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領台初期の糖業調査・政策立案について

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Academic year: 2021

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(1)領台初期の糖業調査・政策立案について 新福 大畑 はじめに. 1 『本島糖業調査書』. 2 新渡戸稲造の『糖業改良意見書』 3 『台湾糖業旧慣一斑』 結論. はじめに.  糖業は台湾総督府が最も最初に着手した殖産興業であった。1895年∼1909年の雪暗初 期における盛業に関する調査・政策立案は,その後の糖業発展につながる重要な事業であ った。そこで領台初期における糖業に関する調査・政策立案について考察してみたい。. 1『本島糖業調査書』(1). (1)『本島糖業調査書』の内容.  『本島片店調査書』の経緯については,同書の冒頭に次の記述がある(□は判読不明な 文字である)。.   原技師 本島糖業調査書   但本調書ハ拓殖務省技師原熈廿九年一月総督府出張中ノ調査二係ルモノニテロ月廿六   壷口□原ヨリ送付シ越セリ.  これによると,この調査書は拓殖務省の原熈が領台直後の1896(明治29)年に台湾へ 出張し調査したもので,その後この調査書は拓殖務省から台湾へ送られて総督府で保管さ れていた文書であることが分かる。.  目次は附されていないが記述は分類されており,これを挙げると下記の通りである(な お右端の数字は国史館台湾文献館所蔵影印本の頁番号である)。   一 沿革:及現況                             (001).   二 産地及産額附製糖場数                       (021)   三 気象及地形,土質                         (032).   四 甘薦畑ノ地債                          (039)   五’甘蘇ノ品種                            (040)   六 栽培法                              (047)   七 収穫                               (057)   八 一甲叢数及収量                           (060).   九 一反歩ノ栽培収支計算                       (064)   十  製糖ノ種類                                                          (074). 一40一.

(2) 十一 各糖ノ製法. (075). 十二 製糖歩留. (104). 十三 病害虫. (l13). 十四 小作料. (114). 十五 産地荷造及運搬法. (115). 十六製糖場ノ組織. (129). 十七・製糖収支計算. (138). 十八 砂糖輸出商及其業務附買辮ノ業務. (165). 十九 栽培者ト製糖者ト華商ノ関係. (171). 二十 輸出商ノ砂糖買集方法,代金支梯法理. (184). 二十一 仲買人置押取. (197). 二十二 砂糖ノ債格. (198). 二十三 蜜附砂糖ノ用途. (207). 二十四 糖業組合. (208). 二十五 輸出季節. (223). 二十六 輸出先ニヨリ砂糖ノ種別. (223). 二十七 輸出荷造,輸送方法及輸出先至ル運賃他ノ費用. (231). 二十八 砂糖輸出季節入港,砂糖船並二来便ノ貨物. (240). 二十九 糖廓税,驚金:湧昇海関税. (241).  一から十九の項目のうち,一から四は甘庶生産のための環境上の条件について,五から 十三は甘薦生産に関するもの,十四から二十九は砂糖取引や砂糖流通に関するものである。.  本書の特色として第一に挙げなくてはならない点は,原が可能な限り綿密に実地調査を. 行っていることである。調査が行われた1896(明治29)年は,台湾は未だに政情不安な 状態であったため,各地をくまなく調査することは不可能に近かったものと考えられる。 しかし記述の中には畦の幅や高さ,或いは畝間の間隔等,実際に現地を調査しなくては分 からない内容も多く,台北・嘉義・台南・鳳山の各地区で詳しい調査を行ったことが分か る。またサンプル数も実数は示されておらず,‘それほど多くはないものと考えられるが, 領台当時の台湾糖業の実態を窺い知ることは充分に可能である。.  第二の特色は当時の台湾糖業の問題点を的確に把握していることである。その中で重要 と考えられる項目について触れてみたい。  まず「六 栽培法」は次のようにその実態を述べている。.   (甘薦の栽培方法について)其法極メテ放漫ノモノナリト云フヲ得スト錐モ施肥ノ寡   少ナル,灌潮絶無ノ状アル,収穫法ノ粗野ナル等其将来二向ツテ改良ヲ要スル事項甚   タ多シ 非常に粗放的農業が行われていることを指摘して,次のように灌概の実態を挙げている。 一41一.

(3)   灌概二就テハ雪山地方小竹上里前庄二於テハ六七ノ凡ソニヶ月ハ畑ノ隅二国所ヲ作り   テ水ヲ蓄へ朝夕二回桶ヲ以テ畦間二灌ク(以下略).  これによると穴に蓄えていた水を掛けるだけという状態であり,これは台南・嘉義につ いてもほぼ同様の記述である。そのため原は次のように判断している。.   天水二待ツト云フヲ以テ見レバー般二無灌洩ト見倣スモ不可ナキノ状アリト云フヘシ  つまり天水灌概であり,人工的灌瀧とは呼べないと指摘しているのである。また面諭の 後作・間作についても豆類・甘藷が行われていることを観察している。  次に「十一 各糖ノ製法」において,原は赤糖製造の問題点として次のことを指摘して いる。.   搾茎ノ放漫ナル,汚物除去ノ心胆ナラサル為メニ製出量ヲ減シ忌門晶質ヲ損スル等将   来改善ヲ要スヘキ事柄雨竜ラサルナリ  つまり甘薦圧搾が不充分であり,製糖中の搾澤等を取り除かないことで生産量の減少・ 品質の低下が起きていることから,今後改善が必要であると指摘している。また赤糖製造 場を「廊」と呼ぶとしているが,後の調査書では行われているその運営者による区別はな されていない。.  さらに「十九 栽培者ト製糖者ト糖商ノ関係」では,原は三者が次の関係にある・ことを 指摘している(□は判読不能の文字である)。.   甘皮栽培ヲナス農家ノ許多ナルモ宣ナリ此等ノ多クハ小作農ニシテ自作農ノロロシタ   ルハ既二述ペタル所,一心前審ノ面作ヲナスモノ稀ニシテ普通二三反或ハ四五反歩ノ   地炉仕付ヲナスニ過キス血糖並幅乃至十数籠ヲ出テサルモノナリ又製糖業者ハ其多分   ハ栽薦ノ農家ヨリ成レルイ\是亦前二掲ケクル所ニシテニ者資産ノ度合著シキ懸隔ヲ見.   サル薄資者ナリ他人二資産ヲ求メサルモノアリト錐モ現状二心テ其大半ハ他人二画面   ヲ仰キテ業務ヲ執ルモノトス而シテ其債主ハ栽培面角在リテハ糖商等アレトモ専ラ製   糖業者(栽出馬業者ナレトモ製糖ノ業ヲ営ム者ヲ云フ)ニシテ製糖業者二言リテハ専   ラ糖商トス且製糖業者ハ糖商二仰キタルモノノ中若干ヲ栽培者二貸付スルモノナリ即   チ大体二幅テ粗糖商ハ製糖業者二製糖:業者ハ栽甘演者二貸付スルモノナリ其何レモ所.   得ノ砂糖ヲ見当二金(時二或ハ阿片米等ノ物品ヲ金員二積リテ)借受ヲナスモノニシ   テ之力元利ノ返還並巾必ス砂糖ヲ以テスペキナリ(後略〉.  つまり,台湾の農業経営は規模が小さくそのため産丈量も少ないため,経営が苦しくな ると製糖業者から借金をする。その製糖業者は糖商から借金しているため,資金の流れは 糖商→製糖業者→農民となることを指摘している。そしてその資金回収は現金ではなく, 砂糖によって行われる点に注目している。.  以上の指摘は,後に新渡戸稲造の「盛業改良意見書」でも生産量増加と品質の向上の対 策として取り上げられた問題点である(2)。.  第三の特色はこれに関連して原は「十九 栽培者ト製糖者ト糖商ノ関係」で,台湾の農 民は経営規模が小さく,製糖業者から資金を借り入れて耕作することが多かったと指摘し 一42一.

(4) ている。製糖業者から資金を借り入れてその返済は砂糖の現物で行い,農民は砂糖生産を 続けなくてはならないという貸借関係は,矢内原氏や)余照彦氏が言う「前貸奴隷」そのも のである。矢内原氏・)余照彦氏は共に,日本の製糖会社が薦農に前貸金を与えることで蕪 作を強制するという「製糖会社による農民の前貸奴隷化」を主張していた(3)。しかし『本 島糖業調査書』によると,日本の製糖会社は領台前からの糖廊が薦農に前貸金を与えて耕:. 作させ,その収穫で資金回収をするという,従来の生産システム・資金融通構造を活用し ていたことが明らかになってくる。つまり矢内原氏・)余氏の主張する「前貸奴隷」の状況 は清朝以来の制度であることが明らかになった。.  第四の特色として原は「十六 製糖場ノ組織」でも輪台前は藤農と製糖場所有者の問で 生産物(砂糖)を分ける分糖蜜が行われていたことを述べている。この分画法について矢 内原氏・)余照彦氏は画論が砂糖を得ることで製糖利益に与ることができたことを指摘し,. 1905(明治38)年に原料採取区域制度が始まると,農民は単なる原料売却者になって製 糖利益から切り離され,貨幣経済に巻き込まれたと述べられている(4)。しかし官爵法下 でも農民が得た砂糖は,当然市場で売却されたと考えられ,領台前から農民は貨幣経済に 組み込まれていたことが推測されるのである。この清朝時代の砂糖生産についてはさらに 検討が必要であり,今後の課題としたい。.  従来の研究では台湾糖業発展の基礎となった新渡戸稲造の『糖業改良意見書』は新渡戸 が充分な台湾糖蜜調査を行わないまま提出されたものとされている(5)。また新渡戸自身 も『土豪改良意見書』において「本島血糖に就いては未だ精確なる計算あるを見ずと難も,. 明治二十九年の調査に係り殖産部報文に載せらるるものは甘簾耕作者の何れも収支相償は ざるを説けり」と述べている(6)。新渡戸の言う殖産虚報文に載っていた文書がこの『本 島心慮調査書』であるかどうかは不明であるが,明治29年という時期,また画竜の生産収. 支が損益となっている記述がある点や,また原による問題点の指摘と新渡戸の視点は先に 挙げた灌慨,製糖法,圧搾方法などの改良の点において内容が近いことなど,『本島糖業 調査書』と符合する点も多いため,新渡戸が同調査書を目にしていた可能性がかなり高い ものと考えられる。これが事実であれば,新渡戸が『糖業改良意見書』を執筆する際に, この『本島糖業調査書』を参考にして台湾の糖業政策の基本方針を立案したことになる可. 能性は充分にある。そのため新渡戸の『糖業改良意見書』に大きな影響を与えた資料とし て『本島糖業調査書』は重要であると筆者は考えるものである。. 2新渡戸稲造の『生業改良意見書』 (1)新渡戸稲造と台湾糖業  日本の台湾領有(領台)後,台湾総督府は糖業奨励を志向したものの,土匪の活動によ. る治安問題もあり,甘簾栽培面積は減少傾向にあった。表1は島台初期の耕地面積と産直 量の推移である。.  地租に加えて1896(明治29)年の糖業税則制定・施行以来,樟脳税・茶税等の税制(そ 一43一.

(5) 【表1】. 年代. 領台初期から新渡戸在任中までの耕地面積と雄心量の推移 甘勲占める割合 瞭栽培面積                       単位:面積は甲,産品量は 産糖衣 総耕地面積. 1897. ? ?                         担,割合は% 429,282 779,942. 1898. ? ?                       (出典)『台湾口業概観』(台 683,499 414,302. 1899. 456 16,576 363,290                        湾総督府殖産局特産課,. 1900. ? ? 358,182                        1927年). 1901. 6.75 387,568                       注:1895∼97年の耕地面. 1902. 3.66 16,526 451,032                        積は清朝時代の1890年の. 1903. 3.92 21,594 550,723                        面積が続いているため,. 1904. 3.87 644,691 24,977                        1897年以降を掲載. 815102  ,. 445380  ,. 26167  ,. 585145  ,. 908704  ,. 506805  ,. 758343  ,. の後1899[明治32]年から樟脳は専売制)で税収を確保し,台湾の財政独立を実現した い台湾総督府にとって此面面積の減少は重大な問題であった。そこで糖業保護政策を具体 的に立案することが求められており,そのために抜擢されたのが農学者の新渡戸稲造であ った。.  新渡戸は1877(明治10)年に札幌農学校へ入学し,1883(明治16)年には東大に入学 するが,「太平洋の橋とならん」と私費で米国へ留学した。その後,札幌農学校からドイ ツ留学を命じられ,ボン・ベルリン・ハレの各大学で農政学を研究した。1891(明治24). 年に帰国し札幌農学校教授となったが,健康を損なったため病気療養を兼ねて米国に滞在 していた。その滞在中の1900(明治33)年に,民政長官の後藤新平から台湾の殖産に関 する事務を嘱託された。そして翌年帰国し,台湾総督府に赴任後の9,月に『糖業改良意見 書』を提出している(7)。.  新渡戸が台湾総督府に登用された理由としては以下の点が考えられる。まず第一には台 湾総督府殖産課には札幌農学校出身者が多かったことである(8)。同じ札幌農学校出身者 で,かつ同校教授でもあった新渡戸に対して,台湾総督府への出仕を求める声が殖産課内 にあった可能性がある。.  2つ目には当時の民政長官の後藤新平と新渡戸が同郷であったことも関係があるものと 見られる。石井満『薪渡戸稲造伝』によると:,後藤と新渡戸は直接の面識はなかったが,. 後藤が知人から新渡戸のことを聞き及んで,新渡戸に台湾総督府への出仕を要請したこと が述べられている(9)。.  3つ目には,1・2点目の背景となるが,当時の台湾総督府が抱えていた問題との関係 がある。それは新渡戸が『糖業改良意見書』を提拙した後で児玉源太郎総督と面談した際,. 児玉が「僕はこの糖業意見書を見た。しかも二度繰り返して見た。一体わが輩は書類を二 度も繰り返すことはしない男だが,台湾財政独立の基を築く根底論であるから念を入れて みた」(10)と述べていることである。このことからも分かるように,台湾総督府の糖業政. 策の根底には台湾財政独立があり,そのために新渡戸は招聴されたのであった。 一44一.

(6) (2)新渡戸稲造から見た台湾習業の現状  新渡戸稲造は『糖業改良意見書』の最初で台湾糖業の現状を分析している。新渡戸が総 督府技師となった1901(明治34)年当時の台湾は甘薦の栽培面積が縮減していたが,その 理由を以下のように分析している。 〈台湾糖業衰退の理由〉 ①資本の欠乏…日清戦争後,台湾の豪族は中国大陸に渡ってしまった。. ②土匪討伐の影響…土匪討伐の中で無関係の農民までが殺されてしまった。 ③労働力不足…a疫病の流行で多くの死者が出た。        b土匪討伐で無関係の良民も殺された。        c鉄道などの土木工事が多く行われ賃金も高いため,離農する農民が出た。        d交通の便が良くなると,出稼ぎに出てしまうものが出た。 ④軍事・治安上の理由…a難路を広げるために道路周辺の農地を没収した。            b土匪の攻撃を防ぐため道路沿いの側管栽培が禁止された。 ⑤重い税負担…産業振興を阻害。. ⑥物価騰貴と買収価格の低迷…労働力不足で賃金が上がっため物価も高騰したが,甘薦の               買収価格は糖商が抑えていただめ,農民は薦作から離れた。.  新渡戸はこのように台湾糖業の現状を分析した上で,それでも台湾事業は発展するはず だと主張する。新渡戸はその理由を「何れも人為的現象より来れるものならざるなし」と して,人為的な現象が原因となっているため糖業政策によって解決できるはずだ,と主張 している。.  また当時の世界的な砂糖市場について,欧州の甜菜糖が隆盛を極めていたことから蘇糖 はこれに対抗できないとの意見があった。これについても新渡戸は,「本来に於いては曽 て甘薦糖に劣れる所あるを見ず,然れば今後の殖産政策の如何に依りては,天錫に富める 庶糖をして気候風土の力を罵り,目下の衰退を転じて未来の盛況に移さん」と述べて糖業 奨励政策によって甜菜糖に劣ることなく発展すると指摘し,続いて台湾が糖業に適する理 由を挙げている。. 〈台湾が三業に適する理由〉. ①気象…甘薦栽培には温度が摂氏5度以上,.降水量が1,500mm以上が必要であり,台南.    地方はこの条件に最適であった。またハワイでは甘薦の成熟に18ヶ月が必要であ    つたが,台湾は12ヶ月程度で成熟する点が有利である。 ②地形・士性…地形は運搬の便・灌概の関係上,平坦な地形が望ましく台湾西部は適して    いた。また土性は台湾南部が沖積土で石灰質も栽培条件の範囲内であった。. ③植物上の比較…甜菜は1ha当たり30トンの収量から7,000斤の砂糖が生産されるが,.    〒甘庶は1ha当たり90トンの収量から16,000斤の砂糖が生産できた。但し甜菜糖    は生育期間が5∼6ヶ月で成熟するため,相場に応じて植え付けの増減ができるこ    とから甘薦よりも有利な点もあった。 一45一.

(7) ④労働力不足…刈り取りと植え付けが同時期に重なるため多くの労働力が必要になり,賃.    金上昇につながるとの意見に対して,甘薦は成熟に応じて2∼3ヶ月にわたって収    穫ができるため,収穫(刈り取り)時期をずらすことも可能であった。 ⑤資本…甜菜栽培国はヨーロッパが多く,同諸国は資本が豊富であるため,糖価低落の時    は相場上昇まで待つことが可能である。これに対し,甘蘇栽培国の多くは植民地の    ため資本不足であり,政府が保護することが必要である。. ⑥機械…甜菜栽培国で機械が多用されるのは労働者の賃金が高いためである。これに対し   ズ甘藤栽培国の多くは賃金が低く,しかも二二製糖機械の方が安いと指摘している。 ⑦燃料の供給…薦糖を製造するために二二を焼いて薪炭の代わりに使っているが,これは    茎に含まれる肥料分を無駄にしてしまい,また搾粕だけでは燃料として不十分とい    う欠点があった。そこで新渡戸は糖廓の機械に改良を加えて燃料の節約を行い,台    湾の山で木材から炭を焼成することを提案している。. ⑧市場の遠近…砂糖の大消費地はヨーロッパであったが,台湾でも内地やアジア諸国の消    費地があるため市場には困らない。また内地の砂糖消i費は年々増加を続けていたた    め,砂糖生産が増えても需要に対応ができる。. ⑨輸出税…糖業者は重税の不満を訴えるが,台湾の財政独立実現・糖業奨励政策が打ち出    された際に税制改正も行われて是正されるであろうと指摘。. ⑩政府の補助…ヨーロッパの甜菜糖には政府が多額の補助金を支出していた。そのためヨ    ーロッパ諸国は自国内の市場価格よりも安価な甜菜糖を他国に輸出していた。この    甜菜糖生産国の政府による補助金や関税の保護が無くなれば,藤糖をヨーロッパへ    輸出することも可能になるはずである,と新渡戸は考えていた。  このように台湾が砂糖生産に適する理由として新渡戸によって挙げられた項目は非常に 多岐にわたっており,またその中身も国際的な視野に立った具体的な内容に富んだもので あった。. (3)台湾二業の改良方法  以上のように新渡戸は台湾二業の現状と,糖業に対し批判があることを述べた上で,台 湾が砂糖生産地として有望である理由を述べ,’これに続いて以下の改良方法を展開してい る。これについて重要なものを取り上げてみたい。.  まず新渡戸が最重要課題として緊急に取り組むべきとしたのが,「第一 種類の改良」 であった。新渡戸は台湾における代表的な甘薦の種類として,表2の3種類を挙げている。  このうち最も農民の間で多く栽培されていたのは竹藍であった。台湾在来種のうち最も 単位面積当たりの収穫量が少ない竹蘇が好まれた理由は,肥料や灌慨がほとんど必要ない など粗放的な栽培に適していたからであった。つまり収穫量は少ないが,その代わりに手 間が掛からなかったということである。しかし台湾産山を増加させるためには外国種,特 にライハナ種を台湾に普及させることが必要であると新渡戸は主張している。ライハナ種 一46一.

(8) 【表2】 台湾とハワイの照覧の比較 原産地. 台湾. ハワイ. 甘庶名. 含有糖分. 1ba当たりの磯生産高. 竹簾. 6.11. 2059. 紅藤. 9.44. 3566. (出典)浅田知定「台湾の糖業」(『台. 蝋薦. 750. 2977.  湾野袴特報』第72号,1904年). ライハナ. 11.22. 8550.  を基に作成. 10.03. 8008. ローズバンブー. 単位:糖分率は%,生産高はkg. が優れる理由として,新渡戸は以下の8点を挙げている。  ①収穫茎数が多い  ②甘蘇汁が多量である  ③甘藤汁の糖度が高い  ④製糖した  場合の品質がよい  ⑤搾り粕を燃料とする場合適している  ⑥害虫・風害の被害が.  小さい  ⑦成熟した状態で畑に数ヶ月放置しても品質は不変  ⑧甘薦汁が多く糖分  豊富なため,製造量当たりの労力・燃料が節約できる そして外国種を台湾で普及させるための方策として次の3項目を提言している。.  1)広告・集会を利用したり農民への個別指導で,外国種の優良なことを理解させる  2)外国薦苗栽培に補助を与え,もし農民が拒否する場合は強制的に耕作させる・.  3)種苗の育成を官業で行い,種苗の売却,または無償交付をする  山根幸夫氏は「台湾糖業政策と新渡戸稲造」の中で,新渡戸の糖業政策について「意見 書で気づくことは,新渡戸が薦農の利益を擁i護するために,すこぶる留意している点であ る」と述べ,その理由を「単なる農学者としてではなく,一キリスト者としての新渡戸の 一面を見出すことができる」と述べている(11)。しかし上記の2)で見たように,新渡戸 は農民が外国種栽培を拒否した場合は,強制的に栽培をさせてでも政策を貫徹しようと提. 案している。新渡戸は農民の利益を無施策的に,また現状維持的に擁護していたわけでは なく,山根氏の説は検討の余地がある。新渡戸が総督府技師として就職するときの感慨と して,「三度も窮まるれば,悪く言えば己惚れ心が高まり,よくいえば士は己を知る者の ために死すといふ如く,わが輩も当時まで台湾の気候を恐れてをつたが,一と奮発しよう かと,大分に心が動き出し」(12)とあるように,新渡戸は台湾赴任を,自己の学説を実際. の政策に生かすチャンスと捉えていたことを窺い知ることができる。即ち赴任時の言葉か らも,また『馬連改良意見書』を見ても,台湾における興業政策の立案に当たっては,キ リスト者としての立場よりも農学者としての立場がより強く現れているものと推測され, これは新渡戸が農民の立場だけではなく,台湾総督府の立場からも糖業発展策を見ていた. ことの1つの現れと考えられる。また外国種の蘇苗を強制栽培させたことが収穫量の増加 に繋がり,台湾在来種に固執していた農民の意識を変化させたという点は,農民の利益に つながったといえるであろう。即ち,新渡戸は台湾庶農の耕・作方法の現状を維持するとい う保護政策ではなく,品種改良・栽培方法改良により生産を発展させるという政策による. 甘簾栽培奨励,薦農保護政策であり,これは山根氏の言うキリスト者としての立場よりも 一47一.

(9) 農学者としての立場が現れていたものと考えられる。.  次に新渡戸は「第二 培養法の改良」を取り上げ,従来の粗放的な農業から集約的な農 業への転換を主張している。そして,当面の対策として以下の3点を挙げている。.  1)農家に外国蘇苗を配布し,改良耕作法を教える.  2)政府で4∼5年間は化学肥料を無償配布  3)各地に模範小蘇園を造り,肥料の有効性を農民に示す  従来の耕作方法に固執する農民に対しては,実際に新しい耕作法をやって見せることが 重要だ考えていることが分かる。ここには教育者としての新渡戸の姿を見ることができる。.  さらに「第三 灌慨を利用し産額を増す事」を取り上げている。ここではハワイの薦園 の生産性が急速に向上していることに注目し,台湾でも灌概により甘庶の成長を促進し, これによる生産量増加を考えている。そして灌概を始めるに当たっての急務として,次の 3点を挙げている。.  1)灌概試験を行い,有効性を実証する  2)小規模灌概を行うものへは補助金の支出  3)水利組合の結成を奨励し,できるだけ民間で大規模な灌慨工事を起こさせる  この提案からは,新渡戸が総督府による補助の対象と考えでいたのが農民による比較的 規模の小さな灌慨であり,大規模な灌慨は総督府ではなく民間で行わせようとしていたこ. とが分かる。この背景の1っには台湾財政が内地からの補充金を受けている段階では巨額 の資金が必要となる大土木工事は難しく,それよりも小規模な灌慨に総督府が資金を支出 し,それによって製糖業が発展し,農民達の問に資金力が付いた段階で農民が組織する水 利組合により大規模灌概を行えばよい,との考えがあったものと思われる(13)。.  次に「第四 既成田園を薦園に替ゆる事」が提案されている。これは3点目で述べたよ うに甘薦は土:地に水分が多いところの方がよく育っため,米作としては生産性の低い灌概. 施設のない水田であっても甘薦は充分に育つ。そこで政府が糖業を保護すれば水田を藤園 に転換させることが可能になり,甘蘇栽培面積・砂糖製造量が増えると考え,以下の提案 をしている。.  1)集約的甘旧作は利益があることを理解させる  2)種子・肥料等を配布して旧習を打破する  3)外国種は水辺を好むので,天水田に甘薦を植えることで雨意の必要陸脅証明する  第3項に挙げた灌慨施設は工事を伴うためにすぐには実現しないことから,天水田を利 用する蘇作により甘薦栽培面積を拡大し,生産量を増やそうとしたと考えられる。.  また「第五 蘇園に適する土地の新墾を奨励する事」が挙げられている。これは未開の 地を開墾することにより農地を拡大し,産忘却を増加させようと考えたものである。その ためには政府が開墾奨励の資金を出し,また低湿地では排水も行う必要があることを指摘 している。このように耕地拡大をする新規開墾を進めるために,新渡戸は次のことを中心 に据えている。 一48一.

(10)  1)開墾に適する土地を人々に知らせる  2)法律で開墾の回忌法を制定し,開墾成功者には無償で業主権を与える.  3)開墾者には蘇苗・肥料を与える  4)一定面積以上を開墾する者へは灌概工事費を補助し,開墾後の製糖工場にも特別な   保護を与える.  この中で特に4)については,大規模開墾を対象としており,改良晶出のような従来の 規模の製糖所ではなく,大製糖會社による開墾を期待していたものと考えられる。  ここまでは主に農業分野であったが,工業分野としてまず新渡戸が取り上げたのが,「第 六 製糖法の改善」であった。製糖方法の改良を『糖業改良意見書』の後半に持ってきた 理由を,新渡戸は「如何に製造法を改良するも結局原料供給以外に発達し能はざること無 論なるが故に重きを農業的観察に措けるに因れり」と述べ 薪渡戸は甘藍生産の増加に主 眼をおいていたことが分かる。その上で製糖法の改善のためには,甘藍圧搾機械の改良に よって製糖量を増やし,大工場や製糖組合を作ることを目指している。そのためにもまず 取り組まなくてはならないこととして,新渡戸は次の3点を提言している。.  1)政府が外国製小型機械を無償または低利の年賦で糖廓主に提供する  2)大規模機械経営をする者へは,規模に応じて奨励金を出す  3)耕作者の団体が共有の糖廓を設立できるようにする  注目すべき点は従来の糖蔀主・新式製糖工場経営者とならんで耕作者の団体共有による 糖廊を対象としていることである。これはドイツにおいて甜菜栽培農民が製糖會社の株主 となり,会社と農民の関係が緊密であったことを念頭に入れられたものと考えられる。.  そして新渡戸が改良方法の最後に提言したのが,「第七 圧搾法の改良」であった。圧 搾機械を改良し,搾粕に含まれる残った蘇汁の量をできるだけ少なくすることで,製糖に 用いる晶晶の量が大幅に増えることを予測している。.  薪渡戸は上記7項目の改良がなされた場合を仮定して,次のような予測をしている。ま ず新渡戸は『糖業改良意見書』を提出した頃の産糖量を最低でも42,000トンと見積もって いる。これに改良を加えることにより産糖量は最低でも97,200トン(意見書提出頃と比べ て約2.3倍),最大で215,400トン(意見書提出頃と比べて約5.1倍)に増加ものすると予 測している。この血糖量の増加によって,ユ903』(明治36)年の砂糖消費税の税収見込みは 742,841円余,それが1912(大正元)年には2,210,849円余に増加すると予測している(14)。.  さらに新渡戸は上記7項目の他に台湾糖業発展の要素として以下の項目を挙げている。 ①関税:輸入糖の関税を高くすることで国内糖を保護する ②戻税:輸出糖は国内で消費しないため,砂糖消費税分の金額を輸出を行う製糖石針等に     払い戻し,この戻税の制度で輸出を奨励すれば,これも糖業保護に繋がる. ③運搬の開通:道路・鉄道の建設で甘庶や製品が運送しやすくなり,鉄道・船会社には運     賃の割引をさせる ④販路の拡張:政府が市場を糖業者に紹介し,販路拡大を図る 一49一.

(11) ⑤薦価の公定:甘庶買取価格が公定になれば,製糖業者の原料買収は容易になる。生産者     も毎年一定の需要者を得る。価格は数年間を平均して算出することで公平を期す。. ⑥二業の教育二簡単な甘庶栽培法・製糖法を教えて,二業に関する知識の普及を図る ⑦産業組合の準備:将来は産業組合を組織させて,糖業経営・資本融通を行わせる ⑧出版物の配布:耕作法・製造法改良のために印刷物を作り民間に配布 ⑨甘簾保険の設備:風水害や害虫の被害への備えとして蕉園収穫保険が望ましい ⑩旧記の保護:従来の製糖機械は牛で動かすため,牛の病気を防ぐ施策を政令として出す ⑪副産物の奨励:糖業の副産物としてアルコールも活用する  さらに上記の施策に加えて,ドイツにおいて晶晶が資本を募って砂糖消費量を増やした ことや,アメリカにおける大学への奨学金を利用して甘薦の研究を進めた人物を挙げて, 糖業奨励は民間でも可能なことを述べている。. (4)本島糖政上施設の急務.  (3)で挙げた台湾糖業の改良方法は産業組合の組織など,長期的な視点に立った施策 も含まれていた。しかし薪渡戸稲造は台湾では資本が未蓄積のため順調な産業発展が望め ないことから,プロイセンのフリードリヒ大王が農業奨励にポってプロイセンを弓姻化し たように,’政府が民業を行うことが求められる,と説いている。㌔ここで新渡戸が述べてい. る民業とは,甘露の二種改良や機械による製糖方法の導入など,砂糖生産に関する経済活 動を指しているものと考えられる。そして政府が民業を行う際の条件として,①公益的で あるか,②民間ではできない事業であるか,の2点に基づいて判断することを求めている。.  この①②に基づいて,まず実施しなくてはならないこととして,新渡戸は以下の14項 目を挙げている。. (1)糖業奨励法の発布:糖業奨励の方法等についての規定を定める (2)臨時台湾糖務局官制の発布:民政部の一部ではなく,独立機関とすべきである (3)南部地方に六三局支局を設置:糖業は南部が最適のため,台南に支局を設置する (4)技術生の養成:新種栽培法を教えるために,技術生を養成することが必要 (5)技術者にハワイで苗を購入させる:よい薦苗を買うため技術者を派遣する (6)八重山・沖縄本島の外国種藤苗を購入する:すでに日本へ移植された苗も活用する (7)台南地方に苗代を設置:種苗養成場を作って,無償か廉価で販売する (8)甘畠山作場の設置:農芸・製造に関する技術の研究をすすめる (9)小圧搾機各種の購入・試験:台湾にとって最適の機械を試験で判断 (10)産糖組合の組織を促す:将来の産品組合につながる組織を作っておく. (lD新墾地の開拓奨励:特典を与えて開墾奨励を行い,そのための実地調査をする (12)水利開発を計る:灌概をするためにも水利開発を図る. (13)事業計画書を作り資本家の参考にさせる:糖業の説明を行い資本を集める (14)大規模経営を勧める:大規模経営は利益が大きいため,調査して資本家に紹介する 一50一.

(12)  従来の研究では,新渡戸はジャワの糖業を視察し,これを基に『糖業改良意見書』を書 いたとされている。確かに『糖業改良意見書』にはジャワ糖業の影響が強く見られる(15)。. しかし,それと同様に新渡戸が青年時代に学んだドイツにおける保護政策も大きく影響し ℃いるのではなかろうか。その例としては,新渡戸も挙げているように,ドイツにおいて はフリードリヒ大王が国家による強力な奨励政策を採ったことによりプロイセン農業が発 展したこと,また関税や航路奨励によって輸入糖の制限・輸出奨励を行っていたことが挙 げられる(16>。また先に述べたように,ドイツで農民が製糖会社の株主となって農民と会. 社を結びついていたことを,新渡戸は産糖組合や農民所有の糖廓の形で台湾で再現しよう としたとの見方もできると筆者は考えるものである。.  このような広く海外における糖業奨励を参考にして立案された『寝業改良意見書』が, どのような形で実際の政策の中で実現されていったのか,別荘において検討したい。. 3『台湾近業旧慣一斑』.  1909(明治42)年に臨時台湾旧慣調査会編『台湾軽業旧慣一斑』が出販された。臨時台 湾旧慣調査会は,日本と台湾では風土・文化が異なるために内地と同じ法律はすぐには適 用できないと考えられたため,台湾に適用する特別立法を制定するため,そのための調査 機関として設置されたものである。その内部は第一部が「公私法制二関スル旧慣」の調査 を,第二部では「農工商経済二関スル旧慣」の調査を中心に行うことになっていた。しか しその後,第二部は事実上活動を停止したため,第一部に合併されて活動を再開した。こ の第一部に合併された時期に『台湾糖業旧慣一斑』は著されてたものである。筆者は砂田 熊山衛門である。目少田は序文で「明治四十年台南出張所二化ルノ日旧慣調査ノ傍糖業二関. スル法律的慣例二注目シ随意資料ヲ蒐集シ四十一年稿ヲ作りテ岡松部長二示セシニ調査未 タ尽クササル所アルモ罷業旧慣ノー端ヲ紹介スルニ足ルヘキヲ以テ仮二私案トシテ公ニス. ヘキヲ命ス」「今や台湾糖業ハ著大ノ進歩ヲナシ旧時ノ慣例ハ年ヲ追フテ絶滅セントス本 書ノ趣旨ハ単二旧慣ヲ紙上二保存スルニ在リテ敢ヘテ之ヲ現在及将来ノ実益二資セントス ルニアラザルナリ」(17)と述べている。つまり糖業に関する旧慣調査は目少田の個人的な調. 査であったが,臨時台湾旧慣調査会の責任者である岡松部長から公刊を命じられたこと,. 台湾糖業に関する旧慣は絶えようとしているがこの調査目的は旧慣の記録であり現在や将 来に利用するためではない,と述べている。このことに関連して表3を見て頂きたい。.  表3によると,この調査が行われた1907(明治40)年当時の台湾では産糖量において旧 式糖廓の生産量が多いことが分かる。つまり厳密の言葉とは異なり,旧来の生産様式が中 心となっていたことが分かる。そうであったからこそ,臨時台湾旧慣調査会の部長であっ た岡松参太郎は同書の公刊を命じたものと考えられる。.  そこで領台当初の『本島糖蜜調査書』と『台湾糖業旧慣一斑』という2つの細魚調査書 について比較・検討してみたい。.  まず『本島糖業調査書』は先に見たように,台湾における糖業全般にわたる調査を行っ 一51一.

(13) 【表3】明治末の新式製糖工場・二七原料採取区域面積・産糖量累年表. 1騒. 面積. 明治39・40. 4041 41−421. 産霊量. 蹄数. 面積. 産糖量. 16. 329. 43−44. 21. 616. 44−45. 29. 615. 糖緻. 面積. 産糖量. 1,700. 2,397. 6,549. 2,865. 2,155. 5,900. 2914,. 5,594. 11,880. 42−43幽. 旧式二二. 改良二二. 新式製糖工場. 年代. 11,928 32375 ,. 25,103. 69. 5,814. 74. 157. 50. 80. 6792,. 2,879. 663. 8,299. 499. 130. 5,890. 212. 58. 1,282. (出典)『台湾二業統計 第29』(台湾総督府殖産局,1943年). 単位:面積は100甲で,100甲未満を四捨五入。産電量は100担で,100担未満を四捨五   入。. た記録である。これに対し『台湾糖業旧慣一斑』は「第一章糖廓」「第二章糖取引」 の2つに絞って調査・記述されている点が注目される。  「第一章 回廊」では山山の種類,組織,規則等を詳しく分析している。原は三二の種 類についでは分類をしていなかったが,『台湾糖業旧慣一斑』では糖廓’の種類は次の4つ に分類されている(18)。.   糖廊ノ内最複雑ナル組織ヲ有スルモノハ牛掛廊ニシテ其目的ハ素謡ナル多数ノ三三耕   作者力組合ヲ組織シ各自栽培ノ甘薦ヲ圧搾スルニ在ルヲ以テ其規約ハ微細ナル点二三   ルマテ之ヲ洩ラスコト無シ二二牛轟廓ハ稽資力有ル農民ノ組合ニシテ各自栽培ノ甘薦   ヲ圧搾製造スル目的ノ外併セテ組合員各自力他人ヨリ各所ヲ買収シテ製造スルコト及   委託製造ヲ引受クル目的トスルモノニシテ其組合員ハ牛掛部二比シ遙カニ少ク又環細   ナル規約ヲ定ムルコト無シ:更二公家廊二至リテハ組合員ノ放出シタル資本ヲ運転シテ.   甘薦ヲ買収シ僑二二応ジ製糖其自身ヲ以テ営利ノ目的ト為スモノニシテ組合員ノ栽培   シタル甘庶ノ圧搾ヲ目的トセス其組合員数モ亦遙二二轟・廊ヨリ少シ而シテ其規約ハ主   トシテ資本ノ供出運転及製品ノ費買二關スルモノニシテ製造其モノニ關スルモノ極テ.   稀ナリ(中略)三家廊ハ大業主又ハ商人カー切ノ資本ヲ負担シ前金ノ放下ニヨリ甘薦   ヲ買収シ碕破二応シ多量ノ製品ヲ其手二収メテ以テ主タル目的ト為スモノ(後略)  これによると糖廓は以下の4っに分類される。.  ①牛掛廓:薦農が集まり,甘庶圧搾用の牛を提供して共同で自作甘薦を製糖  ②牛轟廓:薦農が集まり,資金を出して糖廓を経営。自作甘藍の製造の他,委託製造も.      行い牛掛廊よりやや規模が大  ③公家廊:一種の合資組織。出資した金額を株に分け,引き受けた株に応じて出資額を      定める。白白から甘蘇を買収して製糖し,委託も引き受けて製糖料を得る。.  ④頭家廓:大地主・糖商が単独資本で設立。小作人又は耕作費を前貸した者から集めた 一52一.

(14)      甘蘇で製糖。.  そしてこの4種類の糖卒中,最も有力であったのが④毒忌廊であり,これが下記のよう に総督府の保護を受けたことが指摘されている(19)。.   糖取引ノ旺盛ヲ極ムルニ及糖商ニシテ頭家廓ヲ経営スル者漸多ク三十七年以来糖務局   力従来ノ糖廊二封シ小規模ノ新式圧搾機械ヲ装置スヘキ事ヲ奨励スルニ及従来ノ頭隠   廊ハ多ク此方法ヲ採用スル僧籍レリ所謂改良廓ナルモノ是ナリ.  これによると頭家廊の一部が明治37年から糖務局の奨励を受けて改良糖廊となり,機 械による甘薦圧搾を行って製糖量を増加させたことが分かる。  次に砂糖取引について,砂糖流通の組織について清代中期,清代後期,洋行(外国商人). が進出してきた時期,そして領台墨に区分し,また地域も台南地方,塩水港以北,南部地 方とに分けて詳しく分析がなされている。図1は領台後の砂糖流通を示したものである。. [亜]一[亟]一[壷コ   洋行  牛掛蔀    辮仲      買辮         内地人輸出商  牛紅血    糖割      買掛以外の責画商   本島人輸出商 公家廊    糖販仔.  住家廓’  託買人 など 【図1】領台当時の輸出糖の取引構造  (出典)『台湾輪業旧慣一斑』(1909年)pp.82.  注:糖廓は農民から甘庶を買収することも多いが,本図では省略した。.  それでは『本島盛業調査書』では砂糖に関する全般的な事項が調査されたのに対し,『台. 湾企業旧慣一斑』では糖廓と砂糖流通に絞って詳細な調査が行われた理由はどこにあるの だろうか。それを理解する上で重要と思われる記述がある(20)。.   本島近年二於ケル商事取引ノ趨勢ヲ察スルニ法律ノ施行,教育ノ普及,運輸通信ノ新   施設等政治的社会的ノ原因ヨリ次第二旧慣ヲ脱シテ日二新例ヲ作りツツアルノミナラ   ス母国ト交渉アル商業ハ著シキ変遷ヲ為シ従来ノ慣例ヨリ急転シテ母国ノ取引状態二   近付カントスル傾向ハ人事土地二關スル法律現象二輪シテ遙カニ著シキモノアリ殊二   糖業二關シテハ比年,断崖組織ノ機械製糖業各処二勃興シテ先ツ生産界ニー大新局面   ヲ開キ内地ノ巨商大資本ヲ投下シテ購買輸出二画面シ台湾糖ヲ挙テ内地ノ市場二吸収   スルニ至リタル結果其取引慣例採証二維新ナルノ状況タリ(後略)  ここでは台湾の商取引が内地商取引慣行に近付いていることを述べ,製糖業でも内地資 本が進出して砂糖を買い付けて内地へ輸出(移出)することで従来の砂糖取引の慣例,つ まり対岸の中国への輸出よりも内地への移出が圧倒的になってきたことを指摘している。 この記述から読み取ることが出来るのは,内地移出糖を増やすことを第一の目的としてい るということである。つまり砂糖の日本帝国内自給を実現するために,従来り砂糖を大陸 へ輸出する旧慣を調査し,これを改める資料とする目的で作成されたものと考えられる。 一53一.

(15)  また糖廓に関する調査でも,調査当時の1909(明治42)年前後は内地資本の新式製糖 会社が次々に設立されていた時期に当たる。言い換えるならば新式製糖会社が自己の進出 前に設立されていた糖廊と原料採取区域を巡って対立して,台湾総督府から糖廊取払命令 が出されていた時期でもある。これは今後更に資料的な裏付けを確実にする必要があるが,. 総督府が新式製糖会社と糖廊が対立した際に糖廓取払の施策に役立てようとして,このよ ・うな二二に関する詳細な調査が行われたという推論も充分成り立つものと筆者は考えるも のである。,. 結論.  領台後に最初に行われた『本島二業調査書』は,領台直後の未だ治安の回復していない 時期ではあったが,糖業に関して系統立てた調査が行われていたことが明らかになった。 また『本島輪業調査書』で筆者の原熈が指摘した,粗放的で三二も行われない栽培方法, 不充分な真薦圧搾と不純物の混入による品質低下などの台湾二業の抱える問題点は,その 後の新渡戸稲造の『糖業改良意見書』でも指摘されており,新渡戸自身も1896(明治29) 年の殖産部報を参考にしていることを述べているため,新渡戸の『二業改良意見書』に大 きな影響を与えた資料である可能性が高いことが分かった。ざらに矢内原氏や)余照彦氏が. 主張していた「製糖会社による蘇農の前貸奴隷化」は,原が山農と製糖業者と糖商が資金 の融資による結びつきを指摘していることから,前貸金制度は日本統治時代になって始め られたものではなく,清朝時代の習慣を製糖会社が利用したものであることも明らかにな った。.  台湾総督府は台湾の財政独立のために殖産興業を進める必要に迫られ,台湾総督府は清 朝時代から海外へ輸出もされていた砂糖に注目した。そこで米国滞在中であった新渡戸稲 造が招聰されるが,その理由には台湾総督府殖産課内に札幌農学校出身者が多かったため 殖産課内で新渡戸を望む声が大きかったこと,また民政長官の後藤新平と新渡戸が同郷の. 出身であったことも薪渡戸が台湾総督府に登用された理由の1つとして考えられることが 分かった。そして新渡戸が登用された最大の理由は,後藤が農学者としての新渡戸を評価 していたことがあることも明らかになった。台湾総督府に登用された新渡戸は,自身の海 外における見聞を参考にして『糖業改良恵見書』を提出した。これによると台湾糖業が衰 退した理由は資本や労働力の不足,軍事上・治安上の問題などが影響していることが指摘 されており,新渡戸は「人為的な現象が原因で二業は衰退したのであり,これは糖業政策 によって解決できるはず」と考え,具体的な台湾糖業改良方法を提案した。これによると 甘庶の品種改良,培養法の改良,灌概の利用,機械式の製糖方法の導入など11項目の改良 により,産糖量の増大とそれに伴う砂糖消費税の増加が指摘されていたことが明らかにな った。そして新渡戸は糖業改良のためにまず着手しなくてはならないこととして,三業奨. 励の法整備,糖政の独立機関の設置,外国種の薦苗導入などの14項目を提案した。また新 渡戸の糖業政策に対する基本的な考え方は,農民や製糖所経営者の自主的な活動に任せる 一54一.

(16) のではなく,台湾総督府による積極的な保護・奨励によって発展するというものであった ことも明らかになった。この新渡戸の思想の背:景には,ドイツにおいて国家による積極的. な三業保護・奨励によって,海外への輸出など糖業が成長してきたことを参照にしていた ものと考えられることも明らかになった。.  新渡戸稲造の適業改良の提言とその実施によって,台湾糖業が発展する動きが確実なも のとなっていた1909(明治42>年に臨時…台湾旧慣調査会によって『台湾曲面旧慣一斑』が. 公刊された。盤台当初に著された『本島巡業調査書』が台湾事業の実態のあらゆる面を調 査・分析していたのに対し,『台湾糖業旧慣一斑』は糖廓及び砂糖取引に絞って調査・分 析が行われていたことが明らかになった。糖廓について詳細な調査・分析が行われていた ことは,1905(明治38)年の製糖揚取締規則で始まる原料採取区域制度で,薪式製糖会社 に原料採取区域を設定した場合は区域内の既存の糖廓を撤去させる必要が生じるため,糖 廓取り払いの施策に役立てるために糖廓に関する詳細な調査が行われた可能性があること が明らかになった。また砂糖流通についての調査・分析は,従来の砂糖を大陸へ輸出する 旧慣を調査し,これを日本帝国内自給が実現する方向へ改めるための資料とすることを目 的に行われたとの見方が可能であることが明らかになった。.  この3つの台湾遺業に関する調査・政策立案では,まず『本島鳥偏調査書』で台湾糖業 の実態・問題点が明らかにされ,次に新渡戸の『糖業改良意見書』で台湾糖蜜の問題点に 対する対策・改良方法が提言された。さらに新渡戸の提言により台湾騙事が発展したこと を受けて,『台湾糖業旧慣一斑』は砂糖の日本帝国内自給を実現するために糖廊と砂糖流 通に絞った調査・分析が行われた可能性が高いことが明らかになった。.  このような調査が行われた結果,どのように政策へ反映されたのかについては,別送に て検討したい。. (注). (1)『台湾総督府公文類纂明治三〇年乙種永久巻三七第十二門殖産』「本島糖業調査書」. (2)新渡戸稲造「糖業改良意見書」(1901年)(新渡戸稲造全集編集委員会『新渡戸稲  造全集 第四巻』候文館,1969年)では「第三 鞍鼻を利用し産額を増すこと」(pp.  200∼203),r第六 製造法の改善」(pp.208∼212),「第七 圧搾法の改良」(pp.212.  ∼214)で原の指摘した問題を論じている。 (3)矢内原忠雄は『帝国主義下の台湾』(岩波書店,1929年)で前貸金を下記のように  指摘している。「前貸金を受けくる者は責任斤量:の甘薦を栽培し,その元利は甘立代.  金にて差し引かるる義務を有する。前貸金は名義上耕作資金である。然れども幽幽の  窮乏なる之に生活資金たる性質を帯ばしめ,而して藤価の廉なる前貸金の元利控除の  後往々手取金を残さず,従って農民の多くは生活上年々會社よりの前貸を継続せざる 一55一.

(17)  を得ない。(中略)(高命は)自己の最大の利益を達する様諸策に従事するや否やを  決定する自由を有する。形式的には『自由,平等,所有,ベンタム』である。しかも  斯くの如きは外見の虚偽のみ。実質的には雇傭である。前貸奴隷である。Credit  bondageである。薦農の會社に対する地位は「自由労働者」の不自由なるよりも更に  不自由なるものがある」(pp.328)。)余照彦も『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出  版会,,1975年)pp.111で同様の指摘をしている。.   しかし筆者は「前貸奴隷」の表現には聞題があるものと考えている。奴隷であれば  移動の自由もなく,ただ製糖会社に命じられるまま庶作を行わなくてはならないはず  である。しかし実際には製糖会社が前貸金を与える理由は,農民がどの作物を栽培す  るか選択する権利を持っているため,農民に薦作を行わせるために前貸金を与える面  があったことを忘れてはならないであろう。「前貸奴隷」に変わる名称を考える必要  があるが,これについては今後検討したい。 (4)矢内原は同上書,p.333で「領台前にありては糖業利益は富商若:くは大糖三主の墾.  断ずるところとなり薦農は貧窮に陥ったと言うが,ともかく出血は或いは糖廓の組合  員として,或いは屈指法による製糖委託者として,製糖利益に参加せるものであった  然るに新式製糖會社の出現による旧式糖廓消滅の結果かくめ如き生産関係は根本的に  変革せられ,庶農は製糖場より『自由』にせられ,従って製糖利益より全然分離せる  ものとなった」としている。また)余照彦は同上書で「在来糖廊が長年慣用してきた現.  物分前制=一面法から現金引取制=甘藍買収法に早い時期に移行してから貨幣経済が  蕪作農家の経済に直接浸透するようになり,農家経済は大きなインパクトを受けざる  を得なくなった」と指摘している(p.170)。しかし同氏は同書の別の箇所では,領台.  前の台湾農村について「台湾の農民は貨幣商品経済の浸透に習熟しており,それなり  に利潤の動機に敏感であった」としており(p30),これは甘藍買収法によって農民  が貨幣経済に巻き込まれたという先の主張と矛盾している。 (5)鶴見祐輔『後藤新平』第2巻(勤草書房,1965年)pp.283∼284. (6)新渡戸稲造,前掲書,p189 (7)山根幸夫「新渡戸稲造と台湾融業」(東京女子大学新渡戸稲造研究會編『新渡戸稲.  造研究』春秋社,1969年)によると,新渡戸自身は「着任後二箇月も立たない内に直  ぐジャワに製糖事業を視に行きました」と回顧している(鶴見祐輔『後藤新平』第2  巻,勤草書房,1965年,p.282)が,東京女子大学に保管されている新渡戸の履歴書.  ではジャワへの出張は同年の12月となっており,新渡戸の記憶違いである,として  いる(pp.295∼296>。. (8)森久男「台湾総督府の無業保護政策の展開」(『台湾近現代史研究』創刊号,龍渓  書誌,1978年)p.53. (9)石井満『新渡戸稲造伝』p.191 (10) 崔島見, 前掲書, p284. 一56一.

(18) (ID山根,前掲書, p。278. (12)同上,前掲書,p.261。また鶴見,前掲書には,新渡戸は児玉総督に対して「フレ  ’デリック大王がプロシアの農政改革実行の為めに,時には警察権を用ひ,時には憲兵.  の力をかりたりして,なかなか手きびしくやりました。しかるにこ》に糖業を基礎と  して台湾の財政独立を計るには,フレデリック大王以上の決心を要するものと思ひま  す。なかなかこの保守的の農民を相手に改良種を植ゑ付けたり,進んで機械を用ひる  ことは容易ではなからうと存じます」(同書,p285)と述べて,児玉総督が農民の反  対を押し切ってでも糖業政策を断行する覚悟を促している。 (13)松田吉郎「嘉南大釧事業について」(台湾史研究会『台湾史研究』第12号,1997年).  によると,1930(昭和5)年に完成した舟町大事は15万甲の看天田を灌心する非常に  大規模な灌慨事業であった。この事業は台湾総督府によって行われていることから,.  台湾の財政独立が実現し,財政的に余裕が生じるとこのような大規模灌概が行われる  ようになったことが分かる。しかし,財政独立がまだ実現していなかった新渡戸の時  代には,農民に御食施設を建設させ,総督府は補助金を支出することが現実的であっ  たと考えられる。. (14)ちなみに新渡戸が予測した1903(明治36)年の台湾における砂糖消費税収入は  761,656円,1912(大正元)年には7,045,747円まで増加している。. (15)植村泰夫「植民地期インドネシアのプランテーション」(『岩波講座 東南アジア. 史6』岩波書店,2001年)によると,オランダ領東インドのジャワ島では,1850年代 になるとオランダ政庁が行っていた強制栽培制度からの転換が図られ,1870年代から は農民との契約に基づく民間資本の農作物栽培,農業経営者に対する産業資金融資の. ための銀行設立という,民間資本によるプランテーション経営が発達していった。甘 薦栽培についてはジャワの甘庶栽培はほとんどが農園によるもので,キューバやフィ リピンという他の砂糖生産国と比べて規模は小さいが,灌慨の整備された感動であっ. た。経営内容は大量の労働力を投入して綿密な栽培管理を実施する集約的な資本主義 的経営が特徴であった。これらの政策により,ジャワ糖の生産は大きく伸びていった  (pp.39∼42)。. (16)新渡戸は「慕斯尼亜の農政」(『台湾協会会報』第55・56号,1903[明治36]年). で,当時オーストリア=ハンガリー帝国の管理下にあったボスニアにおいて,支配者 であったドイツ人の行っていた農業政策について分析している。 (17)臨時台湾旧慣調査会編『台湾糖業旧慣一斑』(1909年)序文pp.1∼2 (18)同上,pp.65∼66 (19)同上,p.68. (20)同上,pp.73∼74. 一57一.

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