創造性を育てる工作の指導に関する研究
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(2) 目. 次 1. はじめに. 第1章 手工教育における大正から昭和という時代 第1節 手工教育基礎建設の時代 …………・ 1 手工研究会 2 手工教育高揚の気運 第2節 教育思潮と手工科 ………… 1 新教育思潮 2 諸説への対応. 2 岡山秀吉の’1青熱. 第2節 岡山秀吉の手工教育主張 1 手工教育の任務及び目的 2 手工科教材の選択 3 手工科教材の配列 4 手工科教授の方法 5 岡山秀吉の手工教育の特徴 第3節 その他の手工教育傾向 1 新手工教育主張 2 流行的教材. @”. 3. 3 3 8 18 18 24. 62 62 63 0333 94 24 65 2. 第2章 岡山秀吉を中心とした手工教育 第1節 手工教育における岡山秀吉の位置 1 岡山秀吉の行動. ;”.
(3) 第1節 授業実践の概要 …………・ 1 授業実践の目的 2 授業実践の方法 第2節 授業の実際 …………”…’ 1 学習指導案 …・. 2 子どもの反応及び結果 …・ 第4章 岡山秀吉を中心とした手工教育からの考察 …・ 第1節 授業の比較考察 ………… …’. 第2節 現代の工作教育に生かすべき視点 … 1 材料の技術 … 2 工具の技術 3 授業と指導法 4 題材選定の視点 5 安全に対する意識. 1 20. 終わりに ………………・・冨………………・噂・…・一. 付録 ……………・・t……………………・. 参考文献 …………………………………. 亀. 冒. ワ白?一?ぬり0り04. 〔註〕 ……………・・・……………・・. 1 手工講習会概況 且 岡山秀吉の略歴 皿 手工科教材の選駅配列. 55571⊥1⊥ 9自 3 311581 6 4n 6Qり瀦15ハb 9 1 9 110 笥■0 110 ⊥−⑪ ⊥ 11 11⊥111⊥ ρ0ρ0ρ0ρ07ワσ00. 第3章 授業実践 ・・・…………………………….
(4) 1ま じめ . }こ. 私の勤務地である広島県は,過去において工作教育が大変盛 んであったと聞く.しかし,現在では他県の多くと同様に絵画 が図工科の中心を占め,工作はほとんど形式的にしか行われて いない現状である.現代の教育に生かされるべき視点が,絵画 以上に多く含まれると考える工作の不振は大変残念である. 工作の学習では,手を操作し物を作るという行為を通しなが ら,目的に合うように工夫し考えを練る力を身に付けさせてい くことが重要である。その過程において知識や技術は生きたも のとなり,創造する力も育っていくものであると考えている.. このような視点に立って現代の工作教育を考えるとき,実践的 ・体験的学習(手を通して考える学習)の不足に思いは至る. “手がなえている”とか“手が虫歯にかかっている”と言われ るようになって久しい今,手の価値をふまえた現代的工作学習 の創造が必要であると考えた.. そこで,現在の工作教育はどのような流れを受け生まれて来. たか調べてみることにした。我が国の工作教育100年の歴史 を振り返ると,明治19年(1886)手工科誕生以来,手の訓練に よる技能の向上が重要な位置を占めていたことが分かる.その. 中において,大正末期頃より様々な教育思潮の出現と共に,手 工教育も新しい動きを見せ始めている.即ち,技能の向上だけ でなく,子ども自らが考案・工夫・製作することを通じ創作心 を育てていこうとするものである.現代でさえ技術本位の工作 指導が多い中で,この時代に創作に関する主張がなされていた 1.
(5) とは大変な驚きであった.この時代に手工界に生きた人々は,. どのような考えのもとで,どんな活動をしていたのかを知りた いと思ったのがこの研究の動機である.申でも,当時最も手工 教育のために尽力した人物であると思われる岡山秀吉の手工教 育に関する主張を中心として,この時代における創造性とは何 か,指導の実際は……等を探ることにより,現代の工作学習創 造への視点を見付けたいと考えるものである。 当時の手工教育界を常にリードする立場にあった岡山秀吉は, 手工科の目標について, 「普通教育上手工の必要なる所以の一. は,本科が自襲的・創作的の能を襲達せしむるに敵するが故で. あるから……」(Dと創造性の重要性を説き,さらに物品製作 の能を養うための注意として,「手の練習を重んずべきこと. 心的陶冶を重んずるものは,手の練習を輕んじ,この諸機械の 獲達せる今日,手の練習に力を用ふるの要なしといふけれども, これは大なる誤りである」〔2’と,手の教育は創作力と共に必 要欠くべからざるものであるとしている.この考えは,それ以 前の学級の全児童が同じ物を製作し,ひたすら技巧の巧みさや 仕上げの美しさを求めていた形式的陶冶の手工教育とは流れを 異にするものである.子どもを教育の中心に据え,可能性を引 き出し伸ばしていこうとしたこの時期の手工教育は,十分現代 に通じる視点を示唆してくれるものであると確信する.. そこで,その当時の手工教育界の様子をよく伝える雑誌r手 工研究』や岡山の著書等を通じ,岡山秀吉やその周辺の人物の 手工教育における主張を探ることを通じ,現代の工作教育に生 かされる視点を明快にしていきたいと考えるものである. 2.
(6) 第−章 手工教育における. 大正から昭和という 時代 明治19年(1886),「小学校ノ学科及其程度」‘3)の公布に より,高等小学校の加設科目として,英語・農業・商業と共に. 初めて手工科が学校教育の中に登場した.この時より数えて本. 年で丁度100年を迎えるが,この100年の間手工科は必ず しも順調な歩みを見せて発展してきた訳ではなく,幾多の消長 を繰り返しながら今日に至ったことは言うまでもない.その消. 長をもとに,100年間を幾つかの時代に区分することができ るが,その中でも最も充実し,且つ新しい視点を持って手工教 育が推進されていたであろうと考えられる大正末期から昭和初 期にかけての一時代に焦点を当て,この時代が手工教育の歴史 の中でどのような意味を持つのかを明確にしていくことにする。. 第− :節. 手工教育. 基礎建設の時代 1 手工研究会 手工研究会は明治19年(1886)の手工科加設後間もなく,手 工科教員養成のための実地伝習会参加獲たちが中心となって創 設した研究機関であり,児童作品の批評や教材研究等を目的に していた.後に機関雑誌r手工研究』の発行や手工講習会の主 催或いは文部当局への建議等により,手工科の地位向上や内容 3.
(7) 充実のために目覚ましい活動をしている.この手工研究会は常 に手工科の消長と共に在った.従ってここでは,その歴史を追 って見ていくことで,手工教育における大正末期から昭和初期 という時代を捕らえようとするものである.以下に,手工研究 会及びそれに関連の手工教育の出来事について示す. 手工教育及び手工研究会史. O 手工科に関するもの ㊥ 手工研究会に関するもの 明治19年(1886) O 高等小学校随意科目として手工科が加設された. 明治22年(1889) O 手工科教員養成のため,東京府主催手工科実地伝習会が東 京府立第一一中学校において開催された.講師は東京商業学校. 教諭で同附属商工徒弟講習所主事であった上原六四郎が務め た.. 麟 上原六四郎を会長として,手工研究会が創立された.会員. は東京府主催手工科実地伝習会参加者約80名を中心とし,. 東京市内の小学校長50余名の賛助会員を加え約130名で 発足し,有志が集まっての作品批評や教材研究を主な活動内 容としていた.この会は,先の実地伝習会の修了讃書授与式 後の謝恩懇親会の席上において,研究継続機関設立の動議が 出され発会したものである。. 明治30年(1897). ㊧ 手工研究会は時期尚早のため思わしい発展を見ず,一時休. 4.
(8) 会となった.. 明治32年(1899). O 東京高等師範学校に,手工専修科が設置された. 明治36年(1903). Q 文部省主催の手工講習会が東京高等師範学校において開催 された.対象は全国の師範学校手工科担任教師,同附属小学 校訓導,各府県視学及び郡視学とし,以後4回続いた. 明治37年(1904) Q 文部省より小学校教師用手工教科書が発行され,ようやく 手工科は世人の視聴を惹くに至った.. 明治39年(1906). ㊥ 手工研究会が,上原六四郎・岡山秀吉・阿部七五三吉・一. 戸清方等の尽力により再興された。会員は約60名であった. 明治40年(1907) Q 小学校令が一部改正され,義務教育が6年に延長された。 Q 文部省訓令発布‘4)に合わせて,時の文部大臣牧野伸顯が 地方長官に対し尋常小学校にも手工科の加設を大いに奨励し たため,手工科を加設する学校が増加し,各地で手工講習会 が盛んに開催されるようになった.. ⑭ 手工研究会機関雑誌r手工研究』第1号が創刊された.大 きさは菊判182ページ,内容は上原会長発刊の辞,各士の 創刊の祝辞及び論説,会員の研究,通信,質疑,記録,会報. 等が載せられ,2000部印刷された. 明治44年(1911) O 小学校令改正。5)により,高等小学校の実業科目が充実し 5.
(9) た.手工科の教授時数が改正前と比べて大幅に増え,また農. 業・商業・手工の内1科目を課すとしたため,設備や教師不 足等の原因により手工加設校は減少した. 大正2年(1913). 醗 手工研究会会長上原六四郎彼後,岡山秀吉が二代目会長に 就任した.. ㊧ 手工研究会及び全国図画手工教員協議会とにおいて法令改 正の建議を決議し,両者は共同して時の文部大臣一木喜徳郎 宛に建議書を提出した.手工科好転のための材料となった. 大正4年(1915). ○ 東京高等師範学校における図画手工専修科の募集中止に伴. い,同校主催の手工科講習会が2ケ月の長期に渡って開催さ れた。. O 全国各地(全道府県の約半数余り)で手工に関する研究会 が発足し,盛んに手工講習会が開催されるようになった.手 工科上昇の機運が熟して来つつあることを示すものである. 大正8年(1919). O 小学校令改正‘6’により,高等小学校の教科目が手工有利 となった.先の手工研究会及び全国図画手工教員協議会によ る共同建議の主旨が大分取り入れられたものとなっている. 大正14年(1925). ⑭ 手工研究会機関誌r手工研究』が,第60号より月刊の公 刊雑誌となった.. 働 文部大臣の許可を得,手工研究会が社団法人となった.こ. の時点での手工研究会会員は約600名で,日本全国はおろ 6.
(10) か遠く台湾・満州・朝鮮・中華民国からも参会を得,目覚し. い発展を遂げている.しかも,僅か600名の会員を以て社 団法人としての許可を得,裁判所の登記までも済ましたとい うのは当時としては異例のことであり,手工研究会の一大発 展として記念すべき事柄であった. 大正!5年(1926). O 小学校令の改正により,高等小学校における手工科が完全 必修科目となった.. O 文部省主催の夏期講習会が実施された. 昭和2年(1927). O 高等小学校における手工科が,必修科目として実施された. ⑭ 手工研究会主催第1回夏期講習会が開催された. 昭和4年(1929). 幽 手工研究会が日本手工研究会と名称を変更した. 昭和8年(1933). 翻 日本手工研究会会長岡山秀吉の残後,阿部七五三吉が三代 目会長に就任した.. 昭和16年(1941). O 国民学校令が発布され,芸能科工作が誕生した. 昭和18年(1943) 盤 戦時下の雑誌統制により,r手工研究』が休刊となった。 昭和20年(1945) ㊥ 手工研究会は戦後休眠状態に入り,有名無実の会となった.. 7.
(11) 2 手工教育高揚の機運 手工教育の消長は教育制度に大きく影響を受けその動向を左 右されていたということは,前項の表によって明らかである. しかし,いかなる状況の下でも常に手工を愛し,手工教育発展 向上のために尽力した人々が居たことは見逃せない.彼らの弛 まぬ努力が教育制度をもやがて有利に導き,手工教育の地位を 向上させる原動力となったと見ることが出来る.その力は大正 末期の小学校令改正によって一層勢いを増し,教師たちは手工 科にようやくともった灯りを消すまいと懸命に研究・実践を重 ねた。それによって,大正から昭和にかけての一時代が,手工 教育にとっての基礎を建設する大いなる価値を持つに至ったと 言えよう。即ち,手工教育を発展充実させて来たのはそれに携 わる教師たちの熱意以外の何物でもなく,その熱が最も華やか に燃え盛ったのがこの大正から昭和にかけての時代であると考 えるものである。. 従ってここでは,その熱気を伝える具体的事項について示し ていくことにする. (1)法令改正. 大正15年(1926),小学校令嗣小学校令施行規則の改正に よって,高等小学校の手工科は実業科と区別され必修科目と なった.それ以前の手工科は明治19年(1886)手工科設置以. 来40年の間.尋常小学校で常に随意科目としてあった.高 等小学校では実業教科として必須科となった時期はあっても, 土地の状況によるものとされていたため加設する学校は少な. 8.
(12) く,一般教育社会からは重要教科としての待遇を受けていな. かった.従って手工科が高等小学校のみにおいても必修とな ったという出来事は,当時の手工教育に携わる者にとっては 大変な喜びだったのである.. この理由としては,小学校令改正に付帯して出された文部 省訓令第十号に, 「蓋シ高等小学校ノ児童ハ其ノ卒業ノ後多 クハ社会ノ実務二従事スヘキモノナルヲ以テ其ノ教育ノ内容 ヲシテ実際生活ニー層適切ナラシメンコトヲ期シ以上ノ改正 ヲ施シタルナリ」とあるように,実務教育の一層の強化を意 図した国家社会の要請によるものであったということが分か る.阿部七五三吉はこれを受け, 「我が姻家社會を平和にす るためには,何といっても勤螢を厭はぬ勤勉なる國民を養成 する外事に方法はないのであります.之が,即ち,手工科を 必修科とし早業科を重要するに至った主なる理由ではなから うか.私は左様信ずるものであります」(7’と手工科の果た すべき役割を強調し,更に国家・社会・個人の幸福を念じ奮 闘努力しなければならないと述べている. しかし,一般の教育社会の反応は極めて厳しいものであり, 面倒でうるさい教科とかどうせまた次の改正で消えてしまう 教科(8’などと,以前の風潮は改まらず,手工教育関係者に. とって決して楽観を許すものではなかった.そのため一層手 工関係者は懸命に手工教育に着手し,手工教育が次第に上昇 線を辿りかって見なかった程の充実期を迎えるに至った.そ の当時の様子は,必修科としての手工科が実施される直前に r手工研究』に載せられた伊藤信一郎の「我が國に於ける手 9.
(13) 工教育の攣遷を顧みるに,明治十九年頃から数年間は所謂第 一次の手工教育振興時代とも云ふべき時であった.次に明治 四十年頃から四五年聞は,第二次の手工教育隆盛時代とも云 ふべき時である.而して第三次の手工教育振興の高潮は今や 徐うに津々浦々に押し寄せて來て居る.これが時々刻々と水 平線を高め,この水平線を維持し更に高めるために多数の會 員各位は全幅の努力を捧げて居る.今日に於ては,恐らく手 工科の講習が最高位を占めて居らう.吾々は,前人の未だ曾 て味わひ得なかった所を楽章にして居る詳である.幸運と云 へば實に幸運である.幸に各位の自愛を望む」(9’という小 文によって伺い知ることが出来る. このように手工界に携わる者ば,手工教育における新しい 波を喜々として受け止め,一層発展のために尽力しようと決 意を新たにしていたことが分かるのである. (2)雑誌r手工研究』. 手工教育にかける熱意は,当時の手工教育者の何れの記録 からも読み取ることが出来るが,それをよく伝えるものとし て,ここでは手工研究会の機関雑誌r手工研究』の編集に関 する苦労の記録に求めてみよう.. 雑誌r手工研究』は先に述べた手工研究会史においても触 れたが,今一度詳述する.内容は,写真(製作品,授業風景 等)・手工教育に関する論説・法令の解釈及び対応・会員の 研究(材料,設備,工具,教授法等に関して)・各地の手工 及び工業教育の状況・研究会の記録・文検(10’受験の対策・. 10.
(14) 会員の活動状況・会員外の各家の論説 等と,手工教育に関 するあらゆる情報を満載した充実したものであった.創刊は. 明治40年(1907),当初年2∼6回の発行であったが,大正 14年(1925)第60号より月刊の公刊雑誌となった.ページ. 数は50ページ前後,金額はその当時(大正15年)で30 銭の小冊子である.. 現代ならばこの程度の雑誌は苦も無く編集され,容易に我 我の目に触れる所となる。従って,その苦労を思うこともな い.しかし当時の状況を顧みれば,いかに大変な作業であっ たかが思いやられるのである.当時の編集代表伊藤信一郎は この編集の苦楽に関し後に思い出を綴っている(’D。それに. よると,r手工研究』はその記事を主に会員の寄稿に頼って いたため原稿集めが容易でなく,時にはその穴埋め記事を急 遽自ら書かなければならなかったこと。また原稿は集まって も,規定に合うよう形式を整えたり,時には字句や内容まで も修正したりしなければならなかったこと.更に当時の印刷 技術の低さによる,誤植・欠字等の修正のための最低4度の 校正作業と,その苦労は数限りない.しかもこれらの作業を. 東京高等師範学校附属小学校教諭としての公務や手工研究会 の主要メンバーとしての講演等に追われる超多忙の身であり ながら,ほぼ一人で4年間もの間成し遂げたということは実 に驚きである.. この超人的努力を支えたのは手工教育に懸ける彼の情熱に 他ならず,彼を取り巻く岡山秀吉会長以下手工研究会会員の 手工教育への情熱として現在に伝えられるのである.それと. 11.
(15) 共に,手工研究会という組織の充実ぶりは,経営困難によっ て廃刊せざるを得ない雑誌の多かった当時において,月刊誌 として長期に渡って発行し続けたという事実からも伺い知る ことができるものである. (3)展覧会. 昭和3年(1928)11月2日から同30日までの間,国民新 聞社主催の全国小学生成績品展覧会が東京上野公園にて開催 された.後援を文部省・内務省・鉄道省,協賛を各府県知事 より得たため,一道三管四十三県は勿論,朝鮮・台湾・樺太 ・満州・南洋・農具(ハワイ)等からも広く参加を得,教育展覧. 会としては空前絶後の大展覧会となった.この展覧会への出 品作品は,修身・国語・書方・綴方・算術・歴史・地理・理 科の諸教科を始めとして,図画・手工・裁縫・家事・体操・ 音下等に至るまで多分野に渡るものであった.その出品の中 でも特に一般観覧者の注意を惹き付けたものが手工科の作品 であったようで,世間に手工科の存在を印象付けるに好都合 な展覧会となった.それについて阿部七五三吉は, 「其の手 工成績品は,何れも,學務當局者を始めとして,如何なる人 にも,其の進歩顯著にして普通教育上有要敏くべからざる教 科たることを認めしめた.眞に手工教育の憤値を如實に理解 させた展覧會であった」(12)と,手工科にとって大いに意義 を持つ展覧会であったことを喜んでいる.. またこの展覧会の出品作品は,何れも地方の展覧会出品物 中より地方審査委員によって推薦されたものであった.と言. 12.
(16) うことは,この全国小学生成績品展覧会の出品作品を選ぶた めに全国で一斉に手工作品の展覧会が開催された訳である. これは過去に例を見なかったことでもあり,手工科を大いに 世間に知らしめ大発展を遂げるに役立った記念すべき展覧会 であったと共に,手工科がその地位を向上させて来たことの 裏付けとなるものでもある. (4)手工科講習会. 手工科の地位向上に伴い,各地における手工教育研究に関 する動きも活発になってくる。手工研究会の大正6年置1917) の調査によると,各道府県の大抵の所では手工科の研究会が 既に結成されて活動していたり結成の準備をしたりしており, 各道府県の約半数余りで手工科講習会が開催されていること が分かる(’3).このように手工科上昇の兆しが見え始めてき. たところに大正8年(1919)の小学校令改正を得,更に手工科 は普及発達していく訳である.. しかし一方では,手工科重視の気運が高まっているにもか かわらず,その任に当たる教師の絶対数は大きく不足してい た.やがてそれは,大正15年(1926)の小学校令改正による 高等小学校における手工科必修によって,特に大きな問題点 としてクローズアップされてきた.この原因として岡山秀吉 は,手工科は元来相当な修練を要する技能科であるにもかか わらず教員養成法が適切に成り立っていないという点を指摘 し,中でも根本的問題点は師範学校規定の欠陥にありとして 次の2点を挙げ,その改正が急務であると主張した.(14). 13.
(17) a.手工科教授時間の不足 師範学校本科の手工科教授時間数は元選択科目として毎 週3時間であったものが,明治40年(1907)の改正によっ て図画と併せて3時間となり,更に大正14年目1925)の改 正では2時間に減少した.それによって,師範学校卒業生 の技量が大きく低下した.. b.専攻科の「実業」中に工業がない 専攻科設置の目的が,主として改正された高等小学校に 適当な教員を供給するにあることは明らかであったにもか かわらず,実業科目の中には農商のみで工業が設置されて いない。. しかしながら,その改正をただ待っているという訳にもい かず,臨時の策として教員講習を実施し,手工科の指導を行 い得る人材を早急に養成する必要が生じたのである。勿論教 員養成などという事業は国家即ち文部省が行うのが当然であ り,国家もその必要性を認めていたようではあるが,財政緊 縮の折柄,師範学校教員の講習のみに留まっている.従って, 各地において独自に教員を養成しなければならず,盛んな講 習会の開催を見ることになる訳である. 手工科の講習は技能の修練を主な目的とするため,実習が 大きな比重を占める。従って,他教科のようにただノート片 手に講演を聞けばよいどいう訳にいかず,環境設備の整った 場所で実際に手を動かし物を製作しての講習となる.そのた め一度に限られた人数にしか講習が出来なかった.また短期. 14.
(18) 間である程度の実績を上げようと,かなり苛酷なスケジュー ルとその内容を組まざるを得なかったようである.期間は大. 体短期集客型で1∼2週間,長期のものは東京市主催の講習. のように週3回50週にも及ぶというものもあった.一度に 僅かの人数にしか講習出来ないことの対策としては,各地区 の有志を教育することで地区の中心的人物とならせ,他を教 育する任に当たらせようとも意図されていた.このようにし て教員不足に臨時的に対処し,手工科の理想を追及出来る体 制を整えるべく努力がなされたのである. 当時行われた講習会の具体的内容については,一例として. 手工研究会主催の講習を付録1に示したが,他の講習会も含 めその内容を整理すると以下のようになる.. 。OOOO. OOO OOO. a. 理論面. 手工教育の発達(歴史)に関して.. 手工教育の目的に関して. 各種手工教材に関して.. 手工教授の方法に関して。. 設備(動力機械の応用等)に関して. 手工教育における諸問題に関して.. b. 実習面 紙細工に関して. 木工に関して.. 粘土・彫塑に関して. 金工に関して.. 15.
(19) O 竹工に関して. O 手芸に関して.. 以上から,当時実施された講習会の大体の把握が出来る.. これらの内容の中から,土地の状況や対象教員に合わせて講 習内容が決定されていたようである.例えば青森手工協会主 催による青森手工教授研究会の記録によると,青森の経済を 救うには,他県に比べ冬が長く産業振興に不利であるという 理由により,冬籠もりする人々にとって副業となるべく手工 教育に力を入れる必要があるとして,小刀使用による地方教 材の研究が主流を占めている(15’.. このように当時行われた講習の実際を見ていくことで,当 時要求されていた手工教育に携わる教員としての資質の大体 を想像することが出来る.即ち,. a.将来子どもが必要とされるであろう,技術に対する大体 の知識を得ていること.. b.教授の中心となるべき技術技法に関して十分な実践力を 備えていること.. c.手工教育に関する深い理解を有する者であること. O 材料工具に関して. O 教材に関して. O 教授法に関して.. O 手工教育の目的に関して.. 16.
(20) という教師としての像が浮かび上がって来るのである.つま り,理論と実践の両面を兼ね備えた人物であり,それを支え る手工教育に懸ける溢れんばかりの情熱の持ち主であること が要求されていたことは想像に難くない.だからこそ,実習 中に力尽きて階段を上がることさえも出来ない者まで出る程 の苛酷な内容(’6)を盛り込みながらも,講習会参加を望む者. は後を断たなかったという状況も理解出来るのである.現代 の研究会に臨む教員と比較して,非常に興味深いものがある.. 17.
(21) 第2節. 教育思潮と手工科. 大正から昭和という時代には諸外国の新教育思想や新教育運 動が盛んに輸入され,国内においてもいろいろな新しい実践が 試みられた.中でも,沢柳政太郎のダルトンプランの実践や手 塚岸衛の千葉師範学校における自由教育の実践に代表される, 八大教育主張の流行は有名である.このような時代に沸き起こ った様々な教育主張に共通する点は自由と個性の重視であると 見ることが出来るが,手工教育においても同様に従来とは違っ た流れを見出すことが出来る.. 本節では,これらの教育思潮において手工教育はどのような 位置付けがなされていたのかを見ることを通じ,手工教育のこ の時代における意義を探っていこうとするものである.これに ついては岡山秀吉が彼の著書中に詳しく述べている(17’.この 本は手工教育の普及発達の促進を目的にまとめられた著書であ り,幾分手工科に有利な見方となっている点は否めないが,手 工教育関係者が当時の教育思潮をどのように捕らえていたかを 知る手掛かりを得ることは出来る.従って,彼の論をまとめる ことを通じ手工教育の位置付けを明確にしていくことにする.. 1 新教育思潮 (1)自動主義と手工科. 従来の教授は自発的な児童の本性を束縛し,その発達を阻 害するものであった.そのためこの自動主義では, 「見童自. 工8.
(22) ら働き,自ら構成すること」を目的とすべきであるとし,そ. の目的を達し自学的習慣を養う上において手工科が有効なの であると主張している.その理由として, 「かの物品を模作 する場合と錐も,見童は全く自己の力によりて,工作中遭遇 する所の困難を排除し,目的物を完成せしめねばならぬ.工 夫製作に至りては,全く自ら設計し製帯し材料を虚下してこ れを遂行するものにて,一層よく自研自習に熟れしむる」こ とを挙げている.. また普通教育においては,「見童の個性を重んじ,知的な ると技能的なるとを問はず,見童天賦の長所を襲憂し,且つ 見童をして自己の累卵を認識せしむること」が重要であると し,その要点を満たすには自学的かつ建設的な手工の作業が 最適なのだとしている.. 即ち,従来の教育では画一的な知識の授与が目的とされて いたため記憶力に富んだ児童のみが優遇され,たとえその方 面は不得手でも技能的才能はあるという児童はその才能を発 揮出来ないばかりか,劣等児の扱いを受けるという大きな欠 陥が,手工科によって救われるとする立場である. (2)勤労主義と手工科. 勤労主義は,勤労の価値を生理上・生産料・道徳上より,. また個人上或いは国家上より講究して国民教育上の重要事項 となし,この勤労の習慣を手工科によって養っていこうとす る立場である.その主張の要点は次の3点に整理される.. 19.
(23) a. 手工的活動(土を練り,砂を穿ち,瓦礫を積み,竹木 を構える等)のため手指を運用することは,心身共に活 発な児童の天性である.手工科はこの活動性に合致した 教科であり,勤勉さを養うに適している.. b 目的を確実に保つ或いは改善を加えるということに精 神を集中し,成功の喜びを期待して労作に従事する手工 科実習は,勤労の習慣を養うという目的によく適合する ものである.. c 手工科は児童の天性に適すため自由を許すことが比較 的容易で,しかも作業結果(注意,不注意,励精,不励 精)が直接眼前に現れるため,児童自ら軽率・放縦・怠 慢に陥ることを防ぐことが出来る. (3)公民教育の主張と手工科. 公民教育の主旨は, 「國民の成るべく多数が,公民として. の思想・感情・意志行爲を同じうするやうな,教育を施さん とする」という点にあった.更にこの教育を行うためには, r公民たるに必要な知識を授けるばかりでなく,更に聖杯に 公民の精神を髄し,公民としての行爲を現はすに必要なる能 力・品性を造るべく,これがため技能科の教育を,今よりも 一層盛んにすること」が必要であると主張した. この代表者たるケルシェンシュタイナーは,公民教育に関 して次のように述べている. 「軍民教育の最終の目的は,善. 良なる公民を養成するにある.然るに技能科に於ける實際的. 作業には,公民的道徳たる勤勉・注意・忍耐・自制等の諸徳. 20.
(24) を含み團燈生活の理解・團艦生活を螢む能力・社會公衆に野 する義務的精神の養成等に頗る有効である.かの見童をして, 何故に吾人は社螢國家の制規に從ひ,或は社會國家に義務を 鑑さねばならぬかを理解せしむるが如きは,書籍言語ばかり では殆ど不可能であるけれども,實際的作業に依るときはこ れを會得せしむることが容易である.されば向後は,技能科 を一層盛んにし,特に成るべく多く共同作業を課し,以て見 童をして自己を犠牲にして,他の爲めに画すの習慣を養はし むべし」‘田’.この主張においては技能教科一般について述 べているが,手工科はその中の重要な一教科と見ていること が分かる.. (4)芸術教育の主張と手工科. 従来の教育は科学や知識の方面ばかりが重視され,芸術や 技能を軽んじ賎しむものであった.そのため,もっと芸術を 重んじ技能を練ろうとする運動も盛んに展開された.芸術教 育はこのような立場に立ち,「美術は各人の趣味を向上して その生活に慰安を與へ,國民の社會生活に封ずる享樂を増し 人生生活上極めて肝要なものである」という主旨のもとに, 科学の応用であり実用の技術であるばかりでなく,一種の芸 術教育でもある手工科によって芸術的素養を発達させていこ うと主張するものである.また, 「人民の嗜好下劣となり,. 無趣味なる物品を用ふる結果は,美術工藝の襲達を阻擬し, 姻家経呈上に大なる損失を與ふるものである」という理由に より,国民教育上からも芸術教育の必要性を説いている.. 2!.
(25) (5)実用主義と手工科. 実用主義においてば,教える事項が直接児童の学校生活や 家庭生活に役立っことを要求するため,この主義による教育 でこそ学習の目的も明瞭となり興味も沸き,児童自ら努力し ていこうとする意欲も高められ,一般的陶冶の効果も挙げる ことが出来るというものである.. 手工科がこの実用主義に適す理由としては,次の2点を挙 げて説明している.. a.知識的理解だけでは実際の場面では役に立たない.理解 したことを実際に応用してこそ,その知識は真に体得出来 る.手工科はこの実地的応用練習に適すものである. b.現今(当時)の教育では,口舌の人をつくることが重視 され実行の人をつくることは軽んじられていた.手工科で は材料工具を使用し製図や工作を行う間において,他教科 では授けることの出来なかった日常必須の事項を授け,生 活を便利にすることが出来る. (6)職業陶冶の主張と手工科. 職業陶冶の主旨は,社会国家に対する人間の義務としてい かなる階級の者も職業に就くべきであり,しかも必ず自己の 性質に適した職業を選択しなければならない.それによって. こそ職業に対する興味も生じ,勤勉の人となって幸福に生活 することも出来るというものである.そのため小学校では児 童に職業の貴重さを知らせると共に,自分の性質に適する職. 22.
(26) 業選択の能力や産業生活を営む上での適当な能力を養ってい くことも必要であると主張している.その上で手工科は,「 從來の文學的に偏せる教育に實業的分子を加味し,職業的常 識及び職業の基礎的技能を養ふ」という性格を持つため,児 童が自己の長所に従って職業を選択し,更にこれを営む能力 を養うのに適しているとするものである. (7)工業教育の主張と手工科. 工業教育の主旨は, 「墨家を富強ならしめんには國産の増. 加を計るべく,國産の増加を計るに於て,工業の襲達を計る. ば極めて必要である.而して工業を機達せしむるには,直接 その業務に從事するものS努力及び工業教育の振興と相待っ て,軍民一般に工業の知識を與へ,その趣味を長ぜしめねば ならぬ」という考えの下に,普通教育に工業の一一班を加える. ことで工業の常識や趣味を養い創意工夫の意識を盛んにする と同時に,優れた工業家を輩出していこうとするものである. また教育上の効果として,科学の真価及び労働の価値を知 らせることや社会的同情を発達させることを挙げ,工業無く して智育や徳育も完全に成立させ得ないと主張した.. そのため小学校では,手工科の内容を以て工業の大要を授 けていこうとするものである.. 23.
(27) 2 諸説への対応 以上の諸説の主張を要約すると,次の4点にまとめられる. (1). 従来の注入的教授や模倣的学習の方法を排斥すること.. (2). 大いに自動を重んじ,勤労を奨励すること.. (3). 実際生活上の必要から,教育に成るべく多くの実用的及 生産的要素を加えること.. (4). 児童の実業思想を養い,職業の基礎的陶冶をなすこと.. これらの新しい傾向においては何れも手工科の価値を重視し,. その普及改善を要求していることが分かる.しかし中には,時 弊に激されて発したであろう極端な説も見られる.これに対し て岡山秀吉は「何れも皆一面の眞理を含んでいる」と受け止め, その価値を認めていこうとした.例えば実用主義の極端な実用 の提唱については, 「從來文雅に傾き,形式陶冶に偏したる教 育の矯正的現象」であると見,更に「中流以下の子弟をして早 く實際生活に役立たしむるためには,寧ろ適材の主張」と,実 生活と分離した従来の教育を改めるには必要であるとした.ま た職業的陶冶や工業教育における,正常な成長の発達促進とい う普通教育の思想とは少々隔たりのある主張も, 「現時の社會 活動及び産業競争の實況を観察し,更に國民教育の任務がこの 時代の要求に適する教育を行ふものなるを思へば,吾人は大に 之等の所論に思を致さねばならぬのである」と,時世の要求か ら見て無理からぬ主張であるとしている. このように岡山はこれらの主張を真摯に受け止め,それに合. 24.
(28) 致するように手工科を改善していくことを通じ,その大いなる 発達を図ろうとしているのである. この改善の方向としては,欧米諸国の「手工科は 往時の如 き 手眼の練習とか,製作技術の養成とかいふやうな,狭い意 味からばかりでなく,同時に廣く普通教育全盟の改良手段とし て取扱って居る」という状況を目標に,教授理論や方法の研究 を進めていくこととしている.即ち,世の様々な主張によって せっかくその価値を認められた手工科を,今こそ大いに発展さ せるべくその研究を深めていこうというものである.. 25.
(29) 第2章. 岡山秀吉を. 中・d一と した 手コ[二教育. 手工科100年の歴史を追って見ていく中で,岡山秀吉は大 正末期から昭和初期にかけての手工教育を推進していく上で中 心的役割を果たした人物であることがわかる.従って本章は岡 山に焦点を当て,その主張を中心にまとめていくことで,大正 から昭和という時代に行われた手工教育を捕らえようとするも のである.. 第−節. 手工教育における. 岡山秀吉の位置. 岡山秀吉の略歴(附録ff)及び手工教育史を通観すると,岡 山の当時の手工教育界における位置を示す材料は数多い.ここ にそれらの事項を列挙することで,彼の位置付けを明確にして いくことにする.. 1 岡山秀吉の行動 (1)上原六四郎との出会い. 上原六四郎は後藤牧太・手島精一等と共に,我が国の手工 科を創設した人物の一人である.特に「今日誰もが知ってい る工具・材料・工作法等の理論も,当時優秀な職工に就いて 実技を学びっっ,上原が理論づけをしたものである」(19’と. 26.
(30) あるように相当な苦心をし,しかも本職の物理・化学を螂っ てまでも手工教育のために終生を捧げた. その上原と岡山との出会いは,明治22年(1889)に岡山が 小学校教員の職を辞し高等商業学校附属商工徒弟講習所の研 究科に入学した時に遡る.当時上原は同校の主事を務め,特 に文部省の委嘱を受けて手工を研究している最中であった. 従って,手工研究を目的としていた岡山には大変好都合な出 会いであった.後に商工徒弟講習所は高等工業学校の附属職 工徒弟学校となり研究科が廃止されたが,岡山は上原の尽力 により特別生として高等工業学校に席を移すことになる.こ こで木工金工の研究を積み,更に後千葉県師範学校,秋田市 工業学校を経て,またも上原の推薦を以て普通教育の本山た. る東京高等師範の助教授に転じ,その後の30年近くを手工 研究一筋に打ち込むことになるのである.. このように上原との出会いは,岡山が手工教育界において その地位を得ていくに当たって,極めて大きな意味を持つの である.それと共に岡山が上原の注目を惹き前途を切り開い ていくことが出来たのば,優れた技術の持ち主である上に大 変な勉強家であったためであることは言うまでもない. (2)手工教科書の編纂. 明治33(1900)年,岡山は東京高等師範学校の第二部に手 工科を加設した.それ以前は程度の高いスロイド式の手工が 高等小学校において行われていたが,尋常小学校において加 零すべき手工に至っては殆ど研究が進んでいなかった.そこ. 27.
(31) で岡山は,手工科加設を機に小学校手工科教授細目を編成し,. その公刊によって手工科の内容を明らかにした.正に教育的 手工の芽生えともいうべき事柄である.. 更に明治34年(1901),その実績を買われ,文部省より小 学校教師用手工教科書の編纂を上原六四郎と共に任されてい る.明治36年(1903),その草案が出来たのを機に,全国師 範学校手工科教師及び附属小学校訓導並びに各府県視学を対 象の講習会を開き,教科書編纂における彼等の手工理念を広 めるべく努めている.そして翌37年(1904)に手工教科書の 発行を見る訳であるが,この手工の虎の巻とまで言われた教 科書の刊行によって手工科の内容が明示され,ようやく手工 科が全国の小学校に普及するようになった.. この事柄によって,上原亡き後の大正から昭和にかけて展 開された手工教育は,上原の弟子でありその遺志を継いだ岡 山の手工理念が主流を占めていたと見ることが出来る. (3)手工研究会と岡山秀吉. 岡山秀吉の当時の位置付けを知る上で,手工研究会におけ る彼の地位と活動は見逃せない.. 上原会長破後輿2代会長に就任した岡山の活動は目覚まし ものがある.東京高等師範学校における手工教員の養成と共 に,各地に散在する地方会員の啓発.或いは,文部省及び師 範教育当事者を始めとして文政審議会議員に至るまで,口上 に,紙上に,建議にとあらゆる手段を尽くしての手工教育に 対する理解を得るための働きかけ等,我が国の手工教育の基. 28.
(32) 礎を確立すべく尽力した.特に,大正3年(1914)の全国図画. 手工教員協議会との共同による建議は,後の法令改正に少な からざる影響を与え,手工科向上の契機の一つとなったと見 ることが出来る.. 手工研究会は手工科の上昇と共に順調な発展を見せ,全国 の手工に関係する教員申この会に入らない者はいないとまで 言われるようになったのは,岡山の力に負う所大である.大 正から昭和にかけては特に様々な教育主張が溢れた時代であ り,手工教育界も例外ではないことは既に述べた.その当時 の手工教育界にあって常に中心的位置を占めた手工研究会の 代表として,様々な異説をも包み込みつつ自説を貫き広く浸 透させていった岡山秀吉は,やはり当時の手工教育界におけ る最高の権威者であると言えよう. (4)オルガンの製作. 明治27・8年(1894,5)頃,岡山は約1年間かかってオル ガンを自作している.当時オルガンは全くの貴重品で国産品 も少なく,とても個人の力で製作出来得ると思えるような物 ではなかった.それを岡山は,かねてより研究していた音響 学の理論に基づき,大いに苦心しながらも見事に完成させて 周囲を驚嘆させた.. 彼のこのオルガン製作は一世に鳴り渡ったものと見え,明 治28年(1895)に京都で開かれた内国勧業博覧会において, 地方師範学校(千葉師範)の一教員に過ぎない岡山がこの審 査に関係している.これは全く異例のことで,千葉県におい. 29.
(33) ても彼の偉業を誇りとしたと伝えられる.更にこれを機会と して,大博覧会の開かれる度ごとに審査の任に当たるように なった.このオルガン製作が,手工教育界だけでなく広く岡 山秀吉の名声を高め,後の彼の位置を決定付ける一つの重要 なポイントとなったと見ることが出来る.. 2 岡山秀吉の情熱 手工研究会の機関雑誌r手工研究』には,毎号に渡ってその 研究会員の動静が記載されている.勿論編集者の知り得る限ら れた情報に過ぎないのだが,それにしても手工教育推進者たち の具体的活動内容の報告は,当時の状況を推測する上での重要 な資料となるものである.. 手工科が高等小学校において必修科目として実施された,昭 和2年(1927)4月頃の岡山の行動を見てみよう.. 昭和元年(1926)12月申旬,岡山は長野及び松本の2ケ所に おいて各4日間手工科の講演を行った。続いて同2年(1927)1 月上旬,岐阜県主催の手工科講習会に3日間出席し,更に滋賀 県下や横浜において手工科及び工業科に関する講演を行った.. 翌2月には東京府南葛飾郡墨田小学校にて7回に渡る手工科の 講習をし,2月から3月初句にかけては,水戸・四日市・三重 ・京都において手工科講習会の講師を務めた.更に3月中旬に は東京府豊多摩郡に出張し,3回に渡って手工科講習を開いて いる.. このように,僅か数ケ月の行動記録であるにも拘らず,驚異. 30.
(34) 的な数の講習会での講師を務めていることが分かる.これが講 演旅行を専門としているのならいざ知らず,東京高等師範教授 として或いは手工研究会の会長として,講義や実技指導または 雑誌その他の原稿執筆等,超多忙の合間を縫っての各地講習会 参加であるから一層の驚きである.しかも現代のように交通機 関が発達していた訳ではなく,遠距離を移動するには船か蒸気 機関車に頼る以外に方法のなかった昭和初期という時代である. その苦労の程が知れよう.. これ程の苛酷な行動へと彼を駆り立てたものは,一つには手 工科重視の気運が高まってきたという時代の要請に依る所でも あったろう.しかしそれだけではなく,やはり岡山の手工教育 に懸ける情熱の現れでもあったと見ることが出来る.実際,依 頼のあった講習会及び研究会には時間の許す限り出席し,どう しても断らざるを得ない場合は論文を書き送ることで講演の代 わりとしていたという彼の誠実さを見ても,手工教育会のリー ダーとしていかに情熱を持ってその責任を果たしたかが分かる のである.それだからこそ,人間岡山秀吉がこの時代において 中心的位置を占めるに至ったのではないかと考えるものである.. 岡山秀吉の略歴や行動を通して,彼が当時の手工教育界にお いて重要な位置を占めていたことを示してきたが,その他にも それを裏付けてくれる材料は数多い.その一つとして岡山の著 書にも例を挙げることが出来る.岡山の著書は手工・工業に関 するものとして多数出版されているが,その中でも代表的なも. 31.
(35) のと思われるr新手工科教材及教授法』は,大正9年(1920)に 初版されて以来昭和10年(1935)までの間に,改訂を繰り返し. ながら実に13版をも版を重ねている.そのこと自体,彼の著 書即ち彼の手工教育に対する理念そのものが,長期に渡って採 用され続けたことを物語っている.. 手工教育に大変な情熱を持って取り組んだ人物.東京高等師 範学校教授として或いは手工研究会会長として手工教育界や文 部省にまでも大きな影響力を持ち,しかも全国各地を広く回っ て自身の考えや手工科の進むべき道を説いた人物.更には各種 の異説を唱える者をも広く包み,手工科を普通教育の中に定着 させていった人物岡山秀吉は,やはり当時の手工教育界を代表 する人物であると言えよう.. 32.
(36) 第2節. 岡山秀吉の. 手工教育主張. 岡山秀吉は明治44年(1911)8月から大正2(1913)年11月 までの間,文部省の命により欧米に留学している.この留学先 での視察及び研究は彼の手工教育理念を確立していく上で重要 な役割を果たしたものと見え,留学後の主張は手工教育の価値 や目的における人間形成上での意味の掘下げが進み,留学前と 比較してより明確に示されている.更に,教材や教授法等にお いても若干の違いが見付けられる.しかしながら留学後の彼の 主張は,大体において留学前の考えをより総合・整理して発展 させたものであると見ることが出来よう.従って本節では,留 学後に記された岡山の著書『新手工科教授』及び『新手工科教 材及教授法』の両町をもとに,彼の留学後の主張を中心として まとめていくことにする.. 1 手工科教授の任務及び目的 岡山は手工科教授の任務を,当時の様々な手工教育主張を包 括・整理し,より了解に便なる形として次のように説明してい る.(20). (1)一般的陶冶. 手工科における一般陶冶は身体或いは心意の円満な発想を 意味するのであり, 「手・眼を練習し,観察を高め,思考を 練:り,勤勢・精確・忍耐等の習慣を養成する」というフレー. 33.
(37) ベルやペスタロッチ等の時代から唱えられてきた方面と, 「. 主知主義の教育に野して立った主意主義の教育説」から出発. した方面との2つがある.前者は「手工の實験が感官を練る こと,知識を増進すること技術を進むること」等を重視した が,後者では「製作襲表の心意襲展に及ぼす効果,及び筋肉 運動が脳の襲達に及ぼす憤値」等を重視するものであるとし ている.. (2)実用的陶冶. これは手工科において, 「日常生活に必須なる知識及び技. 能を授け,現實の社會生活を螢むに便する方面」を言うが, この方面の要求は段々強くなる傾向にあるとしている.即ち,. 第一次世界大戦後の大不況により生活が逼迫しっっあった当 時の国民の多数は, 「観察の修練とか,或は勤勉忍耐の良習 慣の養成』といった抽象的な目標を持って,悠長に構えてい る訳にはいかなかったのである.従って,実用品を作ること によって具体的効果を収めることが社会の要求に適合させる ことであり,手工が「實用に長ずるを以て一特徴とする學科」 たる所以であるとしている. (3)生産的陶冶. 手工教授を「軍に一般的の意味から生活必須の知能を養ふ のみならず,尚進んで職業教育に喰ひ入り,成るべく個性に 順慨したる職業の準備教育を施し,個人の生産的能率を増進 せしむると共に,國家の産業を襲展せしめ,國富を増大する. 34.
(38) の任務を有するものと思ふ」と捕らえ,職業陶冶を手工教育 によって施していこうというものである.この職業陶冶は, ペスタロッチ等の時代に論じられた,将来職業に就く極僅か の特殊的児童のための職業教育とは意味を異にし,社会が産 業化へと漸次向かっている時代であるからこそ,国民一般に その種の陶冶を施す必要があるのだとした. 以上のように岡山は,手工科の任務を三項目に及んで説明し たが,その中でも手工科が普通教育の一学科である以上当然一 般的陶冶が重要であるとし, 「早戸幼年の見童若くは將來高等 の教育を受くるやうな籐裕のある見童に封しては,この方面の 陶冶を旨として引くるがよいと思ふ」と述べている. 現代の教育においてはこの方面が大部分を占めるものである が,この当時では子どもの心意発達の重要性が捕らえられ始め てはいるものの,社会的情勢或いは経済上での問題が多く,ま だそれを全面的に受け入れる土壌は出来ていなかったようであ る.従って,以上の三任務を統合した形で次の手工科教授の目 的が示されている.. 文部省の教則には手工科教授に大体の統一を保たせるため, 「手工ハ簡易ナル物品ヲ製作スルノ能ヲ爲シメ,工業ノ趣味ヲ. 長ジ勤勢ヲ好ムノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨トスJc21)と目的の大 要が示され,以下の3点を持って手工科の眼目としてある. 一,物品製作の能を養うこと 二.工業の趣味を長ずること. 35.
(39) 三,勤労を好む習慣を養うこと. これについて岡山は,「その大方針を示し,教授者の羅針盤 となすに於て極めて要を得たものである」と認めながらも, 「 我が邦全艦共通に,市にも村にも,貴族の學校にも貧民の學校 にも,適合せしむるやう,尚また社會の要求が時に依りて多少 攣更することあるとも,それに慮じて幾分の自由のきくやう, 所謂大綱を示すに止まるもの」であるため,実際の教授に当た っては時勢や学校・土地の事情等に照らし合わせて,適当に個 性化していくよう研究をすすめなければならないとしている. このように岡山は,基本的に文部省の方針に沿いながらも,. それを一般普通の学校において生かしていくには独自の解釈が. 必要であるとし,上の3点について彼の考えを次のように示し 手工科教授の目的とした。(22’ (1)物品製作の能を養うこと. 物品製作の能は,物品を創意し或いは模倣する心意作用と. これを表出する技術の2方面からなるものであり,この能力 の養成こそが手工科教授の中心となるべきものであるとして いる.即ち児童はこれによって, 「自らの経験界から得たも. の,諸學科に於て學んだもの,又は自己の創意に係るものを 車地に言表して,思想感情を練り技術を長じ勤拶自爲の徳を 進め,實用の物品を得るのである」と,その価値を大きく評 価している.更にその製作の能を発揮させるための注意とし て,以下の4項目を挙げている.. 36.
(40) a. 製作に付帯し多量の知識を授けることを避け,成る べく多くの実習をさせること.. b. 手の練習を重視すること. c. 創作の能を養うよう努めること.. d. 製作原料の品類性質や,工具の使用法及び手入れ法 に関して必須の知識を与えること. (2)工業の趣味を長ずること. 工業の発達は,産業経済の充実を通じ国家社会を発展させ いくためには必要欠くべからざるものである。従って,普通 教育中鷺に手工科において工業に重点を置いて教授すること により, 「一般国民の工業に封ずる常識を高め,その趣味を 長ずる」ことをねらっている.. この考えは,先の第一次世界大戦によって露呈された我が 国工業の欧米諸国からの立ち遅れを憂いて表されたもののよ うで,農業立国から工業立国への早急な立場の変換を主張し ている.. しかしながら,この工業の趣味を長ずるに当たっては工業 の知識を授けることを主眼としたため,製作の技能及び勤労. の習慣の養成上妨げにならぬよう過重せぬこととし,他の2 つの目的を優先するものとした. (3)勤労の習慣を養うこと. 当時の小学校において学ぶ児童の大多数は,いずれ実業の 世界に入り身体を労して生活していかねばならない運命にあ. 37.
(41) る.そのような児童の将来を見通し,勤労の習慣を養成する ことを目的の一つとしたのである.. また勤労はそれ自身必要であるだけでなく, 「猫立・堅忍. ・自降等,人生々郡上敏くべからざる諸徳を伴ふ」ものであ り,訓育上でも重要な意味を持つとした.. 更に,教育において勤労の精神を養う上での注意として, 次の3点を挙げている. a。 児童の好む所に従って,これを導くこと.. b 体的運動と心的作用とを協同一致させること.. c 児童にある程度まで自由を与え,自ら進んでこれを 反復実行させること.. 以上のように岡山は手工科の目的を説明したが,留学前の明 治期の彼の目的観と対比させてみると,その背景がよく分かる。 明治時代の岡山は手工科の目的として, 「之が教授によりて 物品を製作するの技能熟練を養ひ各種工業に關する初歩の智識 を授け,且つ,社會的審美的感情と實業に封ずる趣味とを教育 し,勤勉力行自認自治の良習慣を得せしめ,兼ねて燈育上に資 するにあり」(23)という考えの下に,当時の多くの諸説の中か ら, 「所謂狭義の教育的債値と實用的憤値との爾方面を認めて,. 之が教授により手と眼と脳とを共練して心身の調和的襲達を圖 り,同時に實業の素地と之に封ずる趣味とを養成せんとするに あり」‘24)という立場をとって示している.これらから比較し てみると,基本的には明治期からの流れに沿ったものではある. 38.
(42) が,その個々の内容においてより深く普通教育としての掘下げ が進んでいることが分かる.更にその中にあって,子どもの創 作力を重視し始めた点やより工業立国の立場が強調されている 点が違いとして認められる.. 2 手工科教材の選択 「手工損紙・綜・粘土・凄桿・木・竹・金屡等其ノ土地二適 切ナル材料ヲ用ヒテ簡易ナル製作ヲ爲サシメ高等小學校二 於テハ製圖及女子野糞リテ開手藝ヲ簡易ナル程度二於テ併 国母クベシ」(25). 「手工ヲ授クル際ニハ用具ノ使用方材料ノ品類性質ヲ教示ス 可シ」c25’. これは教則において規定された,教材を組織する際の拠り所 である。しかし,全国共通の標準として示されたものに過ぎず, その内容までは明示されていない.そこで岡山は,教材選択の 要件として次の5項目を挙げ説明した.c2マ’ (1)創作力を養ふに適するもの. 創作力の養成は手工科にとって重要な任務であるが,それ は教授の方法によるだけでなく,教材の良否に負う所も大変. 多い.従って次の4点に注意して教材を選択しなければなら ない.. a. 課題は成るべく工夫を練るのに適したものとし,ま. 39.
(43) た時々児童自ら題目を選ばせること.. b. 物理学上の知識を応用する製作品を多くすること. c. 考案発表に適した材料を用いること. d. 特に嗜好する製作を反復させること. (2)技巧を練磨するに適するもの. 技巧はそれ自身大いに価値を持つだけでなく,工夫力を進 め,工作の趣味を長じ,製作に向かって肉体的努力を促す等 の原動力となるものである.その技巧を練磨するためには, 以下の3点に注意して教材を選択すべきである。 a. 普通的の技巧を養うもの. b 確実な技巧を養うもの. c 工具使用法の教授に力を用いること. (3)仕事に野し努力を爲さしむるに適するもの. 製作するに当たって,多少肉体的苦痛があっても最後まで 遂行出来るように仕向ける必要がある.そのためには,以下 の4点に注意する必要がある. 児童心身の活動に自由を与えるものであること. 所有欲を満足させるものであること. 特に嗜好する製作を反復させること. 刃物の研磨.. 40.
(44) (4)工業常識を養ふに適するもの. 児童に社会の工業を理解出来るだけの常識を与え工業の趣 味を養わせるには,多少実地製作を離れても工業必須の事項 を授ける必要がある.そのため,以下の方法を講じる必要が ある.. a. 製図の教授においては,実地に製作するものを描か せるだけでなく,幾分程度の高いものを描かせること. b. 普通の機械工場において使用する機械の内一般的な ものを備え,その用法効力等を実地に知らせること. c 各種の工業材料・工芸品・機械雛形等を観察させ, 或いは工業学校機械工場等を見学させて適宜の指導を 与えること.. (5)實際生活に適するもの. 国民教育を実際生活に適応させることは手工科の重要な任. 務の一つである.そのため,以下の3点に留意して教材を選 択すべきである。. abC. 成るべく日常実際に用いるものを採ること. 土地の産業の状況に適していること. 職業の準備をするに適していること.. 以上のように岡山は,教材選択の要件についてかなり詳細に. 41.
(45) 述べているが,実際においてはこの5項目全てに該当する教材 を選択すべきであるというのではなく,以上の考察の下に各学 校の諸事情に適すよう教材を組織せよというものであった. この手工科教材に関する岡山の考えは,明治時代のそれとは かなりの変化を見せている.これは,岡山の欧米留学を契機と する手工に対する姿勢の変化とも見ることが出来るが,当時の 「從來の手工科教材は種類彩他なるがため,却って教授の實効 挙らず」(2B)という世論を受け,手工科の向上発展を願っての. 当然なる変更であるとも言えよう.また,不足する点を補うこ とによって,実用的傾向を呈して来た当代の教育の要求に合致 させるよう努めた.その改革の要点を以下に示す.. a. 考案設計・工具の使用法手入れ法・材料の利用法とを 加え,甚だしく手先の練習及び物品の製作にのみ偏った 従来の教材を正した.. b 物理を応用し,工夫発明の能を練ることが出来るよう, 成るべく早く木工を課すこととした. c 従来の細工中より価値:の劣るものは,内容の充実のた. め除くか他と合わせて授けるとした.これによって大き く教材が整理された.. 3 手工科教材の配列 教材の選択に伴い,これを教え易いように配列しなければな らない.この配列いかんで教授の効果は大きく違ってくる。従. 42.
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