九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
青柳種信関連書簡集(六)
吉田, 宰
九州大学
手紙を読む会
http://hdl.handle.net/2324/4742099
出版情報:雅俗. 19, pp.140-151, 2020-07-15. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
◉連載 本稿は、本誌第十四号より連載している「青柳種信関連書簡集」の続稿である。今回掲載する資料は、福岡市立歴史資料館が昭和六十一年に発行した『青柳種信関係資料目録』(以下「目録」)所掲の「④師弟・その他との交友関係」((一)古文書、(a)原文書)のうち、宮原国綸から種信宛てに送られた書簡、計
は福岡市博物館に「青柳種信関係資料」の一部として収蔵されている。 5通である。なお現在、本資料群 1
一、青柳種信と宮原国綸
青柳種信(明和三年〈一七六六〉二月二十日生、天保六年〈一八三五〉十二月六日没)の伝記については、本誌第十四号所収の「青柳種信関連書簡集(一)」に概要が備わるため、ここでは宮原国綸との関係を中心に記す 2。
宮原国綸は、宝暦十二年(一七六二)に生まれ、文政十一年(一八二八)四月十七日に没した久留米の人で、享年六十七。名は国綸。通称は文進。字は世経。号は桑州。筑後久留米藩儒・宮原南陸の嫡子。父・南陸の学統は闇斎学で、浅見絅斎
- 合原窓南
- 南陸
- 国綸と継承
された。また国綸の嫡男・半左衛門は、文政八年二月十七日に真木和 泉守保臣の長姉・駒子と結婚し、この婚姻関係によって、真木和泉守は国綸から崎門の学を受けることとなる。そのほか、国綸は柔剣術に長じ、越後流兵法にも通じたとされている。 種信と国綸の関係について、先行研究での言及は見当たらない。しかし、本稿掲載書簡の内容から判断するに、例えば仮名遣いに関する種信と国綸のやり取り(書簡
る種信への添削依頼(書簡 1)や、国綸が執筆した孝子伝物に対す 2・ 書物の貸し借りなども両者間では行われていたようである(書簡 仰いでいる様子が窺える。また、古代の事物に関連する情報の交換や、 4)など、種信に対して国綸が指導を
3・ 4・ る(書簡 5)。そのほか、種信の歌文を国綸が拝見していたことも読み取れ 5)。
このように、本稿掲載書簡を繙くと、国綸は種信から和学や孝子伝物などに対する少なからざる教えを受けていたことが明らかとなる。
とくに国綸による孝子伝物の執筆については、井上敏幸がすでに指摘している通り、かつての久留米藩儒医・藤井懶斎が著した『本朝孝子伝』(貞享二年〈一六八五〉刊)を淵源とする、諸藩の儒学者たちによる近世孝行説話集の執筆の流れの中に位置づけられるものであろう 3。ただし、本稿掲載書簡から明らかとなるように、国綸による孝子
吉田 宰 青柳種信関連書簡集(六) 手紙を読む会
伝物の執筆にあたっては、国学者・種信の存在が添削者として大きく影響していた点に注目される。
井上は「(上略)官板『孝義録』が刊行された享和元年(一八〇一)以降幕末にかけての孝子伝の筆録者達は、儒学者より国学者へとその中心が移っていたといってよいように思われる」と述べ、種信筆録『筑前国宗像郡烈女政伝』(享和元年十一月二十一日種信識語)の写本があることや、筑前武丸村の孝子・正助の五十回忌追善集『孝 子五十回雪の比』(文化三年序跋刊)に種信が跋文を寄せていたことなどを紹介している 4。
したがって、右のような種信による孝子婦伝の筆録活動と、国綸が自身の孝子伝物の添削を種信に依頼したこととは、決して無関係ではないであろう。
従来の国綸に関する伝記では、彼を専ら闇斎学系統の中で位置づける説明がなされてきた。しかし、本稿掲載の書簡を考慮すれば、国綸の和学的素養や孝子伝物執筆の裏側には、国学者・種信の存在が大きく関わっていたことが明らかとなるのである。
なお最後に、理由は不明だが国綸の花押について、書簡
2と書簡 3・ 4とでは異なるものが使用されていることを付言しておく。
二、資料紹介
今回掲載する書簡番号と寸法(縦×横、単位:糎)、および担当者名を( )内に記す。書簡番号は「目録」に準じる。
1 年次未詳種信宛国綸書簡 (
144/ 16・
5× 17・
1/三ツ松誠)
2 寛政九年八月二十五日種信宛国綸書簡 (
145/ 15・ 5× 150・
6/吉田宰)
3 年次未詳(種信宛)国綸書簡 (
146/ 16・ 5× 87・
0/天野聡一)
4 享和元年十二月十九日種信宛国綸書簡 (
147/Ⓐ
15・ 9× 88・
1/高橋昌彦)
(
147/Ⓑ
16・ 2× 38・
4/高橋昌彦)
5 享和元年(推定)十二月十九日種信宛国綸書簡 (
148/ 16・ 2× 37・
6/村上義明)
注
1 本稿掲載の書簡
当該書簡内容などから、種信宛であろうと判断した。 て「青柳種信関係資料」の一部として一括収蔵されていることや 3には宛名がないが、現在福岡市博物館におい
文堂、昭和九年)三十五 留米市役所、昭和七年)九十九頁、宇高浩『真木和泉守』(菊竹金 2 宮原国綸に関しては、以下を参照した。『久留米市誌』下編(久
- 三十六、
四十四
- 四十五頁、
『福岡県史資料』続第一輯 伝記編一(福岡県、昭和十六年)解説、小川常人『真木和泉守の研究』(神道史研究叢書六、神道史学会、昭和四十五年)四、十九
辞典』第四巻(岩波書店、平成十年)「宮原桑州」項。なお、『真 典』(復刻版、葦書房、昭和六十一年)「宮原国綸」項、『国書人名 堂、昭和五十六年)「宮原国綸」項、三松荘一『福岡県先賢人名辞 十頁、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文 - 二
木和泉守』『久留米人物誌』『国書人名辞典』では通称を「文之進」とするが、本稿掲載書簡ではすべて「文進」と記載されるため、本解説でも「文進」の通称を用いた。
明編『説話文学の世界』所収、世界思想社、昭和六十二年)。 3 井上敏幸「近世
―
近世的説話文学の誕生」(池上洵一・藤本徳
収、福岡県、平成六年)。 4 井上敏幸「孝子婦伝」(『福岡県史』通史編福岡藩文化(下)所
三、凡例
翻刻について一 、読解の便を考慮して、適宜句読点、濁点、「 」『 』等を付した。一 、助詞の「江」「而」「者」「ゟ」等は平仮名にひらいた。一 、一部の助詞、送り仮名等の表記に用いられる片仮名は平仮名に改めた。一 、「ゝ」「〳〵」等は原則として表記の通りに翻刻したが、漢字一文字分の畳字は「々」に改めた。一 、旧漢字、俗字、略体字、異体字等は適宜通行の字体に改めた。一 、割注は〔 〕内に記した。一 、行移りは基本的に無視し、日付、差出人、宛名等のみ改行した。一 、尚々書は原書簡における位置に関わらず、本文の後ろに翻刻した。一 、判読不能の箇所はおおよその文字数を□で示し、判読できない理由や推定したものを( )内に傍書した。
例:□ (ムシ)□=虫損による資料の破損箇所 □ (ヤブレ)□=虫損以外による資料の破損箇所
□ (候儀)□=ほぼ確実に「候儀」と推定できるもの □ (致置カ)□=不確実ながら「致置」と推定できるもの □ (難読)□=判読不能 注釈について一 、人名、書名、地名、書簡の年次推定に関わるものを中心に注を付した。一 、人名の注には、特に断りのない限り『国史大辞典』、『和学者総覧』等を用いた。一 、前号までの書簡および注釈を参照する際は、次のように示す。
例: 『雅俗』第十四号「青柳種信関連書簡集(一)」書簡
5注 参照する場合→ 10を 14号
5注 10参照 最後に、令和元年度の「手紙を読む会」の参加者名を以下に記す(五十音順)。
天野聡一 川平敏文 河野理菜 施超智 園田豊 高橋昌彦 野口智代 三ツ松誠 村上義明 吉田宰 劉書縁 四、書簡1
年次未詳 種信宛国綸書簡
一 、「むくい」を「むくひ」と御直し被下候。『古言梯 1』には「『字鏡 2』
牟久伊○今、むくひ、むくふ、と書は誤 3」と記せり。御直し之通とは被存候へども、為念尚又御尋、得貴慮候。以上 十九日 文進 勝次様
注
1 楫取魚彦著『古言梯』一巻一冊(明和二年〈一七六五〉刊)。
2 昌住撰『新撰字鏡』十二巻。
14号 5注 27参照。
鏡』と記している。 用元では『新撰字鏡』を字と略記しているところを、文進は『字 3 『古言梯』む部からほぼ本文の通りに引用している。ただし、引
2寛政九年八月二十五日種信宛国綸書簡
近来は打絶御左右も不承、失礼之至に御坐候。時下冷気相催候所、弥御清安可被成御勤務、奉恭喜候。当方無異事罷在候。乍慮外御懸念被下間敷候。爾て昨年御覧被下候『孝子伝后編 1』、春来刻相済申候。本仕立も追々出来可仕、手に入候はゞ、呈几右候心得に御座候。扨又続篇 2
疾取掛罷在、此節は孝子伝卒業之儀に付、『孝経』によりて少々存寄所相認、孝行話と題、伝文に附属仕候積に御坐候。則草案別冊入御覧申候。乍去御存知之通、素り文辞之事一向学不申、只々自己之見にて漫書仕候故、雅俗本末も相分り不申事共御恕察可被下候。勿論瑣細之義も思召寄之所は無御遠慮一々直に御加筆被成可被下候。御役繁中毎般御面動 (ママ)之至に奉存候得共、宜様御改可被下奉憑候。右之段得貴慮度、御見舞旁如此御座候。弥期後信候。恐惶謹言 八月廿五日 3 宮原文進 国綸(花押)
青柳勝次様 几右
注
1 国綸著『筑後民間孝子伝後編』二巻(寛政九年〈一七九七〉序刊)。
奇特被為思召上、依之金子三百疋被下置候」云々とあり。(下略)」 略候得共、献上仕たり翌十一年甲戌七月廿三日右著述骨折候段、〇中 良民伝一冊用者注:一八一三)六月十三日…孝子伝続編出版は致さす孝子伝一冊 (福岡県、昭和十六年)の解説では、「宮原家系図に「文化十年(引 2 国綸著『筑後孝子伝続編』。『福岡県史資料』続第一輯伝記編一
と説明される。また、『筑後民間孝子伝後編』(注
で「扨又続篇疾取掛罷在」とあることと対応する。 中に「前編僅出又梓此編、継将及続編」とあることは、本書簡中 1参照)の序文
「春来刻相済申候」とあり、これらが対応することから、寛政九年。 春・樺島公礼(石梁)の序文が備わっており、また本書簡中でも 3 『筑後民間孝子伝後編』の成立時期に関して、該書には寛政九年
3年次未詳
(種信宛)国綸書簡
厥后は御疏𤄃に打過申候。寒冷之候に候処、弥御清勝可被成御勤務、致欣躍候。当方小子 1無異変罷在候。乍慮外御降意可被下候。然ば兼て御問合せ之儀も捜求いたし居候へ共、古代之義には必至とて、手に入兼、思召之程も甚気之毒に奉存候得共、如意無御座候。其段は御海恕可被下候。此節、大人思召之図写取申候付、御用達は仕間敷候へども、別紙一通差遣申候。御落掌可被下候。扨又、『筑後風土記 2』追々相求居候へども、国中にては一向無御座候。若御心易方にてなど、所持之衆も御座候はゞ、一覧仕度候。乍御面動 (ママ)、御序に御僉義可被下候奉頼候。右は御見舞旁為可得貴慮、如斯御座候。恐惶謹言 十月十二日 宮原文進
国綸(花押)
注
(一八二五)に真木和泉守の姉駒子と結婚した(『久留米人物誌』)。 1 長男・半左衛門(得、字は多助)か。なお、半左衛門は文政八年
紀』所載)。当時における流布状況は不明。 国号」「生葉群」「三毛群」の四項目が伝わる(いずれも『釈日本 2 『筑後国風土記』のことか。同書は逸文として「磐井君」「筑後
4享和元年十二月十九日種信宛国綸書簡
【端裏】享和酉十二月/筑後宮原文進着
去月十一日去る三日両通之御答書草藁共、一同相達、忝致薫誦候。如貴教甚寒御座候所、弥御平善御勤務珍重不過之奉存候。不侫依旧罷在候。乍慮外、御降意可被下候。然は御憑申置候『孝子伝 1』、早速御添削被下、追々熟話仕候処、御朱書一々敬服、実に御加筆にて和文之躰を
初て得候所など、多御親切之程、別て忝次第に奉存候。乍去御繁務中と申御煩労を掛候段、忝内、却て恐入候義に御座候。殊に御細筆重々被入御念候御事共、□ (難読)□仕義に御座候。次第寒威相増申候。乍慮外、御自愛御凌可被成候。先は右御礼旁如此御座候。恐惶頓首 臘月十九日 2 宮原文進 国綸(花押)
青柳勝次様 尚以、年来御疑之国中古跡等御問合被成候由、数ヶ条御示申趣委細承知いたし候。不侫手に及候分之儀は、御需之外之義迄も、追々委く御知可申候。尤三池柳川之事は、它邦之義に付、急には行届不申候。手元之儀は、相分次第、不遠御知せ可申候。其内一条村石人 3等之儀は、古老之書留も御座候間、早々懸御目度様候へども、節迫俗事紛々任心底不申候。何事も落着、縷々可得貴慮候。已上
注
1 『筑後民間孝子伝続編』をさすか。
2 端裏書より、享和元年(一八〇一)。
3 現在の福岡県広川町一条にある石人山古墳。
Ⓐ
Ⓑ
5享和元年(推定)十二月十九日種信宛国綸書簡
二白 御旧作之御歌文御見せ被下、忝不取敢拝覧、御筆力雄抜、感心仕候。追々同志之者へも拝見為致候事に御座候。尚、御著書も可有御座候。追々御見せ可被下候奉希候。一 、已来、御書通も不仕、私方よりは当城下片原町 1にて罷在候万屋和助と申者、京摂は勿論、隣国往返之商人参候問屋にて御座候。此者方へは其当町之商人も常々参り候由に付、其者へ相頼、御宅へ相達候事に御座候。其御方より御書礼被遣候節は、右和助方へ相届候様、御取量可被成候。和助へも兼て其段可申付置候間、左様御承知可被下候。為念得貴慮置候。不備 臘月十九日 2 文進
勝次様
注
1 現福岡県久留米市通町・城南町・中央町付近。
2 本号
4の二白であれば、享和元年(一八〇一)の書簡であろう。
謝 辞
資料を掲載するにあたり、書簡の撮影および掲載許可等、福岡市博物館の方々に大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。