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万葉集における黄葉美について

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(1)Title. 万葉集における黄葉美について. Author(s). 土田, 知雄. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 15(2): 33-39. Issue Date. 1964-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3784. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . ・ . . . ● ‘ 」 ● ・. 昭和39年12月. 北海道学芸大学紀要 (第一部A). 第1 5巻 第 2号. ● L . . ● ● . ’ , . ・ ● ● ’ .. 万葉集における黄葉美について 土. 田. ゑ唯. 知. 北海道学芸大学旭川分校国文学研究室. Ch ikao TSUGH比)A ; 0n the Beauty of ’ I Ti AutumL any6shyn na nt sin ‘N1 .. 1 6 ) においてもわかるよ うに, 春の花を愛するとともに, 万葉人は額田の王の春秋を判る歌 ( 秋の黄葉をいたく賞美していた.. 集中 モミ ッ, モミ チ バ, モ ミ チ 等 の 語 を用 い て い る 歌 は, 実 に101 首 の 多 き に 上 り, こ れ ら か. 相聞歌等で必ずしも黄葉美を 対象としていない歌 ら枕詞の 「もみちばの」 を有するもの, 挽歌・ , を除いても, 黄葉美を中心 として作られた歌は86首をか ぞえることができる. また, 黄葉する意 の 「色 づく」 という語を用いている歌25首中, 前述の歌と重複するものを除いて22首あり, これ も っ とも らを合計する と, 108首の多きに上るのである. ことに黄葉を対象とした詠物題の作の. ぞ え か 葉 2の 多 きを で 黄 は4 9に次 い 9 鳥 の5 , 他の素 材 , 多い巻十だけを見ても, 262FP, 花 の6 , を断然引き離している. これによ ってみても, 万葉人がいかに黄葉美を賞美したかが明らかであ る. ) さ て, 先 ず 「も み つ」 の 語 につ い て1 , 折 口 信夫 博:ヒは, も. な. も. 9 ) 1 1 ‘ ‘ 子持山若かへるでのもみつまで寝も と我は思ふ汝はあ どか思ふ (3. を解 して,. 子持山, その若楓の葉が紅くなる, それではないが, 夜があげて, あかくなるまで 寝てい よ う とお れ は 思 う. お 前 は ど う 思 う.. とされ, 民謡として 男女暁の別れ難さをうたい, 少し誇張したものの効果が出ているの であ ると 説かれた. 現在, この歌の解釈として, この説に従 うものは必ずしも多くはないが, 同博士の解 は夫婦の 同居をはばま れていた庶民階級の男女の切迫した感情を 歌い上げたものとして, 彼等の ) 生活に即 した, きわめて示唆に富んだものと言えよう. さらに同博士は2 , 「もみつ」 に対し, 紅葉する. 叉, 本集もみぢ葉を 「黄葉」 に当てるが, 語源はやはり赤によ っている. もみ は, 赤色. 語尾 「つ」 をつけて赤くなる義の動詞となる.・必ずしも紅葉するに限らなか っ た の だ. こ の 場 合も, も み づ は,.夜 が 開 け て, あ た り が 明 る く な る こ と を 言 う の だ ら う.. 「若かへるでが 秋の紅葉す るま で」 ではない. ただ, その意味の用例が亡びたまでだらう. としておられる. すなわち, 同博士の説かれるよ うな用例が, 当時東 国地方には残存していたと. いうのである. 同博士の説の如く, 「明るくなる」 という意を 「もみつ」 が派生したとするなら ば, 「も みつ」 の 原 義 は 「赤 く な る」 とい う意 で な け れ ばな らな い. そ して, ま た この 「か へる 一 33 一.

(3) . 土. 田. 知. 雄. 真赤に葉の染まる 植物である. ) で」 は3 , イロハカエデに当たる由, そ うすればこれは正に ) 「もみづ」 の項にも, 「黄 4 葉集辞典の 一方, 本集においては,「もみつ」 の語は , 同博士の万 葉をする, 葉の色が染まる」 とあるから, 万葉集では原義よりもかなり広い意味に用いられたこ とが 多 い こ と は 疑 い の な い と こ ろ で ある.. 本 集 で は, モ ッ チ, モ ミ ジ等 の 語 を か な 書 き に し たも の は18例, 「紅 葉」 ま た は 「赤 柴」 は わ. ずかに1 例ずつ, 「赤」 をモミッとしたもの 2例, あと79例はいずれも, 「黄色」 「黄葉」 「黄 変」 「黄反」 「黄」 等の字を用いている. も っ とも, これに対して筆 者は 「黄」 は必ずしも厳密 な意味の黄色の 場合を 示すとは考えないし, 「赤」 「紅」 の場合も若干の疑問があり, かな書き の場合は色々な 場合があ ったと思 う. しかし, 漢語にすでに 「紅葉」 も 「黄葉」 もあ ったのに, あえて後 者を多用 したことは理由な ) しとしない. 武田祐吉先 生は5 , 「これは本集 に在っては広く草木の 葉の変色するのを愛したこ と を 語 っ て い る」 と 説 か れ た.. 青垣山 どもれる大和の国に住んでいた がゆえに, 万葉人は早くから草木の黄変を待ちわび, 一. 度色づけば,. うつし. 154 3) 秋の露は移にありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば ( と詠んで賞美したのである. 「紅」 「赤」 だけではなく, 「黄」 もあ ったし, また それゆえ, 万葉人の黄 葉美は, 必ずしも, 「橋」 もあ ったことは推測に難くなく, 従 って用字法も 「黄」 をも ってするのが, 多く の場合に 当 て は ま っ た こ と で あ ろ う,. 使阿倍継麻呂の作で, 例えば, 巻十五の遣新羅の大 もみちば 700 ) あ しひきの山下光る 黄葉の散りのまがひは 今日にもあるかも (3 が,「山下光る」 色であるか明らかではない というのがあるが, この場合はかな書 きで, いかなる. と歌 っており, また この時, 同じ場所で小判官大蔵麻呂が詠んだ歌に, ) 3703 竹敷の 宇散可多山は紅の八入の色になりにけるかも ( 6 がわ 73 ) 着目していたこと かる くれないの美に というの があるから, . ・ そうすると, 天 平8年 ( ご ろ, 依 然 と して く れ な い の 色 の 葉 を モ ミ チ と 言 っ て い た こ と は 明 ら か で あ る.. しかし, また一方において, はぎ ) 秋芽子の下 葉のもみち花に継 ぐ時過ぎ行かば後恋ひむかも (2209 ) 2204 秋 風の日にけに吹 けば露 しげ み芽子の下葉は色づ きにけり (. などは, くれないとは称し難い. これは黄色に変 色したものを愛したもの であろう, ところが, 同じ秋芽子の下葉の 黄葉を詠んだものに, もみ 秋芽子の下葉 赤ちぬあらたまの月の経ゆけば風をいたみかも (2205). とあり, 「赤」 の字を用いている が, これは下葉の末期の黄葉であるから, 「黄」 と区別をした ものであろ うか. おそらく, この場合は 茶褐色に近か ったろうと思われる が, 「黄」 を用いず に, 「赤」 を 用 い て い る の で あ る. や は り 「黄」 を用 い るよ りも, こ の 場 合 「赤」 の 方 が よ り 近. く思われたも のであろ う.. ・をもって表わしてい 彼等はかよ うに細微微妙な点ま で観察 して, しかも, ひとしくモミチの語 る, すなわ ち, 万葉のモミチは, 単に紅, または赤のみではなかったといえるのである. 次に黄葉を時期的に見る と, もみ そ 194 ) 2 雁がねの来鳴 きしな べ に韓衣竜田の山は黄ち始めたり ( 一 34 一.

(4) . 万葉集における黄葉美について もみち. 妹が紐解く と結びて立田山今こそ黄葉は じめてありげ- 2 11 ) り (2 もみ. そ. ももみ. もみち ,. の如く, また, 「黄ち始めなむ」 ( ) 「黄変ちむ」 ( 2 19 5 ) 「黄葉せりけり」( 1 551・2200 1094 ) であるとか, 「色 づきにけり」 ( 「 づ 13首) , 色 きにける」 (2首) とあるのは, 初期の黄葉を愛. したものの如く, ことに 「けり」 「ける」 の使用の多いことは, 黄葉に初めて気付 いた時の喜び が認められるのである. 一方, 黄葉の散るのを愛する 歌が多いことは, 必ずしも黄葉の盛時をのみ賞美したものではな. い こ と を 語 る も の で ある.. 元来, くれないにもえる黄葉の時期は短 いものであるから, 黄葉の盛時を愛したことは言うま ・ . ・ でもないが, 彼等は先ず黄葉の初期をも愛 し, また終期の美をも愛したのである. それゆえ 「紅 葉」 の字を用いる に適当でない場合が少なくなかっ たことと思われる. 加うるに, 大和地方の植 ) 物分布の状態を考えるならば, 全山くれない にもえる場合は, そう多いとは思われない6 .. 植物学の久米道民氏等は, 万葉集に 「黄葉」 の字を多く用いることは, 万葉人の生活に即 した プラグマチ ックな観察の然らしめるところであると説かれた. 筆者もこれに対して賛意を表 した. ‐,. し、.. しかし, 筆者はモミチの意味の拡大を万葉人のプラグマチ ックな観察にのみ帰することはでき ないのではないかと思う. ) は, この問題の考察には古来の太陽崇拝の民俗のあることを忘れてならないと 崎正秀博士7 高- 指摘された. これは確かに卓見である. しかし, ここに一考すべき点がある, ) は 「記紀歌謡や万葉集を含む上代の歌, 平安から室町初期へかけての二十」 先ず, 伊原昭氏8. 勅撰集, このような, いわゆる主な古代和歌四三〇〇余首には, 一例 しか見えない」 と説 かれた. その一例は本集の おき. 黄ミ のよまれている歌はただ. ・うしは. 奥つ国領く君が染屋形黄染の屋形神の門渡る ( 3888 ). で, かなり特殊な用例である. この場合も, 黄は美的対象として取り扱われて いないことは明ら ) は, さ ら に, 「こ れ は 黄 色 と して, 概 念 化 さ れ る と こ ろま で 至 っ て い な い よ かで あ る. 伊 原 氏9 う で あ る」 と説 か れ た. しか る に, 黄 と 親 縁 あ る 「黄 葉」 によ っ て, モ ミ チ ・ モミ ジ 系 が 美 的 対. 象として大いに栄えたのは, 実に黄に加味されたモミの美しさによるものと思われる. そして, さらに考うべきは, そのモミが濃に向かわずして, 次第に淡に赴いたことである. 次に 「黄葉」 さえも初期においては, 必ずしも美的対象としてばかりは取り扱われていなかっ た こ と で あ る.. 秋山の幾譲 を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも. 柿本人麻呂 ( ) 208. これなどは美的に用いられていないばかりか, 呪術宗教的な色彩も認めら れ, 若干 「黄泉」 な ) 中の 「過ぎて去ゆくと」 にかかる枕詞 どの連 想もあるのではなかろうか. この歌の長歌・( 207. 「黄葉の」 とともに考うべきである. ところが, かかる傾向は次第に払拭さ れて, も っぱら美的にのみ見られるに至っ たことは注意 ・ すべきである. また, 「黄葉」 が16番の歌に見られるように 「青き」 葉と対比的に賞美されるよ う に な っ た こ とも 忘 れ な い こ と で あ る と 言 え よ う.. 筆者はそこに万葉人の美感の伸長発展の跡をたどる べきであると思うので, 以下主としてこの. 点について考察を進めたいと思う. 註 1) 折ロ信夫全集13 p,309. 2) 折ロ信夫全集13 p.170.. 一 35 一. 、 . - ● . . . ● ‘ . } ● - ● . . - - ● ● . ‘ 1 . 1 , . 1 ・ . 1 .. 」 ● ・ r -. - - ● . ・ ..

(5) . 3) 小清水卓二氏 万葉集の植物 (万葉集大成8) . 4) 折口信夫全集6. 3 1 5) 武田祐吉氏 増訂万葉集全註釈三 p .112~1 . 6) 本学教授稲垣貫一博士の御教示による. 7) 昭和38年11月, 柳田・折口・武田三先生追遠記念公開講演に対して, 御教示にあずかる. 8) 伊原昭氏 色彩と女学 p .44 . 9) 伊原昭氏 万葉の色相 p .63 , 1 l. さて, 上古においては, おそらく赤, 燈, 黄, 茶などの色彩について, 初めは明確な区別をし て表示し得なかっ たであ ろう. 原色中も っ とも強 烈な刺激を与える赤色は, 女化階層の必ずしも 高くなかった時代においても, 当時の人々の注視を要求していたこ とは, 疑い のないところであ ぁ る. 国語において, アカシは 「赤 し」 をも 「明かし」 をも意味し, 彼等は赫々たる赤色に呪術宗. 教的な関心をもち, やがてこれを賞 美したことは明らかであ る. しかるに, 万葉人はやや刺激の 少ない澄・黄・茶等の色彩にも注 意するようにな ったことは, 大いなる進歩 と言えよう. 筆者は この推移に注 意したい. いま万葉集中, 「照る」 という動詞の主体として, 月 は実 に68例中, 56%弱の多きを占めてい 3例中, 月は39%強の多きを占めて るが, 日はわ ずか9例にしか過ぎない. 「光る」 の場合も, 2 ) よりも, 穏和な月光の微光 anz いる. これによ っても, 万葉人が, 赫々たる太陽の光輝 (Gr imme Sch ) に魅力を感じていたことがわかり, 色彩感の発達に伴なって光彩感の変化をも知る ( r. こ とが で き る の で あ る.. 例えば, 日本書紀では貴人・麗人の端麗・端正をあらわすの に, キラキラシという語11例も用. 感 な い し畏 敬 感 を ) い て い る が1 , こ れ は 光 現 象 の キ ラ キ ラ シ よ り 出 て い る こ と は 明 ら か で, 畏 怖. も って表わしている. ところが, 万葉集では, わずかに高橋 虫麻呂が上総の末の珠名の娘女の歌 ) で, その見る人が注視にたえぬほどの舷惑 感をもつ娼婦的妖美をあらわすに用いただけ ( 1738 である. そ して, この一語の一首中の比重はさほど重要ではなく, 他の具体的描写がより重要で ある. 当時すでに, この語一語にのみ依存するというような素朴な手法はとらないのである. そ やまぶき 「山振 して, 「清し」 と称して万葉人 が 熱愛した月 光の美は, 淡黄緑色の微光の美であり, 集中, の花」 を詠んだ歌が少なく ないのは, 当時すでにその黄色の花を愛したことの 証左である. かよ うな推移に筆者は注意せねばならない. ′ ) これらに ついて参考とすべきは2 , 次田潤氏が 万葉人の色彩感について, 色彩の美しい春の花よりも, むしろ淡泊繍酒な秋草を 好み, 殊に露を宿す萩, 風になびく 尾花, 雨に伏す女 郎花の如く, 風情を伴なうものを愛したのは, 畢党, 彼等が静的な色彩 美. よりも, 更に動的な姿体美に心を引かれることを語るものである. と説かれていることである. ここに注 意すべきは, それらに見ら れる運動は明暗の対比と色彩の 濃淡を生じ, かくの如くにして, ニ種以上 の色彩があらわれて, それらが共同に作用することと i he t t ) の印象を与え ることであり, それらの運 動が激化すると光 輝の現象 ここに光の燦欄 (Bun. にまで達することである. も っとも, 万葉の場合は, 微光か燦欄の例が多いことは, 前述の通り である. また, それらの風物に水滴が 付着する時には, 風物に光輝能力 を与えるこ とになり, 微 光の現象が発生し易くなる. 本来の光 輝では, 光る部分は明暗の発現として他の部分から分離さ れるが, 微光では色彩が中心になり, 光彩はそれに加味 される. すなわち, 微光はみずから現 わ れずして, その部分の色彩にある 特殊の美を添えるのである. 一・ 36 一.

(6) . 万葉集における黄葉美について. それゆえ, 風に脆く尾花, 露を宿す萩, 雨に伏す女郎花の場合も, 光彩との関連の下でその色 相の美を考えるべきである. 同様 に風に散り乱れる黄葉, 露にうるおう黄葉, 時雨にぬれる黄葉 についても, 前述の如く考えらるべきである. そのような意味で, 万葉人は静的な, そして単純 な色彩よりも, 動的な, そして複雑な色彩を賞美したというならば, それは正しいと言えよう.. ただ, 単に, 動的な姿体美にすりかえることによって, 色彩美を閑却することは許されな いと思 う.. ・. )は, 「すくなくも」 の語法的解明に当たらて, す ぐれた見解を示されたが さ 武田祐吉先 生9 ,. らに次の歌を引用されて, 風吹けば黄葉ちりつつすくなくも吾の松原清からなくに (2 198 ). において, 万葉人の審美眼に言及し, 彼等が黄葉を愛したことは言うまでもな いが, 梢にあるの を愛したばかりでなく, その散乱する美しさをも愛したのであるとされ, 田辺福麻呂の久通の新 京を讃美した さを鹿の. 妻よぶ秋は. 天ぎらふ. しぐれをいたみ. さ丹つらふ. 黄葉散 りつつ. 八千年に. あ れ つか しつ つ… … (1053) と. 妹がりと馬に鞍お き射駒山うち越え来れば紅葉散 りつつ ( 2201 ) を挙げて, 黄葉の散るのを惜しむよりも, 愛 する気持が強く歌われているとし, それは落花を愛 する心理と通ずるものであろうとされた. そして, 秋風の吹き抜き敷ける花の庭湾き月夜に見れど飽かぬかも (44 53 ) を挙げ, これは落花の美しさを清き月光 のもとに賞美しているとし, その他 「花散らふ秋津の野. 辺● ) などの句を挙げて証とされ, 「清し」 は, 瀬の音, 月の光などに対して評するのが通 36 」 ( 例であ・ り, その点では, 吾の松原の例は違例とも言えるが, 白浪の来寄する浜の清さを歌 ったも のがあり, それらは動態の美を 「清し」 であらわしている. 住の江の沖つ白浪風吹けば来寄する浜を見れる 浄しも ( 1158 ). があ り, 風が吹 いて白浪の来寄せる浜の清さを歌っている. これらに準じて考えれば, 風の吹く と に よ っ て● こ・ , 松 原 に 黄 葉 の 散 り乱 れ る・美 しさ は, 「清 し」 の 語 に よ っ て 表 現 さ れ る こ と に 不 思. 議はな かったのであると, きわめて含蓄に富 んだ高説を示されている. 筆者は, 先ず武田先生の指摘され た動体の美を中心にして, 黄葉について考えてみたい. この ) 場合4 , その心理構造を分析するに, 前景意識として視覚の面では松原の緑の美と, それを浄化 し美化する黄葉との対比のあること, また飛散する黄葉 に燦欄の美があることを指摘した、 い. さ らに背景意識としては頻々たる秋風の冷覚中心の表象ならび に感情を主とする 相対的無意識体感 の随伴することは否定 できないと思う. かくて,. 作者が 「すくなくも清からなくに」 と言った心 , 理が十分うかがえるのである. すなわち, この歌においては, 緑の松原と秋風な しには, 黄葉の 美も 「すくなくも湾からなくに」 には達しなかっ たであろう. そし て, かような美の構造は, 他 - の黄葉の歌にも見出されるのである.. 前掲の家持の 4 53 ) においても, 「清き月夜」 は 「見れども飽かぬ」 ほどの凝視にたえら .歌 (4 れる淡黄緑色の微光の美であ って, 凝視にたえぬ光輝の現象ではなかったのである. そして, 清 爽の秋気による冷覚の存在も考えられる. また, 落花の散乱の状態は, 燦欄の現象を誘起したで あろうが, 全体として淡黄緑色の美と冷覚の存在を減殺するほど強烈で‘ばなかったであろう, こ れは吾の松原において, 黄葉の飛散が, 緑の美と} 令覚の存在を否定するものでないのと同様であ - 37 -. . ● ● ● ● ● ● . . ● r . ′ . ・ . . . . ● . ・.

(7) . 土 る.. 田・ 知. 雄. .. .. ・. ●. ,. さらに, 筆者はこの歌中における吾の松原の地理的条件について考えたい. 吾の松原は’ お そ らく今の四日市附近の海岸にあっ たであろう. 果 して然らを , その地理的条件と 「清 し」 との関 係について考えざるを得ない. 「清 し」 の用例85例中, 河海湖沼関係は56 , 「さやか」 の45例中. 8%弱 しても, 水辺関係は, 70例中30で, 3 それらは16で, いずれも第一位, 「見飽かぬ」 対象と, に達 して いるこ とは, それらが万葉人の熱愛した風光 であることが明らかである. 筆者はそれら ・ の美は白の微光であ り, 背景意 識の冷覚と相助けて 「清明」 の美に達したものと思う. ここにお いて, 吾の松原の海浜 としての条件が, 青松の美, 黄葉の美, 燦欄 の美を強化していること, 冷 覚の発 生に与っ て力あるこ とを指摘したいのである. 註1 ) 拙稿 「きらきらし」 と 「きよし」 と (本学紀要4巻1号) . 2 ) 次田淵氏 万葉人の自然観照 (万葉学論纂) . 3 ) 武田祐吉氏 増訂万葉集全註釈二 p .506~508 . 4 ) 拙稿 古代和歌における微光の美感 (国学院雑誌57巻6, 7号) .. 次に, 集中の作を検するに, もみ ながつき 00 ) 22 九月の 白露負ひてあしひ きの山の黄変ちむ見まく しよしも ( の如 く, 「白露」 を帯びた 黄葉の美を熱愛してお り, もみちば. ) 185 2 大坂をわが越え来 れば二上に黄葉流る時雨ふりつつ ( 2206) まそ鏡南淵山は今日もかも 白露置きて 黄葉散るらむ (. ・ のよ うに, 白露.時雨・霜などを配 した黄葉を好んで描いているのは看過 しがたし . これらの風 物を伴な わないものの方がむしろ少ないのである. これお そらく, これらの水滴の光輝能力に関 係があろ う. すな わち, それらの光彩の協 力が, 美の形成に与 って力があっ たのであ って, それ はいうまでもな く微光の美で, 黄葉の色彩にある特殊の美を加味 し, それを浄化したのである. その微光の美感は, 愉快な 感情を誘超し, それを永続させる. 集中 「見飽かぬ」 と称せられる所 以である. また, 温色系 とも称すべき紅 ・燈・茶・黄系の黄葉にこれらの微光が添加されることは, これ らの色彩のも つ刺激の沈静と浄化に役立 ったものと考えざるを得ないのである. さらに, 以上の 風物は冷覚の触発に効果的でもあ ったろうし, 加うるに 「九月」 「十月」「風」 「雁が音」 などの季節 感に満ちた語を多用 しているこ とも忘れてはならない. 次に, 背景を 示す語として, 「池」 「浦廻」 「埼」 「河内」 「瀬」 「田井」 「泉」 「油」 「松 原」 な どが用いられてお り, これらの水辺関係の地形語は, 「清 し」 の美ときわめて緊密な関係 あることは前述の通 りであ って, 背景意 識の冷覚の触発と清明への近接に大きな役割りを果した の で あ る,. いま, 巻八・巻十の二巻に 限って, モミッ, モミチ系の語, 「色づく」 系の譜を有する作品で 黄葉を対象とした作品69首についてみるに, 水滴関係の語, 黄葉の動的状態をあらわす 「散る」 等の語, 「雁が音」 「秋風」 などの季節語 のいずれかを含まぬ作品は, わずかに8首に過ぎない のである. それらは序詞の素 材として 「黄葉」 が用いられているもの 1例, 時間的経過に黄葉を 惜しむもの3例, 挽歌的発想1例,.人事的表現 1例等で, 黄葉が部分的素材であ ったためと考え られる. ことに, 黄葉に配せられる風物中, 時雨18 , 露霜, 霜11(このうち技巧的に否定的ポ←. ズ を と っ た も の 3をかぞえるが……) , 白露, 朝露, 暁霜7が圧倒的に多いのは注意すべきで, こ ー 38 一.

(8) . 万葉集における黄葉美について. れらは筆者の以上の所説を立 証するものと言えよ う. かくて, むしろ温色系とも称すべき黄葉美において,「清し」 に到達したもの, または 「宿 し」 型 への志向を見せ たものを見出す ことができるのである. 換言すれば, それらの風物の美的定 化 は, 黄葉美に伝統的発 想を失な わしめずに, 「清し」 への志向を促が し, 優雅の美への近接に効 果があったと言えよ う. 以上の 如く, 万葉人は生活に即 して, プラグマチ ックな 観察を余儀なくされたために, かえっ て黄葉美の種々相に接 し, それらを愛することができたというべきである. しかも, 生活から遊 離することなく, 「清 し」 への志向をもち, その健康美を 失な っていない. そして, さらに優雅 への域に進んだものもある. 0首余の作は, 無名作家の手にな り, これらの典型と言えよ 集中, 黄葉美の中心をなす巻十の4 う. 氏名の明ら かな貴族の手に成るとおぼしきものも, 黄葉美の伝統的発想を脱していない. きほ ) 22 14 ま雁が越えゆく竜田山時雨に競ひ色 づきにけり ( 夕され{ , 「 木の葉を黄色に うな がす意で 1 ) 之博士は 時雨が この歌中にある 「競ひ」 について , 小島憲 , あり, 人間同志相互の闘争競争の意ではない. このような 『争ふ』.『競ふ』 はやはり詩 との交感 」 と説かれている. 果 し然らば, この歌はすでに大 陸文芸 に よ っ て 生ま れ 出 た こ とを と云えよう. の影響を部分的には受けながら, 一方においてはいま だ伝統的発想を失な っていないのである. もみちば 1587 ) あしひきの山の黄葉今夜もか浮かび去ぬらむ山川の瀬に 大伴書持 ( この歌も, いまだ繊細腕美な歌境にはやや遠く,.これを同巻の やまぶき ・ かむな ぴ かはづ 14 35 ) 蝦なく甘南備川にかげ見えて今か咲くらむ山振の花 厚見の王 ( に比すれば, 甘美な美しさはやや乏 しい感がある. ’ 家持らの後期の 唯美的歌風の作品において, 黄葉が素材として余り用いられなか ったのも, か かる素材としての史的性格によるのではないかと思われる. よ って, 筆者は黄葉美の位置を, 清 明美を保持 しつつ, しかも優雅美に進んでいると言ってよかろ うと思う. そ して, か く あ ら しめ たも の と して,. ” ) モミが濃厚に進まず, 淡泊に向かったこと. この結果, モミチの意義の拡大が行なわれ 黄緑・緑との 対比的賞美を容易 に した こと, ) 秋風による散乱の状態は, 色彩の濃淡を 生じ, 燦欄の現象を生じた こと.. 水滴付着の状態は, 微光の美を誘起し易かっ たこと. )中 )“は, いずれも冷覚の誘発に与って力があり, かくて 「清 し」 の美に結びつく機会 以上の” 内. を与えたもの である と考えられる. ・島憲之氏 」 註 1)′. 上代日本文学と中国文学. 中 p .910 .. 一 39 一. (3 9 .30) .9.

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