滋 賀
・ 穴 太 遺 跡
i 所在 地 滋 賀 県大 津 市 下坂 本 一丁 目
・唐 崎 四 丁目 2 調 査 期間 一九 八 二年
︵昭 57︶ 月五 を 一九 八三 年 二 月 3 発 掘機 関 滋 賀 県薮 育 委員 会
︒回 滋 賀 県文 化財 保護 協 会 4 調査 当担 者 林 通博
︒吉 谷芳 幸 5 遺跡 の種 類 寺 院
・官 衝
・集 落跡 6 遺跡 の時 代 縄文 後 期 i平 安 時代 7 遺跡 及 び木 簡 出 土遺 構 の概 要 穴 太遺 跡 比は 叡山 麓 から 琵琶 湖 にか け て広 が 大る 津 北 郊 の扇 状 地 の 一画 にあ り︑ 縄文 時代 から 平安 時代 にわ た る広 大 な複 合 遺跡 あで る︒ こ の地 は景 行
・成 務 天 皇 の高 穴 穂宮 伝の 承地 あで り︑
﹃延 式喜
﹄ 記載 の北 陸 道第
一の 駅 であ る穴 駅太 家 推 定 地 もで あ る︒ これ ま で の調 査 で︑ 扇状 地 の中 央付 近 から は自 鳳 期 の寺 能 の 一 郭 瓦と 窯 一基 古︑ 墳時 代 の 形方 周溝 墓︑ 竪穴 住居 跡 な
がど 確 認 され て いる
︒ こ の遺 跡 を縦 断す る形 に国 道 一六
一号 ハ゛ イ パ ス建 が設 計 画さ れ 前︑ 年 度 から 本 格調 査 始を めた が 当︑ 該 地 遺は 跡 の東 北 端︑ 扇 状 地 の裾 部 に当 る︒ この 査調 区 では 地 表下 四i 四
・五 にm 縄 文後
︒晩 期 の遺 構 面︑ 三
・五 i 四 mに 六世 紀末
? 七世 紀 中頃 の遺 構面 が 認 めら れ︑ 当 時 の湖 岸 近に い低 湿地 に営 まれ た集 落跡 と 解 され る︒ 木簡
の出 土 たし のは 上 から 第 三層 目 の六 世 紀末 を 七世 紀初 頭 の面 で︑ 集落 内 に設 け れら た小 さ な浅 い溝 から 検 出 され た︒ こ の集 落 は そ の北 端 素を 掘 り の溝 画で し︑ そ の内 側 に柵 を めぐ らし
︑ さ ら にそ の内 側 建に 物 を配 し て いる が︑ 柵 沿に
たっ 空 間地 には 桃 の木 が植 栽 さ れ てい る︒ 建物
の大 半 掘は 立 柱建 物 であ るが 中︑ に礎 建石 建ち 物︑ そ れを 建 て替 え た土 台建 ち建 物︑ 切妻 大壁 造 住り 居 な 特ど 異 な建 物 が混
じ て いる
︒ 切妻 大壁 造 住り 居 幅は 約 一m の溝 を 一辺 八 m前 後 の 方 形 めに ぐ らし
︑ そ の溝 底 三に
〇 i 五〇
伽間 隔 間で 柱 を配 し︑ 向き 合 う 辺二 の中 央 に 一ま わり 大 き 棟な 持 ち柱 二本 を深 く 立 て︑ そ の後 す 溝ぐ を埋 め︑ 土壁 を四 面 に めぐ ら せた 家 あで る︒ 一 辺 の中 央 には 入 口を 設 け︑ 床 には 粘 土 を敷 いて 土間 と し て るい
︒ こ の建 物 の構 造 や礎 石 を用 いた 建 物 の存 在︑ こ の遺 跡 のす 山ぐ 手 あに る横 穴式 石室 構の 造 など から 渡来 系集 団 かに かわ る集 落 かと みら れ る︒ 8 木簡 の釈 文
・内 容
□︒
□
□
(京都東北部)
1982年出上の木簡
・﹇
︲ ︲﹈﹇
︲ ︲﹈ ﹈〇卜
﹀︿︵やΦ︶
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〇伽Φ 表 面 の第 二字 は 十﹁
﹂冠 の文 字 と みら れ る︒ 表 裏 もと 墨 痕 は認 め ら れ るが 判読 はで き な い︒ 木衝 の 一側 辺 の 一部 は欠 損 し て いる
︒ 下 半 は 一方 から 切 込り ん で幅 を せば め︑ さら に先 端 を 二次 的 に削 てっ と が らし て いる
︒ また 中︑ 央 近く には
一孔 を穿
てっ るい
︒ 本木 簡 は判 読 はで き な いも の の六 世紀 末 七? 世 紀初 頭 のも ので
︑ 木 簡 と し ては 最 も古 い事 例 に属 し︑ し かも 集︑ 落 跡 から 出 上し た点 が 注 目 され ると こ ろで あ る︒ こ の集 落 を特 異 な建 物 を も つ集 落
︑ す な わ ち︑ 渡 来 系集 団 の集 落 と解 釈す る こと によ
てっ
︑ こ の木 簡 の存 在 が理 解 さ れ よう
︒
︵林 博 通︶