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窪田空穂における万葉集研究の出発   −「万葉新釈」から『万葉集選』へ

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(1)

窪田空穂における万葉集研究の出発

   −﹁万葉新釈﹂から﹃万葉集選﹄へ

内 藤

 古典作品の読みや把握が︑その享受の場や時代と深く関わりながら︑さまざまな要素をその作品に付加していく

ことはいうまでもない︒とくに﹃万葉集﹄はその典型であろう︒一つの詩型を継承する和歌・短歌にあって︑その

享受は創作とも一体化し︑また時代の思潮やイデオロギ︑1とも呼応する︒﹃万葉集﹄は︑近代に再発見されること

により︑新たな読みや価値付けをされて︑近代の短歌やもう少し広げれば文化の一端とも︑深い関わりをもってき

た︒アララギ派の人々が﹃万葉集﹄から想像的・創造的に抽出しようとした写実・写生や︑さらには民族・民衆と

いった概念が︑そのエコールの創作原理とも重なりながら︑﹃万葉集﹄の読みや享受に大きな影響をもってきたこ        ︵1︶とはよく知られている︒また最近は︑近代の﹃万葉集﹄に対する言説や万葉観・短歌観が︑日本近代の国民国家の

成立に促されながら﹁国民文学﹂への庶幾として創作・創造されたものであったことが︑ナショナリズムの問題を

(2)

       ︵2︶内包しながら考察されてきている︒文学と文化を一体化しながら日本の近代をとらえ直す中で︑いわば近代万葉と

いったものの実体・実質が問われ直されようとしているといえよう︒

 今日︑研究・批評・鑑賞のさまざまなレベルで行われる﹃万葉﹄のさまざまな読みも︑近代の享受者の理解が深

く関与していることは想像にかたくない︒そういったものをもう一度とらえなおすことは︑﹃万葉﹄自体を考察す

る手掛かりであり︑また近代の短歌・文学・文化のさまざまな方向性を省察することでもあり︑さらに現在を照ら

し出すものでもある︒そのためには︑巨視的にまた微視的に︑万葉について書かれたさまざまなテキストの分析が

必要だろう︒ここでは︑そういった観点から︑﹃万葉集﹄の近代的な読みに大きな影響を残した窪田空穂︵明治10

年〜昭和42年︶の﹃万葉集﹄の批評・研究のその出発点を︑空穂の文学への指向と重ねて考えてみたい︒後述する

ように︑すでに橋本達雄などによって空穂の万葉研究は詳しく分析されているが︑ここではとくに空穂の初期の

﹁万葉新釈﹂から﹃万葉集選﹄への推移を一つの手掛かりとしながら︑空穂の研究・批評・解釈の特徴を︑明治40

年代から大正初期の空穂の短歌観の変化の中でとらえていきたい︒

一 ﹁万葉集選﹄への評価

 窪田空穂は︑小説や新体詩も残した近代を代表する歌人であるとともに︑﹃古今和歌集評釈﹄︵昭10年︑12年忌︑﹃万

葉集評釈﹄︵昭18年〜27年︶︑﹃新古今和歌集評釈﹄︵完本昭39︑40年︶と︑いわゆる三大歌集の全評釈を行うなど︑日

本文学の研究・批評に大きな足跡を残した︒﹃万葉集評釈﹄は︑後に﹃窪田空穂全集﹄に増訂されて所収されてい

(3)

窪田空穂における万葉集研究の出発

るが︑文献や語学的な考察に重きをなす澤潟久孝﹃万葉集注釈﹄や︑独特の解釈や価値基準を提示する土屋文明

﹃万葉集私注﹄などとは異なり︑その評の部分に︑空穂ならではの見解・批評が示されており︑現在も高い評価が

なされている︒

 この空穂の﹃万葉集﹄への取り組みの出発として注視されるものに﹃万葉集選﹄がある︒﹃万葉集選﹄は大正4

年2月目日月社より﹁詩歌叢書﹂第一編﹁窪田空穂選註﹂として刊行された文庫本大の書籍であり︑同6月目は

﹃続万葉集選﹄が刊行されている︒前者は︑賀茂真淵が考えた各巻の成立順の説に従い︑巻1︑2︑13︑11︑12︑

14︑10︑7︑5︑9︑15︑8︑4︑3︵中途︶の順で短歌の秀歌を選出するとともに︑解釈と簡単な批評を加え︑

後者は巻3︵中途から︶︑6︑16︑17︑18︑19︑20か年秀歌をとりあげ批評するとともに︑全巻にわたって長歌を

選出し批評している︒そして同6年4月︑越山堂より合本として刊行される︵全集第25巻所収︶︒この内︑﹃続万葉集       ︵3︶選﹄は当時空穂が編集していた﹁国民文学﹂に掲載されたものとそのまま重なる部分がある︒後述するように︑正

続ともにその当時に空穂が書いたもので︑空穂三十車代末の仕事と考えられる︒

 この書の意義・評価については︑橋本達雄が早く指摘している︒すなわち︑一つには︑﹁万葉集が一般に広く流

布していく時代﹂に︑﹁アララギ﹂の島木赤彦︑斉藤茂吉︑折口信夫などに先駆ける形で︑万葉の全体にわたる啓

蒙的書としての位置を持ち︑そして二つには︑そこで選ばれた歌が﹁後世名歌とされる歌をほとんど余すところな       ︵4︶く網羅し﹂ており︑かつその名歌の選出・批評において空穂のオリジナリティーがうかがえることなどである︒橋

本はさらに別の論で︑この書は多くの後進に影響を与えた歴史的な意義を持ち︑また﹃万葉集評釈﹄に至る空穂の       ︵5︶方法的特色や万葉理解の方向もが示されていることを考察し︑また︑大伴家持の三首︵巻19 四二九〇〜九二のい

(4)

わゆる春愁三首︶を秀歌として発見し︑﹃万葉集選﹄などで広めた空穂の先進性を指摘するとともに︑その評価の      ︵6︶方向を︑当時の空穂の指向の中に位置付けようとする︒軽便な書ではあるが︑﹃万葉集選﹄の先進性とその影響力        ︵7︶は極めて高いといえる︒

 ところで︑この﹃万葉集選﹄のベースになっているとされているものに︑空穂が雑誌﹁文章世界﹂に明治40年か       ︵8︶ら翌年にかけて十二回連載した﹁万葉新釈﹂がある︒今回それを調査したところ︑それが﹃万葉集選﹄とはかなり

異なったものであること︵所載歌・評釈内容や言辞Vが認められた︒例えば最初の方の一例をあげる︒

   吾が背子はいつく行くらむおきつもの名張の山を今日か越ゆらむ︵巻1四三︶

      ﹁万葉新釈﹂

 おきつものは枕詞︑一首の意は明らかである︒︵改行︶此の歌のおもしろいのは︑感情の移ってゆく微細な調

子までが︑此の短い︑おほらかな言葉にのって︑遺憾なく表はれてるる所にある︒︵改行︶﹁わが背子はいつく

行くらむ﹂と言ふと︑夫を旅にやって留守をして案じ暮してみる妻が︑別れてまだ程もないのに︑ふと︑もう

幾日も立つたやうに思って︑はるみ\と其の行方を思ひやった感じがよく現はれて来る︑そして一転して︑

﹁名張の山を今日か越ゆちむ﹂と読むと︑そうは思ったもの・︑数へて見ると︑今日頃は近江の名張の山を越

える頃の日取りである︑と心付いた此の心の移り方が︑如何にも自然に感じられる︒﹁おきつもの﹂といふ︑       ママ枕詞も︑こ・では言葉の調子だけではなく︑感情の調子としても必要に感じられる飾りのない︑おほらかな言       ママ葉の中に︑妻としての情が囲みてるるやうに覚える︒︵﹁新釈﹂は原文総ルビだが︑ここでは多く省略した︒歌の引用は︑

(5)

窪田空穂における万葉集研究の出発

  それぞれの箇所での表記した形による︒以下同じ︶

        ﹃万葉集選﹄       ど   旅へ出た夫を思っての作︒わが夫は何の辺を歩いてみるであらうか︑おきつもの︵枕詞︶隠︵伊賀の地名︑

  大和より伊勢への路︶の山を今日ごろは越えるのであらうかの意︒︵改行︶単純な︑そしてたゆたひつつ詠んで

  みる調子の中に︑夫を苦しい旅にやってみる妻の気分が沁み通ってみるのを思ふ︒

 前者は全体が一続きの評であるのに対して︑後者はまず解釈を記し︑次に簡単な評をつけるが︑心の様相を追い

求め︑﹁調子﹂を注視するなど︑内容的にはもちろん連続性がある︒しかし︑アンソロジーとしての﹃万葉集選﹄

に対して﹁万葉新釈﹂は文章が長いこともあって︑一人の読者が物語的に一首を理解し分析しようとした読みの過

程がそのままに述べられている︒また後者では短い中に︑﹁気分﹂というかなり重要な語が︑﹁情﹂という語を置き

換える形で使われている︒両者の問には七︑八年の時間差があるわけで︑﹁此の歌のおもしろいのは﹂として展開

され︑内容や心情を読み解いていこうとする﹁万葉新釈﹂には︑空穂の初期の指向︑万葉集歌との向かい方がより

露わな形で展開されており︑また後者への推移や後者における歌数の増補には︑明治末期から大正初期における空

穂の推移や読みの深化︑そしてその背後にある時代の文学の変容の跡がうかがえる︒結果的には︑従来の指摘を再

認することにもなるが︑本稿では両者の差異から︑より細かく︑空穂の万葉理解の方法・方向の出発点を見ていき

たい︒

(6)

二 ﹁万葉新釈﹂について

 ﹁万葉新釈﹂は︑次章の表のように︑﹁文章世界﹂明治40年8月かち41年10月にかけ︑途中いくらかの休載がある

が︑十二回にわたって連載された︒

 ﹁文章世界﹂は明治39年3月︑田山花袋を編集・発行人として発行された︒投稿雑誌としての啓蒙的な面をもっ

た月刊雑誌︵ただし臨時増刊があり︑年間通算14号︑16号のこともある︒以下の叙述で︑巻・号数を記すなど特別

の断りのない場合は︑号数でなく︑発行月を示している︶であり︑自然主義の一つの拠点と目されつつも︑多くの

寄稿を得た総合文芸誌である︒空穂もその創刊から﹁和歌﹂︵41年からは﹁短歌﹂︶欄の選者となっており︵大正2

年5月まで︶︑初期から﹁新派の歌﹂︵39・6〜7︶と題された現代短歌の評釈を載せている︒そして﹁万葉新釈﹂掲

載後は︑﹁香川景樹の歌﹂︵42・−〜2︶︑﹁橘曙覧の歌﹂︵42・3〜4>︑﹁﹃金椀集﹄の印象﹂︵42・6︶などの歌論︑

「『恬t集﹄小論﹂︵42・5︶︑﹁防人等の歌へる歌﹂︵44・10︶︑﹁万葉集を通じたる壬申の乱の背景﹂︵45・7︶︑﹁万葉集

に現はれたる旅﹂︵45・7︶︑﹁薄命なる歌人大津皇子﹂︵45・8︶︑﹁大伴家持論﹂︵大正2・1︶などの万葉論を載せ︑

また﹁小話集としての﹃伊勢物語﹄﹂︵43・11︶︑﹁﹃源氏物語﹄の優れた一巻﹂︵43・11︶︑﹁枕草子と清少納言﹂︵大正

−・9∀などの平安散文を論じた文章︑また現代の新派歌人の歌の評釈や批評︑時評的な展望などを載せる︒また︑

自らの創作としての短歌・小説をも多く載せている︒

 空穂は44年に小説集﹃炉辺﹄を︑また45年には﹃評釈伊勢物語﹄を刊行している︒38年の歌集﹃まひる野﹄刊行

(7)

窪田空穂における万葉集研究の出発

以後︑空穂が小説・批評への傾斜を強めて文筆家としてのスタイルを確立していく時代が︑これら﹁文章世界﹂に

旺盛に原稿を執筆していた時代である︒そしてそれらの仕事の最も初期のものとして︑﹁万葉新釈﹂があるといっ

てよい︒そして︑その原稿の一部は︑そのままの形で︑すぐに41年4月刊行の﹃新派和歌評釈﹄︑また42年3月刊      ︵9︶行の﹃短歌作法﹄に収められている︒前著は与謝野晶子︑山川登美子︑増田雅子を始めとした新派とされる歌人の

歌に評釈を加えるとともに︑﹁多くの値と︑力とがある﹂﹁感情の真実﹂をあらわすものとしての短歌の作歌態度を

述べた一書であり︑また後号は︑旧派批判の上に自我の詩としての﹁短歌﹂が作られてきた過程を論じ︑その新し

い﹁国民詩﹂としての短歌の原理とそれへ向かっての態度を語ったものである︒上書とも︑作歌を試みようとする

若い読者を想定した啓蒙的な書であるが︑そういった現在の短歌︑またそれへの批評や関心と同じ地平に︑﹁新釈﹂

は置かれているといえよう︒古典と現代短歌が並んでいることが奇異の感を持たせないところに﹁新釈﹂の位相が

ある︒現代の歌人の読みが語られているのであり︑その読みの影響力も大きいのである︒

 このことは︑﹁万葉新釈﹂の一回目冒頭に書かれた︑空穂の簡単なメッセージにも明かだろう︵これは﹃新派和

歌評釈﹄にもそのまま収められている︶︒         い つ   万葉集の歌は何時よんで見てもおもしろい︑繰返して読む度に︑前には味へなかった味を覚える︑俄かには       じゃうみ  尽くし難い情味を持ってるる︒

そして学者の研究・注釈・議論があることをいいながら︑

   自分のこ・に試みやうとするのは︑万葉集を一つの歌集として専ら興味の方から見︑自分の好きな歌につい

  て︑その好きな所を言はうとするのである︒万葉集を見やうと思ひながら︑億劫に感じて手を附けられなくて

(8)

  みる人には︑或は此の集の大体を窺ふ上に於いて︑多少の便利があるかとも思ふ︒

という︒学者でなく︑現代の一人の読者に徹しながら︑その文芸としての魅力を語ろうというのである︒そして︑      びやう   万葉集を一貫してみる風は︑飽くまでも情を尽くして物を言ってみる所にある︒何れの歌を読んで見ても作

         きやう      たく  者がその時に得た興を︑飾らず巧まず︑真率に言ってみる︒       じゃう  しんと︑実感の率直な表現を万葉集の特色として評価し︑それちの歌が皆﹁情の真に触れ﹂ていることをいう︒

 ここには︑若い空穂が万葉集へ向かって以来の︑偽らざる心情が語られていよう︒空穂は後に︑万葉全首との出

会いが﹁私の二十二︑三の時︑地方の村落の青年﹂としてであり︑それは新しい詩歌の運動が起っている時であり︑       ︵10︶若くしては家持の静かな感傷的な詠風に惹かれていたことをいい︑また別のところでは若い頃︑我が国の尊い古典

だというので我慢して﹃万葉﹄を読もうとしたが︑面白くなく半分でやめてしまったことが語られ︑しかしその互

いいと思って朱点を打ったのは︑相聞の歌︑﹁下手な生ま膨ましいと思ふのばかり﹂であり︑﹁全く一人で赤面する        ︵11︶程﹂だとも述べている︒誇張もあろうが︑それぞれ空穂にとっての一斑の真実であろう︒そういった若き日の万葉

との出会いが︑﹁万葉新釈﹂には投影されている部分も多いと思われる︒﹁自分の好きな歌について︑その好きな所

を言はうとする﹂態度は︑結果的に﹃万葉集﹄の中世的な読み︑近世的な読みからの解放をもたらし︑自然主義を

潜っていく空穂の万葉の独自性の出発点になったといえるだろう︒

 一方︑﹃万葉集選﹄は︑こういつた空穂の原体験や﹁万葉新釈﹂を継承しながらも︑そこには歌をとらえるに際

しての方法が示し始められている︒ここにも簡単な﹁序﹂があるが︑そこで空穂は︑この集が最近一般的になった

のは︑﹁この集が我が国の古典として最も尊むべきものの一つであるというよりも寧ろ最も興味の深い歌集だから﹂

(9)

窪田空穂における万葉集研究の出発

であるといい︑

  実際万葉集の歌は︑その作者の態度が純一であった為に︑どこまでも現実的で︑そして豊かに人間性をあらは

  してみるものが多い

として︑そこに我々は共鳴するのだという︒そして﹁選をするに就ては︑もとより私の好むところによるより外は

なかった﹂といいながら︑

  捉へられてるる境そのものよりも︑それをとらえた作者の心境と︑その捉へた境と如何に融合してみるかとい

  ふ点を主とした︒即ち作者の真実が如何に表現されてみるかといふ点を主としたのである︒

と述べ︑そのために﹁やや蛇足と思はれたが︑簡単な批評を加へることとした﹂と述べている︒﹁万葉新釈﹂のメ

ッセージにおける﹁真率﹂﹁情の真﹂の表出への評価から︑﹃万葉集選﹄における﹁境﹂と﹁心境﹂との融合のあり

かたや関係性への注視を通した﹁真実が如何に表現されてみるか﹂を分析する批評態度への推移がここにあろう︒

ここで﹁境﹂といっているのは︑対象としての事物や人間が置かれている環境やその状態をいったもの︵自身の心

の状態も入り得る︶︑それに対して﹁心境﹂はそれをとらえる作歌主体の心的ありようをいったものと︑その﹁評﹂

から考えられる︒﹁万葉新釈﹂から﹃万葉集選﹄への評価軸の変化︑また批評意識︑短歌への意識のある深まりを

そこに見ることができるだろう︵後述︶︒近代の自我というひとつの思想・運動に刺激された一人の青年が素手で

向き合った万葉の読みをベースに︑それが時代の方法意識とも呼応しながら近代の万葉の読みを方法化していこう

とするところに︑空穂の万葉理解の行程がある︒そしてそれが︑広く万葉歌の近代的読みを構成していく基層とも

なっていくのである︒

(10)

三 ﹁万葉新釈﹂の所載歌とその批評

 さて︑実際に﹁万葉新釈﹂︵以下﹁新釈﹂と略す︶を見てみよう︒表1は︑﹁新釈﹂の所載歌の一覧︵﹃国歌大観﹄番号︶︑

表Hは﹃万葉集選﹄︵以下﹃選﹄と略す︶の短歌の部︵﹃続﹄の後半の長歌の部を除いたもの︶における﹁新釈﹂のウ

ェイトを数量化したものである︒例えば巻一の場合︑﹁新釈﹂では4首が所載︑批評されており︑﹃選﹄ではその4

首のすべてが所載・批評されていることを示す︒﹃選﹄の所載歌は12首だから新たに8首が増補されたことになる︒

また巻胴の場合︑﹁新釈﹂では19首が所載されているが︑﹃選﹄ではその内10首が所載され︑9首︵*の歌︶は捨て

られている︒そして新たに26首が増補されたことになる︒

︵表1︶﹁万葉新釈﹂所載万葉歌一覧*は

二 一

第2巻9号

︵明治40・8︶

第2巻10号

︵同・9︶

第2巻12号

︵同・10︶

              

巻巻巻巻巻巻 七六四三ニー

)  )  )  )  ) 

﹃万葉集選﹄に所収されていない歌

・二〇・四三・五

・九五・二三五・二三六

・四八八・四九七

*九七八・九九六

*一〇七八・一一 一・六三・二五一・三三七・七〇九

一六・︸一二九・一一六五・一九五・一二〇三・一二〇九

(11)

窪田空穂における万葉集研究の出発

五;

︵巻八︶

第2巻14号

︵同・12︶   ︵巻九︶

      ︵巻十︶

41

1

3

1

ノ、

第3巻3号

︵同・2︶

第3巻4号

︵同・3︶

第3巻7号

︵同・5︶

第3巻9号

︵巻十こ︵二十二︶︵巻十四︶ ・=一三五・一二六三・一三三六・一四=二四五六二五五〇・一五五二*一六一三*一六二二*一七〇一*一七七四・一八二〇*一八四五*一八五六・一八八五・一八九二*一九一七・一九四二*一九六六*一九九〇・二〇一三・二〇二九*二﹈七二・二二六四・二二六六*二二八八・二三一五・二三二三*二三二五*二三三七・二三六八・二三八二・二四三一・二四三六・二四五二*二四五九*二四八九*二五〇六・二五四六*二五七二・二五七八・二五八一*二五八二・二五八八・二六四一・二六四二・二六五︼*二六五四・二六五九*二六六七*二六七一*二六八三・二六八七*二七〇六*二七一九・二七七七*二八〇三・二八六六・二九一六・二九五二・三〇〇〇・二八七五・三〇〇四・一二〇五七*三〇九六*三〇九七*一一=六九・三三五〇・三三五九*三三七六・三三八六・三三九九・三四〇〇*三四〇二

*三四二一*三四二七・三四四三・三四六〇・三五二一

(12)

  ︵同・7︶

十 第3巻11号

  ︵同・8︶

十一第3巻12号

  ︵同・9︶

十二第3巻13号

  ︵同・10︶

      備考

︵表11︶ ︵巻十五︶︵巻十六︶︵巻十七︶︵巻十八︶︵巻十九︶﹁万葉新釈その重出歌一六〇六の位置に載す︒

    ︵短歌︶と﹁万葉新釈﹂所載万葉歌

 所載歌数    B ﹁万葉集新釈﹂所載歌数

      D Bの内でAに採られなかった歌数

     ︵備考参照︶ *三五三二*三五三四*三五八二*三五八三・三五八九子中五九一二二六〇〇*三六一七二二六二四*三六三四・三六三九・三六四四・三六四八二二七二四*三七四〇*三七五一*三七七四・三八一六二二八二六・三八四〇・三八四一二二八四六*三八五三二二八五八・三八七三・三九三〇二二九四〇・三九四三・三九四四・四〇六五・四一四二*四︼四三・四二〇四 五﹂は重複する︒40年14号は﹁四﹂の誤りだろう︒四八八は﹃万葉集選﹄では

﹃万葉集選﹄所載万葉歌

A ﹃万葉集選﹄

C Bの内でAに採られた歌謡

E その巻の短歌の総数

(13)

窪田空穂における万葉集研究の出発

         巻 十九八七六五四三ニー 36163341201345603412A

B

4

4C OD

1     1     ︵U

4     4     0

9﹂     3     0

0    0    0

5112 3101

19

10 2

0

1 2 1

2 9

532

12523532412810430122111867E

巻十一 十二

 十三

 十四

 十五

 十六

 十七

 十八

 十九

 二十

 計

54540201011262014112657A

8 15 14 0 10 27 B

6 15 C

412D

0     0

8     £U

8     7

7     1

4     4     0

1    1    0

3     2     1

138

87 0

0

備考・﹃万葉集選︵正・続︶﹄は︑賀茂真淵の万葉集の巻成立の配列によって︑

   5︑9︑5︑8︑4︑3︑6︑6︑7︑8︑9︑

      1       1   1       1   1

  ・﹃続万葉集選﹄は︑最後に長歌及び反歌を載せているが︑

   でありながら短歌として掲載されているものは上に含まれる︒

  .各巻の短歌総数は︑﹃万葉集辞典﹄︵有精堂︶の﹁各巻概要﹂

1 2 46

0

20フ順に並べて編集しているが︑

   その部分は省略した︒

E

48 手

91

97

1  1  1  1  1  7 3︑1︑2︑4︑0︑ ︑

 通常の配列に戻した︒

それ以前の部分で︑反歌

による数字を便宜のために載せた︒岩伝の歌

(14)

数は含まれない︒

 この二つの表から︑いくつかの興味あることが浮かび上がってこよう︒一つは︑巻による歌数のばらつきである︒

巻五︑十三といった長歌を主とする巻がないのは短歌の評釈として当然として︑巻一︑二といった万葉集でもとく

に古く重要視され皇室の歌も多く載せる巻︑また巻三︑四︑六という著名歌人の歌を載せる巻の数は少なく︑巻七︑

十︑十一︑十二︑十四といった作者未詳の巻の歌が多く載せられている︵﹃選﹄では﹁柿本人畜﹂の歌と表示され

ている﹁人麻呂歌集﹂の歌も︑﹁新釈﹂ではとくに作者については触れられず︑作者未詳の扱いとなっている︒両

者の間における︑人麻呂歌集に対する理解の変化や︑世評もあずかっていよう︶︒そしてまたその中においても︑

恋愛を中心とした人事に関わる歌への関心の強さがうかがえる︒

 例えば巻七の場合︑この巻は雑歌・讐喩歌︵相聞に相当︶・挽歌に分類され︑﹁新釈﹂の11首の内訳は数としては

雑歌が多いが︵表1の一〇七八〜一二六三に至る9首︶︑それは一二三五のような例外はあるものの︑どれもが恋

愛的場面や連想︑また人間的・人事的な側面を彷彿とさせるものである︒例えば︑雑歌の︑         きた  この月のここに来れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ      ︵一〇七八︶

  暁と夜鳥なけどもこの峰の木ぬれが上はいまだ静けし       ︵︸二〇三︶

を選び︑評では﹁かく口ずさんだ人の姿も浮んで来るやうに思へて︑そ.・ろ微笑される作だ﹂﹁鳥の鳴く音に驚い

て︑男の別れ去らんとするを︑女の引きとめて口ずさんだ歌であらう﹂とそれぞれの状況を推測し︑また﹁取り立   ママて・云う程の事もないが︑心の移り行く姿の如何にも自然﹂であり︑﹁日常のかりそめの思︑口語では表はせない

(15)

窪田空穂における万葉集研究の出発

所をも︑趣ある歌としてみる﹂と評価している︒それぞれを︑男女相聞の一シーンの中に置き︑そこにおける作者

の心情の動きに興味をよせて歌を読んでいるのである︒二首とも﹁ここ﹂﹁この﹂といった臨場表現が現実性をも

った読みを導く歌だが︑空穂はそういった歌を選び︑作歌の現場に還元・復元しながら︑そこにおける心情の自ず

からなる流露を見て取って評価している︒一首一首の人事的な場︑状況を読みとり︑その人事の境に引かれながら︑

そこにおける﹁思﹂の直戴的表現に︑興を催して・いる︒空穂の指向がよくあらわれていよう︒

 ちなみに巻七には︑﹁足引の山川の瀬の響るなへにゆつきが岳に雲立ちわたる︵一〇八八こを代表とする﹁人麻

呂歌集﹂の巻向歌群の著名な重々がある︒﹃選﹄では︑それらの歌群の多くを載せ︑そこに﹁人麿﹂的な強い感動

や力強さを評価する評が書かれているが︑﹁新釈﹂では取り上げられていない︵後述︒なお一〇八八は︑明治45年      ︵12Vに窪田空穂編として刊行された﹃註解 古今名歌新選﹄では柿本人麿作として採られている︶︒ここに限らず︑全体

を見渡して︑﹁新釈﹂における人事への興味︑﹃選﹄における自然を対象とした叙景的な歌への増補が︑ひとつの傾

向として認められよう︒

 また︑雑歌・相聞歌の両群よりなる巻十を見ると︑必ずしも相聞が偏重されているわけではなく︑季節の景がう

たわれている雑歌も収録されているが︑例えば春の雑歌では︑

  梅の花咲ける岡辺に家をればともしもあらず鴬の声      二八二〇︶

  鴬の春になるらし春日山霞たな引く夜目に見れども      二八四五︶

      と し      めんもくといった歌を選び︑評の中で︑﹁や・年齢を重ねた︑楽しむともなく閑居を楽しんでみる人の面目が浮んで来るや

      ひ ごろ       かはうに覚える﹂︑﹁景色は日常見なれてみるもので︑何等の異った点も見出さないが第五句﹃夜目に見れども﹄と真景

(16)

色を打眺めた場合を言ひ表はしたので︑景色と︑其れを見る人の姿とが一つになって︑俄かに躍動して来る﹂と記

す︒二首ともに作者の行動の提示がある歌であり︑空穂は景とともに景を見ている作者を重視し︑そこに想像を働

かせることによって︑一首の読みを立ち上がらせているといえよう︒一首の背後に︑歌う主体としての一人の生身

の作者を置く意識がはたらくわけであり︑それは﹁自我の詩﹂としての短歌を求めて来た空穂の創作態度が︑歌を

読解する態度にも強く及んでいることを示し︑﹃万葉﹄の近代的な読みの生成過程をうかがわせる︵なお後の歌は

﹃選﹄では載せられておらず︑とくにこの時期の空穂の︑作者への注視と︑そこへの想像力の駆使を思わせる︶︒

 こういつた方向が︑巻十の相聞の部分や︑巻十一・十二といった相聞の巻の歌の多賀と︑そこにおける興味の向

き方と繋がっていることはいうまでもない︒一例をあげる︒

   われこそは憎くもあらめわが宿の花橘を見には来じとや       二九九〇︶

   幾年も通ってみた男の︑かりそめの事から腹立て・暫く来なくてみる︒女はやがて心解ける事と心の底でき     わざ  めて︑態と消息もしなくてみたが︑ふと俺しさを思って打ち眩いたとも聞かれる歌だ︒歌その物よりも︑歌の

  こうけい  後景となってみる女の人柄に興が催される︒

 歌の背景を歌物語風に解説し︑﹁歌そのものより⁝⁝﹂とその主人公への興味として︑一首が語られている︒こ

の歌は﹃選﹄には採られておらず︑やはり﹁新釈﹂の指向をうかがわせるが︑同じく﹁新釈﹂にあって︑﹃選﹄に       ごサつ採られていない歌の評︑例えば﹁女の打ち困じた様を中心に︑男の様子までが︑おぼろげながら小説的に窺はれ

       ど こ       かくくわんる﹂︵二四五九︶︑﹁自分を︑何所までも客観的に描き出して︑其の中に︑やさしい情を含ませてある︒現はし方が巧

みである︒それが面白い﹂︵二六八三︶など︑まさに﹁小説的に窺はれる﹂というところに︑歌と歌の背後の事柄へ

(17)

関心を寄せる︑空穂のこの時期の指向が見られよう︒この人事とそれをめぐる心のありかたへの関心︑物語的なも

のへの指向は︑空穂の資質ともロマン主義時代の名残ともいえるが︑それは同時期に書かれた﹃新派和歌評釈﹄に

おける現代歌人の歌への評にも見られるところであり︑また評論﹁小話集としての﹃伊勢物語﹄﹂︵﹁文章世界﹂43.

11∀を経て︑﹃評釈伊勢物語﹄へ向かっていく空穂の一つの興味の在り方を準備するものともいえよう︒空穂はそ

こで︑﹃伊勢物語﹄を歌書として読むのでなく︑小話集として読むべきことをいい︑この物語の作者に﹁既にある

歌に︑自在に︑巧みに背景を添へて行く所の手腕﹂を認める︒ある意味では︑右の評の書き方は︑そういった一首

の背景にあるものを︑物語の形でなく評の形で添えているともいえ︑そこに小説を指向していくこの時期の空穂の︑

興味のありようが見られる︒そしてそれには︑巻上のような宮廷と関わる著名な作者やその場が明確なものより︑

生活と一続きの作者未詳歌の方が︑想像力を喚起できて取り上げやすかったということもできる︒巻十六の︑すで

に物語とともに載せられている歌は︑﹁新釈﹂に採られていない︒

窪田空穂における万葉集研究の出発

 ところで︑空穂は︑こういつた物語への指向をあらわにするとともに︑そのために一首から事柄・心情を立ち上

がらせる表現の直裁性を評価する︒そして︑一首として作者の状況や心へ分け入ることを可能にするものとして︑

歌の調子を重視する︒一例を上げると︑﹁言にいへば耳にたやすし少くも心の中にわが思はなくに﹂︵二五八一︶に

       こうき       あおひ対する︑コ首の口気から︑前後の有様が想像される︒この︑たやすく想像させる所が︑値のある所だと思ふ﹂と

いう評は︑一首の歌いぶりに︑現実の事柄や心を直壁に想像︑喚起させる力を読取り︑それをこの歌の﹁値﹂とし

ている︵﹁新釈﹂には︑﹁面白い﹂﹁趣がある﹂﹁味ひがある﹂といった評価とともに︑﹁優れた作﹂︑﹁値がある﹂と

(18)

      あたひ      ねうちいう形で価値評価をきっぱりするものが多くみられる︒﹁値﹂は﹁値﹂ともあり︑空穂の評釈全般における﹁価値

       ちまた  ゆふけ     うらまさ  の評価﹂への指向の出発を思わせる︶︒また︑﹁言霊の八十の衡に夕占とふ占正に宣れ妹に逢はんよし﹂︵二五〇六

﹃選﹄には載せられていない︶の評︑﹁張りつめた調子︑情熱と信念とを十分に湛へてるるのが︑読むと迫って来る

やうに思はれる︒もし軽浮な調子であったならば︑何の響き来るところもないであらうと思はれる事を︑作者の感

じてみると同じ重さに感じさせる︑此れは全く調子の持ってるる圧力であらう﹂では︑﹁作者の感じてみる﹂とこ

ろのものを直裁に読むものに響かせるものとして﹁調子﹂がいわれている︒

 空穂は﹁好きな歌﹂の﹁好きな所﹂をいおうとしたと述べているが︑﹁有様﹂を読者に﹁たやすく﹂復元させ︑

また﹁感じてみる﹂ものを直接に読者に伝えるものとして万葉歌を評価し︑またその力として歌の﹁調子﹂を重要

視するところに︑空穂がこの時期万葉集から読取り︑万葉集の読みに求めようとした一つの方向性がうかがえる︒

42N刊行の﹃短歌作法﹄で空穂はしきりに﹁題詠﹂を否定する︒それは作歌の場では我と我の現実に即したその真

率︑直接的な表現を求めることであり︑読みの場ではそれを逆にした形で一首から現実の事実・実感に至ろうとす

るわけである︒﹁調子﹂はそこにおいて︑作者と作品︑作者と読者を直に結びつける︑歌の力として評価されてい

るといえよう︒

 さて︑﹁新釈﹂の指向するものを探って来た︒島田修三は︑空穏の到達点である﹃万葉集評釈﹄における作者未

詳五九への評をまだ他者に越えられることのないものとして高く評価し︑例えば﹁春さればすがるなす野のほとと

ぎすほとほと妹に逢はず来にけり﹂について︑空穂が序詞に春から夏への時間の流れを想定し︑そこに恋の時間を

彷彿とさせながら︑﹁野﹂に恋の通い路を見ているとし︑空穂が序詞を︑叙事的文脈の単純化としてとらえている

(19)

ことをいい︑またそこに﹁かつて小説というきわめて散文的・叙事的ジャンルに赴き︑そこから短歌に帰還した表

現者﹂としての空穂を墨・薪釈﹂における叙事的・物語的関心・﹁境﹂そのものへ盆一味と︑またその表現の直

載性への評価は︑この時期の空穂を特色づけるとともに︑その後の空穂の万葉歌の﹁歌物語﹂的な読みにも流れて

いく要素である︒そのある行き過ぎは﹃選﹄で是正されるが︑﹃万葉集評釈﹄にいたる空穂の読みは︑そういった

空穂の基層にある万葉の読みを方法化し︑万葉の実際と近代の読みを一体化することで生成されていった︑と見る

ことができよう︒

三﹁新釈﹂から﹃選﹄へ

窪田空穂における万葉集研究の出発

 次に﹃選﹄をみてみよう︒﹁新釈﹂における作者未詳の歌の多さは︑歴史的な時間の推移の中に個の個性を見て

いこうとする立場ではない︒それに対して﹃選﹄は︑広く万葉集全体のアンソロジーを作る意図がある︒真淵の万

葉集各巻の成立順の説にならって配列を並び変えているのは︑その妥当性はともかく︑歴史的推移の中に歌を位置

付けようとする意図があったからであろう︒それは﹁新釈﹂に見られなかった意識であり︑万葉史に対する空穂の

意識の深まりを見ることができよう︒橋本達雄は︑同じ大正四年に書かれた﹁奈良朝及平安朝文学講話﹂が﹁環境

から思想精神にまでわたる精細な論考﹂であり︑空穂の鑑賞批評が﹁時代思潮や民俗︑政治的背景などにかかわる

可能な限りの究明の上に万葉との距離をつめ︑広く全体的理解の上に立っての﹂それに向かっていくことを指摘し

 ︵14︶ている︒

(20)

 そして︑﹃選﹄では︑短い評の制約の中で︑作者の個性についての見解の一端も示されている︒例えば柿本人麿

については︑﹁この何物にも感応して︑それを力強くあらはすのを見ると︑今宮が如何に充実した︑如何に豊かな

気分を持って生きてみたかが想見される﹂︵四八評︶︑山部赤人については﹁髪型の現実に即いた︑豊かな気分を持

ってるたのに対して︑赤人はどちらかといふと自身の気分に即いた︑随って痩せた趣を持つた歌人である﹂︵一四二

四評︶︑大伴家持については﹁人麿と影壁ぷに足りる豊かな気分と︑自在に歌ひ得る才とを持ってるた︒人麿に見

るやうな強さは見ることが出来ないが︑その代りそちらには見られないまでのうるほひを持って︑異った味ひで読

む者を捉へてるる﹂︵一四四一評︶と記す︒また家持には耽美的な︑感傷的な︑﹁捉へ難い美しいものに対してのあこ

がれの情﹂のあることをいい︑﹁それらの点は︑奈良朝の歌人といふよりも平安朝の歌人に近いと思はせる︒ただ

平安朝の歌人の持ってるる理窟を重んじ︑機知を愛する所を持ってるないだけである﹂︵四一四一評︶といい︑﹃選﹄

付載の解説ともいえる﹁万葉集の中心思想﹂では︑家持歌の魅力は﹁豊かな気分が︑気分そのままにあらはされて

みる為﹂で︑﹁事象に重きを置く歌人には成し難いだらうと思はれる程な単純な事象を捉へて歌としてみる﹂と述

べ︑同時に﹁しかし家持は奈良朝の歌人であった︒彼は気分によりかかっては詠んだが︑現実の事象を除外するこ

とはしなかった︒実感に立たなければ歌はなかった﹂と︑と述べるなど︑歴史的推移への注意もされている︒﹃選﹄

は︑各時代の著名歌人を網羅し︑その中で個人様式の相違にも自ずから目を向けるが︑空穂はその個人様式の差異

を上下に価値づけるのでなく︑その個人の生活や資質に基づく固有の特徴として展開していく︒そこに空穂の万葉

理解の多様性があるといえよう︒

 ところで︑右の三歌人への批評には︑﹁気分﹂という語が共有されている︒家持においては︑それが﹁事象﹂の

(21)

窪田空穂における万葉集研究の出発

対として語られる︒﹁気分﹂という語は︑後の﹃万葉集評釈﹄にも多用される語であるが︑﹃万葉集選﹄でもすこぶ

る多く使われており︑それは額田王ら初期万葉から家持にまで至る︒しかし﹁万葉新釈﹂では使われていない語で

ある︒先に見たように︑四三番歌の評では︑﹁新釈﹂が﹁妻としての情﹂といっているところを︑﹃選﹄では﹁妻の

気分﹂と置き換えていた︒﹁気分﹂は﹁情﹂﹁気持﹂の意ともいえるが︑﹃日本国語大辞典﹄は︑﹁気分﹂に1心持︑

気持︑ここち 2気質︑性質︑気性 3様子︑感じ︑趣︑雰囲気をあげる︒先の三歌人の評の﹁気分﹂には︑いく

らか2の意も重なるようだが︑1や3の意味としても使われおり︑﹃選﹄におけるキーワードともいえる︒

 橋本達雄は︑万葉集評釈における﹁数えきれぬほどの多きにのぼっている﹂﹁気分﹂という語の難解さ︑あるい       ︵15Vは不安定性を問題としている︒そしてまた︑﹁気分﹂を重んじる空穂の動向を︑家持の﹁秀歌三首﹂と呼ばれる

  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげに鴬鳴くも       ︵四二九〇︶       かそけ  わが屋戸のいささ群竹吹く風の音の幽きこの夕かも      .         ︵四二九こ

  うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも一人し思へば      ︵四二九二︶      ︵16︶の評価の中に置いて論じている︒橋本は︑﹁大伴家持論﹂︵﹁文章世界﹂大正2・−︶における空穂のこの三首を含む家

持歌への言及︵﹁気分と言葉と儲れ合って︑ゆるやかに︑甘い悲しみを歌ってみる所︑千年の後の今日の歌にも似

ている﹂︶などについて︑それが﹁三首の感傷性と近代性とをいちはやく指摘している点で注目﹂すべきことをい

う︒また﹃万葉集選﹄での三首への評価に︑﹁歌は要するに︑作者の主観の微かな動揺より外写せない︒そして刹

那的なものである﹂︵﹁偶語﹂﹁北光﹂44・5︶と述べたような方向︑すなわち折口信夫に﹁新詩社の初期にあれ程働い

て︑俄かに声を収めた窪田さんが︑其後︑小説の自然主義の起ると共に︑短歌の心理に微動を表現しようといふよ

(22)

り︑むしろ微細な気分を描写しようといった主張をした︒﹂︵︵自爆自註﹂﹃折口信夫全集﹄26巻︶に見ちれる﹁微動説﹂

と一体のものを見ている︒家持の微かなもの︑微騰をうたう近代性と︑それを﹁写生﹂ではないとする空穂の意識

を指摘しているのである︒

 ところで︑この三首は﹁新釈﹂においては採ちれていない︒﹁新釈﹂は︑巻十七から二十の︑いわゆる家持歌日

記からはそれほど多くの歌を採っていない︒そして﹃註釈 古今名歌新選﹄︵45・5︶において︑四二九〇︑四二九

二の二首を採り︑後者に﹁含蓄のある作﹂との頭注を付けている︒先に述べたように︑空穂は若き日の家持への傾      ︵17V倒を語っているが︑例えば春愁三首などを一連のものとしてとらえ評価する方向は︑﹁新釈﹂から﹃選﹄への過程︑

推移の中で明確な形をなしてきたものといえるのではないだろうか︒それは︑繊細さや感傷性や揺らぎへの指向と

もいえるが︑もうひとつ︑﹁新釈﹂における事柄・情の直裁的表現への評価から︑﹃選﹄における﹁境﹂と﹁心境﹂

との融合という表現への関心への推移という変化に沿ったものともいえる︒﹁気分﹂は︑繊細や微旨に重きをおき

ながらも︑また先に見たように家持とは対照的な人麻呂を評価する軸でも使われており︑言葉としては説明しにく

い心情や雰囲気を指す言葉としてもっかわれている︒そしてここでは一首をなす主体と客体との関係性の中に立ち

上がって来る微妙な雰囲気をとらえる言葉として﹁気分﹂がっかわれており︑その関係性を読みの中に方法として

取り込む所に︑この時期の空穂歌論の一つの指向があるといえるのではないだろうか︒

 もちろん﹁気分﹂への指向は︑空穂が作歌の根本として︑早くからもっていたものであろう︒空穂は︑﹃まひる

      あさもや  ひともとゆ り野﹄︵38・9刊行︶の︑﹁朝霜や一本百合にまっはりて露と結ぶをあはれと見るかな﹂に晩年選歌自註︵﹃全集別冊﹄︶し

て︑﹁取材としては︑夏の朝霜が草の葉にまつわって露と変わるということは︑農村生活をしていた身には常凡極

(23)

窪田空穂における万葉集研究の出発

まることで︑面白い範囲のものではない︒それをむきになって︑思い入って詠んでいるところに当時の気分がある︒

気分というのは︑露が草の葉を縁として露に変形してゆくところに︑ある感動を覚えたのである︒神秘感といって

は過ぎるが︑詩情といっては軽過ぎるものである︒実感が伴っていたからである︒︵略︶詠み終わると︑一首︑象

徴の形になっていたのに心づいた︒意識してのものではなく︑おのずからそうなったのである︒そのころは︑よい    ママ歌は﹃微思﹄の表現になっているということ︑一つ覚えに覚えていてのことである﹂と︑﹁気分﹂︑﹁微思﹂という

言葉で自作を語っている︒明治38年当時に︑言葉として﹁気分﹂﹁尊崇﹂が意識されていたかは疑問だが︑空穂の

ベースにそのような好情質があったのだろう︒武川忠一は︑空穂の﹃明星﹄時代の明治34年の作をあげて︑﹁清麗

な澄んだ管轄のうちに︑沈静にゆらぐ心情︑夢と憧れを追っていながらも︑奔放でも華麗でもなく︑内省的な︑む       ︵18︶しろかすかなもの︑ひそやかなもの︑空穂自身のいう﹁微旨﹂をたたえた世界がある﹂といっている︒そういった

資質は紛れもない︒

 おそらくそういったものの上に︑それを創作・批評の原理として展開しようとしたところに︑明治末年から大正

初年に至る空穂の営為があったのではないだろうか︒試みに︑空穂の短歌批評における﹁気分﹂という語をいくつ

か拾ってみよう︵傍線筆者︶︒

 A 心持を出すとか気分を現すとか云ふことを︑詩壇で最近に至って初めて喧ましく云ふやうになったのである

  が︑私は与謝野晶子氏の短歌を見ると︑余程前からかう云ふ傾向があって︑而かも立派に成功してみたものに

  思ふ︒       ﹁歌壇に於ける二傾向﹂︵﹁新潮﹂43・10︶      塒 B 最近の詩壇に於ける評論︑又自然主義を中心としての評論などの影響が︑自然に歌壇の方へも及んで来て︑

(24)

 其れに促された心持と態度が︑やがて新しき歌を生んだのでは無いか︒︵略︶併しながら此等の歌集の賦物を

 取って︑従来公にされた歌集に較べて見ると︑我々は其中に︑所謂気分といふものの︑より明かに︑より多く

 入って居るといふ事実をば認める︒︵略︶我が真はやがて我が気分で︑其外には求むべき所も無いといふ事に

 なって︑短歌は初めて自在なる天地を認め得たかの観がある︒此れは短歌としての大いなる進歩で︑・⁝・:・.短

 歌を以て我が気分我が情調を託したる一つの型式だとする以上︑連続したる情調気分を表はして行く上に於て

 は︑幾多の連続したる短歌のあるを妨げないといふ事になる︒  ﹁藩士二年の短歌壇﹂︵﹁読売新聞﹂44.1.15︶

C 歌は︑自分の心持︑気分を愛し︑それに執着する力によって︑色が濃くも淡くもなり︑従って独創といふ背

 景が鮮明になり︑また不鮮明にもなる︵略︶︒自己を歌へ︑真実を歌へといふ言を︑今の歌壇でモットーにし

 てるるが︑唯真実を臓ふといふ事なれば︑自己の瞬間の気分を歌ふのが適切で有らうが︑真なるものは︑必ず

 しも見たり感じたる事実︑と云ふ事では無く︑其奥に︑今一歩︑心持の中に引付けられたものと思ふ︒︵略︶

 自己の心持を愛し︑執着し︑それを大切に押へて︑微かなひびき︑微かなゆるぎといった風な一呼吸を歌ふ態

 度が取ればせぬか︒       ﹁歌壇時感﹂︵﹁秀才文壇﹂44.2︶

D 事柄と情緒とは︑その形が違ふやうに根本に於ては違ったものではない︒如何なる事柄も其れを主観の中に﹂

 溶かし込んでしまふと︑それは情緒となり︑ぽっとした︑捉へて云ひ難い気分となってしまふ︒同時に一つの

 情緒︑気分も︑それを惹き起して来た刺激と︑その結果である情緒︑気分とを客観的に見たならば︑一つの事

 柄となり得る可能性を持ってるよう︒より多く主観に即くか︑より多く客観に即くかといふ事が︑詩歌と小説

 との岐れ目である︒即ち詩歌の中にも散文があり︑散文の中にも詩歌はあると言ひ得られる︒

(25)

窪田空穂における万葉集研究の出発

       ﹁詩歌を作らうとする気分﹂︵﹁文章世界﹂大正2・3︶

 これらの推移を見ると︑空穗は早く晶子の浪漫性の中に﹁気分﹂の表出といったものを見ており︵A︶︑また自

然主義の影響を受けて現代の若い世代の短歌に新しさがもたらされ︑﹁我が真﹂なるものとしての﹁わが気分﹂の

表出が短歌固有のものとして見られ始めたことをいい︑そこに短歌型式固有の特徴と方向性を認め︵B︶︑その

﹁真﹂なるものは体験の直接的な表出でないとし︑﹁心持﹂へむかう態度を問い︑そこに趣旨を求め︵C︶︑また表

現における事柄と情緒の関係性とそこに立ち上がる﹁気分﹂のありようを問題としている︵D︶︒﹁気分﹂というこ

とに触れながら︑それが形を成し難いある心情や雰囲気への情緒的理解から︑自然主義や短歌滅亡論の時代の議論

の中で︑短歌独自のものとして浮上し︑表現︑批評の問題として重視されていく様相が見てとれよう︒﹁気分﹂の

語は多様な要素・側面を持ち︑一律に論じることはできないが︑こういつた過程を通して︑空穂にとって﹁気分﹂

という語は︑現実の心持といった意味だけでなく︑物と言葉︑事実と表現︑対象と主体を繋げるものとして︑短歌

形式による表現において重要な面をもつものとされていったのではないだろうか︒

 そしてこういつた空穂における方法的な深まりは︑古典評論と現代短歌への批評と一体化してなされたものであ

ることは想像に難くない︒先に︑﹁新釈﹂と﹃選﹄の﹁序﹂を比較したが︑前者における﹁その時に得た興を﹂﹁真

率に言ってみる﹂という評価︵それを裏返して言えば対象への興味でもある︶から︑﹁境そのものより﹂﹁それを捉

へた作者の心境と︑その捉へた境﹂との﹁融合﹂のありように評の焦点を置いたという言辞にそれは端的に表れて

いる︒そしてそれが︑先の家持の評価における︑﹁事象に重きを置く﹂歌人と︑﹁気分そのままにあらはされてみ

る﹂歌人の対比という批評の方法と重なることはいうまでもない︒

(26)

 具体的な評からはどうか︒例えば︑家持の四二九〇の評に︑﹁⁝⁝感傷的の心を持ってるた彼には︑美しい︑し      かたちかしはっきりとは捉へて言へない量る物にあこがれる気分が大分あった︒さうした心に象を与へた歌がこの歌で︑

単に写生とは見るべきものでもない︒霞みつつ暮れて行く春の日の鴬の声が聞えるといふ︑それが直ちに彼の気分

であったと見るべきである﹂とある︒これは︑家持の感傷性や微細なものへの感受性を評価するとともに︑作者の

気質ともいえる気分としての心境と︑対象・事象としての自然とが融A旦体化し︑それが一つの気分として一首の

﹁象﹂を構成していることを評価する評といえよう︒その意味では︑文中の二つの﹁気分﹂には︑ややニュアンス

のちがったものがある︒また四二九一の﹁春夜の静かなうちにるて︑耳に付いて来た︑かすかな竹にさはる風を聞

きすましてみる気分が感じられる︒かすかな︑そして捉へられない音そのものが直ちに家持自身の心であると見る

べきである︒写生の歌ではない︒この歌の単純を極めてみる所も気分その物であるからと見るべきである︒⁝⁝﹂

という評も同じであり︑両者に見える﹁直ちに﹂という語や﹁単純を極めてみる﹂という語にはその境と心境の融

合が気分として無理なくなされていることをいっているといえよう︒四二九二の﹁この強ひて取りまとめない所が︑       すがた作者の心境その物だと思はれる︒気分に象を与へた歌と見るべきである﹂という評も︑一人の作者の心境と︑それ

と一体化した景・境が︑一首の中で自然に融合しており︑全体としてそれが作者の気分として立ちあがってくる歌

への指向がうかがえる︒簡単に図式化してみる︒

(27)

︿創作態度﹀ 心持11気分1一景11境  ︿一首の表現﹀

心境一事象

気分H =

象・調べ

窪田空穂における万葉集研究の出発

 ﹁微旨﹂的なものはこういった気分をあらわし易いが︑人麻呂への評価も︑こういつた主客のありようや表現態

度︑表現構造を基本に置いたものがあり︑それは先の人書評の﹁気分﹂とも繋がろう︵後述︶︒

 また空穂は︑憶良の辞世歌﹁男の子やもむなしかるべき万代に語りつぐべき名は立てずして﹂︵九七八︶を︑﹁新

釈﹂では﹁如何にも悲痛な︑男子の嘆きが感じられる﹂とし︑﹁読みをはって憶良の面影を想像すると︑何所まで      このかんも現世的な︑功名の念の深い︑執着の烈しい所までもほの見えるやうな感がする︒そして此感が︑おのつから此歌

の後景となって行くやうだ﹂と評するが︑﹃選﹄ではこの歌をとっていない︵この歌の前後は﹁国民文学﹂大正4

年の連載と重なるので︑ほぼその当時の価値基準を想定させる︶︒一首にあらわれた作者の拝情質としての﹁男の

子の嘆き﹂を評価する﹁新釈﹂と︑﹁年並﹂を評価する﹃選﹄への移行を示すとともに︑特殊な﹁後景﹂そのもの

を直接的に伝えて作者とその心境をそのままに立ち上がらせる歌への﹁新釈﹂の評価と︑そういった読みからもう

ひとつ別の歌の理解へ向かおうとする空穂の視点をうかがわせる﹃選﹄への変化を︑こういつた﹃選﹄における歌

の不在からも見ることができよう︒

(28)

 ところで︑右の批評で﹁写生﹂といわれているのは︑対象としての景・境に比重を置き︑それを直接的に再現し

ようとする︑ある種の客観的表現のありようをいっているのだろう︵先の引用Dの散文性に繋がる︶︒空穂は﹁新

釈﹂で︑家持の﹁物部の八十少女らが汲みまがふ寺井の上のかたかごの花﹂︵四一四三︶を﹁全く写生の歌だ﹂﹁何

所となく取り立て・いふ所も無いが︑趣の棄て難いもののあるのを思ふ﹂と述べ評価するが︑﹃選﹄ではこの歌を

採っていない︒また﹁秋の田の穂向き見がてり我背子がふさ手折りける女郎花かも﹂︵三九四三︶の﹁新釈﹂の評

﹁⁝⁝写生の中から湧いてくる︑淡く軽い︑棄て難い味がある﹂は︑﹃選﹄では﹁あっさりとした︑淡い情あひを︑

そのままに歌った中に︑棄て難い趣を感じる︒作者が微旨を微旨として歌って生かし得た為である﹂と改変されて

いる︒そして﹃選﹂と同時期の﹃短歌問答﹄では︑歌も﹁形から離れては何も無い訳ですから︑写生とならざるを

得﹂ないが︑﹁歌の本来から申しますと︑歌は心持です︒心持の現はれが歌です︒その意味から申しますと︑写生

は歌ではありません︒少なくとも正しい歌ではありません﹂と述べている︒大正四年は︑空穂・松村英一と島木赤      ︵19︶彦の間に︑﹁写生﹂をめぐっての議論が起こって来る年でもある︒客観より主観を重視し︑その融合に歌の赴くべ

き所を求めようとする空穂の指向が︑万葉歌の評価に表れたものとして見ることができよう︒       せい しかし︑例えば斉藤茂吉の﹁実相に観入して自然・自己一元の生を写す︒これが短歌上の写生である︒︵略︶

﹃生﹄は造化不窮の生気︑天地万物生々の﹃生﹄で﹃いのち﹄の義である﹂︵﹁短歌と写生 一家言﹂﹁アララギ﹂大正9.

9︶といった﹁写生﹂観に至る自然・自己の一元化と︑空穂の﹁融合﹂に共通するものを見出だすことはできない

だろうか︒﹃日本近代文学大系59 近代詩歌論集﹄の茂吉の﹁短歌と写生﹂の注によると︑茂吉が写生という言葉

(29)

窪田空穂における万葉集研究の出発

を使用しだしたのは大正三年ごろからであり︑茂吉は空穂の実朝観に反対して︑﹁予の意見は全然ちがふ︒自然を

歌ふのは性命を自然に投射するのである﹂﹁自然を写生︵窪田中等の用みる意味とはちがふVするのは︑即ち自己

 せいの生を写すのである﹂︵﹁アララギ﹂大正3・11︶と述べたのがその最初かという︒詳しい検討は別にするが︑﹁写生﹂

は赤彦.茂吉らによってその原義より拡大されて︑自己と広い意味での自然との一体化の中に﹁生﹂をとらえる態

度.方法となっていくが︑そういった意義を付与されたものとしての﹁写生﹂と︑空穂における広い意味での﹁気

分﹂は︑主客が一体化し︑主体の生を対象との融合の中に立ち上がらせるという意味で︑重なる部分を持つともい

える︒ 一例をあげる︒茂吉は明治45年3月号の﹁アララギ﹂で︑﹁足引の山がはの瀬の鳴るなべにゆつきが岳に雲立ち

わたる﹂と﹁我が宿のいささむら竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも﹂の二首を並べて引用し︑﹁共に天然を詠

じた歌である︒然かも作者が天然と相抱化し天然と同じ鼓動を打つに及びて︑表現されたる一首の節奏に各おのつ

から特殊の節奏がある﹂と記している︒両首は︑その後︑人麻呂の雄渾︑家持の繊細を象徴するそれぞれの代表歌

とされていくが︑茂吉はこの二首を並記し︑両者に作者と自然の一体化が︑それぞれの﹁節奏﹂となって現れてい

ることをいう︵大正8年刊行の﹃童馬漫語﹄でこの﹁節奏﹂は﹁調﹂と改変︶︒空穂は﹁新釈﹂にこの二首を採っ

ておらず︑後者の﹃選﹄の評は先に述べた通りだが︑前者について﹃選﹄は︑前の冊封〇八七Vと同じ﹁境﹂を

歌っているとしながら︑﹁前の歌もいい歌たるを失はないが︑後の歌の緊張した︑強い︑眼前の景を歌ひつつも同

時に一種の神秘を感じさせるかの歌には亡ぶべくもない︒人麿に捉へられた為に︑これ程の誰も眼にする現象をと

おして︑自然が生きて躍ってみる﹂と評している︒﹁景﹂即ち﹁境﹂と︑﹁それをとらえた作者の心境﹂との関わり

(30)

を批評の基準を置き︑言外に人麻呂という主体の気質︵気分︶による対象の把握︑合体により︑自然の生動と神秘

が生き生きと歌に言語化されていると見ている︵先にあげた人麻呂評参照︶︒これは続く人麻呂歌集の巻向におけ

る叙景的な歌に対する評︑﹁何でもない︑誰にもある経験を歌ってみるが︑躍った心が︑太い声のなかにあらはれ

てみる﹂二〇九二︶︑﹁強い感動を通して︑夜の高い川音が生きて来てみる︒人麿だと思はせる﹂︵=〇一︶などに

もうかがえる︒重層とは違った形で︑しかし持味としての気分と︑その表現における主客一体の躍動をいう︒茂吉

は﹁相通化﹂﹁同じ鼓動﹂とより直観的にその一体をとらえ︑調べの特殊をいい︑それに対して空穂は表現過程に

おける主客の分析をとおしてその一体化をいっているわけだが︑そこに短歌一首における︑﹁作者﹂と﹁天然﹂.

﹁自然﹂との密接した関わりと︑それによるある生命感の躍動に評価の軸があることが思われる︒

 茂吉と空穂の相違についてはまた別に論じたいが︑ここにある︑主客の一体・融合への指向と生命感への指向は

︵人麻呂的躍動も家持的微旨も含め︶︑ひとつの同時代性があるといってよいだろう︒最近﹁大正生命主義﹂という

言葉で大正期の思想・文化の傾向が論じられるが︑茂吉も空豆もさまざまな気質︑要素︑指向を持ちながら︑ある      ︵21︶時代の指向や動向を吸収していたといえるのではないだろうか︒﹁写生﹂や﹁気分﹂という語を越えて︑そこに明

治の近代化の後に︑日本の近代が模索しようとした一つの時代のある﹁気分﹂があるようにも思われるのである︒

 さて︑﹁新釈﹂から﹃選﹄に見るような変化は︑万葉に対してだけのものではない︒空穂は﹁文章世界﹂明治42

年1・2月号に﹁香川景樹の歌﹂を書き︑﹁国民文学﹂大正5年4〜6月号に﹁香川景樹の歌論﹂を書いている︒

前者は景樹の紹介と歌の選釈中心︑後者は歌論をベースにした景樹論だが︑ここにも﹁新釈﹂から﹃選﹄への推移

(31)

窪田空穂における万葉集研究の出発

と同様のものがある︒

 空穂は前者︵﹁香川景樹の歌﹂︶の評において︑﹁打見たまま︑感じたままを説明を加へずそつくらと言ってある﹂︑

﹁彼の歌は︑感情の写真といふ事を標榜してみるだけあって︑所謂実感を歌った物が少くない﹂︑﹁誰しも感じる事

をつきつめて︑直裁に言ってあるので︑其所に趣が湧いて来る﹂といった︑現実の生活感情の直載的表現への評価

をいう︒それに対して︑後者では︑﹁歌は理るものにあらず︑調ぶるものなり﹂といった景樹の﹁歌論の中心﹂を

敷回して︑﹁彼の主張を現今の通用語に翻訳すると︑﹃歌は写生ではない︑気分の表現だ﹄といふ事になる︒又は︑

﹃歌は客観その物ではない︑主観を強く動かして︑主観の中に浮動してみる客観を現はしたものである﹄といふ事

である﹂と述べる︒ここにはやや飛躍が感じられ︑﹁気分﹂が分かりにくいが︑空穂は続けて︑﹁これを歌その物の

側からいふと︑歌の味ひは︑その中に如何に尊い事︑如何に尤もな事︑如何に面白い事が言はれてるるかといふ点

ではなくて︑歌そのものが生きてみるといふ一点にある︒即ち読むと同時に直接に胸に響いて来る所が味ひ﹂であ

ると述べ︑その現れたものとして主観の﹁気分﹂としての現れと︑その歌での形としての﹁調べ﹂を見ようとして

いる︒﹃選﹄における批評の姿勢・態度と同様なものがここにあろう︒

 ﹁歌論﹂はさらに︑﹁誠﹂は人為の︑知的な小主観でなく︑調べの究極は﹁天地の道︑天地の誠の︑我々を通じて

現はれる所の声﹂であるとし︑そこに調べの﹁万古不易﹂を見ようとし︑そして秀歌は﹁実時実景だといふ事のみ

をたより﹂にするものでなく︑そこに﹁我﹂とともに﹁天地の心である所の我﹂の加わったものであるとする景樹

の考えを紹介する︒﹁天地の心﹂﹁天地の大道﹂については﹁文章世界﹂の景樹論でも紹介されているが︑評への展

開はない︒事象・心情の直急な偽りない再現でもなく︑単なる﹁境﹂と﹁我﹂との一体でもなく︑さらに小主観を

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