• 検索結果がありません。

経済研究所 / Institute of Developing

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "経済研究所 / Institute of Developing"

Copied!
35
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

植民地下のインド鉄鋼業 (インド特集I)

著者 清水 学

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名 アジア経済

巻 11

号 10

ページ 65‑98

発行年 1970‑10

出版者 アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00052424

(2)

1970100067.TIF

鉄 鋼 業 植 民 地 卜 の イ

Y P Y  

t

7 J

/fl 

ンドはその資本主義の発民が最も高度,,二行なわれ たことは,京要な特徴であるが,鉄鋼業も主要な発 展方向を土若資本の

F

に見い出したのであt》た。

鉄鋼業の発民は, 11在民地インドの資本 もr:ろん,

主義発展の主軸を成したとはいえないが, 続民地

鉄鋼業を発展させることにほぼ成功し 支配下で,

インド資本主義の特殊性を探りうる

レーに,llc LL!,  A. 1‑H .,,,,, 

条例ニが見いIL¥だされうると考え人れる。そALゆえ,

タタ製鉄会社(TataIron Steel Co. Ltd.  本ff.hi土,

その形 国内産業構 な インドにおける民族 t3, 

第 1次世界大戦,第 1次サソ子ィヤ 運動の勃興,

グラパ,第2次サッティヤグラハの時期でもあり,

国内的条件も背去として考慮

ここてぷノE詰:足立外と i

︐ l 

jLなけれi工、ならなし、。

民主!日l!i止は

e n  

1) 

成・発展の条件,

造における位置づけを中心にcl;裂してみたL。 対象とされるは時期は,

以下 TISCOと略す)を中心として,

イギ、リス{関!の;土、f見、

さまざまな国際的,

γ 

TI

co'   ' ‑

,., ',  ': !2  ' 

n ; : i :   ・  r

九'

TISCOl、山ソJ :主人;民 県クピIトノf)hi'・: J ・ ・ヌシ イ, 1.  ;"s  ・; Jl'c  '.'.  "c Wiとp TIS ・c'i' ji・:1;; TISC() .  ・.) :C: .T C二 .! ) 'ic l;.  7.  TISCO Jι1,「ノ a,,,夕、~'.ii 

i:r、まJ.{ ii' ..I;い;iノり'j::J

]  「レ マ・ 1 Fレ」志・['i':  /i vi' 71, ・, 

J X ; t¥; ~; ii 

1ち :,.'::. :',:,¥f

li. ''h: ;ij  ::,,  l ,¥j, J、山;:/'1' 

: ,

止ザ'.>'l'J;I '.;.  '.!  1;1

: 、

1:,;:

' r e , . '  

ii. J ・;戸、,,,\ζ Yぺ:tLトl:UI 1 J.

Ill  l'f  '.:; l'.'I寸川f ,'.:'J外ゴ

:U, I ;'J  ';' 

.11'; 011; :';Lιi Jc) f己 [と)CI[' '.,I  j γ i  l、'.I"t:I" It,ムi':tl"l i‑.:1r,・,r,  ,,,‑,' 九IJ:(', 

h':",i'Jl' .. X. 

J :I',  !'  }; 

f;,;̲ 1+.1,  I .,,  ' ・;,:り、' •1':,l

] 

:‑L 

[I 

4. 

ι

ll

I~

TISCOの 設 立 と 発 展

! ' , ,

鉄銀業の性格

907i干のTISCりの設立は,実質的な志味での,

インドにおける近代的鉄鋼業の創設と考えられる

/i)  ザ じ

本稿,;t,三()世紀初頭からほぼ第三次世界大戦に

烹るまでのインドの鉄鋼業の発展をみることによ .d 1),  まず, ここでは鉄鋼業の持つ経済的意味 づけを整理しておきたヤ。イギリスの産業革命は,

植民地インドでの資本主義発展の特殊性を

')、・r' 

機 械 材 設維工業にお」、て典型的に行なわれたが,

探ろうとするものである,:'1  1) 0鉄訳業は,綿工業カ量

製鉄冶余技 pj'.iの発i主と鉄生産の増大がもたらされた。近代的

6ラ 料としての鉄の使用拡大にともない,

主工業のーっ の典型とな•)口、る oL、わゆる植民地のなかで,イ 軽工業の一つの典型であるように,

(3)

1970100068.TIF

鉄鍛業を需要面からみると,機 械を中心とする生産手段生産部門に対する基礎資 材,社会的間接資本,軍需関係が, 20I吐紀初頭か ら第三次甘1:界大戦までのインド鉄鋼業の発民の契

以上のように,

工作機械工業の確立 資本主義的大工業にとって基本的

蒸気機関、

製鉄業の確立は,

とあい土...てう

陪械による機械の生 な生産技術!:の:lit礎である

jL;土, 消費財 産の確立へと導くことになぺた。

近代的製鉄業は生産の側面 機として重要で、あるO

j,可苦 生産部門と生産財生産部門の確立でもあり,

まず特徴づ からみるど, :'t.序:の巨大性でもって,

一回の自立的な同民主主 を内包ずることに上サて,

ii.額な期初投資を必要とする けられる。それは,

イギリスにがれ、

i

斉を形成しうる条件ともなった。

党大な原料と莫大な生産設備を必 ばかりでなく,

マランスでも産業:本命が ア メ リ カ ,

i:ィ、:ノ,

\ 喝

きわめて大量の労働力を必要とする産業 要とし,

− レ ザ

に め /o> 1、、ずれも;

f i : f t

的鉄鋼業をう士》に含む

起工ったがち

製鉄一 製 鋼 ・・)±延の;1段階が同一工場内で一貫総介的に 行 な わ れ る こ と が 生 産 合 理 化 を 可 能 と さ せ る た

鉄鋼生産の技術体系からみても,

ものであソナ二c TISCりを中心と「るインド鉄

t

廃業 インドの生産財生産部門佐立と一十分結{tLえ カv

主主 とも方、く、

後i二検討さjLるがτ

fこカ、ど「)力、l、士

日 大 江 総 合 産 業 で も あ る 。 鉄 鉱 石 の 採 掛 か 6

i,う ら, 鋼業の「ft,うるこの性格を宥過することはできな

港湾施設,ゲス利用等と、

炭坑支通輸送機関,

,,、であろう。

化学部門まで宅!si)一企業で ]fr:むずることがありうる u~i:)。それゆえ,

原料部門,力II工古I¥P1J,

f

央卸業の資本主義の予告]L《に果たした役 その

f

、也

鉄 鋼 業 創業資本,経営費用も非常に けりト資本では不可能となり,

は綿工業と異なに 巨額なものとなり,

1]は大きし、。 l世紀以降司交通・輸送手段 汽 基i1珪資材としてゆ 鉄道一一ーの革命に「ト)て,

船、

:手前面で、の 鉄鋼はL、っそう重要とfょった。また

資本主義の発 独占的な企業が成立しがちであり,

''  iiえになればなるほど1¥':jまってき 鉄ぴi:,JU!liよ

展 に 新 た な 段 階 を 両 す る も の と も な る の で あ る 鉄道と', Ji

インド鉄鋼業び)発展にしてもラ

−「十、:1 に ぺ0 ',  ' 

その植民地的特d陀 イギリスで見られた インドの場;},

しかL、

dA 

〆l

需は無視しえなL、比重を荷なうことになるのであ

と資本主義発達の )毘れから,

鉄道しずJ}e;j主は,資本主義の発達にとうて不i

c

白山競争の過程でrJ11ト資本を威主連あるい 欠な[hi内1bJ詩形成G(I〕最も重要な三子段であった,h ように、

I~鉄鋼資本が成立するとし、う過程を は吸収して,

i

弓民 石炭や鉄の大量;fl 

i t

苦とし亡、

それは主たラ

とらなか...,た。 TISCOは最初から独1\的地位を確 鉄道の発達

u

経済にんきな彩響を及ぼした。

i 後

i i H : t c l J

的現象であ これは,

jずるハである。

軍事的支配を健保するた i土,

1

抗民j也l二二ヨ\ )て;土、

u

者YUi:.D1TI定資本を要する産業である鉄鋼

;主要の増減があったからといって、それに

h u

;震は,

7千易に~土4長できな 李.に応ずることができなし、。

拡張十る場合にも相当の年)]を要 いだけでfょく,

j己成される頃には需要の減少に直面する可能 し,

技術が一基でも増加す 生 産 量fH、っきょに増大し,供給過剰に陥 性さえ持って',' 0。また,

ると,

敷設;I/

f

三格的に[!?]始されたのはライLド兵(どぷ{)

の反乱以後であるが、それは同時にτ国体ir¥i 

J J

去をイ ギリ ζ売業資本の商品市場としζ開放す一るととも に, fj ドのて十:首綿工業J発展へのi立を[沿いたコま た鉄道修理工j号をつうじて近代的な抜減工業の端 絡を刊さったrfンiごの欽主的業の発達にはイギづスの 対インド鉄道敷設政策の補完ii長も強1ぜ、のである。

66 

インドにおL、て主ti立の めの輸送手段でも去〉った。

(4)

る可能性もある。逆に不況期だ刀瓦らといって,溶 鉱炉の火を落とすことは, 技術上の理由からして も, 復IlI;二多額の費用を要するのである。不況期 に資本の.V'%壊 ボ な さ れ る 場 合 , 綿 工 誌 と は

J r

,な り, 償却が十分なされていないうちに破壊される とU、う温険性さえもって

ν

る。

後進百本主義国におL、て近代的決鋼業を興二す 場合,特に資本の調違から大きな問題になる。ド イ プ の 場 ふ 銀 行 に 援 助 さ れ た 株 式 会 社 制 度 を 芋lj 用寸ることに上 I)' こうu、う大規模な企業を, 比 較的容易に発展させることができた。 こ.tiは, 方において,保護関税政策の採用とも結びついて Uh/」。 ドイツi工,こ主うにして鉄鋼業の分野で,

容易にイギリスを抜くことができた。 日本の場合 は,政府が直接, 国家資本を投入して保護育成し たことが特徴的である ド f ツ, ~I 本と異なっご植 しかも資本主義の発展がいっそう遅 民 地 で あ し

れていた20世紀初頭のインドにおいて,民族資本

〈注工の代

J i :

ともいえるタタ資本が鉄鋼おこ進IJiし たさとは、 {  ド特有の困難をのI)こえなけjlば ならなかった。 それは技術面での連れ, さらにい 額 な 期 初 日 本 む1

l

達するという国獄,

1 ' : i

誘の

y

;あ いさと不安定住, 保 護 の 不

l

分 さ 、 不 況 期lこ耐え うるだけの資本力の欠如等である。 :?」〕、,− ザ ネ イン ドのようμ植民地における京工主(鉄:雨量業) ,')自 lj 設/心、 2()['ト紀れ

N T I

,む本部i主,

n r j n

11五hら\';J> 

にして可能となり, また, インド資本主義発展の なかで, ーのような忌来をもったjゆ,

f ( ; } J i

さいな けれ、まな・iL、 こゴ問題l インド資本主災発 展の特殊性を, 鉄鋼業を通じて明らかにする作業 の一つでもある。それは, 従来の議論の一昔日以見 らj;:!乙 /ン!:鉄鋼主「例外j誌をー fンド 行ヲt,: 主義のワケ内に組み入れることでもある。

TISCO以前のインド鉄録業

インドの近代的機械制工業は, 比較的早く19世 紀半ば以後の綿工業によって始められた。 19世 紀 末に近づくにつれてう民族主義的思想、が,徐々に,

民族ブルヅョアジー都市中間層の間に一定の影響 を及ぼし始め(注6)' そのなかで, インドの工業化 の手段として鉄鋼業の育成を提唱する民族主義者 も現われていたUi7) 0 自立的な由民経済の確立を 熱盟する勢力の一定の反映であった。

イン iごにおレ工は, 歴史的にみて,木炭による 小規模な子工業的製鉄法が, 長い間広汎な地域に わたって行なわれてきた。それらは, 手織,手紡 が経た経験と共通し ‑C,19世紀を通じるイギヴス の産業資本主義の確立と, ヨーロザノξで、の鉄鋼技 術の進歩によって,競争相手として残ることは困 難であった。鉄道の敷設と, それによる市場の拡 大は, 輸入鉄鋼製品をインド奥地にまで運んだ。

それと同時に, インド国内で新たに需要されるよ うになった鉄鋼製品の大部分は,従来インドで生 産されてきたものではなかずyたのである。しかし,

旧来の製鉄法による生産は消滅したのではなく,

長い間地方農村に残存するのである位8。)

!ーロ ノパの近代的技術をモチルにした大規模 な製鉄所を建設Lょうとする最初の試みは, すで に1830年,東インド会社のマドラス行政管区に勤 務してUもに

J .

N・ヒース JN. lleath)によって おこなわれてし、るcかれは束インド会社を辞職後,

会社からマドラス管区での大規模な製鉄業を興こ す 独 占 権 を 入 子 し , サウス・アYレコット(South Arcot)のボルト・ノ1γ‑j‑(Porto  Novo)で熔鉱炉を 建設し 9),会社に財政的援助をあおいだ。また 1833年,ヘイホール,,Beypore)において,新たな 溶鉱炉も建設されてヤるほ川、。その他の試みどし ては,1853年に東インド製鉄会社(EastIndian Iron  Co.)が,資本金40万ポンドで設立され, 政 府 の 援

67 

(5)

1970100070.TIF

助も受け/J.がらう サウぇ・アルコットおよびコリ バト−;レ (Corribator) のコーヴごにリー・リヴァー , l ‑:cuvery  River)に溶鉱炉三基を建設してL、る(

その他数多くの試みが行なわれているが〔/1'12),

:;‑:75年試立の,、ニ子カール鉄鋼 社 ,JlarakarIn :md St七巳ICo.)をのぞいて,すべて失敗に帰してい る。その理由としては, 木炭用木材の,急迫する不 足分を、 近隣f1JAで供給でき7 るつf二三と,経営 の失敗停が考えられる

唯一成功ff1Jであるノくラカ』 tl,鉄鉱会住はIぷ75 年に発足, 79年にはu、ったん閉鎖したが, 81年に は改府:ニワ、きつがれ,政

P i ' H

土日け年にこれをベンーII ノL鉄読書会社(BngalIron  and Steel  Co白〈後継会社〉〕

i二譲渡した。 ノミラカール鉄鋼会社は,一ンガルの ラニガンジ炭田中のクルチ(Kulti)に,溶鉱炉を2 基建設'.., 原半

i

土木炭J;、ら石氏U転換したことが 成ぅ力の理由とされてヤノム。 最 初i土年間40トンの能 カであったが, 97年までには1万2700トンの銑鉄 を生産し た。 しかし, 'JJ楽に向ヨ:3'ができるように なったのは, 1899年になってからであった。同社 は!919年;二,ベンゲル鉄鋼会社l二三507:rjcンドで

f t

併され, さらに1939年にはインド鉄鋼会社(Indian I land  :‑'tee!  ( o. 1に介印され,

次に製鋼業発達についてみると, インド政庁の 陸軍省か,カルカ P タ付近のイン γ ポ」 !~ に, 1892

年製鋼工場を建設し,

めたのが段初であり,

輸入銑鉄でもって製鋼を始 年間約lトンのペーを生

)  T。 さらに、こ 1898.'r¥−:こは,京インド鉄道がジ ャマルプールに, 15トンの塩基性炉2基と,ビレツ トノξーお上び,j、世形鋼用:')圧延機 3台を建設し.

軌条のリターン・スクラッ7'やその他のスクラッ プ手製鋼きと行なJ川ヒ。 7; ‑こitらは:、 軍隊,

たは鉄道会社の自家消費であり, 一般市場向けで

;土工く, しかも原料にはインド産銑鉄を用いなカミ 68 

−,た。

インド銑を原料とする製鋼業は, 1905〜06年に それは ペンカル鉄親会社によ・_)て開始されたが,

失敗に帰している。その原因としては, 輸入鋼の ト量多種製品νγ注文が多か

f

i l l i

格が低かったこと,

F二三と, 製鋼技術固からの制約,耐火レンガお よびブ且ロマンガンを輸入しなけれい必らなかっ たことなどカユあげら,llる。

このように, TISCO以前に種々の試みがなされ f二?九 句、ずれも小規模であり, 軍・鉄道に ~Ii ぴつ いたものであった。 インド麗の鉄鉱石を用し、,製

[売一製鋼一圧延び)一貫生産を行なう j,'J:鋼業山修立 は TISCOまで待たなければならなかった。

3.  タタ資本の性格と j・N・タタ TISCOにより,

j−ることになるポ,

インドの鉄鋼業が本格的に成立 ミれを創始したタヲ資本の性 ポ?をみておこう。

「フ守ルジョアジー形成の特殊性, Jンドにおけ る資本主義発民の総過程は, 基本的に植民地規定 性によるけれども, 資本主義発達の法則を無にす 単にその現われを修正し,変化 ることではなく.

せしめ, ゆがめるだけにすぎない。植民地支配の 影響は決定的であったとはいえ、 イ> F経済禿展 の唯 4の重要な要因ではなし、。植民地支配者達は,

かれら/川正服した国で、の経済発展状況、 経済過程 を考慮せず行なったことは, 必ず現実からしっぺ

i与しを受rtたのである l位 t4)y・I. ブロ Cl;J:'  インド・ブノレジョアジーの研究での結論で, この ようにj£べている。事実,

i土説明できないととも,

植民地的規定住だけで インド資本主義の発達を みるなかで見い出しうる。

がそオしである.rl、日O

TISCOを創設したのは,

民族資本の一定の発展

シャムセトジ・ヌッセ ルワンジ・タワ darnsetji Nusserwanji Tata)である

(6)

fン}ごのプノレジョアジ このようよ仁ゲタ資本は,

;

l';,カイ1の父−,ッセルワンジ・タケは,パールシ

ーの僧職の家系であった。かれは,1857年のイギリ ーのなかで, どのような位置づけを有するのであ イン F'のイルジョアジー形成の特質のー ろうかc

イギリス1ii'のE言語1¥i1供 てのf弓ン攻撃に際して,

その多元性にある。ブノレジ百アジー形成の 財産を蓄積する機会をつかんだ日16) つは,

申告により,

民族形成の多元性とも関連してい 多元的性格;土,

T 中国内ゆで位、

「ド固と

n

貿易仁従事しち

fに込町p

L.,

地域的な経済発展段階の相異, イギ る。それは,

ショウノ インド向けでは,茶,絹,

へンと綿花,

コミュニティによる リスのインド支配のあり方,

Iう,童l両,金を

n

元9扱 0fcむその頃から,息子正')

J .  

K・タケが仕す士手f万円ようになりヲ 1861年のア 分断行:等iこ上マ,て規定されている。 それゆえ、 イ インド全 ン戸・ブルジョアジーの多元的性格は,

イギリス軍 メリカの南北戦争による綿花ブーム,

イ本を

l p ̲‑

−の民族国家として把聾する三とを国難に 円エヂ十ピア遠征時山商業話酌等に活躍した。 69

年には,ボンベイに綿工場「アレクサンドリア」 多民族国家と規定できないわけではな かった。 V ・ I・ノξブロフは,インド・7−−,レジEアジ

しており,

「アレケサ を建設L,相主f工利益をあげた位閉じ

マノレヴリ・

ーをグジャラーティ・ブルゾョアジー,

内陸に建設され,非常に低廉な労 ンドリア」は,

− 

.._._

マラータ・ブツレジョアジー,

ブルジョアジー,

市J与を至近 ~fi 離に J日、たのであ この上うにタタ資本は,植民地支配下の貿弁 働力, J!店料綿花、

ンガリ・ブルジョアジーの4分類を行なっている る。

タタ;士、グジャラ一子ィ・ブ/レジョアジー

(注1

設に産業資本に転化し 的性格を持つ間人資

1

f

た も の で あ る の代表的なものとされている。 グジャラーティ・

中国 ブノレジヲアジーは,ボンベイを中心として,

77年じは,

1871年になると,同i;場をy己1)払u,、

とのアヘン貿易と, 1860年代の綿花ブームを通じ 綿工業に投資しているのが多 て蓄積した資本を,

い。その綿工業で生産された綿糸布の市場として

!エンーヘス 1Ernpres<:I綿工場を創設稼動せLめ ている。その経営は,

労働者宿舎の弘主,表

・ t T

金制度

ο

導入、従 業員持株制度の導入さえ行なっている。

きわめて合理的な方向をめ 三し,

中国,東南アジアが本悶に比して変わ らなし、ほどの吾妻性をもち,国内市場との連関は,

むしろ弱かったのである印刷。インドの資本主義 は,最初,

l

l

有利な立政条件と近代的経営技 レス

J ( ' I i

工場,t

高い手I]潤をあげている。

鉄鋼主と水ケ売電投資に 術〔注18〕との結合により

そこにも現われている 発展の

h i '

:民地的規定性;ま,

それiこζる資本喜子積が、

が,グジャラーティ・ブルジョアジーはタタに代表 中国における官僚

タタは,

向けられるのである。

工業分野にも積極的に投資してい されるように,

国 家H1カを自分達でし主う出し 資本とも異な:J, 

ていない植民地ブノレジョアジーである。 る資本家群である(注目。グジャラーティ・ブ ルジ ョアジーが比較的自由に商業活動に従事して資本 それは,

投機性というゆがみを持ちなぶらも,;在 買弁性,

イギJス植民地権力の支配l 蓄積をなしえたのは,

力の強かったカルカッタ中心ではなく,

の車了、fヒを行たってしる。ゲケ;土,

;決あるい王業資

ボンベイ 植民地権力ばかり

ある意味ではその典型であり,

大きな要[7;1であ ったと考えられよう(注目。初期民族運動の理論的 指導者であ−,たダーゲパイ・ナオロゾ(Darlabhai

69  を活動の背景にしていたことも,

でなく、コ0世況にはL、.itii民民運動:士七手i]J1Jしつ インド国内に近代的工業をつくりあげていこ うとするのでんる。

〈コ,

(7)

1970100072.TIF

製 鉄 業 を 興 ニ う/;_

H

体的な点まで指示している。

:¥'.1010 ji i Jドゲ/、ヤニ}一千 f・つルレョfジ−/Ji才」

あ ら ゆ る 点 で 近 代 的 設 備 で 経 党 者 は , 存 門 技 術 者 と すー';;~;

C ,

の条件とL

h  l, , 

でわJ' たことはゆえなしとし たL、のである。

なけJ1"(.f 

t r

_らt.I.\;、こと,

そ の 地 域 の 労 働 そ の 他 の 事 情 に 通 じ て い 採 算eミ ー ス に の る こ と , が 主 張 さ れ て い とl,;二、

ヤジャ弓一子 f・−;''o  ;‑ /、一山代表|ねな

,,・,どJすえて上いでh,;',  ・;' 

1  '1士ふfむイザ:・「,,.:;  , ,f ジ ー の 形 成 の J

{ / F  

3、、、 fギ リ ス の 軍 事 関 係 者 に よ

•'.'71

,  L〜:、:bら II̲‑i1,心

J

の 資

」:i1−プ〉よりに司 特質;t'

の 近 代 的 鉄 鋼 業 の 創 設 が 提

n r

,されているのは注口

の資本主義{ととし

「f>>「〉ー 本主主化ではなく、

ドイ、ソ人の専門家7

{也に,

しごよいであろうつ

, J、商品生産

¥

・   tょj〕七、

てJ‑巴jfilさJ.1,;'.,  .  ̲, 

L・ 〆 ユIf ‑,レ、ソ(Von ~chwarz)の i 乎 γ ンゲI也 機 械 制 大 正j見といろ;立をに

ー −7 ,, .  ..,  ̲.  ,c 

一一_c L o一一

Jj -~" r/) 製鉄業の金融的見通し」 (1882可, ご!i吹!:士 植民地て ,r,t~ 弁(t(J 両立資本が,

とる,nで;土;んく、

j;二ょっ ておおい:=刺激を受けたとL、われてンる一タ

n

チ ャ ン ゲ に あ る 鉄 鉱 石 を 利 用 す る こ と を 計Wliし, 発 行jかあり,ジγムセトシ・ケケi土,

直法、機↑法制大工,l誌の経営を始。hら と い う 道 士 た どるj γであら

イ ギ り ス の 政 策 転 換 と タ タ 4. 

中央付!の地方行政官であるジョン・ヘンリ

r ]ii

ィγ!!スぷ)対1 ド政策のありJi l

l l l

;紀末i、士

一・モリス(Johnlenry  :Vlorris,\に採掘権の認可

‑‑‑,‑)の変化が起こりつつある時であd、た。た

採 掘 地 点 ま で の 大 イ ン ド 半 島 鉄 道 の 支 線 延 長

全為替本位:;

i

心}二同定,7'.)十

F[ /  

」 令

とえif,lK9

, ) '

ドi二;士,

のわ,Iり()()年 を要,;古したが,長

m a w R

られてLυ

fギリ ート乞ともん:ノて fンドに導入,':: A,, 21\、

インド省元次官の円ミノレ トL榊(Lord Harnt,山、!の全面的支持を獲得す るのである(.')8'。ジャムセトジ・ケケ l士, 190三年 にイギリスに{度った隠し

ス 資 本 かf> ;; ;こ流入一iーら/こめ山民俗壬件山一つ 督 力 一 ソ ン 卿

云11111主 主

u

日発 また[,7]f十三ヲ インド

fJ、一、、.,,」

Lrd Curwn 1に よ る 鉱U1iH1設!亮は,

ピヴ、ソパークでジュリアン・

にア iリカに渡り,

イ> F;上イご号、!) にi:J:gf;合司、寸むのでふ〆た,, ' 2', '0 

ケ ネ ギ ィ ・ サ ー リ ン 会 社 (Julian Eennedy, Sahlin and t、''− Lid.,  Engineerゅ の 支 配 人 で あ り , 著 名 な

I f ,

金 技 術 者 で も あ っ た ジ ュ リ ア ン ・ ケ ネ デ ィ の 協 j{fi1{/, 

' i 1 1

上見ーとしてだけでi士なく,

ンγ としての比重が高まったのて、あζ。、

‑z九 } 」 ノ 、:「), ‑• ‑‑ 役資

r l i

こ の 会 社 は ヱ ン ジ コ

;台余工場関係の設 力Cl.291をうることができた。

ア!日ノゲの会社であり,汚IIネ ムセトジ・タ 7

1 1 , n

実業J)計!flti2抱さ始めたのは,

:c,リスDfljv'l政策の変化をも敏感に感じぐし たと 却、M ',吋

1行え();f 1勺。

ご土ユ}ーヨ}ー 事前調査については,

計をしていたっ 主ミの千f

インド:二:Liげる

{.(  +〜ι− J

F,'J (flj I ντ

'~

111, 

クのコンザyレ 子 ィ ン グ ・ エ ン ジ ニ ア で あ っ た ヂ ャ コン

そのなかにはヲ ポ−−'" (<、〈】山ip,nつのど〈附軍需工去の賢主将 1'.f・ct,

望[生;),主張され始めて1、たc

_,レガ・ペイジ・ベリン((、harlePagePerin)の協 力 を え る 三 と が で きfこパt、}G

fン!?で たR・H・マホン(\!ah川:/昨軍少佐山、

ジャムセトジは, そのも かi'Lの,£!、子Lで、あるドラブジ・タ インドに帰ff]してから

ふる f1899{ド〕 i '2,,; 0そ の鉄鋼業に|;!日一る

4 f i

製鉄乏の;

r

十I'主{を, 木}えではなく石炭による,ー

こ で マ ホ ン 少 佐l土,

一 ブ

チ ャ ン ゲ 地 域 の 探 査 を 開 始 し ダ (I)川ab1i Tata)にまかせる主うになった。

jtコに, ブジは,

定 程 度J

t

則;《をもっ型政;

t

を 興 こ す 二 と を 挺 引

Jに/ガ;lfl石炭を[七府すべきでj;,るというよ 70 

(8)

o 探査を行なって?いたのはタタば点もりでなく,

イギリスの資本家アーネスト・カッセルも司同時 期l,こ 中央川北部の需品査を行な−:,ており,インド 製鉄業の潜在的可能性は,海外からも注目されて いた。ドラブジ・タタは, アメリカからの技術者 とともに,チョタ・ナグプ

JhotaNagpur)か

らマユルパ〉ジ同にかけて徹底的に調宜し, イン ド鉄帯の有明性を確信しつつ,製鉄

' i t

創設の具体 化lことりかかった。その具体化(とは任大な資本を 調遣するという困難が待ちかまえていた。

5.  TISCOの資本調進

:沿世紀初点のインドマ,タタのような民閣資本 でもってj 製鉄業;こ必要な資本調達を行なうこと じ,かなり困難であった。しかし、 タタf土,エシ プレス工場の成功,ボンベイでの発鱈事業,貿易 等の諸事業を通じて蓄積してきた資本を基礎にし て,鉄鋼業にいどんだ。タタは最初,イギリスで 資本調達をこころみたが,それ[土失敗している

(1906年)位il.'。かれは,国内資本の有望牲に対し ては目を聞かず,最初法外国資本にFlを向けてい たのである タタの努力は不成功に終わるが,そ

れは, 台時のロンドン金融市場がひきしまってい たためでもあるし, また,イギりス側が,タタポ 譲歩する以上の企業支配権を要求したためであっ た〈性問。概して,イギリス財界の積極的な協力は えられなかった。

そこでタタは国内資本に闘を向けて, 1907年8 月 ボンベイで2300万ルピー(750万ドル〉の資本 を募る設立趣意書を発行した。それに対して, 3 週間以内に,ほとんどインド人による 8000人以上 の応募がなされ, これだけの金舗の募集は逮成さ れた。 これは,タタ自身も予想しなか・ったほどの 大成功で あったむ印}。このような国内資本の供給 は,どうして}可能であったかは興味ある事実であ るが、それにはさまざまの理由が考えられるG

タタ資本の過去の実績に対する僧頼も, それに 大きく寄与していたことも無視できない。投資に ともなう危険性は,タタの場合, 比較的少ないも のと考えられていたといえよう。しかし, それだ けではない。まず, TISCO構想、については,軌条 買付け協定の形で, インド政庁の一定の支持があ った。 i最小限にしろ政府の援助があったことは,

ィ ↑ 2 9 3 6 7 3

ω

一べ 一 5QU3L

4 0 一切 一ン 一 6 1

1 1

下 一 I l l i

ー一︸一

3 8 3 1 8

↑ ン

↑ l 3 1

1 I 3

︶ 一 人 一 イ 一 引 2 4

: 山 算 金 一 今一

4 司 副

U 5 5 U

ー は J

よ U E

干一

p

i

7

10181

hLl一戸一−ノ2

r ν

立 一 一 恥 一 一 タ 含 一 日 四 一 均一

L

一 一

1 I L i−

− ー 一

︵ 一 一 一 i f ︐ ︑ 一 6 7 7 6 2 1 0 0 j1一 一 一 一

o ac

ノ ︑ 一 円

L F h u A

リ ハ

UEIJn

汐 一

︒一一念一タ:一

1 h J以 け 一 か 一 数 一 い 川 河

l i l i

1 M L

ド 一 友 一

↑ 比 一 を む 一 日 お 5 1 4

∞叩mm

品一

怯一式一↓一月主

1 u w

比 一 一 ピ

J

一 一 貯 一 一 レ h i l l

↑i

i l i

− 一

議一棟一勧一寸く一却臼

8 2 6 m n

明 一

ι

北 川 口 一

0 1ン 一 一

4

精一

L K

月市 一

l !|げしド

間一手一グ上ルで一

2 8 4 6 0 W 2 9

ι

村一一側以側︑ま一

2 6 m 3

刀 一

d

一 r

ヶf

一 一 一

− 一

n

一 ブ 一 T Y

−− 50 1 一

I

三 ︸ 立 咋 一 バ

u i U U 1 5 4

パ ー 一 ザ

O

以叩 ま− 3 4 1 m

2

コ一/面一

ρ

ご 丸 一

m

一 一 一

u

の 一 一

7

よ同 同一 刃 一 個 一 げ 上 ル ロ 位

︒ 6 m 1 2

∞ 四 万 日 一

w

︐一 一︑ ノイ 人

nu dd

− 守 ム ウ 白

J

一 一 川

a

s

一 一 的 工 ゆ 一 一 仁 一 出

七一一山一一九

JU

fJ

F

〜 ︒ 一

ι

︑ 一 一

db

一 一 川 川 一 m m W 8 4 2 ω 川一 上位 幻一

η

表 一 一 伽 一 l v

lnN

nJ

一 一 ハ

V 1 c

− ハ げ

qJ1−1 一 一 日 一

1一α一li

− − 卜 ! れ い

11 11−.

1 1 1 1 1 1 1 1 E i

− −一

S

第 一 一 九 ク ム ン ン 入 他

︒ う テ 一 如

r r u o F

ン一k

〆 ト び 一 十 川 セ 一

L

バ リ

J11yt

数 剛 一 一

J

h

ル 一 一

Uん ね の 計 家

ω

町一

w

h

f r

v F E Y

f

資告 かい

↑一 風 土 ン グ ロ タ ジ 一 出 一 コ パ ヒ γムf グ ユ そ 投 総 タ 一 一

71 

(9)

1970100074.TIF

成功の見込みを強めるものであった。

また, インド民族運動の一つの転機と重なりあ った時期であったことも無視しえないであろう。

E~ )5 年のペンカ、ル分割令を契機に盛りヒがったイ ンド・ナショナリズムは,イギリスに対する対抗関 係を明確にし和めた。そのなかで,スワヂシ(国産 品愛用)は,運動の方向を示ナスローガンのーっ とほったコベン力、fレ分割反対運動は, 1906年の会 議派カ/レカァタ大会の 4大決議,すなわち,スワ ヲ/, fギリス製品ボイコット, スワヂシ民族教 育;こ示されて1t'る。スワデシは, 「土石産業の発 農を促進し翰入製品に優先して土着製品の生窟に 努力することJを要求していたp スワヂシ運動や イギリス製品ボイコットが主として対象にしてい たのは綿工業であるが, それのみに怯「ラれなかっ た。スワデシ運動は, インドの資源はインド人自 身によって開発されるべきであると

ν

う理念をふ くんでおり,鉄鋼業を支える意味を持ちえたであ ろう。ともかく, ようやく自己の力の白覚とイギ リスに対する対抗力となりつつあるインド民族資 本の政治的表現の一つであったスワヂシ運動は,

結果的;三も有利に働u、たとい,でよし、であろう。

巨額な投資資金の募集が, これだけ鑑期間に達成 されたことは,それを示してL、る。

さらに,株主構成の検討はTISCO資本の性格を

1

,'っそう nfjらかにするであろう。資本山内達の時の 株主構成を知ることができないので, 1911年の時 点のそれ?みる二とにしよう。株主数からみると,

1500株以下の少額株主の数が総株主のほぼ9判に もあたっ,しカ もそのうち82フo:土, !/ Yの出身コ さュニヰfで産、るバーノレシーではなく、 ヒンドゥ ー,ジャイナ,シーク, ムスリム等でしめられて

Lる。株主は,巴ずしも一つのコミコニティにし ばられておらず, コミュニティの枠を越えた国民

72 

的基盤で,しかも比較的零細な資本を集めている。

しかし、それにもかかわらず, タタはバールシー のコミュニティに属し, そのコミュニティをも十 分利用していることは百定できない。 これは第1 表でみるように,パールシーの出資比率は少なく

とも36%(タタ家を徐くと26%)をしめており,単 一のコミュニティとしては非常に高い。パールシ ーの平均所得が, インド人全体の平均所得より高 かったかは実証できないが,比較的豊がなバール シーの資金がタタを通じて TISCOに流入したと いえよう。コミュナノレな結束を利用しつつ, 他の コミュニティを含む国民的基盤の上に資本調違を 成功せしめたといえるだろう。

この株主構成のなかで注目すべきところは,そ の主要株主である。タタ家以外で最大の株主は,

有名なパーIレシーの商人であるコワスジー・ジェ ハンギーノレ(CowaeeJchangir)である。その他の 株主としては、 ゴルドハンダス(Gordhandas),ム

Jレラージ・カタウ(MulrajKhattau)等の商人および 産業資本家がし、る。 さらに,ヒン子ぅーのパロダ (Baroda),マイソーノレ(Mysore),バブナガノレ(Bhav‑

nagar)の蕃王も主要な株主を構成してL、る。藩王 が主要株主として登場していることは, インドの 産業資本の源泉のーっとして興味深レが,事実,

15人のマハーラージャおよび封建君主の投資が,

TISC<)の資本金の13%を占めていた)当時,カ寸Lら は, その富をインドの経済発展に用いていないと 批判されていたが, それは必ずしも介主化できる ものではなかった。むしろ,インドの産業資本の発 展に,諸王が寄与している事実,いいかえれば,封 建的勢力と産業資本の一定の結びつき方に, fン ド資本主義発展の一つの特徴を見い出だすことが できるであろう。木炭による製鉄法であるが、1918 年につくられたマイソール製鉄所(MysoreIron 

(10)

and Steel vVorl日)は,いわゆる民明的マハーラー ジャによるものであり,資本金はすべて藩の財政 iこ依拠するものであったJここにも 藩王の資本主 義的企業に果たした役割が認められる。議営企業 と民間企業、T)出格の和注はあるが,企業創設,社 慣の購入その他の形態で韓王が参加している事例 は他でも認められ, 今後十分検討される必襲があ ろうっその研r先J土,現代インドの独占的大企業と

|日藩王勢力との結合関係の究明にまで発展させら れねばならず,前近代的土地帯UJ主により蓄原され た余剰がどう動くかについてのインド的特徴の研 究となろうr

19'.!0年代初期の資本調達は, TISCOにとって,

それほど容易なものではなかった。 1917年に始め られた設備拡張lま, 新

i

未発行によず予てまか/ょう予 定であり,迫加額は期初資本のほぼ4倍に当たる 8内()「)万fレピーであった衿それが消化されるに:土,

2'.‑l年までの期閣が必要iピったのでふる位34\この 新株発行はいろいろな意味で悪条件のもとにあっ たっこれらの拡張は,資本財価賂円高騰した時期 に開始され,また,第1次大戦後,鉄鎮業が世界 的規模で不況を経験しつつある時に、 工業がi生め られたため, TISCOは新株売上向、℃は不足分を償 うことができなかった 同社の不足額は,社債の 発行「イギリス)ラ政府からの借入Jt,l裁争中にぎ;讃 された覆立金で償われた。 1924年から39年の間,

新株迫加数はわずかであり, 措入;:'.'[ま減ノレした。 その間,同社の能力は倍加しており,その達成は 減価償却分によってまかなわれ,比較的順調ヤあ

J. 

. • ' ,• J、ーの

6.  TISCOの発足とその発展

TISCO のぷむにつU 、て;土, 1906午ピハー;~fiiの サクチ(Sakchi)に決まり,翌1907年には,上述の

よ勺(二必要とされる資本を調注することができ

た。着u工は1908年, 3年後の1911年tこは完成した。

;最初の出銑は1911年12月,最初の鋼は1913年に生 産された。 1913年の時点では,溶鉱炉2茎,平炉 1基および圧延工場(注35)一つを有しており,年間 生産量は銑鉄12万トン,鋼材4万トンであった。

二れに上り,国内で本格的な銑鏑一貫工場が誕生 したことになったo

TISCOは最初から輪出用の銑践を生産するので はなく,閣内市場向けの鋼材を生産しようとする 点に,その特色をもった〈注3九 い わ ば 一,E孟の原料 輸出としての銑鉄の輸出は, 当然考えられたが,

鋼の段階ま?もっていくことを最初から意図して いたとヤえよう。技術の面でも、アメリカのヱンジ ニヤであるジュリアン・ケネディの指導と監督の

F

で工場建忍が進められたが, 熟練技術者も海外 から多数呼びょせた。立地条件についても,とりわ け注意が払われ, 石炭はジャlJア炭田がら 115マ イル, 鉄鉱石はインド鉄帯Iドの会社所属の鉱山グ ノレマイシニから45−;>"イノレ, 溶剤あるいは耐火材な どに使用されるドロマイトは40マイルの距離にあ った。鉄道についても, ベンガノレ・ナグプール鉄 道が,わす全が2マイル離れた力リマチ(l(alimachi) 

まで通じ一日、るという有利た場所であったほ37。) TISCOが生産を開始して以来,最初は銑鉄部門 が好調であったにもかかわらず,製鋼部門は経営 的にも困難な状況にあった。この困難を脱却して,

製鋼部門が軌道にのったのは, 第1次

i

止甲子大戦の 勃発によってであった。イギリス軍は,ノ、}レスチ ナ,メソポタミヤ、東アフリカなどの近東地域で

'

t'{,'事行耐をとり, この地域で需要される鍛のほと んどすべては, それに必要な大量の軌条を中心に して, イン iごに注文されたからであるの!?は7〜 同

年の TISCOの株式配当率は,実に, 291%にも 達した。 TISCOは最初の困難にもかかわらず,第

73 

(11)

1970100076.TIF

1次世界大戦の軍需を中心にして .t‑, (l'l:るチャン スをつかんだυl()] 7午には,さらにi割l¥主力を4

{吉化十る三とを日

H t

して設抗争主張が企図されるま でになったい'.;"; l次世界大戦以降については,後 述されるが、 話2次世界大戦勃発までには,さら に能力が日化されたれ完成鋼につL、ご ;7;よれば、 191'.2 年ぷ)年:i̲lf能力10)ハ、/が司 EU9年;こは80万トンに

な −'

c

、,'7こ も二ろん、 この発展が

f

枝葉在なしに古河j j圭されたlドで;土 fよくも Jlで洋細に検討されるよう

に、 fご干;)ス

t :

ンド政策と−ifl1協力, ・i反対 立しつつ達成されたものであるc それにもかかわ らず, 19:l9年tこit,  TI日仁()の鉄鋼生産/fii土, イン ド

l

ヨ内需要の4分のろをも占めるまでにな 3てい た。 EJ39年に;ま, TlSCO:土大淀帝国の中で,ぷも 大きと

c

製鋼所しつ・つであるとともに, 立も低コス ト生産者l) 令つでもあ戸、た,,us,。同社は,第l次 大i決中にアメリカ向;?のブ工ロマンガンのは産を 行なってL、るが, 第2次大戦中:こは多数の特殊認

をも{下るよ,・,;こな lた。 7.  TISCO以外の製鉄会社

Tl訳、()以外J〕製鉄会社として(士、マイソーノレ鉄 鋼会社,:¥Ty sore  Iron & Steel L、o.)と,インド鉄揺会 社 (IndianIron & Steel Co.  以下

n s c o

と略す)

山三社7!;, TISCOと対比ltられる。

マイゾ−.,レ扶閥会社は, マfソ−.IL議王

I J J

政 府 の直接経営として 191パip(こ建設が開始され, J<J23 年に完「主したl1:i~', .• 19:lf:i待三に製摘F王延工JJJ方ミよ::,;止

さltる玄でi司土 もぺ;£:〕争込

J i l t

業をf子な〉ノF

会社であ.)たJ この会U:CI)資本企;主?で古i;藩財政か らまかなわれ, 株式資本形式で大衆から調達した ものではなか)た。

IISぐけは, I l木、 イギリス,インド資オ;の均呼 出店でもぺて, 1918年,資本金1500万ルピーで創 立されたハI41.. 1~121 年から主主主失およびゴーケス,

74 

コールタ_,レの副産物などの生産を開始し,製摂 を行なっていたベンガル鉄鋼会社(Bangal Iron & 

Steel  Co.)に銑鉄を供給した。それ以外の銑鉄は,

ほとんど日本,アメリカ,イギリス等:へ輸出され,

海外の製鍛業との結びつきを深めた。 日本向け輸 出も多く,主として財閥系の製鋼会社へ向けられ た。 lISCOの株主につU、ては,ウィリアム.,!¥ • ジョンソン(WilliamA. Johnson)の調査が5.l!Jにあ り、それによると, 1918年にカルカッタおよびロ ンドンの金融市場で株式が売られ, 71%もの株式 が.イギリス人, アングロ・インディアン,イン ドにおけるイギリス系tj長関によって買わll, イン ド人は

11%

しか所有していなかったことになって いる。経常代理会社は,イギリス資本系のカルカ ァタのマーチン・パーン商会(MartinBurn Co. Ltd.  of (、alcutta)であった。 IISCOの特徴はTISCOと 異なり,外同資本による輸出向け銑鉄の生産にあ った。銑鉄は一種の原料であり,その意味で植民 f也f生の

5

金いものであったCJ.41)

以上 民族資本的性絡が比較的濃いTISCけ,タト l:fil資本が支配的な IISCO、藩正国正1:営のマイソー ル鉄鋼会社は各々特徴あるインドの初期製鉄業の 迩を見せている。玄た,後にも言及するが,イン ドの製銑業は鉄鋼業の一環としてよりも, 独立の ー産主として把えることもできる。鉄鉱石が豊富 で, ,~銑コストの安いことは,インドを銑鉄とい う寸示の原料生産地たらしめるものであったっそ の意味で,;

1 1 i

銑業の独立性i土,インド鉄鋼業の植民

}也的な性格を〉示ナものといえよう。 llSCOはその 代去であるいまた可決〕判資本の調達先の多様性けて{i:,'f

i1!M政から外出資本まで)は,インド経済の多元性と 惚雑な重照的関係を示すものといえよう。 TISCO のように民族資本的傾向をもっ資本が生まれつつ あると同時に,他方では資源獲得的な意味での植

(12)

民 地 的 な 外 国 資 本 の 流 入 が み ら れ る 。 ま た , 植 民 民 地 権 力 に 一 定 の 保 識 を 与 え ら れ な が ら , そ し て 前 近 代 的 ヒI也市j白に依拠しながら(,, 同 時 に

I I

}]明 的 君 主 た ら ん と す る 帯 主 の 一 定 の 産 業 近 代 化 政 策 との並存でもある。しかし, と の よ う い 芥 々 の 資 本jJ特性を:示しなが「jも, TISCQ,n場 合 に も 龍 王 の 投 資 が 無 視 で き な い よ う に , 前 近 代 的 土 地 所 有 関 係 か ら 生 み 出 さ れ て く る 余 剰 が 産 業 資 本 に 直 接 転

f

ヒされるという関綜が, 先 進 的 た 工 業 分 野 で あ る 鉄 鋼 業 に も 色 濃 く 見 ら れ る の で あ る 。 ぞ の 意 味 で イ ン ド の 重 工 業 の 発 展 も , 前 近 代 的 土 地 所 有 関 係 ど 刀 結 び つ き を 持 っ て い た の で あ る 。

( '11)  後itずるよ円に,タタ以前にも匁まぎまな

;弘刊があ

ι

が,銑鋼一貨を日照したし、フと!こ, Lか 1マれが;/:功したものとして意味とあるc

〔庄2)市川弘勝『鉄鋼』(岩波;£}日;, 1956年〉, 1;‑‑20ヘ ジ。じ本の7営八情製鉄"' J)建;;')',勺呂(!りバ 軍事!'l'J性格を色濃く有しており, 「軍事を完全ならし めパとせ:,ま Jそのが本た乙製鉄f、レ起F 「ベi. i 

/.J思想を背景にしていた。

i3) 市川J,Jj、勝, 1,1〜15ベージコ

(注4〕 宇野弘子主『経済政策論』(弘文堂,1954年〉, l:J4' ‑ . 

(注5) 民族資本という概念、は,はなはだあいまい な概念で£る。主'(弁資本と対立した民みであふが,百 際問題として,ある特定の資本を一義的に民族資本か 'fl 1「−資本と決めることは困難な場合点争いJ ケタle )  いてもそれは表当するのであるが,ここでは,商業資 本}いうふり工必右1t,Jt資本であり, π1Hi'Jピへf ヤーが比

r

的少t,' .、ニムを考婚して,使笠的に「民枚 資本」のr:棄を用いた。

じ=i6)  1885l,コi ri国民えぬ派右:日成5 た。しかい紋初からイギリスに対して敵対的ではな

fo

(i:17)  M ・ G・ラーナデー(M.G. Ranade)は,

著名なジ ーナ)スト.法律家ゴあ.Jこが, fントi: 業化の方策として,鉄鋼業育成の最要性を強調した。

,, 8)  この I:存製J'Ii去にJても, F11,白廷が

r

付 地帯に恨i]jlく残ったと同様に,オノやグワに使用され るqlCJ,, プノレ ムが,原始的ご非/it.誌なんr去で, 20

世紀になっても残存するのである。それは近代的製鉄 業とは摂貨な二前構造をなし,生産,',/,裁の日 irでも分l'f を黙にしたのである。

Willian A.  Johnson, The Steel Industry of India  (Harvard Press, 1966), p. 8を参照されたい。

,:9) 1 溶鉱,!;iの能力は週、日たり木炭銑と高炉校合 計で40トンであった。ブジア経済研究所編

r

インドの 鉄創業』(アジア経済研究所, 19601の,5ベージ参照。

(iHO)  この年,ポノレト・ノポ・スチーノレ・アンド・

アイアン社(PortoNovo Steel & Iron Co.) i二ヒース のが鉱炉iI移されている。アジア経済研究所持;l『イン

ドの鉄鋼業』, 5ページ参照。

(11:ll)  ボルト・ノギの溶鉱炉は1866年に,ベイポ ーノレの溶鉱炉は1897年に各々休業にき巨っている。アジ ア主主済研允所編『インドの鉄鋼業』, 5ベーシo

〈注12) 連合チH,中央イ γド,中央州でも近代的製鉄 条が試みられてL、るが,すべて失盟主仁川している。タタ 以前に17凶も近代的製鉄業が試みられているというo

William A. Johnson, p.習なわ, TISCOU,iiiの製鉄 業については, DanielH. Buchanan, The Develop‑

1/1(nt of Capitalistic  Ente1アrises in  India (New  York, 1934), pp. 278〜282を参照されたし、。

(1五13〕 W.A. Johnn; 九 技 術rrriでJ渇さ, J主 待il'iを採用しなかった土とをあげている。W.A.John‑

son, p. 9. 

(/1:14)  V. l.  Pavlov, Th,,  Indian  Capitalist  Class‑A  Risto門・cal Study  (New  Delhi, 1964),  p. :‑371. 

({主15〕V.I.  Pavlov, p. 371.  01=16〕V.1.  Pavlov, P‑232. 

(注17) V. I. Pavlov, p. 233.  (/US)  V. L Pavlov, p. 234. 

e n

19) V. I. Pavlov, pp. 220370. 

( i.l:20〕高番手の綿糸は,イギリス製であり,低番 手lt 主-~ I.てインド企業で生産した。インド,

n

品のT:i 場が,中国,東南プジアなど海外市場であったことが,

1( >:Jイギリス総業資本市の対?を弱Ljのに[た。 19 世紀末から,中間市場が日本の綿工業資本に侵しょく

さハるようJこな〆三ことが, インド,;Jt,市i拐を狭

ι

イヒし,それがインド園内市場でのイギリス綿築資本と の芯!?、を段"j¥1]にし三。それによるインド綿築資本とf ギリス綿業資本との対立が,インド民族主義運動の

t

Ci;喜連を有してくるし〕であろう

7ラ

参照

関連したドキュメント

モノづくり,特に機械を設計して製作するためには時

政策上の原理を法的世界へ移入することによって新しい現実に対応しようとする︒またプラグマティズム法学の流れ

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

 彼の語る所によると,この商会に入社する時,経歴

次に、第 2 部は、スキーマ療法による認知の修正を目指したプログラムとな

点から見たときに、 債務者に、 複数債権者の有する債権額を考慮することなく弁済することを可能にしているものとしては、

対象期間を越えて行われる同一事業についても申請することができます。た