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滋 賀 ・関 津 遺 跡

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(1)

2004年 出土の木簡

せきのつ

滋 賀 ・関 津 遺 跡

1  所在 地      淳檄 賀 県大 津 市 関津

一丁 目  2 調査 期 間    一一〇

〇三 年

︵平 15︶ 月四

︱二

〇四 年 月三  3 発 掘機 関   ⑪ 賀滋 県 文化 財保 護協 会  4 調査 担 当者  大 崎哲 人

・藤 崎高 志  5 遺 跡 の種 類  集 落跡  6 遺跡 の年 代  縄 文時 代

︱室 町時 代  7 遺跡 及び 木 簡 出土 遺 構 の概 要 関津 遺 跡 は︑ 琵 湖琶 から 流 れ出 た瀬 川田 信と 楽盆 地 か 流ら れ出 た 大 川戸 の合 流点

の南

︑ 田上 山系 北麓

の標 高 約九 四 mの 低 丘陵 部 から 標 高 約 三人

mの 河川 氾 濫域 にか け て立 地す る︒ 二〇

〇 年二 県︑ 営 固場 備整 事 業 に 伴 う事 前 調査 によ り新 た に 発見 され た遺 跡 であ る︒ D

  掘発 調査 の結 果 縄︑ 文 時 立ロ 勅

代前 期 の有 舌尖 頭器 後︑ 期 期 

の土 器 溜ま り︑ 晩期

の土 器 棺 古︑ 墳時 代 の流 路 飛︑ 鳥

代時

の竪 穴住 居

・溝 奈︑ 良時 代 の掘 立柱 建物

・溝

・流 路 鎌︑ 倉時 代 の掘 立柱 建物

・井 戸

・土 娠墓

・溝 など が検 出 され た︒ 飛鳥 時 代中 期 の溝 か ら は︑

﹁早

︵岡 の異 体字

﹁呈

﹂︑も くし は

﹁四 十﹂ か︶ と墨 書 さ れた 土師 器 の杯 が 一点 出土 し て いる ま︒ た︑ 鎌倉 時代 の遺 構 か らは

︑ 大 和 から の搬 入品 と みら れ る瓦 器を 中 心 に︑ 輸 入陶 磁 も器 多 数 出土 し て いる

︒ 木簡 は 遺︑ 跡 北端 の調 査 区 で検 出 した 流 路 から 出 土 たし

︒ こ の流 路 は︑ 約幅 四 m深 さ約

・九 mで 大︑ き く 層二 の堆 積 が確 認 され

︑ そ の上 層 で木 簡 が検 出 され た 上︒ 層 か らは 九世 紀末 頃 土の 師 器 や黒 色 土 器︑  一

〇世 紀前 半 の回 転台 土師 器 伴が 出 し てお り︑ 木 簡 は九 世 紀 末 から

一〇 世 前紀 半 にか け ての も のと みら れ る︒ ま た︑ 層下 か ら は︑ 奈 良時 代後 半 の須 恵 器 や土 師器 のほ か︑ 和 同 開弥 二点 神︑ 功開 宝 一点 人︑ 形 代 一点 墨︑ 書土 器数 点

︵﹁本

﹂︑﹁ 東﹂ な いし

﹁束

﹂な

︶ど が出 土 し て いる

︒ 8  木 簡 の釈 文

・内

︹ 容 上 溜 と

い  

﹁ ︒ 大 日 奴 良

□ 田

□ 水 十 五 日

﹁ 

          七 月 十 四 日         P︵ じ X e 溢

o解

上端 と左 側面 原は 形 を残 し て るい が︑ 右 側面 は縦 に人 為的 と みら れ る割 り が入 る︒ ま た︑ 下端 部 が強

力い で折 られ 欠損 し て いる ほか

(2)

中央 付近 のニ カ所 折で ら れ て いる が 完︑ 全 に分 離 はし て いな い︒ お そら く廃 棄段 階 で折 ら れた も の あで ろう

︒ や や下 部 細が く な って お り 下︑ 端 尖が

てっ いた 可能 性 あが る︒ 墨 の残 り は比 較的 良好 で︑ 表裏 とも 同 一人 の筆 跡 と みら れ る︒ 表 面 の上 か 六ら

・七 字 目 の二 文 字 は︑ 墨 痕 薄が

いこ とと 折 れ によ る剖 離 によ り 釈︑ 読 困難 であ る が︑ 赤 外線 写真 によ り六 字 目 は

﹁上

﹂ で ほ 間ぼ 違 いな いと え考 ら れ る︒ 七字 目 に つい ては 赤外 線写 真 によ り さ んず い偏 見が え 寿︑ の左 半 分 は

﹁留

﹂ の左 半 と解 され ると こ ろか ら︑

﹁溜

﹂ の可 能 性 あが る︒ し た が てっ 文︑ 章 と し ては 読 み通 せ な いが

﹁大 日 の奴 の良 田 ヘ は︑ 上 溜の め

︵池︶ の水 を

︑ こ の 二五 日 入に れ る﹂ あ る いは

︑ コ 一 五 日 に止 め る﹂ と うい 意 解に す る こと が でき る ので は なか うろ か

︒ と す れば 木︑ 簡 を現 地 掲に 示 たし 告知 札 推と 定 す る こと も 可能 であ る︒ 裏 面 の日 付 は︑ うこ たし 告知 が なさ れた 日時 で︑ お そら く 用水 の取 り 口 に突 き 刺 し て使 用 さ れ た も の であ うろ

︒ ま た

﹁大 日 の 奴﹂ と は︑

﹁大 日 来︵如

︶ に仕 え る﹂ の意 で︑ そ の田 と は︑ 大 日 如 来を 祀 るお 堂 の維 持 のた め に置 かれ た 田地 では な いか と考 え ら れ る︒ 遺 跡 北の 一

・二 kmの 瀬 川田 左 岸 に︑ 大 日山 な る小 山 あが り︑ 大 日 古 墳群 と うい 後 期古 墳 群 も みら るれ が そ︑ の山 頂 に

﹁大 日観 音堂

﹂ と呼 ば れる 祠 が現 存 し︑

﹃近 江輿 地史

﹄略 は︑

﹁大 日堂

﹂ には 行︑ 基 薩菩 造が 立 たし 大 日如 来 を祀 ると す る︒ 木簡 に見 え る

﹁大 日 の奴

関に わ る可 能性 があ る︒ 大 日如 来 の信 仰 がわ が国 広で が る のは 九︑ 世 紀以 と降 さ れ おて り

︑ 木簡

の出 土遺 構 の年 代 と ほ ぼ 一致 す る︒ そ し て︑ こ の地 域 は近 年 ま で溜 池 灌漑

盛の んな 地 域 であ り 本︑ 木簡 は︑ 今後 平安 代時 前期 おに け るこ

の地 域 の開 発 用と 水排 管 理 の実 態 を 明 らか にす るう え で︑ 重 要 な手 が りか と な る であ うろ

︵1 17  藤 高崎 志︑ 8  大橋 信弥

︿安土 城考 古博 物館

参照