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「耳順」「杖郷」 「花甲」などの語 : 六十歳・六十一歳を表す語と漢詩

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Academic year: 2021

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(1)Title. 「耳順」「杖郷」 「花甲」などの語 : 六十歳・六十一歳を表す語と漢詩. Author(s). 後藤, 秋正. Citation. 札幌国語研究, 12: 107-115. Issue Date. 2007. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2474. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) −六十歳・六十三成を表す語と漢詩− 後. 藤. これらの用例から考えると、﹁還臍﹂ の語は、日本で、それ. 藤左千夫︶明治四二年﹁還暦の祝を挙ぐと聞きて﹂. 一 六十歳と﹂ハ十一歳の異称. て、﹁還暦﹂に規する語はどのように表れるのであろうか。. も明治に入ってから用いられ出したようだ。では、漢詩におい. ﹁耳順﹂﹁杖郷﹂﹁花甲﹂などの語. はじめに ﹁還暦﹂という語が、数え年で六十一歳を指すことはよく知 られている。では、この語は漢詩の中で、どのように用いられ ているのであろうか。ふと思い立っていくつかの辞市を調べて みたが、﹃漢語大詞典 修訂版﹄には、この語自体が見られない。 年の干支にたちもどる。六十一歳をいふ。華甲。周甲。華甲子。﹂. 甲、周甲の語を用いるようだ。このほかにも、六十一歳を﹁元. 辞典﹄と﹁日本国語大辞典﹄に見えたように、もっぱら、華︵花︶. 中国においては、六十一歳を指す語としては、﹃諸橋大漢和. と説明するものの、用例は挙げない。では、この語は日本製漢. 十一歳。華の字は十の字六筒と一の字とから成るからいふ。甲. 命﹂と称した例もある。﹃請橋大浜和辞典﹄は華甲について、﹁六. ﹃謂槽大湊和辞典﹄ は、﹁ほんけがへり。本卦回。再び其の生. 一歳の異称。六〇年で再び生まれたときの干支に還るところか. 子日、吾十有五而志子学。三十而立。四十而不惑。五十而. 一文はその中で最もよく知られたものであろう。. いて述べることは、しばしば見られる。﹃論語L為政篇の次の. ただし、五十歳、六十歳といった人生の節目となる年齢につ. は甲子の甲。還暦。花甲。﹂と説明し、花成大の詩を引いている。. 語なのであろうか。﹁日本国語大辞典 第二版﹄は、﹁数え年六 らいう。華甲。本卦還り。﹂として、以下のような用例を引い *音訓新聞字引 ︵−S巴 ︵萩原乙彦︶ ﹁還暦クヮンレキ. ている。. ﹁Kwanreki クヮンレキ還暦﹂ *左千夫歌集 ︵−諾○︶ ︵伊. トシ六十一ヲ云﹂ *改正増補和英語林集成 ︵−00∞巴. 107.

(3) 知天命。六十両耳順。七十而従心所欲、不振矩。 したが. 子日く、吾 十有五にして学に志す。三十にして立つ。四 のりこ. 十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。 七十にして心の欲する所に従いて、妊を股えず。 ここから、孔子が他人の意見を素直に聞き入れられるように なったという六十歳を﹁耳順﹂と言うようになったことも周知 のことである。また、﹃礼記﹄ 王制篇には、次のように言う。. 五十不. 五十異柘、六十宿肉。⋮⋮六十歳制、七十時制。⋮⋮五十 杖於家、六十杖於郷、七十杖於国、八十杖於朝。⋮⋮ 従力政、六十不与服戎。⋮⋮五十而爵、六十不親学、七十致 政。唯袈麻為栗。. 五十は梶を異にす、六十は肉を宿にす。⋮⋮六十は歳に刺 つき、七十は国に杖つき、八十は朝に杖つく。⋮⋮五十は力. し、七十は時に制す。⋮・︰五十は家に杖つき、六十は郷に杖. 二 ﹁耳順﹂. ﹁耳順﹂は、詩ではないが、曹柏﹁下太后謀﹂︵還=子建集﹄. 我后斉聖、克暢丹聡、不出房閲、心照万邦。年輪耳順、乾. 巻九︶ にすでに見えている。. 乾匪倦。. 後漠の桓帝の延薫.二︰年 ︵一六〇︶ 十. 耳順を除ゆるも、乾乾として倦むに. 我が后は斉璽にして、 克く丹聡暢び、房問を出でずして、 匪ず。. 心は万邦を照らす。年 耽の下太后は曹相の母。. てエ. 二月に生まれ、没したのは親の明帝の大和四年︵二三〇︶ 五月. であるから、 享年は七十二これを﹁耳順を捻ゆ﹂と表現した. のであろう。 白居易には﹁耳順吟、寄致敷詰夢得﹂. この二即は、六十歳以上の老人が待遇の上で得る、さまざま. 五十六十郁不悪. 七十八十百病纏. 三十四十五欲牽. 巳に愛貪・声利を過ぐる後. 情状 清浄 心安然たり. 五十六十は副って悪しからず. 七十人十は百病纏う. 三十四十は五欲牽き. ︵﹃自民長庵. 詩において ﹁耳順﹂ の語が見えるのは、自信易の詩が早いも. のである。. 集上巻二一、 ﹃全唐詩﹄巻四国四︶ がある。. な恩典について述べている。ここから、六十歳のことを﹁杖郷﹂. 情淡清浄心安然. 猶お病鼠・昏莞の前に在り. ーよと. どのようなものがあるのだろうか。以下、﹁耳順﹂﹁杖郷﹂﹁花甲﹂. とも千‖うようになった。ではこれらの語を用いている詔には、. 巳過愛貪声利後. 未だ筋力の山水を尋ぬる無くんばあらず. ︵−一. など、六十歳、もしくは六十一歳を指す語を用いている何篤か. 猶在病清作篭前. 尚お心情の管絃を聴く有り. かえ. の詩を見てみたい。. 末無筋力尋山水. み†か. 六十は親ら学ばず、七十は政を致す。唯だ衰麻のみ煎を為す。. 政に従わず、六十は戎に服くに与らず。︰︰︰五十にして爵す、. つ・−∵﹁か. の. 尚有心情聴管絃. ひ. 108. よ.

(4) 間開新酒嘗数薫 間に新酒を開きて教護を嘗む. は荏群・自居易と同い年である。第二旬は耳順に逆したことを. 洛陽の自辟易のもとに、十五日ほど立ち寄った時であった。彼. Tl一. 酔倍旧詩吟一篇 酔いて旧詩を憎いて一篇を吟ず. 司徒に任じられたときには二十四歳だった。一句は郡内が大司. を助けて功績があり、光武帝が即位した建武元年 ︵二五︶、大. 科挙の登第になぞらえて言う。郡内は後漠の光武帝の天下平定. この﹁耳順吟﹂と遷する詩は荏群、字は敦詩と劉萬錫、字は. を苛っ。孔融は﹁論盛孝章蓄﹂︵﹃文選﹄巻四一︶ の目頭に、﹁歳. 徒になった歳より遅れること三紀二十六年で耳順に達したこと. 不用嫌他耳順牛 用いず耳順の年を嫌他するを. 敦詩夢得且相勧 敦詩・夢碍 且つ相い勧む. 夢得に寄せたものである。﹁五欲しは、いくつかの説があるが、 いやがる、きらう。六十歳は欲望に囚われることもなくなり、. ▲ヨ. 例えば仏教で言う色欲・声欲・香欲・味欲・触欲。﹁嫌他﹂は、. て巳に至り、公は始めて満つることを為し、融は又二を過ぐ。︶. ︵歳月は居らず、時節は流るるが如し。五十の年は、忽焉とし. 音楽を楽しんだりすることもできる、ほどよい年齢なのだから、. と苦いた。一句は孔融が苦簡を一書いた年齢を八旗過ぎたことを. 月不居、時節如流。五十之年、忽焉巳至、公為始滞、融又過二n﹂. これをいやがることはない、と言うのである。白居易が六十歳. の地位を去り、長安から洛陽を繹て蘇州に赴く劉商錫には、不. 言う。自店易はゆとりをもって六十歳を迎えているが、﹁丞郎﹂. かといって病気がちになる年齢でもない。山水を尋ね歩いたり. を迎えたのは、大和五年 ︵八二二︶、河南ヂとして洛陽にいて. 都南 功成る三紀の事. 指を屈して同に耳順の科に登る. 叔孫培屋有前間. 耳順何為土木勤. 縦然一世 紅紫の如きも. 叔孫の増尾は前に聞くこと有り. 耳順 何為れぞ土木の勤えあらんや. た詩は残っていない。次に徐条︵寅︶の﹁新屋﹂︵¶徐正字詩賦﹄. とである。裡群はこの年の八月に没している。彼が二人に寄せ. 半ば隠居生活を送っていた時であった。この詩に和して自店易. ﹃全唐詩﹄巻二一六〇︶ である。. 安もあったに違いない。蘇州に着いたのは翌大和六年∴月のこ. 客文集L外集巻二、. と荏群に寄せたのが劉虎錫﹁和楽天耳順吟、兼寄敦詩﹂ ︵﹃劉賞 吟君新什尉心掟脂 君が新什を吟じて躍絶たるを慰む 屈指同螢耳順科. 孔融 許就るより八年多し. 縦然一世如紅葉 猶得十年吟白雲. 才は難くして敢えて明君に倣るに非ず. 性は逸にして且つ野客と称さるるを図り. 猶お十年 白雲に吟ずるを得ん. うれ. 性逸且図林野客. なんす. 才難非敢倣明君. たとい. ︵時に年﹂ハ十︶ という自注がある。. 巻二、¶全唐詩﹄巻七〇九︶を見よう。この詩には﹁時年六十。﹂. 郡内功成三紀事. 己に将相を経ること誰か能く爾せん. と・も. 孔融吉就八年多. 丞郎を地却すること争でか奈何せん. しか. 巳程将相誰能爾. 且く魚鳥に随いて姻波に泣かぶを. な. 地却丞郎争奈何. 独り恨む長洲は数千里 う. しばち. 独恨長洲数千里 且随魚鳥迂咽波. この詩を苦いたのは劉丙錫が刺史となって蘇州に赴く途中、. 109. な.

(5) やす. 清甜数尺沙泉井 清甜 数尺 沙泉の井 平与隣家昆夜分 平らかに隣家と昼夜分かたん. 三 ﹁杖郷﹂. ﹁杖郷﹂ の語が最も早く見えるのは、梁の任肪の﹁答到廷安. 餉杖詩﹂ ︵妄言文類賢L巻六九。全一六旬︶ であろう。第七・八. 徐蚤、字は昭夢は、唐末五代の人。昭宗の乾草元年︵八九四︶ の進士で、秘軍省正字を授けられた。のち朱全忠の幕府に入っ 句に、. ねきち. たあと、天復l︷年︵九〇二︶ ころには故郷の閏︵福建省︶ に帰. 労君尚歯恵 君が歯を尚ぶの意を労い. した詩である。しかし、任肪は、梁の武帝・帯桁の天監七年︵五. 守であった到漑のこと。彼から竹製の杖を贈られたことに感謝. と言っている。詩題の到建安とは、建安 ︵福建省建甑市︶ の太. ときほ二. 幹此杖郷辰 此の杖郷の辰を狩る. よわいたつと. り、後に関を建国する主審知のもとで草書記となり、また、泉. 建省常田市︶ の別竪に住み、ここで亡くなった。. 州刺史王延彬の幕府にも入ったことがある。晩年は延寿渓︵福. TJ︶. この詩は詩題から考えて、六十歳になった時に、新たに別聖. 〇八︶ に四十九歳で没しているから、この句も、到漑がからか. を建てたことを詠じたものであろう。﹁叔孫﹂ の旬は、﹃左伝﹄ 昭公二十三年の条に、﹁叔孫所鮨者、雄一日必茸其楷屋。去之、. い半分で、まだ老境に達しているとは言えない任妨に杖を贈っ. やと. 如始至。﹂ ︵叔孫 館る所の者は、一日と錐も必ず其の楷屋を葺. たことに対し、ユーモアを交えて﹁杖郷の辰﹂と言ったもので. 原信の﹁園庭﹂ ︵﹃庚子山集L巻四︶ の冒頭にも﹁杖郷﹂の語. ある。. く。之を去るとき、始めて#るときの如し。︶とあるのに基づく。 叔孫は邪の大夫、叔孫姥のこと。便者として晋へ行ったが捕ら. 学に養われて閑郊を事とす. 郷に杖つきて物外に従い. がある。 杖郷従物外. 一日泊まったただけの宿舎も、出るときには垣根や屋根を修繕. えられてしまう。しかし、彼は正義感に溢れていて潔癖であり、 し、始めに来たときのようにしたという。一旬は、六十歳にも. 遇うこと無くして始めて交を観る. 窮愁 方に汗簡し. 谷寒くして巳に律を吹き. 養学事閑郊 無遇始観交. 窮愁方汗簡 谷寒己吹律. 櫓空しくして更に茹を努る つね. 糖空更前節. 人と禽と或いは巣を射す. 樵と隠と恒に路を同じくし. なって、彼と同じようなことほできないと∴一]うのであろう。額 聯は、人生は紅紫のようにはかなくとも、この別堅であと十年 は隠遁生活が送れるだろう、というのであろう。白雲は隠遁生 晴の象徴。尾聯は清らかで甘い泉水を隣家と分かち合って味わ うことを言う。. 樵隠恒同路. と︷り. 人禽或対巣. 110. ふ.

(6) 枯畔に蘭敬を結んにす. 香螺に美酒を酌み 風伝率土慶. 称名万寿腸. 蘭殿千秋節. 風は伝う率土の慶. 名を称す万寿の廟. 蘭殿 千秋の節. 一こ にこの語が見える。 香螺酌美酒 飛魚は時に釣に触れ. 日表継天祥. り. きか. 飛魚時触釣. 枯蝉籍開殺 翳雉も摩しば庖に懸かる. 日は表す継大の祥. 翳雉娠醸庖. ょつ. 処処 田租を弼り. 但だ相知をして厚からしめば. 年年 杖郷を害す. 但使相知悍. 処処桐山租. ■一さ. 年年宴杖郷. 玄宗は零宗・李旦の第三子。則天武后の垂挟元年 ︵六八五︶. 当に能く来りて交わりを結ぶべし. 深く思う一徳の草. 八月五日、洛陽で生まれた。即位したのは延和元年 ︵七一二︶. 当能来結交 康信がこの詩を文字通り六十歳の時に薄いたとすると、それ. 探忠一徳事. 小しく獲ん万人の康らかなるを. ない。全体に庚信らしい多くの典拠をちりばめた詩である。﹁車. 八月のことである。千秋節は玄t示の誕生日を祝うためにもうけ. え. は北周の武帝・宇文邑の建徳元年 ︵五七二。陳の宣帝の大建四. 小獲万人康. 学﹂の句は、﹃札記﹄王制算に、﹁五十養於郷、六十養於国、七. られた。r旧暦君﹄巻八、玄宗紀上、開元十八年 ︵七三〇︶ の. すこ. 年︶ に当たる。ただし、このころの頗信の官職は、はっきりし. 十希於学。﹂ ︵五十は郷に養い、六十は国に養い、七十は学に養. 八月丁亥、上御花専横、以千秋節百官献賀、賜四品巳上金. 条には、次のようにある。. 鏡・珠襲・嫌綜、賜五品巳下束吊有差。上賦八韻、又制秋紫. う。︶ と言うのを踏まえて、国学で養われながら郊外で静かに うのであろう。静かな郊外で家の手入れをしたり、きこりや隠. 過ごすことを言う。﹁窮愁﹂は、とりわけ強い望郷の思いを言 者と同じ道を歩いたりする。また、魚を釣ったりきじを捕らえ. 詩。. 八月丁亥、上 花琴楼に御し、千秋節に百官 賀を献ずる. たりする。末の二句では、多くの御馳走が用意されているのだ. を以て、四品已上に金鏡・珠桑・練採を賜い、五晶己下に東. から、きっと自分の心を慰める友人が訪ねてくれるだろう、と 言う。果たして六十歳の康信が友人を得ちながら郊外で隠者め. 南を賜うこと差有り。上 八輩を賎し、又秋景の詩を制す。. り、六十歳の老人をいたわりもてなすことを言う。. ﹁処処﹂ の二句は、あちこちで農耕の神である神農氏をまつ. いた生活を送っていたかどうか、定かではない。しかし、老境 に近づくにつれ、南方に帰れない孤独を日増しに強く感じて 一トゝ いったであろうことは容易に想像がつく。 唐詩においては、玄宗・李隆基の﹁千秋節宴﹂ ︵﹃全唐詩卜巻. 111.

(7) 少なくとも末代までの詩においては、﹁華甲﹂の語は見えず、. 芭綿花開魚尾宝. 酔裏白竃多上昇. 桐君桂父崖勝我. 柴非亮是付足憑. 雷騰騰. 金丹 始めて君が命を延ばすべし. 菖蒲 花開いて魚尾定まる. 酔裏 白竜 多く上昇す. 桐君と桂父も岩に我に勝らん. 柴は尭に非ず是れ何ぞ憑るに足らん. 雷臍勝たらんや. ▲‖′. ︵9−. もっぱら﹁花甲﹂が用いられるようである。﹁花甲﹂ の語が表. 金丹始可延君命. 四 ﹁花甲﹂. れる最も早い詩は、遁牧の﹁対酒﹂︵﹃唐放言﹄巻一〇、﹃全唐詩﹄. ︻川﹀. 巻五六三︶であろう。彼については、大中︵八四七と八五九︶・. 翁斬早英樹、以杯承之、皆是好酒。﹂ ︵票翁 辛夷樹を斬り、杯. ﹁雲翁﹂は、﹃太平御覧h巻九百六十に引く﹃神仙伝﹄に、﹁雲. を以て之を承くるに、皆な是れ好酒なり。︶ という、さいかち. 成通 ︵八六〇∼八七三︶年間の人であり、科挙に合格せず、各. けが残っている。. 地を放浪したことがわかっている程度である。詩もこの一篇だ. 種黍着日烏. 雲翁耕扶桑. 手ら接る六十 花甲の子. 黍を種えて日烏を養う. 要論 扶桑を耕し. の老境を迎えても、酒を飲んで悠々と過ごすことを言うのであ. は黄帝の時の医師、﹁桂父﹂は伝説中の仙人。一倍は、六十歳. 余故になっていて、再び官に就くことができなかった。﹁桐君﹂. 前浜の鳩唐は、武帝の時に賢良に挙げられようとしたが、九十. の木︵果実︶から酒を得た仙人であろ、つ。﹁日烏﹂は太陽の異名。. 飢魂弔骨吟古書. 有翁臨鏡持白布. 人生 雲の如くして須爽に在り. 鳩唐 八十にして高車無し. 飢魂 弔骨にして古書を吟ず. 翁有り鏡に臨んで白布を持づ. らんや. は万里、号ほ虚谷の﹁湧金門城望五首﹂ ︵﹃桐江続集﹄巻一〇︶. を引いておこう。﹁虚翁湧金門城望五詩﹂とは、元の万国、字. 門城望五詩額以写幽居之興﹂ ︵¶野趣有声画卜巻下︶ の冒頭の詩. から元の初期にかけての人、楊公達、字は叔明の﹁借虚翁湧金. た魚の動きが落ち若くことを言うのだろうか。. ろうが、﹁菖珊﹂ の句は、菖蒲の花が開いて、周囲を泳いでい. て寸かまつ. 手指六十花甲子. 長縄もて日を繋ぐこと未だ是れ愚ならざ. 循環 落落として珠を弄するが如し. ︵7︶. 長縄整じ末是愚. 循環落落如弄珠. 鳩唐八十無高軒. 何すれぞ乃ち自ら八尺の躯を苦しめん. のこと。湧金門はもと呉越の杭州城の西門だった。南宋になっ. な. 人生如雲在相異. 衣を裂き酒に換え且く娯しみを為さん. て増築され、豊預門とも称した。. 数竿帽竹半池荷 数竿の惰竹 半池の荷. 唐詩に﹁花甲﹂はこの一例しか見えない。そこで、南宋末期. 何乃自苦八尺姫. 君に勧む朝に一瓢を飲み. ︵ヱ. 裂衣換酒且為娯. 夜に一壷を飲まんことを 杷天崩れて. しばら. 夜飲一壷. 勒君朝欽一瓢 杷天崩. 112.

(8) 密掩柴門少零過. まれ. 密に柴門を掩ざして客の過ぎること少な ねか. 筆底 画は能く李・郭を希うも. hり. 筆底画能希李郭. 一心の夜月 桐らかにして長に在り. と二しえ. 嚢中 詩は陰・何に似たるを欠く 両翼の秋霜 積むこと未だ多からず. あき. 喪中詩欠似陰何 一心夜月胴長在. 幸う席世 兵曳の息むに逢わんこと. 花甲 明年 数を重ねて起こる こいねがや. 両軍秋霜積末多 花甲明年禿数起 辛逢塵世息兵曳 楊公遠が五十九歳の時に許いた詩である。ただし、彼の経歴 ははっきりしない。﹁初度 丙成﹂︵﹃野趣有声画﹄巻下︶に、﹁今. 朝六十従頭起、数到稀乍更有鎗﹂ ︵今朝 六十 頭より起つ、. るのであろう。. する例もある。. ﹁歳夜詠傾兼寄思幣﹂ ︵﹃自香山詩集﹄巻三九︶. このような用い方をするのは白居易の詩に始ま. 白居易よりも七歳年長で、宰相であった牛僧. 何人か六旬を得たる. なんぴと. 編く故交親を数うるに. あまね. の起聯では、次 のように詠じられる。 偶数放交親 何人得六旬 詩題の思腎は、. いうのは実感であっただろう。自居易が六十歳を迎えた大和五. 儒 ︵七七九∼八四七︶ のこと。六十歳を過ぎた友人は少ないと. 夜宴席上戯贈袈浦川﹂ ︵﹃自民長麿集卜巻三二こ でも、﹁六旬﹂. 年︵八三一︶の七月にほ元横が五十三蔵で没している。また、﹁春. の語を用いる。題・鋲聯を引こう。 六旬猶健亦天憐. 今年 相い遇う鴬花の月. 六旬にして猶お健なるも亦天憐. 九十不裏門︰ハ地仙九十にして衰えざるは市⋮ハの地仙. エ目 元二三年、一二八六︶ に六十歳であったことがわかる。これか. 今年相通弔花月. 此の夜 同に歓ぶ歌酒の延. 数の稀年に到るに更に錬り有り︶ と一言うから、﹁丙成﹂ ︵元の至. らすると生年は南宋の埋宗の宝慶∴年 ︵一二二七︶ ということ. 此夜同歓歌酒延. れた世の中。ここほ戦塵の漂う時代を特に指すのであろう。彼. 李暦と郭泰。﹁陰・何﹂は、陰理と何題。﹁塵世﹂は、席にまみ. うから、自店易よりも高齢であったことは確かである。. 注に、﹁兼年九十不束鼠。﹂ ︵襲は年九十にして東萩せず。︶と言. 〇︶ には、消州刺史だった。生没年未詳。ただし、第二句の自. 袈治は、白居易が太子少侍であった開成年間 ︵八三六∼八四. と・も. になる。詩画に巧みで、終生仕えなかったらしい。﹁李・郭﹂は、. が五十九歳を迎えた前後には、元は日本や安南に対して出兵を. 星臨本命辰 星は本命の辰に臨む. と斗︶. 歳復当生次 歳は復た生次に当たり. があり、冒頭に、. 六十一歳、俗謂之元命、作詩自呪﹂詩︵﹃石湖居士詩集﹄巻二七︶. 宋代に入ると花成大 ︵一一二六∼二九三︶ に、﹁丙午新年. ▲n一. 繰り返しているから、世情は騒然としていたに違いない。文天 祥も至元十九年 ︵一二八二︶ 十二月に殺されている。末句の、 戦禍の終息を願う心情には切実なものがある。 五 ﹁六旬﹂ ﹁元命﹂﹁新甲﹂ これまで取り上げてきた詩のほかに、六十歳を﹁六旬﹂と称. 113. よ.

(9) 倉歴代詩選h巻四九こ があって、還暦を新甲と言っている。. た、明の沈周︵一四二七∼一五〇九︶には、﹁六十一歳白寿﹂︵1石. とあって、六十一歳を﹁元命﹂とも称したことが知られる。ま. 十二ハ十一歳に達した詩人たちの、平凡ではあっても切なる願. 誰もが健康で戦火のない時代を迎えること、このことこそが六. とを望み、楊公遠が﹁兵曳の息む﹂ ことを願っていたように、. 分の通釈を引いておく ︵一部改変︶。﹁五十歳になると衰え始. 1 全釈漢文大系﹃礼記﹄ ︵集英社、一九七六︶ から、この部. ︵注︶. 望であったことは確かである。 重ねて逢う丁未 新甲を開くに. その起・領聯に、 蒐逢丁未開新甲 なん. 六十年を過ぎて一年を増す や. 寿 足れ偶し来るも那ぞ必ずしも得ん. よわい. 過六十年増一年 寿是偶来那必得. めるので、日常の食物は壮年の者と異にし、六十歳では常に. 年をかけて棺を作り、七十歳には三月をかけて重要な衣服を. 肉類を備える。⋮⋮六十歳になると、死後の用意をして、一. 人於末節要求全 人は末節に於いて全きを要求す 二百九十八、隠逸伝によると、彼は長洲︵江蘇省蘇州市︶の八。. 君に返し、要事も衰麻の粟だけに服する。L. 故には親しく学業を一党けることはしない。七十歳には官位を. 役を除かれる。⋮⋮ 五十歳には爵を受けて大夫となり、六十. つえを突く。⋮⋮五十歳になると夫役を免れ、六十歳には軍. でつえを突き、七十歳は国中でつえを突き、八十栽は朝廷で. 作る。⋮⋮ 五十歳の者は家の中でつえを突き、六十歳は郷内. と言う。丁未は、憲宗の成化二十三年 ︵一四八七︶。﹃明史﹄巻 しばしば仕官を求められたが一生仕えず、母への孝養を尽くす ために遠出をしなかったという。 終わりに 少なくとも中国においては、還暦の語が用いられた詩は見出 すことができなかった。これまでに見てきた詩においても、詩. の誅の﹁耳順﹂ の注に、﹁下太后於光和五年年二十、至大和. 四年死、計生年為六十九歳。故日給。﹂と言う。しかし、彼. 2 趨幼文盲口相集校注L ︵人民文学出版社、一九八四︶ はこ. 女が延再三年に生まれたことは、﹃貌志﹄巻五、武宣下皇后. ことに、より強い関心を寄せていたように見受けられる。自慰 易のように、若いころの﹁愛貪﹂﹁声利﹂にとらわれる境地を. 伝に引く ﹃親書L に見えている。¶曹植集校注﹄ には誤解が. 人たちの多くは、六十一歳よりも、六十歳という年齢に達した. かどうかは、個人差があるであろう。しかし、自辟易が言って. 脱し、六十歳になって﹁惜淡﹂﹁清浄﹂ の境地に安然とできる. あるだろう。. 3 例えば、時代は下るが徐負﹁自詠十韻﹂ ︵﹃全唐詩﹄巻七一. いたように、健康で六十歳に到達できること、それ自体が憤倖 とも言えることは確かである。玄宗が﹁万人の康らかなる﹂こ. 1】4. も.

(10) 一︶ の末聯にも、﹁如今便死還甘分、莫吏嫌他白髪生﹂ ︵如今いま. る莫かれ︶ とある。. 便ち死するも還た分に甘んぜん、更に白髪の生ずるを嫌他す. 自屏易﹁花前有感、兼=玉堤相公劉郎中﹂ ︵﹃自民長慶集h巻. 二五、﹃全唐詩﹄巻四四八︶ の末聯に、﹁何事同生壬子歳、老 於攫相及劉郎﹂ ︵何事ぞ同に王子の歳に生まれ、荏相及び劉. 8. ﹃唐披言﹄は、﹁雲﹂を﹁埴﹂ に作る。. ﹃唐祝言﹄は、﹁自﹂を﹁騎﹂ に作る。. ﹃唐嘩﹂=﹄は、﹁勝﹂を﹁欺﹂ に作る。. ﹃唐振﹁〓﹄は、﹁菓非尭﹂を﹁紆非舜﹂に作る。. 1. q、. 1. 0. 1. 二二八︶ とし、﹃全宋詩﹄巻三五二三は一二二七年とする。. 12 彼の生年を、﹃四庫全苦総目し巻一六六は理宗の紹定元年︵一. しているが、この干支には若干の誤りが含まれている結果と. 彼には話題に干支を含むものがあって、自身の年齢にも言及. と言う。﹃明史﹄本伝に、﹁文幕左氏、詩擬白朋易・蘇拭・陸. から是れ田間 快活の民、太平に生長して六たび旬を程たり︶. があり、起聯に﹁自足田間快活民、太平生長六経旬﹂ ︵自ず. 13 このほか、明の沈周には ﹁六旬白帆﹂ ︵﹃石田詩選.コ巻六︶. してこのような誤差が生じたものであろう。. 郎より老いたり︶ の句があり、自注に、﹁余与笹劉年同、独. ﹁壬子﹂は、代宗の大磨七年 ︵七七二︶。. 早衰白。﹂ ︵余 程割と年同しきに、独り早に裏白。︶ と言う。. 彼の別聖を詠じた詩には、他にも﹁所要節堂L ︵﹃徐正字詩 賦﹄巻二、﹃仝糖詩﹄巻七〇九︶、﹁節亭﹂ ︵同上︶ があり、前. 者の起聯には、﹁努竹誅節就水浜、静中還得保天真L ︵竹を如 かやのぞ り節を誅いて水浜に就く、静中 還た天真を保つを得ん︶ と 言い、後者の起聯には、﹁鴛瓦虹梁計己疏、織茅編什称貧居﹂. 涯、字伐黄庭堅、並為世所受領。﹂ ︵文は左氏を韓し、詩ほ白 なら 居易・蘇拭・陸肪に擬し、字は貴地堅に伐い、並びに世の餐. のも、白居易に倣ったものかもしれない。. 重する所と為る。︶ と言うから、六旬を﹂ハ○歳の意で用いる. ■︵ノと. ︵鴛瓦と虹梁は計已に疏し、茅を織り竹を編みて貧居と称す︶ て広壮なものではなかったろう。. と言っている。謙遜の辞ではあっても、彼の住まいは 決し この詩について節宝章﹃庚信選集﹂ ︵中州膏画社、一九八 三︶ は、﹁知此詩当作干六十蔵前後。⋮⋮康信在遣首詩中抒 発了自己住在郊外的一些感一党和対干友情的渦幕。﹂と言って 出典と考えられる、王定保﹃唐掟一﹂U﹄巻一〇に引くこの旬. いる。 には、﹁花﹂の字がない。﹃臍詩紀や﹄巻六六、及び﹃全唐詩﹄ に従ったが、﹃唐放言虹 が原型かもしれない。. 115.

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