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(1)

植民地下のインド鉄鋼業 (インド特集I)

著者 清水 学

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名 アジア経済

巻 11

号 10

ページ 65‑98

発行年 1970‑10

出版者 アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00052424

(2)

1970100067.TIF

鉄 鋼 業 植 民 地 卜 の イ

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7 J

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ンドはその資本主義の発民が最も高度,,二行なわれ たことは,京要な特徴であるが,鉄鋼業も主要な発 展方向を土若資本の

F

に見い出したのであt》た。

鉄鋼業の発民は, 11在民地インドの資本 もr:ろん,

主義発展の主軸を成したとはいえないが, 続民地

鉄鋼業を発展させることにほぼ成功し 支配下で,

インド資本主義の特殊性を探りうる

レーに,llc LL!,  A. 1‑H .,,,,, 

条例ニが見いIL¥だされうると考え人れる。そALゆえ,

タタ製鉄会社(TataIron Steel Co. Ltd.  本ff.hi土,

その形 国内産業構 な インドにおける民族 t3, 

第 1次世界大戦,第 1次サソ子ィヤ 運動の勃興,

グラパ,第2次サッティヤグラハの時期でもあり,

国内的条件も背去として考慮

ここてぷノE詰:足立外と i

︐ l 

jLなけれi工、ならなし、。

民主!日l!i止は

e n  

1) 

成・発展の条件,

造における位置づけを中心にcl;裂してみたL。 対象とされるは時期は,

以下 TISCOと略す)を中心として,

イギ、リス{関!の;土、f見、

さまざまな国際的,

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TISCOl、山ソJ :主人;民 県クピIトノf)hi'・: J ・ ・ヌシ イ, 1.  ;"s  ・; Jl'c  '.'.  "c Wiとp TIS ・c'i' ji・:1;; TISC() .  ・.) :C: .T C二 .! ) 'ic l;.  7.  TISCO Jι1,「ノ a,,,夕、~'.ii 

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4. 

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I~

TISCOの 設 立 と 発 展

! ' , ,

鉄銀業の性格

907i干のTISCりの設立は,実質的な志味での,

インドにおける近代的鉄鋼業の創設と考えられる

/i)  ザ じ

本稿,;t,三()世紀初頭からほぼ第三次世界大戦に

烹るまでのインドの鉄鋼業の発展をみることによ .d 1),  まず, ここでは鉄鋼業の持つ経済的意味 づけを整理しておきたヤ。イギリスの産業革命は,

植民地インドでの資本主義発展の特殊性を

')、・r' 

機 械 材 設維工業にお」、て典型的に行なわれたが,

探ろうとするものである,:'1  1) 0鉄訳業は,綿工業カ量

製鉄冶余技 pj'.iの発i主と鉄生産の増大がもたらされた。近代的

6ラ 料としての鉄の使用拡大にともない,

主工業のーっ の典型とな•)口、る oL、わゆる植民地のなかで,イ 軽工業の一つの典型であるように,

(3)

1970100068.TIF

鉄鍛業を需要面からみると,機 械を中心とする生産手段生産部門に対する基礎資 材,社会的間接資本,軍需関係が, 20I吐紀初頭か ら第三次甘1:界大戦までのインド鉄鋼業の発民の契

以上のように,

工作機械工業の確立 資本主義的大工業にとって基本的

蒸気機関、

製鉄業の確立は,

とあい土...てう

陪械による機械の生 な生産技術!:の:lit礎である

jL;土, 消費財 産の確立へと導くことになぺた。

近代的製鉄業は生産の側面 機として重要で、あるO

j,可苦 生産部門と生産財生産部門の確立でもあり,

まず特徴づ からみるど, :'t.序:の巨大性でもって,

一回の自立的な同民主主 を内包ずることに上サて,

ii.額な期初投資を必要とする けられる。それは,

イギリスにがれ、

i

斉を形成しうる条件ともなった。

党大な原料と莫大な生産設備を必 ばかりでなく,

マランスでも産業:本命が ア メ リ カ ,

i:ィ、:ノ,

\ 喝

きわめて大量の労働力を必要とする産業 要とし,

− レ ザ

に め /o> 1、、ずれも;

f i : f t

的鉄鋼業をう士》に含む

起工ったがち

製鉄一 製 鋼 ・・)±延の;1段階が同一工場内で一貫総介的に 行 な わ れ る こ と が 生 産 合 理 化 を 可 能 と さ せ る た

鉄鋼生産の技術体系からみても,

ものであソナ二c TISCりを中心と「るインド鉄

t

廃業 インドの生産財生産部門佐立と一十分結{tLえ カv

主主 とも方、く、

後i二検討さjLるがτ

fこカ、ど「)力、l、士

日 大 江 総 合 産 業 で も あ る 。 鉄 鉱 石 の 採 掛 か 6

i,う ら, 鋼業の「ft,うるこの性格を宥過することはできな

港湾施設,ゲス利用等と、

炭坑支通輸送機関,

,,、であろう。

化学部門まで宅!si)一企業で ]fr:むずることがありうる u~i:)。それゆえ,

原料部門,力II工古I¥P1J,

f

央卸業の資本主義の予告]L《に果たした役 その

f

、也

鉄 鋼 業 創業資本,経営費用も非常に けりト資本では不可能となり,

は綿工業と異なに 巨額なものとなり,

1]は大きし、。 l世紀以降司交通・輸送手段 汽 基i1珪資材としてゆ 鉄道一一ーの革命に「ト)て,

船、

:手前面で、の 鉄鋼はL、っそう重要とfょった。また

資本主義の発 独占的な企業が成立しがちであり,

''  iiえになればなるほど1¥':jまってき 鉄ぴi:,JU!liよ

展 に 新 た な 段 階 を 両 す る も の と も な る の で あ る 鉄道と', Ji

インド鉄鋼業び)発展にしてもラ

−「十、:1 に ぺ0 ',  ' 

その植民地的特d陀 イギリスで見られた インドの場;},

しかL、

dA 

〆l

需は無視しえなL、比重を荷なうことになるのであ

と資本主義発達の )毘れから,

鉄道しずJ}e;j主は,資本主義の発達にとうて不i

c

白山競争の過程でrJ11ト資本を威主連あるい 欠な[hi内1bJ詩形成G(I〕最も重要な三子段であった,h ように、

I~鉄鋼資本が成立するとし、う過程を は吸収して,

i

弓民 石炭や鉄の大量;fl 

i t

苦とし亡、

それは主たラ

とらなか...,た。 TISCOは最初から独1\的地位を確 鉄道の発達

u

経済にんきな彩響を及ぼした。

i 後

i i H : t c l J

的現象であ これは,

jずるハである。

軍事的支配を健保するた i土,

1

抗民j也l二二ヨ\ )て;土、

u

者YUi:.D1TI定資本を要する産業である鉄鋼

;主要の増減があったからといって、それに

h u

;震は,

7千易に~土4長できな 李.に応ずることができなし、。

拡張十る場合にも相当の年)]を要 いだけでfょく,

j己成される頃には需要の減少に直面する可能 し,

技術が一基でも増加す 生 産 量fH、っきょに増大し,供給過剰に陥 性さえ持って',' 0。また,

ると,

敷設;I/

f

三格的に[!?]始されたのはライLド兵(どぷ{)

の反乱以後であるが、それは同時にτ国体ir¥i 

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去をイ ギリ ζ売業資本の商品市場としζ開放す一るととも に, fj ドのて十:首綿工業J発展へのi立を[沿いたコま た鉄道修理工j号をつうじて近代的な抜減工業の端 絡を刊さったrfンiごの欽主的業の発達にはイギづスの 対インド鉄道敷設政策の補完ii長も強1ぜ、のである。

66 

インドにおL、て主ti立の めの輸送手段でも去〉った。

(4)

る可能性もある。逆に不況期だ刀瓦らといって,溶 鉱炉の火を落とすことは, 技術上の理由からして も, 復IlI;二多額の費用を要するのである。不況期 に資本の.V'%壊 ボ な さ れ る 場 合 , 綿 工 誌 と は

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,な り, 償却が十分なされていないうちに破壊される とU、う温険性さえもって

ν

る。

後進百本主義国におL、て近代的決鋼業を興二す 場合,特に資本の調違から大きな問題になる。ド イ プ の 場 ふ 銀 行 に 援 助 さ れ た 株 式 会 社 制 度 を 芋lj 用寸ることに上 I)' こうu、う大規模な企業を, 比 較的容易に発展させることができた。 こ.tiは, 方において,保護関税政策の採用とも結びついて Uh/」。 ドイツi工,こ主うにして鉄鋼業の分野で,

容易にイギリスを抜くことができた。 日本の場合 は,政府が直接, 国家資本を投入して保護育成し たことが特徴的である ド f ツ, ~I 本と異なっご植 しかも資本主義の発展がいっそう遅 民 地 で あ し

れていた20世紀初頭のインドにおいて,民族資本

〈注工の代

J i :

ともいえるタタ資本が鉄鋼おこ進IJiし たさとは、 {  ド特有の困難をのI)こえなけjlば ならなかった。 それは技術面での連れ, さらにい 額 な 期 初 日 本 む1

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達するという国獄,

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誘の

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;あ いさと不安定住, 保 護 の 不

l

分 さ 、 不 況 期lこ耐え うるだけの資本力の欠如等である。 :?」〕、,− ザ ネ イン ドのようμ植民地における京工主(鉄:雨量業) ,')自 lj 設/心、 2()['ト紀れ

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,む本部i主,

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11五hら\';J> 

にして可能となり, また, インド資本主義発展の なかで, ーのような忌来をもったjゆ,

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さいな けれ、まな・iL、 こゴ問題l インド資本主災発 展の特殊性を, 鉄鋼業を通じて明らかにする作業 の一つでもある。それは, 従来の議論の一昔日以見 らj;:!乙 /ン!:鉄鋼主「例外j誌をー fンド 行ヲt,: 主義のワケ内に組み入れることでもある。

TISCO以前のインド鉄録業

インドの近代的機械制工業は, 比較的早く19世 紀半ば以後の綿工業によって始められた。 19世 紀 末に近づくにつれてう民族主義的思想、が,徐々に,

民族ブルヅョアジー都市中間層の間に一定の影響 を及ぼし始め(注6)' そのなかで, インドの工業化 の手段として鉄鋼業の育成を提唱する民族主義者 も現われていたUi7) 0 自立的な由民経済の確立を 熱盟する勢力の一定の反映であった。

イン iごにおレ工は, 歴史的にみて,木炭による 小規模な子工業的製鉄法が, 長い間広汎な地域に わたって行なわれてきた。それらは, 手織,手紡 が経た経験と共通し ‑C,19世紀を通じるイギヴス の産業資本主義の確立と, ヨーロザノξで、の鉄鋼技 術の進歩によって,競争相手として残ることは困 難であった。鉄道の敷設と, それによる市場の拡 大は, 輸入鉄鋼製品をインド奥地にまで運んだ。

それと同時に, インド国内で新たに需要されるよ うになった鉄鋼製品の大部分は,従来インドで生 産されてきたものではなかずyたのである。しかし,

旧来の製鉄法による生産は消滅したのではなく,

長い間地方農村に残存するのである位8。)

!ーロ ノパの近代的技術をモチルにした大規模 な製鉄所を建設Lょうとする最初の試みは, すで に1830年,東インド会社のマドラス行政管区に勤 務してUもに

J .

N・ヒース JN. lleath)によって おこなわれてし、るcかれは束インド会社を辞職後,

会社からマドラス管区での大規模な製鉄業を興こ す 独 占 権 を 入 子 し , サウス・アYレコット(South Arcot)のボルト・ノ1γ‑j‑(Porto  Novo)で熔鉱炉を 建設し 9),会社に財政的援助をあおいだ。また 1833年,ヘイホール,,Beypore)において,新たな 溶鉱炉も建設されてヤるほ川、。その他の試みどし ては,1853年に東インド製鉄会社(EastIndian Iron  Co.)が,資本金40万ポンドで設立され, 政 府 の 援

67 

(5)

1970100070.TIF

助も受け/J.がらう サウぇ・アルコットおよびコリ バト−;レ (Corribator) のコーヴごにリー・リヴァー , l ‑:cuvery  River)に溶鉱炉三基を建設してL、る(

その他数多くの試みが行なわれているが〔/1'12),

:;‑:75年試立の,、ニ子カール鉄鋼 社 ,JlarakarIn :md St七巳ICo.)をのぞいて,すべて失敗に帰してい る。その理由としては, 木炭用木材の,急迫する不 足分を、 近隣f1JAで供給でき7 るつf二三と,経営 の失敗停が考えられる

唯一成功ff1Jであるノくラカ』 tl,鉄鉱会住はIぷ75 年に発足, 79年にはu、ったん閉鎖したが, 81年に は改府:ニワ、きつがれ,政

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土日け年にこれをベンーII ノL鉄読書会社(BngalIron  and Steel  Co白〈後継会社〉〕

i二譲渡した。 ノミラカール鉄鋼会社は,一ンガルの ラニガンジ炭田中のクルチ(Kulti)に,溶鉱炉を2 基建設'.., 原半

i

土木炭J;、ら石氏U転換したことが 成ぅ力の理由とされてヤノム。 最 初i土年間40トンの能 カであったが, 97年までには1万2700トンの銑鉄 を生産し た。 しかし, 'JJ楽に向ヨ:3'ができるように なったのは, 1899年になってからであった。同社 は!919年;二,ベンゲル鉄鋼会社l二三507:rjcンドで

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併され, さらに1939年にはインド鉄鋼会社(Indian I land  :‑'tee!  ( o. 1に介印され,

次に製鋼業発達についてみると, インド政庁の 陸軍省か,カルカ P タ付近のイン γ ポ」 !~ に, 1892

年製鋼工場を建設し,

めたのが段初であり,

輸入銑鉄でもって製鋼を始 年間約lトンのペーを生

)  T。 さらに、こ 1898.'r¥−:こは,京インド鉄道がジ ャマルプールに, 15トンの塩基性炉2基と,ビレツ トノξーお上び,j、世形鋼用:')圧延機 3台を建設し.

軌条のリターン・スクラッ7'やその他のスクラッ プ手製鋼きと行なJ川ヒ。 7; ‑こitらは:、 軍隊,

たは鉄道会社の自家消費であり, 一般市場向けで

;土工く, しかも原料にはインド産銑鉄を用いなカミ 68 

−,た。

インド銑を原料とする製鋼業は, 1905〜06年に それは ペンカル鉄親会社によ・_)て開始されたが,

失敗に帰している。その原因としては, 輸入鋼の ト量多種製品νγ注文が多か

f

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格が低かったこと,

F二三と, 製鋼技術固からの制約,耐火レンガお よびブ且ロマンガンを輸入しなけれい必らなかっ たことなどカユあげら,llる。

このように, TISCO以前に種々の試みがなされ f二?九 句、ずれも小規模であり, 軍・鉄道に ~Ii ぴつ いたものであった。 インド麗の鉄鉱石を用し、,製

[売一製鋼一圧延び)一貫生産を行なう j,'J:鋼業山修立 は TISCOまで待たなければならなかった。

3.  タタ資本の性格と j・N・タタ TISCOにより,

j−ることになるポ,

インドの鉄鋼業が本格的に成立 ミれを創始したタヲ資本の性 ポ?をみておこう。

「フ守ルジョアジー形成の特殊性, Jンドにおけ る資本主義発民の総過程は, 基本的に植民地規定 性によるけれども, 資本主義発達の法則を無にす 単にその現われを修正し,変化 ることではなく.

せしめ, ゆがめるだけにすぎない。植民地支配の 影響は決定的であったとはいえ、 イ> F経済禿展 の唯 4の重要な要因ではなし、。植民地支配者達は,

かれら/川正服した国で、の経済発展状況、 経済過程 を考慮せず行なったことは, 必ず現実からしっぺ

i与しを受rtたのである l位 t4)y・I. ブロ Cl;J:'  インド・ブノレジョアジーの研究での結論で, この ようにj£べている。事実,

i土説明できないととも,

植民地的規定住だけで インド資本主義の発達を みるなかで見い出しうる。

がそオしである.rl、日O

TISCOを創設したのは,

民族資本の一定の発展

シャムセトジ・ヌッセ ルワンジ・タワ darnsetji Nusserwanji Tata)である

(6)

fン}ごのプノレジョアジ このようよ仁ゲタ資本は,

;

l';,カイ1の父−,ッセルワンジ・タケは,パールシ

ーの僧職の家系であった。かれは,1857年のイギリ ーのなかで, どのような位置づけを有するのであ イン F'のイルジョアジー形成の特質のー ろうかc

イギリス1ii'のE言語1¥i1供 てのf弓ン攻撃に際して,

その多元性にある。ブノレジ百アジー形成の 財産を蓄積する機会をつかんだ日16) つは,

申告により,

民族形成の多元性とも関連してい 多元的性格;土,

T 中国内ゆで位、

「ド固と

n

貿易仁従事しち

fに込町p

L.,

地域的な経済発展段階の相異, イギ る。それは,

ショウノ インド向けでは,茶,絹,

へンと綿花,

コミュニティによる リスのインド支配のあり方,

Iう,童l両,金を

n

元9扱 0fcむその頃から,息子正')

J .  

K・タケが仕す士手f万円ようになりヲ 1861年のア 分断行:等iこ上マ,て規定されている。 それゆえ、 イ インド全 ン戸・ブルジョアジーの多元的性格は,

イギリス軍 メリカの南北戦争による綿花ブーム,

イ本を

l p ̲‑

−の民族国家として把聾する三とを国難に 円エヂ十ピア遠征時山商業話酌等に活躍した。 69

年には,ボンベイに綿工場「アレクサンドリア」 多民族国家と規定できないわけではな かった。 V ・ I・ノξブロフは,インド・7−−,レジEアジ

しており,

「アレケサ を建設L,相主f工利益をあげた位閉じ

マノレヴリ・

ーをグジャラーティ・ブルゾョアジー,

内陸に建設され,非常に低廉な労 ンドリア」は,

− 

.._._

マラータ・ブツレジョアジー,

ブルジョアジー,

市J与を至近 ~fi 離に J日、たのであ この上うにタタ資本は,植民地支配下の貿弁 働力, J!店料綿花、

ンガリ・ブルジョアジーの4分類を行なっている る。

タタ;士、グジャラ一子ィ・ブ/レジョアジー

(注1

設に産業資本に転化し 的性格を持つ間人資

1

f

た も の で あ る の代表的なものとされている。 グジャラーティ・

中国 ブノレジヲアジーは,ボンベイを中心として,

77年じは,

1871年になると,同i;場をy己1)払u,、

とのアヘン貿易と, 1860年代の綿花ブームを通じ 綿工業に投資しているのが多 て蓄積した資本を,

い。その綿工業で生産された綿糸布の市場として

!エンーヘス 1Ernpres<:I綿工場を創設稼動せLめ ている。その経営は,

労働者宿舎の弘主,表

・ t T

金制度

ο

導入、従 業員持株制度の導入さえ行なっている。

きわめて合理的な方向をめ 三し,

中国,東南アジアが本悶に比して変わ らなし、ほどの吾妻性をもち,国内市場との連関は,

むしろ弱かったのである印刷。インドの資本主義 は,最初,

l

l

有利な立政条件と近代的経営技 レス

J ( ' I i

工場,t

高い手I]潤をあげている。

鉄鋼主と水ケ売電投資に 術〔注18〕との結合により

そこにも現われている 発展の

h i '

:民地的規定性;ま,

それiこζる資本喜子積が、

が,グジャラーティ・ブルジョアジーはタタに代表 中国における官僚

タタは,

向けられるのである。

工業分野にも積極的に投資してい されるように,

国 家H1カを自分達でし主う出し 資本とも異な:J, 

ていない植民地ブノレジョアジーである。 る資本家群である(注目。グジャラーティ・ブ ルジ ョアジーが比較的自由に商業活動に従事して資本 それは,

投機性というゆがみを持ちなぶらも,;在 買弁性,

イギJス植民地権力の支配l 蓄積をなしえたのは,

力の強かったカルカッタ中心ではなく,

の車了、fヒを行たってしる。ゲケ;土,

;決あるい王業資

ボンベイ 植民地権力ばかり

ある意味ではその典型であり,

大きな要[7;1であ ったと考えられよう(注目。初期民族運動の理論的 指導者であ−,たダーゲパイ・ナオロゾ(Darlabhai

69  を活動の背景にしていたことも,

でなく、コ0世況にはL、.itii民民運動:士七手i]J1Jしつ インド国内に近代的工業をつくりあげていこ うとするのでんる。

〈コ,

(7)

1970100072.TIF

製 鉄 業 を 興 ニ う/;_

H

体的な点まで指示している。

:¥'.1010 ji i Jドゲ/、ヤニ}一千 f・つルレョfジ−/Ji才」

あ ら ゆ る 点 で 近 代 的 設 備 で 経 党 者 は , 存 門 技 術 者 と すー';;~;

C ,

の条件とL

h  l, , 

でわJ' たことはゆえなしとし たL、のである。

なけJ1"(.f 

t r

_らt.I.\;、こと,

そ の 地 域 の 労 働 そ の 他 の 事 情 に 通 じ て い 採 算eミ ー ス に の る こ と , が 主 張 さ れ て い とl,;二、

ヤジャ弓一子 f・−;''o  ;‑ /、一山代表|ねな

,,・,どJすえて上いでh,;',  ・;' 

1  '1士ふfむイザ:・「,,.:;  , ,f ジ ー の 形 成 の J

{ / F  

3、、、 fギ リ ス の 軍 事 関 係 者 に よ

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,  L〜:、:bら II̲‑i1,心

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の 資

」:i1−プ〉よりに司 特質;t'

の 近 代 的 鉄 鋼 業 の 創 設 が 提

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,されているのは注口

の資本主義{ととし

「f>>「〉ー 本主主化ではなく、

ドイ、ソ人の専門家7

{也に,

しごよいであろうつ

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・   tょj〕七、

てJ‑巴jfilさJ.1,;'.,  .  ̲, 

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ー −7 ,, .  ..,  ̲.  ,c 

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Jj -~" r/) 製鉄業の金融的見通し」 (1882可, ご!i吹!:士 植民地て ,r,t~ 弁(t(J 両立資本が,

とる,nで;土;んく、

j;二ょっ ておおい:=刺激を受けたとL、われてンる一タ

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チ ャ ン ゲ に あ る 鉄 鉱 石 を 利 用 す る こ と を 計Wliし, 発 行jかあり,ジγムセトシ・ケケi土,

直法、機↑法制大工,l誌の経営を始。hら と い う 道 士 た どるj γであら

イ ギ り ス の 政 策 転 換 と タ タ 4. 

中央付!の地方行政官であるジョン・ヘンリ

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ィγ!!スぷ)対1 ド政策のありJi l

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;紀末i、士

一・モリス(Johnlenry  :Vlorris,\に採掘権の認可

‑‑‑,‑)の変化が起こりつつある時であd、た。た

採 掘 地 点 ま で の 大 イ ン ド 半 島 鉄 道 の 支 線 延 長

全為替本位:;

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ドi二;士,

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fギリ ート乞ともん:ノて fンドに導入,':: A,, 21\、

インド省元次官の円ミノレ トL榊(Lord Harnt,山、!の全面的支持を獲得す るのである(.')8'。ジャムセトジ・ケケ l士, 190三年 にイギリスに{度った隠し

ス 資 本 かf> ;; ;こ流入一iーら/こめ山民俗壬件山一つ 督 力 一 ソ ン 卿

云11111主 主

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日発 また[,7]f十三ヲ インド

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Lrd Curwn 1に よ る 鉱U1iH1設!亮は,

ピヴ、ソパークでジュリアン・

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ケ ネ ギ ィ ・ サ ー リ ン 会 社 (Julian Eennedy, Sahlin and t、''− Lid.,  Engineerゅ の 支 配 人 で あ り , 著 名 な

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金 技 術 者 で も あ っ た ジ ュ リ ア ン ・ ケ ネ デ ィ の 協 j{fi1{/, 

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(8)

o 探査を行なって?いたのはタタば点もりでなく,

イギリスの資本家アーネスト・カッセルも司同時 期l,こ 中央川北部の需品査を行な−:,ており,インド 製鉄業の潜在的可能性は,海外からも注目されて いた。ドラブジ・タタは, アメリカからの技術者 とともに,チョタ・ナグプ

JhotaNagpur)か

らマユルパ〉ジ同にかけて徹底的に調宜し, イン ド鉄帯の有明性を確信しつつ,製鉄

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創設の具体 化lことりかかった。その具体化(とは任大な資本を 調遣するという困難が待ちかまえていた。

5.  TISCOの資本調進

:沿世紀初点のインドマ,タタのような民閣資本 でもってj 製鉄業;こ必要な資本調達を行なうこと じ,かなり困難であった。しかし、 タタf土,エシ プレス工場の成功,ボンベイでの発鱈事業,貿易 等の諸事業を通じて蓄積してきた資本を基礎にし て,鉄鋼業にいどんだ。タタは最初,イギリスで 資本調達をこころみたが,それ[土失敗している

(1906年)位il.'。かれは,国内資本の有望牲に対し ては目を聞かず,最初法外国資本にFlを向けてい たのである タタの努力は不成功に終わるが,そ

れは, 台時のロンドン金融市場がひきしまってい たためでもあるし, また,イギりス側が,タタポ 譲歩する以上の企業支配権を要求したためであっ た〈性問。概して,イギリス財界の積極的な協力は えられなかった。

そこでタタは国内資本に闘を向けて, 1907年8 月 ボンベイで2300万ルピー(750万ドル〉の資本 を募る設立趣意書を発行した。それに対して, 3 週間以内に,ほとんどインド人による 8000人以上 の応募がなされ, これだけの金舗の募集は逮成さ れた。 これは,タタ自身も予想しなか・ったほどの 大成功で あったむ印}。このような国内資本の供給 は,どうして}可能であったかは興味ある事実であ るが、それにはさまざまの理由が考えられるG

タタ資本の過去の実績に対する僧頼も, それに 大きく寄与していたことも無視できない。投資に ともなう危険性は,タタの場合, 比較的少ないも のと考えられていたといえよう。しかし, それだ けではない。まず, TISCO構想、については,軌条 買付け協定の形で, インド政庁の一定の支持があ った。 i最小限にしろ政府の援助があったことは,

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71 

(9)

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成功の見込みを強めるものであった。

また, インド民族運動の一つの転機と重なりあ った時期であったことも無視しえないであろう。

E~ )5 年のペンカ、ル分割令を契機に盛りヒがったイ ンド・ナショナリズムは,イギリスに対する対抗関 係を明確にし和めた。そのなかで,スワヂシ(国産 品愛用)は,運動の方向を示ナスローガンのーっ とほったコベン力、fレ分割反対運動は, 1906年の会 議派カ/レカァタ大会の 4大決議,すなわち,スワ ヲ/, fギリス製品ボイコット, スワヂシ民族教 育;こ示されて1t'る。スワデシは, 「土石産業の発 農を促進し翰入製品に優先して土着製品の生窟に 努力することJを要求していたp スワヂシ運動や イギリス製品ボイコットが主として対象にしてい たのは綿工業であるが, それのみに怯「ラれなかっ た。スワデシ運動は, インドの資源はインド人自 身によって開発されるべきであると

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う理念をふ くんでおり,鉄鋼業を支える意味を持ちえたであ ろう。ともかく, ようやく自己の力の白覚とイギ リスに対する対抗力となりつつあるインド民族資 本の政治的表現の一つであったスワヂシ運動は,

結果的;三も有利に働u、たとい,でよし、であろう。

巨額な投資資金の募集が, これだけ鑑期間に達成 されたことは,それを示してL、る。

さらに,株主構成の検討はTISCO資本の性格を

1

,'っそう nfjらかにするであろう。資本山内達の時の 株主構成を知ることができないので, 1911年の時 点のそれ?みる二とにしよう。株主数からみると,

1500株以下の少額株主の数が総株主のほぼ9判に もあたっ,しカ もそのうち82フo:土, !/ Yの出身コ さュニヰfで産、るバーノレシーではなく、 ヒンドゥ ー,ジャイナ,シーク, ムスリム等でしめられて

Lる。株主は,巴ずしも一つのコミコニティにし ばられておらず, コミュニティの枠を越えた国民

72 

的基盤で,しかも比較的零細な資本を集めている。

しかし、それにもかかわらず, タタはバールシー のコミュニティに属し, そのコミュニティをも十 分利用していることは百定できない。 これは第1 表でみるように,パールシーの出資比率は少なく

とも36%(タタ家を徐くと26%)をしめており,単 一のコミュニティとしては非常に高い。パールシ ーの平均所得が, インド人全体の平均所得より高 かったかは実証できないが,比較的豊がなバール シーの資金がタタを通じて TISCOに流入したと いえよう。コミュナノレな結束を利用しつつ, 他の コミュニティを含む国民的基盤の上に資本調違を 成功せしめたといえるだろう。

この株主構成のなかで注目すべきところは,そ の主要株主である。タタ家以外で最大の株主は,

有名なパーIレシーの商人であるコワスジー・ジェ ハンギーノレ(CowaeeJchangir)である。その他の 株主としては、 ゴルドハンダス(Gordhandas),ム

Jレラージ・カタウ(MulrajKhattau)等の商人および 産業資本家がし、る。 さらに,ヒン子ぅーのパロダ (Baroda),マイソーノレ(Mysore),バブナガノレ(Bhav‑

nagar)の蕃王も主要な株主を構成してL、る。藩王 が主要株主として登場していることは, インドの 産業資本の源泉のーっとして興味深レが,事実,

15人のマハーラージャおよび封建君主の投資が,

TISC<)の資本金の13%を占めていた)当時,カ寸Lら は, その富をインドの経済発展に用いていないと 批判されていたが, それは必ずしも介主化できる ものではなかった。むしろ,インドの産業資本の発 展に,諸王が寄与している事実,いいかえれば,封 建的勢力と産業資本の一定の結びつき方に, fン ド資本主義発展の一つの特徴を見い出だすことが できるであろう。木炭による製鉄法であるが、1918 年につくられたマイソール製鉄所(MysoreIron 

(10)

and Steel vVorl日)は,いわゆる民明的マハーラー ジャによるものであり,資本金はすべて藩の財政 iこ依拠するものであったJここにも 藩王の資本主 義的企業に果たした役割が認められる。議営企業 と民間企業、T)出格の和注はあるが,企業創設,社 慣の購入その他の形態で韓王が参加している事例 は他でも認められ, 今後十分検討される必襲があ ろうっその研r先J土,現代インドの独占的大企業と

|日藩王勢力との結合関係の究明にまで発展させら れねばならず,前近代的土地帯UJ主により蓄原され た余剰がどう動くかについてのインド的特徴の研 究となろうr

19'.!0年代初期の資本調達は, TISCOにとって,

それほど容易なものではなかった。 1917年に始め られた設備拡張lま, 新

i

未発行によず予てまか/ょう予 定であり,迫加額は期初資本のほぼ4倍に当たる 8内()「)万fレピーであった衿それが消化されるに:土,

2'.‑l年までの期閣が必要iピったのでふる位34\この 新株発行はいろいろな意味で悪条件のもとにあっ たっこれらの拡張は,資本財価賂円高騰した時期 に開始され,また,第1次大戦後,鉄鎮業が世界 的規模で不況を経験しつつある時に、 工業がi生め られたため, TISCOは新株売上向、℃は不足分を償 うことができなかった 同社の不足額は,社債の 発行「イギリス)ラ政府からの借入Jt,l裁争中にぎ;讃 された覆立金で償われた。 1924年から39年の間,

新株迫加数はわずかであり, 措入;:'.'[ま減ノレした。 その間,同社の能力は倍加しており,その達成は 減価償却分によってまかなわれ,比較的順調ヤあ

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6.  TISCOの発足とその発展

TISCO のぷむにつU 、て;土, 1906午ピハー;~fiiの サクチ(Sakchi)に決まり,翌1907年には,上述の

よ勺(二必要とされる資本を調注することができ

た。着u工は1908年, 3年後の1911年tこは完成した。

;最初の出銑は1911年12月,最初の鋼は1913年に生 産された。 1913年の時点では,溶鉱炉2茎,平炉 1基および圧延工場(注35)一つを有しており,年間 生産量は銑鉄12万トン,鋼材4万トンであった。

二れに上り,国内で本格的な銑鏑一貫工場が誕生 したことになったo

TISCOは最初から輪出用の銑践を生産するので はなく,閣内市場向けの鋼材を生産しようとする 点に,その特色をもった〈注3九 い わ ば 一,E孟の原料 輸出としての銑鉄の輸出は, 当然考えられたが,

鋼の段階ま?もっていくことを最初から意図して いたとヤえよう。技術の面でも、アメリカのヱンジ ニヤであるジュリアン・ケネディの指導と監督の

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で工場建忍が進められたが, 熟練技術者も海外 から多数呼びょせた。立地条件についても,とりわ け注意が払われ, 石炭はジャlJア炭田がら 115マ イル, 鉄鉱石はインド鉄帯Iドの会社所属の鉱山グ ノレマイシニから45−;>"イノレ, 溶剤あるいは耐火材な どに使用されるドロマイトは40マイルの距離にあ った。鉄道についても, ベンガノレ・ナグプール鉄 道が,わす全が2マイル離れた力リマチ(l(alimachi) 

まで通じ一日、るという有利た場所であったほ37。) TISCOが生産を開始して以来,最初は銑鉄部門 が好調であったにもかかわらず,製鋼部門は経営 的にも困難な状況にあった。この困難を脱却して,

製鋼部門が軌道にのったのは, 第1次

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止甲子大戦の 勃発によってであった。イギリス軍は,ノ、}レスチ ナ,メソポタミヤ、東アフリカなどの近東地域で

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t'{,'事行耐をとり, この地域で需要される鍛のほと んどすべては, それに必要な大量の軌条を中心に して, イン iごに注文されたからであるの!?は7〜 同

年の TISCOの株式配当率は,実に, 291%にも 達した。 TISCOは最初の困難にもかかわらず,第

73 

(11)

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1次世界大戦の軍需を中心にして .t‑, (l'l:るチャン スをつかんだυl()] 7午には,さらにi割l¥主力を4

{吉化十る三とを日

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して設抗争主張が企図されるま でになったい'.;"; l次世界大戦以降については,後 述されるが、 話2次世界大戦勃発までには,さら に能力が日化されたれ完成鋼につL、ご ;7;よれば、 191'.2 年ぷ)年:i̲lf能力10)ハ、/が司 EU9年;こは80万トンに

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、,'7こ も二ろん、 この発展が

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枝葉在なしに古河j j圭されたlドで;土 fよくも Jlで洋細に検討されるよう

に、 fご干;)ス

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ンド政策と−ifl1協力, ・i反対 立しつつ達成されたものであるc それにもかかわ らず, 19:l9年tこit,  TI日仁()の鉄鋼生産/fii土, イン ド

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ヨ内需要の4分のろをも占めるまでにな 3てい た。 EJ39年に;ま, TlSCO:土大淀帝国の中で,ぷも 大きと

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製鋼所しつ・つであるとともに, 立も低コス ト生産者l) 令つでもあ戸、た,,us,。同社は,第l次 大i決中にアメリカ向;?のブ工ロマンガンのは産を 行なってL、るが, 第2次大戦中:こは多数の特殊認

をも{下るよ,・,;こな lた。 7.  TISCO以外の製鉄会社

Tl訳、()以外J〕製鉄会社として(士、マイソーノレ鉄 鋼会社,:¥Ty sore  Iron & Steel L、o.)と,インド鉄揺会 社 (IndianIron & Steel Co.  以下

n s c o

と略す)

山三社7!;, TISCOと対比ltられる。

マイゾ−.,レ扶閥会社は, マfソ−.IL議王

I J J

政 府 の直接経営として 191パip(こ建設が開始され, J<J23 年に完「主したl1:i~', .• 19:lf:i待三に製摘F王延工JJJ方ミよ::,;止

さltる玄でi司土 もぺ;£:〕争込

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業をf子な〉ノF

会社であ.)たJ この会U:CI)資本企;主?で古i;藩財政か らまかなわれ, 株式資本形式で大衆から調達した ものではなか)た。

IISぐけは, I l木、 イギリス,インド資オ;の均呼 出店でもぺて, 1918年,資本金1500万ルピーで創 立されたハI41.. 1~121 年から主主主失およびゴーケス,

74 

コールタ_,レの副産物などの生産を開始し,製摂 を行なっていたベンガル鉄鋼会社(Bangal Iron & 

Steel  Co.)に銑鉄を供給した。それ以外の銑鉄は,

ほとんど日本,アメリカ,イギリス等:へ輸出され,

海外の製鍛業との結びつきを深めた。 日本向け輸 出も多く,主として財閥系の製鋼会社へ向けられ た。 lISCOの株主につU、ては,ウィリアム.,!¥ • ジョンソン(WilliamA. Johnson)の調査が5.l!Jにあ り、それによると, 1918年にカルカッタおよびロ ンドンの金融市場で株式が売られ, 71%もの株式 が.イギリス人, アングロ・インディアン,イン ドにおけるイギリス系tj長関によって買わll, イン ド人は

11%

しか所有していなかったことになって いる。経常代理会社は,イギリス資本系のカルカ ァタのマーチン・パーン商会(MartinBurn Co. Ltd.  of (、alcutta)であった。 IISCOの特徴はTISCOと 異なり,外同資本による輸出向け銑鉄の生産にあ った。銑鉄は一種の原料であり,その意味で植民 f也f生の

5

金いものであったCJ.41)

以上 民族資本的性絡が比較的濃いTISCけ,タト l:fil資本が支配的な IISCO、藩正国正1:営のマイソー ル鉄鋼会社は各々特徴あるインドの初期製鉄業の 迩を見せている。玄た,後にも言及するが,イン ドの製銑業は鉄鋼業の一環としてよりも, 独立の ー産主として把えることもできる。鉄鉱石が豊富 で, ,~銑コストの安いことは,インドを銑鉄とい う寸示の原料生産地たらしめるものであったっそ の意味で,;

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銑業の独立性i土,インド鉄鋼業の植民

}也的な性格を〉示ナものといえよう。 llSCOはその 代去であるいまた可決〕判資本の調達先の多様性けて{i:,'f

i1!M政から外出資本まで)は,インド経済の多元性と 惚雑な重照的関係を示すものといえよう。 TISCO のように民族資本的傾向をもっ資本が生まれつつ あると同時に,他方では資源獲得的な意味での植

(12)

民 地 的 な 外 国 資 本 の 流 入 が み ら れ る 。 ま た , 植 民 民 地 権 力 に 一 定 の 保 識 を 与 え ら れ な が ら , そ し て 前 近 代 的 ヒI也市j白に依拠しながら(,, 同 時 に

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}]明 的 君 主 た ら ん と す る 帯 主 の 一 定 の 産 業 近 代 化 政 策 との並存でもある。しかし, と の よ う い 芥 々 の 資 本jJ特性を:示しなが「jも, TISCQ,n場 合 に も 龍 王 の 投 資 が 無 視 で き な い よ う に , 前 近 代 的 土 地 所 有 関 係 か ら 生 み 出 さ れ て く る 余 剰 が 産 業 資 本 に 直 接 転

f

ヒされるという関綜が, 先 進 的 た 工 業 分 野 で あ る 鉄 鋼 業 に も 色 濃 く 見 ら れ る の で あ る 。 ぞ の 意 味 で イ ン ド の 重 工 業 の 発 展 も , 前 近 代 的 土 地 所 有 関 係 ど 刀 結 び つ き を 持 っ て い た の で あ る 。

( '11)  後itずるよ円に,タタ以前にも匁まぎまな

;弘刊があ

ι

が,銑鋼一貨を日照したし、フと!こ, Lか 1マれが;/:功したものとして意味とあるc

〔庄2)市川弘勝『鉄鋼』(岩波;£}日;, 1956年〉, 1;‑‑20ヘ ジ。じ本の7営八情製鉄"' J)建;;')',勺呂(!りバ 軍事!'l'J性格を色濃く有しており, 「軍事を完全ならし めパとせ:,ま Jそのが本た乙製鉄f、レ起F 「ベi. i 

/.J思想を背景にしていた。

i3) 市川J,Jj、勝, 1,1〜15ベージコ

(注4〕 宇野弘子主『経済政策論』(弘文堂,1954年〉, l:J4' ‑ . 

(注5) 民族資本という概念、は,はなはだあいまい な概念で£る。主'(弁資本と対立した民みであふが,百 際問題として,ある特定の資本を一義的に民族資本か 'fl 1「−資本と決めることは困難な場合点争いJ ケタle )  いてもそれは表当するのであるが,ここでは,商業資 本}いうふり工必右1t,Jt資本であり, π1Hi'Jピへf ヤーが比

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的少t,' .、ニムを考婚して,使笠的に「民枚 資本」のr:棄を用いた。

じ=i6)  1885l,コi ri国民えぬ派右:日成5 た。しかい紋初からイギリスに対して敵対的ではな

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(i:17)  M ・ G・ラーナデー(M.G. Ranade)は,

著名なジ ーナ)スト.法律家ゴあ.Jこが, fントi: 業化の方策として,鉄鋼業育成の最要性を強調した。

,, 8)  この I:存製J'Ii去にJても, F11,白廷が

r

付 地帯に恨i]jlく残ったと同様に,オノやグワに使用され るqlCJ,, プノレ ムが,原始的ご非/it.誌なんr去で, 20

世紀になっても残存するのである。それは近代的製鉄 業とは摂貨な二前構造をなし,生産,',/,裁の日 irでも分l'f を黙にしたのである。

Willian A.  Johnson, The Steel Industry of India  (Harvard Press, 1966), p. 8を参照されたい。

,:9) 1 溶鉱,!;iの能力は週、日たり木炭銑と高炉校合 計で40トンであった。ブジア経済研究所編

r

インドの 鉄創業』(アジア経済研究所, 19601の,5ベージ参照。

(iHO)  この年,ポノレト・ノポ・スチーノレ・アンド・

アイアン社(PortoNovo Steel & Iron Co.) i二ヒース のが鉱炉iI移されている。アジア経済研究所持;l『イン

ドの鉄鋼業』, 5ページ参照。

(11:ll)  ボルト・ノギの溶鉱炉は1866年に,ベイポ ーノレの溶鉱炉は1897年に各々休業にき巨っている。アジ ア主主済研允所編『インドの鉄鋼業』, 5ベーシo

〈注12) 連合チH,中央イ γド,中央州でも近代的製鉄 条が試みられてL、るが,すべて失盟主仁川している。タタ 以前に17凶も近代的製鉄業が試みられているというo

William A. Johnson, p.習なわ, TISCOU,iiiの製鉄 業については, DanielH. Buchanan, The Develop‑

1/1(nt of Capitalistic  Ente1アrises in  India (New  York, 1934), pp. 278〜282を参照されたし、。

(1五13〕 W.A. Johnn; 九 技 術rrriでJ渇さ, J主 待il'iを採用しなかった土とをあげている。W.A.John‑

son, p. 9. 

(/1:14)  V. l.  Pavlov, Th,,  Indian  Capitalist  Class‑A  Risto門・cal Study  (New  Delhi, 1964),  p. :‑371. 

({主15〕V.I.  Pavlov, p. 371.  01=16〕V.1.  Pavlov, P‑232. 

(注17) V. I. Pavlov, p. 233.  (/US)  V. L Pavlov, p. 234. 

e n

19) V. I. Pavlov, pp. 220370. 

( i.l:20〕高番手の綿糸は,イギリス製であり,低番 手lt 主-~ I.てインド企業で生産した。インド,

n

品のT:i 場が,中国,東南プジアなど海外市場であったことが,

1( >:Jイギリス総業資本市の対?を弱Ljのに[た。 19 世紀末から,中間市場が日本の綿工業資本に侵しょく

さハるようJこな〆三ことが, インド,;Jt,市i拐を狭

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イヒし,それがインド園内市場でのイギリス綿築資本と の芯!?、を段"j¥1]にし三。それによるインド綿築資本とf ギリス綿業資本との対立が,インド民族主義運動の

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Ci;喜連を有してくるし〕であろう

7ラ

参照

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