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万葉集における「咲」字

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(1)

万葉集における﹁咲﹂字

     序

 八笑いVは生物の中で︑人間だけが獲得した一つの特質であるよ

うだ︒古事記のように過去を振り返ろうとした記録でみるとく笑

い﹀は否定的な様相では描かれていない︒それは身体を伴なう心の

肯定性の表現である︒そしてこの肯定性というのは本能に結びつい

ているらしい︒古事記にみられるA笑い﹀はすべてそうしたもので

ある︒ 同じく︑人間に本能的としか云い様のない性質がまた律令社会を

作り上げるわけであろうが︑その律令社会には︑本能性を拒否する

ものが存在するのもまた事実である︒人間の文化に関わるすべてはこの律令社会法治国家に初まる︒例えば一つには人間が規約を信

じようとしたことに初まる︒人間はここで︑信ずるという全く人間

的能力を規約という限定に代置してしまったのである︒換言すれば

信ずるという全的なものを︑ 規約の上に縮少し固定したわけであ

る︒ おそらくそうした辺りから︑ 口を開くことのない︑ 声のない︑

従ってあの身体的肯定性の消えた︿笑い﹀が成立してくる︒万葉人

はそれを﹁エミ﹂と云った︒ ﹁エム﹂は現在云うところがら考えれ

ば︑それは口を開くことであった︒栗のイガが開くこと︑アケビの

実の皮が開くこと︑そして実が熟することすべて﹁エム﹂である︒

その本来性に人聞の﹁ホホエミ﹂が含まれる時︑確かにエミは変貌

する︑多分︑開口亡く笑う∀が﹁エム﹂となって来た底にはある心

万葉集における﹁咲﹂字︵渡部︶ 性の成立がある︒ 声のない笑いは植物に似ることが出来た︒花々は頻りに咲んだ︒笑いが人間的象徴に必ず結びつくに対して︑ ﹁エミ﹂は植物によって誘発されることも可能であった︒こうして人間は一つの︑それ自体の性格を獲得して来たのである︒     一 万葉集では﹁エム﹂の正訓字として﹁咲﹂を使っている︒この字はまた﹁サク﹂の正訓字としても使われているのである︒そしてまた﹁サク﹂の正訓字には﹁開﹂があり︑これは﹁アク﹂﹁ヒラク﹂などとも罷まれている︒そうしたものが複雑に入り組んでいるのが万葉集の実態である︒唐詩にみられる﹁桂濫発﹂といった﹁発﹂の使用はない︒ ﹁咲﹂は﹁笑﹂の古字とされるが︑万葉集ではむしろ通用文字である︒古事記ではワラフに﹁咲﹂字を使って例外がない︒ 上二〇ウ六︑二一オ一・二 中黒団七 下一九ウ一︑三六ウ四︵大成・索引本︶ ﹁エミ﹂は一例ほどあって 上三ニオ六﹁恵美佐草藁岐弓︹︵他に︑歌四九﹁恵具志﹂を﹁咲﹂の意味とも︶

﹁咲﹂字がワラフとエムに両用されることはないとみられる︒

 以下︑巻次に従って︑万葉集における﹁エミ﹂の文学の生成につ

一七

(2)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一二号

いて見て行きたい︒ 表は稿本によった︒ ﹁咲﹂ ﹁嘆﹂の混同が伝

本には割合多い︒ 必要に従って註記する︒ ﹁サク﹂欄に﹁開﹂と

﹁咲﹂を入れたが︑開はとにかくとして︑咲は﹁エム﹂の欄にも出

てくる︒直黒の両訓については従来の訓みに従う︒しかし︿花がエ

ム﹀という云い方は音仮名表記には存在せず︑ハナエミと縛まれる  フノノむのが2511﹁花咲﹂と二例あるが︑こうした窪みの方が例外で︑一般  イ  に植物の場合は矢張り︑ ﹁咲﹂は﹁サク﹂と障んでよいものと思わ

れる︒ ﹁花咲﹂を﹁ハナエミ﹂と多分極み得ることは︑古今六帖に

﹁道のへの草ふかゆりの花ゑみにゑみせしからに妻といはましや﹂

とあることから推測出来る︒

 巻一︑巻二は宮廷性の強い巻である︒16などは近江朝廷︑天皇主

宰の詩宴における作である︒だからといって額田王そのものの用字 一八

が﹁開﹂字であったなどと決めてかかるわけには行かないが︑とに

かく近江朝廷付近では﹁サク﹂は﹁開﹂字であったという一現象

ではある︒そして同様に︑およそ時や場が判っている﹁皇子尊宮田      ら人等働傷作歌廿三首﹂中の8でも﹁サク﹂は題字である︒天智朝か      つら持統朝にかけて︑特にその宮廷関係においては﹁サク﹂は開字で

あったとみてよいのかも知れない︒ 右の二者の︑申間に弓削皇子の

﹁咲﹂字による﹁サク﹂が出てくる︒万葉集では︑おそらくこれが

最初である︒ この﹁咲﹂は直伝本︑ 元・金・西・矢・温・京など

﹁嘆.﹂︑神﹁笑﹂である︒最初なだけに﹁咲﹂の方が本来かも知れ

ない︒いずれにしてもこの用字の特質は﹁思紀皇女御歌四首﹂と題

詞にあるように︑先の開字の宮廷性に比して︑私的な作歌の︑その

書き様に含まれていよう︒

i

0

16

=二八吉三八師

=一二能咲八寸

・こ・す

02 1

駿

・一・こ・

・互・すすτす﹁す﹁

64 4

75

黷V7

4 4

      ﹃古典文学大六二四   系﹄元・金・紀﹁嘆﹂﹁この解をと     るべきか﹂

・︸互・

86

y88

7

04

8

 この弓削皇子の﹁秋萩の咲き

で散りぬる﹂の用字の場合︑近

江朝の所謂海彼文化を背負う作

者にとっては︑それを可能にす

る系譜があった︒

 論語︑陽貨﹁夫子三寸而笑﹂

などは﹁エム﹂の方に受け取っ

てよいだろうし

 玉台︑春日白紆曲一首﹁含笑

 十寸満堂中﹂

などの場合︑はっきりと﹁エ

ム﹂の方に享受されるだろう︒

この声のない笑いを花に用いて

 楽府︑西七夜飛﹁花王鶯歌詠﹂

という時︑それは花が﹁サク﹂

(3)

ことでもあった︒ ﹁笑﹂には﹁エム﹂の内容も﹁サク﹂の内容も

既に存在したのである︒遊仙窟に﹁十娘分日映レ水虻知レ咲成隈寛不

言﹂とある︒ この書では﹁咲﹂は笑うである︒ だからこの場合も

﹁花が笑う﹂という内容であるが︑ この﹁花咲﹂までくれば﹁サ

ク﹂となるのはそれほど遠いことではない︒懐風藻の﹁桃李笑而成

尊しを小島憲之氏は﹁エム﹂と本来的に囲まれている︒

 既に正訓字開があり︑咲はエムの本来性をひきずっている時に︑

サクの正訓字に﹁咲﹂﹁暎﹂を使用することは矢張り思い切った文

雅には違いなかったと思われる︒この文雅系譜が︑笑うを仔情化し

たエム早咲を使用させることになるのだろう︒それを最初に使用す

      りるのが表の上では巻四62における聖武天皇である︒これは直ぐ前62

れ以後と考えられよう︒ 22ノ﹁西海道節度使判官﹂の歌があり︑天平四年八月であるからそ

 そして実はこの丁字サク・エム使用の間には次の様なことがあ

る︒ ﹁柿本朝臣人麿従石見国別妻上来時計﹂にみられる 31能咲八師 81 3吉咲八師 ての﹁咲﹂は所謂借訓である︒全く意味は含まれていない︒けれども

これによって人麿当時﹂エムが﹁咲﹂字で書き表わされることが割

合一般的であったろうことは推測される︒即ち︑人麿達宮廷官僚系

の歌人には﹁咲﹂が﹁笑﹂の通用文字であった︒それに対して﹁サ

ク﹂は開字で表わすという或程度筋の通った系列があったのではな

いか︒唐詩でも例えば李順︑贈二盧五旧居一﹁歳歳花開知為レ誰﹂と

﹁開﹂を使用し︑遊仙窟で咲と開・発を区別して使っていること前

述の通りである︒そうした理由からか︑人言という所謂宮廷歌人に

とっては︑どうやら花とこの﹁咲﹂字は無関係であった︒それどこ

ろか人麿に於てはく花がサクVといった表現が全くみられないこと

万葉集における﹁咲﹂字︵渡部︶ 後述の通りである︒ そして巻四には右にみた様に︑聖武天皇︑坂上郎女︑大伴家持に

エム三咲が出てくる︒この時期は多分︑天平五年頃以降〜天平十六年頃までである︒聖武天皇と坂上郎女には︑21献天皇歌一首︑2526      ア      フノア献天皇歌二首とあるように一つの紐帯があり︑家持を含めて︑エム

は本来性︑宮廷性を示すとはいうものの︑此処はもっと個人的な文

学的情緒面のつながりの上にエムH咲の定着があったとみられる︒   1で﹁思はぬに妹が咲まひを夢に見て﹂と出てくる︒これは具象 ア的︑部分的なエミよりは全体的︑女の姿全体を受け取ってのイメー

ジである︒こうしてエム甘咲から﹁咲憐﹂と書いてくる家持と︑ま      ご       た﹁サク﹂を咲字で書いてくる67中臣女郎は︑78﹁中臣女郎贈大伴

宿禰家持﹂などとある様に一つの情緒集団の中にある︒これは縦の系列でもいうことが出来る︒28天平初年・小野老︑55天平三年・余       フつ       遠若︑646669天平十一年・家持︑95天平十六年・家持︑と云わば用      字の共有が太宰府文化圏の人々から家持に向かって流れ込むのであ

る︒ 天平ではエムー1咲は既に一般的伝統であった︒それに風流官人の

私的なサクH咲が加わり︑両者が好情詩人の下に統率されてその混

在の季節となる︒この混在が結局︑家持に集結するといった図式で

ある︒        ﹁エマヒ﹂というのも既に神亀五年置憶良によって0﹁恵麻比麻       欲言言﹂と使われている︒天平でエムが咲字に定着しようとしてい

る時︑音仮名﹁恵麻比﹂が﹁咲憐﹂となるのは当然である︒巻十一

まり      り

54ナは﹁咲牟眉曳﹂︑巻十二90では﹁咲眉引﹂などと現われる︒

りム       りム 巻六は神亀頃における︑官人としての面をそれほど疑問なしに日

常は持っている歌人達の用例を見せる︒赤人に咲サク︑咲Hエム

があり︑福麻呂に咲1ーサクニ例がある︒赤人のは神亀二・三年頃︑

一九

(4)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一二号

               ロ         福麻呂のは久遍京74〜影青京74頃︒ ﹁下咲﹂という表現であるが︑        く         く咲字を両用した人物で赤人はもっとも早い︒この造語は詩性の成立

にとって重要である︒全体としてサクH開字が多いのはこれらの詩

人の官僚面を示す︒対して赤人は宮廷性を退いた所にその文学を成

立させていることが推測される︒

 巻七は作者不明の巻である︒自然へ向かっての仔情の深まりがあ  アる︒25﹁道辺之草深由利乃花咲圷咲至味二妻常可云也﹂ ︵二つの咲  つは版本に嘆である︶の三・四句を﹁花エミにエマしし﹂と警むな

ら︑これは古歌集の歌であるが︑ ﹁草深百合﹂ ﹁花咲み﹂ ﹁咲まし

し﹂など鮮かに一つの特徴を示している︒

 巻七では分類︵例えば﹁霧皆無﹂︶で古歌集が人麿歌集より先に

九三一白波の五十開

九四一神﹁笑﹂ ︵いさき︶

福出

一ユ 一〇﹁一〇○一一〇一す一τ一﹇2

12 9

1

1

1……

三八八五八重花生

=二四六姫皮生沢辺之

=一五七寛﹁嘆﹂

一歌

・﹁

㈱一

E=・

1

1 58 15

1

二〇

配されてあることよりすれば︑古歌集の歌の方が古いものと考えら         ウれていたのだろう︒08に﹁右一首伊勢従駕作﹂とあって︑それが持         つ統六︑大宝元などに考えられれば﹁花咲ホ洋々﹂という表現は或は

七世紀後半の無名歌人の詩想の中に存在したものであろうか︒しか

し︑この雪避の歌群は︑下級であったにしろ︑官人の作であったに

は間違いないだろう︒そしてそれらがあの﹁吉咲八師﹂と人語が書

いた﹁咲﹂字把握の一般性を底部に共有する集団であったことは推

測される︒こうした歌が︑宮廷儀礼の歌出︑一・二とは別の所にそ

の位置を与えられていることは矢張り比較的個人の憐情としてあっ

たことを示すものであろう︒

 巻八は三︑四と作家が重複し︑資料も混み入っている︒例えば春

の部を見るに︑参考欄に示した様に宮廷資料から家持資料まで並べ

てあること︑先学の説かれた通りであろう︒みられるように家持資

料に近づくにつれてサクー1咲が多くなってくる︒卵﹁作者微﹂にサ      りク咲があることは注目されるが︑51の ﹁穂積皇子﹂ のサク日咲      つは︑その麗年が霊亀元年七月だからそれ以前になる︒この穂積皇子は鷲の左註に﹁初嫁一品穂積皇子被寵無濤﹂とある坂上郎女との関係が記されているので︑全く大伴家文学圏と無関係ということはな  アい︒53のサク目咲は憶良のもので天平二・三年か︒旅人に二目サク  つがある︒旅人の本質は矢張り官人であった様だ︒そしてこの巻で一 ア例62﹁咲容﹂が出てくる︒大伴家持のもので︑天平十二年六月のも

のdある︒これは巻四丁の﹁咲醤と前後するものか︒しかしこれ

は借訓ではなく新しい用字である︒この﹁咲容﹂という漢語的表記

は当然海彼のものにみられる︒

 子夜歌﹁吹−歓羅裳開︑動儂含=笑二軸

北上︑李主上伝﹁⁝⁝面向レ北作中笑状上﹂

 巻九には︑ またそれとしての特徴がある︒ 高橋虫麻呂は養老年

(5)

宮廷資料 坂上郎女資粁 大伴家持資粁

1

一・一一・

・二・こ・

22 14

1

1

1

1

・互 一・

1

1

1

2・す

1

52 14

1

1

4

・︸・互・

1

1

77

!4

互・

・︸

1

1

夏  相

・一

14

15 互・

52 15

1

・﹇

一・

1 48

!5

97 15

1

一壷

○一

21

黷Q2

16 16

1

秋  相

・︸・

1

1

      ア中︑常陸国史生などか︒最後の80はとにかく︑巻九全体の趣からみ       てこの巻の歌は天平五年目でのものと思われる︒だからこの虫麻呂

にみられる二例の咲エムは養老〜天平初期のものと思われる︒天      平五年というと確実に家持以前となろう︒75は ﹁詠二上幣信難名娘        ア       ィ 子一瓢﹂であり︑ 80は﹁詠二勝鹿真間娘子︸歌﹂である︒共に伝説歌

と云われるもので︑ ﹁咲﹂はその主人公の造形に使用されている︒

 史生などであったとすれば︵原田貞義氏は藤原宇陀の家司︑平人

などに考えられる︶官僚の一員である︒公的なものに参与したと思   フノ ソ  われる747475はサクに開字を使っている︒これは或は養老年間に於    り ける官僚文人の用字の一般性を示しているのではないかと思われ       うる︒最初の︑人麿歌集の範囲に入れる人もある68﹁献舎人皇子歌ニ       一

万葉集における﹁咲﹂字︵渡部︶ 首﹂の中に﹁花開鴨﹂とある︒この題詞は宮廷文化圏を示し︑従って﹁開﹂字もそれに伴うことになる︒日本書紀では﹁サク﹂は︑例えば﹁木花開耶姫厨のように﹁開﹂字を使っている︒だから開字の系譜には宮廷的一般性をみてよいのではなかろうか︒勿論それを私的に使用することは自由であり︑その外に﹁咲﹂字が使用され︑それは作者微きものにも使用されて︑開戸に対しては私人性の強いものとみられる︒ 常陸風土記の﹁春花開口﹂を古典文学大系では﹁春の花の開︵ひら︶くる時﹂と訓み︑﹁起新歓之遺事﹂を﹁しきりなるゑまひを﹂と嵩んでいる︒筆録者の方にも﹁開﹂と﹁咲﹂字の使用に明確な区別があったとみてよいだろう︒

一二

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一二号

鹿

・﹇・

42 16

1

1

1

一六八三人麿歌集説あり

虫鋼橋肖る高五よ

〇一一〇一〇〇すす一〇

1

1

1

1

52 17

1

1

1……

 右様の一般性の中で︑虫麻呂も典型的な官人性を示している︒表

にみられるように彼にとってはサクは必ず開字であり︑逆に写字は

エムであった︒ 二者が混在することはない︒ 養老年中に成立した

日本書紀をもう少しみてみると︑ ﹁咲﹂は本来的な﹁ワラフ﹂ ﹁エ

ム﹂を示している︒

 神代﹁而咲朦向立﹂ ﹁人穴一三﹂

   ﹁時群二見二人︑大一図日﹂

神武﹁皇軍大悦︑仰天而咲﹂

応神﹁歌憶意撃レロ仰望者﹂

雄略﹁朕壼不レ欲レ観二汝三咲﹂

皇極﹁入鹿臣︑咲而解レ剣﹂ 二二

 斎明﹁市司三三三三﹂︑︑

とワラフーエムの系列を外れることはない︒小島憲之氏は﹃上代文

学と中国文学上﹄で巻二十敏達紀︵十四年︶の﹁所然而咲日﹂と文

選上林賦﹁所然而笑日﹂の関連について云われる︒この﹁笑日﹂←

﹁咲日﹂の図式が成立すれば︑日本書紀の筆者はワラフー1咲に割合

固執していることが知られる︒なお小島氏は先の﹁笑︵咲︶雲向立﹂

を説明されて

談笑大身島島糠醜賑戴難蝿︑雌韓︵語古注︶

と漢書叙伝を引かれ﹁この際アサワラフの訓は最も適当である︒﹂

とされる︒

 咲Hワラフ︵エム︶︑開1ーサクというこの書紀的一般性を虫麻呂も

また背負うのである︒虫麻呂の大きな特質はエムH咲に表われる︒

むり フ75

とされている︒こうした修飾は類型的になり得る可能性を持ち︑対         い︒五味氏は75について東国に行っていなくても出来る作品である         つの歌の発想は幻想的︑構築的であって単純な将情的発想ではな りりW0ノ﹁花の如 咲みて立てれば﹂とあるのがそれである︒この二

象の女は個性的ではなく︑物語の主人公として一般的である︒その

故にまた物語の主人公を鮮明にするのには有効である︒虫麻呂とこ         ア       フつの主人公との関係は74の﹁諸卿大夫等﹂や75の﹁大伴卿﹂との関係

         り      りとは異る︒虫麻呂はこれらの人々を勝手に咲ませることは出来な

い︒ ﹁花の如 咲﹂むことが出来るのは彼の幻想の主人公であり︑

この表現は矢張り個人的︑恣意的なものである︒

 ところでこの﹁花の如 咲みて立﹂とはどんな内容なのであろう

か︒これは       ヤキ①ほほ咲んで立っている姿が花のようである

(7)

−Y  →   ソム  ②花が咲くように︑ほほ咲んで立っている

のどちらかであろう︒結果的にはそう違わないが︑構想の意識には

違いがある︒例えば﹃古典文学大系﹄に

 ﹁花のように笑って立っているので﹂       マム  とある︒これはく花のように咲って﹀であろうか︒この形は一般的にはA花の咲み﹀と原型にあって︑〃⁝⁝の〃は比喩を示している      ソことになるはずである︒とすれば一旦は主十述の関係として︑花が

ム  咲むという型での前提がある︒もしこの様なものとすれば︑ここは

かかる表現の最初のものとなる︒しかし音仮名表記でく花がエムV

という表現のないことは既に述べた︒だから不図すると花がエムと

いう云い方︑従ってその意識もなかったのかも知れない︒だから①

の比喩的修飾︑②の比喩を以ってする序的修辞といった二者択一と

いった具合には行かず︑事実はもっと違ったものかも知れない︒後

に﹁花咲みに!認む﹂という形が出てくるが︑どうやらこれも特別

な感覚的用法らしい︒というのは人聞に関わって﹁花咲み﹂という

ことが可能なのであり︑それを花自体に還元してく花が咲むVといってくることは不可能らしく思われるのである︒とすれば︑初めか

ら﹁花咲﹂は〃人間の咲み〃への比喩的修飾として存在せしめられ

たのである︒即ち花の咲いている状態と女の美しい容姿との融合が

この﹁花咲みに咲﹂む︑今の問題では﹁花の如咲みて立﹂つどいう

表現になったわけである︒

 だからこの辺は文法の関係ではなく︑構想の情緒であろう︒先哲

の﹃古典文学大系﹄の様に﹁花のように笑って立っているので﹂は

構文的にははっきりしないが︑実はそんな所が作者の意に近いので

はなかろうか︒こうした不明瞭さを一挙に解決するには次の様な説

万葉集における﹁咲﹂字︵渡部︶ 明が有効かも知れない︒小島氏はここを﹁腰細の才名が花のやうに笑んで﹂とされ︑ ﹁花︵華︶容﹂の翻訳語と云われる︒そして洛神賦の﹁華容姻郷﹂を挙げられる︒ ﹁花巻﹂は鰯の詞に ﹁花容無レ讐        光儀無レ匹﹂︑ 79の詞に﹁百嬌無忘花前払止﹂とあって幻想的な物       ろ語を作る時の用語であった︒中国では李白﹁清平忌詞三首﹂に﹁雲紙二衣裳一花想レ容﹂とあり︑遊仙窟に﹁花容疑レ眼﹂などとある︒また同じ書の﹁頬裏芙蓉三二摘得ことか﹁引上花開﹂とかいう云い方がある︒こうしたイメージから﹁花の如 咲みて立つ﹂という可能性も出てこようか︒ 万葉歌人達は当然のことながら文脈や文法でのみ歌を作ったのではなく︑底に潜むイメージ︑例えば花容などというものを基にしても歌を作ったのであり︑それが現在単純な散文になりきってしまわないのも当然かも知れない︒いずれにしても﹁花の如 咲みて立てれば﹂というのは日本の文学では矢張り劃期的出現であった︒ 巻十では人麿歌集の歌を先に置いている︒ これは︑ 他の歌は人臣歌集に遅れているという編者の判断であろうか︒・或は人麿歌集を分類の基礎としたためであらうか︒表にみられるように︑ サクに

﹁開﹂と﹁咲﹂が交互に現われる︒これに︑何かを基準にしての整       ろ理が期待出来るかというとそうでもないらしい︒というのは86にみ       つられるように両者が一首の中に併存しているからである︒エムH咲

は一例もなく︑すべて咲はサクである︒開字が宮廷性︑宮人性を示

すこと先に述べたが︑その宮人にとっては私的用法でもあり得る︒

サクー1咲には仔情性︑個人性といった反宮廷性が本来あった︒だか

らここは官人的なものと私的な面の混在がみられる︒巻十は巻八に

似ているわけである︒両者は官人の作であって︑歌の場が私的であ

るという構図がよいのかも知れない︒

 それにしてもなんとAハ花が咲くV様の表現が多くなったことか︒

二三

(8)

長崎大三教育学部人文科学研究報告 第二一号二四

﹇・互

・﹇

27 25

2

一・

2555

2

一八九一︑ 一八九三︑

二三〇一喝咲八一 二〇一四人麿歌集出

一・一・互

〇一すす﹇す一〇﹇○﹇

24 21

2

55 21

2

2

52 22

2

2

﹇・

2

2

2

82 22

2 ・亙・一・

2

2287

2

2

○一﹁○す一〇﹁す一〇﹁○○﹇○﹁2すす一〇一〇﹁

2

・す互

一・互

1

42 19

72 19

1

1

1 92 19

2

2

02 21

04 21

05 21

07

2!

2 12 21

2

2………

一〇﹇一〇一〇一〇す一一2一〇すすすす㎝τ

・﹁互

一〇一﹁○﹁﹁○一〇一〇﹁2

1

54 18

1

1……

1

1865 65 18

1

1 72 18

87 18

1

1

1

02 19

1

︵咲は笑の古文字という︒すれば渋み様では花が笑むである︶彼ら

は﹁咲﹂字の本来を忘れてでもしまったかのようである︒ 咲字が

﹁ワラフ︵エム︶﹂から﹁サク﹂となるのは︵笑うの動作的なもの

から︑無声的︑植物的になったのは︶比較的下級の官人の表現とす

れば相応しいことかも知れない︒彼らには晴の場の表現など余りな

く︑人間の心情というものは官僚制などというものから一歩退いた

ものとして在るのだろう︒しかし︑この膨大な無名歌人が万葉浮情

の底部を支えていることは見のがせないだろう︒         その様なことを所謂宮廷歌人柿本人麿の表現と比       較してみればよい︒人麿作歌に﹁サク﹂という言葉       がないこと前述の通りであるが︑表にみられる様に       り り  プ       人麿歌集にサクー1開が89890112とある︒三眠の名に       りりリムフつ       結びついたサクは寸寸に限定されるわけで︑これは・一       宮廷的一般性を示す用字である︒サク目咲字は人写す・作歌・驚圏とはどうやら異質な所に存在する・そ脱 枷 脳  して人麿には﹁散﹂がある︒ 36花蕊相︑ 鰯散点乱2 2 2  ﹂小︑57勿散乱曾︑09落去奈倍ホなど︑どうやら伝写         41       り乙       には咲くより散るを支える情熱がある︒借訓工1一咲   すより咲くまでは矢張り直線的ではない・       

㎜叢聾臨饗羅鵡隠絵ザ甥

       がない︒表の面でもみられるが巻十一と十二は殆ど 一・﹁ 同趣の歌巻で︑両者△︒わせて︑咲をサクに使つのが

㎜器細論瓢蕪薫製鷲軒前里墨型

       つた特徴ある用字も出てくる︒これは本来的︑宮廷       的一般性である︒中川幸広氏によれば﹁知識教養においては︑高級官人︑貴族達に劣らなかったであろう数多くの知識人の群と︑それとはいくらかつつ相違を持ちながらもそれにつづく階層﹂による作とされる︒これらの人々が本来的︑宮ほ用字を使用していることは当然であるが︑ ﹁咲﹂字に関しては巻十でみたものとは全く異っている︒これは家持に似ている︒ 巻十三︑十四でまた﹁サク﹂が少ないのは巻一︑二の世界に通じ︑文学的には原始性を示していよう︒十四の﹁かたにさくなみ﹂  は3﹁四良名美乃 五十開廻有﹂とあるのによってみるに﹁開﹂字 9

(9)

二八七三縦咲也思

二八七〇思咲八

二六五九右前八岩 端=一九人麿歌集出三二九八縦二八師

三二二五吉咲八師 =二四六姫押生沢辺之三五五一かたにさくなみ

26

25 46 25

互・

27 26

42 26

62 27

85 27

85 27

18 28

00@52

29@50 29 2

51 57 51

︸・

22@66 。。一

52@52

十三

55

55

十四

一十

 一

・こ㈹

一57 87

17 38 5885

十 六

7類﹁笑﹂

5西﹁嘆﹂90

07

39

4

十七

86 40

06 41

15 41

41 笹並

57

一﹄弔

四一六九元・文・西・温等﹁嘆﹂細﹁笑﹂

至・

○○︸

・互・・﹇

4

54 41

60 41

4

67 41

4

77 41

互・互

○﹁

87 41

覗㎝

14 42

佃欄

32 42

85 42

に当るか︒波には咲字は使われないであ

ろう︒十三に咲nサクが一例あるが全体

的に十三︑十四は仔情の面では深みがな

く︑逆に他の巻では個性的歌人が意識的

に仔情詩の構成に参加したということで

もあろう︒

 ただこれらの巻で注意すべきことは借

訓仮名の﹁咲﹂が割合多いことである︒

これは人台時代の底流がここに連なって

いることを示そう︒殊に巻十三の﹁縦十

八師﹂は人麿に31﹁縦恵旧師﹂とあった       つところで︑二つの世界の近さを窺わせ

る︒巻十二の人井井歌集出の﹁開﹂字︑

そして借訓﹁咲﹂の多用などをまとめる

と︑これらの巻々は大歌人人麿の背景的時代性を示すのではないかとも思われ

る︒ 天平感宝元年から巻十八は始まる︒

08精ホの光に見ゆる我がかづら小百合の の表におけるエミは家持に初まって家持         家持の歌である︒巻十七の01から︑以降       つ  花の咲まはしきかも 4

に終る︒ 云わばここで万葉の︑ そして家持のエミが極まるわけである︒ここで

も﹁サク﹂の二字は私的な比重が大きい     フつり ロ   が︑開宇も11151516162121と割合多く︑       け これには私的も集団的も入り混じってい

万葉集における﹁咲﹂字︵渡部︶二五

(10)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二一号

て特別な区別は主張しなくなっている︒これは先掲の巻三︑八︑十

の様相に似る︒字が持ったであろう区別が将情主体の下に統率され

てしまったわけであろうか︒或は字は完全に拝情に奉仕することに

なったのであろうか︒

 ﹁小百合の花の咲まはし﹂というのは︑ かづらと小百合が同格

で︑その花に対していて︑ほほえましいわけであろう︒まさかここは序的修辞ではあるまい︒とすればこれは未曾有の表現であった︒

云わば無償の行為であり︑心の純粋さの独立であった︒笑︵ワラフ︶

が咲︵エム︶となったことの意味の一つがここには現われている︒

 右のはそれで解けるにしても︑次のは散文表現に割り切るには難

しい︒11夏野能佐由利能波奈能花咲郁ホ布夫ホ恵美天は﹁小百合の花の花咲みににふぶに咲みて﹂と訓まれるのである

が︑これも文法構造に分解しにくいことは前述の通りである︒

 今これを巻七﹁草深由利乃花咲ホ﹂と対照して代表的口訳を挙げ

てみよう︒

 ①注釈   11夏の野の百合の花の咲いたやうににこにこと笑って 74 25道の辺の草の深い中に咲いてみる百合の花のやうに︑にっこり 一  ほほゑまれた

②私注  11夏の野の小百合の花の花の笑むが如くに︑にこにこ笑まれて 74

11夏の野のユリの花の咲いたように︑にっこり笑って    ③全註釈  つ25ケのほとりの草の中の百合の花の咲くが如くに︑笑まれた

4

二六

 ア 25道のほとりの草の深い中にあるユリの花の咲くように︑にっこ 一  りお笑いになった

 ④古典文学大系   11夏野の百合の花の咲くように︑にっこり笑って 74 25道のほとりの草深百合の花の咲くようにちょっとほほえみかけ 一  た        以上︑④と②④との解釈意識には少異がある︒③の11は①に似︑      4

形成している︒Gは﹁咲いたやうに﹂ ﹁咲いてみる百合の花のやう 25ヘ④に似る︒即ち﹁花咲﹂の部分が②④では主十述の形で比喩を

に﹂と比愉表現が︑全体まとまって名詞的な観念になって固定して

いる︒ ということはA花が咲く﹀ということではなしに︑ ﹁花咲

︵ハナエミ︶﹂という一つの観念を見ていることになる︒ 即ち︑    マ       マん   み  百合の花咲という②④の型から︑百合の花咲に咲むという形︑﹁花

咲﹂が中間にあって独立した観念として認識されるわけである︒②

の﹁××花の花の笑むが如く﹂は比喩格﹁の﹂を基礎とする厳密な      ア      ノ 序的解釈で︑その系列④と③の25に対して︑①と③の判の違いは︑      り       結局︑前者が動詞を媒介させ︑序的性質の解釈を行なうに対し︑後

者が咲いている様子と人の咲みを融合させて比愉的に解釈している

点にある︒後者になり得る可能性は一1なでしこの花見るごとに少女らが恵末比の匂ひおもほゆるかもに存在していよう︒花を見ると︑それが﹁少女らの咲まひの匂ひ﹂

に重なってくる︒即ち咲いた花と少女の咲みが融合して受けとられ

る︒だから右の場合も比喩よりは融合に近い︒虫麻呂の場合は﹁如

花﹂と書いているだけ︑右に較べて比喩の方に重点があろう︒

 花はサクとはあるが︑エムは右にのべた例以外にない︒けれども

(11)

ここでは﹁サク﹂の意識がそれほど明確であるとは思われない︒だ

から右の解釈例でもく××花が咲くようにVという具合よりは︑咲

いている花と人間の咲みの近寄りを云っているのかも知れない︒即

ち植物の花と人間の咲みの合わさった﹁花咲﹂というある種の云い

方が文学的には可能であったのかも知れない︒先に挙げた﹁根上花

譜﹂という表現もあるし︑同じ遊仙窟で﹁頬裏芙蓉﹂というのは花

の方が人間に近づいた状態であるし︑懐風巻の﹁素梅開素讐﹂では

人間の方が花に近づいている︒      ア ﹃注釈﹄で25について﹃考﹄の三句まで序という考えより︑ ﹃全      つ註釈﹄の讐喩とみる方がよい︑というのを採られたのは右に述べた

ような基礎によるからであろう︒しかし﹁花咲﹂という観念の成立

が難しいので︑︿花が咲く∀という原型から序を考える﹃考﹄の方

にも一理はある︒だから②④の解釈もまた可能になる︒そうした各

種のとり方︑イメージが可能になるのも︑先に述べた﹁考課﹂11花

容に似て︑﹁花咲﹂の観念が底部に成立していたからとみてよいだ

ろう︒ この漢語的表現は和歌におけるそれだから散文分解に面倒なので

あるが︑イメージをそのまま表現出来る漢詩では割合素直に使われ

得る︒ 懐風藻﹁含レ香花笑レ叢﹂ ﹁庭梅己含レ笑﹂ ﹁林寒 未レ笑花﹂

﹁送雪梅花笑﹂ ︵小島氏は﹁サク﹂と﹁エム﹂を場所によって訓み

分けられる︒︶

凌雲集﹁蘂耐二朝風一節十界﹂

文華秀麗集﹁初開似レ咲聴無レ声﹂

経国集﹁春花含レ忍笑﹂こうした﹁笑︵咲︶﹂から人間の﹁咲み﹂に重なるなら︑それはイ

メージの関係だから︑それほどの抵抗なしに入って行ける︒

万葉集における﹁咲﹂字︵渡部︶  家持の﹁花咲﹂にしても︑それは構文上の問題よりは観念上のものであったろう︒なお驚くべきことには︑この﹁にふぶに営む﹂のは女ではないのである︒これまでエムのは自分を除けば女性であった︒それがここでは久米広縄なのである︒家持に終結したエミの文学は遂にここまでやって来たわけである︒ これが巻七の作者不明のものからの系譜であることは記憶されてよいことだろう︒〃ゆり〃をもって来ている点に二者の限定的関係が考えられる︒ 巻十七の有名な﹁幼年未レ連二山柿之娘心﹂というのは色々なことを我々に伝えているが︑だが一面その﹁未運﹂というのはよいことであった︒﹁花咲﹂という表現が可能であったのは少くとも人質の伝統によってではない︒それは作者不明といわれる程のものが皿持つ惰緒の系譜であった︒ それは情緒︑或はイメージの系譜であって︑用字の系譜ではなか

ったかも知れない︒中西諸氏も触れておられるように︑作者未詳歌

の作者達に中国文典の﹁咲﹂を含んだ種々相が受けとられていた︒

家持でさえその一人だった︑という構図になる︒︵﹁万葉集の原点し

文学・語学50︶

 こうなれば万葉集における﹁咲﹂字は実は申国文典よりする︑万

葉全体を.覆う一大事実であり︑その咲字をエムにもサクにも使用し

たほどの状態そのものが万葉浮情であったということになる︒

 万葉集では﹁笑﹂が﹁咲︵エム・サク︶﹂の方向に発展したわけ

である︒ その発展の様相は必ずしも一本道ではない︒ 31﹁能咲八       て師﹂︑38﹁吉咲八師﹂は年代が明瞭であるというわけにはゆかない   一が︑巻次︑配列順では一番最初に﹁咲﹂を﹁エム﹂と訓む基礎の上

に立って使われている︒これは﹁笑﹂の通用文字として︑だから意

二七

(12)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一二号

味の正当性に於て用いられたものであり︑その前後︑能︵吉︶︑八

が夫々﹁ヨシ﹂﹁ヤ﹂の訓として常用され︑慣用されている状態か

ら考え合わせて︑咲目エムもそれほど珍らしいものではなかったこ

とが推量される︒サクの意味は考慮されていない︑されていればこ

の借訓は簡単には出来まい︒もっとも人麿にはその作歌にサクとい

う表現がないこと縷述の通りである︒

 借訓工11咲は次の様に存在する︒

 で      むア       ロ      ブつ十犯忍咲八師︑十一65縦二八師︑十二87思咲八︑十二87縦咲也思︑

 り乙       り乙       り乙       りム  ら十三22吉咲八師  3これらが存在するのは人麿歌集の歌を含む丁々である︒基盤とする

世界が近かったろうこと既に触れた︒

 右にみられるエー1咲は全く意味をもっては書かれていない︒だか       つらこれらの世界は正訓を使用し得る世界︑というよりは91詞﹁榿橘       3     初咲﹂︑23註﹁三月初咲耳﹂のように漢文表現の出来る世界とは違     つた次元に存在する様に思われるし︑また正訓﹁エミ﹂︑というよ

      りりは漢文表現鰯詞﹁皆咲答日﹂︑79詞﹁皆共心咲﹂︑82註﹁喘咲彼       7Q       7Q      ら      フつ愚﹂︑84詞﹁喧咲黒色﹂︑84﹁畷咲・酬咲﹂︑85詞﹁喘咲痩人﹂︑   7Q       7Q       7Q       ア      ソ       ノ       り

後温泉︑聖徳太子行啓碑に﹁無曝咲也﹂とあって︑早くからの宮廷 た世界とは異質であるようだ︒ ﹁喘咲﹂というような文字は伊予道        ﹁含咲﹂︑15詞﹁独咲﹂などと書いて来た世界は借訓工H咲を荒い        ZQ       7Q       7Q       7Q       485吹u戯具﹂︑%詞﹁談咲﹂︑96詞﹁喧咲﹂︑97詞﹁狐色﹂︑12詞

的漢文教養の中に含まれていたと思われる︒結局﹁咲﹂の漢文表現

が出来るか否かの違いがある︒少くとも﹁咲﹂をサク︑エムに使っ

てくる︑作者の判る系列には借訓工目咲は存在しない︒人麿の伝統

は遂に﹁咲﹂を正訓エムに仕上げることは出来なかった︒

二八

最初にサクを咲と書いたのは表の通り弓削皇子であり︑そして穂

ク咲

サ開

弓削穂積

金村

虫麻呂

赤人

広庭

F神⁝

㎏ド

億良

5

明軍  〜 年 而 剰L休i麻末美恵恵恵

家持

積皇子である︒ この天武皇子文化圏から赤人︑ 広庭らの官僚歌人

を経︑万葉文学史の通り︑比良︑老︑明軍︑家持とあの太宰府でみ

たメンバーに移る︒ 一方︑ 金村︑虫麻呂︑赤人らの官僚歌人系に

﹁開﹂字があり︑これは宮廷文化的正統性を持つと思われること前

述の通りである︒

 赤人に穿て︑ サクとエムが鼠戸にて同一人の中に含まれる︒ こ

うした点からは家持は人麿よりは赤人の系列になる︒家持では只天平︶十一年巳雪面六月大伴家持悲傷亡妾作歌﹂の一連中︑鰯﹁我が

      ロ       むフやどに花ぞ咲有﹂と出てくる︒反歌三首中︑46に﹁妹が見しゃどに

花畷﹂とあって︑この辺りから家持におけるサクの﹁咲﹂字が固定する︒余明軍鰯﹁劇而ありゃと問ひし君はも﹂︑鷲﹁余明軍与大伴

参照

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