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『宗教研究』169号(35巻2輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

宗教史における近代化の問題:近代化と Denomination, 井門富二夫, The Mieaning of Modernization in

the History of Cristianity: a socio-historical study of Protestant voluntarism, a dispositional ethics, Fujio

IKADO, pp.1-24.

2,

宗教哲学について, 石井次郎, On Philosophy if Religion, Jirō ISHII, pp.25-41.

3,

キリスト教と哲学:哲学の位置について, 大須賀潔, Christianity and Philosophy: On the place of

Philosophy, Kiyoshi

ŌSUGA, pp.42-59.

4,

我と覚とを廻る論諍:Tattvasaṃgraha, Mīmāṃsāparikalpātmanirākaraṇa, 金岡秀友, Dispute with

regard to Self and Reason: Tattvasa

ṅgraha, Mīmāṃsāparikalpātmanirākaraṇa, Shūyū KANAOKA,

pp.60-74.

5,

集量論の九句因説, 北川秀則, Dignāga’s Theory of the nine groups of Hetu according to the Statement

of the Pram

āṅasamuccaya, Hidenori KITAGAWA, pp.1-23.

展望

6,

北欧のインド学・仏教学界:その近況, 前田恵学, pp.98-103.

7,

コプト語グノーシス文書研究の現状, 荒井献, pp.103-114.

書評

8,

平川彰著『律蔵の研究』, 水野弘元, pp.115-118.

9,

松前健著『日本神話の新研究』, 伊藤幹治, pp.118-121.

10, J.Herbert, Introduction à l’Asie,

冨倉光雄, pp.121-125.

宗教研究の自由に関するアンケート, pp.126-129.

(2)

-. 几 @ " 杵 , 乱

Ⅰ問題の提出

最近、社会科学の諸分野で、﹁近代化﹂の問題 がしばしば取りあげられるよ う になった。産業や 政治構造の近代化 のみならず、変転する戦後社会における教団の布 教 体制の近代化などという話題から、宗教研究 0 分野においても、 宗教と社会の﹁近代化﹂の関連がさかんに問題 とされるよ う になっている。しかし﹁近代化﹂の 問題は、歴史のみな 頼 らず、社会科学のあらゆる分野に関与する 規 模 の大きいテーマであるとともに、﹁近代化﹂ そのものの規定が明らか 弗 にされないで議論が行なわれていることが 多 く 、これまで 厚 々混乱をまねくこともあったの で、この小論では、まず レし 柑 著者の﹁近代化﹂に対する態度を明らかにす ることから始めたいと考える。

系の基督教典である。英米の教会 更 において、 ﹁近代化﹂と宗教の関連 な についての問題は 、 ウニーバー以来、大きな 比重を占めており、本論の基礎も当然これらの 研究の上にぎづかれてい

鞭る

。 宗 ウェーバーの近代社会の研究は、大別して 二分出来ることが広くしられている。官僚機構 、資本主義体制、国家構 ュ

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における近代化の問題

近代化と目

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組織えの適応︵自己の役割に責任を持っ個人の

活動性︶のために、その前提あるいは理想的前提

として、一個の人間

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特 性の可能な限りの発揮、すなわちバーナードの

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立の有無が問題にされる必要があるのである。

この近代化の第二の、精神的側面を重視する者

の中には、個人概念の普及していない社会へ、

急 敵

に近代社会機構

を 導入することは、人間の機械化のみを意味し

、 質は異にするものの、封建的あるいは前近代的

社会のように、﹁

上か

らの支配﹂による社会の成立が考えられるので、

それを近代的社会とはよべないという立場をと

る 者が多い。,

技 e 丁

いるのはその

一 例にすぎない。︵

2 ︶

このような精神的側面重視の傾向は、プロテス

タント

軍者、あるいはウェーバーの周辺をめ。

く る

英米社会学者の

研究に多いが、,本論の立場もこの流れの

うえ

に たつもので、﹁宗教は近代的個人概念あるいは

個性理念︵

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お ︶の成立にいかに機能し、また社会

組織の再編成に影響を与えたか﹂というい

み で

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りである。換言すれば、特定理念の存否、ある

ぃ はその様態の相異によって、そのそれぞれに

支 えられる社会機構の

として取りあげられる。︵ I ︶しかしながら、そ うし た 現象面での合理化﹁すなわち社会的な近代化を その背後にあって 促

㏄︵ 宙 ︶にいわせると、この面でも、個人の異質 化 、すなわち組織の役割え個人が分化してゆく 傾 向が ﹁近代﹂の特徴の 造などの、社会現象面での機構や組織の合理化 がまず問題にされた。近代組織論の第一人者 バ| ナード︵の・︵・㏄の 目 1 2

(4)

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宗教史における 近代化の問題

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宗教史における

近代化の問題

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の 第一の作用に﹁反抗する﹂意味がら発展し 、 個人主義が第二の作用に﹁支えられて﹂展開し たと、考えることも 可能である, こうして二つの近代化の流れはそれぞれカトリ ック 教会と、教会の宗教的権威を背景にして専制 を行 う 政治支配 勢 力 め 、上からの統制に対する個人権利の主張の 形で出現してくる。しかし、世俗主義がルネッサ シ スという形で知識 階級の自覚に終ってしまうた後に、その自覚を 庶民 層 に下降させる過程において、広くカトリッ ク 教会の土台をゆす ぶるために、信仰が利用される必要があった。 神の前に立つ人間の平等の主張は、理解と教育 以 前の信念の問題であ る 。文芸復興と宗教改革のもつ社会的影響力の 差 はここにあり、啓蒙的手段に よ る説得のゆ き届 かぬ 所 えは、当時の

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弓 の二円 0 コ ︵最終権威を組織そのものの中につくり あげた信仰で、例えば古典的なカトリック︶に Ⅰの - 円頃日︵人間自体のの -h に権威をお き 、そのた めに、すべての道徳的権威も断片的になり、 助 け 易い、いわゆる 0 宇日 ぉ目 雙 0 口 ︶をあげる 所にも、世俗主義えの不安がみられる。 ァダ た で 亜の ト ︵ぎば日から、真に組織を規制しうる理想 は 見出されず、時と場所の影響の下に、人間 が 始まるという。 ニコラスのいう㈲の系列

ま降

了ユ のヨ にあって ほ 、前述の世俗主義と同様、政治勢力の下 は 認められても、政治勢力の偏見の下に、いわ ゆる﹁選択の完全な眉白﹂はないと 恥う いみに 対して、か ま 。 コ 。 日 。目の かえって偏見の成長を ムス によれば、こ うし 組織の断片化と孤立化 に一応個人の信仰自由 おいて、真の個人主義

︵﹁・ l , Ⅰ ︶ ︵ⅡⅡ︶ 1 あるが、それは人間の機械化の危険性を ぃみす - る ﹂という,アダムスがティリックを引用しなが ヒレ 、 イ田弾 め Ⅱ 0 コ 0 日 0 目の

主義もこの系列において - 理解出来ると極言し 、 ﹁人間の相対化あるいみでの単位化は、競走のい みで合理化の系列に

@r-y'[email protected]@@ y @ --.-r.Tir-@r,?@:@@ 利を持ち、すべての組織・社会は成員の共通関 心 ︵ 的 9 ち ﹁ 巴毛ぎ ︶によってその善悪を判断され るという原則の下で

ニコラスやトーマスによれば、人間の上に 超越する規準が無いために、すべての行為・組織 は ・相対的に意見の 多数に よ り決定され、契約の名の下に圧力化し た 意見︵多くの場合、それ自体が政治的偏見とな る 可能性をもつ︶が 、 個人の自由を束縛することが多いという。それ は 民主主義であっても、基礎のないムロ理化である 。極端なカトリック に 対抗することから生れた︵ オ 0%no ヴ ︶口のは、 結 局ヨづ のⅡ曲のⅠの音 ず 。汀ので L レ ム T あ ㍉ ノ えない。 Ⅰ @ | マスは共産圏民主 . *. ㌃ 了サ

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て 、こうした政治勢力を利用するローマとの村上 ェと 、完全なる一望 対俗 ﹂の分離に導かれる。 す な む ち、﹁世俗主義﹂の ア "" ; ︵ののの三銭ず日︶の理想型の出現 か 可能となる、 カ トリソク の専制は﹁,ランス革命の後に、フラン スに反 宗教主義を ぅ

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才 ニコラスのい う Ⅲの系列においては、個人の権威 の 確立は、ます王権神授説に依存する専制 王 国の打破、 っづい 6

(8)

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ここで再確認したい。この確信は同時に﹁自己 の 意志を通し、選ばれた者として善を行 うし 義務 な よび起し、非情な までに人を彼の役割遂行にかりたてる日のののの 円

定 されている確信﹂ から、あるいみでは報酬を求めない公平な ツ ル マ となり、そして、自己と関心を共にする個人の ﹁組織内での独立﹂ を 認め、組織そのものの権威を個人の 力 に常に 還元することを求める。自らの主張を徹底させる ことで偏見の支持﹂ と 行 う ことがあっても、︵後述するように、 ニ| バーはこの欠点を認めているⅩ組織そのものに 力 を持たせることが な い 意味において、例えば、英米で常に政 府の機能化を計りながらも、政府に権力を持たせ ることを嫌 う 傾向の

辣ざコ としてそれの定められた目標と機能の範 囲内におして

を持つこ︵

I 4 ︶ 、、 力 珊 とになる。バーンズ︵ オ ・ セ ・ ロが目 8 ︶が 、, ﹂の個人主義に づ 0 ぎ耳曲 ︵一の 日 という名を与えた 事実は、組織は契約その Ⅲものにおいて有効性をもつものでなく、 神 ︵絶対性︶によって 裏づ げられた個人の意志に ひそむ必然性︵き名 0 の ま 1 荻 0 コ ︶において有効となるからであるという 理由にもとづいている。

コの 第一条件は、﹁自己自身えの依存は、自己 を 超越する存在えの信念 如から始まる﹂︵ づ 目下 への ︵額口 ゑ Oh 由すめ hq のの 臣 ︶が コ Ⅰツ田 ゴが仔はち蛋 宇宙 ゴが 曲の隼の で ㏄ コら の コ のの 片 0 Ⅱ す ト のすの ド コ内申 コ 山下 ドの日 Ⅱのの | ︵ ︵ 5u ll 0 ロワ Ⅱ 0 のののの コ 0 田ゥ 片田ゅ 0 ミづづ 日が ガ ︶コ的こといつ て、新 カント派以来 の、 7

び ウェーバーの問題にした ピユ リタン精神の機 能を説くことは考えない。ともあれ、絶望的にか くれたる神に対する 状況では、自己が救済に予定されている﹁確信 ﹂を持つことにしか、﹁信仰の維持﹂の可能性は認 められないことを、 -@@.- , ・ -@ ・ ."V ・ @@@@@ ・ @-@s ・ T-@SBpWiap

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廿 " 超越的理念えの態度に、そして呪術からの解放 すなわちこの世的力の操作 日がコぢ 三斗 ざ 臣から の 解放に、近代人の 態度と理念を求めたのも、 力 ルヴィニズム的立 場を基礎としたのもであった。彼に ょ れば、個人 の力 は勿論組織の カ に 変えられねば、近代の巨大な機構の中で効果 を 発しえないが、これ 迄 社会学の分野で組織の 力 ばかり問題にされ て 、その 力 に本釆の機能性︵目的の範囲内で生 ぎる機能性︶を発揮させる個人の 力 が問題にされ なかった所に 、ゥヱ バーの無視があったのではないかと、論じてい る 。 ここで、多少アダムス達の論旨を異つた面から 擁護する必要を認める。アダムス達に よ れば、 さ き にトレルチの @ 目 葉を使用して、ののの山コ 臣蛋臣岨 ㏄ び叶甘 ∼ ガ というい み で この個人主義理念の厳格さを述べたが、即ち 、 英語でいえばよる 宇 幽曲 0 臣 あるいは。 きも 0 の @ ︵ 円 せ 0 , 0 日 巨 8 である い みにおいて、信仰の人間的・行動的﹁表示﹂は イデオロギー的表示 である。ゆえにこの個人主義は 、ょき に つ け 悪 しきにつげ、 田 各自のイデオロギーえの忠誠を意 抹 し、それの相互 確

互に認めあ ぅ ︶を前提とするから、㈲組織は必然 的に、﹁性格上﹂では 外部からみると、共通関心をもっ異質的な人間 0 集る利益集団的﹁傾向﹂をおびてくる。後述す るように、英米系の 年立 コ 0 日日り 由 0 目のの階層分化はこの傾向の上に社 会 が巨大化すると共にあらわれてくるし、ここ に 神学的立場︵各個人 に 権威をおく近代個人主義と、原始教会におけ る イエスにおけるカリスマ的存在による統制Ⅱ 教 全一致とを混同する 立場、すなむち原始キリスト教の美化︶から、 @ ア ノミ不ーションの階層化を攻撃する ニ ーバーの 論旨も可能になる。 アダムスはこの づ 0 三津 銭 す日をテイリックを 引 用 しつつ 弓 すの 0 口 0 日宝握田ぺづ のと類型づけた。 こ の 態度は﹁いかな る 限定的活動や目的にも、むやみに堅約意義を 認めず、むしろ、それが宗教的であると世俗的で あるにかかわらず、 誠実に真理を要求して、有意義な活動のみに 聖 を 認める。かくして、聖なるものと世俗的なるも のの明確な境界は否 定 されるが、その両者にもし究極的に区別をつ げるものがあるとすれば、聖なるものに空間的 限 定や性格的限定を与 -6 Ⅰ ︶ えることえの 罪 意識が、その区分を行 う 役割を つとめるのであり﹂、これにより真のぎ 年ぎ崔 / が - あ目とののの 由 - 燵 Ⅱ あ ゴ ︵ (128) &

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㈹ピュリタン革命の英国史,西欧 史 およ ぼせ る 影響は大きいが、 ピユ リタンそのものは、 独 立 自営的なせの 7 ののま 胡日目層 に属しており、 十セ 世紀人ロ の こく一部分を占めるにすぎなかつた。ピュリ タ ン 革命の結果 ぢピ が コ " は 、政治上では議会政治への道を、宗教上では 国教会をも一教派の地位に実質的に引下げ、 デノ - く ネーショナリズム の形成えの道を 、 開いたことであった。しかし ながら、庶民層の生活は、なお国教会の教区制度 の中に束縛され、 自 由

なる信仰えの可能性、教会に自己の席

︵ 桶毒 ︶を持っ可能性すら、庶民 層 には縁遠いも のであった﹂この 状 況は 、これから ピユ リタン理念の一般化の具体 何 としてあげる メソジズム の展開をみた、十八世 紀 におげる、教区 牧 師の有名な日記トヨ ミ 0 氏 0 ︵ 繍 @,

ちし 団ポ 。 がの 0 ロ コ叶 Ⅰ 田 ㌧ 臣 Ⅰの 0 コ, ︵の &. ヴ ㎏ 4. い ㏄Ⅱのの ho Ⅰ 隼 ・ の 40- の・︶を参照すれば 理解されることである。要するに教会は、国教 陰 にせ よ 非国教会にせ よ 、独立的生計を営なめる 水準以上の、紳士 層 のために存在したものであって、一般・庶民暦仁 は 、出席を許るされるべ き 場所であっても、自己 選択により出席を行 い うる 場所ではなかつた。既に、貴族およびそ れをめぐる支配 属と 縁の深い国教会に対して、 申 堅 紳士 肩 をいみする 非国教会の、階層分化は始まっていたが、国民 の 大部分を占める庶民 層 が自己の共通関心に従っ て 、自己が選択する 宗教団体をもつためには︵ すなね ち、 ピユリタ ン 理念の社会的な一般化のためには︶、こうした 近代化えの理念を実 現させる客観的な場の出現が必要とされていた ︵ 9 l ︶ 社会学者は、この場の出現をしばしば﹁封建 社ム 互から資本主義社会への移行﹂という言葉によ つ て 表現するが、 そ の 移行形式には様々な形態があり、たとえば ド イソや ロシヤにおける如く、封建貴族が商業資本 家 と結人口して、 そハり 特権と﹁社会の旧秩序﹂を維持しながら、資本 主義体制に移行するような場合もあり、必ずしも 前述の表現により、 個人概念の一般化とそれにつづく づ 0 ざ コ %a ペセ が 印ア三ののを可能にする場の出現を表現しきるこ とは出来ない。資本 主義体制を支える非情なまでの個人の奉仕精神 がその体制の展開を支える条件であり、それなく してはその体制の基 底 にある﹁自発的﹂競合は、修正の余地なく 資 本主義の自滅にとつながつてゆくよ う に考えられ る 。すな ね ち、英米

- て 130) 10

(12)

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甜成

となり、また、その新派はいわかる既成 団体に属さない人々、すな ね ち、 まの &p の ぎプ のⅡ∼︵の 宙と 結びついてゆく。︵ 5 2 ︶ 如 産業革命当時のまの & い のぎ 汀 q@d の由は都市 に 集中する庶民 層 てあり、これに結合したのか メソジストてある。ニコ㏄ 諫 ラスはメソジストにより初めて宗教改革に 取り残こされた庶民 層に 、宗教改革の理念か伝え られたと主張する。都会 u , ・ , ,,

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既成教会を教派に︵

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降ろそうとする試みが教会内に

なわれ、教会に対する

不満は常に新派︵当初は絡

であるが、

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として、他の教派と対等の地

位を要求する組織︶の

しまうた

ルヴィニズムの独善主義によって

、最

広い信徒層である庶民居

を、ク

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知の手に残してしま

たことにおいて、精神的にはいざしらず、実質

的には全く失敗であった・一︵

0

2

事実を述べている。

しかし、産業革命に

る農村から都市えの人口移動の激しさは、

三の日をおし流し、

︵。 リセ 人

そうした地縁的組織から解放された庶民

にみ

られる空白感を補填するためには、彼らの関心に

沿

うて新

らしく組織

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きら︶は、この転換を

﹁文化の註。

ヨぃムコゆ

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Ⅰ︶

という言葉で表現し同じくデヴィ

申せ田の︶

、﹁同質的社会から異質的社会えの展開﹂と

んでいる。このよ

・転換期には、ニコラスのいうのこ笘の曲二の日の

類型︵たとえば十九世紀前半のフランス︶では、

解放された庶民

層は

彼らを引受ける宗教団体もないままに、力相この点、アングロ・サクソン系類型では、

・ -@@-

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、 !"SV&

められたものが、

以上のいみで、このせ三ヒ

臣の

の庶民

層え

の 拡大を可能にする客観的条件︵同時にそれほ

そ 0

条件をつくり

す 理念としてのプロテスタント合理工義を前提

とする︶は、ニコラスに

よ れば﹁産業革命しす

な ね

ち、

円づ 山岸

降ユ

㏄由の

| テル教会の権力者に連なる中堅層意識

や、単

なる知識層や独立自営農民

層のい

わゆるブルジ

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教会に固定して

(13)

"

Ⅴ に 集中する庶民暦に 、メソジ ズムは﹁巡回伝道、 大衆集会、パンフレット伝道、家庭集会、俗人 指導者の僧職代行﹂ の 、都市すなわち異質的社会の伝道に適合した 布教体制を以てのぞみ、 新 らしく出現する賃銀券 勘者や下級事務労働 者の利益集団としての社会的性格をつくりあげ てゆく事実に任目したい 0 メソ ジス ム 研究の権威 ア ン ヴィ︵Ⅱ・ 目巴か| せ Ⅱ︶は 、叶ゴ のまの ぎゴ の 由 ︵経の利益集団としての この 親 らしい福音主義教団が、一見全く性格を 異にする世俗的 ラデ ィヵ リズムと歩調をそろえて、資本主義社会の 巨大化する支配機構を批判する事実に 、メソジズ ム の自発性と自立性 ︵㏄︶ を 認めようとする。後述するように、ニーバー はこの自発性の中に自己の利益のみに忠実である のの 目 れ口 曲コ あ日とし ての 監俺 0 日ぎ ぎざ コ ㏄ コのヨ の性格を認め、キリ スト教のイェスにおける一致に背く、世俗主義︵ 世俗的利益集団︶ え の 堕落と嘆くが、 づ 0 三ロ tar い の 日 - は 必然的に信仰 の イデオロギー化に伴って組織されるものであ る 限り。このニー バ 1 0 批判は神学的偏向といわざるを得ない。 えの貢献を否定しょうとする者もある。こ うし ㈲ウェーバーもそうであった 23 に 、 多くの た 傾向に対し、ウェス レヱイ 自身がその説教, ま 学者が 、メソ ジス ム は ピユ リタン伝統の直接の継 す偉 ずらⅡ 日 ぎ了 コ ∼。 承 者ではないとい ぅ 見方をとる。また メソ ジズ ム の支持者の階層 的 背景、すな ね ち、自営精神・自立精神とはむし ろ 縁遠いとみなされ る 賃銀労働者、事務労働者、小自営業者などの 社会的性格をとりあげて、それをピュリタンの 市 民的 性格︵最も独立 心 に富むフルジョア 的 性格︶と比較しながら、 , ﹂の両者を全く異つた神学体系とみなし、 メソジ スムの資本主義精神 ︵ 7 2 ︶ ︵ 00 り c ︶ の中で、自身の神学がカルヴィンの神学とそ う 差 のないものである事実を強調している。もし 差 があるとすれば、 ﹁予定﹂の意義の差異である。カルヴィンは神の かくれたる予定という無慈悲な現実を説いたの に 対し、アルミニ イ アンであるウエス レヱイ は 、 ﹁キリストの死は 、 神の予定を知る規準であり、イェスにおいて 神 を 信ずる能力を持っ 者は、予定されたる者である﹂と説いて、自由仝 忌志に よ る予定の再確認の可能性を認めたのであ る ,絶対の否定に直 面し七自己の予定を図太く信ずる ピユ リタン 信 仰の厳格さに対し、自由意志に よ り予定の再確認 な 行 う 余裕を与え ろ (132) 12

(14)

今日、ネオ・オーソドックス、殊にアメリカ 神 学 において、﹁原罪﹂の意義は、﹁人間が神の似 姿を持ちながら、 題 なお、創造されため田宮 監 ﹂として自己を 受 げとるその起点にあるとして理解されている ょ う に、今日においては、 囲 カルヴィンのように隠れたる神は最早表面に 説かれることなく、人間の﹁限定的存在﹂とし ての悲劇をみつめること の中に、プロテスタント的厳格倫理の規準 をおく傾向が強い。換言すれば、 メソジズム が 庶 民 層の経験主義とカ バヴ

荻ィニ

。スムを妥協させて、﹁回心﹂の神学を生 み 出した時を境界とし︵ I 3 ︶ て、 力 ルヴィニズムに よ る 個人概念は著じるしく 鯛 人間中心化され、﹁個人の体験の主張﹂と ぃ ぅ 形で、近代的個人主義は展開する よう になる 不才・オーソドックス 史がピユ リタンの正統とみられながら、世俗 鼻 のする実存哲学と混同される可能性は、神学一 般の人間中心化︵ 二 コラ ぴ 教

掠スの

い う 神学の世俗化︶の傾向において 必 然 とみなされなければならない。

ね た メソジズム では、自己の意志の正義を主張 するために、直接に神の予定の証しとしての﹁ 回 心の体験﹂ 特出さざるを得なくなる。 ︵ 9 リセ ︶ メソ ジス ム においても﹁予定﹂が信仰の最終日 標 である限り、禁欲と奉仕が要求され、この倫理 はメソジ 員を 、十九世紀になると中間層的存在に引上げ る 機能を果しており、この意味においては、ウェ | バー とい ソ ジス ム を資本主義の担い手と認めている。 しからば、何故を以て メソジ ズムはその神学に おがる カ ルヴィン色を薄すめる必要があったのか 。社会学 ンガム︵Ⅰ 之 。年日的 は 曲目︶および史学者ウェア マウス︵ カ ・ ヨす 常日の卑下︶は、﹁神の予定の絶 対性は、そ 絶対性と相殺される﹂というウエス レエ イの論ヒ 日を認めながらも、宗教改革の庶民 層 えの下降 は 、結局、 ︵ & ∼の づ 0 の ぃ ︵ ピコ田 注目⑧の情緒化、換言すれば、 人間の体験の中に神の救済を確認する庶民 層の 経験的個人 擁 することによって可能になることを主張し、 同 じ 神学系統に属すとはいえども、り口﹁ ぃ 宮田の 日 と目セ曲コ 幅の コの ︵田の日︶の神学には、論旨の重点が神中心から 人間中心えと移って来る事実をするどく指摘す る繍 。 ︶ を 表面に スム の 成 , えども メ 者 ノッチ の恩寵の 厳格倫理 主義に妥 房戸︵ 0 ︵

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あ 宗 この ピユ リタン伝統による偏見は、今日 では﹁ 巾 。 毛 音曲∼叶のに左右される ヲ目 りのの﹂︵ 3 @ ︶ の形 で 語りっづけられている 巧 ぬ 危険な群集︵ 審曲 のの︶であって、なんら ピュ リタン伝統を継承するものを持つていないよう に 見えた。 (135

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により、当時の国教徒、非国教徒を問わず 非難を メソジズム に向けることになった。彼ら 0 目には、メソジストは @ 附会の中では、マス・メディア的操作や組織 による圧力操作が、﹁大衆情念の公分母﹂といわ れるが、前駆的な形態で 舐 はあれ、 メソジズム の情緒的、組織的布教 が 、そうした個人の機械化を庶民の心情に培養す る 危険性を持つという 理

0

機械化、単子化が起るその傾向を、﹁大衆

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,-<@T- (136) 16 が 、この偏見の基底には、資本主義上昇 期に、い まだ独立自営的体制を保ち得たピュリタンが 理 想 的な形で抽象化し た ﹁市民の共同体﹂︵の 0 日日ロ 3 片︶ oh づ 三まい お るいは山色の巴 40 三 きが由の日︶の神話が存在する もし、当時の ピュ リタンがメソジストと同時代に存在したとする ならば、この公平な、個性にあふれた個人の集 ム ロ 体も、その巨大化し つつある社会の中で、成員の社会的背景により 着色された実質的な﹁利益集団﹂の地位におち て しまうであろう。 そ れどころか、 せ 0 ざき がふの 日 自体が、究極的には、 社会面で 昇 るイデオロギー的集団の併存を意味 しているのである。 それにもかかわらず、以上のような ピユ リタン 的 個人概念、市民理念の上からは、理想的な 、せ 0- 偉 コ田 曲 Ⅱや か のの OCl 曲| 曲 Q コは 必ずしも利益集団の概念と一致はしない 。利益集団とは、むしろ﹁大衆社会﹂的状況に おいて使用される 言 葉 であって、その集団内の成員は、共通利益 え の 関心において参加したものの、必ずしも組織を 動かす個人的権威を 維持しているわけで忙ない。前述したよ う に 、ぺ 0 ぎ コ %a ﹁ せ 毬の Q ゑ痒ぎ 口が個人の集りであり、 市 民の義務感において 活躍する﹁無色で公平な﹂組織であっても、 そ れが個人の共通関心にもとづく集合である限り、 イデオロギー的存在 となり、質的に完成したものではないが、﹁ 利 益 集団﹂的傾向 は もつていも。しかし、ピュリ タ ン的 理念の下にあっ ては、組織の中の個人は、﹁神にのみ責任を負 ぅ のであって、共通利益を目的とする集団の中に あっても個人の自由 を 維持している﹂のであって、究極的には、 組 織の力も 、 神の﹁正義 L の発揮のためにのみ用い らるべ き ものなので ある。 は 上のような立場からは、教団の展開に従って 、 俗人指導者利から監督制度に移行した、 メソジ ストの性格 は、 わかる群集Ⅱ大衆の、実質的、この世的利益を 目的とする組織、すな ね ち、成員の参与に関する 自発性は認めるにし ても、あく 迄 、この世的存在を目的とする利益 集団にみえた。 すた ねち、ピュリタン的個人概念を、世俗的 個 人主義︵体験主義︶とすりかえたために、自己の 利益の追求となれ ば 、個性を棄ててまでも組織の力の中に没入し よう とする傾向を 、メソジズム の中に発見する のが以上の立場であ

(18)

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荻 沖 ション 対して勝利を占めなけれはならない 0 世俗的性格を理解する必要

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力 ある﹂ ︵ 5 3 ︶ ︵中略︶教会かこの運命的分裂をさげることを 希 望 する前に 、 デノミネー

規準たる個人概念の、組織えの屈服をおそれる 余りに、 く 0 ざま 巴ざ 日の 史 不完全な形態は、偏見の分裂と流行や圧力, えの妥協に導かれると警生口を発することになり、 このかみて、ニーバーの u 教 窟 い う ﹁大衆宗教﹂とは、 反 ﹁近代的﹂組織, えの傾向を意味していた。またあるいみでは、﹁ 近代化﹂の否定面、﹁ 近 Ⅱ ヰ @.. ト @@ 臣 ・ p7 派 のように、中間上層︵英国︶や上層︵アメリ 力 ︶の利益集団化する傾向があらわれ、この宗教 団体の﹁この世的 展 ︵ 4 ウり ︶ 開 ﹂が、教会の一致を不可能にさせたと、 ニ| バーは嘆くのである。

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(138) IS 代人の疎外﹂の面をニーバーは 、 デノミ 不|シ ョン の存在に発見したのである " このニーバーに対し、ニコラスは メソ ジス ム の ﹁大衆性﹂を積極的な面からみようとする。彼に よると、宗教改革 の 精神の展開とは、﹁すべての信徒の使徒 権は 個人の判断の権威﹂を増加してゆくという事実に 見出せるが、その 最 も 庶民的な形を 、メソ ジスムやドイツ 教虔派の ﹁回心﹂理論に見出そうとする。彼の意見を結ぬ 調 的にい うと、 ﹁リバ -6 て 3 ︶ ィバか は根本的なプロテスタントの個性主義︵ づ 0 お 0 目ヒが日︶で﹂あって、むしろ メソジ ズムは 、ピユ リタニズムの 個人主義的形態︵ ぎ臼丘 宝田すこい nho ぺ日 oh ㌧ 蛋ユ 曲肱 日 ︶であり、回心の奨励は個人の﹁自発性 ﹂の維持を、巨大化 する社会機構の圧力の中で可能にさせる一つの 方法であったことを確認しょうとする。 ニコラスの立場からは、個人概念の健全な成長は 、むしろ数多くの教派の併行的独立にみられる のであり、﹁一つ の 教会﹂の存在は 、 単に聖 と 俗の対立の危機を よび起し、のの c 二 % ふ いヨ の介入を招いて、かえ っ て 危険を意味するも のであった。﹁一つの教会﹂は神字的理想であ つて、現実には多数教派の協力的存在が望まれて @ Ⅴ - る " ニコラスのこの言葉を裏付けるよさに、 ェドヮ| スは 、﹁個人的宗教えの福音主義のすすめは︵ 回心えのすすめ は ︶、ベンタム学派の自由主義者が、個人の能力 に 信頼を示す傾向と相似しているが、既成教 ふ 云えの反抗︵回心によ る 個人概念えの傾向︶は、国家や社会の 力 に対 する批判的な目と似かよったものであり︵中略︶ 回心を通じて努力 -7 3 ︶ する救済えの願いは、・・・・・・彼自身の幸福を考え、 それに到達する各人の自由を保障する原則とな る ﹂といつている。 すなね ち、条件 づ ぎではあるが、今日の我国の 新興宗教にも普遍的に観察されるよ う に、それは 理性的に整理出来 る ものではないが、各人の異常なまでの信仰を通 じての幸福えの願望は、それこそ個人概念の情緒 的に高揚された形態 であって、こうした回心の自由こそ、﹁近代社 ム 至 すなわち﹁大衆的状況﹂の中にも個人の自由 が 存在することを 証 萌 するものであるという。 ニコラス やェドヮ ー ズ に ょ れば、回心こそ宗教 改 革の庶民 層 えの下降であり、また、集団成員の 自発性を示す証拠

(20)

ぬ 階層に適合する教会えの出席︵出席が逆に 彼の一個人としての存在証明にもなる︶であるこ とも、さぎのニコラスの u 宗 言葉を支持するものとなろ う 。

- ㏄︶ 繊 明しょうとする﹂欲求が、体験主義の形で存 在することを述べているが、こうした個人概念 0 行動的表現は、自己の

る 近代化の問題

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このように、﹁社会の大多数﹂の成員Ⅱ大衆に 基礎をおく組織を、アダムスの言葉をかりて、 せ 0- 仁コヰ曲 ⅡⅡ い ののの Ci | at ぃ o コ Ⅱ 隼臼 0 ロぎ 注 い 0 口巴が 日とすれば、実際には ニ ーバーの案ずるような、組織とその目的で ある﹁利益﹂に対す る 個人の服従︵呪術 圏 えのあるいみでの還元りの 可能性は、どのようなものであろうか。 いわかる大衆的なづ。 三コ ︵ 曲 ︵田器 き owp 由 o コ 0 組 織のデ レンマは、上部の権威と、一般成員の権 戒め 、どちらの 極 点 に重点をおくかの問題になってくる。﹁組織 0 機能性は 、 ①上からの支配 力にょ り、②一般 成 員の平均的参与によ り 、決定される﹂という二つの前提を解決する ために、数々の調査や実 馳が ︵ 。 ︶ 行われて 釆た 。 英 米系の組織の調査で は 、通常、組織の﹁理想的﹂形態として、幹部 一般成員を問わず、権威の成員の間えの平等な 分散を最も機能的と 答える者が多いが、同時に﹁現実的﹂には、 組 織の目標の情緒的強化や、幹部の強力な指導が更 に 機能的と考える 傾 向 が観察されている。 このようにして、いわゆる づ 0 ざ目 dp

日には、 個人権威えの肯定が理念的に強く観察され、 必 ずしも、﹁大衆 社 ム云 ﹂がⅠ 0% 守 0qO 韻伍や 0q ゆゅ口 wN い曲 0 コ嵩 目 の 諸概念により、説明し き れないことが英米 では理解されて未て いる。 結論的には、﹁近代化﹂は、個人概念の成立の 程度を規準として測定され、その理念の組織的 展 開は 、通常 &0 コ 日 日 三斗 ざコ の形をとることを、ここで再確認した いと考える。それは 又 、既成の宗教地盤Ⅱ地縁 社会の崩壊と共に発 生し、移動する人口を再組織するために参加を 奨励する﹁誰でもの団体﹂であるというかみにお いて、﹁大衆の宗教﹂ と 規定することも出来る。本論では、これまで 見過されがちであった大衆のもっ個性の 力 に、 お るい みの再評価を与 えたっもりである。以上のいみでは、ニコラス の い う ように、 n- の笛の神帝ヨ 0 発展した欧州大陸 には、教会はあって も デノミネーシ, ン はなく、また、教会は政党 と 直接結人口して、はじめての en 三銭㌃日の 力 に対 抗する様相を示して いる。すなわち、このような環境では、近代的 な ﹁政教分離﹂は文宗教の形で展開されている。 ブラードが英米系の (140) 20

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資料の上にたち、社会学的知識を応用しな がら決定される必要があることは、あらためて 断 わる必要もないが、 そ 娃 れに先だって行われる、その類型の歴史 背旦 尽の決定こそ、本論の重視する所である。 教

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払珊 では、ニコラスのい う Ⅰ e 臣 o 日田口 が由 0 コ い 主の日の﹁自発﹂性、および、﹁組織権力の下部 分散﹂を、近代宗教史上

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、教団類型論・の規準として使用することに 興味を覚えている。但し、現実の類型 ロ 対する 批判は、調査に よ る具体

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我国のような社会を、いきなりニコラスの定義 に 従って 、 ⅡⅡがの曲が コ が日と規定するのは無謀な , ﹂とであるが、︵ 第 一にわが国には宗教改革や、宗教的個人概念の 存在の有無さえ、論じつくされていない現在︶ 、 一応、明治以降の宗 数 行政をふりかえってみて、常に世俗権力に ょ る 宗教統制の存在したことを確認したい。そこ, ぇ 戦後、 俄 かに外から の 権力による、英米系のⅠの 目 0 日 ぎが 由 。臣が 捷日の 紹介があり、今日の宗派乱立を招いている事実 を 考える時、たとえ 。は、外見的には殆ど完全にデノミ不ーションの 形態をとる新興教派が 、 ︵伝道の努力を省略する ことのできた旧来の 題 とするその傾向の中に、わが国宗教界の 二 重 構造的類型︵基底にあるいみの 田 ra の︵ 団 三の日 、 そのうえに前者を破壊す 問 ることなく、年の コ 0 日ぎ簿 ︵∼ 0 目が由の日をおおい かぶせた 形 ︶の存在も考えることが出来るので はないか。そのいみで、

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ロ約存在の育成が考えられている

社会と比較しながらい う よ う に、この環境の中 では、産業の展開は即ち宗教離反を意味している 。農民人口の工業人 口 えの転換は、教区からの離反でありそのまま 世 浴主義えの参加を意味している。その為に今日 の カトリック宗教 社 全学 は 、こうして浮動する人口の教会内えの 再 定着を問題にして展開しており、教区内人口を 、コ atnF ︶Ⅱ 田的ぺ 0 偉づセ Ⅰ

h のの 結 0 臣巴窩 0 岸づに 分割し、あるいみでは、 それぞれの集団に﹁利益集団的﹂性格を持たせ て 、各自の関心に 従って積極的に活動に参与︵ つい ︵什一の い もが︵の︶させ る よ う に計っている。即ち 、 n す r 田 c 田げ 日の環

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(24)

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宗教史

におけ る 近代化の問題 ︵ くり ︶ ︵ ム u ︶ ︵ つ 1 ︶ ︵ o0 00 ︶ ︵ 0 g り ︶ ︵ o0 4 仇 ︶ ︵ 4 丹 ︶ ︵ スリ ︶ う 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 0 ︶ ︵ l Ⅰ︶ ︵ 0 り乙 り ︶ ︵ 3 り 0 ︶ メソジストの信徒層の研究は 、ヱ ドワーズその他の手 により詳細に出されているが、 小 自営業者、小役人の ほかに、初期 信徒は多くが、鉛管工、織工、大工、などの賃銀労働 者に多かつた。 Ⅱ・ロレ鰍でせ一二戸主 窒 oq ぜ 0 ︵︵ す ㏄ ロコ幅 二き㌧の 0 口鰍 , せ 0 Ⅰ ト ・㌧・セぶ ミ ・ コ em ︵︵ 巴、、 ︶ 0 オコセ ででの @ 臣 -0 セぎロ の 已 40 一 @ 三 o コ 0 ︵ 中 ︵。 宙降ヰコ ︵ - のヨご 参照 毛 のの 厨せ一 。 韻 二 % 乙下 Ⅱ ヨぎ守コ ∼,および、 , Ⅰの二 % の 0 ︵︶・ 甘 @e 匹 e せ Ⅰ一和︵ 芹ひへ ︵ 0 ぎ円 Ⅰの・ 暖 0 コ コあ ・Ⅰ 仁臣 e トの ・ ト ⅡⅡ㏄ この点について最も詳しい文献は 、の ・Ⅰの 臣 テコの ご,毛 esle せ い のの 0 り -0-0 め抗 ︵・ 0 す仁 Ⅱ りす ㍉︵ @ いコ ・ 円 すの 0-0 的 一ド ヰこ Ⅰ 之 0 ︵︵ 一コ幅 h@ 曲 ヨ 一二づ ア の さ ミ曲 オぎ の 0 ︵のコめ きコ幅 @@ 由降這 の 最終章、および、 力 ・ ミ ea ︵ ヨ 。 臣 ︵ ヱ 二目隈 す 。日の ヨ 0 コ 年田ゴ 0 の 0 |

のの・ し一ヨ 0 コし @ 二円す 0 つのドリア 0-0 幅ぜ 0 ︵︵ ゴ 0 き ミ宰ゴ 0 ロガ ︵ オ 。せ @ セ ヰ - に一で㌧・ りつ Ⅱ @@ なお、の︵ ぃ毛 ︵ or 年一 , オ ③目的 ざ 仁の づ ︵の コ Ⅰ ぎい のの コ ︵ ur せ oh Ⅰ せヨ拐 Ⅰ つワきリ l ㏄には、 メソジズム を 申 L と してプロテス タント讃美歌にあらわれた人間中心主義の傾向を 、詳 細な図にして発表している。 ﹁社会学辞典﹂︵大衆社会の項︶ たとえば ミヨど祭 ㌧。毛の﹁いまの, 困こ 了の ョドコ一,こ 0 コ 臼せ C ︵ o 毛 Ⅰ,そして ミオセ 繍で・ , 0 おの コ 了三 @0 コミ リ コ ,などの、 一連の大衆社会のぺシミスティクな面をあつかつた 業 績を参照にすべぎである。 オ汀す ar Ⅰ 之鰍サ措ゴ ︵ 一,づゴ 0 の 0 ユ 巴の 0 仁 ︵ り のの 0 ︵しの コ 。 ヨぎ蚤 0 コ巴ずヨ, 一のす るつ ︶ 蕊 ・事実的な、宗教界の 階 層 化について は、ミ ・ 叫 。 手 0 お 一二丁。 円 ③の︵㏄ ヰ圧 ・の ヰトア 0 汀 ・古名,・や口 フティン︵後藤真 諦 ︶﹁アメリカの宗教﹂、あるいは ﹁地位を求める人々﹂などに詳細に記述されている。 之はヴ仁ゴ ︵ 一 @ ま年 一丁 ぃ鍋 し @ce せ @ 二Ⅰ㏄ 田ぃ 二 %0 つ一コ @0 コ @ コロコ 幅 -p 二ロ二ロ・ ト ついか ら め ニコラスの引用 同し 田い Ⅱ年の 一, Ⅰ。ゴ ロ韻 e 匹 e セい 二年︵ す e Ⅱ㏄ 円 二の e 二円仁Ⅱ ド ニ・ つ ・ ト ㏄㏄ 巨ヨ 0 三打 ぎ田一 ㌧ っ ・びり @ も 参照のこと セ崔ざゴ漆 ㏄ 0 二の ヨドコ一,のヨ の二づ。 毛ヰぎ 害 い ののの。 宙注 で ・の つ ?@ ㏄ ト 、 ︵ す の す いの ざ宙 い年 ざ @0 コ 0 ︵ レヨ 0%np コの on は ︵ 甘 1. ㏄︵の お Ⅱ 00 田のしの ヨ 。 り Ⅰの りせ - 片 Ⅰの e ヰコ し 。で 0 コ 0 メ っへ ㏄のの ら 二 "- 百口 ム ゼ一 山岸 a-- の 日 - か Ⅱ e 然

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一曲り角に来た宗教哲学

目木の宗教的状況

一般に実証的研究がいちじるしく進出して、哲学

研究が後退しているのが戦後日本の特色の

つである。宗教の

研究についても同様である。そして実質的にも、

かって西田、波多野両氏が到達した水準をぬ

ほどの体系的︵また

﹁哲学的﹂︶な宗教研究があらわれない。それは

なぜ

ぅか

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ゲルがはじめて名づげたとい

﹁宗教哲学﹂は

宗教の一般概念、その本質規定、その真理性の

探究をその課題とするといわれる。伝統的理解に

したがえば、それは

一方で経験的乃至は実証的研究、すなわち諸宗教

およびさまざまの宗教生活の史的・社会的・

理学研究と直別され

。また一方では特定宗教の内容に関する体系

記述︵広義の神学︶方法とも区別される。︵

一︶此のいわば経験

科学と神学との中間に立つ﹁宗教哲学﹂が

はたして学問的研究であり

るのか、そして

のある発言をなし得る

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宗教哲学について

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参照

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