後の大正の雰囲 気の中で、アジア的な独自な方向性を見出そう

という立場をとったことは、菅原が音楽学校で はなく、美術学校に進学していたことにも関わ りがあるかもしれない。音楽の分野では、明治 以来、西洋音楽を学び取ることが危急の課題で あったのに対し、美術分野では岡倉天心、フェ ノロサらが「欧州美術は写実のみを追求して今 日衰退の極にあり、世界は日本美術に期待を寄 せている。和学を基本として、西洋画の長所を 取り入れて改良すれば良い」という当時のジャ ポニズムを過大に評価した論を推し進め、これ が国粋派の官僚達の支持を得たことから、明治

29

年頃までその政策が継続されていた33。その 後は修正が加えられたものの、美術分野で学ん

だ菅原の思考に何らかの影響を及ぽしたのでは ないだろうか。ヨーロッパ音楽を一方的に受け 入れるのではなく、独自の感性を追求するよう

になった大正期から、軍靴の足音が近づく昭和 の時代に入ると、菅原のアジアや日本音楽の研 究は次第に重用されるべきものとなったのだろ

う。こうした菅原の姿勢に共鳴し、宮城の方か ら菅原に近づいたとされることも肯ける。宮城 自らもドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィン スキーなどの当時の現代作品に強い関心があ り、フランス音楽から影響を受けていることを 語っている34。また宮城がフランス音楽に傾倒 し、新輸入レコードを聴くことを喜びとしてい た様子が田辺尚雄らによって語られてもいる35

これらのことも菅原との接点を知る上で重要で ある。

「千鳥ー等曲によるパラフレーズ」について 宮城は「菅原さんが編曲された『千鳥』は、なか なかよろしくて、一番沢山やりました。放送 や、荻野さんが歌って……」と振り返る。菅原 は宮城との対談で「千鳥」について以下のよう に語っている(松下

1 9 9 8 , p . 2 1 4 ) 3 6 0

雅楽には非常に興味をもち、そして雅楽のこ とを色々研究している中に、等の音楽の中にこ の伝統というものが一番強く流れ込んでいるよ うな気がしたのです。それから俗等の方に興味 を持ち始めて、ちょうどその興味を持ち始めた 頃に、ビクターの青砥君と荻野さんから話が あって、『千鳥』でも編曲して、今迄のような 編曲でなしにパラフレーズして、宮城さんの等 と荻野さんの歌と三人でやってみないか。それ が手を着けたきっかけなんです。

しかし、同時に対談の後段では「それで宮城 さんに等を弾いて戴いたり、宮城さんのもの を編曲したり、共同の作品なんかを作ったり していて、新日本音楽というものに限界があ るのじゃないかという風な考えを持つように なったんですがね」とも述べている(松下

1 9 9 8 , p .  2 1 4 ) 。

荻野の『千鳥』に対する証言もある

( 1 9 3 3

5

月の演奏会において)巴

「日本にすぐれた作曲家が生まれることを

‑24‑

(9)

念願し、自分の発表会というより、作曲家 たちに発表の機会をつくることを目的とす ること。そして古曲を新しい解釈で演奏す るのも一つの研究になるので『千鳥』の編 曲を菅原明朗に依頼した」

荻野が詩を大事に歌う梢神は、フォーレ、 ド ビュッシーの伝統を学び、ラヴェルの新曲発表 の同じ舞台に立ったことなど、フランス留学を 機にますます深められていたことと考えられ る。さらに、荻野は渡欧前より日本人作曲家の 作品を歌うことにおいて、草分け的存在でも

あった。それは戦争の足音の中で、「西洋音楽」

に専心する困難さも伴って、邦楽曲をフランス 仕込みの歌唱法で歌う試みに一層拍車をかけた とも考えられる。荻野の宮城、吉田晴風との共 演は、「せきれい」「春の唄」などのレコードと

しても残っている冗

現在では、宮城道雄の音楽は「邦楽に西洋音 楽の要素が取り入れられた画期的なものであ り、

1 7

絃や

8 0

絃などの新しい楽器を製作し、合 奏において低音の拡充をはかった」という評価 を得ているが、おそらく宮城の音楽はそれに留 まらない広がりを持っている。菅原は様々の模 索の中で、日本楽壇の「フランス近代派」を代 表する人物であり、日本音楽からフランス音楽 への扉を開くキーパーソンと見倣されていたの だが、宮城の方が後の時代の音楽の扉を開く

「キーパーソン」の役割をより重く担っていた のかもしれない。「新日本音楽」が後世に与え た影響は今後の検証にゆだねられている。

この曲の初演は日比谷公会堂

( 1 9 3 3

年)で菅 原•宮城・荻野と新交響楽団によって行われて いる。

2‑4 

菅原明朗:笛吹き女

( 1 9 3 1 )

(詩深尾 須磨子

1928)

2‑4‑1 

菅原明朗と「笛吹き女」

菅原は、「ふらんす物語」でも知られる永井 荷風と交遊があり、永井のテキストで「葛飾情 話(オペラ)」を作曲したことでも知られてい る39。そんなフランス派の菅原が深尾の詩に注

目したことは自然なことかもしれない。

「笛吹き女」は

1 9 2 8

年(昭和

3)

春、深尾が第 一回目の渡欧から帰国した直後の『改造』 4月 号に発表され、

1 9 3 0

年(昭和

5)

に発表した詩 集『雌鶏の視野』にも収められた。候文体で書 かれたエキゾチックなもので、 4つの部分に分 かれる「

1 2

章」から成る。菅原の作品は、この 詩をフルートと朗読の編成としたものである。

楽曲自体は、

3

部形式 (ABA

Coda)として構 成されている。

楽器編成としては特殊な部類にあたる「フ ルートと声楽」による作品は、

1 9 2 0

年代のフ ランスにその多くを見出すことができる。筆 者は、菅原がフランス音楽を研究する中で、

フォーレ、 ドビュッシー、ラヴェルらの朗唱ス タイルの歌曲にも触れていたであろうし、それ らを含めた作品群の影響を受けたであろうと推 測する。菅原作品以外にも、この詩には数人の 作曲家によって曲が付けられている。橋本國彦 の作品が最も早く、荻野綾子の独唱会

( 1 9 2 9

5

2 3

日)で、フルートとピアノの伴奏という 形で初演されている。代表的なものを以下に記 す。

1 9 2 8

年 橋 本 巖 彦 作 品

6‑3

オーケストラと歌

1 9 3 1

年 菅原明朗

フルートと歌

1 9 5 6

年 中島靖子

ソプラノ、尺八、篠笛、等、

十七絃、小鼓

菅原は評論活動も活発に行っており、「日 本歌曲について」(『音楽世界』,

1 9 4 1

年[昭和

1 6 ] )

で、いくつかの歌曲を取り上げて次のよ

うに述べている(松下

1 9 9 8 , p . 2 4 7 )

これは誰しもいうことですが詩はあるけれ ども、歌う詩が少ないということです。例 えば深尾須磨子さんに「笛吹き」という詩 があります。読んでみると、筋は支離滅裂 なんです。何をいおうとしているか感じら れない。しかし朗読してみると非常に面白 いんです。実に違ったエフェクトが出て来 る。これは一つの例ですけれどもこういう 詩が少ない。

(10)

「支離滅裂ではある」が、深尾自身の実体験 を織り交ぜた詩であることに間違いない。深尾 は自らの笛との関わりについて、自身の作品

「五月の笛」(丹波の山里の麦畑で麦を笛にして ふく様)や「さぽてんの花」(「オオボオ」

( O b o e )

を吹く女に自らの人生を投影させて)で描いて もいる。そして深尾が自ら選んだ墓碑銘は「わ れ、笛吹きぬ」であった。

なお上掲書『マエストロの肖像菅原明朗評 論集』のあとがきに、菅原のモーツァルト研究 について海老沢敏が語った内容が引用されてい る。それによれば菅原は『旧モーツァルト全集』

や、当時少数しか印刷されていなかった『ジュ ピター交響曲』のファクシミリを入手しており、

1 9 3 0

年代の音楽雑誌には執拗なくらい頻繁に モーツァルトの楽曲(特に交響曲)を取り上げ ていた。当時にあって、菅原の資料収集能力の 高さや、適切な文献を扱っていたことが驚きを

もって指摘されている(松下

1 9 9 8 , p . 6 0 9 )

2‑5 

山田耕符による

2

つの作品

山田耕

f f :

ピアノのための〈からたちの花〉

/前奏曲卜長調

( 1 9 2 8 )

(原歌曲作詞 北原白秋

1 9 2 4 )

山田耕

i t :

この道による変奏曲

( 1 9 3 0 )

(原歌曲作詞北原白秋

1 9 2 7 )

レ コ ー ド ④ 紫 山 田 耕 搾 作 曲

(作詞深尾須磨子

1 9 2 4 ) N i p p o n o p h o n e   1 5 7 0 5 日 9 2 5

年6月〕

ソプラノ:荻野綾子 ピアノ:山田耕梓

2‑5‑1 

山田耕搾と深尾須磨子

深尾の創作を 4期に分けると、「笛吹き女」

は第2期の作品にあたる。これと同時期の作品 に前述した「紫」がある。菅原は、

1 9 5 0

1 1

月 の「音楽放談」(『音楽芸術』

1 9 5 0

年)の中で次の ように述べている(松下

1 9 9 8 ,p . 3 1 3 ‑ 3 1 4 )

菅原:(山田さんの歌は)日本音楽史の上 で動かせないものです。ただ残念なことに は、あの人のよくないものが一般化してお りますね。本腰を入れた歌曲が普及されな ければいけないと思いますね。

記者: 例えばどんな曲ですか。

菅原: 「紫」です。

深尾自身は「私の詩にはじめて曲を与えられ たのは、音楽の大先覚山田耕枠氏で、かなり字 あまりの『紫』に情熱的な曲が与えられた」と述 べている(逆井

2 0 0 2 ,p . 9 5 )

。後に菅原は、この 山田が作曲した「紫」のピアノパートをオーケ ストレーションしている。山田耕搾全集(第3 巻 歌 曲3)に掲載されている深尾の詩による 作品5曲の中には、山田自身が演奏についての 注意書きを記したものがある。「紫」について は触れていないが同時期の作品である「わかれ」

については記述が残っている。

「わかれ」

深尾須磨子(作詞)/山田耕作(大正

1 3

年 8月

20

日作曲)

ただ泣きてわかれしが 薔薇の花白かりき

山田: 最初の二音は焼きつくように鋭く

……(中略)……『ただ』を息を吐くよう にして、『泣きて、別れしが』をやるせな く、歎く。わずか

1 3

小節ほどの小曲ではあ るが、その変化は激しい。私はこの小曲を こよなく好む。恐らく私のリートの中でも 異色あるものと思う。この情熱、この諦 観、そしてこの色彩の多様さ。これこそは 詩人須磨子の実に見事な燃焼である……

山田の詩人深尾に対する鋭い洞察の一端が示 されている。

2‑5‑2 

山田耕符:ピアノのための〈から たちの花〉/前奏曲卜長調

( 1 9 2 8 )

山田とピアノの出会いは、既に述べた。

築地居留地(教会発祥地)に三番館という、

とても広大なお屋敷があった。そのお屋敷 から流れてくる音が、まるで数千の星をこ ろがしたみたいに綺麗な音で、それが聞こ えてくると、 8つだかの子供だった僕は我 を忘れて自分の家を走り出た。お屋敷の柵 にもたれていつまでも聞き入ったもので す。姉に聞いたら、あれはピアノだって。

あのピアノの音色が僕を作曲家にしたんで す、音楽家になりたいって、そう幼心に

(11)

思ったんですよ。

山田と北原白秋は、

1 9 2 2

年(大正

1 1 )

に雑誌

『詩と音楽』を創刊した。このように音楽、文 学、美術を広く扱った雑誌は他に例をみない。

翌年には関東大震災のため廃刊に追い込まれる が、その後も二人の共作によって

3 0 0

曲にのぼ る作品が誕生した。その中には「待ちぽうけ」

「ペチカ」「鐘がなります」など数々の名作が含 まれている。中でも「からたちの花」は、山田 自身が「私の曲のうちでも、この曲ほど日本語 を生かしているものは少ない」と語るほどの会 心作であったらしい。山田は

1 0

歳で父を亡く

し、重労働と空腹に耐えかねて、からたちの 実を食べたこともあったという(山田

1 9 8 5 ,p .   3 5 ) 4 0

。セノオヤマダ楽譜の

1 0 3 5

番の端書では未 明から夜半近くまで印刷工場で働いており、そ の工場の広い畑の一隅がからたちで囲まれて いたことを述べ、さらに「いま私は、白秋氏の 詩のうちに私の幼時をみつめ、その凝視の底 から、この一曲を唱ひ出でたのであります」と 記している。白秋は柳川で、からたちの垣根

を通って小学校へ通った思い出がある。「から たち」には、二人それぞれに忘れがたい記憶が あったようである。

「からたちの花」の歌曲版は

1 9 2 5

年(大正

1 4 ) 1

1 0

日の作品で、同年

5

月雑誌『女性』に掲 載されている。この作品は、荻野が第

1

回渡欧 に際して、山田耕作から餞別として贈られたも ので、

1

1 0

日付の楽譜には「私の愛する荻野 綾子に」という献辞が記されているという(逆 井

2 0 0 2 ,p . 7 2 )

。現在、自筆譜は紛失しており、

自筆譜からのマイクロフィルムでその記述は確 認できない。『山田耕作全集』第

3

巻(昭和

6

年 4月

30

日 非売品春秋社)には、「原稿には、

Meiner lieben Freundin Ayako Ogino gewidmetと 書かれてある」という記述がある。この曲の初 録音を同年6月には荻野が行っているが、その 音盤は深尾の「紫」がSide2、この「からたちの 花」がSide1となっている。藤原義江、山田の ピアノでの録音は

1 9 2 6

1 1

月になるので、荻野 の録音はそれに先立つものである。多くの歌手 によって歌われ、録音されてきた「からたちの

花」の主題は、後にピアノ独奏曲、ヴァイオリ ン変奏曲や、チェロ変奏曲等の器楽曲として用 いられることになる。「からたちの花」の器楽 版について、山田は以下のように述べている。

「…それが独奏楽器のための楽曲であれば、伴 奏も自ら異なって来なければ、ならぬものであ ります。従って、この改編曲の伴奏は、「から たちの花」の原曲とは、格段に複雑化されてお ります」(ヴァイオリン版に付された見解)。ピ アノ版は

1 9 2 8

年(昭和

3)

4月

1 2

日に編曲され、

同年5月に出版されている。その楽譜の頭には

「白秋兄に 耕作」の辞がある。

2‑5‑3 

山田耕符:この道による変奏曲

(1930) 

(日本人初のフルート作 品)

「この道」の詩を山田が受け取ったとき「これ は『からたちの花』の妹です。「からたちの花」

にもました美しい綾衣を織り典へてください。」

と北原白秋からの添え書きがあったという凡 山田は「『この道』を手にした私は、いとけなか りし日を想ひ、あたたかい母の手にひかれて、

そぞろあるきした道を偲び、在りし日のあはい 追憶に耽らずにはをられなかった。私は亡き母 にしたりながら、静に『この道』を唱ひいでた。」

という。

1 9 2 8

3

月(昭和

3)

に「からたちの花」のヴァ イオリン版が出版された。そのとき、その扉に

「……私はこの曲を出発点として、我国にひろ く、愛好されてをる歌曲その他を、かうした形 式に絹み直して、今後とも続いて発表したいと 思っております」と述べている。その言葉通り、

この曲を出発点として次々と作品が生み出され ることとなった。そうした流れの中に、「この 道による変奏曲」(フルート版)は位置する。「こ の道による変奏曲」は、

1 9 3 0

年(昭和

5)9

1 8

日に完成され、同年4夜連続で行われた山田の 楽壇生活

2 5

周年記念コンサートの第

2

夜「器楽 の夕」

( I O

7

日)で演奏された。日本人作曲 家の手による初のフルート作品である42。アメ

リカでフルートを学んだ岡村雅雄と、 トドロ ウィッチ夫人によって初演されている。

「山田耕作氏祝賀演奏曲目及解説」(日比谷公

(12)

会堂)の曲目解説には、「フリュート独奏「この 道」を主題とする変奏曲、 8つの追憶ー一。名 歌曲「この道」の旋律を八つの姿に眺めたもの。

昭和五年九月十八日の作、岡村雅雄氏に贈られ てゐる」とある。ここにある岡村雅雄(1892(明 治25)生まれ)はロサンジェルスでフルートを 学び、当地でリサイタルも開催した日本のフ ルート奏者のパイオニアで、モーツァルトのフ ルート協奏曲二長調の全楽章を日本初演したこ とで知られる。山田と近衛秀麿が1925年(大正 14)に設立した日本交響楽協会の唯一のフルー

ト独奏者でもあった。

ほかにも最初期のフルート作品としては、松 平頼則の「ソナチネ」があり、その作品の一部 については山田作品より仕上がりが早いようで あるが、全楽章が完成されたのは1936年のよう だ。山田や松平のフルート作品は、岡村に触発

されて書かれたといわれる。その一方で当時の 日本人フルート奏者は、ヴィブラート奏法を習 得しておらず、ヴィブラートを用いた演奏を行 うようになるのは、まだいくらか先のことにな る。

人物関係図 室生犀星

3 .  

おわりに

山田の自伝のあとがきに弟子の圃伊玖磨が記 した文章には、「(山田から)「『日本語をじっと 聞いて、その日本語の中に内在する音楽性を抽 出して定着しなければならない。それが日本の 歌曲をつくるまず第一の方法であるし、歌曲ば かりでなくて器楽曲を書く場合でも、やはり自 分の栂国語のなかのリズムは大切にしなければ

ならないのだ。それが一つの音楽的な一ーこ とばではない意味の音楽ーーテーマ、リズム、

その他の大切な柱になるのだ』ということだけ は厳しく言われた」と記されている。この言葉 は、荻野がフランスで師事したクロワザの言 葉「歌はその土地の言語から生まれたので、そ の土地の言葉から離れてはならない。音楽には マテリアル(素材)とサンシビリテ(感性)があ る」と同様のことを意味している。そして後年 荻野の夫太田太郎が渡欧の際にこの言葉を聞 き「(日本には素材も感情もあると思うが)それ から創造された真の曲や、日本語から生まれた 唱法も樹立されてゐない」「素材を充分に研究 し、学問的、作曲的、歌唱法的、等々からこ れを築き上げて行くことが我々楽壇人の任務

¥、

同居人

ヽ . 、 ̲ , , ・ . ···•.

師 弟 関 係 \ /  .•• 菅原明朗

  /  .  ・ 一

‑ ・

一•

  一• 一

. 、 , , ・ ‑ ‑ ‑ ‑  

深尾須磨子 —•一--·

・ 一

? ... •···

.....•···: .. • · · · · .

‑ ‑ ‑

山田順子 徳田秋声 • … • • . .  ●拿●...  共演

文学者同士の交流 作詞者と作曲家

(13)

だと、熟々感じた」という感想を述べるのであ る43。この言葉はおそらく当時の日本人音楽家 たちの気持ちを代弁している。

荻野は1922年からの3年間、山田の歌曲に集 中的に取り組んでおり、 1924年 に は 深 尾 と 山 田による3曲が誕生している。「日本語と音楽」

を巡って目標を同じくした者達の多くの交流を 土台として、ソプラノ歌手荻野の初の渡欧を前 にした1925年にはさらに「からたちの花」が誕 生した。パリでは荻野を通してモイーズにその 楽譜が渡り、モイーズの息子ルイが山田の「か らたちの花」を主題としたフルートのための変 奏曲を作曲し、ピアノを弾き、レコード録音を 行っている。山田にとって、詩と同様に歌手荻 野が与えたインスピレーションは、その歌曲作 品誕生に重要な役割を果たしたし、他方、荻野 自身の歌手としての成長には深尾や山田の存在 がなくてはならないものであった。また、「か らたちの花」を出発点としてその妹的存在とし て誕生した歌曲「この道」のテーマは、後に山 田自身による初のフルート作品を誕生させるこ とになる。

モイーズのレコードを糸口に、洋の東西に亘 る様々な芸術家同志の関わりと影響関係の一端

参 考 文 献

を見てとることができる。

謝 辞

金沢蓄音器館では八日市屋典之館長を始め、

皆様に多大のご助力をいただいた。特に安江貴 子氏には、レコードの調査を始め、様々な面で 多くのアドヴァイスをいただいた。共演してい ただいた朗読の越後亜起氏、ピアノの太田優美 子氏には長時間の練習にお付き合いいただい た。資料の調査、選択について多くをご教示い ただいた日本近代音楽館の林淑姫氏、資料の捜 索や収集にご協力くださった香川大学図書館の 三木崇史氏には、心より感謝申し上げる。ま た、今回の楽曲とは直接に関連はしなかったも のの、芸術家同士の関わりに関して多くの資料

もあった。今回、この演奏会を行った金沢は、

室生犀星、徳田秋声、泉鏡花らの文学者を輩出 し、市民が伝統文化や文学に深い関心を寄せる 土地柄である。深尾須磨子は徳田秋声と親しい 交友関係をもち、また秋声に関わる人々とも友 好関係があった。ご協力いただいた徳田秋声記 念館の大木志門氏を始め、多くの方に感謝申し 上げる。

太田太郎(1938)「モイーズと語る」『レコード音楽』 (10月号)名曲堂 川端康成(1988)『川端康成全集』新潮社

川端康成(1982)『川端康成全集 27巻』新潮社

金原礼子(2003‑2006)「フランス歌曲演奏史荻野綾子について」『音楽の世界』429号(通号453200311 月号)ー455号(通号47920065月号),日本音楽舞踊会議編

後藤暢子、園伊玖磨、遠山一行編(2001)『山田耕梓著作全集I』岩波書店 近藤滋郎(2003)『日本フルート物語』音楽之友社

逆井尚子(2002)『深尾須磨子 女の近代をうたう』ドメス出版 高野芳子(1976)『わが青春深尾須磨子』無限

高柳守雄(1975)『素顔の巨匠たち』週刊FM 武田隆子(1966)『深尾須磨子ノート』木犀書房 田邊尚雄(1984)『日本音楽講和』講談社学術文庫 田邊尚雄(1995)『日本音楽講話 改訂版』岩波書店

東京音楽学校篇(1987)『東京藝術大学百年史』第1巻 音 楽 之 友 社 東京音楽学校篇(1987)『東京藝術大学百年史』第1 音楽之友社 遠山一行編(1984)『山田耕搾作品資料目録』遠山音楽財団付属図書館

(14)

トレバー・ワイ (1995)『マルセル・モイーズ(フルートの巨匠)』音楽之友社 永井荷風「断腸亭日乗」『荷風全集』第24巻〜第28 岩波書店, 1995

永井荷風「「葛飾情話」の上演せられるまで」『荷風全集』第29 岩波書店,1995 日本近代音楽館編(1993)『大正の光と影』久山社

原ひろ子ほか編(2000)深尾須磨子『旅情記』ゆまに書房

深尾須磨子(1988)『マダム・ Xの春深尾須磨子作品抄』小沢書店 深尾須磨子(1970)『深尾須磨子選集 詩編』新樹社

深尾須磨子(1970)『深尾須磨子選集 随想編』新樹社 深尾須磨子(1935)『丹波の牧歌』書物展望社

深尾賛之丞・深尾須磨子(1921)『天の鍵』アルス出版

松下鉤編(1998)『マエストロの肖像菅原明朗 評論集』大空社 宮城道雄(2001)『雨の念仏』日本図書センター

宮城道雄(1956)「純粋の声」『春の海』ダヴィッド社 宮城道雄(1956)「「春の海」の思ひ出」『水の変態』宝文館

森鴎外訳オペラ「オルフエウス」東京藝術大学, 2005.9プログラム 山田耕搾(1964)『山田耕作作品全集 3巻』第一法規出版

山田耕作(1985)『自伝/若き日の狂詩曲はるかなり青春のしらべ』かのう書房 山田耕

W

(1991)『山田耕作作品全集 4巻』春秋社

山田耕搾(1991)『山田耕搾作品全集 7巻』春秋社 山田耕搾文庫 プログラム No. PG99,  PG106  渡辺裕(2002)『日本文化モダン・ラプソデイ』春秋社

高柳守雄(1975)『素顔の巨匠たち』 週刊FM p. 276‑288  2 村松楽器販売 MGCD1001~5

深 尾 須 磨 子 の 渡 欧 第1回 1925‑1928 (大正14一昭和3) 2 1930‑1932 (昭和5一昭和7) 4 深尾賛之丞 (1886~1920) 。詩人として認められ始めた矢先に病死。

5  1921年設立の各種学校。中学部は日本初の男女共学。

金原礼子 (2003)「フランス歌曲演奏史荻野綾子について (6)」『音楽の世界』第43‑4 (458p. 30,  本音楽舞踊会議編。

7  1927年(昭和2)セノオヤマダ1022 Ms.1021 自筆譜には「亡き友に捧ぐ」とある。

8  1927年(昭和2)セノオヤマダ1026(215 Pr.433自筆譜。雑誌『女性』第7巻 第3号 大 正143 月号。

9  1927年(昭和2)セノオヤマダ1023(215 Ms.451自筆譜。

10  山田耕搾文庫 プログラム No.PG99  11  コロムビア (COCA‑13171,1996) 

12  「君がためおる綾錦」「たたえよしらべ」「歌いつれよ」「六騎」「風ぞ行く」「よしきり」「城ヶ島の雨」「唄」

「馬売り」「かやの木山の」。

13  ポストマニ。北原白秋作詞、全4曲。『女性』第5 4(1924年(大正13)4月号)に掲載。

14  金原礼子 (2004)「フランス歌曲演奏史 荻野綾子について (15)」『音楽の世界』第44‑3 (467p. 30, 

本音楽舞踊会議編。

(15)

15 深尾の自筆「正月用 山田氏」との記載がある。

16  アイルランド民謡、作曲年代不詳。

17  高田信ー作曲、作曲年不詳。

18  第2巻 第4号 p.53 セール・フレザー株式会社。

19  高柳守雄(1975)『素顔の巨匠たち』週刊FM編 p. 276‑288  20  同上。

21  金原礼子 (2005)「フランス歌曲演奏史荻野綾子について (23)」『音楽の世界』第45‑1 (475号)p.  39, 日 本音楽舞踊会議編。

22  山田耕搾文庫 プログラム No.PG106 

23  原語のイタリア語をフランス語に、オルフェオ役はカストラートからフランス・バロック特有のコントラ ルト(ハイ・テノール)に変更している。また、バレエ・シーンも付け加えた。

24 近藤滋郎(2003)『日本フルート物語』 音 楽 之 友 社 付 録 p.12  25  M. モイーズの師。

26  東京音楽学校篇『東京藝術大学百年史』第1巻(音楽之友社, 1987)中の年譜 (p.6)「7月 ペリー指揮下に グルックの「オルフォイス」奏楽堂において上演」,及び資料(p.541‑554)。

27  フランス人ヴァイオリニスト。

28  『川端康成全集』第27巻 新潮社(1982) p. 105‑112  (『婦人公論』 昭和10年7月号「藝術深園」欄に発表)。

この「純粋の声」とは、宮城道雄が昭和5年に書いた随筆を引用し、同名となっている。宮城道雄『春の海』

(ダヴィッド社, 1956)より「純粋の声」 (p.9‑11)。

29  宮城道雄『水の変態』(宝文館,1956)より「春の海の思ひ出」 (p.175‑178)。 30 渡辺裕『 H本文化 モダン・ラプソデイ』(春秋社,2002)第一部。

31  大田黒元雄(1893‑1979)。ロンドン大学に留学した音楽評論の先駆者。

32  1916年から1919年まで刊行。

33  森鴎外オペラ「オルフエウス」プログラム (2005.9,p.20‑24)より、新関公子「画家とのであいから文学に目 覚めた森鴎外」。

34  宮城道雄『春の海』(ダヴィッド社,1956)の「レコード雑話」 (p.62‑70)にシュメーとの録音に関する記述 がある。

35  田辺尚雄『日本音楽講和』(講談社学術文庫,1984)p. 58。宮城は田辺と「新日本音楽」の運動も行った。

36  宮城道雄『雨の念仏』(日本図書センター,2001,p.90)の「名古屋演奏旅行記」(昭和8年)に名古屋での演奏 の様子、選曲の経緯が語られている。

37  金原礼子 (2004)「フランス歌曲演奏史 荻野綾子について (11)」『音楽の世界』第43‑9 (463巻)p.20, 日 本音楽舞踊会議編。

38  Victor‑13405 

昭和8年 録 音 作 曲 宮 城 道 雄 : 春 の 唄 昭和9年 録 音 作 曲 宮 城 道 雄 : 落 葉

荻野綾子(Sop.)宮城道雄(争)吉田晴風(尺八)

荻野綾子(Sop.)宮城道雄(等)吉田晴風(尺八)

作曲 宮城道雄:せきれい荻野綾子(Sop.)宮城道雄(等)吉田晴風(尺八)

作 曲 宮 城 道 雄 : 潮 音 荻野綾子(Sop.)宮城道雄(第)吉田晴風(尺八)

39  「断腸亭日乗」昭和12年12月7日に菅原が登場。以来、昭和30年まで菅原の記述がある(『荷風全集』第24巻, 岩波書店,1995)。「「葛飾情話」の上演せられるまで」『荷風全集』(第29巻,p.272‑277)。

40  山田自身は「(食べ)慣れると、下手なサラダよりよっぽどおいしかった」と述べている。

41  後藤暢子編『山田耕作著作全集I』(岩波書店, p.352)より「昭和2年11月28日に本交響楽教会出版部」未完 随想I(作品解説)。

(16)

42  第一夜「声楽の夕」では「紫」が斉藤静子と近藤柏次郎(ピアノ)、高階哲夫(ヴァイオリン助奏)によって、「か クらたちの花」が関屋敏子、同じく近藤のピアノで演奏されている。

43  金原礼子(2006)「フランス歌曲演奏史 荻野綾子について(27)」『音楽の世界』第45‑4(478巻)p. 23, 日本 音楽舞踊会議編。

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