官製青年団における体育・スポーツの展開とその特 質 : 大正・昭和戦前期石川県の事例から
著者 佐々木 浩雄
著者別名 Sasaki, Hiroo
雑誌名 金沢大学大学院社会環境科学研究科博士論文要旨
巻 平成14年度6月
ページ 27‑32
発行年 2002‑06‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/4702
名佐々木浩雄
氏
本籍 学位の種類 学位記番号 学位授与の日付 学位授与の要件 学位授与の題目
愛知県 博士(学術)
社博甲第43号 平成14年3月22日
課程博士(学位規則第4条第1項)
官製青年団における体育。スポーツの展開とその特質 一大正。昭和戦前期石川県の事例から-
(AstudyonthepopularizationprocessofsportinYbungMenis
AssociationsFocusingonlshikawaPrefectureintheTaishoand theearlyShowaPeriod)
委員長大久保英哲
委員江森一郎,橋本哲哉
論文審査委員
学位論文要旨
明治以来,わが国のスポーツに対する考え方には,大きくは医学的なアプローチを含んだ教育的側 面を重視する流れと娯楽的側面を重視する流れとがあったといえる。この二つの思考様式は概して前 者が優勢に進んだものの,時には二項対立的に取り上げられ,時には混在し,あるいはスポーツ以外 の論理を巻き込みながらその関係を形成してきた。例えば「スポーツ」「体育」の概念把握の暖昧さ にみられるように,こうした歴史過程は現在まで影響を残しており,われわれの「文化としてのスポー ツ」の質を規定していると考えられる。
こうした問題に関して,これまでの体育。スポーツ史研究では,国家政策や行政との関わりで体育。
スポーツの普及。発展に指導的役割を果たした人物の思想。実践や学校体育制度の変遷等を主要な対 象にして,スポーツの普及やわが国に支配的なスポーツ観が形成される過程を明らかにしてきた。し かし,一方で,国民の大多数を占める民衆へのスポーツ普及の様相や彼らのスポーツ観に関しては十 分に議論されてきたとは言い難い。そこで本論文では,大正期にあらわれる民衆へのスポーツ拡大の 諸相の一つとして,大正から昭和にかけて男子青年層の大部分を網羅した青年団における体育。スポー
ツ活動に着目した。
青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会 教化団体として再編成された。「青年修養の機関」と規定された官製青年団で「修養」(講演会や読書 会など)と並んで特に重要視されたのが「体育」であり,なかでも大正半ば以降,トラック。フィー ルド種目を中心とした競技会が各地の青年団で行われるようになった。この「青年団競技」は,ほと んど例外なく各青年団の年中行事に組み込まれ,昭和初期までには明治神宮大会を頂点として選手制 度や階層的な競技網を整えながら全国的に興隆した。これによって青年団は,労働の日々をおくる青 年たちが公式ルールや一定の形式に則ったスポーツにふれる場としても機能していくことになり,競 技経験を通じて彼らは「体育」や「競技」に対する態度を形成していった。
そこでは,純粋にスポーツを楽しむ姿や体制的なスポーツ観を受容している姿もみられるが,時に はそれらに疑問を示し,あるいは農村や青年団に備わる彼ら特有のイデオロギーに影響を受けて,決 して単一的ではないスポーツ需要の様子をうかがうことができる。そうしたことからも青年団を媒介 にした青年たちのスポーツへの取り組みや彼らが形成したスポーツ観は,わが国の体育。スポーツ史
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を語る上で看過できないと考えられる。
このような視座から,本論文では,石川県の事例を用いて大正から昭和にかけての青年団官製化に 伴って勃興した「青年団競技」の実態を明らかにすること,および石川県江沼郡月津村の事例を用い て農村青年の体育。スポーツに対する葛藤と受容の様子を明らかにすることを目的とした。
第一章では,大正期に出現する「青年団競技」を論じる際の前提として,日露戦後に始まる青年組 織への国家的指導およびこれにもとづいた石川県における青年団官製化の過程について論じた。
第二章では,石川県教育会機関誌「石川教育」等を用いて,青年団の官製化とともに興隆する「青 年団競技」出現の背景と実態を大正7年に始まった「石川県青年体育大会」の事例をもとに検討した。
第三章では,「石)||教育」,「石川体育」(石ノ||県体育協会機関誌)等を用いて,石)||県青年体育大 会を契機とする社会体育普及や競技体系の拡がりに対応して,あるいは県民の健康問題解決へのアプ ローチとして推進された石川県の体育。スポーツ振興の流れを「青年団競技」との関連から論じた。
第四章では,第三章までに述べた石川県における青年団競技の定着状況をふまえて,恐I慌期農村青 年のスポーツに対する態度を「青年団競技」への批判的見解を中心に検証した。その際,青年団が自 主的に発行した機関誌「団報」等を史料として用い,石川県江沼郡月津村を事例としてとりあげた。
また,第五章で本論を統括した後,官製青年団運動の特質についての議論を深めるために補論を設 定した。そこでは全国的な青年団指導者と地域における青年団指導者の双方の思想と実践の検討をと おして青年団運動が展開する際に備えられた特質や農村青年の自己形成過程,また両者の関連につい て論じた。その際,田沢義鋪に関する青年団資料のほか,第四章でとりあげた江沼郡月津村地域にお ける実地調査により発掘した青年巽二郎の日記。ノート等の史料を用いた。
その結果,次のようなことが明らかになった。
日露戦後の町村再編実施以前は伝統的な村落自治が維持され,若者組は祭礼や警備,消防等の雑役 を担い,村の習俗を守る重要な役割を果たしていた。国家の近代化に伴う諸政策によってこの土着性。
前近代』性は排除。形骸化されていった。
教化作用に関して,村落共同体が天皇制国家に組み込まれていく時期に小学校が果たした役割は大 きかった。各小字を行政町村に再編する際にも学校の地域への定着は大きな意味をもったし,近代的 な教育内容を世間に公表する教育展覧会や学芸会,運動会などの行事は,新しい文化的内容を伝達す ることで地域教化の中心たる学校への民衆の理解。結合を促した。
青年団の官製化もこうした動向の一つであり,「若者組」から近代国家体系に位置づけられた「青 年団」へ再編されるという流れがあった。旧来の若者組がもつ前近代性は日露戦後の時期から徐々に 国家的指導によって排除。形骸化されていった。さらに大正に入ると行政町村単位に再編され,組織 形態,活動内容等を規定されることで天皇制国家を支える末端組織としての機能を与えられていった のである。ただし,青年団が村落共同体を母体にしている限りにおいて,そこから土着性を完全に排 除することは不可能であった。ゆえに体制側は被指導団体であることと同時に自治的団体であること を明示する'懐柔策をもってこれにあたった。この被指導'性と自治I性の二重性,すなわち擬似自治'性の 喚起に官製青年団の特質があったといえる。
明治期に学校や軍隊などの近代的な組織の内部で近代スポーツを日常的に行い得る基盤が作られた ように,組織を整えた官製青年団にも国家的有用性が付与された「体育」として近代スポーツが導入 された。国家にとっては旧来の青年団体自体が近代化の妨げとなる,あるいは危険思想の温床となる 可能性を内在した存在であり,同時に国家的有用性を発揮し得る組織でもあったから,積極的に指導 を行い官製化を進めていった。官製青年団では,全般的に自主的な装いのなかで指導者層によって規 格化された活動が実践されたといえる。それは青年たちの向学心やスポーツへの欲求といった内発的 動機を同一方向へ向かわせる役割を果たしたといってよい。スポーツが思想的な逸脱回避といった意 味で政治的に利用されたことは,これまでにも指摘されてきたことであるが,青年団に関しても同様 に,体育や競技活動が他の諸活動に比して官製的。形式的な組織化や思想善導に強力かつ能動的に作
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用したことが指摘できる。この過程で勃興したのが「青年団競技」であり,そこには体力向上を中心 とした軍事的要求や思想。余暇善導といった社会政策的意図が多分に含まれていた。
大正から昭和にかけての時期は,わが国のスポーツが国民大衆へ展開していき,体制化を遂げて社 会に根付いていった「スポーツの興隆期」であったと位置づけられるが,同時に,個人に対する国家 の優位という図式でスポーツの大衆化が進行したことが指摘できる。つまり上述のような政策に規定 を受けて,実践主体の内発的な創造性が薄められた時期でもあったのである。
「青年団競技」はこうした状況を背負って登場したわけだが,ともかくもこれによって民衆は外来 の競技スポーツに定期的に接する機会を得た。大正半ば以降,各村内の大会はトラック。フィールド 種目を中心としながらも従来の運動会的な装いを残していた。一方,複数の青年団が合同で行う「連 合運動会」の類は武道を含むことはあったがほぼ完全な陸上競技会の様相を呈していた。
石川県の例をみるかぎりでは,「青年団競技」は明治末頃までに各村落や小学校を中心に行われて いた多様な要素を持つ地域的な競技文化であった「運動会」等をベースにしつつも,官製青年団の組 織とともに競技規程を整えた官許型運動会として再構築された。それは教育関係者の言に表れるよう に,青年たちがエネルギーを粗野な形の「お祭り的」催しへ向ける前に,予め用意された組織や制度,
価値観のなかでのスポーツ=規格化された競技会へ方向づける余暇善導策としての性格を有していた とみることができる。
官製青年団という行政機構に依拠した組織のなかで,スポーツ活動の場が一定の制度や価値観を 伴って上から用意されたのが青年団競技であったとすれば,スポーツ活動における主体形成という面 では十全な発展を見ることができない。つまり,青年たちが自らの手でスポーツの場を獲得し,スポー ツ自体の価値を認識するという段階を踏むことができなかったという指摘ができる。
青年たちは全般的には積極的に競技へ参加していった。それは抑圧から解放された活動として,あ るいは自己実現として位置づけられたという意味で大正デモクラシーの所産であったといえるかもし れない。ただし修養団体と規定された青年団で行う活動である限り,単なる娯楽としてではなく,体 制が用意した教育的な付加価値を主張し,社会的に正当化しなければならない。青年団活動の一環と
して体力向上や規律。訓練,協同一致の精神といった教育的意義が付与された「競技」は「運動によ る教育」の手段としての把握が一般化され,競技それ自体を楽しむことにはある種のうしろめたさを 感じざるを得ない状況が作られていたのである。石川県青年体育大会は「お祭り的運動会」を排斥し,
教育的意義を強調することで「競技スポーツ」は「運動による教育」の手段という認識を県下に浸透
させる役割を担っていた。
こうして競技の担い手となった青年たちのなかには,スポーツのあり方を批判的に捉える者も出て きた。教育的意義から離れ,専門競技者の独壇場に成りつつある競技会への漠然とした不満であった
「競技」への疑念は,農村不況が慢性化する時期に至って新たな裏づけをもって農村青年に明確に意 識される。寄生地主制。独占段階の下で発生する矛盾(=農工間格差や離村問題によって彼らが受け た経済的圧迫や疎外感),あるいはそれらを勤倹節約。生活改善等によって自力解決しようとする経 済更生運動の影響を受けることによって,農村青年は享楽的な「都会文化」として,また実用|生の否 定によって「競技」を指弾する方向性を強めていったのである。
この競技会批判として表れた彼らのスポーツ観は,その正否はともかく,与えられるままの価値 観を脱してスポーツを自らの生活との関連で捉えようとしたものであった。そこに彼らの主体的なス ポーツへの取り組みを認めることができよう。ただし,こうした競技会批判に表れる農本主義傾向や 実用主義的思考は,彼らをファシズム化へ同調させる可能性を孕んでいた。なぜなら農本主義は伝統 的なイデオロギーを基底力として,資本主義によって農村に生じた矛盾を「都市対農村」という対立 関係にそらし,あるいは郷土主義や勤労節約による農村自救主義を高調することで体制を支える村落 共同体を維持させる作用を有していたし,実用主義的思考は時局の必要に迫られて最も必要とされる 軍国主義体育を許容することにもなり得たからである。
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この農村におけるファシズム形成と官製青年団運動との関連については,全国的青年団指導者田沢 義鋪と農村中堅青年巽二郎の思想や実践,両者の関係に着目した補論で言及した。そこで得た歴史認 識は本論にも反映されており,加えて,第四章で述べたような農村青年のスポーツ観は,彼らが社会 における自らの位置づけを確認し,自覚的な生き方を志向したことの所産であったという-面を認め ることができた。
AiDstract
lnJapan,duringtheTaishoPeriod,militarystylephysicaleducationfortheyouthwas encouraged,andsportspreadtothecommonpeopleaspartofthesportspolicy、Sofarwehave madegeneralstudiesofsport,policies,eminentpioneers,andsoon・However,itisnecessary tocomprehendtheactualstateofgrassrootssportsaboutwhichtherewassofarverylittle detanedstudy
Thepurposeofthisstudyistoclarifythepopularization+processofsportinYbungMen's Associations(YMAs),andyoungmen1sattitudestowardsportatthegrassrootsleveL
1Ibachievethispurpose,Idiscussthehistoricalbackgroundoftheathleticmeetingsheldin YMAs・Andlexaminedthereasonwhyyoungmen,wholivedinfarmingvillages,nourished unfavorableopinionsofsportduringperiodofagriculturalcrisisinlshikawaPrefbctureinthe TaishoandtheearlyShowaPeriod(1910-1935).
TheathleticmeetingsheldinYMAswereaffectedbygovernmentalandprefectural administrativedirectives、Sotheywerestandardizedandwereaddedsomeeducational characteristicsbyrulingeliteandeducators,ThesemeetingsbecamepopularamongYMAs alloverJapan,andweresystematizedbyaholdingnationalathleticmeeting:theSports MeetingintheMeijiShrine(l924lAlthoughyoungmenwereinterestedinandtookpartinthe athleticmeetings,theyhadsomedoubtsaboutsport,questioningitspracticalityasfarasthe agriculturalideologyprevalentduringtheperiodofagriculturalcrisiswasconcerned.
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論文審査結果の要旨
本論文はこれまでの近代体育。スポーツ史研究が主要な対象として国家政策や行政との関わりで体 育。スポーツの普及。発展に指導的役割を果たした人物の思想。実践や学校体育制度の変遷,あるい は学校を中心とした運動部活動等の研究に偏り,国民の大多数を占める民衆へのスポーツ普及の様相 に関して十分な議論を積み上げてこなかった,いわば「民衆不在」という課題をふまえ,戦前青年層 の大多数を収容した青年団に着目して,彼らにおける体育。スポーツが如何なる様相の下に展開され
てきたかを明らかにしようとする意欲的な研究である。
このような問題意識のもとに,本研究はこれまでの青年団史研究の蓄積をふまえながら,まず日本 青年館資料室(東京)に所蔵されている全国各地の「青年団報」「日本青年新聞」「青年団講習所記録」
などの収集と分析を行い,大正・昭和にかけて田沢義輔らによって推進された官製青年団運動の全国 的な展開と動向及びその中で体育。スポーツがどのように位置付けられているかを把握した。次にそ の「青年団講習所」で学び,昭和9年に帰郷してその後典型的な農村指導者として活躍した江沼郡月 津村(現小松市)巽二郎(故人)家に所蔵されていた個人日記。会計記録。ノート類を「石川教育」。「石 川体育」等の諸雑誌,あるいは当時の新聞記事などと照らし合わせながら,地方の農村青年団運動の 実態及び彼らの運動競技会やスポーツに取り組む姿勢や葛藤の姿を描いている。つまり,この研究で 明かにされていることは,大正から昭和にかけて中央とダイナミックな関係のもとに展開された地方 青年団の官製化とそれに伴って組織された「青年団競技」の実態,および石川県江沼郡月津村の事例
からみた農村青年の体育。スポーツに対する葛藤と受容の姿である。本研究は本論4章と補論2章からなっている。
第一章では,日露戦後に始まる青年組織への国家的指導とこれにもとづく石川県の青年団官製化の 過程について論じている。これは大正期に出現する「青年団競技」を論じる際の前提として,それま での「若者組」的な青年集団が国家的な指導を受け始め,やがて天皇制国家を支える末端組織として
官製化される過程を論じたものである。
第二章では,青年団の官製化とともに興隆する「青年団競技」出現の背景と実態を大正7年に始ま る「石川県青年体育大会」の事例をもとに検討している。ここでは日本的な余興。娯楽的な要素を持っ た運動会がベースにされながら,体力向上を中心とした軍事的要求や,思想。余暇善導の社会政策的 意図を反映し,全般的に自主的な装いの中で青年たちの向学心やスポーツへの欲求や関心を体制化し
て同一方向へと向かわせたのではないかとの指摘を行っている。
第三章では,石川県青年体育大会を契機とする社会体育普及や競技体系の整備によるスポーツの多 様化に対応して,あるいは県民の健康問題解決へのアプローチとして推進された石川県の体育。スポー ツ振興の流れを青年団競技や明治神宮競技大会との関連から論じ,それらは青年たちの体育やスポー ツへの欲求や関心をある程度反映させながら,着実に天皇制国家への寄与体系としての'性格を強めて
いったと指摘している。
第四章では,第三章までに述べた石川県における青年団競技の定着状況をふまえて,恐'慌期農村青 年のスポーツに対する態度を「青年団競技」への批判的見解を中心に検証している。すなわち前章ま でをみると,一見無批判に従順に受け入れてきたかに見える農村青年たちは,「青年団競技」やスポー ツに対して,農村の不況を背景に,それらを実用I性を欠いた享楽的な都会文化としてとらえ,これに 距離を置く態度をみせていたことを明らかにしている。こうした農村青年の姿はこれまで,十分には
明らかにされておらず,本研究の大きな成果と見ることができる。補論では,こうした青年団競技の勃興や定着の背景にある農本主義的な思想,あるいはスポーツへ の批判的まなざしがいったい何に由来するものであるかを検討するために,議論の底流にある官製青 年団運動そのものを追究する2つの章をおいている。第一章は全国的な青年指導者田沢義輔の青年団
運動論であり,第二章はその下で学んだ巽二郎のそれである。この補論によって官製青年団運動その-31-
ものを推進する思想や活動が農本主義的な思想に基盤を置き,それがゆえに競技会やスポーツへの積 極的な受容と一方でそれに対する強い批判ないし懐疑的な見方をももたらしていたことが逆照射され
ている。
体育やスポーツが思想的な逸脱回避といった意味で政治的に利用されることはこれまでもしばしば 指摘されてきたことであるが,本研究では青年団運動にあっても同様に体育やスポーツ競技活動が他 の諸活動に比して官製的。形式的な組織化や思想善導に強力かつ能動的に作用したことが指摘されて いる。この過程で勃興したのが青年団競技であり,そこには体力向上を中心とした軍事的要求や思想。
余暇善導といった社会政策的意図が多分に含まれていたのである。つまり,大正から昭和にかけての 時期は一般に国民的な規模での「スポーツの興隆期」であったと位置づけられるが,ただしこれは,
個人に対する国家の優位という図式でスポーツの大衆化が進行したと見るべきなのであろう。修養団 体と規定された青年団で行う体育。スポーツ活動である限り,それは単なる娯楽としてではなく,体 制が用意した教育的な付加価値を主張し社会的に正当化されなければならなかったのである。すなわ ち,青年団活動の一環として体力向上や規律。訓練,協同一致の精神といった教育的意義が付与され たスポーツ競技は「運動による教育」の手段としての把握が一般化され,競技それ自体を楽しむこと にある種のうしろめたさを感じざるを得ない状況が作られていたのである。
本研究は現在日本の各階層に深層的に残っている体育やスポーツが「遊び」として軽視ないしは蔑 視される心情が実は歴史的な経緯の中で生み出されてきた様相の一端を描き出している点でもきわめ て注目される。
以上のように,本研究には研究視角の新しさ,綿密な史料収集活動による貴重な一次史料の発掘と 分析力,一定水準の歴史叙述力など当該分野における近現代史研究者として大きな可能性が認められ
る。学会誌(レフリー制)にもすでに論文が登載され,学会発表等でも研究成果の一部は発表されて 高い評価を得ている。これらに鑑み,審査員は全員一致を以って,本論文を「博士(学術)」論文と
して「合格」と判定した。
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