九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
フランスにおけるイタリア人劇團の業績(完)
進藤, 誠一
https://doi.org/10.15017/2556533
出版情報:文學研究. 34, pp.1-18, 1945-03-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
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太陽王の逆鱗に鯛れて遥放の厳命をうけ豊逗だの磯でアルプを越えで岨國へ逃げ歸つたイタリア俳優にさって︑再
び巴里人士の御機嫌をごbむすぶごいふ望みはまづ絶無であった9永久にかれらの刺場を閉鎖せよさいふのが紬言で
あったし︑ルイ大王は老來益1頑藥に︑狂信的に︑禁愁的に伽かるるばかりであった.かくて巴里モーコンセイュ街
のプル今コーニュ宮劇場は日に月に荒臓の度を川へ︑固く剛されたその扉は永速に附かれる日もあるまじく兇えた︒
一七一五年︑ぎしも全欧洲を畏怖せしめたルイ十四枇も途に七十七歳どいふ商齢をもって︑飽くまで王者の威厳に
/徹したその生涯を経へた︒王の晩年は悲惨そのものであった︒戦兼︑外交の不振にもごづく失意︑落脈もさるこぜな
がら︑︲王太子︑王太孫をひ浄つづきに喪つた人間的悲哀は老王の毒命を縮めた捕盤であったに迷ひない︒かくてルィ
十四世のあさを襲ってフランス國王の位についたルイ十五世は︑蜜に太陽王の曾孫で︑一七一○年誕生の幼君であつ
□たのである︒儲然前王の通言によりオルレアン公フィリップ亀匡号肩︺昔︒亀○晨目︶が搬政に任ぜらられた︒
フランズにおけるイタリア人劇閲の業斌一︵四○七七︶ フラン〃スにおける イタリア人劇團の業績
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オルレアン公フィリップ︵一六七四一七二三︶は︑ルイ十四枇の王弟オルレアン公フィリップ︵一六四○一七
○己の嫡子で︑稀れに見る俊鼈であったが︑同時にまた徹底的の事樂兒であった.公の生涯は異常な英才を論する
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言行ざ︑極端な醜聞どの交錨である9搬政きしての公の政策感︑さりもなほさず︑内治︑外交の釜般にわたって︑前
王の政錐の反動を変現するこさであった︒そして公は率先して耽溺生活の使純を示した︒さなきだにルイ十四仙の晩
年の抑制︑禁愁︑狂信に倦み疲れ︑自山解放を渦梁してゐたフランス図雌は何搬政公の反動政策に煽動せられ︑ごり
わけて撫政公の垂範に刺恢せられ︑一漉千里︑淌迂たる放埒時仕笹現出したのであった.フランス王朝の雁史を通.
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|じ︑攝政の世かれたこざは一再にござまらないのであるが︑・今日﹁識政時代﹂︵﹈胃︑88︶皇一又ぱ山ちにルィ十
五世の未成年期ど指し︑﹁搬政﹂.︵一︒闇晒の貝︶皇一両へぱ直ちにフ部リップ公を脂すのである9それほど一七一五年か
ら一七二三年に至る短い期問において︑フランスの祉相は︑異常な︑不健全な︑享樂的な塒徴を示したのである9そ
してわれらのイタリア刺場に優婆華の花が晩き︑その附かずの扉が再び附かれる日を見たのは野まつたく識政公の反
動政策のおかげであった.︑
オルレアン公は辮政に就任旱だ︑ルイ十四枇によって閉鎖を厳命せられてゐたイゥリァ劇場を復活し掴イタリア人
俳優を招いて︑巴里の享樂に一段の糀彩を川へる一﹂ざを忠ひついたのである9曾て公自身の幼年時代に︑︐アルルキャー
ンやスカラムJシュの至藝に笑び興じた想ひ出も︑この計謹を推進するのに大いに與つたこざであらう母識政公は徴
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時イタリアで盛名のあった一人の俳優︑役名レリオ事ルイⅡアンドレ・リコボニ〃や○日の︲少且忌閤o8ずoaQ岸伊農︒︶
に委畷して︑︲巴里のイタリア劇場のためにイタリア人俳優の一座を糾合させるこさにし・た︒リコ這二はパルマ公アン
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︑トニオ・ファルネーゼに事鴎してゐた一座から主要な俳優連を引き抜くこさによって︑易さご優秀な一・座を組織す.る︐l
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①こさができた︒パルマ公はオルレアン公のために欣然さして俳優逵を譲渡したばかりではなく︑自ら斡旋して一座の
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◇︑契約背を作製せしめた.その契約書では︑リコポニを座長ざして重大な椛限を典へるここのほか︑削関經誉の方針が
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︑詳細に規定せられてあった︒︲一
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や︑一座は俳優男女合せて十名︑ほかに歌手が男女各左一名であった︒その顔臓れをあげると
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フランスにおけるイタリア人劇閲の業紙三︵門○七九︶
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.レリオは若い懸人役芦﹂して弟一人者であったうへ︑劇場支配人であり︑かつ作者でもあった︒なほかれには
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なる著述もある︒かれの妻女が若女役の︲フラミニア︵国画旦目gで︑かの女は一座のマリオの妹であった︒フラミニ︲
アは一座の花形の一人で︑︑美しく︑末脚く︑淵雅であ.つた皇一mはれる9非幣に機智際皿んでゐたが︑熱の燕いのが峡
鮎であったさも言はれてゐる9
〃︑いま一人の明星シルヴィア︵望ぐ旨︶は︑マリオの妻女であった9.マリヴォーの立脚劇の女主人公這して仙撒であった︒
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マリヴォーさこの女優直の挿話については後に巾し述べる機會があらう9
しかし俳噌して爵一人者学f誼ン勝トマ;ンでぁ名.芝累幸なぅE輕業2人でlコメ
︽ブア・︽ブル.|フル|丙俳噌し:これ農蕊な餐鴬あったl記単¥ンを減じて息らく有名などミーーク
にも劣らなかったであらう芭言は伽てゐるが︑一七四九年に巴里で喪するまで︑かれの人氣は常に絶大であったoか〃ソー当れの妻女は一座の下女役を勤めてゐたヴィオレツトであった︒
さてリコボニに率ゐられたイタリア俳優たちはオルレ︑アン公専脇劇剛の濡號を典へられ︑一七二ハ年五月十八日︑
︲巴里のパレⅡ画ワイヤル劇場で久方振りに巴里人士にお目見得をした9前祉紀の末︑ニハ九七年に解散を命ぜられた
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時の顔ぶれざはまったく違ってゐたごはいへ︑イタリア刺圏ざしては懐かしい返り新参に違ひなかった.劇場がプル
.・ゴーニ一宮でなかったのは遼憾であったが︑これは同劇場の荒駿が逃しく︑修理に手間ざり︑開場式に間にあはなか
ったからにほかならなかった︒・ダ
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ソこの日もまた撒政公の臨場があった.公の倣負ぷりがうかがはれる9かくてイタリア劇剛は巴眼人への祁度のお目
見得に大成功をおさめ︑即興喜劇の前途は洋盈たるものに見えたのであるが聯蛮はこの熱狂的な人莱には︑前枇紀に︲
おいてのイタリア劇閣に開する数糞の追憶ご︑二十年のあひだ隔絶されてゐたコメディア・デルゴラルテに對する好・
奇心ごが︑大きく働いてゐたのであった9從ってイタリア即興喜劇の新奇さが失はれるざ同時に︑槻衆の興味は群し
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く池らいでいった.前枇紀においても一雌のために大きな障碍ごなった言葉の不理解が︑ここではさらに一段ご重大
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フラ.ンスにおけるイタリア人刺問の業紙流︵四○八こ 1111︲111︲Illl剣︲111−川︲11︲l︲︲I︲!IIil︲lIIIl︲ll1IlIIllI1llIIIil1IjⅧIIII1︲I Jffジ
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彦●0﹄開場式の日の減物は﹃幸運の不意打ち﹄︵冒鴇ロロ︒昏気呂冒80回目国︒胃︒厨︒普弓吋胃︶ど題する笑劇で︑コメディ
ア・デル・ラルテの傅統たる︑カヌヴァによる即興喜劇であった︒この開場式には識政公がその愛嬢ペリー公夫人を
作って臨場あり︑観客は殺倒して席を奪ひあふ有様で︑その成功は餘すさころも無かった︒四・○六八リヴルの收入
がよくそれを蜜論してゐる9ごりわけ人氣のあったのはアルルキャン役のトマッサンであった︒かれは二日後に波ぜ︲
られた﹃宮廷逆化師アルルキャこ︵隊貫昌出︒匡鷆︒国号﹄画9日︶においても︑常意帥妙の弊句さ奔放な呼振りご|
によって︑巴里の槻衆を果然たらしめた︒︑ただし大多数の槻衆はイタリア語を解しなかったので︑リコポニは劇の鯉︑1︐0
概をフランス語で印刷して︑姉人客たちに配布させたのであった︒︒−
e〆同年六月一日︑プル寺.Ⅲニュ宮劇場の修復まったく成り︑一座は昔懐かしいこの劇場に移って︑十九年ぶりに齢り
新参の初舞蕊を踏んだ︒・波物は﹃礎せ狂女﹄︵旨3斤2号o鼠︒︶ごいふカヌヴアであった︒
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もマ ゲな隆路ごなった︒一方コメディア・デル・ラル|プそのものも︑既に久しい前から凋落期に入ってゐたので︑槻容の興 り0
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0ザqひDJr︑毎 千筋一律ごなり︑槻客に飽きられるこごになった︒︐イ
|開場後二年にして早くも不況が明内さなった.そこでイタリア俳優たちは雌励を打州するために︑先荻の故智に倣
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﹃って︑イタリア喜劇の特徴を多分にご・り入れたフランス語存劇を上場するこピを恩ひついたのである︒そしてその最
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.初の試みごして選ばれたのはオートロー︵少匡胃画F・Sgl司余︶の﹃ボー︲ル・夕・ラングレ︲︲の難船﹄または﹃新
一一︲たに上陸した女性たち﹄︵胃z匡蔚鳴合勺︒胃営檮︾姿国函冨切・匡伊のロ︒目の唇︒口冨BRo︶三幕河・散文審劇lであ
Cつた︒一七一八年四月二十五日に︑この蒋制は多分の危帆を含んで初淡されたのであるが︑結果は豫想外の大成功で茜
︑ |︑〃︒あった︒これに力を得た一座はフランスの新進作家たちの筆になる新作喜劇を綾友琶上波するこどになった︒マリ
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ヴォー︵冒胃辱画匡浅︶︑サンⅡフォワ︵恕冒?甸○胃︶︑ボワッシーSgの遇︶︑ドリール︵ロ①伊匡&︑フュズリエ弓匡︑農①H︶︑
︲→パナール︵思口胃eもモワッシー︵言gの亀︶︑ドランヴィル︵ロ①冨口ぐ屋③︶︑ファヴァール笥昌胃庁︶︑コレ︵︒○展︶︑ポワン
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︑ ︑シネ亀○ざざの命︶等︑有名無名の作家の名が︑十八枇紀におけるイタリア刺團の供給者這して學げられるのである.
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これらの作家のうち︑塒にマリヴォーごイタリア劇閉どの開係について注目する必要がある匡思ふ︒マリヴす−が
十八世紀フランスに於ける一流里坐側作家であるこざは︑今さも言ふまでもないであらう.女性的需繊細で︑あく
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〃まで心理解剖に徹したかれの作風は︑必ずしも猟人むきざいふわけにはいかないが少フランス喜劇史上におけるかれ︑
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〃少の作舳の猫自性は︑何さいっても相憎高く評慨されなければならない︒このマリヴす−の喜劇作家ざしての才能は専
らイタリア劇関によって作り上げられたのであった.︑
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マリヴナーは一七二○年に︑その虚女作悲劇﹃ハンースル﹄Spp号らをコメディーⅡフランセーズに上減させ︑/
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場に上波させた.前者が失敗に蹄したのに反し︑後者は大成功をおさめた.このこさがマリヴず−の劇作家さしての〃己6生派を決定したの・であった︒かれはそののち決して悲劇に筆をどらず︑専ら喜劇ばかりを書いた9そしてイタリア劇
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︑剛の有力な供給者どなったのである9虚女作以来七筋の喜劇がひきつづいてイタリア劇場に上淡された9.その後はた
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まにコメディーⅡフラ|ンセーズに上淡されたものもあるが︑やはり大多数はイタリア劇場に典へられたのである︒締f
込局マリヴォーの戯曲で脚光を兄たもの三十篇囚うち︑十九筋がイタリア劇場に典へられ︑コメディーⅡフランセーズ■姑
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一波されたものである︒︵それらの大部分はのちにコメディーⅡフランセーズの上波目録に採州されてゐる・︶
︑もコメディーⅡフランセーズは古典主義淡削の仰統を非常に尊亜し︑新風をぜり入れるこさを極度に弊戒する劇場で
〃●あったし︑その俳優たちは常然のこさどはいへ︑自負心滿六で作家たちを兄くだし︑新進作家辿の注文噂とは全く歯
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牙にかけず︑自分たちの忠ふままの解稗によって菰出するのが粥であった︒これに反し︑イタリア劇場は︑フランス︑
J作家の新作品によって新境地を州かうごする立場にあったので︑作家たちに對して雀だ謙抑であったし︑守るべき仲
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フランスにおけるイタリア人削閲の業紙一・七︹四○八一己︐
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.統こいふくきものをほさんざもつてゐなかった.またその蕊風においても︑もごもご身振り表情を主直するこ恒を特
長ざしてゐたのであるが︑不得手なフランス語の科白を袖ふために︑俳優たちの表附は繊細微妙を極めた︒このやう
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な藝風はマリヴォーの戯曲のやうに線のほそい︑迂除曲節の多い戯曲を波出するのに銚へむきであった︒
一座の明星シルヴィアごマリヴォーピの親交も勺マリヴォーをイタリア劇場にひきつけた有力な脈因の一つであつ一可⑭︑︽1イ︐︑︽たに述ひない︒マリヴォーはシルヴィーノにおいて︑自作の女主人公を波ずるに岐も迩儲な女優を發兄したのであり︑
︐︲シルヴィアのはうでも︑自分の蕊礎を十二分に發蠅するに岐も唯はしい戯曲の提供者をマリヴォーにおいて兄いだし・ゞ︲一
︑たのであった︒二人はお互ひに無限の感謝を相手に捧げてゐたのであった︒シルヴ剤アピ親しくなつだのちのマリ
ダヴォーは︑必ずかの女を女主人公E想定して戯曲を沓いたし︑亜要な場量についてはかの女さ合議の上で書いたささ
.︑へいはれてゐる︒︵マリヴォ︲︐ご・シルヴィアピの關係については︑の匡畠ぐ⑦伊胃Hop日具の旨畠ぐ呂閥.忠昌の鼻︑畷・︲||
﹁︒︲
︽呂胃2に詳しい︒︶.雪日﹄︑マリヴォーがコメディーⅡフランセーズのために書きおろした作傲をみるざ︑必ずなにかしらわざさらしいもの℃
または窮屈なものを感ずる︑一言にいへぱ不断着をぬいでよそいきの恭物を着てゐるやうに感ずるのである︒モリェ
||︲岫︲−ル流の線のふさい︑簡明率直な詳削を傳統さする國立劇場の家風に迩應しようどの努力が︑︲マリヴォー凋特の才能﹂〃
︲を封じてしまってゐるのである︒イタリア劇場ごいふものがもし存在しなかったさしたら︑マリヴオーのあの無類の
一・.心理喜劇は生れなかったかも知れない︒
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イタリア劇場はかやうにフランス琴翌両劇を上波するこさによって存練の兇ごほしがついたのであった︒一七一九年
に一座の俳優たちは正式の契約杏に調印し︐利溢配幟︑退職金︑その他經醤上の諾問題について協定した︒その内容︲樫 f一
は概ねコメ︽プィーⅡフランセ−ズの規約に則ったものである︒かくて國立劇場はまたしても弧力な競争劇場の出現を︲見るこきになったのであるが︑擶政公専脇劇州の総統をもつイタリア劇則に鋤しては︑何さも手の施しやうが無かっ
たのであった︒
一七二三年オルレアン公逝去︑さしもの搬政時代もここに終りやルイ十五世の親政が始まった︒イタリア劇團は改︑|
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めて﹁國王專脇イタリア劇削﹂○○日農の︒Ca一国島の︑合詞︒︼号﹄四国︒愚の冒爵目の稚號を許され︑一醐五千リ
ヴルの年金を下賜されるこどごなり︑定期的に宮廷内の劇場に出演を命ぜられた︒︲︐一一
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︑して一座に加へられた︒その後も多数の男女俳優が加入したが︑就中岐も蒋名なのは女優シャンチイー嬢事︑マリーリー
︲Ⅱジュスチーヌ・プノワト・デュ・画ンスレー︵昌鼠のI冒牌旨の博口昌蔚合詞Opo胃畠︶ざ︑男優ジョゼフ︒︑カイョ
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︒︒の①99富︒計︶さの二人であった︒シャンチイー嬢はオ・へラ・コミックの創始渚ざして有名なファヴァール8言:い︲
段目g恩ぐぃ再︶の夫人であるが︑その至藝ご︑その機智E︑そして波測亜拠の愛慾生活Eによって非常に有名である︒
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フランス人俳優ご並んでイタリア人の側でも︑俳優の新陳代謝は行はれた︒しかしここでは枇襲による交柊が多か
ったので︑新らしい名前は比較的すぐないのである︒例へぱ一七一七年には︑有名なドミニック・ビアンコレルリの
子息が︑イタリアから迎へられて初舞蕊を踏んだ︒一七二六年にはリコボニの子息が︑また一七三二年には︑トマヅ
サンの子息が一座に加へられた︒しかしイタリア人側の新人で肢も有名なのは藝名カルラン事︑シャルルⅡアントワ
ヌ・ベルチナッッィ6冨号︲シ貝︒旨③塚昌目§島9周冒︶であった.かれは一七四一年︑︲その常時イタリアにお
ける鋪一流の名優Eして巴里に迎へられたのであったが︑人糞の期待を蕊切るこどなく︑巴里の槻衆の絶読を博し
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だ︒かれは一七八三年に暖するまでイタリア劇場でアノルルキャンを勤め綾けたがb優に先輩ドミニ・ツク︑及びトマッ
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サンを忘れしめるほどの名技であった︒↑−1
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文畢研究館三十四戦一○.︵四○八六︶
一七五二年︑︑かの女は一座に加はってフラミニアの役どころを襲ふこどになったが︑以来一七七一年にいた︐るまで︑
繊人役︑女中役︑百姓娘役なざをつどめて︑熱心な︑良心的な︑達者な藝風を示したのであった︒
カイョははじめ提琴弾きであり︑次いで地方の劇削の俳優となり︑一七六○年にイダリア劇閉に加へられてもはじ
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めて巴里の郷蕊を踏んだのであったが︑淡技に秀でてゐたばかりでなく︑詫樂に長じ︑しかもその朧は雀だ魅力ある
ものであったので︑忽ち巴里劇埋の寵兒どなった︒かれはまた立派な祇交人でもあって︑上流肚交界の人鍼者であつ
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一七一二年︑一七一三年︑一七一三年の三年にわたり︑イタリア劇團は翼のあひだブルゴーニュ宮劇場を閉して︑
|︲ゞサンⅡローラン市場に一出張興行を行った︒サンⅡローラン市場は今日の巳里の束停車場得頤員の号胃伽時︶の地軸に
︽毎年八月九月の雨月にわたって開かれてゐた大市場であるが︑その市場の中には民衆を相手ごする舞蹄や曲藝等大道
藝人の掛小屋があって︑これがなかかなかの呼物であった.イタリア劇幽は夏の一両月︑ほどんど槻客がサンⅡロ1
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フランス喜劇やイタリア喜劇李笹上波し︑蚤た或る時期ぷは劇場を舞踏場に改装して舞踏會を附いたこさもあった︒し ︑
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jかしこの州張興行の企ては絲励所期の目的を逵するこEができなかった︒一一七二四年EサンⅡローラン市場の臨時
イタリア劇場は艤止せられた︒︑
$この事件においても見られるやうに︑イタリア劇場の競零相手はひざりコメディⅡフランセーズだけではなく︑臨
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時市場の縁日劇場︵岸①の昏競胃のいき風目の︶こそ︑最も恐るべき敵であった︒そこでイタリア劇場は上淡種目に多様性
を輿へるこざに腐心した︒大江デイの上淡は十七仙紀においても︑イタリア劇閨の得迩ごするごころであったが︵第
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二千二聯︑拙稲︑第七○頁参照︶十八世紀の師り新参以後はこの伽向はまぜ敦す盛んで︑一流作家の評判作を戯謹
化する所訓﹁書き換へ喜劇﹂によって︑滑糯ど機智どの效果をさかんにねもったものであった︒同劇場で上波したパ
〃ロディのみを集鋒した書物が四巻まで發刊されてゐるのもみてもその流行ぶりがうかがはれるであらう︒P①ぃ憩尉&冨
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込国時冒協○己や一司四騨今︐ぐ巳・︶︑
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︑フランスにおけるイタリア人刺剛の業紙二︵四○八七︶
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女雛研究箙三十四戦一二︵四○八八︶︲
一七四八年に︑ヴォルテールは自作の悲劇﹃セミラミス﹄の︒ハロディが︑イタリア劇場で稽古されてゐるこさを知
って︑その上淡を禁止せられるやう皇后に諦願の手紙を呈上してゐる︒ヴォルテールほどの盛名ど自信とを以てして
も︑パロディによって自作が笑ひものにされるこごは手痛かったのである︒
歌謡ざ舞伽さがイタリア刺閲の有力な特技であったこどは︑言ふまでもないであらう︒縁日劇場どの競稲が深刻琶
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なるにつれ︑この部面の發展が著しくなった︒フランス語害劇の中にも歌詞が挿入せちれ︑併時の名稲による﹁ヴォ﹄−ドヴィル禅劇﹂8日食苛浄箇且のぐ筐のが多くなったのである︒
一七六○年︑.一座はプルゴー言宮劇場を離れなければならなかった︒同劇場の朽應が荘しかったので︑修理のた
めに劇場をあける必要に迫られたのであった︒一座はその間約一年のあひだ︑タンプル大通りao巳のぐぃa号弓の目亘︒︶
にあった︑興行師アントワーヌ・フーレ︵揖昌○旨①3日eの小屋に移った︒
一七六○年五月十日の開場日の減物は︑
︑﹃常世はや鵬ソの技能﹄F弓巳g冨浄旨目︒号︵ポワ粉シー作︶・
﹃プルヴァールの脊﹄唇曽嚴の・骨吻冒昌oぐaの︵ファヴァール作︶
の二筋であった︒興行成絞は上乘であった︒場所の塗った声﹂さが好い結果をもたらしたに逹ひなかった︒また名優力
イョの初登場が人氣を呼んだこさも事賓であった︒
︑責をいへぱイタリア劇場は近年雀だ不振であったが︑この移韓興行が一つの契磯さなって.︲頽勢を挽回したのは幸
運であった︒⑪一毛六一年十月修理成ったブルゴーニュ宮にもぎった後も︑カイョの評判はますますよろしく︑・またラ・
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﹃サルタンの三人の寵妃﹄ぽぃ行目切目冨口2︵ファヴァ﹃︲ル作︶︽
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﹃サンシロⅡパンサ﹄留画go0思口窟︵ポワンシネ作︶/
﹃アネット声﹂ルュパン﹄缶目①胃①計悼号旨︵ファヴァール作︶︑
.等の新作品の成功ざによって︑依然景氣は良好であった︒
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.一七六二年⑮イタリア劇場に亡つ.て一つの大事件が起った︒それはオ・へラⅡ︑コミック劇場の併合ごいふ事件であっ
た︒オ︒へラⅢコミック︵○も骨画loo凰呂⑦︶声︸いふのは︑微時サンⅡジェルマン市場︵﹈画玲○号の︑凰貝1⑦①目9首︶ざサ
ンⅡロ郡︲ラン市場︵﹈画由︒胃の四目︲層貝の貝︶・寮﹂に劇場を樅へ︑︑普樂喜劇を専喪芦﹄して巴里人の人氣を蒐衲ぞゐた劇團
であった.この耐市場の由緒は雀だ古くl前者は十二世紀に測るiそこで興行されてゐた露天劇場は︑フランスに於
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ける雑劇︵庁計冨胃o合輌①日︒︶の描瞭ざして︑非稲に亜要な役目を椎ふものである︒すでに十七枇紀の末に︑コメープィⅡフランセーズは︑サンⅡジェルマン市場の一劇場を︑特椛使犯の理由で破壊させたこざさへめつだ︵ニハ九○年︶9
一六九七年にイタリア劇場が放逐されたのちは︑これらの縁日劇場はイタリア劇場の概客を吸收して︑急激に隆盛ご
なり︑かれらもまたイタリア劇場の後継者をもってみづから任じてゐた9歌庖舞伽の混った喜劇︑これが縁日劇場の
呼物であった︒コメープィⅡフランセーズの座辿は十八世紀に入ってますますその度を加へた︒のみならず︑国立オ
︑ フランスにおけるイタリ・ア人刺剛の業紙ザ一三︵四○八九︶
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〃1.へラ劇場からも特樅を柵にざっての抗議が提出された︒しかし民衆の根弧い哨好を後柵こする縁日興行師たちは︑あ
クたかも不死塒のごさくに︑いくたび禁止され︑腰絶されても︑手をかへ品をかへて刊生するのであった9
これらの縁日劇場のなかに︑︑オ︒へラⅡコミック亡自稲するものが一七一七年顔から存在した︒戒に述べたやうな二︐︐.−
.犬國立劇場の座辿のたぬに︑たびたび朧絶の厄に辿ひながらも︑代交の興行師の才蝿ご努力こによつ電よくオ︒ヘラⅡ
コミックの座名を持練してきたのであった︑一七五二年興行師モネ︵旨︒回国2︶は︑サンⅡローラン市場に立派な劇
場を建て︑一七四五年以來腰絶してゐたオ︒ヘラⅡコミックを再興したが︑果然人鍼沸騰し︑ゞ全盛を練け︑モネは六年
間に六千リヴルの年金を貯へて一七五七年に引退したoそのあどをひきついだコルビ︵ooHg︶ファヴァール等の經誉
!︲者たちは︑一七五八年一月︑オ︒ヘラ劇場琶接価して︑喜劇の中で歌謡︵畠の胃︶を自由に唱ふ椛利を賀得した︒かく
してオペラ刑コミックの隆盛はますます度を加へ︑その基礎も確固たるものごなった︒︑f︾
オ︒へ・ラⅡコミックの全盛は︑三つの特椛劇場にそれぞれ不安を典へたのであるが︑就中イタリア劇場の蒙つた損害
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は大きかった9.もEもどオペラⅡコミックの建前ざする脊樂︑舞伽い︐9群劇なるものは︑イタリア劇場の特色Eするさこつ弓であって︑かれらがイタリアに蹄図してゐたあひだに︑洲はぱお株をこられてしまった形であった︒先にも述・
べたやうに一七六○年頃︑イタリア劇場がひどい不振に陥ったのも︑一つにはオ︒ヘラⅡコミックどの競稲に破れたた
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めであったのである︒︲
一堂ハ○年以来︑イタリア劇場の經醤監将を式部職蛍族たちから委ねられた宮廷宴遊斐奉行︵月月且画鼻骨目g匡
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且畠冨︶のラ・フェルテ︵層浮景︶は︑四十餌リヴルに近い負依を負ったこの劇場の窮境をも如何に打開するかに
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︑︲オペラⅡコミッ︑クに支挑ひ︑かつ同劇場がオペラ劇場ご契約してゐた椛利金の納付も引きうけた.同時にオペラⅡ.
ゲミックの主だった俳優連はイタリア劇場に迎へら恥た︒
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イタリア劇場はこの賢明な策によって︑妓も恐るべき競争者オ︒ヘラⅡコミックを解消させ︑同時に一座の陣容を弧翁P化するこさができたのであった.ごはいへこれは主として名義の上の︑柵面の上の成功にすぎなかった.ざいふのは︑︲クヶ
後に述べるやうに︑劇幽の蛮繼さしては︑併合され︑吸收されたのはイタリア劇幽のは︾Dであって︑オ︒ヘラⅡコミックはこの機會によって︑堂黙ざ國立劇場の舞牽を乗取った絲果になったのである.
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・・・一七六二年二月三日︑新装のプル︑コーミ宮劇場で併合後の初淡が華共しく行はれた︒
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﹃千応の一失﹄6回国.§且目鼠号8具︶lスデ︑︲ヌ作︑モンシニー作曲.
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の二筋が初斌の淡物であった.興行成紘は極上であった.この好況は翌年まで綾いた.一つには一七六三年︑ォ・ヘラ劇場が炎上したため︑同座の槻容がイタリア劇場に殺倒したためでもあった︒
しかし一七六四年以後は成絃はまたしても下り坂どなった.一七六八年には不況が深刻になった.一座の俳優たちノ
〃はこの不成紘の原因を︑フランス垂翌卸劇の不振に蹄し︑その朧止を請願した奄査際︑同座のフランス語喜劇は既に久
しい前から淡剛が粗略で︑從って槻衆の人氣も乏しかった9そこで一七六九年の復活祭を期さして︑フランス語喜劇
フランスにおけるイタリア人削側の業紙一五・︵四○九己
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に出波してゐた俳優たちに勇退の命令が下されたのであった.フランス害削の衰運に反し︑イタリア喜劇は一七六二年から一七六四年にかけて︑イタリア作家ゴルドー員Qo丘︒凰︶
の新作品のおかげで︑人氣を直りかへしてゐたeゴルドーニの後には︑俳優コルラルトS貝︒旨の昌画氏巨︒﹄島鈴︒︒辰冒︶
が︑澗刺的な作冊を書いてイタリア審劇の命脈を保つこ芯に貢献した︒
オ︒ヘラⅡコミックのはうについては︑その盛運は時ごさもに高まるばかりであった︒︐作家Eしてはシロの①呂目Jj
園く画景目月日○日の﹈︑︑︒§旨興国o昌口の合等の人糞が主宏︶して脚本を提供し︑ロ巨目ゞ弓ロ︼臣○吋・旨○画鯛﹄ぬ畠﹀o島q等の
作曲家たちが︑作曲を推當したのであった︒
ポーマルシェが自作のオペラⅡコミック﹃セヴィルの理髪師﹄をイタリア劇場に提供して拒絶されたのは︑一七七二
年のこEであった.その結果ボーマルシェはこの作齢を喜劇に改めたのであった.
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Jブランス喜劇がイタリア劇場から削除されて以来︑約十年のあひだ︑同座はオペラⅡコミックざイタリア害刷さを
交交減じ綾けたのであった︒ざころが一七七九年にいたって︑コメディⅡフランセーズのほかに︑いま一つフランス
喜刺専門の劇場を開設してはEいふ意見が︑文型で弧く唱へられたQここに於てイタリア劇團は︑またしても新しい
競争相手が現れては大愛だをいふので.︑慌ててフランス喜劇を上淡目録に加へるこ這這なつ●たe
ここに運命の皮肉さを畠ざまざご見せる事件が起った︒ぞれは観衆の嗜好の鍵遷の慌しさ︑頼み難さを如蛮に示す
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・・事件でもあった.フランス喜劇の復活をみた一七七九年の翌年に︑イタリア喜劇が完全にイタリア劇場から除去され
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︲たのであった.十年前に一時人莱の復活をみたイタリア喜劇も︑時代の念調な歩みにつひにさり唆されなければなら︑
なかった︒名優カルランの至藝さへもや時代遅れの感を免れなくなった︒一七八○年の復活祭を磯さして︑同座のイ
タリア人俳優は全部菟職どなり︑二世紀にわたってフランスの首都巴里に牢同たる地盤を占め︑上は王公貴人から心︲
︒B︑︑下は町人僕郷にいたるまで︑老幼男女を間はず︑フランスのあらゆる・祇會暦の人濯に︑無邪氣な︑奇抜な︑そして蕊
一︾一術味の蝦かな喜劇を見せて︑フランス人の淡削の與へ得ない澗得の感興を典へてぎたイタリア喜制剛は事変上ここに・
賎減したのである.私どもの記述︑俄然ここで止まるべきであるが︑イタリア劇場のその後の成行きについて︑棚単
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/に記しておくこごはじ必ずしも蛇足ではなからうど恩はれる︒
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イタリア俳優を兎職したのちの劇剛は︑歌手ざ俳優ざを兼ねるフランス人男女優をもって︑新たな一座が細織され
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一︐fコミック芭公孵せられるこごになってゐる.同時に新たなる地所を指定して︑劇場を新築す︲べきこEが定められた︒︒I
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その地所さいふのは︑シ暹・グングン大通りso口目①ぐ胃旦号﹄o冨扁︑CQ慶具旨︶に面した︑シコワズール公邸の庭︲
剛の跡であった.一七八三年四月二十八日︑一座はプルゴーミ宮を拾てて新築の劇場に移った︒新劇場の左泊を通・・
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−︐〃.︐ろ街路の一つはマリヴォー街諺一つはファヴァール街ご命名された︒またショセ・ダンタン大通りは︑以後イタリア人・
大通り︵智巳のぐ画艮月の冒扁ロ︶ご改名された.イタリア人ざはイタリア人俳優の意味であるこ這は言ふまでもない
iであらう︒
フランスにおけるイタリア人劇凹の業状一七︵四○九一己
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オペラⅡコミック劇場が今叶のごどき上淡諏目を確立するまでには︑その後幾多の試煉︑・愛遥避經なければならなか
ったeし蝕しそれに言及す︾・こどは唯今の私ざもの課題のほかである︒オ・ヘラⅡコミックのその後の生涯は樂削史の
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領域に脇するからである︒↑︾
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