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「新島襄の遺髪と愛用の硯」について

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「新島襄の遺髪と愛用の硯」について

著者 田島 繁

雑誌名 新島研究

号 103

ページ 198‑199

発行年 2012‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013049

(2)

198 199  私は昨2010年5月1日、新島学園中学校高等学校で「新島襄の足跡を辿

る 欧米編と京都安中walk」と題して講演した後、市川平次校長の案内で 新島旧宅展示室を訪れ新島先生の遺髪の写真を見た。「いつ誰がこの写真 を?」と管理人に聞いたが分からないとの返事であったので、後日、09年 秋の安中教会主催「同志社ツアー」で私が若王子墓参と新島旧邸を案内し 知り合った安中教会役員の田島龍一氏に「半田隆一さんに聞いてほしい」

と依頼した。半田真樹子氏(半田善四郎氏の孫の半田襄次氏の奥様で原市 の赤心幼稚園理事長)より「家を改築する頃、新島学園短大が創設され図書 館が出来たので新島先生の遺髪と愛用の硯などを寄贈した」と。

 7月に田島龍一氏と新島学園短大を訪れ,写真に写っていた実物の遺髪 と硯を大平良治学長と三宅豊事務長の立会で見せて頂いた。遺髪の入った 瓶には「新島先生の御遺髪 1864年6月14日幕禁を犯して函館を脱出せら れ、上海近くにて散髪せられたものの一部を堀牧師より分與せられたるも のを更に昭和20年8月27日我の友人半田善四郎兄に贈與す。牧師木村清 松」と説明書きが入っていた。木村清松牧師(1874-1958)は新潟出身で北 越学館に入学し、堀貞一牧師から1891年1月11日受洗し1896年6月に渡米 し、留学から帰ると、国内一円は勿論、朝鮮、満州、南洋、欧米まで伝道 した大牧師であり、京都の洛陽教会牧師として6年間(1908-1914)、天満 教会では13年間(1924-1937)牧師で、晩年軽井沢教会の牧師をされた。田 島龍一氏はその略歴を見て「経済的に苦しい状態であった軽井沢教会を半 田善四郎氏が援助したので、木村清松牧師はきっと堀貞一牧師より分與さ れた『新島の遺髪』をお礼に半田善四郎氏に分與したのであろう」と私に

「新島襄の遺髪と愛用の硯」について

 

田 島   繁

コラム

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「新島襄の遺髪と愛用の硯」について

説明して下さった。

 それを確かめるため軽井沢教会を訪れ、新島学園中高の校長をされてい た西村義臣牧師にお会いすることができた。「半田善四郎氏は群馬の資産 家で、同志社大学の『良心碑』や大磯の『新島襄終焉の地碑』を寄贈し、

軽井沢教会にも多額の寄付・援助をしてくれた人です」と話された。これ でやっと納得できた。1963年の『同志社時報7号』に「中仙道行脚」を書い た関口徹氏が「安中に到着し半田隆一(善四郎氏の長男)氏宅に泊めても らった。そこで新島先生の遺髪と愛用の硯を見せてもらった」と記してい る。長く気になっていた「新島先生の遺髪と愛用の硯」の所在が分かり、

実物をこの目で確かめることが出来た。

 市川新島学園中高校長から「新島先生の遺髪と愛用の硯は新島短大から 新装なった新島学園中高のフィリアホールの資料室に移され、学生達に公 開されています。同志社の卒業生の方もこちらの方に来られたら是非立ち 寄って下さい。」とのメールをいただいた。

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