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新島襄の密出国時の服装について

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Academic year: 2021

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新島襄の密出国時の服装について

著者 小枝 弘和

雑誌名 同志社談叢

号 36

ページ 211‑215

発行年 2016‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015610

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新島襄の密出国時の服装について二一一

新島襄の密出国時の服装について 小 枝 弘 和

はじめに

先般、私が学内発行誌『イマ・イチ』四十九号(二〇一三年)に書き記した内容に関して多くの方に誤解を与えたことにつきましてお詫び申し上げます。そのように考えるに至った経緯をまとめます。

新島が書き記した函館滞在に関する日記について

新島襄が函館に関して自ら書き残した日記、もしくはその写本と考えられる資料が4点存在する。古い資料から順に、「函館紀行」(一八六四年三月-五月)、「航海日記」(一八六四年五月-一八六五年一〇月)、「函館脱出之記」(一八六四年六月一四日)、「函館よりの略記」(一八六四年六月一二日-一八六五年一〇月三〇日)である(原資料名にタイトルが付されていないものは『新島襄全集』第5巻を参照した)。この中で新島襄が密出国した際の記述がある日記は「函館紀行」、「航海日記」、「函楯よりの略記」3点である。まず「航海日記」には元治元甲子年六月十四日の条に「富士屋宇之吉の周旋ニ依而、此夜九時過密に宇之吉と共に小舟ニ乗し、米利堅商船に乗得たり」とあり、沖で待つアメリカ商船ベルリン号の元まで小舟でいった事実

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新島襄の密出国時の服装について二一二 が記されている。次に、四つの資料の中では年代が最も新しい「箱館よりの略記」には同じく元治元甲子年六月十四日の条に「家郷への書状を認めり。此夜四ツ半過に一からげの荷物を負ひ、大小を懐中にかくし魯人の家を去り、彼の築島に参り、岸に繫げる小舟を掠取り亜国の商船へこぎよせしに、曾て試みさる仕事故出死の力を竭くし、よふやく其船に乗込む事を得たり。」とある(『新島襄全集』第五巻七二頁)。前日に撮影した写真を手紙とともに認め、最小限の荷物と二振りの刀を携えて、決死の思いで密出国したことがわかる。ただし、この資料は末尾に「合衆国マサチュセッツ邦アンドワ県アンドワ府にて  新島敬幹書す」とあり、日付が「千八百六十六年二月二十一日」と書かれ、書かれたのが無事ボストンに到着し、後見人であるA・ハーディーの庇護のもとフィリップス・アカデミー在学中とわかる。何かの資料を参考にしたと考えられるが、詳細は不明である。「函楯よりの略記」より以前で、密出国に触れた資料として、アーサー・シャバーン・ハーディーが書いた伝記『新島襄の生涯と手紙』(『新島襄全集』第一〇巻所収)に掲載された「脱国の理由書」に密出国の様子が次のように描かれている。

指定されていた時間に私は外国商館に、アメリカ船まで連れて行ってくれることになっていた日本人の友人〔福士卯之吉〕を訪ねた。その船は翌朝シャンハイに向けて出帆するはずであった。友人は私を待っていて、暖かく歓迎してくれた。彼は深夜の冒険に二人が乗出す前に飲むために、熱いレモネードを出してくれ、危険を前にしてびくびくしてはいけない、と言った。しかし今思い出してみると、私はちっともびくびくしていなかったように思う。その場所に来る前に遠くで犬が吠えていたので、またどの方向で犬がないているの

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新島襄の密出国時の服装について二一三 かを確かめようとした。友人に下駄をぬぎすててきた、と言うと、彼ははだしで駆け出して行って、下駄を拾ってきてくれた。それから私たちは波止場まで一緒におりて行った。彼はそこに小舟を一そう用意していた。波止場に立っていると。誰かが近づいてくる音がした。私は急いで舟に乗り込み、舟底に平つくばって、私の持物の入っている荷物の一つであるようなふりをした。それは見張りの男だった。すんでのところで二人をつかまえることをできたであろう。ところが何とかさいわいか、彼は臆病者で、私たちを見分けられるくらい近寄ってこようとはしなかった。彼はただ波止場で舟の綱を解こうとしていた友人を見ただけで、震え声で「だれだ、そこにいるのは?」と訊いた。「わたしです」と友人は静かに答え、明朝までのばせない緊急の用事でアメリカ船の船長のところまで行くところです、と述べた。友人は見張りの男によく知られていたので、見張りもすぐに誰であるかがわかった。静かに自信をもって友人が手短に説明すると、深夜の時間であっても波止場から出ていくための通行証としてそれで十分なのであった。(『新島襄全集』第一〇巻四三-四四頁)

「脱国の理由書」は原文の英語が発見されていない資料であるが、アメリカに到着したばかりの新島が書き記したとされる重要な資料と考えられてきた。確かに非常に詳しい密出国時の様子がわかるが、「函楯からの略記」と比べると、例えば、「脱国の理由書」では福士が小舟を準備したと書いている一方で、この後に書き残した「函楯からの略記」には「岸に繫げる小舟を掠取り」と表現している。二つの資料を書き記した新島襄を取り巻く状況や文書を書き残した目的が違うからこそ生まれた差異と考えられるが、このように、資料により、内容の詳しさや表現に差異が生じている。

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新島襄の密出国時の服装について二一四

最後に、「函館脱出の記」の中で該当する箇所は次のようなものである。

扨字之吉と半時程も縷々之談判をなし、人定後に於而、竊に裏口より荷物を負出て岸に繫げる小舟(箱楯にてはチッポト呼ふ)に乗移り、宇之吉楫をかき予は頰被りを為し臥居り、恰も商船に忍ひ通ふ婦人の有様なり{但し此小舟は、今日宇之吉或人よりかり受け、而して此港内を試みの為或人をのせ漕きし由}(『新島襄全集』第五巻七〇頁)

「函館脱出の記」は周知のように新島の直筆による原資料は存在せず、現存する資料は新島の甥である新島公義が書き写したと考えられる資料である。この意味では他の資料同様に、資料的価値に注意して読みこねばならない。しかし、引用文からもわかるように、この資料の内容は、新島の直筆出るとすれば、密出国の当日、もしくはこの日に限りなく近い日に書かれたもの、さらに言えば、「脱国の理由書」よりも以前に書かれた可能性が高い。さらに、密出国の日に限れば、小舟に至る経緯、小舟での新島の様子などは詳しく書かれている。「脱国の理由書」では、小舟での新島が「舟底に平つくばって」とあるが、「函館脱出の記」では「頰被りを為し臥居り」と、ほっかむりをして身を伏せてベルリン号に向かう様子が記述されている。この有様を新島は「商船に忍ひて通う婦人の有様なり」と書いている。以上のような、比較検討から「函館脱出の記」は資料の信憑性に疑問は残るものの、函館に関する記述に関しては、その内容を参考にしていた。

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新島襄の密出国時の服装について二一五

おわりに

私は「函館脱出の記」の表現から「女装」という表現を使用したことで、多大なる誤解を多くの方々に与えたことに対しては大変申し訳なく考えております。決して創立者を貶める意図はございません。これを明記して、私の言葉を撤回させていただきます。

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