九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
フランスにおけるイタリア人劇團の業績
進藤, 誠一
https://doi.org/10.15017/2556561
出版情報:文學研究. 32, pp.49-72, 1942-12-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
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私は以前本誌に﹃コメディⅡフランセーズの沿革﹄と題して︑十七世紀における︒くりの主な劇場の沿革と︑これらの
劇場が統合せられてコメデ靴Ⅱフランセーズといふ國立劇場になるまでの經緯を略記したことがある︒︵文學研究︑第
十四獅︑第十五輯︒︶私はその中で次のやうなことを書いてゐる︒
〆﹁從來イタリア人俳優︵肩8言段旨一m冒胃旨︑︶に對し︑フランス人俳優︵雨8︼愚農gm坤自§い︶と稲すべきも
のが三團艘︵後には二團冊︶並存してゐたのであるが︑此の時以來一剛鰡となり︑從ってフランス人俳優の名稲
が直ちに併合後の新劇閏の俳優を指すこととなり︑フランス人削剛︵旨8ョか島の陣営目の︒︶なる名稲もこの時以
來始めて固有名詞的意義を持つこととなったのである︒コメディⅡフランセーズが正式に成立したのは蜜にこの
時である︒今日もなぼ同劇場の庇告ピースプ画グラム︑書翰菱等に用ひられる創立期が一六八○年となってゐるの
・はこの故である︒﹂︑
フランスにおけるイタリア人削圃の業紙四九︵三七五三︶
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イタリア人劇團の業績 プランスにおける !
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パリ市にある錐々たる國立劇場がフランス人刺凹といふ公稚をとったについては︑これと對立するイタリア人劇幽
といふものが︑その貫職において︑その人氣において︑フランス人劇圏と匹敵するものをもつてゐたことが推察せら
/れ得るであらう︒フ︸フンスの首都においてフ|フンス刺圏と人氣を争ったイタリア人別圏︑これは淡劇研究家の興味を
葱く對象であるに述ひない︒その上この劇幽はモリエールの率ゐた一座と同一の屋根の下に住んで︑交替川波といふ
ことを長い年月の間行ったのであった︒イタリア削囲とモリエール一座との間には鴬然藝の上の交流が行はれたので
あった︒そればかりではない︒モリエールはイタリア劇副の名俊スカラムーシュG3曽冒︒二o胃︶の門に入って︑表燗
や所作の術について傳授を受けたとさへ言はれてゐる︒
モ・リェールの時代まではイタリア刺副はイタリア語の芝居でパリ人を喜ばせてゐたのであるか︑モリエールの死後
即ち十七世紀の雌後の四半世紀以後には︑この馴囲はフランス作家の作ったフランス喜劇を上波するやうになった︒
ここに︸5削閉の存・在の意義に劃期的の菱化が起ったのである︒イタリア劇場は黄質において第二馴立劇場となった
夕のである︒ルニャーい海月一国且︑マリヴォー三目弓騨言潔の如きモリエール以後の特名な喜刺作家たちが新進としてそ
/の作品を上波せしめたのはこのイタリア刺場であったのである︒殊にマリヴォーの如きはこの劇剛によって姑めてそ
の作品の腫価を發抑することかできたのであるし︑刺幽もまたマリヴォーの作品によって大いに猫孵の波戯を誇示す.
もることができたのであった︒・
このやうにイタリア喜劇剛はフランス淡劇史上に大きな役割をつとめたあげく︑十八世紀の後半において消滅して
しまったのであるが︑しかも劇場としての由緒は今日のフランスの第二國立歌劇劇場であるオペラⅡコミック劇場に
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傳はってゐるのである︒同劇場を凶んで今もなぼイタリア人大通冒巳のご圏己・号︑胃冨扁︒mやマリヴォー街團扇号 卜
冨昌一菖貝があるのはこの由緒を物語ってゐるのである︒
私は左にイタリア劇團のフランスにおける約二世紀間の業絨をたどってみようと思ふ︒これは前に申した拙稲﹃コ
メディⅡフランセーズの沿革﹂の補迩とも︒なるべきものである︒
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かやうに二世紀の永きにわたってフランス人に愛好せられ︑フランス淡削史の上に大きな足跡を残したイタリア人
劇幽といふのは︑どのやうな性格の劇を波する俳優たちであったのか︒私たちはまづその鮎を明かにしておかなけれ
︑
ぱならない︒それについてはルイeモラン旨昌切三○盲員の﹃モリエールとイタリア喜刺﹄富農畔⑦昇崗8芦忌日⑦5房目のの中に詳かに説いてあるが︑私は左にその概略を摘録しておかうと忠ふ︒
〆元来イタリアの喜劇は劃然と二つの範鴫に分たれる︒その一つは斌文または散文で書かれた︑完全な脚本をもつも
ので︑いはば正式喜劇とでもいふぺきものであり︑いま一つは大衆的の︑即興的のもので︑コメディア・デル・ラル
①0 テ8ヨョ且旨号弓曾鼻︒︵藝能の喜劇とでも課す管へきか︶と呼ばれるものである︒ノ
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正式喜劇は十五世紀に剣められたもので︑この時期以後に著名な作者と作紬とをもってゐる︒就中シ己︒ぃ8︶国g旨昌︾
昌嘗︑豆圏ぐ区﹀屍馬掛昌︒︶国の肩︒シ愚冒︒︾国騨冨︒①い︑c弓シ一号目︾胃§急8己︒庁の管皆昌一︺匙9門︒等が主要な作考であった︒
これらのイタリア喜劇の特色とする礎は複雑怪奇・准筋の椎想とやや放縦に流れがち・なその對話の魅力とであった︒
一
フランスにおけるイタリア人刷剛の業紘五一︵三七五五︶
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文學研究第三十二鱒五二︵三七五一○
垂とれに對しコメディア・デル・ラルテの方はいつの時代のイタリアにも存在したと老へられる︒︐この極の喜劇の主
な役々の姿はボン・ヘイやヘルクラヌムの壁識に兄いだされるし︑以来文塾復興期に至るまでの塗遜は中祉駐通じてこ
れを跡づけることができるのである︒十五・士ハ世紀においてこの喜劇は非常に進歩したものとなり︑正式喜劇と領
噸するほどの内容をもつに至り︑正式喜劇よりむしろ多くの永練的性格を創造し︑民衆のなかにより大なる印象を礎
し︑・全欧洲に杵通するやうになったのである︒・
このやうな即興的な喜劇形式が猫リィタリアにおいて發生を見たことについては︑イタリア図民が他のいかなる図〃
民よりも身振りの能力︑俳俊的技能に秀でてゐたことが最大の理由であったものと老へられる︒またイタリアの肚會
が淡刺およびその開係者に對し︑他のいかなる牡會よりも理解と尊敬とをもつてゐたことも理由の一つに述ひないで
あらう︒
この喜刺形式が螺天舞台︑縁日の見泄物︑謝肉祭の假装遊び等から出發したものであることは疑ふ餘地が無い︒道
化師や仮面満が創り出した人物の典型が残存し︑普通的になったのがこの喜劇の主な人物である︒しかしまた笈祇會●
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の人物を活筋して典型としたものも少くはない︒例へぱドットーレ己︒庁目⑥名で代表される術畢者の典型や︑パンタローネ國冒区︒弓のといふ虚榮的で人の口車に乗りやすい老商人の典型の如きは︑ボ江1二アの如き大學都市やヴ聿一一ス
の如き商業都市でモデルはいくらでも提供せられたに連ひないのである︒このほかカピターノ9冒営○は粗黎で空︑
いばりをする軍人であり︑ザンニ冒冨三とはあるひは狡猪な︑あるひは晴蛾な下僕であった︒このやうな典型がコメ
ディァ・デル・ラル|ブを織成する主要人物であり︐これを補ふために男女の獄人の役があり︑またザンニと對となす
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これらの人物のほとんどすぺては誇張せられた表惰の假面をかぶり︑・服装も思ひきりグロテスクなものを用ひた︒
しかもその假面や服装に役盈の固有の特徴が明示してあるので︑一目してこれを見わけることができた︒且つ各の人︽|︲
物によりその性格なりその役どころは豫め想像することができたのである︒即ち俗俳優は將棋の駒のごとく独め定め
られた役をもって淡戯を行ふものであった︒
かやうに人物の役凌により性格が定められてゐた上に︑名の俳優は一つの役に專脇してゐたのである︒即ちある一
座でカピクーノを勤める俳優はただ一人であり︑彼が舞台に現はれる時はいかなる喜劇においても必ずカピターノの
役であり︑その性絡は必ず蔭辨慶の軍人である︒この習俄は俳優たちが殆んど即興的に演戯することを立前とするコ
メディア︒一プル・・ラルテにおいては雀だ必要なことであった︒名俳優はその専臨する一つの典型に全生活をうちこむ
︑
ことができたのである︒
しかし喜劇の椛成が複雑になるにつれて︑全然即興のみに頼って波戯することは混乱を招くおそれがあった︒そこで
↓前もって刺の主題とあら筋とを書いておく調恢が始まったのである︒この筋書をカナヴァヅチオ8目く月goと稲した︒
俳優たちは春蕩の前にこの筋ぷいを腹に入れておき︑あとは自分の思ひつきのままに對話なり演戯を進めてゆくのであ
った︒さらにかれらの即興的渡戯を助けたものはかれらの優れた身振り︑表情であった︒かれらの多くは一流の輕業・
師であった︒かれらの波戯の大半は科白ではなくて身振り表怖であったのである︒殊に﹄画風と稲せら煎る道化的の
小一身振りの数糞が挿入せられて︑観客の笑ひを挑發するのであった︒
フランスにおけるイタリア人削閲の業統五三g一七五七︶
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| ゴメディァ・デル・ラルテが吸初にフランスに紹介せられたのは︑記錐の上では一五七○年にカトリース・㈱ド・メ
ディシス︐昏凰どの号宮殿目ぃ皇后に招かれて︑パリで撒回の放出を行ったイタリア人劇圏といふことになってゐる︒
0しかし整備した一座としてフランスに興行に來た最初のものは︑ゲロージ胃きい一と稲する俳優圏であった︒ゲロージ
といふのは﹁人を悦ばすことを切願する者﹂といふ意味のイタリア語である︒この一座は一五七六年にアンリ三世に招日
かれてブロワの國會国胃の恩忌日昌謝の餘興として興行し︑後・ハリに來てブルボン宮国黛の国の胃二号っ国の中のプティⅡ
ブルボン劇場宮の農①号關貸l冒員宮︒において公演することを許された︒この一座の好評は非常なものであったの
丈學研究錐三十二鱒五四g一七五八︶
要するにコメディγ・デル・ラルテは内容として渡削の原始的段階の性格を保ちながら︑その表現形式においては
練睡の極ともいふ︒へき完成の庇に逹してゐたのである︒
この身振りを表現の主艘とするといふ特色こそ︑コメディア・デル・ラルーアが︑ひとりイタリアにおいてのみなら
ず︑フランス︑イスパ一ァ︑イギリス︑ドイツその他全欧洲の諸図において鑑賞ぜられ愛好せられた郡山の弟一であ
らう︒この喜劇形式においては言諦の必要があらゆる方法で妓小限度にまで縮小せられて居るので︑外固人の理解を
妨げるものが極めて少いのであった︒しかもこの淡戯はたやすく外國の俳優にまねられるものでなかったので︑いつ
までもイタリア人の特技として存在したのである︒フランスにおけるイタリア人刺囲の永い存綴についてもこの鮎を
想起すべきである︒
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でパリに在ったフランス人劇幽は脅威を感ぜずには居られなかった︒僻時パリにおける淡刺興行の猫占椛洋主室から
賦與せられてゐた受難劇組合﹄圏8二陣農の烏宮冒唾隆︒コは︑勅許壯を楯にして抗議と申したてたので︑ゲ腫Iジ一座
は一五七七年の秋︑アル︒ブスを越えて鮎幽してしまった︒
ゲロージ削闘は一五八八年︑プロワにおける筋二回の國會にも招かれて来たが︑ギュィーズ公の昭殺等ただならぬ政
争の望行に恐れて早糞退散したのであった︒次で一六○○年アンリ四世がマリー・ド・メディシスz賢一の1の富農g沈
と結嫉するに當り︑イタリアから優秀な劇捌が招かれることになり︑ゲロージ制圏がま土してもその選に入ったの一で あった︒一座は第一回第二回の來淡の・時と同じく︑ヌラミニオ・スカラ国画目三cm9−餌︵蕊名国営﹃ご︶といふ名優を座
長としてゐた︒一座は訪佛のたびごとに座組みを新たにしてゐたが︑第三回の来演の時のごときは一流の名優を選り
︲すぐって堂たたる俳優陣を形づくってゐた︒就中カピターノ役のフランチェスコ・アンドレィニ蜀国二8銅8シ豆鼠ョと
その妻で一座の明星であったイザベルラ・アンドレィニ胃ぃ号の冒皆丘風己とは有名である︒ィ・ザベルラは美貌で︑貞
″淑でしかも閏秀詩人であったが︑イタリアにおいてもフランスにおいても︑女優として享受し得る雄油の尊敬と渦仰
とを一身に集めたと言はれてゐる︒
さてこの頃︑例の受難劇組合はその所有制場であるブルゴーニュ宮刺場﹈①二言職︽﹃⑦︹一の﹂出動臣︹一の国︒冒習習旬を他の
フランス人削閲に貸與し︑興行樅と麓貨料とを合せて・一間額の賦金を徴收してゐたのであるが錘この時ズルゴーニュ宮に
採ってゐたフランス人削倒はイタリア削則の退去を要求することなく︑フランス削圏と交替に出城することを承認し
たのであった︒これが先例となり︑爾後來佛したイタリア人削剛はいつもフランス人刷囲と協調して交巷出城を行つ
フランスにおけるイタリア人削川の業統五五︵二一七五九︶
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文畢研究錐三十二稗五六s一七六○︶
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たのであった︒︲.・
ゲロージの座長であったフラミ一オ︒スカラは名家の生れで敦養のある人物であったが︑この一座が上瀕した.悪劇の
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カヌヴァ8.2四m︵カナヴァッチオをフランス語でかく言ふ︶をまとめて刊行してゐる︒色胃の旦亀号胃甘与畠の﹈・息胃⑦mの二︲
鼻﹄ぐ⑦○ぐのHo罠口凰nHの旦旨︼昂no目胃四︾ず○m向い制no冨①曾騨函甘四︾ユーご涜騨︺己g﹈畠二四己冒頭5旨昌尉︾︑no目己○牌の包縛司営言冒ざのQ戸蚕
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斤旦①斧︒固いa︒︾8目8旦巴ぃ胃の己の︑︑巴砲.目8gご凶員︒扇.冒ご庖冒の目.息亘・︶これらのカヌヴァは對話を全然省略し
Lた簡雌なセナリオであるが︑これによってゲロージの時代のコメディァ・デル・ラルテの輪謹を窺ふととができるの
である︒
︑喜劇は悉く三幕ものである︒場所はイタリアの主要都市ローマ︑ヴェニス︑︑フロレンス︑ナポリ︑フェラーレ︑ベル
ーズ︑パルマ︑・ヘサロ等である︒舞台面はた墜﹂い町の四辻のやうな所で通行のできる街路が︵詳割だけの街路でな
く︶三つ︑︵時には二つ︑また一つのこともある︶傾斜をなしてしつらへられてある︒人物の数は普通土一人乃至十五
0人であって︑それが幾組かの家族的集團に分れてゐる︒例へぱ︑
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といった工合である︒これらの家族群のほかにカピクン9宮言三︵カピターノのフランス名︶やドクトゥールロ︒§員
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︵ドットーレのフランス名︶とその從侠とは遊盤の役をつとめるわけである・・・
︑これら2昔劇は悉く懲愛の為藤を主題としてゐる︒他のいかなる別棟式にもまして︑コメディァ℃デル・ラルテは
懸愛に重要性逓興へてゐる︒劇の進行は専ら懸愛を動機としてゐる︒しかもその獄愛は畷艤も煩悶も無い︑率直で赤
●裸盈な懸愛であるoゲロージの喜劇には祁岱淫狼な場而が少くなかった︒しかもゲロージの上波したものはコメディ
アoデル・ラルテとしてはこの鮎において非常に改良が加へられ︑浦潔になってゐたのであるから︑他の一般の喜劇
については想像以上のものがあったであらう︒後に十七世紀の経りにイタリア人削幽がルィ十四枇の理心諒にふれて追
放の憂き目をみたのも︑この黙が大きに闘ってゐたのである︒:
さてゲロージ刺圏は三年の間パリに滞在して王室と市民とを喜ばせたのち︑イタリアに蹄つた︒その蹄途名女優イ
ザ︒ヘルラはリオンで客死してしまった︒これが原因となってさしも名商かつたゲロージ劇關も解散してしまったので
あった︒
ゲは1ジ劇閏に次いでフランスに關係の深かったのは︑コミキ・フェデリnつ目営司巴呂︵忠蛮なる俳優閥︶と稲する
一座であった︒この座の座長はイザ尋へルラ・アンドレイニの息子で︑ジォヴァンニⅡバッティスク・アンドレィニQo−曽目︐
團蔑吻冨シ冒骨の目といふ︒ゲロージ一座でレリオ層冒の役名で若男の役をつとめてゐたが︑ゲローーン解散の後その
妻と二人で一座を呼號し︑コミキ・フェデリ淀組織したのであった︒この刺囲はマリー・ド・メディシス皇后の招恥に
よりニハ一三年にパリに來り三ハ一八年まで滞在した︒そしてプルゴー−1宮にフランス人削圏と交替に出放し︑また
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フ|フンスにおけるイタリア人劇側の誰紙五七含毛六己
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文學研究節三十二叫・五八9毛六二︶︲
宮廷で開波することもあった︒次に一六二四年にもコミキ・フェデリはパリに來波し︑翌年まで冊まった︒仙
しかしコメディァ・デル・ラルテはフェデリ削則の時代には既に衰退期に入ってゐた︒荒唐無濡な︑突飛な筋が大部
分を占め.奇怪な考案や︑からくりや︑華既な見せかけや︑唱歌や一昔梁が主位を占め︑從來のイタリア喜削特有の滑
稽的才能に基く巧妙な工夫が雌倒せられてゐた︒
コミキ・フェデリについでは︑二コ画・熱ハルビェリ目8旨團﹃屋:︵藝名ベルトラーメ厚胃騨冒の︶の一座がフラン一#
スで人氣を沖した︒彼の役どころであるベルトラーメといふのは︑家父か亭主の役であるが︐在米のパンタロン︵パ
ンタローネのフランス名︶の役よりも現蛮性を漁し︑複雑な人間味を加へた性格になってゐた︒このやうにしてコメ
ノディア・デル・ラル|プの固定的人物も時代とともに少しづつ進化し︑人間的になっていった︒このベルトラルメによっ
て︒メディア・デル・ラルテは失ひつつあったその本質を一時回復したといはれる︒彼は他の優れたイタリア俳優と
おなじく作者を縦いてゐたが︑彼が即興的に作って上演させ大好評を博した喜劇を︑後に對話を誓言一加へて刊行した
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・のが︑有名な冒愚ぐ2●鼻︒︒ぐ閂︒呼騨弓冒Ca唾冨昏算○の旨の恩の畠二○弓曽農冒さ︵迂悶春︑または︑スカパンは常てちがひノ
メッズタンは大苦しみ︶である︒この喜劇は一六二九年にトリノで︑一六三○年にヴーーーースで刊行せられた︒モリエール
が後にこれを嵐似て周8屋目・巨爾9国司の︲骨の§︵粗忽群︑または︑樹てちがひ︶を作り︑パリのプティⅡプルボン
劇場で大常りをとったことは周知の事笈である︒
さてベルトラーメの一座がフランスに來淡したのはルイ十三世の治世︑即ちリシュリュー枢機官の宰相時代であっ
たが︑この國王と︑この宰相とが相ついで殻し︑幼王ルィ十四枇の時代となり︑イタリア人マザランョ騨詞謹弓旨が抜擢せら
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れて宰相となるに及んで︑イタリア人劇鬮は満堂とフランスに入り込むやうになった︒ニハ四五年に非常に優秀な多人
/数の一座がパリに来た︒座長はジウゼッ・へ︒ピァンキ9房の層の国圏冒c三といひ︑カピタン役でスペッッァフェル︑己の雨園冒.
と名乗ってゐた︒一座はプ|ブイⅡプルボン劇場に擦ることを許された︒この一座で第一の役肴はティ・へリオ・フィゥレ
ルリ艮胃﹃ざ国員の罠であった︒彼の役はスヵ|フムッチァ砕曽.冒二§勢であった︒これはナポリ風の浮浪刺客の典型
で︑空いばりをするが臆病で︑在来のイスパニァ型のカピクンより意氣地がなくまた威厳もなかった︒その服装は頭
夕旬
から足さきまで黒一色であった︒この俳優はコメディァ・デル・ラルテを通じて節一流の名優であったと言はれるが︑
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フランスに滞在すること久しく︑ルイ十四世の寵愛ひとかたならず︑パリ人の敬愛をうけてゐた︒それだけに彼をと︑
︐かこむ秘話傳読も少くない︒モリエ︑1ルがスヵラムーシュ︑3一・四三つ二号の︵スヵラムヅチァのフランス名︶の門を敵
夕 いて表惰術の教へをうけたといふ話は有名である︒.・
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ル︒プランジェ・ド・シャルュセーFの国○己謹︒晩の嶽号o冒旨晩曽︾︑がモリエール誹誘の目的で答いた﹃祁經病みのエロ︑
ミール﹄国︒g胃ご層g三島@の節一幕︑第三景に次の一節が見出される︒ ︑
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フランスにおけるイタリア人削剛の業紙五九︵三七六三︶
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幾百度となくくり返してやってみるのです︒ との偉大な道化師の大きな生徒は︑ 顔左ゆがめたり︑へんな恰好をしたり︑澁面をつくったり︑Q そこで︑鏡を手にもって︑︐名人を前において︑︑ ︑. ︾・有名なスカラムーシュのところへ朝に晩に出かけるのです︒︲
柵いやつめが︑こんな大それた計搬をたてて何をするでせLク? 人を笑はす術の名人になりたいと思ひます︒.⁝・⁝.例へばエロミールは︲/
〃次にこの詮を裏書きする材料として鈩畠号9.m冒昌己.の著した﹃スカラムーシュ博﹄のスカラムーシュの肯像の
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下に彫られた四行詩があげられる︒︑
︑︑黒偉冒︑q①noご詠旦蔚回.︑
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この尚名な喜劇俳優は
その塾術の至妙の域に達した︒
彼はモリエールの師匠であったが︑
自然こそは彼の師匠であった︒
さてニハ四八年からニハ五三年にいたる時期は︑かのうぼンドの内乱の時期であって訳マザラン宰相が蚊も不人氣
であった時代であった︒從ってイタリア人刺幽もパリで興行逓練けてゆくことはできなかった︒しかし内飢が平定しも
てマザランの地位が醤に倍して壷固となると同時に彼らはフランズに引返して来た︒ニハ五三年八月十日にイタリア
人劇囲が︒フティⅡブルボン劇場を開いたのである︒この一座の顔ぶれはスヵラムーシュを始めとし前記の一座と略ご同
様であった︒彼らは昔にまさる人氣を得てパリに定住した︒この時代のイタリア喜劇の人氣は非常なものであった︒
イタリア俳優たちは劇場で客を喜ばしただけでなく︑諸方に招かれて得意の淵稽演戯を菰するのであった︒このやうりAU
な人氣であったからコメディア︒デル・ラルテの人物や場面か會話の中に引朋せられることも杵通であった︒
この一座がフランスで上狐した喜劇の中で孵華すべきは胃戸︑c二く冒さ巳﹄︶冒国.︵石の容人︶であった︒これはドン・
ジュアン劇とじてフランスで波ぜられた簸初のものである︒イスパニア︲の古い偲説が十七世紀の初頭罠刷︒堅の畠︒旨P
によって劇化せられ回国胃旨go境1の︑2昌曾︺8日巨竺且︒:一︶芦の脅騨.︵セヴィールの誘惑者︑または︑石の客人︶となった︒
これがドン・ジュアン劇の濫脇である︒この戯曲がイタリアに渡り︑Q8習冒及び○罠冒●8の胴作家によってほとん
フランスにおけるイタリア人削囲の業紙六一g一七六五︶
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・一六五八年十月二十叫日︑パリのルーヴル王宮内の吹間で︑王弟殿下専脇劇幽と稲するフランス人の一座が︑國王
並びに廷臣一同の御前で︑晴れの舞台を踏んだ︒この一座こそ過去十幾年の・水い年月︑田舎廻りの旅役者の一座とし〃・
て︑辛苦の中に墓を磨き︑結束を固くしてきたモリ︸−−ルー座にほかならなかったのである︒天魔劇の成紙は上糞で 0
文學研究館三十二岬喜一︵三七一全c
ど同時に別々に繩案せられて正式喜劇として上演せられた︒コメディア・デル︒ラルテの作考はさらにこの正式喜劇
カヌヴア・の主題をとって筋沓を作った︒パリのプティⅡプルボン劇場においてイタリア人刺幽が演じたドン・ジュアンはこのセ
ナリオによったのである︒とのドン・ジュアン劇はパリにおいても異常の評判を呼んだので︑忽ちに追随新を生じた︒
三ハ五九年にはブル︾コーニュ宮劇場がヴィリェぐ旨昌吻の佛諜による一石の饗宴﹄胃甸の冒烏国の胃︵石の客人が石
の蕊宴と誤認せら航た︶を上演したし︑王ハ六一︲年には一アアートル︒ド・マドモワゼル︵との劇場はこの時刺始せら
れたので妙るが咽もなく消滅した︶がドリモン︼︺c制冒c冨澤の同じ題名の喜劇弁f淡し︑雨者ともに大成功であった︒
︵これらの佛讓はいづれもQ与自﹇・のイタリア脚本によったのである︒︶モリエールも遅ればせながらドン・ジュア
ン劇の流行に刺枝せられ︑自ら華淀と2﹂凋特の脚本を響きおろし︑烹盈へ五年︑パレⅡロワイャルでk波したので
あった︒
︑その後ドン・ジュァン傳読がフラン一︿においていかに多くの戯曲︑小説の主題になったかは周知のことである︒しか
しフランスにおける最初のドン・ジュァン劇上淡の功は右に記した通りイタリア喜劇圏の占めろところである︒
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になった︒その徹時は未だ毎脚公洩といふととは行はれ歩︑並の日○のm宕昌ぃ・﹃&目胃砿︶即ち火︑金︐日の三円に
公波するのが例であった︒︵毎日公淡の例は一六八○年から始まってゐる・︶並の日は宮廷と市民との智俄上︑観劇に︲
適する日が選ばれてあるのであるから︑別の日に公渡することが不利なのはいふまでもなかった︒その上モリエール
一座はイタリア人削圏か︑劇場の修理改装に愛した金の袖侭として一︑江○○リーヴルを支挑はいばならなかった︒
しかしモリエール一座とイタリア人劇剛との勢力開係はその後間もなく逆になってしまった︒モリエール一座はそ
の後めきめきと変り出していった︒閣王の愛願も日友深くたった︒イタリア人削凹は一六九九年にパリを引きあげて︑
ひとまづ故幽に師り︑三ハ六二年にほとんど前と同じ顔ぶれで戻って来た︒この時にはモリエール一座は既にパレⅡ
ロワイヤル劇場に移って並の日の興行を行ってゐたのであるが︑イタリア刺剛は王の許を得てモリエール一座と交亙
にパレⅡロワイャル劇場に出淡することになった︒しかしこの度はイタリア人たちが別の日をとらねばならなかった
し︑その上前にモリエールから受けとった一︑五○○リーヴルの補恢金を返さぬぱならなかった︒
この後モリエール一座とイクリア削凹とは絡始凹滿な交替興行を綴けていったのであった︒一六七三年にモリェー
フランスにおけるイタリア人削剛の誰競六三︵三七六七︺
あった︒翌日早速プ|秀Ⅱブルポン劇場においてイタリア人刷團と交互に出城することを許されたのである︒しかしイタリア人削圏はすでにヱハ五三年以来この劇場に定住し︑國王の年金を受け︑パリ人と深い馴染みをもってゐた︒それにひきかへ︑モリエール一座は地方においてこそ相當の睦名を得てゐたとはいへ︑パリの棚衆にはまったくの初對面といってよかった︒宮廷との縁故も王弟専脇といふにとどまり︑至って戦り少いものであった︒そこでモリエール一座はイタリア喜劇が公淡を行はない別の日○のいぢ日●叩の汽可鯉︒a冒騨胃吻︶即ち月︑水︑土の三日に出城すること'’
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文學研究第三土一脚六四合一七六八︶
ルが残し︑その後一座がパレⅡロワィャルを追はれてゲネ零コ−劇場に移った畔にも︑イタリア劇剛はこれに随伴して
ゲネゴーで交替出演をすることになった︒一六八○年に勅令によりパリにおけるフランス人劇幽の統合が行はれ︑ブ
ルゴーニュ宮の一座がゲネ準コーの一座と合併して︑唯一の國立劇場コメディ.Ⅱフランセーズを形成した︒この時からパ
リにはコメディⅡ一/ランセーズとコメディⅡイタリェンヌとの二大刺圏が對立したのであった︒そしてイタリア害刺囲
は無住となったブル顎コー−1宮劇場に移って︑ここを根城とすることになった︒以後一六九七年の追放まで一座はこ
こに定住したのであった︒
これよりさき︑モリエールのまだ生きてゐた一六八八年に︑イタリア削閲には一つの注目すべき事件が起ったので
ある︒それはこの年の五月二日に上波せられた﹃御婦人の御馳走﹄巨戸凋昌c号胃ロ圏冨冒︒Pの罵闇骨号ぃ己鯉冒駅︶
の中で︑アルルキャン役のドミニクロ︒且︒菖扁が幾通りかのフランス語の歌謡を咄つたのであった︒またその年の七
月に初淡せられた﹃喜劇の無い劇場﹄巨罵轡貫︒︑g恩8冒冒且冒︵胃昌昌宮●向い目の8︼晨登の︶の中ではフランス謡で書
かれたスヵラムーシ﹃一の讃僻が挿入せられたのであった︒︵この箭時スヵラムーシュ即ちティ書へリオ・フィウレルリはイタ
リァに肺剛中であって︑その代りにスヵラムーシュを勤めてゐた俳優がこの讃僻を期誠したのであった︒︶これらの事
件の一つ一つはそれ自体として大きな問題ではない︒事蛮上もこれらの事件がその當座において反騨を惹起したわけ■cではない︒しかしイタリア人劇幽がその存在の要件たるべきイタリア語をすてて︑フランス語を使用するといふ大き
な縛向の期を劃したのがこの二つの喜劇の上淡であった︒事蛮イタリア劇囲のフランス語使用はこの後徐交にその度
を増していったのである︒この鱒向については幾つかの原因が老へられるであらう︒
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代においては︑廷臣はすすんでイタリア詔を理解しようとした︒從ってイタリラ詔は上流碓會の流行語であった︒且4
つ文蕊復興以来イタリアはフランスの先進閏として文化のあらゆる部門でフランスの模範となってゐたので︑この方
からもイタリア語はフランス人の間に流布したのであった︒しかるにルイ十四世の母后ヌンヌ・ドートリヅシュショョの
a︑シ言目︑胃も︑皇后マリーⅡルイズ・ドートリッシュ昌昌詩︲Fo昌吻①弓シニ菌︑胃もイス・ハ一ァの王女であり︑フランス宮廷
ざにイタリアの色彩が乏しくなってきた︒それと同時にルィ十四世時代においてはフランス文化は全欧洲に並びなき飛
躍を示し︑今やフランス文化が逆に諸図に棋倣せられる形勢となった︒かくてフランスにおけるイタリア語の流通力
は著しく縮小した︒このこ・とはコメディア・デル・ラ澱テがいかに身振り表術に重きをおく演劇であるとしても︑観
客吸牧上大きな捕手であったに逃ひないのである︒
二︑コメディア︒デル・ラルテが始めてフランスに紹介せられた一五七○年代から︑十七世紀の中頃にかけて︑フラ
ンス淡劇殊に再劇は甚だ幼榔な壯態にあった︒喜劇の新作は雀だ貧しいものであり︑専ら中世偲來の笑劇が繰返され
てゐたにすぎなかった︒乙渦に對しイタリア喜刺は文學的にたいした価値はもたなかったとはいへ︑古い僻統によっ
て完成せられた滑稽創造術と︑悶民的特技たる身振り表附の能力とを術へて︑フランス専削を瞠藩たらしめるものが
あった︒イタリア俳優たちは濟廷の鹸負とパリ人の熱狂的漱迎の中に︑フランス俳優に對する優越を感じつつ︑その
得意の藝能を渡じてゐたのである︒その間フランス俳優たちは︑季ひがたい先進減刺幽の技鑿を見習ってその一振所を
とり入れることに勉め⑫またモリエールの如き作老はイタリア存刺の什法を咀噸して︑從來殆んど科白のみに頼って
フランスにおけるイタリア人削佃の業粒六五9毛六九︶
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丈學研究錐三十二幌六六︵三七七○︶
ゐた弧刺的なフランス喜劇にイタリア喜劇の典型的人物を移入し︑筋の喜劇をフランス式に創進することに努力した
のであった︒
かくて十七世紀の後半に入るや天才モリエールの苦心の結果︑フランス喜劇はイタリア喜劇に遜色の無い筋の喜劇
を創り出したばかりでなく︑さらに進んでフランス國民性の特色を發姉した風俗喜劇︑性格審削等の商級作品も綻表
と生れるに至った︒勿論ィ彫リァ俳優はフランス俳優の及ばぬ即興刺的演戯に優越を誇ることができたとはいへ︑今
やフランス喜劇及びフランス俳優は彼らの狸敵であった︒.そしてこの場合彼らがイタリア語を川ひなければならない
といふことは一つの不利な條件となってきたのであったp
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三︑初期のコメディァ・デル・ラルテの刺團は旅興行としてフランスで興行したのであって︑その沸在期間も比較
的に短かいのが常であった︒彼らは故國に歸って新たな即興喜側のカスヴァを仕いれてはまた外風巡業に出かけるの
であった︒ところが一六六二年このかたパレⅡロワィャルに出減してゐた一座はもはや族興行の状態ではなく︑フラ
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ンスの俳優となり了つたかの如き境遇であった︒有名なスヵラムーシュの如きは一六三九年以来腿ごフランスに滞在し︑フランス朝野の敬愛をうけ︑一六九四年に九十餘歳で残するや︑すべてのフランス人から惜しまれ︑あらゆる階
級の人糞のおびただしい葬列に送られてサン・トゥースタシュ寺院に莊厳に葬られたのであった︒このやうな境遇であ
るから一座の俳優たちの氣風なり生活なりがフランス風︑パリ風に同化して来るのは自然であった︒彼らは舞台でこ
そイタリア語を川ひでゐるが︑日常生活においてはフランス語を話すことがむしろ多かったに迷ひないのである︒今
︑やかやうにイタリア風を失ってフランス風に同化し︐しかも専らフランス人の観衆を相手にして芝居をしなければな
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以上イダリア劇團のフランス語輔向について画ちに考へ得る原因を列梁してみたのである︒先に記したやうに一六
六八年がその時期を制してゐるのであるが︑この傾向が著しくなったのは︑︑一座がブル今.列ニュ宮に移った一六八
○年以後のことであった︒この時以後一六九七年までに一座が上菰した作品健一座の俳優エヴァリスト・ゲラルディ
厚昌吻冨の胃儲胃禽によって輯録せられてゐるのであるが︑その或るものにおいては一人の人物がフランス語で話しか
もければ︑相手の人物はイタリア語で答へるといふ風なものであり︑また或るものにおいては︑一つの章句が牛ぱフラ
ンス語で半ばイタリア語で話されてゐる︒また一つの紫︵の︑言の︶のみがフランス語で減ぜられ︑他の部分は全部イタ
リア諾を用ひてゐるものもある︒また全縮フランス研で書かれてゐる脚本も祁岱の数にのぼってゐる︒これらは勿論
フランス作家の手になったものであって︑作者の中には︑パラプラ闇旨冒鼻︶ル一ヤール胃習謹a︾デュフレ−1口匡陣のぃ畠
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等の名も見えるのである︒.
︑事態ここに至ってはコメディⅡフランセーズの俳優たちも獣硯することはできなかった︒彼らが一六八○年の勅普
によって確認をうけた特權といふのは︑︒ハリ市においては︑いかなるフランス人俳優もコメディⅡフランセーズ以外
の場所において興行をすることを許さぬといふことであった︒從って形式的にいへぱイタリア人俳優はこの禁令から
洩れてゐたわけであった︒しかしイタリア刺凹がフランス作家の手になるフランス瀞の存劇を波するに至っては︐こ
れはまさしく禁令心本旨に抵鯛するものであった︒そこでコメディⅡフランセLズはイタリア刺囲のフランス喜刺上
フランスにおけるイタリア人削刷の業統六七︵三七七こ.
なりゆきといふべきであちう︒ らない彼らイタリア俳優たちが︑次第にフランス語を用ひてフランス作品を波ずる方針をとって萱たのは蓋し當然のI
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丈學研究節一一︾十二靴方へ︵三七七一二
波を禁止せられるやう請願した︒剛王はコメディⅡフラン七1ズから俳優ミシェル・ゞ︿江ンン胃言冒皆﹃︒︒を︑イタリア
一座から俳優ドミニコ︒︑ピアンコレルリ︒○昌二﹄8国堅二8房︒晨をそれぞれ代表として出頭せしめた︒
︽ハ江ンがまづコメディⅡフランセーズの代表として發言した︒ところが次にドミニクの番になると︑︵陛下︑と彼
墜医卿った.私ほど鷺うに申し聾たら宜しうご鳶きうか?lその雷言ひた猫︐に巾すがよい︑と王 ︲ゲ
藤へた・Ifだけ承れば維礁でfとドミ↓|クが言つだ私臓この裁判に勝ちました.貢・ンはこ累意打ちに對し識駁しようとしたが︑王はドミ一クの言葉を筋のとほったものと判断して︑判決は下された︑もはや鍵史せ
られることはないと宣言した︒この時以来イタリア刺圏は天下哨れてう|フンス締の脚本を上波することになったので
ある︒︲
この挿話はあらゆる書物に引川せら虹てゐるから私もここに引川した︒胃いい一︶のG国鳥唾︹一の﹈︺昌砿に紋ってゐるとの
ことであるが︑いつの事とも分らない︒ただ私たちはフランス俳優の抗議も效なく︑イタリア俳優は剛王からフラン
βス削を淡歩る特許を得たといふ事笈を知ればよいのであ与○︒この挿話の主人公ドミニクはその唖スヵラムーシュに代
って一座の明星であった︒彼は喜朏俳優としてあらゆる優れた素伐をも2しゐた上︑フランス流の機判に耐んでゐた︒
彼の持役であったアルルキャン皆侍︵﹄二旨︵イタリア詔ではアルレッキーノど﹄go三二︵︶︶は彼の時代になって耕しくその.
性格を鍵へたのであった︒從來のアルルキャンは晤悠で狡猪な下僕であったが︑ドミニックはフランス人の機押趣味に
順雌するやう︑︵同時に己れの趣味にも適するやう︶アルルキャンの役にふさはしい多くの酒落や弊棚を用ひ姑めた︒
かくてその後のアルルキャンは俳優の技能次第でいかやうにも活動することのできる︑重要でかつ至難な役となった
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ドミ一クはニハ八八年に死んだ︒fクリア削囲は一筒月間喪に服して休淡したのであった︒ドミニクに次いでアル
ルキャンの役をひきうけたのはエヴァリスト・ゲラルディであったが︑これも名優であって︑アルルキャンの名鑑を然す
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1︑ことばなかった︒彼はまた作群をも披ねてをり︑ブル︽コーニュ宮時代のカヌヴァは主として彼の創作によるものであ
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イタリア削團が公然とフランス喜削を波するやうになって後は︑この座とコメディⅡフランセーズとの關係は非u日
の如く側滿でなくなったのは俄然であったb折角一六八○年に剛王の配慮によってフランス人刷州が統合せられ︑パい
りにおける唯一の潤占的削場となったのに︑早くもイ汐リア削鴎といふ競乎薪が現はれたのである︒雨座の敵帆はそ
の上波脚本にも見えてゐる︒
一六九二年十二月十一二日︑イタリア刺場に初淡せられた﹃支那人﹄Fの娘の三二︒厨と題する喜刺はデュフレニ筆1とルニャグ
ールとの︿向作であるが︑その中に次のやうな長科白がある︒︵コロンビーメの科白︒︶
.人のイタリア俳優を慨の中に進り出すために︑自然は莫大な努力をしなければなりません@一人の立派蔵ア
ルルキャンは昌言目の旨ご◎冒邑房・宮︑︵自然の鍔作物︶なのです︒自然はその変物のすべてを彼の上に惜し氣もな
く振りかけるのです︒自然のす琴へての知慧を伽かしても一人のアルルキャンを生かすのがやうやくです︒しかし
フランス俳優ならば眠ってゐても作れます︒教へられたことだけしかしゃべらない雛鵡を作るのと同じ材料で作
ればいいのです︒それにひきかヘイタリア人の方はすべてを自分の頭からとり出すのです︑話すのに誰の知慧も
フランスにおけるイタリア人削楜の業紙六九︵三七七三︶
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借りないのです︒ちやうどあの歌ひ上手の鴬が︑自分の氣分のままに歌ひ方を塗へるのと同じことです︒﹂
またイタリア劇囲はコメディⅡフランセーズの俳優をパロディの材料にして抑楡することも腱ごであった︒一六八二
年の層匡邑恩制旨冒買いと題する喜剖では︑アルルキャンがフランス人刺幽の名女優シャンメーレ嬢を戯識化し
下僕の役のパスクァリエルと二人で︑コルネイュの悲劇﹃シッド﹄のパロディを波じた︒
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弓PmOq鈩詞胃圃5.
○ヶ宮︺毎冒の︾P房二罠︾昨ロ庁﹄芹↓Uf
診園伊嵐pご﹇員.︑
○巨の︑①ご︺ご︸︺吋騨シ一︺○時①色匡︑巴弄罵思で⑦Ra弄一
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︵﹁シッド﹄第三幕︑第四紮参服︒︶
同様に一六八三年にはラシーヌの悲劇﹃へレース﹄のパロディをも漁じてゐる︒
しかしこの時代のイタリア人劇囲が上波したフランス語喜劇の特色はパリの現代風俗の生産しい描嘉であった︒左
に掲げる表題によってもそのことは推測できるであらう︒9
●︒﹃破産者﹄胃雷冒︵胃甘目①門.
︑﹃離婚﹄馬目ぐ︒﹃nの.
︑﹃コケット﹄または﹃御婦人の學園﹄旨9省の胃・尾骨虞g監昌①号ロ斡冒の︑.
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﹃サンⅡジェルマンの臨時市場﹄5吋目.①号の庁○の9国言.
﹃パリの散歩道﹄胃︑犀︒旨の3号伽号冒凰吻.|
︐﹄﹃サンⅡペルナール門の水浴場﹄馬ぃ国己︒︑号営勺貝庸曽︲胃昌湾乱.
ランティャックロョ巳冨nはその著﹃フランス淡劇史﹄閏m8胃遁冒胃この旦三弓一風可の2句目︒n⑦の銘Ⅲ巻において︑
ラ︒ブルュイエールの﹃性格論﹄とポワローの﹃弧詩第十﹄とを一液し︑これを裸術知識としてこれらのフランス語害心
︑
B 刺 を 戒 む な ら ば ︑ そ こ に 時 代 の 風 俗 が
︑ 誇 張 せ ら れ た 戯 証 の 中 に
︑ 雀 だ 如 寅 に ︑ 残 酷 に 篤 さ れ て ゐ る の を 表 佃 取 す る こ
とができるであらうと言ってゐる︒︵同書三九頁以下︒︶悲しこれら三種の作品は略ご同じ降代に韮かれたものである
からである︒一方イタリア喜制の僻統的特色たる誇張せられた滑稽と自由すぎる鍾愛描窟とは依然として一座の蔓武
であった︒しかし世人の嗜好は昔と同一ではなくなった︒イタリア俳優のあ全︽りに放縦な卑狼な淡戯は観容の鍵盤を
函早︽ことが次第に多くなった︒そしてさしも︑永い年月パリ市民の人氣を集め︑王室の寵遇並み並みならぬものがあっ
たイタリア喜劇剛もつひにこの問題につまづいて解散の憂き目を兇ることになったのである︒この事件の經紳はおほ
よそ次の通りであった︒
これよりさきイクリア俳優の淡戯の不諏槇と不潔とは識者の銀盤を買ってゐたのであった︒現に解散g剛年即ち一
一ハ九六年の一月にルイ十四世はイタリア劇開の醜聞註耳にし︑弊覗總雛に命じてこの座の波戯を厳重に監祀させ.も/
し一度でも風硲に反することがあったら世ちにイタリア俳優遂解歴して追放するといふ意思を表明したのであった︒
この頃ルイ十四世は既に六十歳に近く︑しかも寵妃マントノン夫人の感化もあってカトリック教の熱心な蹴行家となっ
てゐた︒その昔スカラムーシュやモリエールの淡戯に笑ひ興じた時代とはすっかり人棚凝変ってゐたのである︒この
フランスにおけるイタリア人劇剛の業統七一.︵三七七五︶
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文.・學研究策三十二卿七二︵三七七六︶
やうな危嶮な雲行の中でイタリア刷側は無謀にも寵妃マントノン夫人の偏心振りを椰総する刺を渡じようとしたので
あった︒その脳といふのはファトーヴィル己の園8冒白の作で﹃嘘の義輝﹄侭国三圏冨震菖瞥筥︒巳轡胃胃︲冒肖豐層︒い$
と題するものであったが︑一座の俳優辿は一般の關心を煽るために︑その甑オランダに流布せられてゐたマントノン
夫人攻撃の小説の題名をとって﹃礎せの信女﹄冒團屋いぬの国自のと改めたのであった︒
この﹃礎せの信女﹄が蛮際に上淡せられたか︑漁告にとどまったかについては明確でない︒サンⅡシモンの﹃術忘
録﹄にはイタリア人削闘の解散につ・いて左のやうに盤かれてゐる︒
︲﹁彼らが舞蜜の上で不潔なこと駐やりちらしたり︑時凌は不偏心なことを言ひちらしたりするに過ぎなかった限
ゞりは︑人は笑ふだけであった︒しかし彼らはあからさまにマントノン夫人を指してゐる﹃盤せの循女﹄と題する
︑脚本を波じようと思ひついた︒誰もかれも飛んで見に行った︒しかし三︑四回の上淡の後︑彼らはその劇場を閉
し︑一箇月以内に王國を立退くべき旨の命令麩受けた︒﹂lく
しかし近代の斌削史家はパルフェー兄弟原吻時野の︑厩﹄・目只の閏ぃ目濤・の1昌声ョ︒旨﹈自身言・の旨房冒その他の文献
により﹃慨せの信女﹄は上淡が豫告せられただけで︑途に上油に至らなかったといふ説をとってゐる︒それはともか
くとして︑﹃礎せの信女﹄がイタリア人削囲の解散の決定的原因となったことは事愛であった︒
一六九七年五月十三日︑時の宮内大臣の職にあったド・ポンシャルトラン冒卑弓︒冒魂宮.旨は馨澗總監ダルジャンソ
ン己参員gmC園にあてた手紙に︑︒
﹁國王にはイタリア人俳優にお暇を賜りました︒且つ陛下には彼らの刺場を明日永久的に閉鎖せしむるやう武官
に迩逹するやう小官に御命令であります﹂と害竺Lゐる︒︵未完︶ 0
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