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経済的諸変化

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Academic year: 2022

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(1)97. 鳥. ーアメリカ経済吏学界最近の動向に関連して1. 南北戦争期の 経済的諸変化. 一︑序. 二︑アメリカ経済発展におげる一八三九−一八七九年の意義 三︑輸 送 ・ 通 信 機 関 の 発 達 と 市 場 の 拡 大 四︑工業発展における技術と労働. 五︑外国投資と国内金融機構の発達. 語. 六︑経済発展における政庵の役割 七︑結. 羽. 欽. 応も︑種々の形で現れてきている︒アメリカ経済史学界においても︑既に︑トーマス・コクラソによる﹁南北戦争が. 昨年︑南北戦争百周年を記念して︑各種の行事がアメリカで催されたが︑これに対するアカデ︑︑︑ヅクた側からの反. 良贋. アメリカエ業化に与えた影響﹂についての論文︑ラルフ・アソドレアーノがまとめた︑南北戦争の経済的意義に関す 到 る歴史的諸見解についての資料築たどが出版され︑また最も権威ある研究としては︑南北戦争百周年委員会 く〇一く昌. 749. 序.

(2) 98. 考彗9葦彗己巴Oo冒ま色昌﹀の監韓の下に︑一連の︿巨冒9寄まω﹀が出版を計画されている︒. ︿>昌邑o彗. このような事情の下で︑昨一九六四年三月︑デラウェア州ゲイソスヴィル所在の雪窒亭宰一彗く⁝吻由墨一︷勺昌・. 邑註竃が主催して︑二八五〇−七三年におげる経済制度上の変化︑及び南北戦争が与えた影響﹂. 寒昌o巨o−易豪;o富一9彗撃畠81冨員彗o↓ぎH旨寝9o=ぎΩ茎峯與﹃vと題する会議が行われ︑この主題に関. 心の深い経済史家・経済学老・歴史家を中心に︑農業史・政治史・経営史・金融史などの専門家七十四人が会合して 割 討論を行った︒. 会議の目的は︑﹁南北戦争中停滞を示した経済成長率が︑戦後急に高まったという事情から考慮して︑何らか重要. o. o. o. o. o. o. o. o. o. な経済制度上の変化が︑南北戦争中に生じたのではなかろうか﹂という仮定の下に︑特に最近アメリカで発展してい. るく計量経済学的V立場からではなく︑伝統的た経済史的立場から︑量的ではなく質的た考察を加えようとしたも. のであった︒従って会議の構成も︑経済制度上の変化にフォーカシングし得るように配慮され︑﹁南北戦争前後の国. 民経済﹂と題するジ亘ージ・テイラーの基調講演に続いて︑金融制度・投資機構・市場組織・政府−企業関係の型態. ・科学と技術・生産及び分配制度という六つのテーマが︑それぞれの報告者に割り当てられ︑ハロルド・ウイリアム 4﹈ ソソの司会・総括の下に︑コメソ一トとディスカヅショソが行われた︒. この会議が我々の関心を惹くのは︑特に次の二つの点である︒第一には︑一八五〇年から一八七三年という︑アメ. リカ経済史で従来最もニグレクトされていた時期にスポットをあてたことである︒この淳.期の経済史研究は︑最近十 5︺ 九世紀に関して発展を示している計量経済学的な接近を別にすれぱ︑伝統的た経済史研究の分野では︑最も立遅れた. 都門に属し︑漢かに︑大西洋沿海大都市商業資本の西部諾企業への賢本移動として︑経営史家が問題としている程度. である︒第二には︑計量経済学的な問題接近を可能な限り避げて︑経済制度上の変化に焦点を合わせようという努力. 750.

(3) 99. を払っている点である︒確に︑アメリカ経済史家が経済構造乃至経済制度に寄せた関心は従来比較的薄く︑殆んど経. 済成長論の立場でカヴァーしてきたように思われる︒従って︑この会議が︑成長論的研究に対する批判として︑伝統. 的経済史研究からする制度的乃至構造的研究への接近と考えられる限り︑特に構造的視角を重視する我国経済史研究 老にとって︑興味深いものといわねぱならない︒. ところで︑一八五〇−一八七三年という南北戦争をはさむ十九世紀中葉の時期は︑とりわげ︑我国の経済史家の関. 心を惹く時期である︒従来︑十九世紀前半には産業革命を︑十九世紀後半には独占資本の成立と発展をテーマとした. 研究が︑それぞれ独自に行われてきた煩向のある我国アメリカ経済史研究においては︑この二つの経済事象を達結す る十九世紀中葉の研究が︑緊急に要請されていたからである︒. 従って︑この小論では︑アメリカのみたらず我国のアメリカ経済史研究にとっても︑誠に時宜を得たというべきこ. ︵竃涼9ωω川勺O−<︸二〇︸目涼↓oユo国−肉oく−o峯−×−く自一.. の会議の討論を中心に︑南北戦争をはさむこの十九世紀中葉の時期をどう考えるべきか︑またどのように接近すべき であろうかといった点を︑考察することとしよう︒ ↓︸o昌印ωρOooゴH顯PU︸座け巨①O−く自幸画H肉oけ団H匡oo−目o目ω片ユ巴ざ印饒o目〜. この会議の成果は︑最近出版されて其の内容を釦ることが出来る︒. 向8書昌ざO︸竃鷺ぎまoΩく−幸彗卑印・軍oo?. 肉巴七ブ>目匝﹃o鵯目9ω匝11↓プ⑭向oo昌o目饒oHH口七凹o叶O︷叶ゴ①>冒①ユo国50−く=峯団﹃︵O印Hp一﹈ユO藺q9宝與血㎝1−−o①oo.︶. ω①冨.岩2.︶. 川証mH. ②. ⑧. ①φ甘目胴ωo︷鵯Oo目︷0H0目ooo目>昌oユo印目向oo目2自ざH目ω片岸目弍o目巴oケ団目胸9−oo㎝o−Hooべ仰顯目匝けブΦH冒O與oけo︷けブ①O−く自 考国■. ↓ぎZ與ユo畠−目8竃昌㌣■①︷畠o彗O>津實亭⑦Ωく−峯顯﹃︵Qoo轟①界↓ξ−實︶. 冒o巨竃彗争H甲崖L塞牟向2け&ξU彗己■9ざ孝一硯け俸幸.U彗己5ぎω︵ヨ昌一まユ彗峯⁝血由晶−毫句o⁝註工o〜. 会議の内蓉は以下の通りである︒. Ω轟竃く⁝9U9印峯彗①一お31︶. ω. 51. フ.

(4) 100. Oo目一目﹈①﹃9巴︸印自−ユ目胸︵ωりo顯斤⑦■勾oげ①﹃け勺1ω︸凹﹃岸oさOo目−員5目け顯けo■勺﹃津N内o庄=oげ︶勺o﹃9血q目H目く①9員δ目け−目>昌−oユoφ目. 向箏けo﹃oユωo︵由凹﹃﹃︸曽.︸ぎ﹃o9く︷箏oo昌け︸.O団﹃﹃o血血o︶弓︸oH目叶o﹃昌印武o目巴峯印巳︷oけ︷oH>①qユo目斥昌H巴Oo−自員δα甘ユogHoo蜆01. 富轟︵冬Oユ昌射Oま黒Oぎ峯昌=饅冒字勺胃一︷彗︶ΩO毒;昌彗芹・︸嘉ぎ塞蜆勾巴算一〇鶉︵−OF豪︸彗員U彗包−里凹籟實︶. ωo庁目oo凹冒匹↓oo︸昌〇一〇田q︸︵>.葭一﹄冒箒﹃U巨o﹃①9勾〇一︺o篶困.団H目o①︶↓すoO﹃藺q印己N凹ユo目o︷﹈≦団目目片印〇一目ユ目oq顯目o↓H凹目吻ooけ・. 冨ユ呂︵≧守&ヲo冒彗2①5旨.一>﹃︸彗竃.旨ぱ易o目︶oo冒昌昌彗︸︵雷胃o5﹃ミ⁝討昌伽昌︶. 川目. 一ブ①. 2ぎ〇一〇①■けサ. O①目ゴ﹄H㌣. ︵Z葭まo目巴. ︸一﹄﹃o印昌. o︷. 目oo■o目己o内o血o凹﹃oプ. ⑤ たとえぱ︑Uo自oq冨窃之o篶F↓すo向8目o昌ざΩ﹃o峯まo︷;oC目津ooω訂箒9ミΦoムoo①o︵向目oo−oミoo︷Ω豪9Z一−一一 一㊤①−.︶弓﹃o目創ω⁝目吋サ何>目一〇ユo顯■国oo目o昌︸. ω言2窪ぎ冒8昌①竃o峯o與犀戸<o−・×曽メ冒ぎogoξH8o・︶所収のゲィルマンの論文︑射〇一︺①ヰ向・oき昌彗一〇〇g昌o・. 2︷O昌号鼻ぎ事而弓己冨庄ω3け鶉やクズネッツの論文リ目o自肉昌N箏99−o目帽↓竃目O︸回目血膏窪ぎ亭oZ頸ユo目巴−目8昌①. アメリカ経済発展における一八三九−一八七九年の意義. g亭①o目ぎ①oω冨叶塞o︷>昌oユo與ωぎ8Hooべoたどo. ニ. 十九世紀を通じてのアメリカ経済発展を︑経済成長率という視点から考察すると︑一時的に成長率が後退乃至停滞. し︑それに続く時期の急激な躍進を準備した二回の時期を指摘することができる︒即ち︑一八〇九−一八三九年と︑ 一八五九−一八六九年である︒. 植民地時代から十九世紀を通じてのアメリカ経済成長率を計算したレイモソド・ゴールドスミスは︑統計的資料利用. 可能な一八三九i一九五九年におげ成長率は概算して︑年平均1・%%︑これに対して︑一七六〇1一八三九年は%%. に過ぎなかったと推定している︒従って︑一八三九年を境界とする大きな落差の存在がまず指摘される︒次に︑一八. 三九年以前の経済成長率を更に詳頬に検討したジヨージ・テイラiは︑ゴールドス︑ミスの%%が正しいとしても︑其処. フ52.

(5) には大きた波動のあることを指摘し︑一七一〇年までは成長率は比較的緩慢であったが︑一七一〇1一七七五年の間. に可成急遠た成長がみられ︵恐らく1%或いはそれ以上︶︑一七七01一七七四年には可成の生活水準を植民地住民は享. 受していたものと考えている︒ついで︑一七七五−一七九〇年の独立戦争とコソフェデレーシヨソ時代に生産性は低. 下を示し︑一七九〇1一八〇七年には再び大幅な回復がみられたが︑出港停止令・第二次対英戦争の勃発に始る一八. 〇七−一八三六年の問には︑再び低落と停滞を示し︑漸く一八三六−一八四〇年に至って︑一七七〇−一七七四年︑一 到 七九九−一八〇四年のレベル或いはそれを凌駕する状態に迄回復したと述べている︒この一八四〇年の経済生活水準. 4︺. が可成り高度のものであったことは︑テイラーが︑﹁明らかにフラソスを凌駕し︑イギリスにもそれ程劣るものでは 割 たかっ臼と述べ︑またロバート・ゲィルマソが︑﹁一八三八年の合衆国は︑今口﹈の経済水準から考えても︑決して. 貧しい国ではなかっね﹂と考え︑若し︑ゴールドスミスの推計が正しけれぱ︑当時のドルの購買力で一人当り国民所 副 得四〇〇ドルという数字は︑今日のアジア・アフリカ・南アメリカ諸国の生活水準を抜くものであったと云えよう︒. 右の検討で︑概ね出港停止令の時期から十九世紀三十年代の中葉乃至末期まで︑可成り長期にわたる経済的沈滞が. あり︑三十年代末期に至って︑ロストウの云うくテイク・オフVと考えられる急激た経済成長の開始がみられたこと. が指摘される︒ゲィルマソによれば︑﹁南北戦争前の成長率は高かった︒特に一八五九年におげる工業化の水準は目. 覚しいものがあった︒一体何時から︑このような急激な成長が始ったか不明であるが︑⁝⁝一八〇九年から一八三九. 代中薬にかけての時期が︑ト﹂うしたスパートの開始点のように考えられるが︑それは︑この時期に︑新らしい工業や 副 生産物の著るしい発展が顕著にみられたからであ刷Lと云っている︒この時期に関Lてはテイラーも︑ ﹁恐らく一八 7︺ 四〇年の少し前︑多分一八三〇年代に︑アメリカ経済の国民一人当りの生産性が︑急速た上昇傾向を辿り始めた﹂と. 753. 年に至る成長率は︑共れ以後の時期に比較﹂てより低位であった事は間違いない︒−−・一八三〇年代中葉から四〇年. 101.

(6) 102. 述べている︒. 以上で︑一八三〇年代の或る時点から︑ロストウのいう︿テイク・オフ﹀と考えられる経済的な︿スパート﹀が開. 一八三. 始され︑一八五九年にその頂点に達するという事情が概ね諒解されると思うが︑ついで南戦北争の期間はどのようで. あったであろうか︒ゲィルマソは続いて︑﹁南北戦争を含む十年間の経済成長率が低かったとは考えないが︑. 九−一八五九年のそれが一八五九−一八六九年に比較して一層高かったこと︑又︑一八六九年以後数十年間の成長率 がより高かったことは事実である﹂と述べている︒. ところで︑冒頭に述べた二つの時期︑邸ち一八〇九−一八三九年と一八五九−一八六九年が︑それに続く経済的発. 展のためのく準備期Vであったという点は︑少くとも︑一八〇九−一八三九年の時期が︑特にニュー・イソグラソド. 一八三九年以降急激な工業の勃興・市場向大量生産の開始がみられ︑南北. を中心に勃興した産業革命を含む時期であったことを考え合わせると︑十分納得のゆくものと云いうるであろう︒事 実︑ゲィルマソも指摘しているように︑. 戦争の直前まで成長率の大幅な躍進が進行するのである︒その間に︑従来我国で指摘されて来たように︑産業革命. ︵少くとも消費資料生産都門におげる︶の完了︑産業資本の確立・商業資本の退嬰化という︑経済構造上の質的転換がみ られたことは云うまでもない︒. では︑一八五九−一八六九年の時期はどのように考えるべきであろうか︒南北戦争を含むこの時期に経済成長率が. 減退乃至停滞し︑続く時期に再びスバートと考えられる高い成長率を示したという事情から︑果して一八〇九−一八. 三九年と同様のく準備期Vと呼びうるのであろうか︒また︑それに続く時期に一八三九−五九年にみられたよう在経 済構造乃至制度上の変化を惹き起したであろうか︒. 従来アメリカにおけるこの蒔期に対する評価は︑南北戦争という十九世紀最大の政治的事象に把われすぎたようで. 754.

(7) ユ. 03. ある︒伝統的な解釈では︑フォソ・ホルスト或いはチャニソグげ﹂みられるように︑﹁国民諸力の統合﹂乃至﹁全アメ. リカ合衆国の統こといった理念的なものであるか︑或いは︑ビアード学派の主張した︑﹁産業資本主義を南部農業. 文化から解放した︑第二のアメリカ革命﹂という︑産業資本の勝利を印象づげる解釈が一般的であつたと云えよう︒. したがって︑我国のアメリカ経済史研究老も︑安易にこの時期を取り扱い︑﹁奴隷主支配から解放された若き産業資. 本が︑躍々と発展を開始する﹂時期と考え︑それ以上進んで︑この時期におげる経済制度的変化の意味を吟味せずに 過してきたように思われる︒. では︑この一八五九−一八六九年という時期が︑アメリカ経済史上に持つ意味は如何なるものであろうか︒この蒔. 期に起った南北載争は︑何らか重要なイソパクトを経済制度上に及ぼしたのであろうか︒やや先走って︑この会議で. みられた限りでの今目のアメリカ経済史家の評価に触れるならぱ︑大部分の学者は︑南北戦争が︑アメリカの経済制. 度上の変化に大きな影響を与えたとは考えていないようである︒会議の結論でウイリアムソソは︑﹁全部の参加老が︑. 報告者の解釈を全面的に受入れたとは云えないまでも︑商業銀行制度を除くたらぼ︑南北戦争が経済制度上何らか重 割 要な変化を惹き起し︑或いは創出したとは認め難い︑というのが一般の見解のようである﹂と述べている︒この結論が. 承認されるならぱ︑我々はこの時期をどのように考えるべきであろうか︒十九世紀を通じて工業化の目覚しい発展を. −o川目け. 向oo目9自ざO昌自目ま津o9. 葭o印ユ冒σq9葭︷9oユo巴. −gω鶉眈:岩蜆9毫.ミ㌣富.. 画目O. Oo目も凹﹃凹饒くo. 肉国↓o㎜. o叶. 巾H0庄目o匡o目−. 勺H9. みたアメリカ経済の︑構造的な転換の時期をどこに求めるべきであろうか︒また︑南北戦争という︑産業資本の確立. 一q.ω.Oo目胴﹃om9. に重要な役割を果したと考えられてきたこの政治的事件を︑経済史の上でどう評価すべきなのであろうか︒ ︸証^叫. きgま貫彗ら︸ユ89o︒Φ亭o冒口目. ②Ω8おo戸↓睾一3>昌角一〇碧曽go邑o9暑暮雰片o葛冨含一>目穿亘o轟8︷㎏窃ξ︵旨⁝量一〇︷暮;o冒一〇. フ55.

(8) O−く昌. 峯胃 ︵向8目oヨざ. Uoく9oや. 756. 里goξくo−1×曽くzo.杜︶七.お ③ 冒ご一〇ートお ωw 肉oσo﹃け向.Ω巴−目−顯P肉ω=目印片oωo片>昌①ユo印目Z顯庄O昌巴勺﹃o匝目oけ目憂庄〇一︺o片oH〇一サo. oo−象冒 津 F ; 員 ︵ 雷 塞 ユ 旨 暢 ︶. −自o目け団目庄O目斥冒H巴O−団冒閑9−×︑−㊤①−︶Oラωo㊤−杜oH一. ㈲. 肉oげ0Hけ向・O與=−自団P向oo冒o昌ざOす印目帽①−目けチoO−く=峯胆﹃目HPラー㊦印. 輸送・通信機関の発達と市場の拡大. 雪與﹃o−O軍ミ︷昌ぎ自轟oPω一﹄旨昌曇﹃く︵向oo目o自己oOす胆目O目o−目一−oO享目ミ饅﹃目H︸︶〇一−ベト. o①o長o宛 . ↓ ξ − o 5 5 員 o . ︷ 杜 ω .. ωw. ω ⑧. 三. 十九世紀に生じた経済制度上の変革としては︑まず︑産業資本主義の確立に伴う︑工場生産の普及があげられる︒. チャソドラー.hはこれを次の如く述べている︒﹁驚くべき変革を齋らし︑経済制度上重要な革新を惹き起す起動力. 先づ国内市場に関してみれぼ︑あの産業革命の揺藍の地となったニュー・イソグラソドにおいてさえ︑一八四〇年ま. 命的た発展が必要であったが︑これはとりも直さず︑国内及び国外市場の形成が其の前提をたしたという︸﹂とである︒. チャソドラー.壮が指摘するように︑工場制度・会杜制度の普及のためには︑その起動力として運輸・通信機関の革. く新しい型態の出現を特にとりあげて︑南北戦争に先立つ十数年間に生じた︿輸送革命﹀の意義を強調したい﹂︒. 働力.資本.原料を管理.統制するための管理機構としての会杜制度の普及という︑この二つの重要な経済制度上全. たという事実であった︒⁝⁝私は︑第一には︑耐久財の大量生産を生ぜしめた工場制度の普及︑第二には︑大量の労. とたったのは︑鉄遣.電信.汽船という三つの運輸・通信機関が︑南北戦争に先立つ十数年聞に︑同時的に導入され. 104.

(9) では客自足的経済が揚棄できなか一た加︑この吉苔然経済冨一菱︒§§一の根強い存続姦力に馨し. くテイク・オフV期に移行させる前提として︑大都市の勃興︵員罫邑国凹︑一︒目︶.活灘た商業及び工業活動︵頸︒甘一く︒︒9. といった︑工業H農業の相互流通を促進する国内市場の形成が︑特にあの広大にして未開拓. 昌冒實o邑實φ一ま毒ま頸−彗葦ま霧︶・農業生産における地域的型態変化︵昌麸多ooぎ目胴︒一箏ま︒町・︒︒①・︑顯冨一︒凹一〇葭言︒︑目. o︷潟き⁝買巴昌昌巨︶. な処女地を開拓して経済発展が進行したアメリカにおいては必要であった︒それを果したのは︑去︑さに運輸.通信機 関であった︒. 他方︑アメリカ経済発展における国外市場の重要性は︑今更述べるまでもなかろう︒モートン.ロスシユタイソは. かかる事情を︑二八五〇−一九〇〇年の期間を通じて︑農業生産物は輸出価格の七三−八三%を占めた︒農産物輸. た・国際穀物市場に大規模に参加しえたという事情こそ︑︿>暮ま竃ΩOω肩τチ号O︷峯︒凹一けζの航海を背後から推進. した重要な要索であっ㌔﹂と述べ︑アメリカ農産物の海外市場が︑アメリカ経済発展に果した重要性を強調してい. る︒このような国外市場への進出を可能とLたのは︑云うまでもたく︑運輸・通信機関の発達ーとりわけ外航汽船の 大々的な採用である︒. 鉄道がアメリカ経済の拡大に与えた影響の重要性を︑まず経済拡張という面から︑次に建設噂業としての側面から︑ 4. 第三婁煙輸送力の担手という立場から強調したのは︑リーラソド・ジエソクスであっ島︑アメリカ経済発展に. 果した鉄道の役割を最も高く評価したのはロストウであろう︒ロストウはその︿テイク.オフ﹀概念の適用にあたっ. て鉄遣に決定的な役割を与え︑﹁鉄道こそ︑歴史的に考えて︑最も強力たくテイク.オフVの単一の起動力であった﹂. と述べ︑さらに︑﹁アメリカ合衆国こそ︑鉄道の影響が決定的た重要佳を果した国︑の中で︑筆頭の地位を占めた﹂と. 75フ. 出の急速な増大こそ・一八七〇年代の中葉までアメリカの貿易収支を有利な均衡収態におかLめた主要な要素であっ. 105.

(10) 106. 幅. している︒. ところで︑鉄道をはじめ電信・外航汽船といった革命的な運輸・通信機関の導入が︑大々的に行われたのは南北戦. 争に先立つ十二乃至一五年問︑とりわげ一八四七−一八五四年の七年問であウた︒二八四六年以後︑鉄遭.外航汽 刮 船・電信は一恰も一夜のうちに︑輸送・通信の標準的た手段となるに至っね﹂︒鉄遺は運河.馬車を急逮に時代遅れな. ものにした︒一八四〇年に三︑三二六哩の運河と二︑八一八哩の鉄遣は︑一八四九年には︑運河が僅か四〇〇哩しか. 増加L校かったのに対比して︑鉄道は四︑OOO哩も延長された︒続いて一八五〇年代には鉄遣ブームを惹き起し︑. さらに二二︑○○○哩が敷設された︒ともかく︑南北戦争勃発前夜までには︑︑︑︑シシヅピイ河以東の基本的な鉄道網. 海運の分野においても同様に︑南北戦争以前の十数年間に︑革命が進行していた︒特に︑大西洋の主要航路におい. は既に完成していたのである︒. て目覚しく︑有名たサミュエル・キュナードがリバプールHニユー・ヨーク問の定期航路を開設したのは一八四八年. 一月のことであり︑続いて多くの定期航路が開かれた︒ついで一八五〇年代には︑鋼鉄船とスクリユー推進式船舶の. 使用が増加し︑その大きさ・遼力・経済的効率が著しく増大した︒鋼鉄船の分野では依然としてイギリスが優越した. 地位を占めていたが︑アメリカの追随も目覚しく︑汽船の登録噸数は︑一八四七年の五︑六三一頗から一八六〇年に. は九七・二九六噸にと増大した︒海運の分野でも︑既に南北戦争以前に︑汽船はその経済的優位性を確立していたの である︒. 通信手段の分野においても︑事情はほぽ同様であった︒サ︑・・ユエル.モースが政府の援助の下に︑バルテイモア阯. オハイオ間に実験的な電信網を敷設したのは一八四四年であったが︑一八四七年までには︑早くもその商業的利用を. 可能とする技術的改良が完成していた︒電信絹の敷設はその利用価値から︑鉄道と手を携えて地域的に拡大された. フ58.

(11) が︑やがて鉄遭を追い抜き︑一八六〇年までには五万哩に達し︑南北戦争直前にぼ︑大西洋岸から太平洋山拝にわたる 通信網が完成していたのである︒. 右の如き輸送・通信手段の急激た革新が︑国内市場形成に果した役割は極めて大きかった︒﹁アメリカ史上の如何. なる時期と比較しても︑南北戦争勃発以前の十数年間以上に︑物資の移動が急激に増大した時期はなかったであろう﹂ 7︺. とチャンドラー・打は述べている洲︑かかる革新は︑ただ単に輸送量を増大させ︑輸送費を引下げ︑輸送日時を短縮. し︑輸送を確実・安定化させたぼかりではなかった︒商業取引を専門化させ︑大規模にして迅逮︑かつ遠距離の取引. を可能ならしめることにより︑国内市場を空問的にも時間的にも拡大したのである︒チャソドラー・hに依れぱ︑. ﹁鉄道は︑物資輸送のスピードと安定性を増加させたぼかりでなく︑全国到る処にく葦〇一①邑彗Vと︿邑竃一〇旨彗﹀の. 出現を促進した︒さらに︑従来消費財を販売していた︿色さ一〇窪夏﹀は︑他の商人のためにコ︑ミヅシ日一ソで働く代理. 業者たることをやめて︑自己の名前で売買するく盲事實Vとなることを選ぶに至った︒このようた変化の第一の理由. は︑商人が大量の物資をストックする危険を敢て引受けようとしなくなったからである︒若しストックが不足すれぱ. 地方需要の変動に応じて︑値段を自由に操作することができたからである︒こうしたことは︑コ︑︑︑ヅシヨソ.工ーヂ. ェントには不可能であった︒一方製造業老も︑コミッシ亘ソ・工ーヂェソトの倉庫や棚に数ヶ月も製品を寝かせて︑ 副 商品という形で資本を固定化するよりは︑商人に直売することを蓬かに歓迎した﹂のである︒. こうして︑鉄道・電信の発達は︑国内市場を地域的に拡大したばかりでたく︑商業敢引組織を革新することによ. り︑時間的にも市場を拡大した︒さらにまた︑鉄道自体が鉄鋼に対する巨大た市場を提供したことをつげ加えねぽな. らない︒一八四〇年代半ばまでは︑鉄道の鉄に対する需要は依然として小さかったが︑一八六〇年までには︑全国鉄. フ59. 直ちに電報を製造業老に送る︒そうすれぱ︑普通数日以内に鉄道で着荷した︒このような方法を商人が好んだのは︑. 107.

(12) 76C. 生産のκは鉄遭が吸収しており︑一八八○年に至ると︑合衆国の鋼生産の実に㌶は︑鉄遣レールに消費されていたの である︒. 右のようた運輸・通信機関の発展は︑国内市場形成のための︑いわぱ技術的前提ともいうべきものであった︒問題は︑. このような発展に伴って︑どのような形態で実質的た国内市場が形成されてくるかにかかっている︒ジ冒ージニアイ. ラーは︑経済成長の著るしい上昇を惹き起した︿スパート﹀は矢張り一八四〇年に開始されたとし︑その理由を︑人 刮 口増加と都市・農村間の人口分布の変化に求めてい刷︒まずこの時期のセソサスによれぽ︑一七九01一八四〇年の. 人口増加は一︑三〇〇万人︑一八四〇−一八六〇年の増加は一︑四〇〇万人であった︒前期五〇年に対して後期二〇. するに至ること︑第三に︑東部都市はますますその生産性を高め︑多くの人口を吸収している︸﹂と︑である︒こうして︑. 値を喪失すること︑第二に︑一八四〇年以後︑西都の農業生産が一般的市場性H経済性を獲得し︑多数の農民を誘引. 口分布上の変化は︑第一に︑一八四〇−一八六〇年の間に︑東部農村地帯はその農業生産力の隈界に達し︑経済的価. 東部の都市に於ける人口増加であった︑以上である︒云い換えるならば︑一八四〇年を境として大きな転換を示す人. 〇年までは︑西部の農民の生産力は経済成長に実質的に寄与しえなかった︒第三に︑経済成長に大きく作用したのは. 特にニュー・イソグラソド農村におげる植民の拡大は︑経済成長に寄与する処が少かった︒第二に︑少くとも一八四. このような一般的な人口分布の変化に加えて︑テイラーは次の点を指摘している︒第一に︑一八六〇年までの東都. り一︑〇五〇万人の中でも︑東部で農民とたったのは僅か二五〇万人で︑他の八○○万人は西部へ移住したのである︒. 至る次の二〇年間には事情が一変し︑一︑四〇〇万人の人口増のうち三五〇万人は都市に居住し︑農村に定住した残. ︵一︑一〇〇万人︶は農村に定住し︑そのうち半数は東部に半数は西部に入って農民となった︒Lかし︑一八六〇年に. 年問に借以上に増大したが︑さらに特筆すべきはその分布であつた︒即ち︑一八四〇年までは増大した人口の大部分. 108.

(13) 109. 一八四〇年を転期として︑東部農村からの農民の離脱︑都市及び西部農村への移動が活擾化するのである︒. 農民層の分解という過程が国内市場形成の重要な積粁とたることはよく知られているが︑アメリカのように︑十九. 世紀以降自然増と移民流入によって人口の急激な増加がみられたような国では︑この分解の過程も︑古くから植民さ. れた東部沼海地帯︑特にニュー・イソグラソドの如き地味の悪い地域に限定Lて考えた方がよいようである︒寧ろ︑. 経済的将来性を求めて︑或いは都市へ︑或いは西部へと新しい機会を求めて移動して行った︑あのアメリカ特有の. ︿西漸運動﹀が︑経済的合理性に基づく人口分布を形成L︑それぞれの生産性を高めると共に︑相互補足的に国内市 場を形成していったと考えるべきであろう︒. ニュー・イソグラソド内陵地帯の農村1−特に丘陵地帯の農村が︑・一八二〇年以降分解を開始し︑一八四〇年以降に ○ 血 は決定的に人口減少・廃村といつた事態を惹き起す事情は︑パブストの研究等で既に知られるところであるが︑こう. して離脱した農民は︑一部はニュー・イソグラソドの工業都市へ︑一部は西部へと流出していった︒かくして︑東部. 工業都市はこの時期に︑すぐれたクラフツマソを大量に受入れることになる︒一方︑外国からの移民の渡来は一八四. いま十年ごと. 四−一八五七年の問に急激に増大したが︑鉄道への投資が活緩となるのは一八四七年以後のことであり︑こうしたタ イムニフグが︑東部工業人口の急速な増大の一因であったことも指摘される︒. したがつて︑この時期︵一八二〇1一八六〇年︶の都市人口の増加率は︑アメリカ史上最高を示した︒. の増加率を示せば︑人口二︑五〇〇人以上の都市人口は︑一八二〇年と三〇年代六三%︑一八四〇年代九二.一%︑. 一八五〇年代七五・四%であった︒これら都市人口の増加が︑南部ニュー・イソグラソド︑ニュー.ヨーク︑ベンシ. ルバニア︑ニュー・ジャージーの六州で最も著るしかったことは︑一八三〇−一八六〇年の問の都市人口増五百万人. の半数以上が︑こ九ら六州に集中していたことでも示される︒しかしまた︑一八六〇年の十六都市のうち︑.二1.. フ61.

(14) 110. オルリンズ︑シンシナティ︑セソト・ルイス︑シカゴの四都市が︑東部以外のミシシヅピイ・ヴァレイに分布してい. たことは︑既に西部においても︑地方的市場圏が大きく成長を遂げていたことを示すものといえよう︒. このようた都市化現象︵冒ぎききg︶が︑地方的←全国的な市場形成に大きた役割を果したことは云うまでもた. い︒テイラーは︑﹁国内市場に関する限り︑この時期はいわぽ大きな拡張︵gg窒⁝筥答︶時代であつた︒運河・蒸汽. 船.鉄道は国内移住・国内商業を刺戟した︒アメリカは今やその広大な商業圏から︑始めて経済的果実を収獲しはじ. めたが︑それに伴って︑分立していた地方市場︵・畳o冨一昌彗斥6は巨大な国民市場︵畠ま冨二畠寿g︶に統合され. るに至った︒アメリカ農業・工業︑そして全経済は︑その規模の大きさから得られる利益を︑今やはじめて現実のも のとすることが可能となった﹂と述べている︒. 扱て︑以上の検討から︑アメリカ経済発展における市場形成という観点からみて︑一八二〇i一八六〇年︑特に全. 国的国民市場としては一八四〇−一八六〇年という時期が︑極めて重要な意義を有していたことが知られるであろ. う︒このことは︑既に南北戦争に先立つ時期に︑全国市場形成の原型ともいうべき基盤が成立していたことを示し︑. 経済構造として考えれぱ︑南北戦争が全国市場形成の原因ではなく︑寧ろ政治的た結果であったことを伝えている︒. テイラーは︑﹁ともかく︑ 一八四〇・五〇年代を通じてのアメリカ経済の躍進は目覚しいものがあった︒南北戦争と. いう事件が︑一時的にこの発展を抑止したか促進﹂たかは別として︑少くともこの僚向に基本的な影響を与えるもの. ≧守&貝Ω一彗2彗一−Hーヨ一①◎﹃電己墨戌冒良峯国旨巨碧9ユ轟彗庄弓轟目老o﹃冨ま9︵向8昌o邑oΩ−彗鵯ぎ亭oΩく一−. ω ではたかった﹂と述べている︒ 註ω. 奉害向墨1︶や−OOド. ②勺・オ.雲oミo戸肉膏巴厚o目9ξぎ之o考向長一彗o算片=①霧口o旨昌一屋o︷艘o髪篶一Φ彗艘o彗g︷︵宇竃窒〇一一昌o︷. ?62.

(15) 111. 副. ︷げ①. ︵︺o旨旨①o片︷oζけ>o国包①目一︸. o︷. >H片閉. 画目o. ︷oH. 一ΦHo.︶. >匝qユo昌斥巨﹃巴. ωo−o冒o①−<o−■N0七. ﹈≦o﹃けo目夷o叶サ黒9目−↓︸①−目﹃0H■国饒o目印−雪四﹃斥①け. ま①Ω色奉彗軍声︶やs.. 09旨冒o2江何9. Hoo蜆oi−oo﹃ω. 事■ミ一射ogo美−↓巨oωけ頸血qoωO︸向oo■o昌ざΩ−︑oミ;−︵O彗自げ﹃己OqgH㊤㊦9︶や蜆蜆・. 峯o﹂1 ︶ 暑 ﹂ − §. ︵向oo自o旨己o. Oブ凹目oq①. ⁝目. ω星竃φ声喜頁窒ξ︒邑霊彗向8昌冒ざ3§ぎぎ毒ζ箏じ葦ξ昌算︵喜⁝一亀冒昌;ざ雪§ぎミ・. ⑤. O︸顯昌雪oグー﹃. Oぎ印目邑o5−﹃ −匡ユ.−O.H杜H.. −げal−〇一−牡o.. ⑥ Oプ四箏2①㌘−﹃ H9︷ 勺一一〇〇〇〇一 ω ⑧. ⑨O婁潟↓呈暮︑ぎ麦沖一§;§書二多富き脾津①二ぎO茎妻二内8昌旨ざ9墓二目薫穿一一麦・ 向﹃印︶o句. −1〜.. 一一四㌣−o. −げ−邑.−b■〜−.. ︵﹁社会経済史学﹂二三巻三号︶参看O ︹ΨooHoq〇. 工業発展における技術と労働. カク・も︑A口衆国におけ. O︒=馨ωざ箒二目雪馨・フぎゲ資≦︶隻嘉稿﹁一九世紀初頭南部二.r.イングヲンド飽方における農村構逢﹂. ⑩婁嚢曇戸昏星>零一⁝胃§;§・三二まo昌嚢巨§く頸ξ雰魁︒:h婁馨9一冨価景曇o︑曇o︵蟹︑葦. ⑪. 四. アメリカにおげる工業化過程は︑労働稀少の状態の下で進行したと云われる︒. ノ、. ⑫Ω8おO弓芝睾L匡£01§. 般に︑. 763. (.

(16) 112. る生産技術の改良と機械化の急速な進展の原因を︑︿労働稀少﹀に帰しているdLかし︑労銀水準に関する最近の研 到 究では︑必ずしも労働稀少n高賃銀という状態が︑アメリカエ業の機械化を促進したとも云えないようである︒テイ. ラーは︑一八六〇年に先立つ二・三〇年間に︑非農業労働者の実質的賃銀が︑比較的緩慢た上昇Lか示さなかったこ. 労働力が一般的に豊富であったということは︑必ずしも︑或る一定時期に︑或る特定の工業部門で労働力の不足を. とから考慮して︑﹁労働稀少より寧ろ過剰が︑アメリカ産業革命を条件づげたと信ぜられる﹂︒しかしこれが︑﹁労働 副 能率の増大から生ずる経済的利益をも引下げたことにはならない﹂と述べている︒. みなかったということにはならない︒たとえぱ︑ヴエラ・シュラークマソは︑一八五六−一八六〇年にチコピー所在 4︺ の織物工場で︑著るしい婦人労働者欠乏の事情を明らかにしてお引︑またトーマス・ネイヴィソば︑ホリヨーク近傍 5︺ のホワイティソエ場で︑全く同じ頃何の苦労もなく熟練機械工を募集できたと述べている︒しかし︑一般的には︑訓. 練された職工や熟練機械工が不足し︑相当な費用を支払って︑イソグラソドやスコツトラソドから呼び寄せる必要の. あった事も事実である︒したがって︑労働力の︿質﹀の問題が︑量とは別にとりあげられるべきであろう︒. 外国生れの移民の中にも︑イソグラソドやスコヅトランドから渡来した訓練された職工や熟練機械エがみられたの. は事実であったが︑その数は少かった︒一八四〇i一八六〇年に渡来した大量の移民は︑その大部分がアイルラソド. ・ドイツ系農民であり︑教育も少く何ら機械工としての訓練も経ず︑工業的経験を有しなかった︒この限りで︑工業. 化における技術的発展に貢献しえたとは云えないが︑初期産業革命の段階では︑困難で変化のない︑童た体力消耗的. 移民の数は︑一八二三−一八三八年の問に純増︵到着移民と帰国移民の差二二二二︑○○○人であったが︑一八三八−. な肉体労働に︑このような大量の不熟練労働は不可欠であった︒. 一八六一年の間には一︑七七二︑OOO人に増大した︒この後期の人数は当時の人口総数の七.五%にあたり︑アメ. 764.

(17) 113. リカ移民史上最大の数であった︒また一八五〇−一八六〇年のアメリカ人口増加の%は︑移民によるものであった︒. 南北戦争以前には︑これらの移民の相対的に大きな割合が西部に移住したが︑東部の都市人口にも大きた影響を与え. た︒一八五九年のセソサスによれぱ︑二呈1・ヨ⁝タ州の人口の殆んどXは外国生れであり︑また移民が集中したニ. ュー・ヨーク︑フィラデルフィア︑ポストソ︑ボルティモアの四市には︑アメリカ合衆国全体に居住する外国生れ移 民の殆んど%が居住していたのである︒. 都市に集中した移民の生活状態について︑オスカー・ハソドリソはボストソの場合を︑次の如く述べている︒﹁移. 民達は仕事を競って求めたが︑求職老は常に過剰であった︒これらの時代を通じて︑失業は当時の経済制度に当然付 刮 随する結果であっね﹂︒こうした事情は︑ボストソのみならず他の東海岸の大都市に普遍的であったであろうL︑ま 引 たホリヨークの如き内陸工業都市においても︑スラムの形成といった状態が生じていたのである︒このようた事情が. 賃銀水準のレベルを引下げ︑勃興する諸工業に十分た不熟練労働力を供給して︑アメリカエ業発展に大きな刺戟を与 えるとともに︑生産力の急激な上昇の一因となったことは疑いないであろう︒. では︑あれほど伝説的に語られている︑アメリカの工業化の真の担手となったクラフツマソ︑メカニヅクスは︑一. 体何処から現われたのであろうか︒それについては︑移民労働老とは異質の労働力について述べる必要がある︒. 外国移民の到来が年々十万人を越えるに至った一八四五年以前においては︑都市人口の増加は主として︑自然増と. 農業生産性の減退に由来する丘陵農村からの流入に基づくものであった︒これらの農村の農民達は︑家計収入を補充. するため︑特に冬期には︑靴・織物・麦藁及びシュロの葉製の帽子二小タソたどをく間屋制家内工業Vとして営ん. でいたことはよく知られている︒ニュー・イソグラソドの丘陵農村では︑一八三〇年をピークとして人口減少が始っ. ているが︑同じ頃には︑工業発展によって家内工業もその限界に達し︑多数の農民が近傍の工業都市に向って移動を. 765.

(18) 114. 勧 開姶するのであ刷︒多くの若い撮女子が︑ローウェルやチコビーに出かげて紛織工となり︑多くの農村手工業者がニ. ュートソやビドフォードの機械作業場に入って行ったのはその事例であるが︑︸﹂うLた労働力が︑産業革命初期の段 階に重要た役割を果したことは疑いがない︒. これらニュー・イソグラソド内陸から移動した労働力を外国人移民と区別する差異は︑まず教育があり生産技術に 釧 対する強い適応性を有したことであり︑ウォルサム型木綿工場の女子労働老はその輿型であった︒さらに︑これらの. 労働老は︑既に農村の作業場・鍛冶屋・製材所などで種々の訓練を経た︑大工・水車大工・機械工といった農民手工. 業者的性格が強かったことである︒ジ亘iジ・ギブが指摘しているように︑﹁彼等は︑不細工な木や鉄でつくった装. 置がつりあいよく動力を伝達するように︑水車をのせシャフトを掛げることができた︒⁝⁝また手製の道具で︑表面. を見事に平らにすることも出来た︒最初は外国生れの職人に学ぶことが多かったが︑直きに習熟すると︑イギリスの ○ 直 技術をアメリカの環境に巧みに適応させたのである﹂︒さらに彼らは︑マヅクリーラソドが述べているように︑強い. ︿目的達成の志向﹀︵g閑昌萱・篶o︷邑・雪o嚢巨︶を有し︑企業老としても工場労働者としても︑見問違うことのた. い一種の規律・節制・堅実性と︑目的達成の為の強い意志力を備へ︑これらを身につけて工業都市へと下ってきたの 担. である︒. 右の如き内陸移住民こそ︑多くの多国人移民が不熟練労働者として肉体的労働に従事したのと異り︑新興工業を担. ニュー・イングラソドの丘陵タ. う熟練機械工・職長・現場監督︑さらには企業家として︑ニュー・イソグラソドに展開した産業革命に︑多くの人材 を提供した源泉であった︒テイラーもこのような事情を︑﹁一八六〇年に至るまで︑. ウソや措導的た海港から移住したヤソキーは︑十九世紀中葉を特徴づげる急激な商業及び工業的発展に主導的な役割. を演じたのである︒文字通り︑動的で︑冒険的で︑簡易生活に甘んじ︑困難な仕事に耐へることのできた彼等は︑機. 766.

(19) 敏にして積極的た企業家の予備軍というべきであった︒ニュー・ヨークからサソ・フラソシスコに至る︑金融業から. ている︒. 以上︑南北戦争以前の十数年問に︑市場の面からも労働力の面からも︑工業化へのくスパートVの条件は十分に整. っていたと考えられるが︑このようた事情に応ずる工業技術の導入・その大量生産への適用という面では︑どのよう. であったろうか︒工場制度の普及という点に関して︑チャソドラー・hは次の如く述べている︒﹁作業の機械化:水. 続的な労働力の雇傭・専門化された分業などを伴う工場制度の広汎恋成立は︑一八六〇年代ではたく一八五〇年代に. 到来した︒一八三五年までは︑近代的工場と呼びうるのは織物工業とそれに付随した工業のみであり︑斧・鋤・鋸・. 銃身のようた生産の簡単た工業分野で︑漸く工場制度が始りかけたぼかりであった︒ところが︑一八六〇年までに︑ 割 工場制度は多くの工業都門に普及し︑特に耐久財の生産分野において目覚しい発達をみた﹂と︒. ところで︑このよう孜工場制生産の発展は︑合衆国で近代的生産方法の基礎となった二つ重要な工業技術︑即ちコ. iクスと石炭による鉄鋼生産と︑部品互換制度による消費財−特に耐久消費財−の大量生産の導入に依って可能とた. ったのであった︒この二つの技術とも︑アメリカでは既に一八○O年以前から知られていたのであるが︑実際に効果. 的に採用されるに至ったのは一八五〇年代のことであった︒それは︑少くとも一八四七年以後︑鉄道に対する急激た. 投資の増加がみられるまでは︑鉄鋼・耐久消費財とも︑需要の側からも供給の側からも︑大量生産に対する十分た刺 戟が存在したかったからである︒. 前に述べた如く︑一八四〇年代の半ぱまでは︑鉄に対する鉄道の需要は小さなものであったが︑一八六〇年までに. 76フ. 製造業・鉱山業・鉄道業に至る︑あらゆる地域あらゆる産業分野で︑この驚異的なダイナミヅクな時代の経済的機会 倒 を︑組織し︑指揮しそして経済的に実現してゆく企業的リーダーシヅプをとったのは︑まさに彼等であっね﹂と述べ. 115.

(20) 1⊥. 768. 全国鉄生産のμを消費するに至るのである︒鉄遣が鉄を需要する迄のアメリカ製鉄業は︑村落の鍛冶屋や町の職人の. 要求から︑少量だが品度の高い鍛鉄を製造していたが︑これには木炭が最も適する燃料であった︒木炭を使用する限. り︑熔鉱炉は木炭原料である森林地帯に立地し︑その規模も小さく︑鍛鉄・仕上工場は輸送に便利な地に離れて設げ. られた︒しかし︑鉄道が品度に構わず大量の鉄を需要するようになると︑コークスが木炭にとって代り︑さらに石炭. を使用する反射炉が用いられるに至った︒かくして︑銑鉄から鍛鉄へ︑鍛鉄から仕上に至るまで︑全行程が一貫して. 一ケ所で行われる製鉄所が︑一八四〇年代の半ばから一八五〇年代にかけて出現し︑忽ち︑合衆国最大の企業の一つ となるに至った︒最初はレールの生産が主であり︑ついで鉄線の製造が加わった︒. 一八四〇年代の半ぱ以降︑運輸・通信機関の発達が急遠に国内市場を拡大し︑商業取引を活掻化させるに至って︑. 始めて大量生産への刺戟が与えられることになった︒部品互換方式は︑既にエリ・ホイットニやシメオソ・ノースに. よって十九世紀初頭に考案され︑小火器の製造に応用されていた︒しかし一八四〇年代までは︑一般市場からの需要. の狭鑑性のために︑僅かに政府発注の拳銃・小銃製造に応用されたに過ぎなかった︒鉄道・蒸汽船の大々的導入が国. の意味でチャンドラー・hも指摘するように︑アメリカエ業における部晶互換方式の剰度的確立は︑﹁一八六〇年代. ・戴縫機滅といった精密機滅の分野から︑農業機械といった生産資料にまで導入きれていたことは重要であろう︒こ. 以前に︑この方式が単に靴製造・既製服製造といった消費資料分野だけではなく︑真録製置時計・腕時計・機械工具. 部品互換方式に基づく大量生産方法の確立は︑アメリカ生産技術の景大の貢献の一つであるが︑早くも南北戦争期. 採用されるに至った︒. ・小銃のみならず︑靴・衣服・時計・裁縫機械・蚊獲機・池の農業機械等の消費ならびに生産資料に︑始めて有効に. 内市場を急激に拡大した︑南北戦争に先立つ十二−十五年間に︑事情は一変し︑部品互換方式は軍用・一般用の拳銃. 16.

(21) 117. ではたく︑一八五〇年代に到来したLのであり︑決して南北戦争によって創出された需要の拡大を原因とするもので. はなかったのである︒﹁戦争がこの方式の採用を促進したことは疑いたいとしても︑戦争によって拡大された需要の 勾 ために︑古い生産方法の復活・存続がみられたのも事実であった﹂とチャソドラー・壮は指摘している︒. さらに︑工業化過程に重要な蒸気力の導入について触れよう︒アメリカ産業革命がウォルサム︑ローウニル等ニュ. ー・イソグラソドの内陸地帯に展開したことは人の知るところであるが︑その動力は水力であり︑従って河川の急流. を求めて︑これら綿業都市は出現した︒このローウェルにおいて︑一八四〇年代と五〇年代は︑動力に関するいわば. 技術革新の時代であった︒一八四五年までは︑蒸気力は水力の補充にすぎたかったが︑一八四五年以後紡績機が導入. され︑一八四四年までには三台の蒸気ターピソが水力を代置しはじめていた︒蒸気タービソは︑水車が七五%しか動. 力を利用しえたいのに対し︑八八%という高い効率を示した︒かくして︑ローウェルにおげる一八五〇−一八六〇年. は目覚しい技術革新の蒔代であり︑この十年問に︑ローウェルの木綿工場は恰も再建されたかと思わせるような変貌 胴. を遂げたのであった︒. アメリカ機械工業の確立が南北戦争以前の時期にみられたという他の一例として︑銃器・時計・裁縫機械工業等の. 事例があげられる︒これらの工業は︑その最初は多くヴァーモソトとかコネチカット籍谷地帯の小工業村落に始り︑. 時計の如く間屋制家内工業として発展したものも少くなかった︒中には都品互換割度を採用したものがあったにせ. よ︑一八四〇年代終りまでは︑その規模は分散した小作業場を越えるものではなかった︒ところが︑鉄道が敷設され. るに至って︑たとえぱハートフォードとかニュi・ヘヴソのような輸送の便利な場所に︑これらの小作業場が移動し. 国内市場・国外市場へ積極的に接触することにより︑近代的工場へと発展する事例が少くたかった︒銃器・時計・裁. 縫機械工業たどは海外市場を重要な発展基盤とLたのであり︑たとえぱニュー・ヘヴソに移動Lた時計製造業老のチ. %9.

(22) ηo. ︐.ウソシイ.ジェロームは︑ヨーロヅパ市場の積極的開拓に熟心であり︑木製の部品では航海中の湿気で傷みやすい. ため︑金属製時計工業を開始したのが︑早くも一八四〇年代のことであった︒部品互換方式によって生産された彼の 蝸 時計は︑その廉価さでイギリス税関を驚かせたのである︒他のよい事例は裁縫機械工業であり︑一八五〇年乃至一八. 五二年に最初の工場が設立されたこの工業は︑いち早く海外に販売代理店を置き︑製造業者が直売するという︑マー ケティング革新の先鞭をつげたことは薯名であろう︒. 以上︑輸送.通信手段の発達による国内・国外市場の形成︑内陸農村の分解と外国人移民の到来による労働力の形. 成︑さらに工業生産におげる近代的技術の確立等︑ロストウの︿テイク・オフ﹀のスパートが︑南北戦争の始る十数. 年以前に︑既に開始されていたことが︑種々の面から検討された︒では︑アメリカ経済における制度的変革は先づ一. 八五〇年頃に生じたとして︑それ以後の時期はどうであったのであろうか︒ジヨージ・テイラーは︑﹁一八六〇年代. は︑一八五〇年代にみられた経済的発展が︑続いて継続して行われた時期﹂であるとし︑アルフレヅド・チャンドラ. ー.hは︑﹁一八六〇年代は︑経済制度的なパターソは比較的安定して変化がたかった﹂と述べている︒Lかし︑一八. 七〇以降は大きな変化がみられるのであって︑ロバート・ゲィルマソは︑﹁一八七〇及び八○年代には︑大きな制度. 指摘するところのようである︒この一八七〇年代に始った制度的変革の原因としては︑一八五〇年代にスタートした. 一八七〇年代に至って︑新らしい経済発展へのスバートと共に︑制度的な変革がみられるというのが︑多くの学者の. いずれにせよ︑一八六〇年代はゆるやかな経済発展はみられたが制度的パターソにおいては安定して変化がなく︑. ている︒. 基本的た変化がみられた時期であり︑制度的変化としてぼ︑一八七〇年代に新らしいスパートが行われた﹂と指摘し. 的変化が生じた﹂と述べ︑またチャンドラー・江は︑﹁一八七〇・一八八○・一八九〇年代は︑それぞれ工業組織に. 118.

(23) ユ19. 大規模生産方法に起因する遇剰生産傾向が︑一八七〇年代に至って顕在化L︑価格下落H利潤率低下現象を惹き起し︑. こうした不況の波の中で︑従来経験されなかったような激烈な競争︑企業の連合・合同︑小企業の没落と大企業の制. 覇が進行しはじめ︑特に軽エ業から重工業への移行という︑一八五〇年代とは質的に異る経済構造への転換が進行し. てゆくのである︒このような転換を︿独占資本の形成﹀と呼ぶにせよ︑ロストウに従って︿成熟への前進−9ぎ8. 竃算⁝尋Vと呼ぶにせよ︑アメリカ経済に新らしい質的変化が生じたことは問違いない︒では︑このような一八七〇. 向oo目o昌︸. −目. 一げ①. ﹈Z−目①一〇〇目一︸. Oo目件目﹃︸︶. H㊤①〜︶bbl. 年以降のスパートを準備した︑一八六〇年代はどのような意義を担ったのであろうか︒経済制度に何らのイソバクト. >ヨoユo與目. 向目胴−凹目戸. をも与えなかったのであろうか︒我々はこの間題を︑さらに進んで別な角度から考察することにしよう︒. ︵↓﹃O目Oω山目け︸o. =・−匡凹σ印斤斥O斥1>昌o﹃ざ印目凹目oωH津赤す↓①oゴ目〇一〇胴︸︸目け−o﹈Z︷箏①片①o目↓ブOo胃ゴ﹄H︸︵O凹自一げH己①q9. ω↓団目−o㌣−oげo﹃胴o暮−幸與閑o↓H①目Oω −oooo−H㊤oo. sふω. ︸証州Ψ. ②. ︵ω−自津=OO=①⑰qo. ω↓自匡討吻. 山目昌涼一〇﹃き. <O−.. ××.. −りω㎝︶. ΩooH閑o↓︸︸−o5↓︐⑭Z凹庄o目饅−向oo目o昌くσ①︷o﹃o国目庄︸津①H↑=oO山く自峯印H︵向oo昌o員二〇〇−曇昌的o−目けげ①Oζ昌奉匝﹃向﹃與︶. o〇一杜トo−⑩oo.. ⑧. p易1 ︒Ho奏箏. H④トー.︶P㊤ド. ↓すO目5ω勾1﹈Z胆く⁝目1↓サo奉ブ弐︸目﹈≦串oげ⁝目①幸O﹃斥ω色目ooHooω−︵O印胃1一︺ユ匝Oq9竃凹伽ω二H㊤蜆9︶や︸ω1. o〇一崖?8一. ω一 <o﹃印ωす−印斤ヨロ與目︑ boo目o−自ざ 葭−黒oH︸ o︷ 印 勾與oけo﹃︸. ⑤. Oωo団H雪団目昌⁝戸︸ogo目ω︑H彗旨厨﹃印箏け9−べΦo−−oo①蜆︵O印昌げ﹃ぎ㈱9旨国ωω. ωρ雪.9g員匡o気算9竃與血墨oぎ詔豪︵ま−Φo邑きHω茸軍窪㎝し竃↑︶℃.旨ω一之竃昌彗オ彗oL己毒ま印一−きo⁝一. ⑥. 岩黛一. 刀ヨ.

(24) 120. ⑧昌胃容曇内﹄き呉>鵯一εぎ冨一箏彗穿弐まoOo⁝8ま鼻ぎ昌睾勾畳o自艮量婁碧ぎ馨亘富8−岩8︵ω昌葦 Oo昌o鷺ωε2霧ぎ雪9﹃宇<0F××≦一乞o﹂−戸岩トo−誉.︶. 〇〇〇﹃Oqoω一〇−σF↓す①ω印oo−■oミo=ωチoもω︵O凹目5H弐胴9﹈≦団伽眈1−−⑩︸〇一︶OP−oIH戸Hベベ一. 霊昌葦−o器昌8poo巨彗↓巨H塞ま一z署要阻彗匝量昌Ω一ま彗︷峯嵩畠言ω一. 一ω一. U與く−o〇一竃oO−o昌與昌O︑オす①>oチ庁く︸冒⑰目ωog〇一㌣︵勺ユ目ooけoPH㊤①H一︶. 岩亀一. ⑨<①冨ω巨芽冒彗し巨ξ勺.③H. ^螂. ⑫08長O↓ξ−05量♀O﹂㊤.. ⑱≧淳&9彗皇3﹄﹃二弓ぎo轟彗守峯go︷峯嘗目︷碧言ユ長昌創享彗名o津與ま目︵肉8昌邑ooξ長o巨亭oΩき. >罵﹃oOO−印目2①■−H.一−び︷O.1軍H蜆〇一. オ彗宰卵.︶りL鼻 ω一. き甲おト 射目色目oωω. ︷o﹃. け巨o. >−ωOω蜆9くざ一〇Hω一〇−里ニゴ. Oす讐﹄目o㌣−oHo自一9匡げ↓o﹃㌣o︷己一〇>自−oユo印冒O−oo斥. O09需9−8㌣富8一<〇一L一毫. 冒oO目9自ざ目涼po﹃く<o−一××一之O.ド︶弓.NN9. 勺頸ω一. くo顯﹃9. o昌o. C目﹂け①庄. o︷ O巨団目目o︸. −箏↓プo. −罵o. 呂印目冒︷凹oR目﹃o閉. ω−宍甘︸. 籟山90﹃くO片. ㈲雰ま凹轟く簑雪L邑豪一H邑寄胃o乏長耳亭o茅峯塁阻彗匹↓要昌o;昌9−o︒き−嵩8>o昌⁝彗けー︵−o⁝冨一良. ⑯. −撃o冒o︵茅考︸睾打轟8.︶一集&ぎ肉8;邑oo麦長二目亭oΩぎ一奉胃冒寧. 五 外国投資と国内金融機構の発達. 工業化の過程で︑資本の調達が重要な意義を有することは云うまでもないが︑十九世紀中葉における資本調達機構. はどのようであったのであろうか︒十九世紀初頭からせいぜい三〇年代までの工業企業の勃興期には︑最も重要な資. 772.

(25) 121. 金調達の源泉は︑個人の蓄積であれ︑血縁者・友人からの出資であれ︑個人的た関係に由来するものが殆んどであっ. た︒特に初期工場からの拡大には︑利潤の再投資が発展のための重要な積秤となったことは屡々説かれるところであ 刷︒. 工業企業の経営が軌道に乗り出した三〇年・四〇年代には︑個人の投資であれ商人の投資であれ︑地方的資本の投. 入が可成り広汎な規模で行はれ︑工業化の進行を促進した︒ウォルサム型木綿工業のような大企業に︑ボストソ商業. 資本が大きな役割を果したことは︑よく知られるところである︒一八〇九−一八三九年の商業的不況期に︑ボストソ︑. ニュー・ベドフォード︑プロヴィデソスの如きニュー・イソグラソド海港商業資本や︑ニュー・ヨーク︑ボルティ毛. ア︑フィラデルフィアなど大商業都市の資本が︑土地・運河・道路・鉄道・石油・製鉄・製銅・鉱山等の諸企業に続. 々投下され︑レドリッヒも指摘するように︑﹁一八四〇年代までは︑経済活動の主導的地位を占めたのは商人であっ た﹂のである︒. しかし︑一八五〇年代以降になると︑信用機構の制度化が進行し︑資本を必要とする企業家は︑かっての如く商人. に頼らず︑金融機関にその供給を仰ぐに至った︒金融機関は国内の資本を企業に供給したぽかりでなく︑海外からの. 投資を媒介し︑さらに全国的投資市場の中心として︑ウォール・ストリートが出現するに至った︒一八五〇年から一. 八七三年に至る資本調達機構は︑商人を含めた個人的な関係から︑海外を含めた全国的た金融機構の制度化へと︑質 的な転換を遂げるに至ったのである︒. 十九世紀中葉のアメリカで︑最大の投資を必要としたのは鉄道業であった︒フォーブスの例にみられる如く︑ボス. トソ資本が大々的に西部の鉄道事業に進出し︑可能な限り自已の金融力でこれを賄おうという努力を示す事例もある. が︑鉄道建設に要する資金は余りにも莫大であり︑一八五〇年代には︑商人がすべてを自分で行う時代は既に遇去の. 刀3. 到.

(26) 零o峯冒. 774. ものとなり︑企業に対する一般的な金融支配は︑商人の手を離れて︑専門家によって操作されるウォール街の投資・ 金融資本家の手に移るのである︒. ハリー・ピアースは︑﹁︵十九世紀中葉の︶アメリカは富みかつ繁栄していたといっても︑鉄遣網の拡張に必要な資. 金を自ら供絵することは到底できたかった︒アメリカの鉄道発起人は︑イギリスやヨーロヅパ大陸の資本市場にその 割 資金を求めねぽならなかった﹂と述べているが︑︸﹂うした試みは早くも一八二〇年代からみられ︑一八五〇年代には 4 イギリスにおげるアメリカ鉄道企業証券の販売組織は︑かなり整備されるに至っていたと考えられる︒イギリス側の. ニュー・ヨークたどに置いていたし︑十九世紀初期には雑貨の輸出入商であったニュー・ヨークの. 大金融業者︸弩ぎoqω8艘①易俸Oo︐O⑦oお①凄きo身Oo.などはそれぞれそのパートナーや工ーヂェソトをボス. トン︑. れるのもこの時期のことである︒. ある︒イギリス資本が︑ヴァージニア︑ウエスト・ヴアージニア︑アラバマの豊富な炭田・鉄鉱山に大々的に投資さ. するイギリスの投資は︑一八五〇年代以降発展し︑南北戦争中には一時的な停滞がみられたが︑イギリス側の投資意 副 欲はこのために衰えることなく︑一八七〇年代に入ると︑イギリスのアメリカ鉄道投資は加速度的な増大をみるので. を背景に︑イギリス・アメリカ金融業者問に鉄道企業有価証券取引業務が組織的に発展した︒このような鉄道業に対. していたイギリス製鉄業老が︑鉄道の担保付杜債を喜んで受取ったからであり︑一八五〇年代には︑鉄遣レiル輸出. イギリスの金融業者が比較的容易にアメリカ鉄道証券を引受げた理由は︑当時アメリカに鉄道レールを大量に輸出. を通じて︑密接な関係にあった︒. ど︑イギリス・アメリカ相互の金融業者は︑十九世紀中葉には︑アメリカ鉄道企業有価証券のイギリスにおける販売. 胃o葦①轟俸Oo・はリバプールの金融業者の︑また>長冒9籟巴冒o暮はロスチャイルド商会の利益管理を行うな. 122.

(27) 以上の事実から︑ピアースは寸アメリカ鉄道企業におげる外国投資の重要性を指摘するとともに︑このような投資. をみたのではないと述べ︑南北戦争が国際的金融組織に制度的な変革を与えたものではないとするのである︒しかし. チャンドラー・壮も指摘しているように︑南北戦争の前と後とでは︑外資の流入方法に大きた変化があったことを忘. れてはならない︒即ち︑商北戦争は鉄道有価証券販売の形態を変え︑従来鉄遣発起人が自ら外国に渡って買手の金融. 業者を探した代りに︑戦後には︑ニュー・ヨークの金融業老を通じて︑こうした売買がすべて行われるようになつた 副 のである︒この事実は︑戦前に漸く端緒を開いた国際的金融川資本敢引が︑戦後には完備した形態で登場L︑企業家の. 金融に対する直接的た関係を遮断し︑ウォール街を中心とする金融資本が企業支配を強化してゆく過程であったと云. えよう︒一八五〇年代のミ巨色oき9邑實陣Oo.∪貝−嘗ξ俸Ω胃打竃〜U彗o竃一望R旨竃俸Oρの行ったと. 同じ業務を︑一八九〇年代の−ω.くoお竃oo.は行っていたのであるが︑其の内容は質的に異っていた︒モルガソ. は証券売買業務にとどまらず︑鉄道の賃率・サーヴィス・競争に至るまで支配する一大金融勢力であったのである︒. ところで︑南北戦争を狭む十九世紀中葉に︑国内の資金調達機構である商業銀行制度は︑どのような変化を蒙った. であろうか︒ロバート・シャーキイは︑﹁一八五〇年から一八七三年に至るアメリカ経済生活のあらゆる分野の中で︑. 商業銀行制度ほど完全た変革を蒙った分野はないであろう︒法的にも制度的にも︑銀行制度の変化は非常たものであ 刊 った﹂と述べている︒事実一八五〇年︑テクサス︑アーカソサス︑アイオワを除く三十一州で︑八二四行の州立銀行. がそれぞれ数百種類の異った紙幣を発行するという︑いわば無政府的た状態にあった銀行制度は︑一八七三年に至る. と︑銀行の数は三︑二九八行に増加したが︑その中一︑九六八行は国立銀行法︵髪ぎ量一困彗ξ長ぎ↓︶に基く国立. 銀行であり︑合衆国公債に裏づけられ︑全国的に通用する統一通貨を発行し︑また残余の州立銀行も︑一八六五年の. 刀5. 機構は︑既に一八五〇年︒代にその原型が形づくられており︑南北戦争による政府外債の発行を原因として︑その発展. 123.

(28) 1以. 条令によって発行能カを効果的に制限されていたから︑かつての無政府的状態はすでに終焉していたのである︒. かかる銀行制度の健全化を齋らしたのは︑一八六三年︑南北戦争に際して発行された政府公債を消化し︑かつ優良. な銀行券の流通をはかって戦時経済を健全化させる目的で発布された国立銀行法の効果であったから︑この銀行条令. が﹁南北戦争の申し子﹂であったと同じ意味で︑一八五〇−一八七三年の商業銀行制度の改革も︑また戦争の遣産と. して生じたと云えよう︒この法律によつて生じた大きな変化の一つは︑銀行資産の内容が著しく改善されたことであ. る︒銀行貸付額・割引額と︑証券保有額との比率は︑一八六〇年に一〇対一であったのが︑一八六七年には七対五︑. 一八七三年には二対一となっている︒その後︑十九世紀末までをみると︑その比率は概ね三対一位であったが︑後期. になる程政府公債に代って会杜証券類の増加がみられることも注意さるべきであろう︒. 国立銀行法の齋らした他の影響は︑通貨の事実上の収縮と︑地域的に異る通貨流通量を生ぜしめたことであった︒. 当時インフレーションが進行申であったため︑全国的通貨流通量は三億ドルに制限された︒戦後デフレーシ亘ソが到. 来しこの制限が無意味となったので︑一八七〇年に五千四百万ドルの追加発行が認められた︒一八七五年には通貨量. の制限は廃除された代り︑追加発行には高額のプレミアムを課して利潤を制限したため︑実際には通貨収縮を招き︑ 一八七六年の全国流通通貨量は二億九千百万ドルであった︒. 国立銀行法の下では︑右の如く通貨の伸縮性に融通性を欠いたぽかりでなく︑地域的に不平等な通貨流通が見られ. た︒すなわち︑一八六六年に︑南部諸州の一人当り通貨量が僅か一・七ドルに過ぎなかったのに対して︑一;1・イ. ングラソドとニュー・ヨーク地域では三三二二〇ドルにも上り︑中西都諸州では六・三六ドルにとど童った︒而も大. 都市の集中している東部では︑一八五〇年代から予金通貨として小切手の使用が一般化していたから︑事実上の通貨. 流通量の地域的不平等は︑さらに大きくなる筈であった︒さらに︑右の不平等に加えて︑地域的利子率の差異さえ生. 776.

(29) ユ蛎. じた︒この事情をティムバーレー−ク・壮は︑﹁北部の国立銀行は︑その距離的な遠さと回収の不安を理由に︑高い利子 割 率でなけれぱ南都に貸付けようとはしなかつた﹂と述べ︑南部人が国立銀行を嫌った理由としている︒. さて︑一八六四年の国立銀行法がアメリカ商業銀行制度上に齋らした影響は︑右に述べた如く極めて大きいもので. あったが︑この変化は︑南北戦争前と後とを本質的に区別するような制度的H構造的変革であったといわねぱならた. い︒シャーキイに依れぱ︑企業家が繁栄し債権老の保証が不安定であった南北戦争前のくレヅセ・フェアーVの経済. 制度は︑いまや︑債権者の利益を擁護し︑小企業家の代りに大企業家が有利な︑そしてより経済発展の立遅れた地域. に対して東部の優越をバック・アップするような︑全く新らしい制度に転換したのである︒このような制度的変化に. 果した銀行制度・政府金融政策の役割が︑如何に大きかったかは︑改めて指摘するまでもたかろう︒. 南北戦争の時期は︑右の如き制度的転換の行われた劃期であったが︑本質的には︑レソセ・フェアーの支配した戦. 争前の時期と同質の経済制度であった︒この時代は企業が自由にまた何の抑制もたく設立され発展した時代であり︑. 無数の企業が︑恰も太陽を喜ぶ野草の如く︑繁栄したのである︒ト﹂うして企業家は栄えたが︑イソフレーショソの進. 行で債権者には苦難の時期であった︒しかし戦争が終了すると︑事態は一転した︒貨幣は収縮し︑価格は下落した︒. 小企業の命の綱ともいうべき貸付と手形割引は︑一八六〇−一八六七年の問に︑人口一と生産の薯るしい増加にもかか. わらず僅か九百万ドルの増大を示したにすぎなかった︒これに対して︑銀行における会杜企業有価証券と政府債券の. 保有高は︑七千万ドルから五億三千六百万ドルに上昇Lたのである︒これらの事情が齋らしたのは︑貨幣市場との結. びつきが︑著名な杜債を発行している大企業の所有老にはますます容易と在ったのに反して︑小企業の所有者や奥地. の農民には︑ますます困難になったことである︒しかも国立銀行法は︑不動産に対する低当貸付を禁じていたから︑ 事情は一層悪かった筈であった︒. 7η.

(30) 778. いまや︑東部持にニュー.ヨークは︑全国の貨幣を吸引するマグネツトとなった︒地方銀行の準備金も︑大都市に. おけるコール.マネーの需要から︑地方を離れてウォール街に集中するようになった︒南北戦争前に奥地の住民に対. して貸出された不動産貸付に代って︑ニュー−・ヨークを中心とする株式担保貸付が盛んとたり︑ますます地方銀行の. 果す機能を低下させた︒あの︑会杜企業の発展を好まなかったヘソリ・クレイが︑︿貨幣独占Vと非難した現象が︑ 刮 ニュー.ヨークのウォール・ストリiトに︑既に明瞭に現出していたのであ脅. かくして︑南北戦争を境として︑全く新しい経済環境・経済制度が出現した︒かの鉄道業のヴァンダービルト︑鉄. 鋼業のカーネギー︑石油精製業のロヅクフエラー︑食肉加工業のアーマーなど︑十九世紀後半のアメリカ経済を彩る. 独占のチャンピオソ達が︑不況の時期を有効に利用して競争企業を駆遂L︑その経済的地盤を拡大し︑合理化と少数. 司ユ旨射o2斥−一一U詠9﹄ω9o目︵向oo目o昌⁝oOす顯目胸①−目一︸oO山く=考與円向﹃団︶七.H㎝9. ③匡︒︑︑︸声コ砲︑︒︒㌧︒︑暑二毒葦彗;>⁝・一§塞①量器︵穿;昌ざ9彗鷺ぎ茅O茎妻H寒ζ.誉. zo.Nl︶ラ岩蜆−. ω声≠〇一︑︑︑一︒・室麦二葦季二︒⁝=目嚢9⁝二目ξ・巨一ぎ等彗窒ぎぎ︵困嘉一目萎雪馨ミ零多峯 くoド×︶︵︶︵H. ㈹彗至9彗箒こ二∪一ω昌邑昌︵厚昌⁝ざ9顯目匝・ニニぎO茎妻二冨︶P㊦9. 八六三年迄に︑合衆国は対外債務が無かった﹂というのは誇張であろうと述べている︒目彗ξ雲害8二巨ξ戸蜆−. ㈲ ピアースは︑ 一八六二年後半期と一八六三年の夏期の鉄道証券売却高が高かったことから︑チャールズ・ホブヌンが﹁一. ②. 註ωくぎ昌ω・Ω算﹄ぎ二︷ξ冒ぎ9曇ざま;ま二一慧二塞一ξ.Lらき−.. ぜしめた原因は種々考えられるにせよ︑銀行業と政府金融政策が与えた影響は︑特に大きかったと云へよう︒. 支配へのルールは︑十九世紀前半の産業資本勃興期のそれと本質的に異るものであった︒︸﹂のような質的な差異を生. 寡占へと突進していったのは︑まさにこうした環境の下においてであった︒こうした新しい経済環境の下での経済的. 126.

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