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博 士 ( 法 学 ) 大 野 達 司 学 位 論 文 題 名

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博 士 ( 法 学 ) 大 野 達 司

学 位 論 文 題 名

ワ イ マ ー ル 期 国 法 学 に お け る 方 法 と 主 体

学 位 論 文 内 容 の 要 旨

    本研 究 は一I・ 丶ルマ ン・ ヘラー のr国家学 」を中 心とし て、 ワイマ ール国 法学に おける 方法 問 題 を 同 時 代 的 背 景 と の 関 係 で 検 討 す る 試 み で あ る 。 ワ イ マ ール 期 国 法 学 は、 一 方 で 憲 法 論 を は じ め と す る 公 法 学 上 の 議 論 の 文 脈 の 中 に あ る 。 他 方 で その 対 象 で あ る国 家 的 秩 序 の 中 に は 当 時 の 文 化 的 ・ 政 治 的 ・ 社 会 的 危 機 が 反 映 さ れ て い る ため 、 「 生 の 哲学 」 を は じ め   と す る 文 化 的 ・ 社会 的 危 機 に 反応 し た 諸 議 諭と 内 在 的 に っ なが っ て い る 。従 っ て 、 ワ イマ ー ル 期 国 法 学 の 議 論 状 況 は 、 当 時 の 政 治 状 況 に 対 す る 問 題 解 決の 試 み で あ ると 同 時 に 、 視 野 を 広 げ れ ば マ ル ク ス 、 ニ ― チ ェ 、 ウ ェ ー パ ー と い っ た 巨 大 な先 人 が 対 決 した 「 近 代 」 の 問 題 を 法 と 政 治 の 接 点 と い う 限 ら れ た 領 域 で 試 み た も の で あ る。 こ の よ う に潜 在 的 に 長 い 射 程 を 有 し て い る こ と が 、 ワ イ マ ー ル 期 国 法 学 の 諸 議 論 壱 今 日に お い て も なお 法 哲 学 的 に 意 義 あ る も の と し て い る 。 以 上 の よ う な 二 重 の 文 脈 の な か で 展開 さ れ て い るた め 、 ワ イ マ ー ル 期 固 法 学 の 議 論 に お け る 方 法 錨 的 対 决 は 同 時 に 政 冶 的 ・ 実践 的 厂 主 体 亅の 回 復 とL1う 関 心 に 支 え ら れ て い たの で あ る 。 っ まり 認 譲 錨 的 主― 客 関 係 と 実践 的 な そ れ (個 人 ← 国 家 ) と が 重 畳 的 に問 題 化 さ れ てい た 。

  本 研 究 は こ の よ う な 基 本 枠 組 み の な か で ワ イ マ ー ル 期 国 法学 に お け る 諸議 論 の 基 本 構造 を 検 討 す る が 、 な か で も ヘ ラ ― の 議 論 を 軸 に し て 進 め て 行 き たい 。 そ の 理 由は 、 ヘ ラ ― が 同 時 代 の 諸 議 論 と 対 決 し 、 そ れ ぞ れ の 諭 者 に っ い て ー ー や や 断定 的 で あ る にせ よ ー ― 、 今 日 の 研 究 の 基 準 を ナ ょし て い る か ら であ る 。 逆 に へラ ー の 側 で もこ れ ら 諸 議 論と の 対 決 の 中 で 自 己 の 国 家 学 を 練 り 上 げ て き た た め 、 こ の 配 置 図 の 検 討 は ヘラ ー の 「 国 家学 」 理 解 に も 必 要 な 作 業 であ る 。

  ワ イ マ ー ル 期 園 法 学 に 関 し て は 、 特 に 最 近 多 く の 研 究 が 発表 さ れ て い る。 し か し そ れら は 個 別 的 研 究 で あ る こ と が 多 く 、 ワ イ マ ー ル 期 国 法 学 全 体 の 構造 を 、 そ の 思考 構 造 に 遡 っ

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て検討すると いう作業性残されている。本 研究はできる限りこれらの 新しい研究をも参照 しつつ上の課 題を試みたものであり、その ことにより今日の法哲学的 議論との関係、また ワイマ―ル期国法学 の意義と限界も明確になると 考えている。

  全体のあらましは 以下の通りである。

  序章では本 研究における基本的な分析枠 組みを提示すべく、方法論 と政治的主体論一市 民論の議論状 況を検討するとともに、国法 学内部での問題状況にも若 千言及する。方法問 題に関しては 、一般にはウェーパーの社会 科学諭が出発点とされるが 、ワイマ―ル国法学 の論者もその 例外ではない。彼らはむしろ ウェーパー批判の側にたっ て、ウェーパ−(そ してイエリネ ク)の議論を発展継承したも のである。その意味でこの 問題は本研究の通妻 低音をなす。更にこ の問題はワイマール期前後の「市民批判」の文脈ともっながっている。

それが国家の危機、 国家学の危機という問題であ った。

  第ー章では 「国家学の危機」という実証 主義批判で主たる対象とさ れているケルゼンを とりあげる。 ケルゼンの純粋法学と民主制 諭の構造を手続的決定論と いう観点から捉えな おし、ケルゼ ンの中では決定の問題が司法 的手続に代表されるような 対論的手続の合理性 として示され ていることから、ヘラーのい うような規範一元諭の法則 主義という批判は妥 当しない。ま た、この手続を成り立たせる 基礎にっいては、ある種の 批判的人間像が前提 されており、 それを生み出す政治的・社会 的基盤にっいても配慮され ている。とはいえこ れらの諸側面 が、一っの理論として構成さ れていない点に、ヘラーの 批判が妥当する欠点 が存在していた。

  第二章では「主権 論」を中心として、シュミ.yトとの対比で権カと法との関係を検討す る。「法則主 義」を批判し、ヘラーと同様 に法における意思決定や実 在的権カの要素を理 論上確認した ところに彼らの意義がある。 しかし、権カと法との制約 関係に関する認識に 関して両者は 対立関係にある。ヘラ―は両 者の緊張関係の中で民主的 主権論を構成しよう とした。

  第三章では 、権威主義的国家論者である カウフマンを対象とする。 新カント派批判で知 られる彼の議 論は、わが国ではあまり検討 きれていないし、権力国家 論者としての理解が 一般である。 本研究では権力国家諭者であ るという側面は否定しない が、それにいたる過 程での有機体 論の議論の不十分な取扱いを 問題としたい。そのことは 合理主義批判におけ る問題点を示してい る。

  第四章では 精神科学的方法の代表者であ るスメントを対象にする。 スメントはヘラーの

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国家学の構築の上で大きな影響を与えた。その精神科学の克服は、ヘラーの国家学形成に おいて、民主主義と自由主義との関係をめぐる重要な論点である。スメントの統合理論は 国家を動態的に理解して脱形而上学化している。だが、合理主義批判のー面性が、「体験」

による相互主観的関係を社会的側面、個人対国家関係に不当に拡張した。その市民イメー ジは確かに国家に対して積極的に関与するものではあるが、その中心に位置する「体験」

概念の問題点が国家一個人関係における公共性問題を取り込む妨げとなっている。ヘラー のスメント批判はこの点に関係している。

  第五章では、ヘラーの「国家学」を内在的に検討する。ヘラーは機能主義的な国家構造 の分析を行い、近代国家における諸要素の弁証法的関係を明らかにしようとした。そこで は「法」の成立における「法原則亅の問題が重要な位置を占めている。それは「主体」問 題の国家学的展開である。「主体」問題はウェーパ一方法臨に対する彼の否定的評価と関 連しているが、実質的に両者は親近性を有している。法原則諭とそれを動態的に形成して いく主体像は、形式化的傾向の中での脱実質化を脱・実質ではなく、形式―実質の相互関 係として位置づける枠組みの萌芽を提供している。それはヮイマ―ルーナチスにいたる歴 史的状況の中では十分な支持を得られなかったが、近代以降の国家認識としては妥当な方 向を示していると考えられる。

  以上のような形でワイマール国法学、とりわけヘラーの国家学を検討することにより、

今日的な問題との関係、そしてへラーの限界を検討する。以上の成果から今日の法や国家 の問題に関する手がかりを得たい。

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学位論文審査の要旨 主 査    教 授    今 井 弘 道 副 査    教 授    高 見 勝 利 副査

副査

教 授 助 教授

長 谷川 川 崎

晃 修

  ( 要 旨 )  本 稿 は 、 ヘ ル マ ン . ヘ ラ ー の 「 国 家 学 」 を 中 心 と し 、 「 方 法 と 主 体 」 と い う 論 点 に 収 斂 さ せ な が ら 、 ワ イ マ ー ル 国 法 学 に お け る 方 法 問 題 を 同 時 代 的 背 景 と の 関 係 で 検 討 す る 試 み で あ る 。 ワ イ マ ー ル 国 法 学 は 、 一 方 で は 憲 法 論 を は じ め と す る 公 法 学 上 の 議 論 の 文 脈 の 中 に お か れ て い る が 、 他 方 で は そ こ に は 文 化 的 ・ 政 治 的 ・ 社 会 的 危 機 が 反 映 さ れ て お り 、 「 生 の 哲 学 」 を は じ め 文 化 的 ・ 社 会 的 危 機 に 反 応 し た 諸 議 論 と 内 在 的 な 対 応 関 係 を 有 し て い る 。 従 っ て 、 ワ イ マ ー ル 国 法 学 の 議 論 状 況 は 、 当 時 の 政 治 状 況 に 対 す る 問 題 解 決 の 試 み と し て 理 解 可 能 で あ る と 同 時 に 、 マ ル ク ス 、 ニ ー チ ェ 、 ウ ェ ー バ 一 等 の 思 想 的 巨 人 が 対 決 し た 「 近 代 」 の 問 題 に 、 法 と 政 治 の 接 点 の 領 域 で 取 り 組 む も の と 見 る こ と が で き る 。 こ の よ う に 近 代 そ れ 自 体 に 関 わ る 大 き な 射 程 を 有 し て い る こ と が 、 ワ イ マ ー ル 国 法 学 の 諸 議 論 を 今 日 依 然 と し て 法 哲 学 的 に 意 義 深 い も の と し て い る 。 大 野 は 、 こ の 点 を 踏 ま え っ つ 、 ワ イ マ ー ル 国 法 学 に お け る 方 法 論 的 対 決 は 、 同 時 に 政 治 的 ・ 実 践 的 「 主 体 」 を 回 復 さ せ 、 そ れ を 学 的 体 系 内 に 組 み 人 れ よ う と す る 関 心 に 支 え ら れ て い た 、 と い う 点 に 焦 点 を 設 定 す る 。 換 言 す れ ば 、 認 識 論 的 ( 主 一 客 ) 関 係 と 実 践 的 な ( 個 人 一 国 家 ) 秩 序 関 係 と の 重 畳 的 問 題 化 の 局 面 が そ こ に あ っ た 、 と い う わ け で あ る 。

  本 研 究 は 、 か か る 基 本 枠 組 の な か で 、 ワ イ マ ー ル 国 法 学 に お け る 諸 議 論 の 基 本 構 造 を 、 と り わ け へ ル マ ン ・ ヘ ラ ー の 議 論 を 軸 に し て 進 め よ う と す る 。 ヘ ラ ー が 同 時 代 の 諸 議 論 と 対 決 し 、 そ れ ぞ れ の 論 者 に っ い て 今 日 の 研 究 の 基 準 を な す だ け の 論 点 の 提 示 し て い る 、 と 理 解 さ れ る か ら で あ る 。 そ れ は 同 時 に 、 現 代 に お い て 大 き な 意 義 を 有 す る に 至 っ た へ ラ 一 研 究 の た め の 不 可 欠 の 前 提 で も あ る 。 ヘ ラ ー は 諸 議 論 と の 対 決 の 中 で 自 己 の 国 家 学 を 構 築 し て い っ た か ら で あ る 。

  序 章 で は 、 本 研 究 に お け る 基 本 的 な 分 析 枠 組 み を 提 示 す べ く 、 方 法 論 と 政 治 的 主 体 論 〓 市 民 論 の 議 論 状 況 が 検 討 さ れ る 。 方 法 問 題 に 関 し て は 一 般 に ウ ェ − ´ ヾ − が 公 準 と さ れ る 場 合 が 多 い が 、 ワ イ マ ー ル 国 法 学 に お い て も 例 外 で は な い 。 そ の 議 論 の 多 く は

、 ウ ェ ー バ 一 批 判 の 側 に た っ て 、 ウ ェ ー バ ― やG. イ エ リ ネ ク の 議 論 を 発 展 継 承 さ せ る と い う 位 置 を 占 め て い る 。 こ の 問 題 を 介 し て 、 議 論 は ヮ イ マ ― ル 期 前 後 の 「 市 民 批 判 」 の 文 脈 と も っ ナ ょ が り 、 国 家 の 危 機 、 国 家 学 の 危 機 と も 通 底 す る こ と に な る 。   第 一 章 で は 、 「 国 家 学 の 危 機 」 を も た ら し た 主 犯 と さ れ る ケ ル ゼ ン が と り あ げ ら れ る 。 大 野 は 、 ケ ル ゼ ン の 純 粋 法 学 と 民 主 制 論 の 構 造 を 手 続 的 決 定 諭 と い う 観 点 か ら 捉 え ナ よ お し 、 そ こ で は 、 決 定 の 問 題 が 手 続 一 一 司 法 的 手 続 に 見 ら れ る よ う な 対 論 的 手 続

― − の 合 理 性 と し て 捉 え ら れ て い た こ と が 示 さ れ る 。 と す れ ば 、 ヘ ラ ー の 規 範 一 元 論 的 法 則 主 義 と い う ケ ル ゼ ン 批 判 は 必 ら ず し も 妥 当 し な い 。 ま た こ の 手 続 を 成 り 立 た せ る 基 礎 に っ い て も 、 ケ ル ゼ ン で は あ る 種 の 批 判 的 人 間 像 が 前 提 さ れ て お り 、 そ れ を 生 み 出 す 政 治 的 ・ 社 会 的 基 盤 に っ い て も 配 慮 が な さ れ て い な い わ け で は な い 。 と は い え

、 こ れ ら の 諸 側 面 が 、 ー っ の 理 論 と し て 論 理 構 成 さ れ て い な い 点 ― ― そ れ は ま さ し く ケ ル ゼ ン の 方 法 論 に 直 接 に 関 わ る と こ ろ で あ る 一 ー に 、 ヘ ラ ー の 批 判 が 妥 当 す る 欠 点 が 存 在 し て い た こ と は 否 め な い こ と が 明 ら か に さ れ る 。

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意思決定や実在的権カの要素を重要視したところにある。しかし、権カと法との制約 関係の認識に関して両者は対立関係にある。ヘラーは両者の緊張関係の中で民主的主 権論を構成しようとしたが、シュミットにはこの緊張関係は基本的に欠落しているか らである。

  

第三章では、権威主義的国家論者

E

.カウフマンが対象とされる。彼の議論は新カ ント派批判として有名だが、それ以上には、わが国ではあまり知られておらず、権力 国家論者の一人として理解されている程度である。大野はこのような事態に対して、

カウフマンの有機体論を取り上げ、そこにおける合理主義批判の意義を浮かび上らせ る。

  

第四章ではルドルフ.スメントが扱われる。ヘラーの国家学の構築の上で大きな影 響を与えたスメントの精神科学のへラーによる克服[=自己克服]は、ヘラーの国家 学形成の中では、民主主義と自由主義との関係をめぐる重要な論点をなすものである

。スメントの統合理論は、成程国家を動態的に理解し、それを脱形而上学化してはい る。だがこと合理主義批判の一面性の結果、「体験」による相互主観的関係が社会的 側面、個人対国家関係に不当に拡張されている。スメントの市民は、その結果、確か に国家に積極的に関与するものと理解されてはいるが、その中心に位置する「体験」

概念のかかる問題性のゆえに、国家一個人関係における公共性問題を自律的市民との 関係において取り込むという点において十分ではない。ヘラーのスメント批判はこの 点に照準を合わせるものである。

  

第五章では、ヘラーの「国家学」が内在的に検討される。ヘラーは機能主義的な国 家構造の分析を行い、近代国家における諸要素の弁証法的関係を明らかにしようとし た。そこでは「法」の成立との関係において「法原貝lJ 」が占める意義をめぐる問題が 重要な位置を占めている。それは「主体」問題の国家学的展開としての意義を有する 問題でもある。ヘラーは、方法問題においては、ウェーバーに対して一貫して批判的 であるが、「主体」問題に即してみる時、両者の議論は、実質的には、親近性を有し ている。法原則論とそれを動態的に形成していく主体像は、形式化的傾向に対抗しっ つ、要するに形式ー実質の相互関係として位置づけ、それに市民論を接合する枠組み の萌芽を提供している。それは、成程ワイマールーナチスにいたる歴史的状況の中で は十分な支持を得られなかった。しかし近代以降の国家認識としては妥当な方向を指 し示しているもの、と評価される。

  

以上のようなヮイマール国法学、とりわけへラーの国家学を検討することにより、

今日的な問題との関係、そしてへラーの限界が検討される。それを大野は、今日にお け る 法 や 国 家 の 問 題 に 関 す る ス プ リ ン グ ・ ボ ー ド た ら し め よ う と す る 。

  

(評価)   本論文は、ケルゼン以降のワイマ−´レ国法学の展開にっいて、従来のわ が国の当該領域における既存の研究と比べて、実に綿密な文献精査に立脚した上で―

ーこの意味では本研究における註はそれ自体として固有の価値を有するものと評しう る程である−−、「方法と主体」という個性的ナよ観点に立って、思想史的・法哲学的 に展開するものとして、基本的には大きな寄与をなすものと評しうる。この「方法と 主体」という観点は同時に、現代法哲学・実践哲学の様々な論点と交叉する諸問題を 固有に浮かび上がらせることに成功してもいる。

  

このように本論文はそれが駆使している素材の豊かさと対象、問題の包括性におい ては、課程博士の論文の水準としては、十分ナょ評価を与えうる。但し、それが論文全 体の論理構成・論理的ツメ・文章表現において適確に表現されているかという点では

、未完成の部分も少ナょくなく、かなりのキズが残されていることも否定できない。こ の論文の内容的実質にっいての高い評価と、それの形式的完成度との間のギャップは

、評者全員の意見の一致したところであった。要するに、論文の完成度としては未熟 ナよ点が多々残されているが、要求される水準はクリアーしている、というわけである

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。このことはまた、更に彫琢が加えられるナょらば、多きな飛躍をなしうづだけの可能 性を秘めているということをも意味している。大野の今後の学者としての成長もまた 期待しうるところである。

  

以上の意味で、本審査委員会では、大野達司に博士(法学)の学位を授与すること

が適切であるとの見解に達した。

参照

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