九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
本居宣長における道と文藝
笹月, 淸美
https://doi.org/10.15017/2557016
出版情報:文學研究. 23, pp.31-50, 1938-06-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
j本居宣長は︑その初期の群︑あしわけをぶれにおいて︑j2﹁我邦の大道と云ときは︑自然の祁道あり︑︵中略︶︑自然の川道は︑天地附悶祁代よりある所の道なり﹂
①
といひとれに綾けて︑
j3﹁もとより我邦自然の寄鰍なれば︑自然の肺逝の中をはなるLにはあらざれども︑云と︺4といって︑和歌を︑﹁自然の祁道﹂の中のものとしてゐる︒叉︑晩年の群︑うひ山ぶみにおいては︑
・ヒヤピー﹁すべて人は︑雅の趣をしらでは有ぺからず︑これをしらざるは︑物のあはれをしらす︑心なき人なり︑か
くてそのみやぴの趣をしることは︑歌をよみ︑物語書などをよく兄るにあり︑然して古人のみやぴたる傭を︺5
しり︑すべて古の雅たる世の有さまをよくしるは︑これ古の逆をしる零へき階梯也﹂
といってゐる︒とのやうな立言は︑宣長が一方において説いてゐる所の︑文蕊の自律性︑即ち︑文藝は文化の他の諸
︑や︑b℃℃℃もQQ領域から随別されるべき猫自の意味をもつものであり︑それは専ら物のあはれに本づき物のあはれを知らしめるため︲
が本牌蹴投における通と文謹二二︵二五三こ 本居宣長における道ご文藝
」
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笹月清美
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︑︑℃もといはれるのがそれである︒たしかに︑宣長にとって︑感怖は︑儒佛のことわりに對立するものとして︑古逝と文藝
とに共通する性質であった︒然し︑その共通の要素は直ちに雨考の随別と混在とを解消するものであらうか︒宣長は︑
▲ 写
する立場がある︒たとへぱ︑久松潜一氏の︑ ろものではないであらうか︒
名文學研究第二十三脚三一︵二茎一三︶
のものであるといふ主張︑ならびに︑文藝の中で妓商の価値をもつものは中古の物語であって︑人はそこに描かれた6﹁いにしへの中以上の人怖風儀をよく心得て︑﹂その雅ぴた境界に住せねばならないといふ風雅主義の主張と矛盾す
jとの︑宣長における﹁中古主義と上古主義との混在﹂の問題に對して︑第一
﹁宣長が﹃物のあはれ﹂といひ﹃林ながらの逆﹄といふもいづれも主術主義的立場である︒た画﹁物のあはれ﹄が
感怖の洗練され技巧化されただけ形式的になったのに對して﹃刺ながらの道﹄は感備の素撲なだけ弧烈であ
り︑純一的である︒而してかく槻じ來る時宣長の把捉し得た文學も宗教もいづれも感情に歸する事を知るの12である︒﹂ 註町京都遊離の末期︑喪孵五︑六年︑宜壁二十六︑七歳の頃の藩といはれる︒
幻引﹃あしわけをぶれ﹄︵輔補本居立長全集飾十︶一七三頁
鋤迩政十年︑六十九歳の著
列﹃うひ山ぷみ﹄︵榊袖本居武壁全集節九︶五○四頁
a﹃詣文要演更嗽砺本喘航隆粂集第十︶三一四頁 ﹃うひ山ぷみ﹄︵榊袖本居武壁全集節九︶五○四頁
﹃紫丈要領﹄︵輔補本肘穴正金柴第十︶一三四頁
1
Tbには︑感傭に雨者の統一軸を求めようと
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﹁古へをしたひたふとむとならば︑かならずまづその本たる道をこそ︑第一に深く心がけて︑明らめしるべ
きわざなるに︑これをさしおきて︑末にのみかAづらふは︑蜜にいにしへを好むといふものにはあら歩︑j3さては野をよむも︑まことにあだ事にぞ有ける﹂
といってゐる︒道は本であり︑歌は末である︒そして歌は︑それ自身の領域に止まる限り︑﹁あだ事﹂なのである︒雨
者の間には混同す雷へからざる厘別がおかれてゐる︒
別﹃うひ山ぷみ﹄︵前川︶五○五頁
第二には︑自然に両者の統一を見川さうとする立場がある︒たとへば︑伊東多三郎氏は︑
﹁客槻的には︑萬葉と古今源氏の世界は︑全く性質を異にしてゐる︒併しながら︑國學者は各盈その抽象の
みを見たから︑何等異ったものN混在ではなかったのである︒即ち︑立長の場合に於ては︑源氏物語から
ストィシズムセシチノンタリズムスコラチシズムナイヴイズムは︑儒教的厳粛主義に對する箭緒主義を︑古事記煎薬からは︑儒教的斌玻諏學に對する素朴主義を抽象した
水腓硴長における世と文鱗三三︵二五三三︶
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呂凸bO
21 1)
久松瀞一氏﹃定握の﹁物のあは豹
刊﹃上代日本文學の研究﹄所收︶
同氏﹃日本文學評論史﹄︵昭和十 村岡典嗣氏﹃本居宜曇﹄︵昭和三年三月岩波番店刊︶四七○頁伊東多三郎氏﹃凹學の史的考察﹄︵昭和七年二N大岡山香店刊︶二○○︲二○一頁穴暹における︑所訓︑中古主我と上古主我︑或は︑センチメンタリズムとナイヴィズムとの﹁混在﹂は︑彼の思想の發展によって生じたといふよりも︑むしろ︑その初期から既に存在してゐたと解すべきである︒久松瀞一氏﹃定握の﹁物のあはれ﹂と﹁祁ながらの逝﹂﹄︵東亜の光大正十一年四月銑︑昭和三年十二月至丈堂
一年十Ⅱ至文坐刊︶の混む︑この鮎については側じである︒
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︑泊︑bb℃描くものである︒したがって︑概念的なことわりを離れたものであるといふ意味において︑たしかに︑自然である︒換
言すれば︑極めて古道的である︒けれども︑宣長のいふ古道がもし伊東氏のいはれるやうな素朴主義︑即ち吻冒目ぃ圖目︲
H農いを意味するものであるならば︑佛逝を信じてゐる人間の生活を描いた物語の世界︑或は﹁日本紀萬葉は至て質朴j︑3なれば︑反て棚く鄙しく︑みぐるしきことも多し︑只古今集三代集が花在全備してすぐれてうるはし﹂といはれる歌の
世界は︑いは■ぃ冒冨い︑昌房であって︑雨者は決して雌純には一致しない筈である︒
文撃研究・館二十三純三四︵一宝三四︶
のであって︑此の二つの抽象を蓮鑿するものは︑雨考に内在する自然主義的要素であるから︑雨者の混在を許す宣長の思想は︑自然主義によって貫かれてゐる事を知り得る︒﹂bb︑︑︑︑といはれる︒自然は︑宣長の︑いな國學一般の世界槻において根本的な意味をもつ概念である︒自然こそ儒佛のさか
︑bしらから共に離れてゐるといふ意味において︑古道と文蕊とを紬ぶ紐帯である︒けれども︑このことは︑宣長におけ
る︑先に掲げたやうな︑中古主義と上古主義との矛盾の解決を意味するものであらうか︒宣長は源氏物語について︑
﹁此物語にも︑源氏君をはじめて︑心ふかき人はみな︑ともすれば此佛の道を思ひ王ふことを書たる︑これ
世の中のありさまにて︑さるならひになりぬるよの︑人の情の︑ものLあはれにぞ有ける︑されば巻糞に︑
・佛の道のことを多くかけるも︑そのことわりをしらしめむとにはあらず︑た■そのすぢにつきての︑あはれ12を見せたるもの也﹂々
といってゐるo即ち︑物語は︑﹁世の中のありさま﹂をありのまXに見て︑そこにある﹁人の怖の物のあはれ﹂を如涯に
誰U﹃剛學の史的考察﹄︵前川︶二○一二○二頁
I
llllIIl■P︐
しからば︑宣長において︑中古主義と上古主義とは結局統一されない矛盾として混在してゐるのであらうか︒したjがって︑その鮎において︑宣長の思想は︑﹈挫淵などに比し不徹底であり雑多であるといはれねばならないのであらう
か︒恩ふに.︑右のやうな混在槻は︑宣長の中古主義と上古主義を同一次元において見ることから來てゐる︒けれど
も︑宣握にとって上古に遡るといふことは︑在は︑同時に︑世界の根源に深まるといふことを意味するのではなかった
︑︑︑︑か︒自然は人間一術動における自然であると共に︑仙界の根木脈理としての自然ではなかったか︒そこに宣長自身にお ℃︑
ける︑矛炳の解決があったと恩はれる︒以下その鮎を追求しつ氏宣長における道と文藝との關係を見ようと恩ふ?
誰伽村岡典捌氏﹃本旙立涯﹄︵前出︶四七○瓦参照
︑︑さて︑宣握が丈藝を一つの自然であると老へたのは︑如何なる意味において回あったか︒その鮎を明らかにするた
めには︑まづ宣長の文藝槻の構造を見なければならない︒
︑℃bb︑いふまでもなく︑宣長にとって丈藝の木伐は物のあはれにあった︒彼は源氏物語について︑
・.﹁此物語は紫式部がしる所のあはれよりいできて︑今見る人の物の哀は此物語よりいでくる也︒されば此物
語は物のあはれをかきあつめて︑よむ人に物のあはれをしらしむるより外の誰なく︑よむ人も物のあはれを
本冊穴長における近と丈墾三五︵ニェー宝︶
3) 2)
﹃源氏物語玉の小櫛﹄︵榊袖本居武正
﹃あしわけをぷね﹄︵前出︶一七三頁 ︵輔柿本居堂狸
二
全集嬢七︶五一四五一五頁
− ー
11
文學研究第二十三脚一三︿︵二五三六︶
jしるより外の意なかるぺし﹂といひ︑叉︑歌について
﹁歌はそのをしへの方にはさらにあづからす物のあはれをむねとしてすぢ異なる道なればいかにもあれ其事
のよきあしきをばうちすてLとかくいふべきにあらすさりとてそのあしきふるまひをよき事とてもてはやす︺2にはあらず︑た瞳そのよみいづる歌のあはれなるをいみじき物にはする也﹂
︑b︑b℃といってゐる︒この物のあはれは︑右の引川でも明らかなやうに︑中古の物語及び︑和歌︑特に源氏物語の研究から︺3在證的に肺納したもので︑適切には︑平安朝文藝の理念といふべきものであった︒しかし︑宣長は︑平安朝文蕊に妓高
︑b︑︑︑の慨仙を認め︑それを蚊も本質的な文藝であるとした︒したがって︑彼の物のあはれ論は︑彼においては︑同時に文
藝本質論なのであった︒
℃℃︑℃︑それならば︑宣長のいふ物のあはれとは︑いったい︑どんな性硬のものであったか︒宣長は︑源氏物語について︑
﹁作りぬしの︑みづから︑すぐれて深く物のあはれをしれる心に︑枇中にありとある事のありさま︑よき人
あしき人の︑心しわざを︑見るにつけきくにつけ︑ふるkにつけて︑そのこLろをよく見しりて︑感ずるこ
との多かるが︑心のうちにむすぽ上れて︑しのびこめてはやみがたきふし人︑を︑その作りたる人のうへに
鄙ト ii上
3) .2) 1)
﹃紫文要領﹄︵前脳︶三一九頁
﹃石上私淑言﹄︵輔補本鵬穴握全集節六︶五二七瓦
この鮎について︑和辻哲郎氏の説のあることは︑周知のことである︒
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bももも︑▽℃︑℃bといってゐる︒宣長の老へた物のあはれの諸性質は︑ほ図こ上にいひ識されてゐるといってよい︒即ち︑物のあはれ は︑単に︑文藝涌動の︑王鰐としての﹁作りぬし﹂における心理ではなくて︑その客船としての﹁世の中﹂の擴今ものでも
あった︒立長は︑j2﹁批にあらゆる事にみなそれ人︑の物の哀はある事也﹂
ともいってゐる︒この客禮としての﹁枇の中﹂は︑彼の文藝槻の亜要な榊成要素をなすもので︑彼は︑物語を﹁よの
1.中のものがたり﹂即ち︑人生の表現と規定した︒これは源氏物語螢巻の﹁みなかた人︑につけて︑此世の外の事なら 3
すかし﹂といふ物語槻を繼紹するもので︑
4﹁皇剛の物がたりぶみは︑世の右さま︑人の怖のやうを︑ありのまLに菩出たる故に︑云糞﹂
或は︑
﹁おほよそ此物語は︑世の風儀人傭をありのまLにかきて︑物の哀をしらしむる物なれば︑かりにも人構に︺5たがへる事をか上ず︑人情にたがへる事をばあしき事とせり﹂
本肘穴狸における世と丈蕊三七︵二五三七︶
よせて︑くはしくこまかに書懇はして︑おのが︑よしともあしとも恩ふすぢ︑いはまほしき事どもをも︑共人に恩はせいはせて︑いぶせき心をもらしたる物にして︑よの中の物のあはれのかぎりは︑此物語にのこることなし︑︵中略︶︑すべて世中の有さま︑なくて人の︑心のおくのくまん〜まで︑いとよくしられて︑物のとAろをわきまへしりて︑からぶみにいはゆる︑人怖世態によく通ぜんとと此物語をよむにしく物あらじと︑16J〃1ぞおぽゆる﹂
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宮司印
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﹂
の
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認
め
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︑
或
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場
合
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︑
﹁をのノーその時代觜々の鵠︑をのづからかはりゆく︑そのかはりゆくは何故ぞなれば︑人の怖態風俗のか ﹁仙中にありとしある事のさま人︑を目に見るにつけ坪にきくにつけ︑身にふる上につけて︑其のよるづの事を心にあぢはへて︑そのよるづの事の心をわが心にわきまへしる︒是事の心をしる也・︵中略︶︑物の心をしる也・わきまへしる所は物の心事の心をしるといふもの也︑わきまへしりて︑共しなにしたがひて感ずるjゞ6所が物のあはれ也﹂
︑b︑bUといふ︒彼によれば︑物のあはれの成立する前に︑﹁物の心事の心をしる﹂といふ段階がある︒この﹁物の心事の心を
しる︲一といふととが︑在は︑槻照によってその事物の丈藝的意味を知ることであって︑そこに既に文藝性の成立があ
るといふべきであらう︒しかし︑宣長は︑文藝的意味を知ることそのことをよりも︑それに伴ふ藝術的感動としての
りb℃bb︑bb︑b物のあはれを︑文藝性の徽繼と老へたのであった︒かくして︑文藝性としての物のあはれは︑まさに主客一如の境に
おいて︑主柵I客船的なものとして成立するものなのであった︒したがって︑宣長は︑文藝の時代様式︑即ち︑﹁時
は
、
文學研究節二十一二鮴︑三八︵二五三八︶
℃︑℃b︑︑︑︑℃︑︑などといふのである︒即ち︑物のあはれは︑このやうな﹁世の中﹂のもつ物のあはれなのである︒けれども︑勿論︑物
℃︑︑︑︑bb︑Eのあはれの成立は︑文藝活動の主船としての﹁作りぬし﹂における︑物のあはれをしる心をまたなければならない︒即
︑︑︑︑︑ち︑作家が人生を制服することによって︑初めて物のあはれは成立するのである︒その川の消息を識明して︑宣長
1ゴ7はりゆくゆへなり﹂
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一 ,
といひ︑或る場合には︑
﹁世凌を經て︑古人のよみふるさぬおもむきを︑よみ出んとするには︑おのづから世交に︑そのさま愛ぜで
︺8はかなはず﹂︺9といふのである︒
誰卿﹃源氏物語王の小櫛﹄︵前出︶五○三頁
幻﹃紫文要領﹄︵前川︶二七四頁
別伽の書四八八頁
鋤右の書四八二頁
昂別の書三○五頁
a右の書二七三頁
︑﹃あしわけを蕊ね﹄︵前川︶一七二頁
副﹃うひ山ぶみ﹄︵前川︶四九九頁
列このやうに︑丈蕊の﹁時代の風催﹂を認めつ上︑又︑後に述べるやうに︑﹁抑の御所偽﹂による雁史の自然の發
展を認めつ上︑しかも︑中古の風雅を丈蕊堆一曲の佃価とするところに︑蹴艇の歴史哲學がある︒
■b︑︑︑さて︑宜長によれば︑右に述べたやうな物のあはれの成立は︑主僻における﹁感ずる心﹂のはたらきとしてあらは
れるものであった︒そして︑
﹁感する心は自然としのびぬところよりいづる物なれば︑わが心ながらわが心にもまかせぬ物にて︑悪しく
本肘︽川長における通と文蕊三九︵二五二一九︶
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j3也︒︵中略︶︑あはれにたへぬ時は必晃えす自然と歌はよみ出らる&物也﹂
といって︑文藝活動の起源を︑そこに求めてゐる︒ 即ち︑宣長は︑12﹁その感じたる心を其まょにしておけば︑いよいよ深くむすぽれて心にあまる也﹂
といひ︑叉︑
﹁さてやみなむとすれども心のうちにこめてはやみがたくしのびがたしこれを物のあはれにたへぬとはい う︒このやうにして︑作家の内面に形成されたるものは︑作品として客槻的に表現されることをおのづから求める︒ 即ち︑﹁感ずる心﹂は﹁自然としのびぬ所﹂から川て来るもので︑わが心の中に僻嶮する事ながら︑わが心もすることのできないものであった︒これは︑まさに︑藝術的意味の自律的な形成を意味するものといふ︒へき
宣長が︑文藝の猫自性を主張し︑文藝に文化のさまんiの領域から厩別されるべき猫特の慣値があるとしたのは︑
文嬢研究雄二十三職四○︵二五四○︶
邪なる事にても感する事ある也︑是はあしき事なれば感歩まじとは恩ひても︑自然としのびぬ所より感ずるj也﹂註
3) 2) 1)
﹃石上私淑言﹄︵前出︶四八六頁 ﹃紫文要領﹄︵前田右の書二七六頁 ︵前川︶二七四頁
三
1,
自由にであら
差
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℃︑衝に︑右に述暑へたやうな認識に本づくのであった︒そして︑同時に︑文藝を自然であるとする根擴もそこにあった︒
宣長によれば︑文藝は︑政治︑道徳︑宗教のために存在するものではない︒したがって︑それらの立場に役立つと
︑℃も︑bいふ解繰も︑役立たないといふ非難も︑共に誤りである︒文藝には︑物のあはれといふ︑よって立つ猫特の地盤がある
からである︒勿論︑この場合︑彼は︑他の立場を否定することによって︑文藝の立場を得ようとするのではない︒各
2
各の立場を︑﹁すぢ異なる道﹂もしくは︑﹁それ人︑の道︑をのノーの大道﹂として︑厩別するのである︒
動﹃あしわけを夢ね﹂︵前川︶一六五頁
さて︑文藝が﹁世の中の有さまのまA﹂を︑作家の﹁感ずるがま出﹂に書いたものであるのに比し︑政治︑逝徳︑宗教
℃℃︑︽1L j︑b旬竺は︑或は︑﹁剛をも家をも身をも︑をさむくきをしへ﹂であり︑或は︑﹁まょひをはなれて︑さとりに入るべきのり﹂で
︑b︑bb
も︑︑︑コジ︑℃b︑℃
ある︒文藝が物のあはれであるのに對して︑これらは︑おしなべて儒佛のことわりなのである︒宜長は︑物のあはれ.■ロも℃℃︑を怖のはたらきとし︑ことわりを心のはたらきとする︒即ち︑
﹁物語は︑物のあはれをしるを︑むねとはしたるに︑そのすぢにいたりては︑儒佛の教には︑そむけること
.︑pもおぼきぞかし︑そはまづ人の怖の︑物に感ずる事には︑善悪邪正さま人︑ある中に︑ことわりにたがへる
コロロ事には︑感ずまじきわざなれども︑怖は︑我ながらわが心にもまかせぬことありて︑おのづからしのびがた
4きふし有て︑感ずる事あるもの也﹂1℃︑︑︑bコリ画兵ン℃℃︑bといふのである︒更に剛者を比較し︑物のあはれは︑﹁のがれがたき人のまことの怖﹂であり︑ことわりは︑万もてつ
本居批正における通と文蕊四一︵二五四こ
王〃﹃石上私淑言﹄︵前出︶五二七頁匙口寺■4F L P I
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五
四
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け守りたる︑うは尋への心﹂であるとする︒即ち︑
﹁されば詩歌はこと書のやうにとあらむかくあらむとよるづにつくろひかまへていふべきならすた蛍よくも︺7あしくも思ふ心のありのま典なるべき﹂
︑もも︑℃℃なのである︒かくして︑人生をありのま型に槻照し︑ありのま関に表現する文藝は︑ことわりが作矯であるのに比
も︑し︑自然であるといふととができる︒宣長が︑
﹁ならの京のころほひになりてはつひに蘭の事みな唐國の如くになむなれりけるされど野のみぞ其ころも猫18繭の事にたがひて意も言も吾御國のおのづからの祁代の心ぱへのまkにては有ける﹂
といったのも︑この意味において壇あったと恩はれる︒
註⑩﹃源氏物語玉の小櫛﹄︵前川︶四八八頁
動右の醤四八七頁
訓右の番五一五頁
鋤右の苫四八七頁
罰①右の聾五二五頁
︑﹃石上私淑言﹄︵前出︶五二二頁
a右の神五一三頁
四
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文藝は自然であるといふ意味において︑即ち︑作爲としてのことわりから離れてゐるといふ意味において︑たしか もb
に古道への重要な﹁階梯﹂であった︒しかし︑文藝は︑今述べたやうに︑岬半なる階梯たるに止まらず︑それ自身に
犯す零へからざる慨値をもつものとされてゐたのである︒しかるに︑その文藝を︑古道の﹁末﹂であるといひ︑それ自
身の伽城に止まる限り﹁あだ事﹂であるといふのは何故であるのか︒それは︑経に︑宣長の矛盾なのではないか︒
︑コトリ叩ジシカルベキコトヅリハュ
宣正は︑事と理とを頂別した︒理は︑﹁物のことわり︑あるべきすべ︑瀧の教ごと﹂とも.︑﹁常然理﹂ともいはれる︒
事は經嶮的事置であり︑理はそれについての解繩である︒たとへぱ︑
﹁火はた営熱く︑水はたピまき物にて︑その熱くまきは︑何の理にて然りといふととは︑はかり知がたき事 ウ
なるを︑弧て知がほせんために︑陰陽といふ物を設け︑︵中略︶︑陰陽は事にあらす︑その理なる故に︑あら﹄3
はならぬ物にて︑その億ならぬ證擁無ければ︑などか億なりといはざらん﹂
即ち︑陰陽は事在ではなくて概念なのである︒叉︑
ハヒシニヒス二﹁天逝禰善映淫といへる︑此心ぱへは一文不知の兒童といへ共︑よくわきまへ知れる事にて︑まことに然あししるべき逝理なり︑黙れ共此語は︑理にはよくあたれ共︑事の跡につきていふときはあたらす︑世には悪祁の
ある故に︑返て善にも映し︑淫にも胴すること︑古今にあげてかぞへがたし︑故に天逝天命の説は︑と上に
4至りて窮せり﹂
といふやうに︑事在について見れば︑理としての天道天命の説も批判されねばならない︒これは佛教に附しても同じ
で
、
本居蹴長における逆と文謹
I
四三︵二五四三︶I
b℃℃℃かくして鋤宣憂は︑儒佛のことわりを排して事に直面した︒事とは何か︒彼は︑これを︑﹁天地世間﹂といふ︒
即ち︑自然と人生とに他ならない︒この自然と人生とをありのま型に槻照し表現するのが︑文藝の立場であっ
た︒けれども︑宣長は︑単に槻照し表現する立場に止まることはできなかった︒更に進んで︑﹁天地世間﹂の根源
を追求せざるを得なかった︒
宣長によると︑﹁天地世間は︑人の智にていかなる理とも︑いかなる故にしかるともはかりしる雪へきものにあ
文學研究鱗二十三卿四四︵二五四四︶
﹁佛逝の意は︑悪人は地獄︑善人は天上淨土に生ると云︑趾我逝と犬に異なり︑かれは方便の作事なる故に︑5善悪常然の理に叶へるやうにかまへたり﹂
といはねばならなかった︒このやうに︑宣長は︑事変を直硯するために︑理を排した︒このことは︑古逝の認識には
秋くべからざる前提であった︒何となれば︑古逝は事透の中にあるのであったから︒即ち︑古逝はまづその認識の入
口において︑理を排するといふ意味の自然であることを必要とした︒これが︑文藝の古道に通するとされる所以なの
であった︒
i
乳二I
5}‐ 4) 31 2) 1)
﹃施肥懇﹄︵輔補本居立艇粂果錐こ五三頁
右の杏五九頁
﹃くずぱな﹄︵輔補本居冗埜全集雄五︶四九四四九五頁
右の谷四七四頁
﹃巷間鎌﹄︵榊袖本居武是全集雄六︶一○七頁
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j︑Eシワザらず﹂︑す−︑へて﹁榊の御所爲﹂によるものである︒即ち︑
﹁凡て此世中の事は︑春秋のゆきかはり︑雨ふり風ふくたぐひ︑叉國のうへ人のうへの︑吉凶き萬事︑みな
この﹁榊の御所爲﹂によって︑﹁天地世間﹂が存立し︑もるノーの現象が起る︒それが︑道なのである︒この道は︑記紀
二典の脚代巻の事跡の上に術はってゐるのであって︑
﹁此道はしも︑可畏きや高御産巣日祁の御醗によりて︑祁祗伊邪那岐大祁伊邪那美大祁の始めたまひて︑天︺3Ⅲ大御紳の受たまひたもちたまひ︑体へ賜ふ逝なり︑故是以抑の通とは申すぞかし﹂
即ち︑祁道であり︑叉︑古道である︒そして︑宣長にとって︑この古道こそ普遍的な道であったのである︒
けれども︑記紀の祁代巻に記された所は︑教理ではない︒そこには︑﹁儒佛などの書のやうに︑其道のさまを︑かやjうノ︑と︑さして激へたること﹂はない︒た堂︑紳盈の生活があるだけである︒その生活者としての榊共が︑同時に︐
﹁天地世Ⅲ﹂の支配者なのである︒そして︑既に︑祁糞の生活が︑決して合理的なものではなく︑したがって︑その支
︑℃℃℃配も︑ことわりに合ふものではない︒即ち︑
﹁そもjI1祁は︒人の國の佛聖人などのたぐひにあらねば︒よの常におもふ道理をもてとかく忠ひはかるく
本居批長における道と文蕊四五︵二五四五︶
jZシワザ︑二ととん︑に榊の御所爲なり﹂註伽﹃読後談﹄︵輔補本居宜暹釜集簸十︶一四三頁
到弓施肥霊﹄︵前川︶五七頁
別右の番六一頁
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このやうな宜長の古通読に對し︑それは老莊の自然と同じではないかといふ非難があった︒宣長はこれに答へて︑
﹁さてかの老莊は︑おのづから祁の道に似たる事多し︑これらのさかしらを脈て︑自然を尊むが故なり
かの自然の物は︑と型もかしこも大抵Ⅲじ事なるを思ひ合すべし︑但しかれらが道は︑もとさかしらを
脈ふから︑自然の逝をしひて立んとする物なる故に︑その自然は眞の自然にあらず︑もし自然に任すを
よしとせば︑さかしらなる仙は︑そのさかしらのまAにてあらんとそ︑反の自然には有今へきにそのさか
しらを脈ひ悪むは返りて自然に背ける弧蕊なり︑さて帥の道は︑さかしらを脈ひて︑自然を立んとする
道にはあらず︑もとより川の道のまkなる道なり︑これいかでかかの老莊と同じからん﹂
も℃︑︑︑bbももbといってゐる︒宜長の古道は︑さかしらを排し︑ことわりを離れた道であるから︑いかにも自然である︒しか
2
し︑それは︑﹁川の道のまL﹂なのであって︑決して︑﹁天地のおのづからなる道﹂ではない︒故に︑歴史の推移に
ついて宣長は次の様にいふ︑
本居穴暹における逝と丈蕊四七︵二五四七︶
4) 3)
6) 5)
﹃くずぱな﹄︵前川︶五一三
﹃答間錐﹄︵前出︶一二九頁一八竜︑Ⅲリム渓L〆虫仏限9ヶ卜当声一﹄I﹃〃二
三 自然と人生との簾一は︑皇叫の自然であり︑皇國の人生であった︒宜遅は︑うひ山募かに︑﹁遊は天皇の天下を治めさせ給ふ︑正大公共の通﹂といふ︒即ち︑呈叫は祁叫なのである・久松潜一氏は︑近世の復古思潮について﹁古に復る事は素撲に蹄る事ではあらうがそれはすべての文化を捨てL原始的未開の状態に蹄る事ではなく︑因襲的なるものを一旦捨てL人間の本念性に蹄る部である︒﹂といはれる︒︵﹃日本文祭評論史﹄八四八頁︶
頁
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文・駅研究雄二十三岬四八︵一五四八︶
﹁仙中の有さまも人の心もかはりゆくは︑自然の勢なりといふは︑杵迦の論なれども︑これみな肺の御所鱒︺3にして︑在は自然の事にはあらず﹂
と︒やはり︑穴長は︑妓後の根擴を川に求めるのである︒決して﹁自然の勢﹂とは老へない︒したがって︑その間に生
きてゆく人間は無爲であってはならない︒
﹁何事もた瞥祁の御はからひにうちまかせて︑よくもあしくもなりゆくま上に打徐ておきて人はすこしもい
ろふまじきにやと忠ふ人もあらんか︑これ叉大いなるひがことなり︑人も︑人の行ふくきかぎりをぱ︑行ふ
が人の逆にして︑.︵中略︶︑その行ふくきたけをも行はずして︑た園なりゆくま上に打捨ておくは︑人の逆に︺4そむけり﹂︺5といふのである︒人は︑﹁産巣日祁の御蝿によりて︑術へ持て生れつるま氏の心﹂︑即ち︑﹁眞心﹂をもってゐる︒その
﹁眞心﹂によって︑おのづから道を識現するのであるが︑人問はそれを自兇しなければならない︒道の學問を主とせね
ばならないのはこの故なのである︒
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5) 4) 3) 2) 卿﹃くずばな﹄︵前出︶四九七頁
﹃王匝﹄︵前川︶
右の神一五頁
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‑上隅 頁一 六 頁
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このやうに︑宣長は︑港
な多元の祁堂であった︒.ゞ
︑H1ノもb2が如く白然なのであった︒ 道
︑℃︑宣長における道は︑古代の肺凌のしわざによる︑自然現象及び人間生活の現成であった︒このやうな道を認識する
もbb︑ためには︐人は︑まづ︑僻佛の世界槻から脱却しなければならない︒ことわりを離れて︑事資をありのまkに見る一
つの凹然な態度を得なければならない︒しかるに︑醜に我だが見てきたやうに︑宣長において︑文蕊とそはその槻照
も℃︑︑ならびに表現の首尾を通じて︑ことわりを離れた同然な祈動であった︒
﹁川の逆は︑儒佛などの逆の︑善悪延非をこちたくさだせるやうなる理窟は︑鰐ばかりもなく︑た画ゆたかjにおぼらかに︑雅たる物にて︑歌のおもむきぞ︑よくこれにかなへりける﹂
といふのもその故である︒とkに︑文蕊がそれ向身に渦・HD俄仙をもちつ凶︑しかも﹁古道をしる偕梯﹂だといはれ
水府血握における通と文蕊・・・.四九︵二五四九︶
注心﹃吹毘鍵﹄︵前出︶五七瓦口早b8|
2)正谷川如処剛氏は︑穴遮がⅡ本人の生活の笈髄に伽はるおのづからの秩序を辿とし︑自然としたのに對し︑彼︑︑︑︑が怖佛のことわりを否定し准活の自然的側而を亜んじた鮎を弧剥して︑冗埜を自然主義帝と規定し︑一面的な
抽象に陥ってゐられる︒︵同氏﹃自然主義者としての本瞬穴握﹄改造昭和五年三月號︶ の根源を耐に仰ぐのであったが.しかもその榊は︑豫定調和の榊ではなく︑極めて非合理的
︑1ノもbbもしたがって︑その管みは︑ことわりを離れて︑まさに︑﹁奔秋のゆきかはり︑雨ふり風ふく﹂
五
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かるに既に見たやうに古逝は叩半に古代の逆であるばかりでなく︑壷に世界の根源としての道であった︒政治︑道徳︑
宗教︑文郵をどのあらゆる人間活動が随順すべき道であり︑更に人間存在それ自身の可能なる根擴であった︒そこに
ある自然は︑洲の自然である︒宣長があしわけをぶれにおいて︑歌は﹁自然の祁道の中を雛る上にあらず﹂といひ︑ bも℃︑
うひ山ぶみにおいて︑﹁本たる道をこそ鋪一に深く心がけて明らめしるべき﹂で︑それをさしおいて歌をよむのは︑﹁
まことにあだ事﹂であるといったのは︑文藝の猫目性を否定したのではなく︑文藝とは次元を異にした︑世界の生成
と存立との根源に開する自斑をいひあらはしたものと解す書へきである︒
︵昭和十三年四月五日︶
文學研究錐二十三帆五○︵一五五○︶
る所以があった︒
註卿﹃うひ山ぷみ﹄︵前出︶四九四頁
しからば文藝が︑古逝への階梯であって︑直ちに古逝それ自身であり得なかったのは︑何故であらうか︒川心ふに
文藝の立場にとって物のあはれの根振である﹁人の盃の怖﹂及び﹁天地世間﹂は︑何れも與へられたものである︒文 ︑︑bもb
bも藻はた唾與へられた世界を槻照し表現するだけである︒したがって︑そこにある自然は人の心の自然に過ぎない︒し |
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